最後の枷
サクヤのタンプルフォンにセシリアから呼び出しのメールが届いたのは、襲撃の事後処理や負傷者の回収作業が一段落した頃の事だった。
タンプル搭陥落以来、188000人が死亡する未曽有の大災厄。それはクレイデリア人たちの心に大きな絶望を刻んだだけではなく、テンプル騎士団にも深刻な懸念を抱かせるに十分なものだった。
主力部隊の大半が出払っている状態を突かれたとはいえ、あんなにもあっさりと首都への攻撃を許してしまったのである。もしかしたらあれだけ軍拡を推し進めてきてもまだ足りないのではないか、という懸念が組織内でも徐々に湧き上がり始めているのを、サクヤは実感していた。
団員の士気の低下を少しでも抑えなければならない―――そのためにシュタージにプロパガンダ活動の開始を依頼したところに、妹であるセシリアから短いメールが届いたのである。
『タンプル搭最下層部、秘匿区画で待つ』という、短いメールが。
直接会って話すのは駄目なのか。電話でもいいのではないか―――妹がわざわざ、秘匿区画という人目につかない場所を選んで指定してきた理由も分からぬまま、サクヤは戦術区画からエレベーターに乗り込んだ。エレベーター内のパネルをタッチし、最下層の秘匿区画を選択する。
秘匿区画へ降りる事が出来るエレベーターは、非戦闘員の立ち入りが禁止されている戦術区画から伸びるエレベーターのみ。そのため、必然的に非戦闘員は立ち入りを禁止されている……というよりも、”秘匿区画”の名の通り存在そのものが秘匿されている事から、この区画の存在を知る者はそれほど多くは無いだろう。
かつて、テンプル騎士団の暴走を危惧し、それを監視する役目を担っていた”元老院”のあった場所。タクヤ・ハヤカワが遺したオーバーテクノロジーの保管場所でもあったが、今では全ての回収と解析作業が完了し、実質的に封鎖されている場所でもある。
エレベーターが止まり、扉が開いた。
露になるのは、旧式のUボート内部を思わせる壁面だ。いたるところからバルブやら配管やらが突き出ていて、気を付けて歩かねば転倒したり、身体をぶつけてしまいそうなほどである。
他の区画とは明らかに異質な通路を進んで行くと、放置された非常用発電機とテント、放置された椅子やテーブルが目についた。秘匿区画内部を調査していた部隊がそのまま残していったものなのだろう。
いつになったら片付けるのやら。几帳面なサクヤはそんな事を思いながら、先へと進んだ。
この先に元老院の指令室がある。セシリアが居るとすれば、おそらくそこだろう。
「……」
何故だろう。先ほどから胸騒ぎがするのは。
行ってはいけない、引き返せ―――段々と大きくなる自分の心臓の鼓動が、そう訴えているようにも思える。空気が冷たく、重く感じてしまうのも気のせいではないのだろう。
しかし、妹が呼んでいるから―――約束を反故には出来ない、という使命感の方が上だった。
元老院の指令室の扉は、すっかり腐食していた。電源も生きていないようだったが、誰かがここを力尽くでこじ開けて侵入した形跡がある。扉はひしゃげ、半分ほど開いていた。
身体を横にして何とか中に入る。
元老院の指令室は、中央指令室とほぼ同じ作りだった。元老院、という組織そのものの規模が小さいからなのか、中央指令室と比較するとその面積は控えめだ。オペレーターの座席の数もそんなに多くはないが、原形になった設備の面影は見て取れる。
指令室の正面―――まるで映画館のスクリーンを思わせるメインモニターを見上げる人影を見つけて、サクヤは足を止めた。
ノイズ交じりに、テンプル騎士団のエンブレム―――今のエンブレムではなく創設当時のものだ―――が投影されているメインモニター。その正面に立ってこちらに背を向けているのは、いつもの制服姿のセシリアだった。
ちょっとばかり違和感を覚えたのは、頭に生えている彼女の角のせいだろう。
本来キメラが持つ2本の角はどこへ行ったのか、頭からは山羊のように……いや、悪魔のように捻れた禍々しい角が、頭の左半分を中心に不規則に伸びている。彼女の内に眠るどす黒い面が、その殻を破って芽吹こうとしているようにも思えて、サクヤは息を呑んだ。
報告ではフィオナ―――いや、女神モリガンとの戦闘中にあのような角になったと聞いている。が、実際に目にしたのはこれが初めてだった。セシリア帰還後、サクヤも救助活動の指揮や事後処理で大忙しで、妹と実際に会って話す機会すらなかったのだ。
「用件は何かしら」
腕を組みながら、セシリアに問うサクヤ。こんな廃墟同然の場所にまで呼び出しておいて、実は何の用件もありませんでしたと言うわけではあるまい。何か、重要な話があるからこそ人目につかないここを選んだはずだ。
誰にも知られる事のない、完全に2人きりになれる場所といったらここしかない。さすがにここには、シュタージや海神の監視は及ばない。
腕を組みながら返事を待つと、ぼんやりとモニターを見上げていたセシリアは何かを決心したかのように、ゆっくりとサクヤの方を振り向いた。
「……救助活動の指揮、ご苦労だった」
「何よ、労うために呼び出したわけじゃないでしょう?」
「ああ、そうだ」
セシリアの中に、迷いが見えた。
決心こそしたものの、堅牢に見えるそれを突き破って溢れ出る困惑と躊躇い。いったい彼女は何を話そうとしているのか―――妹の意図を読み取ろうとしているうちに、セシリアは口を開いた。
「……今回の襲撃、敵は国内に転移してきたと聞いている」
「ええ。アルカディウス郊外にね」
「転移阻害結界は機能していなかった……誰かがコードを書き換え、奴らを招き入れた。シュタージはそう結論付けた」
呼吸が、一瞬止まる。
転移阻害結界は国防の要だ。これが無ければ、敵は好きなように防衛ラインを飛び越えて国内へ転移してくる。ありったけの防備も、最新の迎撃用ミサイルも、空軍や海軍、陸軍の堅牢な防衛ラインも意味を為さなくなる。
兵站という概念を無視した、敵国本土への直接攻撃。それがどれだけ大きなアドバンテージを敵に齎すかは言うまでもあるまい。
それを防ぐための転移阻害結界なのだ。そのコードは不定期的に書き換えられ、それを行う事が出来るのは組織の指導者クラス―――すなわち、テンプル騎士団最高司令官たる団長か、団長不在の際に代理を務める副団長、この2名のみがコード書き換えの権限を持つ。
つまりは、今回の襲撃であの無人兵器を手引きした容疑者はセシリアかサクヤ、姉妹のどちらかという事になるのだ。
そんな裏切りなど有り得ない―――戦闘人形の脅威さえなければ、そう断じる事も出来たであろう。人間の皮をかぶり、擬態し、情報をL.A.U.R.A.へと流す情報収集型。組織内にそれがまだ潜り込んでいる懸念がある以上は、そう決めつける事など出来る筈がなかった。
もしかしたら、いつの間にか自分が機械の傀儡になっているかもしれないからだ。
擬態型戦闘人形は、特定の人物を殺害し、その人物の外見や声、微かな癖までコピーしてその人物に成り代わる。しかも成り代わられた人物に、自分が戦闘人形だという自覚はない。
自らの肉体をナイフで切り裂き、人間のものとは明らかに異質な人工血液が出てくるのを見ない限りは、自分の潔白を証明できないのだ。
腰の鞘から脇差を引き抜き、その刃をそっと自らの左腕に這わせるセシリア。真っ白な肌に紅い線が刻まれ、傷口からは赤ワインを思わせる色合いの血―――そう、正常な人間としての血が滴り落ちる。
「……証明してくれ、姉さん」
脇差を鞘に納め、サクヤに向かって放り投げるセシリア。それを受け取ったサクヤは鞘から脇差を引き抜き、息を呑んでから刃を腕に這わせた。
母親譲りの真っ白な肌。それに鋭く、綺麗な生々しい傷が刻まれ―――紅い傷口から、半透明の液体が溢れ出る。
「―――」
それは人間の身を流れる紅い血とは、明らかに質感が違った。
半透明の、作り物のようにも見える液体―――戦闘人形の人工血液。
ぽろり、とサクヤの手から脇差が零れ落ちた。カラン、と床に落ちる刃物の音が、2人以外には誰もいない元老院の指令室の中に反響する。
嘘だ―――とは、思わなかった。
今考えてみれば、セシリアとは違いサクヤは長い間戦線を離脱していた。最愛の娘―――シズルを失った心の傷を癒すため、長い間医務室のベッドの上で過ごしていた。
そうだ、入れ替わる隙などいくらでもあったのだ―――そう悟るサクヤへ、セシリアはホルスターに収まっていたPL-15の銃口を向けた。
血を分けた姉妹、同じ釜の飯を喰らい、同じ屋根の下で過ごしてきた家族が銃口を向けてくる光景など考えたくもなかったが、自分の存在が家族に、同志に害を成すというのならば致し方あるまい。
サクヤの中には早くもこの残酷な運命を受け入れる覚悟が出来上がりつつあった。
死が怖い、と言ったら嘘になる。確かに死ぬのは怖い。こうして、セシリアと会う事が出来なくなるのが辛くてたまらないし、やり残したこともたくさんある。
だが、あの世にはシズルも力也も、そして本物のサクヤもいる。胸を張って彼らの所に逝こうじゃないか。いったい何を恐れる事があるのか。何を恥じる事があるのか。
覚悟を決めたサクヤだったが、それに反して銃口を向けている相手―――セシリアの方は、まだ覚悟が出来ていないようだった。
銃口を向けている、それは良い。構え方も完璧で、銃口はぴったりとサクヤの眉間へ向けられている。後は引き金を引くだけ―――だというのに、一向に引き金を引く気配がない。
よく見ると、銃口がブレているのが分かった。拳銃を握るセシリアの右手が震えているのだ。
「……撃たないの?」
「……」
前髪で隠れていたセシリアの右目。
凛とした、己の敵を見据える総大将としての目ではなかった。
自らが偽りの存在だとしても、頭の中にはサクヤの記憶がある。だから彼女には分かるのだ。あのセシリアの目つき―――自分ではどうしようもない困難にぶち当たり、聡明な姉に助けを求める時の目。幼少の頃、それこそサクヤがセシリアと死別するまでの間に何度か見たあの弱々しい目だった。
情けないとは思わなかった。無理もない話であろう。
死別したと思っていた姉が、ホムンクルスとして戻ってきてくれた。姿も、声も、仕草も記憶も全て生前の姉のもの。例えそれが精巧に再現された造り物であり、何者でもないとしても、それはセシリアにとっては家族であった。
『自分が誰でもないというのであれば、誰にだってなれる』。
今は亡き夫が遺した言葉は、自分という存在を否定されたサクヤにとっても、そして姉の存在を否定されたサクヤにとっても大きな支えだった。
その支えが、枷になっていたというのは何たる皮肉か。
あそこで偽物だと断じていれば、ここまで苦しむ事にはならなかっただろう。所詮は偽物、本物は死んだのだと切り捨てる事が出来ればどれだけ楽だったことだろう。
「……無理だ」
弱々しい妹の声。
もう涙など枯れるほど流したはずではあったが、セシリアの右目には涙が浮かんでいた。
「撃てない……私には撃てない」
「撃ちなさい、セシリア」
「無理だ」
「撃ちなさい、私は敵。貴女たちの敵なのよ」
「無理だ、撃てない」
ついには銃口を下ろし、セシリアは肩を震わせ始めた。
「無理だ……無理なんだ、姉さん」
何か手段はないのか―――姉を殺さずに済む、別の手段は。
セシリアの頭の中には、そんな考えばかりがあった。何か、L.A.U.R.A.へのデータ送信とデータ受信を止める処置を施せば殺さずに済むのではないか。そうすれば姉と共に生きる事も出来るのではないか。
いつの間にか、隣に力也がいた。顔の半分が削げ落ち、身体中に血が付着して、腹が裂けた無残な姿の夫の姿。
「力也、助けてくれ」
『……』
「撃てない……どうすればいいか分からないんだ」
しかし力也は―――いつもセシリアの味方だった夫は、首を横に振った。
『俺には無理だ』
「なぜ」
『……本当は分かってるんだろう?』
「言うな」
『速河力也はもう死んだ。ここに居る俺はヤツじゃあない。セシリア、お前の……夫の死を認められない、お前の弱さが生んだ妄想だ』
自分の弱さの生んだ妄想―――だから、都合のいい事しか口にしない。
否定はせず、肯定しかしない。故にそれはいつも、セシリアの味方だった。
本物の力也だったら、もう少し反対してくれただろうか。怒ってくれただろうか。
血まみれの夫の姿は消え、再び現実の光景が戻ってくる。
サクヤはセシリアの手を取ると、その手にした拳銃を自分の喉元へ突きつけさせた。
「姉さん、やめてくれ」
「撃ちなさい」
「他に手がある筈だ」
「撃って」
「嫌だ」
「私を殺さなければ、何が起こるか分からない。同志たちを守るために殺しなさい」
サクヤ1人の命と、無数の同志たちの命。天秤で量るのであれば、それは確かに同志たちの方へ傾くであろう。
しかしセシリアにとって、サクヤはかけがえのない家族。だからなのであろう、セシリアの中の天秤は、どちらも吊り合ったままだった。
「3回も……3回も死ななくていいんだ、姉さん!!」
「……セシリア、昔から変わってないのね……貴女は本当は無邪気で、とっても優しい子」
勇者の一件が無ければ―――復讐を誓うような悲劇が無ければ、また違っていただろう。今のような過ちを犯さずに済んでいただろう。
そんな、今のようになる前の妹の片鱗が垣間見え、サクヤは心の底から安堵した。復讐、二度にわたる世界大戦、そして冷戦。度重なる戦争の中で段々と変わっていくセシリアの中にも、まだそうなる前の欠片が残っていた。家族思いで、純粋だった頃のセシリア。どす黒く染まる前の心の一部が。
これならば大丈夫だ―――まだ、戻れる。まだ引き返せる。
「お願い、撃って」
「ダメだそんなの」
「私の正体が露見した以上、L.A.U.R.A.はもう容赦をしないわ。私に他の命令を下す筈よ」
「……ッ」
「こうして貴女の姉で居られるのもそう長くないかもしれない……分かるのよ、段々と頭の中に何かが流れ込んでくるのが」
サクヤの目を見て、セシリアはぎょっとした。
翡翠色の美しい瞳が、段々と血に染まったかのように紅くなりつつある。間違いない、メモリークォーツの光だ。活性化したメモリークォーツが放つ、殺戮の光だ。
このままでは、サクヤはサクヤで居られなくなる―――姉ではなく、ただの戦闘機械に成り下がる。
それでいいのか?
それがサクヤの最期に相応しいものか?
「お願い、殺して。私が”私”であるうちに、家族の手で葬って」
「……」
心から、ノイズが消えた。
せめて、姉が姉であるうちに。
心を知らぬ機械ではなく、ヒトであるうちに。
決意が完全に固まったのを悟ったのか、焦りの滲んでいたサクヤの顔が穏やかなものに変わった。
「……姉さん」
「なあに?」
「―――私の姉さんで……家族でいてくれて、本当にありがとう」
偽物であっても、家族と呼んでくれた。
造り物の目からはもう、涙は流れなかった。けれどもその一言で、ただ1人で死んでいこうとしていたサクヤの心から重々しい枷が外れたような、そんな気がした。
救われた、と言うべきか。
最後の最後まで、戦争の呪縛に捕らわれた人生ではあったが―――別れの一言が、全てを救ってくれたような、そんな気がした。
「ありがとうセシリア。愛してるわ」
引き金を引いた。
パンッ、と短く、重々しい銃声が響き渡る。
スライドが後退し、9mmパラベラム弾の短い薬莢が躍り出た。火薬の臭いと熱を纏ったそれが床に落下し、透き通るような金属音のアクセントを、物騒な銃声の中に伝播させる。
サクヤの目から、光が消えた。
透き通った紅い人工血液が飛び散り、彼女の身体から力が抜けていく。
崩れ落ちそうになる姉の身体を支え、そっと床の上に横たえるセシリア。拳銃を手放したセシリアは、開かれたままのサクヤの目をそっと閉じさせ、咆哮する。
家族を失い、独りになったあの時とは違う。
どす黒い復讐心などなかった。
ただただ、自分の半身同然の姉を失った純粋な悲しみだけが、そこにあった。




