全てを失う転生者
この強制収容所には、様々な種族の人々が収容されていた。
向かいの牢屋の中で壁に寄り掛かりながら座っている男性の薄汚れた頭髪の中からは、人間よりも長い耳が突き出ているのが分かる。ここにいる看守たちから暴行を受けたからなのか、顔や手足には痣があり、真っ白な肌は血で薄汚れてしまっている。
あの人はエルフなのだろうか。
当たり前だけど、前世の世界にはあんなに耳の長い人間は存在しない。牢屋の中に座っている虚ろな目のエルフの男性を見た俺は、やはりここは異世界なのだと確信しつつ、天井を見上げた。牢屋の天井もコンクリートで覆われていて、真ん中に1つだけ照明が埋め込まれている。それ以外に掴まれそうな場所は見受けられない。
それに、牢屋の外には旧式のボルトアクションライフルを思わせる銃や、棘が付いた棍棒を持った看守たちが巡回している。彼らと同じ装備を身に着けた兵士たちが、強制収容所の外にもいるのは想像に難くない。
くそったれ。転生者の端末があれば正面突破できそうなんだが、あの便利な端末は看守共に没収されちまった。あの端末がなければ銃を装備できないし、筋力も少し落ちてしまったような気がする。
しばらく天井を見上げていると、牢屋の音から足音が聞こえてきた。また看守が巡回してきたのだろうかと思いつつ、ちらりと牢屋の外を見る。オリーブグリーンの軍服と略帽をかぶった若い兵士が、左手にランタンを持ちながら通路の左右にある牢屋の中を覗き込んでいた。腰には棘の付いた棍棒らしき武器を下げ、背中には木製の部品で覆われたライフルを背負っている。
彼らに反撃したり、明日花を連れて脱獄する手段すらないのだから、大人しくしている事しかできない。
牢屋の中で座ったまま天井を見上げていると、その看守の後ろからまた足音が聞こえてきた。牢屋の中を覗き込んでいる看守の足音と比べると、やけに足音が大きい。あの看守よりも体格ががっちりしているのか、太っているのだろう。
しばらくすると、看守の後ろから太った少年がやってくるのが見えた。看守の兵士とは違い、俺たちをこの強制収容所に放り込みやがった勇者のような白い制服に身を纏っていて、腰に剣を下げている。制服の腹の部分はやけに突き出ているし、上着やズボンの中に収まっている手足も膨らんでいた。
「て、転生者様!」
若い看守の兵士は、そのデブに向かって敬礼する。
すると、通路の奥からやってきたそのデブはニヤニヤ笑いながら、看守の兵士に手を振った。
「お疲れ様、兵隊さん」
そのデブの声を聞いた瞬間、俺はそのデブが誰なのかを理解する羽目になった。
初対面であれば、ぎょっとする必要はなかっただろう。けれども、あのデブは前世の世界でボコボコにした事がある男である。
明日花がまだ中学2年生だった頃、彼女の後をつけてくるストーカーがいると妹から相談されたことがある。明日花は学校で虐められることが何度かあったけれど、明るくてしっかりした性格だったから、彼女を狙う男子生徒は結構多かったらしい。
もし明日花に彼氏ができたのならば、俺は見守るつもりだった。けれども彼女の後をつけて不安にさせるようなクソ野郎ならば、明日花に手を出される前に”取り除いて”おく必要がある。だから、俺は明日花に相談を受けた日から彼女と一緒に行動し、ストーカーを探し出す事にしたのである。
そのストーカーの犯人があのデブだった。
名前は『来栖公太』。俺よりも1つ年上の男子生徒―――――当時は高校一年生だ―――――である。こいつが妹の後をつけていた犯人だという事を知った後に、あのデブを近所の廃工場に呼び出してボコボコにしてやったのだ。
こいつも異世界にやってきていたのかと思っていると、かつて俺にボコボコにされたストーカーがこっちにやってきやがった。看守から借りたランタンで牢屋の中を照らし、鉄格子の向こうを覗き込むデブ。中にいる男がかつて自分をボコボコにした男だという事に気付いた来栖は、ニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。
「久しぶりだねぇ、明日花ちゃんのお兄さん」
妹の事を覚えてるのかよ。
呼び出した時も、こいつは俺の事を『明日花ちゃんのお兄さん』と呼んでいた。
「ひひひっ、隣には明日花ちゃんもいるんだよねぇ?」
「てめえ………!」
「あ、兵隊さん。隣の牢屋の鍵ある?」
「はい、こちらに」
看守の兵士はポケットの中へと手を突っ込み、灰色の鍵を取り出した。明日花の入れられている牢屋を開けるための鍵なのだろう。このデブがその鍵を使って隣の牢屋の鍵を開けるつもりなのは想像に難くない。
もちろん、明日花を逃がすために開けるのではないだろう。自分の欲望のために違いない。自分が手に入れようとしていた美少女が無防備な状態で牢屋の中にいるのである。しかも自分にはあの転生者の端末があるし、仮に明日花が逃げようとしても外には看守がいる。
しかも転生者は兵士たちよりも地位がはるかに上のようだ。こんなにたっぷりと欲を詰め込んだクソ野郎に権力を与えれば、十中八九暴走するのが関の山である。
看守から鍵を受け取ったのを見た俺は、慌てて鉄格子を掴みながら叫んだ。
「おい、やめろ! 何考えてんだ!?」
「ひひひひっ、ちょっと明日花ちゃんに会いたくてね」
「鍵を開ける必要はないだろ!? このクソ野郎、妹に手を出すなッ! ぶっ殺すぞ!!」
「黙ってろ!」
鉄格子の向こうから、看守がライフルの銃床で胸板を殴りつけてくる。呻き声をあげながら牢屋の奥へと押し込まれると同時に、隣の牢屋の鍵が開けられる金属音と、じっとしていた明日花が怯える声が聞こえてきた。
かつて自分の後をつけていたストーカーなのだから、彼女も覚えているのだろう。
「久しぶりだねぇ、明日花ちゃん」
「ひっ………な、何ですか、あなたは!?」
「ふざけんな、出て行け!」
「黙ってろと言ってるだろう!?」
くそ、端末さえあればこの鉄格子をぶっ壊して、明日花を助けに行けるというのに………!
たった十数cmのコンクリートの壁の向こうにいる唯一の家族を助ける事すらできないとは。
何とか明日花を助けられないかと思いながら、牢屋の中を見渡す。けれどもこの牢屋はコンクリートの壁と鉄格子で隣の牢屋とは完全に遮断されており、隣の牢屋に移動したり、干渉することはできないような設計になっている。そう、あの忌々しい鉄格子をへし折って看守をぶん殴り、銃を奪わない限りは妹を救うことはできないのである。
「やっ、やだっ………来ないでください!」
「そんな事言わないでよぉ、2人きりなんだからさぁ。ひっひっひっひっ」
歯を食いしばりながらもう一度鉄格子を掴む。看守がとっとと手を離さないと撃つぞと言わんばかりにライフルを向けてくるが、俺はお構いなしに叫ぶ。
「おいデブ、ふざけんなっ! 妹に手を出したらミンチにしてやる!」
「大人しくしてろ、撃つぞ!!」
「やってみろよクソ野郎! てめえも後でぶっ殺してやるからな!!」
すると、通路の向こうからまた足音が聞こえてきた。俺の声を聞いた他の看守たちが集まってきたのだろうかと思ったが、あの叫び声を聞いたのであれば走ってくる筈である。なのに、聞こえてくる足音のペースは非常にゆっくりで、駆けつけたというよりは見物にやってきたようにも思えてしまう。
通路の向こうからやってきたのは、デブと同じように白い制服に身を包んだ3人の少女と1人の少年だった。そのうちの2人の少女は双子なのか、顔つきは殆ど同じである。残っている少女と少年は恋人同士らしく、強制収容所の中であるというのに手を繋いでイチャイチャしていた。
その4人にも前世の世界で会ったことがある。
全員、以前に明日花を虐めていた奴らだ。
双子の少女は明日花と同い年の『霧島奈緒』と『霧島美緒』。高校に入ってから明日花を虐め始めた奴らだ。先生に相談しても先生は全く対応してくれなかったので、俺が手を下そうと思ったんだが、知り合いから俺が妹を虐めた奴らを女や年下だろうと関係なくボコボコにしているという話を聞いたのか、手を下す前に妹から手を引いた臆病者である。
俺が強制収容所に入れられて実質的に無力化されたから、鬱憤を晴らしに来たのだろうか。
強制収容所の中で彼女と手を繋いでいるのは、同級生の『三原拓海』。中学校の頃から何度も明日花を虐めているバカで、何度も俺にボコボコにされて病院送りにされている。何度か知り合いの上級生を連れて家に来たこともあったが、その時も上級生もろとも病院送りにされる羽目になっている。
一緒にいる彼女は明日花の虐めには参加していないが、いつも彼女が虐められているのを見ていた。
そう、全員前世の世界からやってきた人間である。どうやらあの白い制服は、転生者に支給される制服らしい。
「お。久しぶりじゃねえか、速河」
「はっ、負け犬の三原くんか。久しぶりだな」
「おい看守、こっちの鍵貸せや」
「はい、転生者様」
看守からこっちの牢屋の鍵を受け取った三原が、鍵を開けて牢屋の中に入ってくる。鉄格子を開けた瞬間に外に飛び出してやろうと思ったんだが、飛び出そうとした瞬間に看守に銃床で肩をぶん殴られてしまい、そのまま牢屋の奥の壁に叩きつけられてしまう。
呻き声を発しながら歯を食いしばって立ち上がろうとしたが、すぐに足で背中を踏みつけられ、そのままコンクリートの床に叩きつけられた。誰が俺を踏みつけているのかは言うまでもないだろう。
歯を食いしばりながら見上げると、三原がニヤニヤ笑いながらこっちを見下ろしていた。牢屋の外では三原の彼女が笑いながらこっちを見つめている。
「きゃははっ、こいつ情けなくない? 拓海、とっととこいつボコボコにしちゃってよ♪」
「任せろって。………悪いな、彼女からのリクエストなんだわ」
「ぐうっ!」
一旦足を上げ、勢いを乗せて背中を踏みつけてくる三原。左側の肩甲骨で激痛が産声をあげ、踏みつけられたことによって圧迫された肺から息が躍り出る。
両手に力を込め、強引に立ち上がろうとする。けれども三原の野郎はあの不思議な端末で身体能力を強化された転生者だ。それに対し、こっちは端末を没収されて単なる常人に逆戻りしてしまっている。もし三原が端末を持っていなければこのまま強引に立ち上がり、彼女の目の前で大恥をかかせてやることもできたんだが、両腕に力を込めても全く三原の足は動かない。
むしろ、両腕に力を込めて抵抗しなければ、逆に俺の背中が背骨や肺もろとも踏み潰されてしまいそうなほど強力な脚力である。
「ほら、とっとと立てよ。前みたいに俺をボコボコにしてみろよ、雑魚」
「調子に………乗――――――――がっ!」
またしても足を一旦上げ、今度は左手に向かって足を振り下ろす三原。ボギッ、と左手の甲の中から、圧倒的な力を叩き込まれた骨が砕け散る音が聞こえてきた。
「逃げないでよ明日花ちゃん。ひひひっ」
「やだっ、触らないで………きゃあああああああっ!!」
「明日花ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「おい、来栖さん。後で俺も楽しませてくれよ?」
「ひひひひっ!」
「やだやだぁっ!! 放してよぉっ! にっ、兄さんッ! 助けてッ!」
コンクリートの壁の向こうから、明日花の悲鳴が聞こえてくる。
たった2m未満の距離だというのに、何もできない。
今まで何度も妹を守り続けてきたというのに。
俺は、何もできなかった。
「明日花………」
妹の名前を呼びながら、そっと鉄格子の隙間から隣の牢屋へと手を伸ばす。この牢屋に放り込まれたばかりの頃は、こうやって手を伸ばせば彼女も手を伸ばしてきて、最愛の妹の手を握る事ができた。
そうやって手を握り締め合いながら、お互いを励まして生き延びてきたのである。
けれども――――――今日は、明日香は手を握ってくれなかった。
右手で口元を拭い去ると、手の甲が真っ赤に染まっていた。三原のクソ野郎に踏みつけられた挙句、何度も身体中をぶん殴られ続けたせいで、身体中に痣や血痕がある。もちろん唇も切れていて、こうやって垂れ落ちる血を拭い去ろうとするたびにひりひりしてしまう。
激痛を感じながら、明日花が手を握ってくれるのを待ち続ける。
けれども、彼女の苦痛は俺の比ではないだろう。
かつて自分を追い回していた恐ろしいストーカーがやってきて、犯されてしまったのだから。
「…………」
隣の牢屋の中から、明日花が泣く声が聞こえてくる。
彼女が感じている恐怖は、あのデブに与えられた恐怖だけではない。この牢屋の中にいるという事は、これからもあのデブや三原たちがやってきて、牢屋の中にいる明日花に暴力を振るったり、また彼女を犯したりするに違いない。
だからこそ、怯えている。
きっと、励ましたとしてもその恐怖を取り除くことはできないだろう。何とかして脱獄するか、彼女を犯したデブをぶち殺さない限りは明日花はずっと怯え続けることになる。
そっと手を引っ込めようとすると、明日花がぶるぶると震える手を伸ばし、手を握ってくれた。
「明日花………!」
よかった、明日花が手を握ってくれた。
彼女は屈していないのだと思って安堵した直後、明日花は涙声でこう言った。
もう死にたい、と。
ボロボロの服を着せられた人々が、大きな木箱を倉庫へと運んでいく。この世界で勃発している戦争で捕虜になった人々なのだろうか。人種や種族はバラバラで、大半の人々が全く違う言語を話す。英語にそっくりな言語や、フランス語を思わせる語感の不思議な言語。おかげで、他の人たちと全く意思の疎通ができない。
浅黒い肌のエルフ―――――警備兵の話ではハーフエルフらしい――――――の男性と一緒に、木箱を抱えて倉庫へと運んで行く。運んでいる途中でその男性が何度か話しかけてきてくれたけれど、何と言っているのかは分からなかった。けれども微笑みながら肩を叩いてくれたから、励ましてくれているに違いない。
「ありがとう」
『アリガトウ?』
感謝しても、言語が全く違うのだから感謝しているという事すら伝えられない。苦笑いしながら、その男性と一緒に倉庫の中へと木箱を置いて、また別の倉庫へと向かう。
強制収容所に放り込まれてからもう一ヵ月も経過している。けれども、冤罪だというのに強制収容所から釈放される気配はない。相変わらず薄汚い牢屋の中で生活し、量の少ない食事を食べてから床の上で眠って、こうやって働かされ続けている。
しかも、来栖や三原たちは何度か牢屋にやってきた。双子の霧島たちも、隣の牢屋で明日花が来栖に犯されているのを眺めたり、彼女の髪を思い切り引っ張って虐げ続けている。
あいつらが立ち去る度に、俺は何度も明日花を励まし続けた。
けれども、明日花は返事をしてくれなくなった。手を鉄格子の隙間から伸ばせば握り返してくれるけれど、彼女は何も言わない。
《もう死にたい》
「…………」
もしかしたら明日花が自殺してしまうのではないかと思ったけれど、幸運なことに、牢屋の中にはロープや紐はないし、仮にロープがあったとしても天井にはそれを吊るせそうな場所がない。自殺できそうなものは全く置かれていないから、絶望して舌を噛み切らない限りは自殺するのは不可能だった。
来栖に犯された後に明日花がそう言っていたのを思い出しながら、拳を握り締める。
もしここを脱出したら、真っ先にあのデブをぶち殺す。あいつの身体にはたっぷりと肉があるから、ミンチを大量に作れるはずだ。とはいっても、あんな汚らわしい豚野郎の肉は食いたくないが。
そんな事を考えながら、さっきの木箱が置かれている倉庫へと差し掛かったその時だった。
オリーブグリーンの軍服を身に纏った兵士たちが、ボロボロの服を身に纏った捕虜たちを抱えて運んでいる。捕虜たちはぐったりとしていて、兵士たちが誤って捕虜たちを地面に落としてしまっても全く動く気配がない。
兵士たちは、その抱えている捕虜たちを倉庫の前に停まっているトラックの荷台に次々に乗せ始めた。強引に荷台に放り投げられているというのに、やはり捕虜たちは微動だにしない。荷台に頭を叩きつけたり、自分の身体の上に後続の捕虜たちが落下しても、無言でぐったりとしている。
――――――捕虜の死体だ。
きっとあのトラックに、牢屋の中で死亡した捕虜の死体を乗せて処分するのだろう。
ここで死んだら、きっと俺たちも彼らのようにトラックの荷台に放り投げられ、処分されてしまうに違いない。当たり前だが、ちゃんと埋葬はしてもらえない。そのまま収容所の外に捨てられて腐敗するか、別の場所でガソリンをぶちまけられて焼かれる羽目になる。
ちゃんと棺に入れて埋葬してもらえるのは、贅沢な事なのだろうか。
そう思いながら仕事に戻ろうとしたその時、兵士が抱えていた小柄な死体の頭から、純白の羽を模したヘアピンが零れ落ちた。
「え――――――?」
あのヘアピンは………。
ぎょっとしながら、その死体を抱えている兵士の方に駆け寄る。後ろから他の捕虜たちが呼び止めるのが聞こえてくるけれど、俺はそのまま突っ走って落ちたヘアピンを拾い上げてから、その兵士が抱えていた死体の顔を覗き込んだ。
「そんな――――――」
「貴様、持ち場に戻れ!」
「何をしている、この逆賊が!」
「待ってくれ………う、嘘だ………嘘だろ………………!?」
信じたくない。
受け入れたくない。
認めたくない。
嘘だ。
冗談だ。
拾い上げたヘアピンは、明日花のヘアピンだった。
そのヘアピンを落とした死体は――――――俺の唯一の家族だった。
「明日花ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」