表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日の下(もと)の娘、日陰の母  作者: 浅葱沼 氷雨乃
1/4

第1話 高校2年生の夏休み

 紅林聡美は群馬県太田市にある私立藍芳学園高校に通う。住んでいるのは栃木県足利市で、父と祖母との3人生活。だが、聡美は高校2年生になったら、ある目的を果たそうとしていた。



 生成り色のカーテンが半分開いた窓から入ってくる風で翻り、外からは蝉の鳴き声、空は雲が一つもない青で太陽が輝いていた。

「起立、礼、さようなら」

 教室では委員長の友坂君の挨拶と同時に全員が行い、先生がHRでも言ったように生徒達に注意を述べてくる。

「明日から夏休みだが、宿題は必ずやり遂げる事。あと暑さで体調を崩したり、アイスやジュースなどの冷たい物の摂り過ぎにも気をつけるように」

 二年A組の担任である石崎吉宏(いしざきよしひろ)先生は三十代前半の教諭で、ラグビー部の顧問でもある。高校生の頃は花園まで行きかけたがラグビーの実力は平均であるため、今は生徒達に教えている立場である。

 私は夏休みの項目プリントと筆記用具、上履き入れを持ち、背中にベージュと茶色のデイパックを背負い、親友の純麗(すみれ)が声をかけてきた。

(さと)()、一緒に帰らない? 私、午後のクラブ活動ないし」

「うん、わかった」

 私と純麗は一緒に教室を出て、昇降口へ向かっていった。同級生も下級生も上級生も男子は白いシャツと灰色のマドラスチェックのスラックス、女子は白いシャツにマドラスチェックのジャンパースカートで学年ごとに男子のネクタイ、女子の胸リボンの色が異なる。一年生は赤、二年生は緑、三年生は青。私と純麗は二年生で緑色の胸リボンをシャツの襟から下げていた。

 昇降口に着くと、上履きを袋に入れて下駄箱から茶色のローファーを出して履く。

 外に出るとむわっとする暑さ、学校の校庭も道路も素肌を伝わらなくても熱気があり、学校を出て歩いたバス停から見える道路は車体もメーカーも異なる自動車が走り、反対側のバス停からは後ろが病院やリフォーム会社などの案内看板と住宅街。バス停には私と純麗の他にも高校から駅へ向かすバスを待っている高校生がたくさんいた。私と純麗が通う私立藍芳高等学校の生徒達だ。学校の自販機で買ったペットボトルの水やお茶を飲んでいる人もいれば、水筒を持ってきている人もいる。

 ようやくバスが来て乗り込むと、始発先であるショッピングモールから乗ってきたお客さんが先に乗っていて、席に座れなかった藍芳の生徒は立って過ごした。私と純麗も立って金属の手すりに掴まり、バスは通りに入って曲がり、ようやく太田駅に着いた。

 太田駅はホテルや会社などのビルが建ち、バスターミナルにコンビニ、北口にはカフェも兼ねている図書館もある。街中にも図書館はあるのだが太田駅から歩いて二十分もかかる。太田駅のバスターミナルの屋根からは暑さを和らげるためのミストが放出されている。

「そういえばさ、聡美って夏休みになったら行くんだっけ?」

「うん。行くよ。高校二年の時がようやく来たからね」

 駅のホームに入る時、私は純麗に言った。定期券のパスモを改札口に通し、私は館林行きの電車に、純麗は伊勢崎行きの電車のホームに向かって別れた。

「それじゃあね。何かあったら連絡してよ」

「うん。まったねー」

 太田駅のホームは十本の番線があり、私は三両の館林行きの電車に乗り、栃木県足利市にある自分の家へ帰っていった。


 電車の中は冷房が効いていて涼しく、他の学校の高校生やおじいさんおばあさん、小さな子を連れたお母さんが椅子に座っていたり、お喋りをしていた。窓の景色は道路やビル、街の向こうの景色は緑の山の稜線が見え、電車は十分後に東武足利市駅に到着した。

 東武足利市駅は待合室やエスカレーター、自販機にレンタルサイクルやお土産屋さん、デイリーヤマザキがあり、私は駅の近くの駐輪場へ行って預けていた自転車に乗って、家に帰る。足利市駅は市内循環バスとタクシー乗り場、春には観光客が訪れてあしかがフラワーパークの花を見物する事が多い。

 私は臙脂色の自転車に乗り、歩道を沿って駅を南下していった先の五階建てマンションに向かっていた。住宅街の中にある灰色のプレハブ造りのマンション、『タウンホームズ』の三〇五号室が私の家。

 階段を昇っていって『305 紅林(くればやし)』と書かれた表札の黒いモダン調のドアを開けて、私は中に入る。

「ただいまー」

 私の家は3LDKで父と私が洋間を使い、和室は祖母が使っている。

「お帰り、聡美」

 祖母が台所から出てきて、私を出迎える。祖母は母のいない私の面倒を見て、家事を引き受けている。祖母は白髪混じりの髪を茶色く染めて、涼しげなちぢれ綿の深緑のワンピースを着て、汚れに強い紺のサロンエプロンを掛けていた。

「おばあちゃん、汗だらけだからシャワー浴びるね」

 私は自分の部屋に行って普段着を出し、学校用のシャツと靴下は脱衣所の出入り口の洗濯機に入れてバスルームでシャワーを浴びて汗とにおいを流した。シャワーを浴びた後は普段着の水色のポロシャツと紺のショートパンツに着替えて、台所に行った。台所はコンロ三口とシンク、中型冷蔵庫と食器棚、オーブントースターや炊飯器、電子レンジもある。台所の隣はダイニングで長方形の食卓と椅子が五脚。二脚は客人用。

 昼ご飯は人参とピーマンとキャベツとタマネギの野菜炒めにブタの生姜焼きに豆腐とネギと油揚げの味噌汁。暑いけれどスタミナは取っておかないと私と祖母は食べた。

「聡美、今日から学校は夏休みだっけ?」

 祖母が聞いてきたので「うん」と答えた。

「といっても夏休みの宿題もあるし、友達の純麗はクラブ活動あるし」

 純麗はブラスバンド部でサキソフォンを担当している。私は今は帰宅部だ。いや、去年の十月まではクラブ活動に入っていたが、辞めた。一年生の真ん中までは科学部に入っていたのだが、十月二日の私の誕生日に合わせて退部した。別に先輩や顧問の先生と仲が悪くなった訳ではない。十六歳になってアルバイトが可能な年齢になったからだ。科学部を退部して秋の中間試験を終えると、太田駅近くの駅ビル内の服やバッグのリサイクルショップのアルバイトで高校二年生の夏休みの時に使う目的の旅費を稼いでいたのだ。祖母と父に「純麗といつか旅行に行く為の費用としてアルバイトをしたい」と言った時は父も祖母も仰天した。

 父は会社では経理部の課長で稼ぎは良い方で「ウチは貧乏じゃないんだからアルバイトする位なら大学に行く為の勉強をしろ」と言われた。でも私はどうしても自分で旅費を手に入れたかった。そして学年で上から十番までに保っておけばアルバイトしても良いという条件で、許してもらえたのだ。

 実質私は頭は良く、新しい数学公式も英文も漢文の訳もパズルでもするように解いてしまうという知能を持っていた。私の賢明さは勤勉で努力家の父からの遺伝からかと思っていたが、父と祖母によれば母からの遺伝だと教えられた。

 だが母は私が六歳の時に出ていってしまった。私の知らない内に。


 夜になって父が帰ってきた。埼玉県内の名門である埼玉国際大学を首席で卒業し、大企業の日本インターナショナルコミュニティに就職した父は二歳下の母と同じ会社で出会って恋愛結婚をした。母は父と出会った時点で弱冠二十四歳で情報グローバル課の部長になっていたという。

 父が二十八歳、母が二十六歳の時に私が生まれ、母は寿退社せず会社に留まり続けて、私が六ヶ月の時には既に通勤を再開させて、会社の実績を上げまくっていたという。

 そんな母は会社を辞めて千葉県にある実家に帰って、自分の両親、即ち私の母方祖父母の介護をする為に父と別れて私を父と祖母に委ねたそうだ。……小学校に入るまでは、そう聞かされていた。

 父は晩ご飯の後、私の高二の一学期の成績表を見つめていた。祖母は私の成績表見ても、「聡美は賢い子ね。おばあちゃんなんか下から数えて早い方だったから」と言ってきただけ。

「一年の三学期と比べてBが三つ多くなったが、先週の期末試験は七位だったからな。『予備校に行け』までとは言わないが、お前は頭がいいのが取り柄なんだからな」

 祖母は何も言わず台所で父の食べた後の食器を洗っていた。父は私と別れてからは、祖母に家事と私の世話を任せて、勉強は父が見てくれていた。

 中学三年生の高校受験の時には私は私立推薦も私立一般も公立一般も全部合格して、私立推薦で受かった藍芳学院高校を選んだ。そして今に至る。勉強が出来るからと言って私は幸福だったとは限らない。私は小学校高学年の時には居残り常習の女の子達からいじめを受けた事があった。

「頭がいいからって調子に乗りやがって」と言われて教科書を落書きされたり、テストの答案を破かれたり、雑巾を絞った汚水をかけられた事もあった。

 私の遍歴はいかに細かく、生まれは埼玉県の草加市で幼稚園と小学二年生まではそこで過ごし、父の転勤に伴って群馬県の前橋市に引っ越しして、小学校卒業まで前橋市内の小学校に通っていた。小学校を卒業した後はまた転勤して、栃木県足利市の中学校に入学して今の居住区であるマンションの一室を購入したのだった。

 父の転勤のおかげで私は前橋の小学校と同じ子達と同じ中学校にならないでホッとしていた。足利の中学校では私を知る人が一人もいなくて安心した。中学校の時には高校は私立に行こうと考え、私立では勉強中心だから私の出来の良さに嫉妬する人もいないだろうと思って藍芳(あいほう)学院高校に入学したのだった。念の為に他の私立高校や公立高校も受験しておいて。

 ただ私立高校を受験する時はアルバイト許可のある高校にしておいた。高校二年生の夏休みの目的の旅費の為に。そして一年四ヶ月後の今、時機が来たのだ。

「お前は頭が良いから塾の夏季講習に行く必要はないよな。夏休みの宿題の他にも一学期の復習や二学期の予習もな。

 お盆は交通がどこも混雑しているだろうし、家族旅行は難しいしな」

「い、いいよ。旅行なんて。学校の友達とどこか遊びに行けばいいし」

「そうか。だけど旅行は無理でも父さんがどこかへ連れていってやる事は出来るからな。

 明日から夏休みとはいえ、寝過ぎたり遊びまくったりするなよな」

「はーい」


 私は自分の部屋に戻ると、ある事の準備を始めた。私の部屋は六畳の洋間で出入り口近くの扉がクローゼット、向こう側がベランダの窓で今は網戸にして夜の風でピンクの水玉カーテンがひらひらと動いている。他にナチュラルウッドの机と本棚、ベッドは脚付きマットレスで枕とベッドカバーは青いストライプで花模様のタオルケットが掛かっている。他にもドレッサーやCDプレーヤー、漫画の本が入ったミニチェストが置かれている。本棚は参考書や図鑑や辞書、小説のハードカバーに文庫が置かれている。父はお受験パパではないが教育にうるさく、その為私は漫画やゲームソフトはチェストに入れておくしかなかった。

 私はクローゼットから密かに買っておいた小さな旅行キャリーバッグを出して中を開ける。赤い車輪と取っ手付きのキャリーバッグは最初のアルバイトのお金で買った物だ。私はこれに一週間分の上下の下着と五足の靴下、Tシャツ四枚、ハーフパンツとスカートを二枚ずつ、シャツを二枚、ワンピースを二着、布製のハットを入れておいた。他にも旅行用の歯ブラシと歯磨き粉、シャンプーとコンディショナーのミニボトル、ハンドタオルを三枚、バスタオルを二枚、折りたたみの傘、ハンカチとティッシュを五組ずつ、生理用ナプキンを昼用と夜用を一袋ずつ入れた。

 それから白と黒のストライプのヒッコリー素材のリュックサックをクローゼットから取り出し、これにはシャーペンや消しゴムなどの筆記用具が入ったペンケース、学校から渡された学校の宿題である夏休み用問題集と読書感想文の課題図書である山中恒の文庫本、原稿用紙は立ち寄った町の店で買えばいい。それから財布と預金通帳。私には通帳が二つあり、郵便貯金は父が用意してくれたが、足利銀行の通帳は私が稼いだアルバイト代が入っている。

 十一月にアルバイトを始めてから月曜日と水曜日の三時間に土曜の午後一時からの五時間を費やして八ヶ月貯めた旅費は二七万円にもなっていた。これなら夏休みの間の旅費になる。

 そして机の引き出しから一枚のピンクの便箋を出すと、父と祖母宛の書き置きを書いた。


『お父さん、おばあちゃん。聡美は夏休みの間はお母さんを探しに行きます。

 今までだましてごめんなさい。でも私はどうしてもお母さんが今どこで何をしているのかが知りたいです。警察や学校や友達や近所の人には言わないで下さい。お金がなくなったら帰ります.夏休みの宿題も持って行きます。


聡美』


 私は書き置きを書くと机の上に置き、更に携帯電話も置いておく事にした。私の携帯電話にはGPS機能が入っている為、父の端末でわかってしまうのだ。私は友達の純麗の携帯番号と家の電話の番号を手帳に書いておいて、時々報告する事にしておいた。

 それから引き出しの奥から一枚の葉書を引っ張り出す。消印のない二〇一三年の年賀状で表には私達が以前住んでいた草加市の住所、裏には二〇一三年の干支である蛇の絵と新年の挨拶がプリントされていて、その下には住所と名前――千葉県の四街道市と書かれていた。差出人は小仲(こなか)延夫(のぶお)(よし)()。私の母方祖父母でまだ私や父と暮らしていた頃の母に宛てられた年賀状であった。これが母の手がかりである。

 準備が整うと、私は布団に入って消灯した。


 カーテンで遮られている窓に朝の光がうっすらと照らし、ピピピと目覚ましが鳴った。私は起きて時計の指針が朝の五時半を示している事を確認すると、早速パジャマから一着の半袖デニムワンピースと靴下、麦わら帽子をクローゼットから取り出して着替えた。今日から夏休みで母を探しに行く日だった。

 パジャマはキャリーバッグの中に入れて、私は隣の部屋で寝ている父と和室で寝ている祖母に気づかれないようにリュックとキャリーバッグを持ち、いつも履いている布製のサックスのスニーカーを履いてそっと玄関のドアを閉めた。

 エレベーターは夜の十一時半から朝の七時までは動いておらず、私はキャリーバッグを抱えて背にリュックを背負ってマンションを出た。空は白く空気もそんなに暑くなく、雀の鳴き声が聞こえた。町は静かで道路の自動車も少なく、歩いている人も少ない。

 私は歩いて東武足利市駅へ向かい、赤茶色のレンガが敷き詰められた歩道を歩いていった。家のマンションと駅は歩いて二十分の距離で、いつもなら自転車に乗っていくが、今回は何日も足利に帰らない為使わなかった。自転車の預かりは一日半で持ち主が一日半経っても帰ってこない場合は撤去させられるからだった。

 私は地道に駅まで向かい、六時五分前に東武足利市駅に着いた。駅も当然、駅員以外は私しかなく、駅前のセブンイレブンや駅構内のデイリーヤマザキもまだ閉店していてなかった。私は朝食を家出食べておけばよかったと後悔したが、六時十七分の上り線まで時間はあったので五分だけ待って、六時ちょうどにデイリーヤマザキが開いた。私は財布から五千円を出しておにぎり二つとヨーグルトを一つ、紙パックの麦茶を一つ買って朝食を済ませると、押上までの切符を買って改札口に入った。

 六時十七分に館林行きの三両電車に乗り、空いている電車の席に座った。早朝の電車は通勤ラッシュの七時から九時とは違い、乗っている人も少なかった。窓の向こうは見慣れた足利の町、渡良瀬川、三つの橋の光景から緑の田畑と山の稜線と住宅街となり、乗客も多くなっていく。館林で乗り換えた私は久喜行きの電車に乗り、そこから乗客の数が増え、窓の景色はだんだん都市になっていく。

 中央林間行きの電車で私はようやく座る事が出来て、朝早く起きた為か私はざわつく電車の中でウトウトして寝入ってしまった。

『次は押上。京成線の乗り換えの方は押上……』

 アナウンスが「押上」と言ってきた所で私は目が覚めて辺りを見回す。電光掲示板の文字は「Next to Oshiage」と表示されており、私は寝過ごさないで済んだ事に安心した。左手首にはめた腕時計を見てみると、七時四十分を過ぎてた。周りを見てネクタイ付きシャツにスラックス姿のサラリーマンや半袖のブラウスにスカートなどのOLの人が多かった。

 私は人混みに押されながらも押上駅のホームに降り、改札口を出て京成線の電車に乗り換えた。京成線の船橋駅でJR線に乗り換えて、四街道駅へ向かう。

 京成線のホームに向かうと、同じ日本だけど街並みは違うと思いながらも京成電鉄の佐倉行きに乗った。母の実家がある四街道市はJR線だけで、父の端末で調べた電車情報では船橋でJRに乗り換える方がベストだという事がわかった。

 京成線も朝の為他の通勤者と一緒に立っていたが、流石に朝の九時半を過ぎると、乗客の数が減っていく京成船橋でJRに乗り換えた為に駅ビル内にある駅を出ると、船橋の街は以前住んでいた前橋の街や友達と時々遊びに行く宇都宮や小山の街のような近代さがあった。『東武』のビルに高層マンション、コンビニにパチンコ店、多くの人々の姿が目に入る。

 JR船橋は京成線の船橋の目と鼻の先で私は階段を降りてJR駅のホームに入る。ホームの中はJR改札口の他に東武野田線の改札口、東武の百貨店の出入り口もあり、駅構内では在庫のバッグや服を販売している人も見かけた。

 電光掲示板を見ると、成田エアポート行きなら母の実家のある四街道駅にも停車する為、私はその電車の時間までに一休みする事にした。駅内のキオスクで炭酸ビタミンドリンクを買って、通行人の邪魔にならないように柱に寄りかかって飲んだ。

 旅行に行く時に着替えや生理用ナプキンや夏休みの宿題とお金は持っていったが、食糧は持って行かなかった。夏だから腐りやすいのもあるが、調理する場所も見つからないので、食事はコンビニや弁当屋で買うかファミリーレストランで食べる事にしておいたのだった。寝床は町中のホテルの一泊なら安く済むし、今夜は母方祖父母にお願いして母の実家に止めて貰おうと思っていた。

 成田空港行きの電車の時間が近づくと、私は改札口に入り電車に乗った。成田空港行きは旅行に行く家族や船橋以外の都市に遊びに行く若い女の人の姿の他、外国人もいっぱいいた。口調や外見からして中国人やアメリカ黒人、スカーフをかぶったイスラム教の女性も見かけた。

 成田空港行きの電車は立つ事が多かったが千葉に着くと何とか座れる事が出来て、十時八分に電車は四街道市に到着した。 四街道駅はホームが上下あり、エスカレーターもエレベーターもあった。改札口を出た駅構内にはガラスのディスプレイ。芸術人の金の布地に蝶の紋様の着物が飾られ、その隣には四台のテレビが設置されていた。アニメ、ワイドショー、情報番組、ドキュメンタリーの映像が映っていた。

 私は四街道に着いたが、母の実家の美しが丘までの行き方は知らなかったので、駅員さんに交番の場所を教えて貰い、交番は北口を降りてすぐの場所にあった。駅交番のお巡りさんは地図を広げて美しが丘までの行き方を教えてくれた。

「南口に巡回美しが丘行きってのがあるから、それに乗ってね」

「ありがとうございます」

 私は交番を出て、南口にある美しが丘行きのバスが来るのを待った。空はすっかり青く雲が浮かび、太陽が眩しく照っていたが、バス停の屋根の下の日陰でしのいだ。母の実家が書いてある年賀状は私達が草加市から前橋市に引っ越す時に父が運んでいた荷物から落ちて私が拾った。

 母は私が六歳になる前の秋分の日に出ていった。この時幼稚園は休みで、いつも台所で食事を作っているのが母ではなく祖母だと目にすると、母はどうしたのか父に尋ねた。

「お母さん、急な用が出来ちゃって朝早く出かけたんだよ。夜には帰ってくる」

 父はそう言ったが私は週目の夜九時に寝て、翌日の朝に父と母の寝室に母がいない事を確かめた後、次の日も台所に祖母と父しかいないのを目にして、「お母さん、どこ?」と父に尋ねた。

「お母さんは明け方、お母さんのおじいちゃんとおばあちゃんが病気になっちゃったから、そっちに行っちゃったんだよ」

 父はそう言って私をなだめ、その日は桐生市にある動物園と遊園地に連れて行ってくれた。それからして母は一週間、十日、私の誕生日である十月二日になっても帰ってくる事はなかった。父によると、「お母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんの病気はいつ治るかわからない。だからお母さんもいつ帰ってくるかわからない」

と言って私に言い聞かせていた。母が出ていってからの家事と私の幼稚園の送迎、保護者会と学芸会の見学は祖母がやってくれていたが、私は母の実家に電話をかけたり手紙を送ろうとしたが、父と祖母は「お母さんの迷惑になるからやらないで」と止められていた。

 私は幼稚園を卒園し、草加市の小学校に入学しても母が帰ってくる事はなかった。

 母が帰ってこないと知ったのが小学校の図工の授業で『母の日にあげるお母さんの似顔絵』を描くという課題で私は祖母の絵を描いた。隣にいた男子が「なんでお前の母ちゃん、老けてんの?」と言われて心に刺さった。家に帰って父と祖母に授業の事を話すと、父と祖母は深刻な顔をして私に言った。

「聡美、お父さんとおばあちゃんは『お母さんはお母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんが病気になったから、おじいちゃんおばあちゃんの世話をする為に千葉県にあるお母さんの実家に帰っていったと言ったが、あれはウソだ。本当はお母さんはお父さんと聡美を裏切って、他の男の人とどこかへ逃げてしまったんだ。だから聡美に電話させなかったし、手紙も出させなかったんだ』

 それを聞いて私はショックを受けた。お父さんと仲が良く、私の事を褒めていたお母さんが私とお父さんを置いて他の男の人の所へ行った? 六歳である私には信じがたい事実で私はめそめそ泣いた。

 祖母は母との関係は良くない方で、祖母は毎日母から口汚く罵られていたという。私の父方祖父は東京大学の卒業で大手金融会社に就職し、二十七歳で重役に出世したエリートで仕事は出来るが人付き合いは疎い方で気づけば三十になっており、お見合いで米農家の末娘で六歳下の祖母と結婚した。祖母は埼玉県内の農業学校の卒業で卒業後は就職せず実家の米農家の手伝いだけやってきた為、結婚後は専業主婦として生きてきた。祖父が三十二歳、祖母が二十六歳の時に父が生まれたが、父は性格が良くても頭の悪い祖母を恥ずかしく感じ、小学生の時に友達を家に呼んでその友達が巨体だったのを目にして、「あなた太ってるわね」と言ったので父の友達を怒らせてしまい、父が中学校の時にはガールフレンドを母に紹介したがその時のガールフレンドは激やせだった為祖母は「あなた痩せ過ぎね。少し太ったら?」とガールフレンドは傷ついて父を振ったという。父は善良だが頭が悪く思った事を口にする祖母を反面教師にして、勉強も仕事も出来る祖父を模範して、埼玉県の私立高校に上位五番で入学し、埼玉国際大学を卒業して、日本インターナショナルコミュニティに就職して、結婚するなら性格が多少悪くても祖母と違って大学卒業で家事も仕事が出来て頭の良い女性を妻にすると決めていた。

 父が二十五歳の時に祖父が急性脳出血でこの世を去った。父は就職先の会社で入社一年で部長になった母と出会って結婚し、祖母と同居する事になった。

「お前のお母さんは冷たい人だった」

 祖母の中の母の印象は「冷たい人」と語る。母は住んでいたマンションの契約を切ると父と祖母が住んでいた家に転がり込んできた。祖母の話によると母は祖母と祖父が使っていた部屋を自分の部屋にし、祖母には北向きの四畳間に追いやって昼でも薄暗くて冬は極端に寒い部屋で祖母は過ごしてきたという。

 家事に関しては祖母が料理や洗濯や掃除やアイロンがけをしたら母は厳しくチェックをして祖母にきつく言っていた。

「味付けが濃い。味音痴」「角まで磨いていない。手抜き」「色付きと白い衣類は一緒にしないで。そんな事もわからないの?」「アイロンしたシャツに折り目があった。かける前よりひどい」

 一方で母は味付けも濃くも薄くもなく、床磨きもほうきがけの後もほこりはなく、洗濯は衣類に分けて二、三回を洗濯し、アイロンがけは真っ直ぐだった。祖母は自分の息子である父に母のきつさを訴えたが、父は「母さんが大雑破過ぎるんだ」と母の肩を持っていた。母は祖母に対する扱いは家事だけに留まらず、母が自分の友達や親戚を家に呼び寄せる時は祖母に弁当を持たせて「夕方五時を過ぎるまで家に帰らないように」と祖母を追い出して、祖母は図書館やショッピングセンターで過ごし、近所の人にはわざと祖母の事を悪く言って祖母に同情しないように言い聞かせていて、祖母が軽いインフルエンザにかかった時なんかは自宅療養させず病院に入れていたという。

 祖母は日に日に母が来た事で不幸を感じ、また友人もなく親戚も近くにいない為にノイローゼになった時もあった。孫である私が生まれてからは母は祖母のやる家事にけちをつけていた。母は私が六ヶ月の時に会社に復帰し家事と私のお守りは祖母がやっていたが、祖母の救いは母が会社に行っている時だけで、赤ん坊の私と一緒にいる時は安心できた。

 母が出ていった後は家事や自治会や幼稚園・学校の催しは祖母が引き受け、私が学校から帰ってくると、家では祖母が待っていた。

「お帰り、聡美」

 祖母は私が小三の頃には祖母がいない時や動けない時に掃除や洗濯の干し方畳み方、アイロンがけや料理や掃除が出来るようにと教わった。父からは勉強、祖母からは家事を見て貰った私は勉強も料理も掃除も洗濯も出来る。

 バス停に他の乗客もやって来て、十一時過ぎにめいわ美しが丘巡回の白地にグリーンラインのバスが走ってきた。小銭を払い口に入れて、バスは走り出した。千葉県は初めて来る。建物の雰囲気も違えば、気温や地形も異なる。私が住んでいる栃木県は盆地だ。夏は暑くて冬は寒いし、雪や嵐も多い。

 バスからの景色は坂道を下って横に住宅や銀行、薬局やコンビニなどの店、歩道橋を越えた道には警察署やメガドンキもあった。レストランがあったのも見て、私は昼食をどうしようかと気づいた。バスが止まる度に乗客が乗り降りして入れ替わり、バスは美しが丘に入り、小学校、そして美しが丘二丁目に近づいてきた所で、私はブザーを押した。

 バスの真ん中のドアが横に開いて私はリュックとキャリーバッグを持って降りた。バス停の周囲は横断歩道と信号のある道路と歩道、灰色や茶色の住宅街が並び、向かい側の道路には歯医者が会った。

「住所は二丁目で間違いないよね」

 私は改めて葉書の住所を確認し、住所の番地へ歩いて行った。住宅街は意外と騒がしく、子供の声やテニスコートのパコーンパコーンとボールを打ち合う音が鳴り響き、犬の鳴き声やカラスの鳴き声も聞こえてきた。

「母の実家はバス停から思ってたより近く、住宅街の中にある墓地を横切っていった辺りだった。ジージーと蝉の鳴き声と暑さの中、私は一歩一歩進む度に母方祖父母に会える事を楽しみにしていた。まずきちんと挨拶して「孫の聡美です」と自己紹介をしてから母の事を聞こう。そう思っていた。

「あれ……?」

 私は立ち止まった。葉書に記された筈の番地には家はなく、八台分の自動車が泊まれる駐車場だったのだ。駐車場の奥と右隣は住宅で、手前と左側は一車線。

「ま、間違えた? それとも……」

 すると近くの家から父よりも年上の男の人が出てきたので、私はその人に尋ねてみた。

「あの、すみません。ここっていつから駐車場なんですか?」

 すると男の人は不思議そうに私に向かって返事をした。

「いつから、って……。二〇一六年の夏に古くなった空き家を二軒潰して駐車場にしたんだ。一軒は終活を終えたお爺さんの家で空っぽで古くなっていたからともかく、一軒は夜逃げした家族の物で冷蔵庫とかの電化製品やタンスなどの家具は業者が運んでいって、それ以外はゴミ処理になって家は壊されたからね。まぁ、あの家はというか、住んでいた家族がアレだったからな」

 それを聞いて私は頭の中が真っ暗になった。住んでいた家族がアレで夜逃げ? 母方祖父母は多額の借金があって返しきれずに夜逃げしたという事なのか?

「ところで君、その荷物は何? まさか家出とか……」

 男の人は私の身なりを見て呟いた。

「ち、違います! 親戚の家に行く途中でして、失礼します!!」

 私はキャリーバッグを持って、逃げるようにそこを去った。そしてバス停に戻り、次のバスが来るまで立ち尽くしていた。


 バスが来るまでの間、私は母の実家が私の知らない間になくなっていて、母の両親である祖父母も夜逃げしたかで考えていた。夏で体が熱く汗も出ているのに、頭の中は暗くて心の中は真冬のように震えているのがわかった。まるで自分が罪を犯したかのように……。しかしこの気持ちと思考が重なり合って私は散らばっていた疑問を拾い集めて、ある事に気づいた。

(出ていったお母さん、電話も手紙も出せなかった理由、母の実家がなくなる、母方祖父母の夜逃げ……。もしかして事件の当事者……!?)

 私は思った。母が出ていったのは祖父母もしくは母の兄弟が事件に巻き込まれた為に近所の住民やマスコミ記者につきまとわれた事に耐えかねて夜逃げして、母も幼い私や父に迷惑をかけたくがない為に家を出ていったのかもしれない。

 そうなると事件の資料を見つけて調べようと決めた。図書館に行けばあるかもしれないし、四街道の図書館は駅の北側にあったのを思い出して私はそこへ向かう事にし、巡回のバスが来ると私は意気揚々と乗り込んだ。

 バスが駅に到着すると、私はまた駅前の駐在さんに図書館の行き方を教えて貰い、図書館に行く前に駅前にあるどんぶり屋で食事を採る事にした。まだ十二時にもなっていなかったが、朝は早かったし、電車を乗り換えしまくったから空腹だった。どんぶり屋の中に入り、食券で買うシステムで、カウンター机に座る客はサラリーマンっぽい人やおばあさん、部活帰りの高校生が結構いた。

 私は大盛りの親子丼を頼むと、急ぐように食べた。早食いしてはいけないとはいうけれど、私は一刻も図書館に行きたい一心だった。

 昼食を終え、コンビニやバーガー店、中華飯店などが並ぶ駅前の道を駆け出して、市役所周り志津行きのバスに乗った。駐在さんの話によると、市役所前のバス停を降りて真っ直ぐに行けば図書館があるという。

 バスのアナウンスが市役所前を伝えると、私はブザーを押して、乗車賃を払うとバスを降りて四街道図書館に向かった。

 赤茶色の建物の市役所、交差点の中に建つパン屋や和食屋などの店を越えて、私は文化ホールの隣にある図書館に着いた。

 文化ホールはこの日は地元音楽隊のクラシックコンサートがあるそうで、文化ホールのエントランス内にはコンサートを見に来た人達の姿があったが、思ってたより少なかった。三十人位だろう。

 私は文化ホールと図書館をつなぐ広場を通り抜けて、図書館の中に入った。熱気のこもった外と比べて、図書館の中は冷房が効いていた。出入り口近くに右はトイレ、左は上下階に行く為の階段、受付カウンターにジャンル別に分けられた本棚、そして老若男女の利用者。私は中に入り、ノンフィクションの棚を探し、事件に関する本を一冊ずつ当たっていった。事件ルポルタージュの本は実際に起きた事件を発生地や犯罪名から犯人の生い立ちや生活状況などが記録されている。

 神奈川県厚木市、大阪淀川、栃木県小山……。千葉県に当たらない本は一冊ごとに戻してまた見るという繰り返し。十冊目に手に取った本で私はまた中を開いた。

 本は表紙が暗闇にオレンジ色の炎の写真で、タイトルは『歪んだ恋心』で、筆者は事件ルポタイターの鬼山(きやま)則和(のりかず)。私はその本の表紙と中表紙をめくり、目次に目を向ける。

 この本は二〇一五年九月二十一日の深夜に起きた千葉県若松区ストーカー放火事件についての記録が書かれていた。

 私はその本を手にすると壁や棚の近くに置かれているマット椅子に座って読んだ。

 二〇一五年九月二十一日の深夜、千葉県千葉市若松区の住宅街の一角で火事が発生した。近隣の住民が異変を感じて消防に通報し、消火活動が行われ家は半壊し家族は存命で死者は出なかった。

 火災に遭った家の長女である黒沢(くろさわ)(あずさ)さん(当時二十二歳)は家族と警察に家宅に火をつけた人物の名を告げた。

 千葉警察は九月二十二日に黒沢さんと同じ職場の会社員・小仲(こなか)公夫(きみお)(当時二十七歳)を住宅火災法違反の疑いで逮捕した。

 この〈小仲〉の姓名を見て私は衝撃を受けた。ストーカー放火事件の犯人の名字が母方祖父母と同じだったからだ。という事は小仲公夫は母の弟で犯罪加害者家族になってしまった祖父母を守る為に父と私と別れて出て行ってしまったのではないかと察した。

 続きを読もうとしたが、読むのが怖くなってしまい、頭がクラクラしてきて吐き気を催した。私は本を棚に戻してトイレに向かい、便器の中に吐き出し、吐いても動悸がしてしばらく起き上がれなかった。吐き気によるものなのか心のショックのものか涙が出ていた。

「はぁ……はぁ……」

 五分程経って落ち着くと私は涙をぬぐい、吐いた物を流してトイレを出てキャリーバッグを持ち、ふらふらと図書館を出た。

 信じたくなかった事実。私の叔父は犯罪者だった。母は私と父に迷惑をかけたくないが為に家を出て、その後母方祖父母を連れて千葉県四街道市を出ていった。

 だからといって、父と祖母のいる栃木県足利市には帰らない。母を探して見つけて、今どこで何をしているかを知ってから帰ろうと決めた。

 私はとぼとぼと四街道駅に向かって歩き、多くの自動車が走り様々な人が歩いていたり自転車を走らせる中進んでいった。途中でイトーヨーカドーがあったのでそこで途中休憩し自販機でミネラルウォーターを買ってから四街道駅にまた戻った。


 四街道駅に着いたのは昼の二時半近くだった。私は最初の一日で疲れてしまい、千葉駅に向かう事にした。電車に乗っていて千葉駅の街を見た時、ホテルのビルやデパートのビルを目にしたから千葉駅周辺のホテルで一晩を過ごす事に決めた。

 千葉行きの白と黄色と青の各駅停車に乗り、私は千葉駅に着いた。駅構内には惣菜やパン、ケーキなどの食品を売る店がいくつもあり、多くの人々が改札口を入ったり出たりする中、私は駅を出てエスカレーターを下って千葉駅のバスターミナル場に着く。バスターミナルも広く、目的地によって異なるバスの車体、並ぶ人々が目に入る。バスターミナルの向こうはビル街で私はどこにホテルがあるのか駅前交番のお巡りさんに声をかけた。

「ホテルねぇ……。取りあえず千葉駅から歩いて五分のカプセルホテルは他の人と隣り合わせで寝なくちゃいけないけど、それでもってなら……」

 若いお巡りさんがホテルの住所とその内容を教えてくれた。するとお巡りさんは私の服装を見て顔をきつくする。

「キャリーバッグ持っているようだけど、まさか……君、家出じゃないよね?」

 四街道の町でおじさんと同じ事を聞かれた。

「い、家出じゃありません! あの……学校の夏休みを利用して、自由研究の材料探しに千葉に来ていて……。千葉には親戚も知り合いもいませんが」

 頑なに否定して半分本当半分嘘を言った。

「そう……。まぁ最近中高生の家出捜しの届が出てないしな。じゃあ、行っておいで」

「し、失礼します」

 私は急いでお巡りさんに頭を下げて交番を出て、お巡りさんが教えてくれたカプセルホテルのある場所に向かっていった。

 カプセルホテルは一晩千円と安く、別料金で夕食と翌日の朝食も出る。私は夕食と翌日朝食もお願いして、個室が本当に一人分のカプセルホテルに入っていった。お客さんは会社での仕事が終わらないサラリーマンやバイクツーリングで旅をしている人、大学生ぐらいのグループで宿泊している人もいた。

 夕食はご飯とサラダとコロッケを注文し、セルフサービスの水を飲み、親切な事に浴場もあり、私は今日の汗と疲れを流して浴槽につかり、その後は個室で今日やる分の宿題を済ませた。夏休みの宿題は書き込み式のドリルで、そんなに重たくはなかった。

 宿題を終えると室内の電灯を消して眠りに入った。明日の事を考えながら。


 

『日の下の娘、日陰の母』は43回すばる文学賞に応募しましたが、落選したので掲載することになりました。全4話の予定です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ