悪魔は魔王に忠誠を誓う
「そう。死んだのね、彼は」
テーブルの上に置かれた血まみれの片眼鏡を見下ろしながら、スターリンは悲しそうに言った。傍から見れば死んでしまった仲間の遺品を見て悲しんでいるようにも見えただろうが、彼女が発する悲しみは嘘だ。こいつはトロツキーの死を悲しんでなんかいない。むしろ、邪魔者が消えた事を心から喜んでいる。
涙は流していないし、少しだけ笑っている。
トロツキーが身に着けていた片眼鏡を手に取ったスターリンを見つめながら、俺は肩をすくめた。
これで赤軍の指導者はこいつになった。レーニンとトロツキーはもう消えている。他にも反スターリン派はいるらしいが、そいつらもやがて粛清されてしまうだろう。
スターリンにとっては思い通りになった。だが、こいつは気付いていない。トロツキーはまだ生きていて、クレイデリアで『フルシチョフ』という男として保護されているという事を。
お前も用済みになれば消されるのだ。そして、代わりにトロツキーが赤軍の指導者として送り込まれる。彼がレーニンの理想通りの社会主義国家を継承するのか、それともクレイデリアのような資本主義国家への再構築を試みるのはトロツキー次第だが。
スターリン、お前も利用されているのだ。
真相を知っているからこそ、権力を手にした彼女が滑稽に見える。そんな偽りの玉座に腰を下ろして誇る事の何が楽しいというのか。
「これで役目は果たしたわ」
「報酬を支払った価値はあったわね。やっぱり、あなたたちを雇って正解だったわ」
「そう、それは良かったわね」
淡々と言ってから、サクヤさんは踵を返した。
「あ、ちょっと」
俺も彼女の後についていこうとしたが、ドアを通過するよりも先にスターリンに呼び止められる。
おいおい、まだ何か依頼するつもりじゃないだろうな? さっさと帰ってソファに横になり、映画でも見ながらハンバーガーを食いたいんだが。
俺は資本主義者なのだ。
「何か」
「ハヤカワ中佐、ウェーダンの悪魔と呼ばれているのはあなただったわよね?」
「ええ」
「そう………ねえ、どうかしら。オルトバルカに来て、私のために戦わない?」
部屋を出て行こうとしていたサクヤさんが、ぎょっとしながらこっちを振り向く。スターリンからすれば単なる勧誘かもしれないが、テンプル騎士団からすれば俺は貴重な転生者の1人である。まあ、その気になれば後釜も用意できるだろうし、義手とか義足を用意しなくてもいいから費用も掛からないだろうが。
でも、こんな所でテンプル騎士団を除隊されるのは困るらしい。サクヤさんは顔をしかめながら、こっちをじっと見つめていた。
嬉しい事だ、そんなに大切にしてもらっているとは。
溜息をついてから、すぐに首を横に振った。微笑みながら勧誘していたスターリンが目を細め、唇を噛み締める。
「………あの女に飼われてるより、こっちにいた方が自由はあるわよ?」
「分かってないようだな、同志」
言っておくが、どんな事があろうとセシリアへの忠誠心は変わらない。国家予算並みの報酬を用意されたとしても、首は絶対に縦に振らない。
「―――――セシリアだからこそ、飼われる価値があるんだ」
そう告げてから、スターリンの執務室を後にする。外にいた警備兵が顔をしかめながら咎めようとしてきたが、テーブルの向こうにいるスターリンが首を横に振って制止させる。
赤軍の司令部―――――ラガヴァンビウス宮殿を改装して使っているようだ――――――の通路を進み、中庭へと出る。既に中庭にはテンプル騎士団のヘリが待機していて、兵員室にはAKMを持った兵士たちもいる。
兵員室に乗ってからドアを閉めると、パイロットがヘリを空へと舞い上がらせた。
そろそろオルトバルカにも夏がやって来る。たった1ヵ月くらいで終わってしまうくらい短い夏だから、海水浴もできないだろう。夏が終わればすぐ秋になり、9月頃には雪が降り始める。海が凍るのは何月くらいからだっただろうか、と思いながら外を眺めていると、隣の座席に座ったサクヤさんが溜息をつきながら義手を握った。
「何です?」
「安心したわ、君の忠誠心が本物で」
「あんな女についていくわけがないでしょう」
「そうよね………」
「あいつより、セシリアやサクヤさんの方が遥かに魅力的な女性です。忠誠を誓う価値が違い過ぎますよ」
「え?」
「ん?」
隣にいるサクヤさんが、珍しく目を丸くしていた。
「魅力的……え、私も?」
「ええ」
「本当?」
「ええ。誠実ですし、凛々しいのでついていきたくなります。………あと、大人びてて綺麗だなって」
「っ!?」
彼女の顔が赤くなっていったのを確認してから、ちらりと黒い鱗に覆われている尻尾を見下ろす。柔らかい鱗で覆われた彼女の尻尾は、まるで大喜びする犬のように左右に振られていた。
ハヤカワ家のキメラにはどうやら機嫌が良い時は尻尾を左右に振る癖があるらしい。サクヤさんはセシリアと比べると冷静で淡々としていることが多いけど、彼女もその癖を祖先から継承しているようだ。
尻尾に触ろうとしたんだけど、触るなと言わんばかりに、ぺちん、と義手を叩かれてしまう。彼女は気付いているのだろうか。それとも、無意識のうちにやっているのだろうか。
寝ているサクヤさんを起こそうとするときもこうなるんだよな、と思っている内に、もうヘリはラガヴァンビウス郊外へと達しつつあった。王都を囲む防壁の向こうには畑や草原が広がっている筈だけど、革命の際に破壊された戦車の残骸の撤去はまだ進んでいないらしく、麦畑のど真ん中には物騒な戦車の残骸が未だに放置されている。
真っ白な手が、黒い義手をぎゅっと握る。もうとっくに触れた物の温もりを感じる事ができなくなってしまった冷たい手を握るサクヤさんの方を見下ろすと、彼女は顔を赤くしたまま俯いた。
「と、年下の癖に生意気なのよ………バカ」
「………すいませんでした」
本音だったんだけどなぁ。
頭を掻いている俺に寄り掛かってきたサクヤさんは、いつの間にか微笑んでいた。
「姉さんから聞いたぞ、力也!」
タンプル搭へと戻り、部屋で休んでいると、部屋の中に入ってきたセシリアがニコニコしながら言った。多分オルトバルカでスターリンに赤軍に勧誘されたのを断った件だろう。
ラジオのスイッチを切って音楽を消し、ソファから起き上がる。先ほどまで頭の下敷きになっていたクッションを退けたセシリアは、赤い金槌と鎌が交差しているエンブレムが描かれたクッションをソファの後ろに放り投げてからそこに腰を下ろし、尻尾を左右に振りながら寄りかかってくる。
「あれか? スターリンの件か?」
「うむ、よく断ってくれた。お前があいつの所に行ってたら泣いてたぞ?」
「そりゃ大変だ、断ってよかった」
本当に。
あんな女のために戦うつもりはない。俺は復讐を果たすために戦っているし、セシリアやサクヤさんのためにも戦いたいと思ってる。だから彼女たちに忠誠を誓っているのだ。
セシリアが命令するならば、どんな標的だって殺してみせる。老人だろうが赤子だろうが虐殺してみせよう。拳銃で自分の頭を撃ち抜き、命を捧げても構わない。
それが俺の忠誠心だ。この復讐心を肯定してくれた彼女に誓った、絶対的な忠誠心。
「そういえば、トロツキーは?」
「無事にクレイデリア軍が保護してくれた。今はアルカディウス市内で保護されているよ」
「それはよかった」
「うむ………スターリンが用済みになったら、その時は頼む」
「任せろ、ボス」
今すぐ命じてもいいんだぞ、セシリア?
だが、彼女はまだスターリンを利用するつもりらしい。まあ、”次の世界大戦”も勃発するだろうからな。その時に味方になってもらわなければ困る。消すとしたらその後だろう。
「あ、それとだな………お前に聞きたいことがある」
「何だ?」
「その………宮殿でお前が時間を稼いでくれた時、私の名前を呼んだよな? ボスではなく、セシリア、って」
ああ……確か呼んだような気がする。ボスではなく、彼女の名前を。
どうして彼女の名前を呼んだのだろうか。
「あ、ああ」
「……お前に名前を呼ばれた時、変な感覚がしたのだ。戦闘中だというのに、ドキドキしたというか……どういうわけか、嬉しくなった。なあ、何故だと思う? 私には分からない」
「………すまん、俺もよく分からん」
「ふむ………お前は物知りだと姉さんから聞いていたのだが、分からんか」
「え、サクヤさんが?」
「うむ。姉さんにも同じ質問をついさっきしたのだが、分からなかったらしくてな。”力也くんに聞きなさい”って言われた」
サクヤさぁぁぁぁぁぁぁんっ!?
「お前でも分からん事なのか………難しいな」
「そ、そうだな……すまん、ボス」
「………ところで、その……力也」
「は、はい」
真っ白な手で、セシリアが義手をぎゅっと握りしめた。
「頼みがあるのだが」
「な、何でしょうか」
「………これからは、私の事はボスじゃなくて名前で呼んでほしい」
「え?」
「その……変な感覚がしたと言ったが、その感覚は嫌いではなくてだな………」
「構わんが………他の同志たちの目の前で呼んでもいいのか? さすがに呼び捨ては拙いんじゃないか?」
「なら………よし、2人きりの時だけ名前で呼んでくれ。うん、名案だなっ」
2人きりの時だけか………。
ああ、確かに悪くない。2人きりの時なら、気にする事は何もなくなる。
「じゃあこれからはそうするよ、セシリア」
「う、うむ………ふふふっ、悪くないな♪」
やっぱり、彼女の所に残ったのは正解だった。
寄りかかってきたセシリアを義手で優しく抱きしめながら、俺は確信するのだった。
第十六章『オルトバルカ革命』 完
第十七章『戦乱の空白』へ続く
次回からは日常シーンとか訓練のシーンを多めにしたいと思います。
比較的ソフトな話が多めになると思いますので、何卒よろしくお願いします!




