ウェーダンの悪魔
「何と無様な………ッ!」
ヴリシア・フランセン軍の塹壕に、低い声が響き渡った。
数時間前までは、ヴリシア・フランセン軍とヴァルツ軍の連合軍は圧倒的に有利な状況であった。ヴァルツ軍が実施した”新たな戦術”によってあっという間に総崩れになったフェルデーニャ軍を、ヴァルツ軍が用意した空中戦艦と共に追撃して蹂躙していたのである。
中には反撃してくるフェルデーニャ軍の部隊も見受けられたが、制空権を確保している以上は空中戦艦からの砲撃や爆撃で瞬時に鎮圧できる。更に、大損害を被ったことでフェルデーニャ軍の戦力はヴリシア・フランセン帝国軍の半分以下となっており、そのまま進撃するだけでも大勝利は確定したと言っても過言ではなかった。
だからこそ、将校は怒り狂っている。
よりにもよって、テンプル騎士団の奇襲によって虎の子の空中戦艦を失った挙句、フェルデーニャ軍の追撃にも失敗しているのだから。
「あんな蛮族共に惨敗するとは何事か!」
「もっ、申し訳ございませんッ!」
「しかも、ヴァルツ帝国の空中戦艦まで失うとは………ッ! 偉大なる二重帝国だけでなく、同盟国であるヴァルツ帝国の栄光にまで泥を塗ったのだぞ、貴様は!!」
叱責されながら頭を下げる歩兵部隊の隊長と、彼を叱責する太った将校を見つめながら、ヴァルツ帝国から派遣されたローラント少将はヴリシア・フランセン軍の兵士が淹れてくれたコーヒーを口へと運ぶ。
フェルデーニャ軍の攻撃によってエリュダリオ山脈の占領を諦める羽目になりつつあったヴリシア・フランセン軍にとって、新しい戦術と空中戦艦を用意して救援にやってきたヴァルツ帝国軍は英雄に等しい存在であった。ボロボロの兵士たちに歓迎された時の事を思い出しながら、ローラント少将は目を細めた。
空中戦艦を失ってしまったのは大損害と言わざるを得ないが、彼が考案した戦術によってフェルデーニャ軍は容易く総崩れとなっている。それに、彼の目的はテンプル騎士団の撃滅ではなく、壊滅寸前のヴリシア・フランセン軍を支援することである。
そう、目標はすでに達成しているのだ。
できる事であれば、後は指揮をヴリシア・フランセン側の指揮官に任せて一刻も早くヴァルツ帝国へと帰国し、有効であることを証明した新しい戦術と、勇者が用意する転生者を組み合わせた作戦を立案したいところである。しかし、テンプル騎士団がヴリシア・フランセン軍とヴァルツ軍の反撃を阻止し、ゴダレッド高地に居座って攻撃部隊を立て続けに退けている以上は、そのテンプル騎士団の排除までローラント少将に押し付けられるのは想像に難くない。
溜息をつきながら軍帽を拾い上げ、椅子からゆっくりと立ち上がる。傍らでは相変わらず太った初老の将校が、逃げ帰ってきた攻撃部隊の隊長に向かって怒鳴り続けているところであった。
「中将、あまり責めないであげてください」
「しかし、ローラント少将………この無能は蛮族共に惨敗した挙句、そちらが用意した虎の子の空中戦艦まで失ったのですぞ!?」
叱責されていた隊長が、コーヒーカップを持ったまま側へとやってくるローラント少将をちらりと見た。助け舟を出してくれることを期待しているのだろう。期待通りに助け舟を出すつもりではあるが、彼を助けるためではない。傍らで響く叱責を一刻も早く止めたいだけである。
「ええ、確かに空中戦艦を失ったのは痛手です。しかし、最近のテンプル騎士団はかなり強くなっています。我が軍もウェーダンで惨敗してますからね」
もしウェーダンの戦いに勝利していれば、フランギウス共和国は首都への攻撃を許して大打撃を被ることになっていただろう。更に、転生者であれば少数でも敵の重要拠点を突破できるという事を証明することに成功し、大量の転生者を投入することによって帝国軍はこの世界大戦に圧勝していたに違いない。
だが、ウェーダン侵攻を前線の司令部で指揮していた来栖がテンプル騎士団によって討ち取られたことにより、錬度の低かった転生者部隊はあっという間に総崩れになり、ウェーダンへの攻撃に失敗する羽目になってしまったのである。
この戦いに惨敗してしまった事によって、転生者は強力な存在だという正しい答えが誤りであると決めつけられてしまったのだ。そのため、皇帝や他の将校たちに転生者は過小評価されており、世界大戦を短期間で終結させるための切り札となる可能性がある転生者たちが”余っている”のである。
その過小評価を消し去るためには、今度こそ転生者が強力な存在だという事を証明する必要がある。
ただ単に転生者を投入して攻撃させるだけではなく、転生者にも訓練を受けさせたうえで、効果的な戦術で彼らをサポートするのだ。合理的な戦術と転生者の圧倒的な戦闘力が融合すれば、彼らは間違いなく最強の兵力となるであろう。
そこで、ローラント少将は転生者をサポートする”戦術”の立案を担当し、勇者は転生者の育成と訓練を担当することになっていた。
(戦術は問題はなさそうですが、これ以上の進撃は不可能でしょうね)
壁に貼り付けられている地図を見つめながら、ローラント少将は溜息をついた。
テンプル騎士団がゴダレッド高地に居座って攻撃部隊を退けている間に、フェルデーニャ軍の残存兵力は河を渡って本隊と合流し、部隊の再編成を始めている事だろう。全ての戦力を投入して攻勢を仕掛ければ、辛うじてテンプル騎士団の防衛ラインを突破することはできるだろうが、テンプル騎士団の防衛ラインを突破している間にフェルデーニャ軍が防衛ラインを再構築しているのは想像に難くない。
フェルデーニャ軍の要請で参戦したテンプル騎士団が時間稼ぎのためにゴダレッド高地に居座っている以上、ゴダレッド高地を強引に突破する必要はないと言ってもいいだろう。こちらも防衛ラインを再構築しつつ部隊の再編成を済ませ、反撃の準備をするべきである。
ただでさえフェルデーニャ軍の攻撃で大損害を被っているのだから、これ以上の戦力の消耗は是が非でも避けなければならない。
しかし―――――おそらく、ヴリシア・フランセン軍の中将はそれを理解していない。
目を細めたまま、ローラント少将は中将を見つめる。隊長に叱責するのを止めた中将は、早くも傍らにいる参謀たちと共にテーブルの上の地図を見下ろし、次の攻勢の作戦会議を始めているところだった。戦力の消耗を回避して部隊の再編成をする事が重要だというのに、今の彼らにはその鉄則すら眼中にない。
原因は、”新しい戦術で逆転勝利した”ことと、”蛮族だと見下していたテンプル騎士団に攻撃部隊を退けられた”ことだろう。
容易くフェルデーニャ軍を壊滅させた戦術を過信している上に、テンプル騎士団に惨敗したことによってプライドを汚され、激昂しているのだ。
「中将、敵の戦力は我々の3分の1です。全ての戦力を投入すれば突破できます」
「よし、投入可能な部隊をすべて集めろ。足りないのなら守備隊から引き抜いても構わん」
「お待ちください」
愚の骨頂としか言いようのない作戦会議を聞いて頭を抱えていたローラント少将は、かぶっている軍帽をかぶり直しながら作戦会議に乱入する。すると、ヴリシア・フランセン軍の将校たちはローラント少将の顔を見ながら目を輝かせた。
彼らにとって、ローラント少将はあっという間にフェルデーニャ軍を壊滅させた英雄である。きっと、テンプル騎士団を地獄に落とす戦術を思いついたのだと期待しているに違いない。
真面目な表情で中将を見つめながら、ローラント少将はその期待を裏切った。
「攻勢は危険です。中将、今は防衛ラインの再構築と部隊の再編成が必要です」
「なんですと? 少将殿、あの蛮族共を打ち破らねば、フェルデーニャの連中に止めを刺せないのですぞ?」
「確かに、全ての兵力を投入すればテンプル騎士団の防衛ラインは突破できるでしょう。ですが、我が軍の攻撃部隊も大損害を被ることになります。しかも、突破した頃にはフェルデーニャ軍は守備隊の再編成を済ませ、満身創痍の攻撃隊に反撃してくる事でしょう」
テンプル騎士団に惨敗し、プライドに泥を塗られたのが許せないからこそ、攻勢をするべきだと考えているのだろう。
拳を握り締めている中将の顔を見つめながら、ローラント少将は失望していた。戦場に必要なのは根性論や名誉ではなく、強力な兵器と、その兵器を合理的に運用するための戦術である。騎士道精神や根性論は、廃れていった剣のように時代遅れとしか言いようがない存在なのだ。
しかし、大半が貴族で構成されているヴリシア・フランセン軍の将校たちは、既に戦いに必要な要素が変わっていることに気付いていない。
雪辱を晴らすチャンスを奪うのかと言わんばかりに睨みつけてくる将校たちを見据えながら、ローラント少将は言った。
「あなた方は、満身創痍の状態で息を吹き返しつつある巨人と戦うおつもりですか?」
「………ローラント少将、どうやらあなたは臆病な方のようだ」
少将を睨みつけたまま、中将は攻勢を実行する事をローラント少将に告げる。
彼らは合理的な判断よりも、自分たちのプライドを穢した敵への報復を選択したのだ。ここで攻勢を始めれば、フェルデーニャ軍に大打撃を与えて有利になったにもかかわらず大損害を被る事になるのである。
「我々は攻勢を実施する。テンプル騎士団の塹壕を突破し、そのまま河を渡ってフェルデーニャの腰抜け共を根絶やしにするのだ」
「………分かりました」
説得しても意味がないのは、火を見るよりも明らかである。
攻勢を仕掛けても返り討ちにされてこの塹壕へと逃げ帰るのが関の山だと思いつつ、少将は踵を返す。先ほど自分が叱責していた攻撃部隊の隊長の二の舞になれば、彼らのプライドはなおさら穢れることになるだろう。
テントから離れると、ヴァルツ軍の制服を身に纏った若い兵士がローラント少将に敬礼した。
「二重帝国の皆さんは攻勢を始めるつもりらしい」
「この状態でですか?」
「ああ。我が遠征軍を含めなかったとしても、テンプル騎士団との戦力差は3倍………だが、奴らはウェーダンの戦いから変わった」
”ゲーヴァ99”と呼ばれるヴァルツ製のボルトアクションライフルを背負った若い兵士と共に、泥だらけの兵士たちが警備している暗い塹壕を歩きながら、ローラント少将はウェーダンでの戦いの報告書を思い出す。
ウェーダンの戦いの前のテンプル騎士団は、はっきり言うと単なるレジスタンスでしかなかった。兵士の錬度は低い上に、兵力の大半をタクヤ・ハヤカワの細胞で作り上げたホムンクルスで補っていた。しかも武装はバラバラであり、ライフルや弾薬の統一すらできていない状態だったのである。
本拠地を失って一気に弱体化したにもかかわらず、組織を維持して抵抗を続ける事ができたのは、総大将であるセシリア・ハヤカワと、彼女の腹心である副団長『ウラル・ブリスカヴィカ』が指揮を執っていたからだろう。
しかし――――――ウェーダンの戦いで、ヴァルツ軍はその弱体化したテンプル騎士団に惨敗したのだ。
報告書の最後には、ほんの数行程度の文章であったものの、『テンプル騎士団の兵士が単独で後方へ浸透し、司令部を直接襲撃してきた』と記載されていた。テンプル騎士団に単独で敵陣の後方へと浸透できるほどの錬度の兵士は、総大将のセシリア・ハヤカワか、副団長のウラル・ブリスカヴィカしかいない。
だが、セシリア・ハヤカワはウェーダンの防衛ラインで指揮を執っていたという証言がある。ウラル・ブリスカヴィカは東部戦線へと遠征に行っているため、西部戦線に残っているわけがない。
では、後方への浸透に成功し、指揮官を討ち取ったのは誰なのだろうか。
エリュダリオ山脈の向こうから吹いてきた冷たい風を叩きつけられながら、ローラント少将はその報告書を渡しにやってきた兵士が笑いながら言っていた事を思い出す。
《司令部の生存者が”悪魔”を見たそうですよ。病院で『ウェーダンの悪魔だ』って連呼してるそうです。とは言っても、あいつは精神を病んじまってるんで信憑性は低いですけどね》
「ウェーダンの悪魔………」
「え?」
「君は、”ウェーダンの悪魔”と呼ばれている敵兵の話を聞いたことがあるか?」
「いえ………初耳です」
「………」
ウェーダンの悪魔。
単独で司令部を襲撃し、指揮官である転生者を討ち取ったテンプル騎士団の悪魔。
ウェーダンでの敗因は、司令部への浸透を許した上に指揮官を暗殺されたことによって、錬度の低い転生者たちが総崩れになった事である。つまり、ウェーダンで帝国軍が惨敗する原因となったのは、精神を病んでしまった生存者が見た”ウェーダンの悪魔”という事になる。
テンプル騎士団が秘匿していた可能性はあるが、少なくとも帝国の諜報部隊はそのような兵士の存在を察知してはいない。
報告書の事を考えながら歩いている内に、エリュダリオ山脈へと派遣されたヴァルツ帝国軍の遠征部隊の兵士たちがいる場所へと辿り着いていた。ヴリシア・フランセン軍を支援するためにやってきたヴァルツ軍の兵士たちは、ローラント少将と同じようにかなり歓迎されていたらしく、彼らに割り当てられた塹壕は少しばかり広くなっていた。足元も板でしっかりと補強されており、隅の方には兵士が仮眠を摂るためのテントまで用意されている。
これ見よがしに二重帝国のエンブレムが描かれたテントを見つめながら、少将は溜息をついた。自国の兵士たちは補強すらされていない塹壕の隅で横になって仮眠を摂っているというのに、ヴァルツの兵士たちはしっかりと木材で補強された塹壕で待機し、仮眠用のテントまで用意してもらっているのである。
ライフルを構えながら塹壕の外を警備していた兵士が、少将に向かって敬礼する。真面目に警備をしている兵士たちに敬礼をしながら歩いた少将は、仮眠を終えてテントから出てきたばかりの副官に言った。
「大佐、二重帝国の連中は攻勢を始めるらしい。我々は参加せず、塹壕で待機する」
砲撃で蹂躙された大地に鳩が降り立つのは、ミスマッチとしか言いようがない。
こういう死体だらけの大地に降り立つのは、グチャグチャになった死体に当たり前のように嘴を突き立てて肉を貪るような、もっと荒々しい鳥だ。
そう思いながら、気配を殺してその呑気な鳩へと左手を伸ばす。俺の利き手は右腕なんだが、一刻も早く実戦に参加するために強引にリハビリを終えたせいなのか、ペンやスプーンを持ったりするような繊細な動きが苦手なのだ。だから、文字を書いたりスプーンを持って一般人の真似事をするのは左手の役目で、ライフルをぶっ放して敵をぶち殺す悪魔の真似事をするのは、もう感触や温度すら感じられなくなった機械の右手の役目だ。
何も感じないなら適任である。少なくとも、PTSDが発症することはない。
いきなり身体を鷲掴みにされた鳩がじたばたと暴れ始める。こいつの羽根を引き千切って鍋の中に放り込み、夜食の食材にしてやりたいところだが、こいつは斥候からの情報を俺たちに伝える役目を与えられた大切な伝書鳩である。
足に結び付けられている紙を取り、近くに置いてある鳥籠の中へと放り込む。鳩の入った鳥籠を近くに置いてから、その紙を持ってセシリアの所へと急ぐ。
セシリアはランタンの近くで刀に付着している血を拭き取っているところだった。彼女が両断した敵兵の死体はもう片付けられており、塹壕の外で機関銃にズタズタにされた死体や、迫撃砲でミンチにされた死体と一緒に放置されている。
この世界では、死体は火葬にするのが一般的である。死体を放置したり、地面に埋めると、その死体に死者たちの怨念が入り込んでゾンビと化し、仲間に牙を剥く可能性があるからだ。
だが、そろそろ俺たちもこの塹壕を放棄して撤退する予定だし、ゾンビになって彷徨ってくれれば進撃してくる敵を足止めしてくれるだろうから、ちょっとした殿として機能してくれる。だからこそ、敵兵の死体はそのまま放置してあるのである。
「ボス、斥候からだ」
「読んでくれ」
折られていた紙を広げ、ランタンの近くでしゃがんでから、セシリアに報告する。
「『”ポイントE”ニ敵部隊見ユ。攻勢ノ可能性有リ』」
「………そうか」
血まみれになった白い布を投げ捨て、愛用の刀を鞘の中へとゆっくり戻す。立ち上がってからそれを腰に下げたセシリアは、近くの木箱に立てかけていた三八式歩兵銃を拾い上げると、冷たい風と暗闇に支配されたゴダレッド高地を見つめながら言った。
「――――――奴らを叩きのめしてから、我々も撤退する」




