これからのことと、呼び方 ①
「きゃはは」
最初、わたしは自分の身体が浮いたことに驚いた。そして床に足をつけないかと、バタバタと手足を動かしてしまった。
けれど途中からこの現象を起こしているのはディオノレさんで、怖いことなんて何もないのだと分かったから――途中からわたしはすっかり宙に浮かんでいることを楽しんでしまっていた。
突然笑い声をあげて、楽しそうにしているわたしを、ディオノレさんは「なんだこいつ?」といった怪訝そうな目で見ていた。
その視線には気づいていたけれど、それでもこの状況が楽しいという気持ちでいっぱいだった。浮遊感も、外から入ってきた風の感覚も――全部がわたしには嬉しいことで、笑うことを我慢なんて出来なかった。
そしてディオノレさんに連れてこられたのは、一つの部屋である。そこは食卓だった。机の上に幾つかの料理が並んでいる。公爵家で食べていたような料理ではなく、なんだか簡単な感じのものだった。だけど、その料理を見ただけでわたしのお腹はぐぅうううと音をたてた。
わたしは恥ずかしくなって、顔が赤くなるのが分かった。
そんなわたしにディオノレさんは声をかけることもない。
ディオノレさんが指を鳴らすと、私はその赤い椅子の上に座らされた。目の前には、パンやスープなどの料理がある。
食べていいのだろうか? と向かいに座っているディオノレさんに視線を向ける。
わたしは我儘だったから皆に嫌われてしまった。今のわたしには、ディオノレさんしかいない。わたしの中身が幾らベルラ・クイシュインだと言ったとしても誰も信じない。だって身体が違うから。――わたしはディオノレさんに嫌われてはいけない。ううん、嫌われたくない。
「……食べろ」
その言葉を告げてくれたから、わたしはこくりと頷いた。
スプーンに手を伸ばす。銀のスプーンを右手で握る。だけど上手く握れなくて、音をたててスプーンが机に落ちる。また握る。持てたけれど、スープを飲むのも一苦労だ。口に含む。熱い。熱くて、舌がヒリヒリとする。それにごくりと飲み込んだら咽てしまった。
「ごほっ……」
「……食べやすいものにしたつもりだが、これでもきついか」
ディオノレさんは瞳も冷たい。態度も冷たい。決してわたしに友好的なわけではない。けれど――食事を取ったことのないこの身体にとって、食事がしやすいように食べやすいものを作ってくれているというそれだけで、優しい人だと思った。
ディオノレさんが何かを告げる。そうすれば勝手にパンが小さく刻まれ、スープに浸される。そしてスプーンが勝手に浮いて、私の口元にくる。
ディオノレさんの魔法なのだろうか。
お兄様の使う魔法を見たことがあったけれど、ディオノレさんのように当たり前みたいに魔法を使える人なんてわたしは知らない。魔法を使うのは難しいことだって、お父様だって言っていた。
でもディオノレさんは、驚くほどに日常の中で魔法のようなものを使う。魔導師――とそう名乗っていたっけ。そういう力がある人なのだろうか。よく分からない。
でもとりあえず今は、そういうことを考えるよりも食事を取ろう。ディオノレさんが魔法で差し出してくれるスプーンからスープをすする。少し咽る時もあるけれど、ディオノレさんはゆっくりとわたしが食べられるペースを見計らってスプーンを差し出してくれる。
そうしてわたしに対して魔法を使っている間も、ディオノレさんは普通に自分の食事もとっていた。魔法を使いながら、別のことが出来るのもなんだかびっくりした。
「もう、いっぱい」
「お腹いっぱいになったか? 本当にいいのか? そんなに食べてないだろ?」
この身体は目覚めてすぐというのもあり、そんなに食事をお腹に入れられないらしい。お腹いっぱいだと口にすれば、ディオノレさんは眉をひそめて、そんなことを言う。睨んでいるようにこちらを見ているけれど、その言葉がわたしのことを思っての言葉だと分かって嬉しかった。
「ん」
うん、と口にしたかったのに短い言葉しか出なかった。
もっとディオノレさんにちゃんと言葉を返したいのにな。ディオノレさんはこんなに喋れないわたしに呆れていたりしないだろうか、とちょっと怖くなる。
だけど、ディオノレさんは「そうか」と口にしてすぐに食事を下げた。そしてその視線は暖かいものではないけれど、わたしに対して呆れなどを感じていない視線だった。そのことにほっとした。
「――お前、名前は」
「わたし……ベルラ」
家名まで口にしようと思ったけれど、もうわたしはベルラ・クイシュインではないと思いとどまったので、名前だけ告げた。
「ベルラか。身体も変わったし、違う名前にするぞ。お前はその身体に入って生まれ変わったんだ」
「……分かった」
「そうだな。ベルレナにでもするか。今までの名前を少しもじっただけだが……いいか?」
「うん」
わたしの身体は変わった。わたしは今、ベルラ・クイシュインとは似ても似つかない姿をしている。
生まれ変わったということは確かにそうなのだと思う。
――わたしは、今日からベルレナ。