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これであなたも殺人犯

作者: 福田直輝

私はお笑い芸人を目指している22歳です。

2021年春からNSCに入学します!


ただ私の目標は、


『様々なジャンルで活躍できる芸人』


です!



そのためにお笑いだけではなく、

小説というジャンルにも挑戦しました!


この作品を通じて、私の思考や価値観、世界観を感じ取ってもらえたら嬉しいです!


芸人として必ず売れますので、

私の処女作を是非読んでみてください!



本作品は4万2000字ほどと、文字数も少なく、

一話完結の物語となっており、


非常に読みやすくなっています!


あまり小説を読まない方や、サクッと読みたい方にも

オススメです!


少ない文字数ながら、物語は非常に濃く作れたと思います。


多くの方に読んでもらいたいです!

何卒、よろしくお願いします。

挿絵(By みてみん)


 機械的に過ごすことに慣れがきたのか、嵐や雷の起こらない現状に疑問ひとつ浮かばない。俺の乗っている船はどうやら順風満帆なようだ。ただし順風満帆と言っても、それはただ順調に風が吹き、それに従って船が進んでいるだけであって、自分自身何をしているわけではない。この船の行き先を決めるのは、帆を操ることのできる自分だけであって、その他の要因がその船に影響を与えてはならない。たとえそれが、争いであっても。災害であっても。同じ人間であっても。今日もまた終着点に向かっていくそれに、ただ身を任せて過ごす。この先もずっとそのつもりである。





  第一章



 俺は芝ヶ谷(しばがたに)高校の国語教諭をしている田中勇たなか いさむ。まだ教師生活三年目、二十五歳でありながら、三年生のクラスの担任を任されている。周りの先生からも「田中先生は若いのに優秀ね」と良い待遇を受けている。

 

 さらにこの学校には若い先生があまりいないため、生徒たちからも高い人気がある。この仕事にやりがいもあるし、俺の人生は順調にここまできている。


 今日も少し伸ばした髪の毛をキッチリと固めて、トレードマークのグレーのスーツを身にまとい、生徒の成長を見守っていく。



「田中先生!」また生徒の声がする。俺が担任している神谷令かみや れいが俺を呼んでいるようだ。



 神谷は芝ヶ谷高校野球部の主将をしており、俺はその野球部の顧問を務めている。神谷は部活に対してはとても真面目な生徒なのだが、厄介なところもある。



 クラスメイトの番田和也ばんだ かずや楠本くすもとしげると共に、三人でよく悪さをするのだ。



 ただ神谷は、他の二人が悪さをするのに付き合っているようにも見えた。しかし悪さといっても、神谷は授業中に私語をしたり席を立ったりするほどの悪さで、



 楠本は四階にある教室の窓から鉛筆やシャーペン、どこかから拾ってきた小石を投げ捨てるという程度だ。ただ一度、レンガを窓から投げ捨てたことがあった。


 その時は校長と一緒にひどく叱ったのだが、番田の悪さに比べたらまだまだ可愛いものだ。



 その番田はこの三人組のリーダー格として、いつも傲慢な奴である。授業中にうるさくするのはもちろんなのだが、放課後には他校の生徒との揉め事が絶えない。


 とにかく他の二人とは比べものにならないほどやんちゃな生徒だ。



「田中先生、宿題遅れましたが提出していいですか?」宿題のプリントを持った坊主頭の神谷が言ってきた。


「あぁ全然構わないよ。次からは遅れないように」期限に遅れても提出してくるだけ神谷はマシだ。



 番田は提出すらしない。ただ楠本は悪さはするが、提出期限はしっかり守ってくれるような真面目なところもある。




 受け取ったプリントを持って職員室に行こうとした時に、ある生徒とすれ違った。廊下の端を歩き、人とすれ違う度に下を向くような控えめなやつだ。



 名前は新田寿也にった としや。成績は学年で上位争いするほどなのだが、とにかく引っ込み思案なやつなのだ。さらに最近はより一層暗くなっていた。



「おぉ新田。おはよう!」手を上げて元気に声をかけた。新田も顔を上げた。



 人と目が合わないように伸ばしている前髪の奥にひっそりとある瞳と目が合った。その途端、またすぐ下を向き声も発さずに歩いて行ってしまった。この間までは挨拶くらいしてくれたんだけどなぁ。




 芝ヶ谷高校は丘に建てられており、近隣に住居がないためクレームを言われることは少ない。海風を直に当たることができるため、学校生活を快適に過ごすことができるのが、この学校の良いところだ。


 校舎は四階建てで、田中の担任を受け持つ三年一組のクラスの教室も最上階の四階にある。




 一学期が始まってもう一ヶ月半ほど経った。五月も終盤に差し掛かろうとしているが、まだ少し肌寒い。生徒たちも未だに学ランやセーラー服を着用しており、夏服への衣替えは行われていない。



 本日もまたいつも通りの生活が待っている。生徒たちは登校し、授業を受けて部活に行き、帰宅するというルーティーンをこなす。もちろん先生たちも同様にだ。



 朝は出欠の確認のため、担任をしている自身のクラスに向かった。今日は人見知りの新田は来ていないようだ。しばしば学校を休むことがあったので大して不思議には思わなかった。



 出欠の確認を終えると、一時間目の授業を担当する教室へと向かった。今日は担任のクラスの授業がなく、別のクラスを一時間目、二時間目と回っていった。


 三時間目になり、また別のクラスで授業を行う。これもいつものことだ。



 三時間目のチャイムが鳴り、授業を始めようとしたその時、教室内の生徒が騒ぎ始めた。普段うちの生徒が騒ぐことなんてめったにないので、何が起こったのかわからなかった。


 みんなして窓のほうを気にしているようだ。



「どうした!」声高らかに叫んだ。



 それでもまだざわざわしている。窓のほうへ走って駆け寄り、下を覗く女子生徒がいた。


「おい、何やってるんだ」その生徒に対して強張った声で言った。非日常的な空間であることには間違いなかった。胸騒ぎがした。何かがおかしかった。




 風向きが変わる予感がした。




 まもなく女子生徒の叫び声が教室中、いや、学校中に響き渡った。窓の下を覗いた女子生徒は足の力が抜け、その場に崩れ落ちていた。



 その生徒が何を見たのか。慌てて窓のほうへ駆け寄り、下を覗いてみた。そこには地面に横たわった男子生徒がいた。



「死んでる!」崩れ落ちていた女子生徒が叫んだ。目を見開き、身体が震えて呼吸も乱れていた。



 もう一度下を覗いてみると、地面に横たわっている男子生徒の頭から赤色の液体が徐々に溢れ出していた。



「うわぁ!」女子生徒と同じように腰が抜けてしまい、尻餅をついてしまった。



 他の生徒もそれぞれの窓から下を覗いていた。それを恐怖を感じた者は声を震わせ叫ぶ。この特別な状況に興奮した生徒は狂喜乱舞し、べらべらと自分の感じたままを語っていた。



「あれ新田じゃない?」一人の生徒が言った。下を覗いた生徒たちはそれに同調した。



「お前たちはここで待ってろ!」俺はそう叫び、まだ震える足で、走って教室を出た。この間、心臓が動いていたのか、呼吸さえしていたかもわからない。



 四階から一階への階段を急いで降りると、先生四人ほどが下を向き、立ち尽くしていた。そこに近づいてみると、男子生徒が血を大量に流して地面にうつ伏せの状態で倒れていた。



 その生徒が着ていた真っ黒の学ランの首元から肩にかけて真っ赤な血がべっとりついている。恐る恐るその顔を見てみた。頭から血を流して倒れていたのは、やはり新田だった。



 初めての出来事だったので、頭が混乱した。しかし混乱していることさえも俺にはわからなかった。その後も次々と先生たちが降りてきては、その光景を見て立ち尽くすばかりであった。



 しばらくすると後ろから校長もやって来た。校長は立ち尽くしている先生たちを掻き分け、新田に近づいた。



 そしておもむろに新田の学ランのポケットに手を突っ込み、もぞもぞとポケットを弄った。校長はこの世界で長く働いているだけあって、こういった経験も初めてではないのだろう。



「あった」何かが入っていたようだった。


 ポケットから出てきた校長の手には、一枚の手紙のようなものがあった。


「それは……」思わず声を出してしまった。



 校長はしゃがんだ状態のまま、二つ折りにされていた手紙を広げてその内容を確認した。先生たちは、校長が読み終えるのをぴんと張り詰めた空気の中、じっと待っていた。



 手紙を読み終えた校長は、手紙を折り曲げてそっと地面に置いた。ホッとしたような表情を浮かべた校長は、


「警察を呼んでくる」と言って、校舎へ戻っていった。



 小走りで校舎へ戻っていく校長を見て、警察を呼ぶことも思いつかないほど、相当なパニック状態のもとにいたことに気がついた。



 しかし俺の関心はそんなことには向いていなかった。校長が置いていった手紙、実際には遺書というものなのだろうか。急いでそれを見に行った。遺書を手に取り、折られた紙を広げてみた。そこには手書きの文字でこうつづられていた。




『二〇二二年 五月十八日 水曜日 もう生きるのに疲れた。どれだけ良い成績を取っても意味がない。どうせ悪い奴しか目立たない。みんな悪い奴しか気にかけない。番田、楠本、神谷。僕はこいつらにいじめられた。特に番田には肉体的に傷つけられた。もう限界。あいつは他の人にいじめを気づかれるのを恐れている。だから服を着ていたら見えないところを殴って、そこに痣をつけてくる。だから誰も気づいてくれない。先生たちも生徒たちも、誰も僕がいじめられてるのを知らない。こうすることでしか気づいてくれない。だからこうした。これを機に、これから先、自殺を考えてる生徒を助けてやって。 新田寿也 』




 読み終えるとすぐに新田に近づき、着ている服を強引にめくり上げた。


 そこにはおびただしいほどの真っ青なあざがつけられていた。その痣をずっと見ていられないほど辛い気持ちになった。こんなに痣がつくほど我慢してたのに、俺は……。



 気がつくと遺書は地面に落ちていた。一枚の紙を持てないほど、手から力が抜けてしまっていた。



 遺書の内容は、俺のクラスの生徒である「番田、楠本、神谷」の男子生徒三人にいじめられていたという、新田の告発文であった。


 その中でも特に番田は主犯格としていじめていたと、この遺書には記されている。



 しかしそれよりも、自分のクラスでこんなことが起きていたことを全く知らなかった。何も気づけてあげれなかった。今思えば、新田の様子がおかしかったことに間違いなかった。なのに、俺は……。



 他の先生たちも落ちた遺書を拾い上げ、みんなでそれを読んだ。すると、


「田中先生はこのことを知らなかったんですか」と、島田先生は鋭い口調で言った。島田先生は初老を優に超えたおばさん先生だ。三年生の学年主任も務めている。



「え?」呆気に取られた返事をした。



「自分のクラスでいじめが起こっていたことは存じてたんですかと言っているんです」眉間にしわを寄せた島田先生の顔が怖かった。



「いえ、知らなかったです」急なことの連続で、声を無意識に発していた。するとそこから、



「クラスの現状を知らない担任がどこにいますか」


「そんな考えでよく担任が務まりましたね」


「新田くんが可哀想です」などと色んな先生から非難された。



「いやでも……」混乱していた。



「でもじゃないんですよ!責任感がないんです田中先生は。生徒のことを一番に考えるのが教師というものです」


 胸がキュッとなる思いだったが、それに反論することもできなかった。


 

 そうしていると、警察がぞろぞろとやってきた。その場には校長と教頭、それと三年生の学年主任である島田先生が残って、警察との調査が始まった。


 それ以外の先生は二階にある職員室に帰らされた。職員室に着くと、自分の席に座った。



「田中、あんま気にすんなよ」と、隣の席の長野良人ながの よしとが喋りかけてきた。



 長野はこの学校で唯一、俺と同い年の数学教諭だ。長身でさっぱりとした髪型に加えて端正な顔立ちをしており、女子生徒からは日々黄色い声援を受けている。



 俺と長野はまだ若いため、同年代の先生が他にいなかった。必然的に仲良くなった俺たちは、お互いに親友と呼べるほどの関係になっていた。



「反論したいけど、言われたことがその通りで……」


「大丈夫。生徒からの信頼もあるお前は、これから良い先生になるよ」


「でも生徒をもっと見てないといけなかった」


「それも経験だ。これから学べばいい」



 他の先生たちから冷たい視線を浴びる中、長野だけは優しく接してくれた。それだけで極限の精神状態を保つことができた。



 ほとんどの先生がこのような出来事が初めてなのか、職員室はひっそりと静まり返っていた。生徒が自殺するなんて非日常的な出来事である。『現実』というものが、まだそこにふわふわと浮いているようだった。




 そこへガラガラっと大きな音がなった。職員室の扉が開いた。警察との調査に加わっていた教頭が、職員室に帰ってきた。


「担任をしている先生は自身のクラスに戻って、生徒たちに家に帰るように伝えてください」教頭が職員室全体に響くような大声で指示をした。



 そこでまた気づかされた。生徒たちを放ったらかしていたのだ。俺だけでなく、担任を持っている先生はみんな自分の席で座っていた。また混乱していることを自覚させられた。



 他の先生たちは慌てて職員室を出ていった。普段子どもたちに「廊下は走るな」と叱る大人たちは、無情にも大きな足音を鳴らして自分のクラスの元へと走っていた。俺もその後に続いていった。




 教室に入ったが、そこは前にいたクラスとは違っていた。もう新田はいない。しかしまだそれを信じられない。


 俺は窓に近づいて、下を覗いてみた。覗いたほぼ真下に、新田は倒れていた。これは夢ではないのか?青空を見て何度もそう思ったが、目線を下にやると新田が倒れている。それをいくら繰り返しても新田の死体が無くなることはなかった。



 やはり現実なのか。だんだんと実感が、胸の上のほうへ湧いてくる。その実感を喰い止めようと、無意識に胸の内へ抑えつける。俺の精神状態はますます不安定になっていた。



 教卓に着き深呼吸をしてから、生徒たちに向けて言った。



「この学校の『ある生徒』に事故が起こった。警察もやってきて慌ただしくなるから、今から集団下校をする。みんな帰る準備をしてくれ」



 その『ある生徒』というのが新田であることは周知であろうが、名前はなぜか伏せてしまった。この事件からもう目を背けているのかもしれない。



 帰る準備ができた者から速やかに門まで行くように指示した。次々と生徒が教室から出ていく中、俺は番田、楠本、神谷を呼び止めた。



「お前ら、ちょっと来い」その口調は少し強かったかもしれない。楠本と神谷が怯えていた。しかし番田は悠然としていた。




 その三人を誰もいない国語科教室に連れ出した。この三人のせいで俺は他の先生から非難され、担任の地位すらも今や危うくなってしまった。



「お前ら、今回の事故というのが、新田の自殺だというのはもう知ってるだろう。新田のポケットからな、遺書が出てきた。内容はお前ら三人にいじめを受けていたというものだ」



 楠本と神谷の二人はビクッとした顔でお互いを見た。番田は堂々とそこに立っている。



「お前らやったんだろ?」


「は?そんなのやってねえよ。なぁ?」両手をポケットに入れたままの番田が、他の二人に同意を求めた。二人も番田の圧力につられるように同意した。



 その番田の態度を見て、怒りが沸点に達した。番田の胸ぐらを思い切り掴んだ。もう理性を失っていた。



 

 ピキッと船体にヒビが入る音がした。




「お前がやったんだろうが!」俺は番田の胸ぐらを掴みながら叫んだ。そして続けて叫んだ。


「この三人の中でもお前に一番いじめられてたって書いてんだよ!」



 先程の勢いが嘘かのように、番田の力がみるみる抜けていった。



 俺も怒りの矛先が、いつしか番田のみに向けられていた。神谷は俺が顧問を務める野球部のキャプテンだ。普段も一生懸命に練習しているのを知っている。



 楠本は部活こそしていないし、悪さもよくしているが、成績はそこまで低くはなく、それなりに努力していると認めていた。


 だからこそこの二人だけは、今回の過ちを許すことができた。



 しかし番田は、普段から授業中は私語ばっかりで、静かになったと思えば寝ている。放課後も他校の生徒と揉めたり、近所のお店にも迷惑をかける。俺が何度その店に直接謝りに行ったことか。



 それだけに、番田だけは本当に許すことができなかった。



「新田は自殺だけどな……お前が殺したと言っていい」



 もう抑えることができなかった。





『お前は殺人犯だ』





 そう言い放つと、胸ぐらを掴んでいた手を緩めた。


 すると番田は抜け殻のようにそのまま床へ膝をついた。無表情のまま遠くを見つめ、もう動かなかった。楠本と神谷も何もできず立ち尽くしていた。俺はもう何も言うことなく、その場を立ち去った。




 その足で門へと向かって、他の生徒を見送った。先生たちの冷ややかな視線を感じながら、生徒には明るく振る舞った。


 番田たち三人もみんなに大幅に遅れて帰っていった。それを見送ってから、先生たちは職員室に戻った。



 職員室に戻ると、校長から全体に事件の説明が行われた。



「今回の件ですが、警察の調査によると自殺の可能性が非常に高いそうです。しかしこれからも調査は続きますので、明日は学校を休みにします。


 マスコミも押し寄せる可能性があるので、各自気をつけるように。それと、遺書に書いていた三人の生徒には厳重に注意しておく。今日はみんなも帰宅してくれ」



 それを聞いた先生たちは帰宅の用意をし、できた人から職員室を出ていった。俺も隣の席の長野も用意をしていた。



「田中、このあと一緒に飲まないか?」


 気を遣われているのか、長野が誘ってきた。


「ああ、今日は飲もうか」


 心を落ち着けたかったので、その誘いを受けた。



 すると、背中のほうに人の気配を感じた。振り返るとそこには校長が立っていた。



「田中くん」


「はい」


「ちょっとこっちに」と言うと、職員室の隣にある、校長室に呼ばれた。


「長野すまん。先に帰っててくれ」長野に謝りを入れ、校長室に入った。




 校長は部屋の奥にある窓のほうを向き、遠くを眺めながら静かな声で言った。



「新田くんがいじめられていたことは把握していたのかい?」


「いえ、把握できていませんでした」焦りと動揺で声が震えていた。


「担任を務める以上、そういったことにも気を回さないといけないんじゃないのか」まだ窓の向こうを見つめていた。


「はいその通りです」



 すると、校長がこちらを振り返って言った。



「その通りですじゃねえんだよ!」机を叩く大きな音がこの密室に響いた。



「もうこれ以上、この学校に迷惑をかけないでくれ。今後気を付けろよ」校長はまた窓のほうを向いた。



「はい。失礼しました」と、その部屋から出たが、相当落ち込んだ。




 前を向く気力もなく、灰色の地面を見ながらとぼとぼと校門を出て、学校の最寄駅に歩いて向かった。


 帰っている途中、長野にメールを送ることにした。



「すまん。今日の飲みはなしにしてくれ」



 その返信はすぐにきた。



「了解」



 長野も校長に叱られたことを察したか、断りの理由を追求してこなかった。




 一人暮らしをしているアパートには昼の二時頃に着いた。


 アパートといっても一応公務員ではあるので、外観も内観も綺麗で家賃も少々かかってしまうところだ。



 玄関に入り、リビングを通って自身の部屋に行くとすぐにベッドに横たわった。大の字になり、天井を見上げてぼっとしてみる。



 腹の中を得体の知れない感情がぐるぐると回っているようだった。それを感じながら、宙に浮いた『現実』を手探りで見つけ出すように、頭の中でさっきの状況を思い返していた。


 そのためにしばらく目を瞑った。そうしていると、頭の中で今日を延々と繰り返してるようで、腸が引き締まる感覚に遭った。



 目を開いて起き上がり、締まった腸のあたりを押さえながら便所へと向かう。


 窓の外を見てみると、もう暗くなっていた。そんなに目を瞑っていたかと思い、時計を見ると、短針が十二の文字を回ったところを示している。


 その意味に気がつくのに多少の時間を要した。それに気づいた時にはもう驚嘆するしかなかった。



 ありえない話だとは思うが、十時間も今日の出来事を頭の中で反芻し続けていたのだ。



 便所で用を済ましたが、力尽きたかのようにリビングの床に倒れこみ、意識を失ったかのようにそのまま眠ってしまった。




 どっと疲れが溜まっていたのか、意識が戻る頃にはもうお昼だった。


 この日は学校が休みになったので、テレビを見ながら昼食をとることにした。テレビをつけるとワイドショーがやっていた。



 ワイドショーはあまり好きではない。自分の知識をひけらかすかのように、あらゆるジャンルのコメンテーターがそれぞれの正義を鼻高々に語る。その正義の真偽は定かではないのに。



 チャンネルを変えてみる。しかしどの局も同じニュースを取り上げていた。それは『芝ヶ谷高校の男子生徒が自殺』についてだ。



 つまり新田の自殺の件を各局報道していた。そのワイドショーには各方面の有名人たちが数を連ね、その事件について討論やコメントをしていく。その中でも有名な芸能人がこんなコメントをしていた。




「学校側は何をしていたんでしょうね。特に担任の先生はいじめには気づかなかったんでしょうか」


 どきっとした。俺の心臓にこの芸能人がノックをしてきたように鼓動が駆けていった。



 それに対して流行りの女性タレントが、



「こういう頼りにならない担任は、うちの学校にもいましたけど、出来てもいないのに自分は担任の仕事が出来ていると自己満足してるんですよね。


 このような自己満先生が担任になっても何の役にも立たない」と言い、その女性は鼻を高くさせ、他のコメンテーターからの称賛を待っていた。




 この言葉を聞き、俺の腹の虫が騒ぎ出した。



 俺のことを何も知らないのに、全て知ったように毒を吐く有名人たちに無性に腹が立った。



 確かにいじめを認知できなかったのは事実だが、お前らが同じ状況に立っていた場合、それを認知できたのか?



 お前の発言こそ自己満足ではないのか?自己満コメンテーターが俺を非難するのが正義なのか?高ぶる怒りを抑えきれず、テレビを消し、リモコンをソファに投げつけた。



「お前らに俺の何がわかんだよ!」悲惨な叫びは無情にも部屋に反響するだけで、誰にも届かなかった。




 もう風を読む力は失われていた。






  第二章



 翌日は金曜日だった。昨日の悔しさを押し殺し、学校へ出勤した。


 やはり先生たちからの視線は残酷であったが、生徒たちのためにもいつも通りに過ごすことにした。



 廊下を歩いていると、番田が前から歩いてくるのが見えた。


 いつも通り番田に「おはよう」と言うと、番田は「おはようございます」と、やっと聞こえるような声で返事をしてきた。



 普段はタメ口で「おはよう」と返すか、無視をするのが基本の番田が「おはようございます」と言ったのには違和感があった。まだ俺が怒ったことを気にしているのか。



 一時間目は自分のクラスで授業を行う予定であったので、その教室へ向かった。



 授業は始まったのだが、やはりあの三人に目がいってしまう。



 ただその中でも、神谷は野球部の主将であるため部活はもちろん、学業に対しても気合を入れ直した態度が見受けられる。



 事件前の楠本は、窓際の一番後ろの席であることをいいことに、授業中も寝てばっかで、時々窓から鉛筆やらシャーペン、どこかから拾った小石を投げるという悪さをしていたが、それに比べたらよっぽどまじめに授業を受けているように見える。



 しかし番田は、授業中でもはしゃいでいた以前とは打って変わって、元気がなく、机に突っ伏して寝ている。


 それを見て番田のことが心配になった。なぜなら俺のせいでこんなにまで落ち込んでいるんだから。授業が終わった後、優しく話しかけてみた。




「どうした?元気ないじゃないか」番田の肩をぽんと叩いた。



 しかし番田は「俺、殺人犯だから」と漏らすように口にした。



 その言葉に俺は担任の責任を感じた。担任である自分が、生徒を苦しめているのだ。身震いがした。


 なんとかして番田を立ち直らせないと、また取り返しのつかないことになる気がした。



「番田、この前はすまん。あの時は感情的になってしまった。またいつも通り元気にいこうぜ」苦し紛れではあるが、謝罪と励ましの言葉を送った。



 しかし番田は、何も言わずに教室から出て行ってしまった。その日はもう番田と会うことはなかった。




 日曜日、野球部の練習のため学校へ向かった。新田をいじめていた内の一人である神谷も一生懸命に練習していた。


 番田の姿が心配だったため、神谷にそのことをいてみた。



「番田、大丈夫そうかな?」


「うーん。大丈夫じゃないですかね、あいつなら」


「そうか、これからも番田のことを頼む」頭を下げてお願いした。


「先生のためにも頑張ります」神谷は笑顔で言ってくれた。




 夕方になり、夕焼けが綺麗になってきた。


 野球部の練習を切り上げさせて、自分も帰る服に着替えるために職員室へと向かった。



 グラウンドから二階への階段を登っていると、楠本が上の階から降りてきた。



「おお、楠本」


「あっ」急に話しかけたため楠本もびっくりしたようだ。


「こんにちは」会釈をして挨拶してくれた。


「日曜日なのにどうした。お前は部活にも入ってないだろ?」


「教室に明日提出の宿題を忘れちゃってて」


「そうなのか。今から帰るのか?」


「はい」


「気をつけて帰れよ」そう言って楠本とすれ違い、職員室へまた歩き出した。


「さようなら」後ろで楠本の声が聞こえた。俺は振り返らず、後ろに手を振った。




 しかし楠本はやはり真面目なやつだ。日曜日に学校へ来てでも宿題を提出期限までに出そうとする。



 悪さをしていたのもやっぱり番田の圧力によるものなのかな。




 その次の日、月曜日もいつも通り学校へ出勤した。心配していたが、番田もいつも通りにやって来た。


 それには安心したが、顔色は悪く、元気ではないみたいだ。


 午前中は番田のクラスの担当授業がなかったため、番田がどんな様子であったかは見ていなかった。



 昼休みに入ったので、クラスを覗いてみた。番田の姿はもうそこにはなかった。


 神谷も楠本もいなかったので、売店にでも行っているのだろうと思い、職員室に戻ることにした。



 ただ五時間目の授業を担当することになっていたので、昼休みの終わり頃にまた自分の教室に入り、授業開始の準備をしていた。



 そのすぐ後、神谷と楠本が二人で教室に戻ってきた。しかし、そこには番田の姿がなかった。



「あれ、番田はどうした?」神谷と楠本に訊いた。



 汗をすごくかいていた神谷は、楠本の顔を見た。


「わからないです。途中でどっか行っちゃって……」楠本が答えてくれた。



「そうなのか」番田がどこに行ったのか心配になったが、その時にチャイムが鳴った。番田が教室に戻ってきていないが、授業を開始することにした。




 嵐の予感がした。



 

「起立、礼、着席」


 学級委員のハキハキとした号令を合図に、授業が始まった。そして黒板に文字を書くため後ろを振り向こうとした。



 その瞬間だった。振り向こうとする横目で、窓の向こうのあるものを見た。




 屋上から黒くて大きい何かが落ちていったのだ。




 また嫌な予感がした。心臓の鼓動が早くなる。急いで窓のほうへ走り、下を覗いた。


 クラスのみんなも以前にもしたことがあるのか、窓の下を覗いていた。



 下を見ると、赤い飛沫が地面に飛び散っており、その中心に番田が横たわっていた。




『番田は屋上から飛び降りたのだ』




 すぐに教室を出て、走って一階へ降りた。


 番田に近寄ったが頭部から大量の出血があり、脈はもうなかった。他の先生もしばらくして降りてきた。



 校長もすぐに降りてきた。自殺したのが番田と知り、校長は俺を睨んだ。


 そして校長はまたもや番田の学ランのポケットに手を突っ込んだ。


 新田の事件の時と同様、折りたたまれた手紙がポケットから出てきた。それもまた遺書なのだろう。



 校長がそれを広げて黙読すると、俺のほうを見て怒りの声で言った。



「おい、お前これどういうことだ!」



 遺書を広げて見せてきたので、そこに書かれていた文字を読んだ。そこには紙いっぱいに大きい字でこう書いてあった。





『これであなたも殺人犯』





 血の気が引いていくのがわかった。静寂が流れる中、俺の膝だけは笑っていた。



「お前が国語科教室で番田くんにこのように叱っていたというのは知っている!」校長は俺を詰めてくる。



 なんでその事を知ってるんだ?と思ったが、あんなに大声で叫んだのだから誰かが聞いていてもなんら不思議ではなかった。



 その校長の言葉で他の先生たちもその遺書の意味を知り、ざわつき始めた。


「くそ!またお前のせいで!」



 校長はそう言い残し、遺書を持ったまま走って校舎に戻っていった。その背中を見ていると、誰かが番田に近づく気配がした。



 死体のほうを見ると、神谷が番田に話しかけていた。


「番田?おい番田!」身体を揺するが番田は動かない。その様子を目の当たりにした神谷は、完全に放心状態になっていた。



 ふと横を見ると、楠本が少し離れたところからそれを見ていた。二人が来ていたことにすぐ気づけないほど気が動転していた。



「お前たち、降りてきてたのか」いつも三人で行動を共にしていた内の一人がこういう形でいなくなってしまって、当人たちはひどく落胆しているだろう。



 その思いを察したのか、先生たちも全員固まっていた。しかし、あの島田先生が、


「担任の先生はクラスに戻って、生徒たちを帰宅させるように!」と叫び、担任を持つ先生はすぐさま校舎へ向かわされた。



 俺も落胆している神谷と楠本を連れて、四階にある教室に戻っていった。俺はまだこの事件の重大さを認識できないほど、無心で動いていた。




 事件発生後は、すぐに生徒たちを帰宅させることができた。


 前回の事件でその対応が遅かったため、学校側は素早く対応した。警察は生徒全員が帰った後、すぐに到着した。


 警察は到着後すぐに調査を開始し、その調査には前回と同様に、校長、教頭、学年主任の島田先生のみが残って参加した。他の先生たちは今回も先に帰宅することとなった。


 

 番田の調査は夜まで続き、その結果「自殺」と判断された。新田の件もあったのにも関わらず、今回の調査に時間を有してしまったのは、遺書がなかったためだ。



 なぜ遺書がないのか。それは校長が今回の事件にも遺書があり、その存在や内容が広まれば学校に傷がつくのは確実なため、遺書の存在を隠し、なかったことにしたそうだ。



 そのため、自殺である根拠を他に見つける必要があったのだ。




 その現場には自殺を聞きつけた番田の親御さんも居合わせていたらしい。


 今回の事件はまさしく担任である俺が自殺の原因であることが明確であった。



 番田の親御さんに、自殺の原因が俺だと知られれば確実に殺意や、それに相当する感情を与えていただろう。



 だが校長の対応によりそれをまぬがれたのは、不幸中の幸いだった。



 番田の親御さんはともに公務員だったため、番田が学校で不真面目であったことに不満があったかもしれないが、一人っ子である息子をそれでも愛していたようだ。




 警察の調査のため帰宅することになった先生たちは、集団で帰ることにした。



 ただみんなに番田の自殺の原因が自分だと知られてしまっているので、俺は一人で帰ることにした。


 唯一、同い年の長野は一緒に帰るよう説得してくれたが、今日は一人で帰ると言って断った。




 他の先生たちが帰っていくのを待つ間、校舎内を歩いていた。


 頭の中を整理したかったが、こんがらがりすぎてどうしていいものかわからなかった。



 番田が飛び降りた屋上にも上がってみた。



 丘の上にある学校のため、だだっ広い屋上から見える景色は素晴らしかった。へりに近づき、高さが胸元あたりまである柵に掴まり下を覗いてみる。



 そこには校長たち三人が番田の死体を囲んで話し合っていた。そこに警察も混ざって話をしている。


 警察と鉢合わせないように、そろそろ帰宅することにした。他の先生たちももう駅へ着いた頃だろう。



 屋上の出口へ戻ろうと踵を返した時、何かを蹴ったようだった。



 からんからんと音を立てたそれは、五百円玉だった。



 屋上に上がる生徒なんて番田たちくらいのものだ。番田が飛び降りる際に落としたものかもと思ったので、それをグレースーツのズボンのポケットに入れ、屋上を後にした。




 次の日は学校は休みになった。マスコミが事件を嗅ぎつけて押し寄せるからだ。学校もそうなることを見越して前回と同様に休みにした。



 この前も生徒が自殺したばかり、さらに同じ場所から生徒が自殺したと聞くと、報道したくなるのだろう。



 休みの間はニュースを見ていた。また芝ヶ谷高校の自殺の件だ。



 ただ前回と違うのは、コメンテーターとして出演している有名芸能人や流行りの女性タレントの矛先はもう担任である俺に向いていなかった。



「いじめっ子が罪の意識から屋上から飛び降りた」



 それだけのことだった。皆は番田を責めた。時々芝ヶ谷高校の上層部を批判する声もあったが、主となる矛先は番田だった。どの番組も番田の自殺を取り上げる。



 しかし、そんなことを他所よそに俺は怯えていた。



 なぜなら遺書のことが報道されないかをかなり気にしていたからだ。遺書のことが世に出てしまうと、国民の怒りの矛先は間違いなく俺に逆戻りだろう。



 しかしその日もその次の日も、遺書のニュースが出てくることはなかった。



 二人連続して飛び降り自殺したため、マスコミは芝ヶ谷高校に連日押し寄せた。


 そのためその週、学校は休みになった。月曜日に事件が起こったので、丸々一週間の休みだった。




 そして週の明けた月曜日に学校は再開したが、俺はその日以降、その学校で働くことはなかった。



 月曜日、いつものグレースーツではなく黒のスーツを身に纏った俺は朝早くに校長室に呼び出され、そこで解雇が告げられた。相当なお叱りを受けたが、それは覚悟はしていた。


 

 このまま別の場所で先生を続けていける自信も俺にはなかった。


 その日は授業に出ず、担任をしていたクラスにだけ朝礼で別れの挨拶をした。



 それからはお昼まで職員室で待機し、昼休みに先生たちが職員室に集まったところで、先生たちにも別れの挨拶をした。



 みんな仮の笑顔で見送ってくれた。仲の良かった長野だけはその後も門までついてきてくれた。



「お前は正義感のある生徒思いな先生だ。これから先もお前らしく、な。」長野はそう言った。


「あぁ」力強くその一言を残し、門をくぐろうとした。



 すると、一人の生徒が駆けつけてきた。神谷だ。



 顧問をしている野球部の主将で担任でもあるだけに、思い入れのあった生徒だ。そんな神谷が大声で言った。



「今までありがとうございました!田中先生には迷惑のかけっぱなしで、新田の件も番田の件も本当にすみませんでした!」



 俺は一気に唾を呑み込んだ。続けて神谷は、



「野球部でもご指導ありがとうございました!新田の事件があってから改心して、毎日欠かさず昼練もしています。だから今年は必ず!必ずあの……」



 俺は神谷の発言を手で制した。



「あぁ。甲子園、楽しみにしている」



 そう言うと校舎に背を向け、門をくぐった。


 長野の「またな」という声がする。振り向かず、後ろに向かって手を振った。



 日々成長していく高校生と共に生活し、その青春を共に過ごした。喜びや悲しみ、時には怒りを生徒にぶつけ、生徒たちと一緒に成長できる仕事であったと再認識し、もうそんな経験ができないのだと思うと悔しかった。



 俺の目には自然と涙が溢れた。それは、高校生の青さにも負けることのない、青い青い涙だった。




 帆を失った船は漂うように航海する。






  第三章



 それから数日間はずっと家にいた。独身であり、交際している人もいないので、職を失ってからは孤独だった。



 久しぶりに家を出たのは週末の日曜日、長野が飲みに誘ってくれた。


 午後五時頃、居酒屋で待ち合わせた。待ち合わせ時刻の十分前から居酒屋の前で待ち、約束の時間ぴったりに長野が来た。



「よう、元気?」長野は搾り取ったような声で言った。


 俺は声では返事をしなかった。声を聞く限り、長野も少し緊張しているようだ。



 お店に入り、会話が弾まないままビールで乾杯をした。一口目をぐいっと飲む。お互いがジョッキをテーブルに置くと、長野が口を開いた。



「最近、どう?」元気のない声で訊くものだから、少しおどけてやった。


「最近は一日中家でゴロゴロしてるだけ。先生してるよりずっと楽!」しかしその時の長野の顔は浮かなかった。



「お前は元気にやってんの?」長野に訊いてみる。


「俺は昔からやりたかったことをやってるだけだから、元気でやらないと、でも……」長野は言葉に詰まる。


「でも?」


「でも一番楽しそうにやってた田中がこんな形で学校を辞めるのが嫌だな」長野の目は俺にだけ向けられていた。



 俺は返す言葉を探していた。長野はまだ続ける。



「今後はどうするの?」


「うーん、そうだなぁ」今後のことは考えていなかった。というより俺自身もまだ学校を辞めたことを真摯しんしに受け止められないでいた。



「先生はしないの?」と長野は言った。それにはすぐに、


「うん。しないよ」と答えた。



 生徒の道をあんな風に終わらせた自分に先生の資格はないと思っていた。自ら先生の道を終わらせたかった。



「そうか」長野はそう言い放つと、曇っていた顔が急に晴れたようだった。


「どうしてもその事が気になって」長野は笑顔でそう言った。



 俺も自分の思いを言葉で表現したことによって、気持ちが軽くなった。



「仕事、探すかぁ!」そう言ってビールを一気に飲み干した。



 その後は二人ともあの頃に戻ったかのように笑い合った。



「そういえば、お前のクラスの担任をさせてもらえることになったよ」長野は嬉しそうに言った。


「そうなのか!それも気になってたんだよ。お前が担任なら安心だよ」



 長野はこれまで担任をしたことがなかった。それは長野に能力がないからではなく、むしろ能力があったからなのだ。



 長野は教える能力が高かったため、全ての学年の授業を受け持っていた。だからこそ担任をしたことがなかったのだ。



「初めての担任だけど頑張るよ」そう言う長野の目は、少年のように澄み切っていた。


 その後はあっという間に時間が過ぎていった。



 学校にもうマスコミが来なくなったこと、クラスに元気が戻ってきたこと、神谷が甲子園に向けて必死に練習していること、楠本の成績が以前より良くなったこと、島田先生への愚痴、色んな話が聞けた。



 店を出てもそんな話は続いた。帰りの電車の中でさえも、時間を忘れて喋り続けた。長野の最寄り駅に着いたのでここで別れることになった。



「またな。担任頑張れよ」


「お前も早く仕事見つけろよ。またな」



 そう言うと電車の扉が閉まった。手を振る長野に手を振り返した。この日はよく眠れた。




 埃まみれの舵を再び握りしめた。




 それから職探しに奔走する日々が続いた。


 職を探す間、隣町のスーパーでアルバイトをすることにした。


 面接ではその前まで先生をしていたからか、真面目さが伝わったようですんなり受け入れてくれた。



 そのスーパーはビルの建ち並ぶ大通りに面しており、一日中忙しい店舗であった。俺はそこで、朝から夕方までほぼ毎日働いた。たまの休みを職探しに当てた。



 そんなこんなで学校も夏休みの時期に入った。高校野球も夏の地区予選が始まっていた。


 神谷のいる芝ヶ谷高校も四回戦を突破し、準々決勝進出を決めていた。



 芝ヶ谷高校は夏の甲子園には三回出場したことがあるが、ここ数年は甲子園からは遠ざかっている。


 神谷の代は上手い選手が多かったので、今年こそ甲子園にいけるかもと思っていた。



 しかし一緒に甲子園にいく夢は、自分自身の失態により途絶えてしまった。



 強豪校揃いの準々決勝からは、地区予選ながらテレビ中継されるということで、いつもより昼休憩の時間をずらしてもらって、試合を観戦することにした。



 休憩室にはまだ誰もいなかったので、テレビの前に陣取り、電源を入れた。



 その時点でもう五回裏が終了しており、七対二で芝ヶ谷高校がリードしていた。



 休憩室のドアが開く音がした。誰かが入って来たようだが、気にならなかった。



 八回表に神谷がホームランを打った。俺は手を叩いて喜んだ。手を叩いた音が休憩室にこだましたことではっとした。


 さっき誰かが入ってきたことを知っていたからだ。



 恐る恐る後ろを振り返ってみると、少し歳を重ねているように見えるが、見た目は華奢で綺麗な女性が座っていた。



 その女性はくすくすと肩を揺らして笑っている。肩まで伸ばした黒髪も一緒に揺れていた。



「あぁ、すみません大きい音を立てて……」と苦笑いで謝ると、向こうの女性も、


「芝ヶ谷を応援してるの?」と、高く透き通った声でそう言った。



 名札を見ると里田と書いてあった。



「あ、初対面なのに急に質問してごめんね。私は里田峰子さとだ みねこ。まだピチピチの二十二歳です」



 いくら綺麗とはいえ、どう見ても三十代後半の女性がそう言うものだから、愛想笑いするしかなかった。ただ陽気な方ということはその一言で理解できた。



「あぁ、僕の名前は田中勇です。二十五歳です」


「そうなんだ。若いわね」


 本当に二十二歳なら、敬語を使わないと。と思ったが、それを口にすることはやめた。



「で、話を戻すけど芝ヶ谷を応援してるの?」改めて質問された。


「はい。芝ヶ谷を応援してます」


「芝ヶ谷はちょっと大変だったから頑張ってほしいね」


「やっぱり知ってますか?」そう訊くと、



「実は私ね、この前まで刑事だったの」



「刑事!?」こんな綺麗な見た目からは想像できないワードが唐突に出てきたため、目を見開いて驚いた。



「あなたは何してたの?その歳で新入りなら、何かやってたわよね?」里田さんは興味を持っている目でこちらを見てくる。


「僕はこの前まで芝ヶ谷高校で先生をしていました」正直に答えた。


「あら!」里田さんの目も見開いた。


「だから芝ヶ谷を応援してたのね」


「ま、まぁ」



「何で辞めちゃったの?一学期で辞めちゃったってことでしょ?」訊かれたくないことを訊かれた。理由を言うのはまずいと思い、



「まあ色々ありましてね」と誤魔化した。さらに、



「里田さんは何で刑事を辞めたんですか?」質問を重ねて、前の質問をかき消した。



「まあ色々あってね」里田さんはニヤニヤしながら、からかうように俺の真似をして秘密にしてきた。



 自分に踏み込まれたくない分、これ以上里田さんにも踏み込めなかった。ただその代わりに、里田さんがどういう人なのかは、何となくわかった気がする。




 そんなことをしていると芝ヶ谷高校が十対二で準決勝進出を決めた。


 休憩も終わり、休憩室を後にした。里田さんはその後も休憩が重なる度に話しかけてくれた。



 数日が過ぎ、芝ヶ谷高校の準決勝の日がやってきた。その日も里田さんと休憩が同じだった。二人で準決勝の中継を見ながら話をしていると、



「今日夜の六時終わりよね?私もその時間だから一緒にディナーでもどう?」と誘われた。



 美人である里田さんの誘いは断れず、それを了承してしまった。「もしかしたら……」のことも少しは期待した。独身なのでそのような考えもやむを得ない。



 そんなことを思っていると、その後の仕事が非常にはかどった。


 その日、芝ヶ谷高校は準決勝を突破し、決勝へと駒を進めた。




 午後六時を過ぎると二人でスーパーを出た。


 里田さんはバイクで通勤しているようで、スーパーの側面にある従業員専用駐車スペースに向かった。


 先にお店に行っててくれということだったので、大通りを挟んだ向かいのビルへ向かった。



 里田さんよりも先にビルに着いたので、その前で待っていた。遅れること数分、里田さんがやってきた。



 里田さんの案内で、ビルの三階にあるレストランに入った。洋風な内装にピンク色のカーペットが敷かれ、白のテーブルクロスの掛かった丸テーブルがそこかしこに設置されており、高級感に溢れていた。


 タキシードを着たウエイターの爽やかなお兄さんに出迎えられ、奥のほうの人目につきにくい席に案内された。



 里田さんはこの店の常連だそうで、ここのナポリタンがおススメと教えてもらった。ということで、ナポリタンとアイスコーヒーを注文した。



 里田さんはオムライスとアイスコーヒーを注文していた。



 ナポリタンがおススメとは何だったのかはさておき、この人が自分を呼び出した理由は何だろうと脳内で探っていると、ウエイターがアイスコーヒー二人分を、真っ白なテーブルクロスの上に置いてくれた。



「いただきます」とカップを少し浮かせ、口元へ運んだ。しかし里田さんは、自分の鞄を漁り始めた。


 しばらくして何か資料のようなものを出し、それをテーブルの上に広げた。



 その資料には黒の文字がびっしり書かれていた。何かをコピーしたもののようだ。



 その資料に書かれた文章を見ていると『番田』という文字が目に飛び込んできた。



「え?何ですかこれ」アイスコーヒーを飲んでいる里田さんに訊いた。


 里田さんは口をカップから離し、「番田くんの自殺の事件資料よ」言い終えるとまたカップに口をつけた。



「いや、何でこれがここに?」


「私が内緒でコピーしてきたのよ。元刑事の里田峰子を舐めないでよ」したり顔でこちらを見ながら、口紅のついたカップを持ち上げる。



「だから何でこれを持ってきたんすか」それを聞いて里田さんはニヤリと笑い、


「あなた、この事件に関わってるんじゃない?」里田さんは俺の顔を覗くように前屈みになった。



 いきなり核心をつかれ、心臓が破裂しそうだった。どこかから情報が漏れたか、はたまた元刑事であることを活かした調査により、その情報まで辿り着いたのか。



 そんなことがたった一秒ほどで脳内を駆け巡った。



「いや……」言葉に詰まった。それにその声は震えていて、おそらく一メートルも離れていない里田さんにさえ聞こえていない。


 動揺を隠しきれないでいると、里田さんが口を開く。



「あ、ごめんごめん。気にしてた?誰かから聞いたとかじゃないよ。この前学校を辞めたって言ってたから、この前といえばこの事件じゃない?だからそうかなと思っただけよ」



「なんだ」ホッとしたが表情には出さぬよう慎重に言葉を吐いた。


「この資料、田中くんにあげるね。今日はこれを渡したかったの」


「何でこれをまた」


「田中くんがこの事件に関係してるなら、この資料欲しいかなと思って」



 俺が事件に関係していることは否定できなかったが、資料の内容は気になったのですぐにその資料を受け取って鞄の中にしまった。



 その後はコンビニの話や最近見た映画の話など他愛もない会話を繰り広げ、その食事会はお開きとなった。



「資料見て気づいたことあったら教えてね。相棒くん」



 相棒という単語にツッコミを入れようとしたが、里田さんがウインクをしてそれを言うものだから、愛想笑いと会釈だけで済ませてしまった。




 その後は急いで家へ帰った。元々抱いていた期待とは違ったが、里田さんからそれ以上の期待を貰えた。


 帰り道、鞄の中に潜んでいるものが気になって仕方なかったがそこは我慢した。



 家に着くなり、着替ることもせずにそのまま家の机の上に資料を広げた。


 資料には事件発生の時刻や現場の状況などが記されていた。死体や現場の写真もあった。


 まず文章に目を通す。一番気になっていることがあったからだ。一文字ずつ、丁寧に読んでいく。そしてこの言葉を見つけた。



『遺書は見つかっておらず』



 あった。一気に肩の力が抜けた。よかった。とりあえず警察にはバレていないようだ。



 このことがずっと気がかりだったのだ。あとは事件現場の写真でも見て、お風呂に入ろうかと思っていると、少しだけ引っかかる写真があり手が止まった。



 ただ何が引っかかっているかは、じっくり写真を見てようやくわかった。



 その写真は、飛び降り自殺をした番田の死体なのだが、学ランを脱いだ状態でも撮影されていた。


 その番田は白の半袖のYシャツに黒いサスペンダーをしていた。



 番田ってサスペンダーなんてしていたか思い返しながら、もう一つ気づいたことがある。



 これはほんの小さな気づきだが、番田がつけているサスペンダーは、前側に二つめ具があり、後ろ側は一つだけ留め具があるものだった。



 その後ろ側の留め具が、ズボンからとれていたのだ。



 ただ、屋上から地上への着地の衝撃でとれたであろうものなので、疑問には思わなかった。


 それよりも遺書のことは警察に知られていないことが嬉しくて、資料はそのままでお風呂へと向かった。




 新たな乗組員を迎え、新たな目的地へと舵を切った。




 次の日もスーパーのバイトへ出かけた。


 この日も朝から夕方までのシフトだったが、里田さんは休みだった。



 お昼休憩のときに携帯電話を確認すると、メールが届いていた。里田さんからだった。


 そういえば昨日メールアドレスを交換してたっけ。



 内容は「今日も昨日と同じ時間に、あのビルのレストランで待ち合わせよう」というものだった。


 昨日資料をもらったお礼もしたかったので「是非行かせていただきます」とメールを送った。



 

 バイトの終わる午後六時にスーパーを出て、向かいのビルへ向かった。


 レストランの前に行くと、里田さんが待っていた。俺を見つけるなり、にこっと笑顔を作り「遅い」と可愛い声で言ってきた。



「遅いってバイト終わってまだ五分しか経ってませんよ?」焦りながら言った俺に、


「この距離ダッシュで来たら一分で着くんちゃいまんの?」



 ダッシュで来ても一分では着かないとも思ったが、急な関西弁にも気を取られて、


「色々ありすぎて何て言っていいかわかりまへんよ!」熱くなって喋ったが、自分も関西弁になってしまった。



 里田さんが大笑いする中、自分が犯した失態に気づいて大笑いしてしまった。里田さんが笑いながら、



「ちょ。お兄さん、ちゃんと喋りましょーや」


「姉さんも喋ってんと、はよ店入りましょーや」



 二人は大笑いしながら店内に入った。昨日と同じ席に案内され、席につく。



「ここのオムライスおススメやで」里田さんはメニューを見ながら言った。



 そこに昨日と同じ爽やかなウエイターがやってきて注文を尋ねられた。


 里田さんのおススメ通り、オムライスとアイスコーヒーを頼んだ。



 里田さんは、カルボナーラとアイスコーヒーを頼んでいた。



 ナポリタンがおススメとは本当に何だったのか。



 昨日と同様、先にアイスコーヒーが二つ運ばれてきた。そして里田さんは本題に入った。



「で、相棒くん。どうだった?何か気になることあった?」里田さんはアイスコーヒーに目もくれず、まっすぐに見つめて言ってきた。


「大したことないですけど、一つだけ」あまり見つけられなかったので申し訳なさそうに答えた。



「どこが気になったの?」


「あのですね」そう言いながら鞄から資料を取り出し、Yシャツ姿の番田の死体の写真を見せた。



「この番田、Yシャツの上にサスペンダーしてるでしょ?こんなのあいつ、普段してたかなと思って」


「なるほど。それはなんとも言えないわね」



「そうなんですよ。普段からしてたとなると、別に変わったことでもないですし」


「でも後ろの留め具だけ外れてるのも気になるところかしら?」



「いや、これも落下の衝撃で外れたのであれば、何も変わったことはないんです」


「そうね」そう言って里田さんはアイスコーヒーを口にした。俺もそれにつられて飲んだ。



 その時にふと思った。俺がこの事件のことが気になるから、資料を貰って調べさせてもらっているけど、里田さんが一番この事件のこと気になってるのかな。里田さんの真剣さから、こう思うようになった。



 その後、オムライスとカルボナーラが運ばれてきた。


「いただきます」と言い、一口目を食べた。しかし死体の写真を見たすぐ後だ。思い出して少し気持ち悪くなってしまった。



 そんな中、里田さんはカルボナーラには目もくれず、鞄から資料を出し、ある写真を見せてきた。



「私が気になったのはこれなんだけど」



 その写真は、番田の死体から少し離れた隅のほうに落ちていたレンガの写真だった。



 レンガが四つ地面に落ちていた。



 資料にはこのレンガも「上から落ちてきた形跡がある」と記載されていた。



 写真を見ても、二つのレンガが地面に落ちた衝撃で割れているのが見てとれる。残りの二つは少し欠けてはいるが、四角形の形をほぼ保持したままの状態で落ちていた。



 ただこのレンガに関しては、思い当たることがあったので事件とは無関係だと判断した。



「これどう思う?」里田さんが困ったような顔でこちらを見てくる。


「これはたぶん無関係だと思いますよ」



「何で?」


「クラスに楠本というやつがいるんですけど、こいつが悪いやつでね、よく文房具とか窓から投げ捨てるんですけど、レンガもたまに投げ捨ててたんですよ」



 楠本の奴、前に校長と一緒に注意したのにまだこんなことしていたのか、しかも四つも。と説教しようとしたが、もう自分の生徒ではないことに気づき少し落胆した。



「そっか、じゃあこれも特に変わったことではないか……」


「そうですね」



 そうだ。これはただ番田の、俺に対する恨みのこもった自殺だ。


 何か理由を見つけて人のせいにして逃げようとしていた自分がいたことに恥ずかしくなった。


「やっぱり自殺か」想いが儚く小さな声となって発された。



 二人とも黙々とそれぞれの料理を無理やり胃に入れて、その日は終わった。




 修復されていない船が徐々に沈んでいることには、未だ気づくことはない。






  第四章

 

 

 次の日は高校野球地区予選の決勝戦だった。


 神谷のいる芝ヶ谷高校の試合を生で観るため、スーパーのバイトをお昼で早退させてもらい、決勝戦が行われる球場へと向かった。



 試合開始には間に合わなかったものの、四回表の芝ヶ谷高校の攻撃から観ることができた。


 試合は0対0と両校一歩もひかない投手戦となっていた。



 試合が動いたのは八回裏だった。一死ランナー三塁から意表をつくスクイズで、芝ヶ谷高校は相手に先制点を許した。



 続く九回表の攻撃。ここで無得点ならば、神谷の甲子園の夢は終わってしまう。



 この回の打順は、偶然にも神谷から始まった。



 ファウルで粘る神谷に投じた九球目。相手投手の手から放たれたのはチェンジアップだった。


 神谷は体勢を崩されながらも思いっ切りバットを振り抜いた。



 ボールは高々と青い空へと舞い上がる。観客は白球を見上げて、球場は静寂に包まれた。



 そんな中、神谷の叫び声だけが響き渡った。



 舞い上がった白球はレフトポール直撃の同点ホームランとなった。



 一瞬の静寂を貫くほどの大歓声が場内を覆った。耳をつんざくほどのその大歓声で球場は揺れた。



 これだ。俺が見たかったのは、この芝ヶ谷高校だ。



 この間まで自分が指揮を執ったこのチームが、こんな大勢の観客の前で堂々とプレーしている。



 ダイヤモンドを一周する神谷は、こんな俺とは対照的に光り輝いていた。




 試合が終わった。結果は一対二のサヨナラゲームだった。


 芝ヶ谷高校の甲子園の夢はそこで終わってしまった。



 涙を見せながらも応援席に挨拶する神谷を、涙でかすんではいるが俺の目に映った。



 芝ヶ谷高校野球部に少しでも挨拶しようと、球場の外で待っていた。


 そこにまだユニフォーム姿の芝ヶ谷高校野球部が出てきた。


 試合を観戦していた客から「よくやった」「いい試合だったぞ」と声をかけてもらっていた。



 ある一人がこちらに気づき、部員みんなに知らせていた。気づいた者から走って近寄って来てくれた。



「田中先生!観てくれてたんですか?」神谷が笑顔でそう言ってくれた。


「あぁ見たぞ。みんなが見せてくれたこの試合は、甲子園出場に値するものだったと胸を張って言える。ありがとう」



 感動する試合を見せてくれたこいつらに、心の底から感謝の気持ちを伝えた。泣いてくれた。俺も泣いた。すると神谷が涙ながらに言った。



「新田の件で、先生がしっかり怒ってくれたから、俺は目が覚めたんです。あれから昼練も毎日欠かさずに努力することができて、ここまでやってこれたんです。本当にありがとうございました」


「いや、それはお前が頑張った結果なんだから、お前が胸を張れ。よく頑張った、ありがとう」



 俺も神谷も目から溢れる涙を拭った。



「着替えてくるのでよかったら一緒に帰りましょう!」


 目を真っ赤にした神谷がそう言ってくれたので俺も頷いた。みんなは走って更衣室に向かっていった。



 一人になって、俺は何やっていたんだろうと思った。こんな試合ができる子たちが、こんな殺人犯のところに笑顔で来てくれるというのが罪悪感でしかなかった。



「先生~!」遠くから神谷の声がした。


 着替えるの早すぎるだろ、と思いつつ声のする方へ振り返った。


「もう着替えたのか!はや……」



 神谷のほうに振り返った俺はあるものを見て、声を失った。



 神谷は夏の制服に着替えていたのだが、半袖のシャツにサスペンダーをしていたのだ。



「神谷……それ、どこで?」呼吸を乱しながら途切れ途切れに言った。


「このサスペンダーですか?」



「お、おう」


「これ、前に番田と二人で買いに行ったんです」サスペンダーを見ながら悲しそうに言った。



「二人で買いに行ったのか?」目を大きくしながら訊いた。


「そうですよ。二人でデパートへ買いに行きました」



「そうなのかぁ」



 その時、遠くから神谷のことを呼ぶ声がした。


 声のするほうを見ると、神谷のクラスの人たちが手を振っている。神谷はそれに手を振り返していた。


 俺にも手を振っていたので、振り返した。



 そこに楠本もいたが、夏服の上にサスペンダーはしていなかった。俺は神谷に、


「すまん先帰るわ!今日はおつかれさま。みんなにもありがとうと伝えておいてくれ」


 そう言い終えると走って帰って行った。




 走りながら、里田さんに向けてメールを打っていた。


「番田のサスペンダーは、友達と二人で買いに行ったものらしいです。しかし番田はいつも三人で行動していたんですが、そのうちの一人は一緒に買いに行っていないどころか、サスペンダーすら持っていないと思われます」



 送信ボタンを押した。その後すぐに携帯電話が鳴った。



「あなたが仲良くしていた芝ヶ谷高校の先生はいない?その方とも話がしたい。明日の夜とかどうかしら?」


 里田さんからの返信だった。



 今連絡を取れる先生が長野しかいないため、長野にメールを打つ。


「明日の夜に、お前に会って話がしたいという女性がいるんだけど、いけるか?もちろん俺も一緒だ」



 しばらくすると長野から、


「いいけど、何だその女性は?」


 長野からすれば当然の疑問だ。



「元刑事の方で、番田の事件について知りたがってる」


「わかった。明日の夜だな」



「あぁ」


「ちょっと待て、その女性は遺書のことは知っているのか?」



「いや知らない。言っていない」


「言うのは厳禁ということか」



「それで頼む」


 遺書のことはまだ学校内にしか知られていない。これが世に出れば、やっと安定してきた俺の生活もまた崩れることになるだろう。遺書のことは絶対に秘密にしておかなければ。




 次の日、約束した午後八時。集合場所の大きな居酒屋の前へ俺と長野で向かうと、里田さんが待っていた。


 長野が会釈すると里田さんは、両手をポケットに突っ込んで長野にメンチを切りながら近づいている。



「あんたが長野か。わては里田峰子っちゅうねん。よろしゅう頼んますわ」



 初対面でのこの人の行動にヒヤリとはしたが、長野は笑っていた。俺もつられて笑った。


 やっぱりこの人は人付き合いが上手いなぁと思った。



 里田さんはやってやったぞと言わんばかりの顔で二人を見ていた。それを見て苦笑いになった二人はドヤ顔の里田さんを連れて、店内に入っていった。



 店の中は、手前側にテーブル席が数多くあり、奥の通路に個室が六つ程度ある居酒屋だった。


 里田さんに頼まれて、前もって個室を予約していた。個室に入り、ビールを三つとサラダや唐揚げなどを注文した。



 すぐにビールはやってきた。俺の音頭で乾杯をして、今日の会が始まった。まず里田さんが口を開く。



「長野くんに今日来てもらったのは、番田くんが自殺した事件について知りたいからなの」


「はい、田中に聞きました」



「それで長野くんに訊きたいのは、番田くん、神谷くん、楠本くんについてなの」



「なるほど、その三人のどんなことを訊きたいのですか?」


「サスペンダー……」俺が横入りで言った。



「え?」長野が驚いた顔で見てきた。


「今の時期、制服は夏服だろ?神谷と楠本のふたりは夏服の上からサスペンダーしてないか?」



 長野は天井を見上げ、考え込んだ。


「あー、そういや神谷はしてたかなぁ」



「神谷は?ということは楠本はしてなかったか」


「うん、楠本はしてるとこ見たことないなぁ」



 俺と里田さんは目を合わせた。予想通り!お互いそういった目だった。



「そのサスペンダーがどうしたっていうんだ?」長野は自分だけ知らないのが嫌だったみたいだ。



「そのサスペンダー、番田と神谷が二人で買いに行ったそうだ」神谷に聞いた情報を伝えた。それに続けて、


「あんなに三人でつるんでたのに、二人で買いに行くっておかしくないか?」



「ちょっと待て」長野が話を止めてきた。


「何だ」



「君たちはこの事件には裏があるとでも言いたいのか?」

 神妙な面持ちで言ってきた。


「ちょっと気になる点が多いだけよ」里田さんがビールを飲みながら言った。



「だからって、あれは完全な自殺だろう!」長野の声が少しだけ大きくなった。


「何でそう言えるの?」里田さんが突き刺すように問いた。



 長野は言葉に詰まっていた。その問いに答えることができないようだ。


 なぜなら自殺と断言できるのは遺書があったからだ。しかし、そのことは俺のためにも言えなかったのだろう。



「あっいや……何でもないです」焦ったせいか、長野の返事は変な感じになってしまった。


「あらそう」しかし里田さんも一歩引いたように、この話を無かったことにした。



 こちらが訊かれたくないことは里田さんはいつも追求してこない。そういう優しいところもある。



 長野には申し訳ないと思いつつ、アイコンタクトで感謝を伝えた。


 しかし眉間に皺を寄せて怒った表情を作られた。お前のせいだからなといったところだろうか。だがこいつも仲間想いのいい奴だ。



「だから要するに、番田くんはその二人とは本当に仲が良かったのかって言いたいの」仕切り直したかのように里田さんが言った。


 この話をしている時の里田さんは少し怖かった。



 いつもはおどけて笑顔の絶えない女性なのに、この話だけはいつも顔を強張こわばらせて真剣そうだった。



「今思えば、番田が強引に仲良くしてるイメージがありますね」長野が里田さんの真剣さに怯えながら言った。


 しかし長野の言う通り、本当に仲が良かったのかというのは疑問だった。



「確かに強引な番田に二人が合わせてたって感じもするな」


「つまり、その三人はそこまで仲良くなかった可能性があるということね」里田さんが頬杖をつきながら、事を整理していく。



「仲良くなかったからこそ、サスペンダーを買いに行く時に楠本くんを誘わなくても平気だったのね」



 結局その後は、話は平行線を辿り停滞してしまった。



 ただこの番田の事件、気になる点があまりにも多すぎることは確かだ。俺も里田さんも違和感がありすぎるこの事件には必ず裏があると思っている。



 この話はそこで終わりになり、お開きになるまで長野の仕事の話やスーパーのバイトの話、あとは里田さんが酔っ払って関西弁ばかり使って、いつも通りにボケ倒した。


 

 店を出ると、里田さんと長野が携帯番号を交換していた。帰る方向が逆の里田さんは一人で帰っていった。残った二人は逆方向へ歩き出した。






  第五章

 


 それから一ヶ月ほど経った。


 蒸し暑さも去り、涼しくなり始めた頃、ようやく職が決まった。


 この前までやっていた先生とはかけ離れた、小さな町工場に就職となった。



 あれはちょうど工場の多く立ち並ぶ脇道を歩いていた時であった。


 バイト先であるスーパーの帰り道なのでいつも通ってはいたのだが、ある日、その小さな町工場の入り口の扉に、従業員募集の貼り紙があった。



 資格はなくてもいいらしく、新しい従業員を一人だけ募集していた。


 もうそろそろ定職に就きたかったため、その貼り紙を見逃さなかった。



 その場で電話すると、一週間後に面接に来てくれと言われた。


 この面接はなんとしても合格したかったので、先生をしていた時のスーツを久しぶりに着ていくことにした。



 番田の事件の日から一切着ていなかったが、そのグレーのスーツだけは今でも輝いて見えた。


 昔のよろいを身に纏い、面接を行うその町工場へと向かった。




 面接ではまたも真面目さが伝わったのか、その場で合格となった。


 少し工場内の説明を受けた後、その町工場から出た。



 町工場を出たのはまだ午後二時半を回った頃であった。



 その足でバイト先のスーパーへと向かった。町工場への就職が決まりそうであったため、バイト先であるスーパーには辞めることを数日前に伝えていた。


 今日スーパーへ行くのは制服やエプロンを返すためだ。



 

 スーパーには午後三時過ぎに着いた。スーパーの前でふと立ち止まり、その建物を見上げた。



 番田の事件によって狂った自分の人生。そこから再出発を試みた場所だけに思い入れがあった。



 この数ヶ月間を懐かしんでいると、女性の声がした。



「なに辛気しんき臭い顔してんのよ」


 突然、スーパーから出てきた女性にそう言われた。


 その失礼極まりない顔を拝むため、その人の顔に焦点を当てると、よく見慣れた人物だった。



「もうバイト辞めたんだってね。寂しいサー」



 沖縄風の口調で喋っている彼女は、バイト終わりにスーパーから出てきた。言うまでもないが里田さんだ。



「何そのスーツ、似合ってるじゃない」


「これは先生をしていた時のもので、久しぶりに着てきました」



「そうなんだ、今日は何で来たの?」


 制服とエプロンを入れたビニール袋を耳の横まで持ち上げ、「これを返しに」



「じゃあ今日で来るの最後なんだ」里田さんが少し寂しそうに見えた。


「そうですね」同じく寂しそうに答えた。



「この後時間ある?」


「はい、あります」



「じゃあまたあそこで食事でもどう?」


「是非お願いします」これまでのお礼をそこでちゃんと伝えよう、そう思った。



「じゃあバイクの準備しておくわね」そう言って里田さんはスーパーの側面にある従業員専用駐車スペースへ行き、いつも通りバイクに乗る準備をしに行った。




 俺はスーパーへ入り、休憩室にいた店長に制服とエプロンの入ったビニール袋を渡し、これまでお世話になった感謝の思いと就職先の町工場の事を少し話した。


 店長にもう一度お礼を言ってスーパーの出口に向かって歩いた。



 この数ヶ月で色々変わったなと、回想していた。



 先生を辞めてから、このスーパーでバイトをして生活費を稼ぐ。あの時はなんとか生きていた。


 その後里田さんに出会い、長野にも支えてもらって俺の人生も最近ようやく落ち着いてきた。



 そして何と言っても新しい職も見つけることができた。これから先もなんとか生きていけるという自信もある。


 そんなことを思いながらスーパーを出た。




 すると横から男の声がした。



「田中勇さん、ですよね?」



 俺はよくわからなかった。先生を辞めてから知り合いも少ないし、自分のことを知っている人がいるのか、と思い声のする方を見た。



 黒スーツできっちり決めている二人組の男だった。見覚えのない人たちなので、聞き間違いかとも思った。



 しかしまた二人組のうち一人の男が、


「田中勇さんですよね?」



 聞き間違いではないと確信したので返答する。



「はいそうです」


「僕たちはこういうものなんです」胸ポケットから出したものを見せつけてきた。



 二つ折りにされたそれを開くと、桜の代紋がでかでかと描かれた警察手帳だった。



 それを見た瞬間はっとした。なぜ警察官が自分の元へ来たのかも予想できた。



「番田くんの事件のことで」一人が口を開く。


「遺書があることが判明したんです。というより、校長先生が隠し持っていたんです」



 やはりそうか。長野はともかく、他の先生たちのことも過剰に信頼していた。漏らしてもおかしくない情報だよな。



 おそらく先生たちの誰かが情報を漏らしたのだろう。あるおばさんの顔が脳裏に浮かんだが、すぐに脳内に収めた。



 しかしそれに対しては何の恨みもない。順風満帆に見えた今の生活、実は自らが創り出したハリボテの生活だったことに気がついた。




『俺は番田を殺した。これまで飄々《ひょうひょう》と生きていた俺は、殺人犯だったのだ』




自らが愚かであると実感し、全てを白状することにした。



「はい、遺書のことは知っています」


「遺書には『これであなたも殺人犯』と書いてあるのは知っていますか?」



「知っています」


「ここに書いてある『あなた』というのは田中勇さん、あなたのことで間違いないですか?」



「……」情けなくて言葉が出てこない。


「任意同行、お願いします」その表情を汲み取られたのか、もう一人の警察官が言った。


「はい」




 二人の警察官に連れられ、停めてあったパトカーへ向かった。パトカーに乗せられる前に警察官の一人が、


「一応、武器等の所持がないか確認しますね」と言い、俺の上半身から調べ始めた。



 武器を何も所持していないので両手を挙げていた。



 上着のポケットから携帯電話と財布が出された。次に下半身を調べられた。




 すると、ズボンのポケットに何か入っていたようだ。




「何か入っているな」そう言って警察官が取り出したのは、五百円玉だった。



「それは!」その五百円玉は番田が自殺した日に屋上で拾ったものだった。



 それを見た時、脳内で番田の事件の不可解な点が一本の線で繋がった気がした。



「サスペンダー、レンガ、五百円玉……」一点を見つめ、そう呟いた。



 そしてあることをひらめいた。



 真実を知るためにはこんなところで連行されるわけにはいかない。考えている時間もなかった。



 俺は警察官からその五百円玉を奪い取り、二人の間をすり抜けて走り出した。






 芝ヶ谷高校ではその日の放課後、生徒とその親との三者面談があった。


 田中に代わって担任になってから三者面談というのが今回初めてだったので緊張していたが、今日はその最終日。


 緊張もそれほどまでには和らいでいた。



 その日の三者面談は、午後三時半に約束されていた楠本とその母親の面談のみだった。



 時間通りに楠本と母親が教室に入ってきた。



 全ての机を教室の後ろへ下げたことでできた広々と空いたスペースに机を四つ、対面できるように「田」の字になるように並べていた。



 教室に入り手前側に楠本と母親に並んで座ってもらった。



 これは何のための三者面談かというと、楠本の進路を親の意向も確認しながら知るためだ。まず楠本に進路を訊いた。



「楠本はどういった進路を考えてる?」


「俺はK大学に進学を」楠本は答えた。



 K大学といえば、国内でも偏差値の高い私立大学だ。



 元々悪さばかりしていた楠本が、そんな大学を目指せるわけないと思われるかもしれないが、新田が自殺した事件からは真面目に勉強しているようで成績はうなぎのぼりだった。


 この前の中間テストの成績は、学年で上位二十位に入っていた。



「K大学か。このままならいけるんじゃないか」納得の大学選びだった。


「やったねしげる!頑張ってね」母親もものすごく喜んでいた。



「このまま勉強頑張れよ」俺も激励した。




 すると自分の胸元から音がした。



 胸ポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのだ。三者面談の時はマナーモードにしないといけないのに、今日は楠本だけだったので、それをするのをすっかり忘れていた。



「ちょっとすみません」楠本の母親にそう告げると、教室から廊下に出て、まだ音の鳴り止まない携帯電話を確認した。



 液晶には『里田峰子』の文字が。里田さんから電話なんてこれまで一度もかかってきたことがなかったので、恐る恐る電話に出た。






 スーパーへ制服とエプロンを返しに行った田中くんを待つため、自身のバイクを停めているスーパーの側面にある従業員専用駐車スペースにいた。


 ヘルメットを装着し、エンジンはまだかけずに大通りに向けてバイクを押して歩いた。



 スーパーの前まで行くと、ちょうど田中くんがスーパーから出てきたところだった。


「あっ田中くん」そう言おうとした時だった。



 黒スーツを着た二人組が田中くんに話しかけていた。


 その二人は警察らしく、長いこと話をしていた。



 ずっと前から田中くんは少し怪しいところがあった。



 一番怪しいのは、やはり高校を辞めた理由を隠していることだ。


 長野くんと会った時も、二人で何かを隠しているようだった。



 結局そのことは何も訊かなかったがずっと疑っていた。


 辞めた理由は必ずあの事件にも関わっているという予測もついている。



 この状況を含め、もうこれはスルーできないと思った。



 その真相を知っているであろう人物に電話をかけた。



 コール音が長く続いたが、しばらくするとその人物の声がした。



「もしもし、里田さんですか?」


「そうよ」



「すみません。今、楠本と三者面談していて終わったらまた掛けます」


「急いでるから簡潔に話すわ」間髪入れずに長野くんに言った。



 こちらの真剣さが伝わったのか、長野くんは何も言い返さず「何でしょう」と答えてきた。


「田中くんと長野くん、私に何か隠してるでしょ。何を隠してるの?」



「ん?何のことですか」話が急すぎて理解できなかったようだ。


「番田くんの事件のことで、何か隠してるでしょ」長野くんが理解できるように説明した。



「そ、それは……」言うのを躊躇ためらっているのか、言葉が詰まっていた。


「早く!答えて!」応答を急かすよう強めの口調で言った。




 なぜなら今、目の前で田中くんが警察官二人に誘導され、パトカーのほうに向かって歩いていたからだ。



「今、田中くんが警察に連行されそうなの!私の目の前で!絶対に何かあるでしょ、答えてよ!」


「え、警察?」



「そう!今、警察二人に囲まれてパトカーに連れて行かれてるの!」


「えっ?」



「早く!」


「……里田さん」覚悟を決めたように長野くんが言った。




 それから番田くんの事件には遺書があったこと。


 そこには田中くんを暗示する文章が書いてあったこと。


 そして自殺する前の番田くんに「お前は殺人犯だ」と田中くんが説教したこと。



 あの事件にまつわる田中くんの情報を洗いざらい話してくれた。



「そうだったのね」そう言って田中くんのほうにふと目をやった。



 その瞬間、彼は警察官の間をすり抜けて走って逃げていった。






 一心不乱に走り続けた。


「このまま警察に連れていかれてたまるか。人間失格の俺にもまだやるべきことがあったんだ」そう思いながら、まだまだ走った。



 あのスーパーから五キロほど離れた駅の広場までやってきた。追っ手の気配はもうなかった。


 疲れ果てて、広場のベンチに腰掛けた。



 その広場は主要駅の広場だったため、えらく発展していた。


 周りは高い建物に囲まれ、真ん中には大きい噴水がある。



 上を見上げると大きいビジョンが建物に設置され、そこにニュースが放映されている。




 それによると、この広場から少し離れたところで警察官が襲われ、拳銃が一丁盗まれたそうだ。




「なるほどね」こんな大事件が起こっている最中、俺みたいなちっぽけな人間を追いかけてこないよな。



 落ち着いた風を浴びながら休息をとっていた。


 噴水の飛沫が汗のかいた身体に染み込んで気持ちよかった。気がつけば深い眠りについていた。




 何分ほど寝たかはわからないが、しばらく経った頃に馴染みのある女性の声で目が覚めた。



「田中くん、田中くん」肩を軽く叩かれていた。


「里田、さん?」寝ぼけ眼だったためその女性がぼやけて見えたが、声で里田さんだとわかった。



「心配したわよ。警察に囲まれたと思ったら、逃げちゃうんだもん」


「あ、そっか。そうだったな」眠りについたことにより、警察から逃げたことをすっかり忘れていた。



「そっかじゃないわよ。何で逃げたの?」


「あぁ、それはですね……」しばらく沈黙した。



「な、何なのよ」痺れを切らした里田さんに急かされた。すると、


「わかったんですよ。番田の事件の真相が」



「ええ?」



 里田さんは驚きを隠せなかったようだ。



「嘘でしょ?」


「証拠もあるんです」



「な、何よ」


「これです」



 上着のポケットから例の五百円玉を出した。



 里田さんはきょとんとそれを見つめていた。



「何よ。ただの五百円玉じゃないのよ」


「これで全てが繋がりました」



「いやちょっと待って、話が早すぎてわからないのよ」


「今からこの事件の決着をつけてきます」



「ちょっと!もう警察は動いてくれないかもしれないよ」


「警察には行きませんよ。直接決着をつけます」そう言い、上着のポケットから携帯電話を取り出した。



「直接って。携帯でどうするっていうの?」


「ちょっと長野に連絡しようと思って」



「繋がるかわからないわよ」


「え?なんで」



「さっき長野くんに電話したら、楠本くんと三者面談してるって言ってたから。私の電話は出てくれたけど、もう電源切っちゃってるかもしれない」


「えっ、それ何時頃の話ですか!」話をさえぎるように食い入って言った。



「あれは確か三時半過ぎじゃないかしら」



 それを聞き、携帯電話を開いた。液晶に表示された時間は午後四時手前であった。それを知ってにやりと微笑んでしまった。



「何笑ってんのよ」里田さんにも急に笑い出したのがおかしく見えたようだ。


「里田さん、バイクの後ろに乗せてもらっていいですか?」



「いいけど、どこ行くのよ」


「芝ヶ谷高校です」






  最終章

 

 

 この風を受けてから、もう五分ほど経っただろうか。目的の芝ヶ谷高校が見えてきた。



「あなた何が目的なの?」不安に感じているのか里田さんが叫ぶように言ってきた。風で流されていく声を拾い集め、それに応えた。



「楠本です」


「楠本くんを見つけてどうするの?」


「俺なりの決着をつけます」



 里田さんは聞こえるようにまた何かを大声で言っていたが、俺はもう丘の上にある学校を見つめていた。


「もぉ」


 そのバイクはそのまま走り続けた。






「それではこれで三者面談を終わります」


 楠本の三者面談は二十五分ほどで終わった。そこでお開きにするつもりだったが、楠本の母親が、


「すみません長野先生。この後ちょっと時間ありますか?」



 他の生徒の時にはそんなこと言われなかったので、正直驚いた。


「えぇ、時間はありますけど」


「じゃあ少しお話いいですか?しげるは校門で待ってて」



 楠本を外で待たせて、楠本の母親と二人きりで話をすることになった。


 楠本は言われた通りに教室を出て行った。



「どうしたんですか?」そう訊くと、


「あの実は、しげると番田くんのことなんですけど……」神妙な顔つきでそう言ってきた。






 止まることなく走り続けていたバイクは、芝ヶ谷高校に到着した。


 その時、偶然にも校門から楠本が、ちょうど出てくるところだった。親の姿はないようだ。



「おい、楠本」バイクの後部座席にまたがったまま、被っていたヘルメットを取りながら呼んだ。向こうもこちらに気づいた。



「あっ、田中先生」


「よぉ、久しぶりだな」



「そうですね」


「……」



 お互いにほんの少し、沈黙した状態になった。



「里田さん……」里田さんにしか聞こえないような小さい声で呼んだ。


「何?」それにつられて小声で訊いてきた。



「ここまで来てもらってありがとうございました。あとは俺一人で行くので、里田さんはもう帰ってもらっても大丈夫ですよ。わざわざ来てもらったのに申し訳ないです」



「あらそう、そこまで言うならわかったわ」里田さんは素直に言うことを聞いてくれた。


「すみません」そう言ってバイクを降りた。



 楠本の方へ歩いていく。



「すまない楠本。あそこで少し話そう」そう言って指をさしたのは、校門を入ってすぐ左にある、今や誰も使っていない倉庫だった。


「わかりました」了承してくれた。




 そこへ向かって楠本と一緒に歩いていった。振り返ると里田さんがバイクに跨りながら見送ってくれていた。



 そのまま二人で倉庫へと入っていった。



 倉庫の中は物が全て撤去されており、空っぽの状態であった。


 そこに人が二人というのは充分すぎるほどだった。


 楠本を先に倉庫に入らせて、入り口に遠い奥の方へと行かせた。



「ちょっとどうしたんですか。話があるって何ですか?」楠本はこんなとこに入らされて困惑しているようだ。


「いや、ちょっとお前に訊きたいことがあってね」



「訊きたいこと?」


「番田のことなんだけど」俺がそう言うと、楠本の顔が強張った。



「番田がどうかしたんですか?」楠本の声色が変わった。


「お前って番田と仲良かったよな」



「え、えぇ」


「じゃああれについてはどう思ってる?」



「なんですか」


「番田と神谷のサスペンダー……」楠本が目を見開いたのが見えた。



「サスペンダー、ですか」


「あぁ、仲良いのにお前だけしてないじゃないか」



「それは、俺も持ってるけど学校にしてきてないだけで……」


「それ嘘だろ」楠本がまだ喋ろうとしていたが被せて言った。




 楠本が動揺しているのは目に見えてわかるのに、まだ粘ろうとしてくる。



「何でそんなこと言えるんだよ」楠本の口調も強くなってきた。


「神谷から聞いたよ」



「くっ、何を聞いた?」歯を食いしばりながら言った。


「お前だけ一緒に買いに行ってないだろ」




 楠本はそれを聞くと、どうやら観念したようだ。肩を落とし、首も下へ落ちていた。


「ああ、行ってねえよ。サスペンダーも持ってねえ」




 俺は核となる質問を楠本へ問いかけた。



「お前……本当に番田と仲良かったのか?」






 楠本の母親は真剣な顔をしていた。対面する自分もそうだった。


「しげると番田くんは、本当は仲良くなかったんじゃないかと思いまして」母親は涙ながらに言った。


「え?」



「しげるは服を脱いだ姿を見られるのを極端に嫌がっていました。


 あるとき、しげるが着替えている時に部屋に入ったことがあったんです。そしたら今までに見たことないくらい怒られたんです。


 そして番田くんが亡くなる少し前、お風呂に入ろうとしていたしげるに、タオルがなかったので持っていってあげたんです。


 そのときもものすごく怒られたんですが、少しだけですがしげるの裸を見ることができました。


 服を着ているとわからなかったのですが、そこにはたくさん痣があったんです」



「痣?」



「はい、おそらく殴られた痣でした。でもそのとき、私はしげるにそのことを訊くことができなくて……」


 母親はぼろぼろと泣きながらそう言う。



 息子がそういう姿になっているのを見たくないのは、全ての子どもを持つ親に言える。



 しかし実際にそういった姿を目の当たりにすると本当に悲しいものだろう。そう思いながらも、


「でもそれに番田が関わっていたという根拠はあるんですか?」まだ根拠がなかったため、泣き続ける母親に追及した。



「番田くんが亡くなってから一ヶ月ほど経った時期でした。もう一度しげるの裸を見ることができたんです。そのときの身体は痣があったのが嘘のように真っ白だったんです」



「なるほど、楠本は番田にいじめられていた可能性があるわけですね」


「はい。おそらくいじめられていたと思います」






「いじめられてたんだよ!」


 その声はこの古びた倉庫内に響き渡った。反響する音が鳴り止んだ頃、楠本の目から涙が溢れていた。



 そして涙ながらに叫び続ける。



「そうだよ!俺は番田にいじめられてた。殴られたり蹴られたり色々された。


 みんなにバレないように服で隠れるところだけ狙われて。反抗もしたこともあったけど逆効果だった。さらに暴力は激しくなった」



「そうか、やはりいじめられてたか」同情するような感じで言葉を放った。



 その言葉を聞いた楠本は、俺に向かって突っ掛かってきて、胸ぐらを強く掴まれた。


「お前、何で今いじめに気づいてんだよ!無能な担任だったから俺はずっといじめられてたんだぞ!そんな奴が同情なんかすんなよ!」



 悲痛な叫びがまたしても倉庫内にこだました。



「すまん、あのときは気づいてあげられなかった」遠くを見ながら呟くように言った。胸ぐらを掴む手がより一層強くなるのを感じた。



「くそっ!この無能がぁ!」怒りが頂点に達した楠本に突き飛ばされた。


 背中からずりずりと地面を滑って倒れた。その様子を見て楠本は嘲笑あざわらった。



「正直、新田が自殺したときはラッキーと思ったよ。それで番田は意気消沈。そのまま自ら地獄にまで逝ってくれたんだから」


 その言葉を聞いた俺は、楠本を嘲笑い返した。倒れていたが立ち上がって言った。



「ははっ。お前今、『自ら地獄に』って言ったか?」


「あぁ言ったよ。それが何だ」楠本がムキになっているように見えた。



「お前じゃないのか?」反応を探るように言ってみる。


「な、何がだ……」あからさまに動揺しているようだった。



「何をとぼけている。お前だろ?番田を殺したの」


「……」




 さらに追い討ちをかけてみると、楠本が黙ってしまった。しばらくの沈黙の後、楠本は口を開いた。



「……は?そんな訳ないじゃん。警察もあれは自殺だって言ってたぜ」まだシラを切ってくる楠本には呆れた。


「もう嘘をつき続けるのはやめろ。証拠もある」



 そう言ってズボンのポケットから例の五百円玉を出した。



「これだよ。見覚えあるんだろ?」



 楠本は無表情を作ってはいたが、口だけは強く一文字を結んでいた。



「言ってやろうか?お前の犯行を」



 楠本はまだ無表情で黙り続けていたので、俺はそのまま続けた。



「あの日の昼休み、お前は番田と二人きりだったのを利用し、屋上へ向かったんだよな」


「ちょっと待てよ。昼休みはいつも俺、番田、そして神谷の三人でいたからな。二人きりな訳ないんだよ」



 ずっと黙っていた楠本が突っかかってきた。しかしそんな嘘は俺には通じない。



「お前は番田と間違いなく二人だった。」


「はっ、何を根拠に?」



「なぜならお前と神谷は一緒にお昼休み終わりに教室に帰ってきたよな?」


「そうだよ。だから一緒にいたんだよ」



「いや違うな。あの時の神谷は汗だくだったんだ。しかしお前はそうではなかった。なぜ神谷は汗だくだったのか……。それは野球部の昼練に行ってたんだ」



 楠本は歯を食いしばっていた。俺は続ける。



「裏付けもある。神谷は自分自身で『新田の事件があってから、毎日欠かさず昼練をしている』と言っていたんだ。お前が昼休みに番田と二人きりだったのは明らかなんだよ」



「二人きりだったからってあれは自殺なんだ。それは変わらねえよ」



「いや、番田と二人きりになったお前は屋上で昼飯を食べに行った。そこで番田を寝させたんだろ?


 おそらく事前に睡眠薬か何かを飲ませていて、昼飯を食べ終わると番田は眠たくなって寝たんだろうな。


 そのあと誰にも見られることのない屋上で、堂々と自殺に見せるための工作をした」



 楠本が唾を呑む音が聞こえた。しかし黙ったままだった。



「まずお前はレンガ四つと凧糸、そしてこの五百円玉を用意した。


 そして眠らせた番田を、屋上の柵の向こうに立たせるように置く。だがそれだけでは番田は下に落ちてしまう。


 そこでお前は、恨みのたっぷり詰まった番田のサスペンダーを利用した」



 楠本は無表情を貫く。俺は淡々と続けていく。



「レンガ四つを重ねて凧糸をくくりつけ、逆側の凧糸の先は五百円玉に巻く。


 そして凧糸を巻いた五百円玉を、番田のサスペンダーの後ろ側の留め具に取り付ける。


 あとは凧糸を括りつけたレンガを、番田の後ろ側から柵に通して、凧糸を使ってゆっくり慎重に下に降ろしていって四階の教室の窓のふちに置いたんだ。


 そうすれば、ぴんと張られた凧糸で番田が後ろに引っ張られ、屋上の柵の向こう側に留めることができる。


 さらに、レンガを置いたのが自分の教室の窓なら安心だよな。俺らの教室は四階にあるし、お前は窓際の席だったしな」



「でも教室にいる人に、レンガが垂れてくるのが見られたら?」楠本も急ぎ気味に口を開く。しかしその発言も無駄である。


「カーテンを閉めておけば見られることはねぇよ。お前の教室なんだから、それくらいできるよな」



 突破口を防がれた楠本は、再び無口になった。



「あとは昼休みが終わる前に教室に戻り、何食わぬ顔で五時間目の授業を受ければいい。


 そして誰にも見られない時、そう。授業の始まりの礼をみんなでしている間に、窓の縁に置いていたレンガを下へ落としたんだ。


 そのタイミングでレンガを落とせば、落としたのを誰かに見られることもない。


 もし見られたとしても、窓から何かを捨てるのはいつもやっていることだから、まずみんなが気にすることもないのを利用したんだろ?」



 楠本は黙りながら目線を落とした。俺はそのまま続けた。



「レンガが落ちた反動で凧糸に繋がっている五百円玉も落ちる。五百円玉はサスペンダーから外れ、番田を留めるものがなくなり、そのまま下へ落ちてしまうといったところだろう。どうだ?早めに白状しといたほうがいいぞ」



 その時、楠本が不気味に笑った。



「それはただのお前の妄想。レンガを使ったとしても、落ちているレンガには凧糸が括りつけられたままだろ?そんなレンガ、あの現場にあったか?」


 楠本は高飛車な態度で食いかかってきた。しかし、そんな中でも俺はまだ冷静であった。



「もう観念したらどうだ?」


「何がだ」楠本の唇は少し震えていた。



「お前番田が落ちた後、一階に降りてきてたよな?神谷は番田に寄り添っていったが、お前は遠目からそれを見ていた。


 誰もが気が動転している中なら、すぐそばに落ちているレンガに括ってある凧糸をハサミで切り取ることは簡単にできる。


 第一にレンガは破裂していたから、ハサミを使わずに回収する事だって容易だ。


 そして回収した凧糸をポケットにでも入れて教室に帰れば、その証拠はなくなるよな」



「そ、それでも」もう楠本の喋る言葉は大幅に震えていた。


「それでも証拠はもうないぜ」追い詰められた者は証拠を求めてくる。しかし、



「ふんっ、それはどうかな」俺はそれを鼻で笑ってみせた。


「何がおかしい」



「お前が一階まで降りてきた時、何か回収できなかったんじゃないか?レンガと一緒に落ちてくるはずだったものがあるだろ」



 右手に持っていたあの五百円玉を楠本に突きつけた。



「これはサスペンダーから外れた反動で、凧糸から取れて屋上に残ってしまったんだ」



 楠本は膝の力を失い、すとんと尻餅をついた。



「回収する予定だったから、素手で作業してただろ。これの指紋を調べれば、お前の指紋が必ず出てくる」



 首の力も抜け、項垂うなだれている楠本に続けて言う。



「もう白状しろ。番田を殺したのはお前だな?」


「あぁ」項垂れたまま答えた。



 楠本に徐々に近づき、しゃがんで目線を合わせた。



「お前なんだな?」


 楠本は顔を上げ「あぁ、俺が殺した」と言った。その後、淡々と言葉を並べていく。



「俺は番田にずっといじめられていた。殺意もずっと抱いていた。でも行動には移せない。


 そんな中、新田の事件があった。番田もいつもの威勢がなくなり、思い詰めているようだった。そこで思いついたんだ。


 あいつを新田と同じように屋上から落とせば、自殺と判断されるに違いない。すぐに計画を立てたさ。


 殺人のトリックは、いつも小石を窓から投げていたのが使えると思ってそれを応用した。前にもレンガを投げ捨てたことあったし。


 事件前日の日曜日には、凧糸の長さを測るために屋上にも行った」



「あの日か。宿題を忘れたから取りに来たというのは嘘だったんだな」


「あの時は焦ったよ。咄嗟とっさの嘘にしては上出来だけど、少々粗い嘘だったからな。お前が馬鹿で助かったよ」


「それはどうも。で、続きは?」



「事件当日はお前の言った通り、昼休みに番田と二人きりになった俺は、用意した睡眠薬をたっぷり入れたお茶を差し出した。


 それをまんまと飲んだあいつは昼飯を食べ終えるとすぐに横になり眠った。あとはサスペンダーを利用したトリックで下に落とし殺した。


 お前が急いで一階に降りた後、神谷を誘って俺達も降りた。凧糸を回収するまでは良かったのだが、肝心の五百円玉が見当たらなかった。


 後日屋上へ行ったがそこにも落ちていなかった。まあでも自殺と判断されているし、


 仮に五百円玉が警察に見つかっても誰もトリックに使ったとは考えつかないだろうから問題ないと思っていたが、まさかお前が持っていたとはな」



「番田が自殺した後に俺が拾ったからな」


「俺の負けだよ」観念したように笑っていた。



 しかしこれで全て解決した訳ではない。



「おい楠本」強い口調で言った。


「なんだよ」俺の態度を見て少し驚いていた。




「なぜ、俺を巻き込んだ?」




 そう。俺にとって一番の問題は番田を殺したことではなく、あの遺書に俺を暗示させる文章を書いていたことだ。


 犯人が楠本とわかった今、俺の人生を狂わせたのは紛れもなく目の前にいるこいつだ。



「なぜだ?」怒りがこみ上げてくる。



 楠本は顔も目も赤くなり、感情が爆発した。




「全部お前のせいなんだよ!」顔面から色んな液を出しながら楠本は叫んだ。それに圧倒され少し後退りした。




「お前は結局番田しか見ねぇんだよ。傷つける奴しか気にかけないんだよ。傷つけられてる奴もいるのによぉ!


 新田なんて可哀想だ。ずっといじめられてたのに、誰にも気づいてもらえずにそのまま死んでったんだよ。


 それなのにお前は自分を責めないで番田に激怒した。俺はそれが許せなかった。


 いじめられていた俺からしたら、悪いのは番田よりもお前のほうなんだよ。お前が気づいていれば終わってんだよ。


 新田も死なずに済んだんだよ。だから俺は、番田を殺し、お前も社会的に殺してやったんだ」



 全てを吐き出した楠本は、その場にうずくまり嗚咽おえつし始めた。




 ただ、俺の中では新たな魔物が身体中を支配していた。




 その魔物はうずくまっている楠本を力一杯起こし、拳で一発喰らわせた。



 吹き飛んだ楠本の口からは真っ赤な血が流れ出ていた。その血を拭いながら「なんだよ!」と叫んでいる。



 だが俺は身体の魔物に動かされるように、倒れている楠本に近づき胸ぐらを掴んだ。




「俺の人生を狂わしたお前に正義の鉄槌てっついを下す!」




 楠本の首を両手でゆっくりと掴んだ。



「やめろ、やめろ!」逃げ出そうとする楠本に馬乗りになり逃がさない。首を掴んだ両手に徐々に力を入れていく。



「ゔぉ!」これ以降楠本は、声が出せないほど苦しみ始めた。



 俺の中の魔物は止まらなかった。そして俺は叫んだ。




「『これで俺も殺人犯』だ!」




 修復されることのなかった傷痕から浸水し始める。もう止めることは出来なかった。






「番田くんとは仲が良かったと思っていたので、ちょっとショックでした」息子が友達にいじめられていたことに、相当落ち込んでいるようだ。



「でも今は成績も良くなって、いい調子じゃないですか?」気分を害さないように言葉を選んだ。


「確かにそうですけど、心配なのは峰子さんなんでね」



「峰子さん?」


「あ、番田くんのお母さんのことなんですけどね」



「そうなんですか」


「一人息子の番田くんも自殺して、そのすぐ後に旦那さんも病気で亡くなられて。一気に独りになられたので大丈夫かなと」



「そうだったんですね」


「ええ、とても陽気な方だったんですけど、今は何してるんでしょう?」




 ここまで聞いたところで、あることを気掛かりに思った。心拍が早まるのを感じた。



「その峰子さんって、何という苗字かご存知ですか?」


「もちろん番田峰子さんでしたけど、旦那さんが亡くなってからは旧姓に戻したらしいので、今は確か……」



 心臓の鼓動はもう動きをやめなかった。



「里田峰子さん」






 倉庫の扉がぎしぎしと開く音がして、楠本の首を絞めていた手をほどき、そちらを振り返った。


 楠本は大きく咳をしたが、意識は失っているようだ。



 開かれた扉には、帰るように言ったはずの里田さんが立っていた。



「いや、これは違うんですよ!」首を絞めていたことを誤魔化した。しかし里田さんは、


「あら、もう一人殺そうとしたの?」いつもの里田さんの雰囲気とは違った。



「もう一人?」そんな里田さんに訊き返した。


「そう、もう一人……」冷たい糸がぴんと張ったような空気が流れていた。そして里田さんが続ける。



「これで二人目でしょ?殺人犯さん?」


『殺人犯』それは番田の遺書に書かれていたものだ。冷や汗が湧いてきた。



「そ、それを……なんで?」もう唇に力が入らなくなった。喋ろうとしても喋ることが出来ない。


「あなたはもう私の相棒でもない。ただの殺人犯。そして私はあなたに息子を殺された遺族……」



「え?」喉の奥から勝手に声が出た。俺が里田さんの息子を殺した……?



 いつ、どこで、そして誰だ?これまでの出来事が頭の中を横流しで回想されていく。


 なんだ。なんだ。顔の力が抜け、首、肩、胸と下へ下へと力が抜けていくのを感じた。



「どういう……ことですか?」ぐしゃぐしゃの頭の中から無意識に選別された言葉が放たれた。


「私はね……」里田さんはそう言うと、着ている上着の内側を探り始めた。




「私は、あなたに殺された番田和也の……母親なんだよ!」里田さんは覇気を持った声で叫んだ。




 母親?番田の?ぐしゃぐしゃの頭の中のピースが一つにまとまっていく。


全てのピースが合わさった時、起きていることを理解できた。



「里田さんが……番田のお母さん?」そう言って里田さんのほうを見ると、上着の内側から出した拳銃をこちらに向かって構えていた。



「ちょ、ちょっと!」里田さんは刑事だったことは知っているが、なぜ拳銃を所持しているのかはわからなかった。


「どうしたの?そんなきょとんとした顔して。なんで私がこれを持ってるか気になってるのね」それを言われて今自分がそんな顔をしていたことに気がついた。



「あなたが警察から逃げている時、ある事件が起きてなかった?」


「ある事件?」そう言うと、ぱっと事件があったことを思い出した。



「あっ、警察官が拳銃を奪われた事件……」



 俺が寝てしまった駅の広場の近辺で、警察官が襲われて拳銃が奪われるという事件が起こっていた。まさかその犯人が……。



「そう、私も覚悟を決めたの。ここであの事件を終わらせる。あなたを殺してね!」


「何で俺を!里田さんにはまだ言ってなかったけど、実はあの事件の犯人はこの楠本なんだ!」気を失っている楠本を指差した。



「ええ、わかってるわ。倉庫のそばでずっと話を聞いていたもの」


「だ、だったら……」



「もちろん楠本くんもここで終わらせるわ。でも私はあなたも許さない」


「何で……」



「あなたのあの一言で……あの子は……」里田さんの目から大粒の涙がぼろぼろと流れ始めた。



 その姿はもう、一人の母親の姿だった。



「和也はあなたに殺された!その事実は私の中では変わらない!」


「でも!俺はそれ以外には何にもしていない!」



「何もしていないから悪いの!あらゆる生徒が、あなたが何もしてくれないのを恨んでいた。新田くんも、楠本くんも、和也も。


 時の流れに身を任せて、自分はただ日々を過ごすだけ。


 あなたの生き方は他人に迷惑をかけないように見せて、実は迷惑と感じる人もいたの。あなたにはそれをわかってほしい……」



 力強かった言葉は次第に勢いを失っていった。感情で喋っていたのか、涙に呑まれて膝から崩れ落ちていった。



 俺もその言葉には返す言葉もなかった。


 ただ俺は一つだけ疑問に思った。



「でも番田自身が新田や楠本を精神的、肉体的に追い込むほどいじめていたのは事実なんですよ?


 それなのに母親というだけで何でそんなにいじめっ子の息子をかばえるんですか?」



 俺のせいとか楠本のせいとかいう以前に、番田のいじめが一番の原因であるはずなのだ。



 里田さんは首を横に振っていた。



「違うの」


「え?」



「和也は……。和也は本当に良い子だったの」


「ど、どういうことですか?」俺には番田が良い子というのは到底信じられなかった。



「私も知らなかったの。学校で他の子をいじめてるなんて」


「そうだったんですか……」




「ええ。実は私ね、旦那にDVを受けていたの」




「そ、そんな……」あの元気な里田さんからは想像も出来ない言葉だった。


「旦那はね。私が外へ出掛けた時とかに、他の人にDVしていることを気づかれないように、服を着ていたらバレないところだけを殴ってくるの」




 衝撃だった。




「え、それ……」



 見合った言葉を選ぼうとしたが、どんな言葉がいいのかわからず、黙ってしまった。


 すると里田さんから口を開いてくれた。



「そう。これは和也のいじめの常套じょうとう手段。新田くんが自殺した時に警察から聞いたわ。


 その時は驚きと同時にショックだった。あの子はね、私がDVを受けているとすぐに駆けつけて守ってくれていたの。


 そんな和也が頼もしくて誇らしかった。弱い人間を守る側の人間だと思っていたから。それがまさかね」



 里田さんは少し落胆していた。


「でもね」里田さんは続けた。



「私が一番知っている和也は、あの優しい和也なの。私を庇ってくれたあの和也。


 だからこそ私はどんな理由があろうと和也を庇ってあげたい。そこにいる楠本くんとあなたに責任があると思いたいの!」




 銃をずっと構えている手の震えは止まらない。




「あなたが新田くんのことを、楠本くんのことを、そして和也のことをもっと気に掛けてくれていたら……。こんなことには……」



 さらに里田さんは泣きながら、



「あなたが優しいのは知ってる。あなたが仕事に一生懸命だったのも知ってる。だってずっと側で見てきたから。


 だから私はあなたを殺したくない。でも……でも、これだけは許せないのぉぉぉ」




 拳銃を構えながら泣きじゃくる里田さんに、俺の心も動かされる。




「里田さん……」




 俺はずっと足踏みをしていたのかもしれない。前に進んでいるように思っていただけで、いつまでもあの出来事を引きずっていた。


 里田さんも同じくそうだと思う。あの出来事に終止符を打たなければ、俺も里田さんも前には進めない。下ろしていたいかりを今こそ切り離す時なのだ。




 

「殺しても、いい?」

 




 悲しい気持ちはお互いにあっただろう。



 里田さんといた日々はとても楽しくて幸せだった。里田さんも少なからずそう思っているはず。



 でも俺たちは同じところでずっと止まっていただけだった。今こそ前に進むしかない。



 無数の傷がついた俺の人生は、どう足掻あがこうと望みの終着点に辿り着くことはない。


 ここで一度沈むことこそ、前に進むということなのだ。それこそ最善の選択なのだと思う。




「ええ、そうしてください」笑顔でそう言ったが、自分の頬を流れていくものを感じていた。



 里田さんも同じ顔をして、同じものが頬を流れていた。ほんの少し里田さんのほうが流れていくものが多いかな。




「じゃあ……殺すで?」



 いつもの里田さんだ。



「なんでここで関西弁なんですか!」あの頃と同じように指摘した。



「まあええやん。ええやん」




 お互いに大笑いし合った。




「必ずまた会おうね?」優しく笑いかけてくる。


「是非お願いします」俺も笑顔で返事をした。



 里田さんは引き金に指を掛けた。



「では……」俺は歯を食いしばり、目を瞑った。




 引き金が動く音がする。




「これで……」里田さんは嗚咽で言葉が詰まった。


「里田さん、大丈夫ですよ」目を瞑りながら、安心させるように言った。



「ありがとう」


「では、お願いします」



「うん……」





 数秒間の沈黙であったが、その時間は遥かに長く感じた。ただ悲しい時間ではなかった。



 それはこれまで生きてきた中では感じることのなかった新しい感情であることには間違いない。




 それの正体は、これから見つけに行こうかな。




 里田さんも何かを決めたように唾を呑んだ。





「田中くん……」



「…………」





 

『これで私も殺人犯』





 

 里田さんの声がすると、すぐに大きな破裂音が三発、学校中に響き渡った。

最後まで読んでいただき、大変嬉しく思います!

ありがとうございました!


様々な感想はあると思います。


どんな感想でも構いませんので、いただけると嬉しいです!



『これであなたも殺人犯』の最初の案を思いついたのは、2019年7月でした。


そこから、完成したのが2021年2月。



約1年7ヶ月、完成までにかかってしまいました!



ただ、その期間ずっとこの小説を書いていたのかと言われれば、そんなことはありません。笑



書いている期間→サボり期間→書いている期間→サボり期間→書いている期間



と、3周くらいしていました。笑



なので、何度も読み返す機会があり、何度も修正をしました。


その結果、私にとっては特別な作品となりました!



皆さんの意見を聞かせてください!


Twitterもやっているので「福田直輝」で調べてもらうと

アカウントが出てくると思うので、


そちらのDMでも構いません!


全ての意見に目を通したいと思います。


疑問に思ったことでも大丈夫です。

回答不可能な質問でない限り、全てに返答します!



皆さんの心を動かせたのなら、とても嬉しいです。



お笑い芸人としても頑張りますので、

応援よろしくお願いします!



今回は『これであなたも殺人犯』を読んでいただき、

誠にありがとうございました!!!



追伸。


アプリの「note」もやっております!


こちらは「おさむさとし」で調べてもらうと、アカウントが出てきます!


『これであなたも殺人犯』の制作の裏側なども記事に書いておりますので、そちらもチェックしてみてください!!!

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