力也の傷痕、明日花の傷痕
『私と付き合ってくださいっ!』
彼女にそう言われたのは、高校に入学したばかりの頃だった。
俺は昔から色んな奴らに怖がられてたから、もちろん女の子なんて寄ってこなかった。近寄ろうとすれば怯えて逃げるのは当たり前だし、中学校の頃の文化祭の準備とかで一緒にいるだけで泣き出す女子もいた。
だから、俺に彼女は有り得ない筈だった。
実際、彼女はいらない。明日花を守り切れればそれでいい。恋人は社会に出た後にでもゆっくり探せばいいだろうと思っていたからこそ、入学してすぐに彼女にそう言われた時は驚いた。
告白してきたのは、同じクラスの『及川優里奈』。中学校は別だったのでどういう奴なのかは分からなかったから、すぐに首は縦に振らず、少し考える時間が欲しい、と返事をした。
だって、近くに寄ったり目が合うだけで女子が怯えたり泣き出すような男だったんだぞ、俺は。なのに、何で入学してすぐに告白してきたのだろうか。
まあ、俺も戸惑ってたんだけどな。今まで女子に告白された経験は全くなかった――――――というかそういうのとは無縁だった――――――から。
学校が終わり、バイトを済ませ、家に戻ってシャワーを浴びてから、俺は明日花に相談した。身内に年が近い異性がいると、こういう事でも相談し易い。それに明日花は真面目な子だから、きっと相談に乗ってくれるだろう。
そう思いながら彼女に告白された事を告げると、野菜炒めの乗った皿を並べていた明日花は一瞬だけぴたりと止まってから、こっちを見てにっこりと微笑んだ。
「よかったじゃないですか、兄さん」
「い、いや、でもさ……」
「ふふふっ。私は応援しますよ、兄さんの事。あ、彼女さん後で私にも紹介してくださいね?」
「……お、おう」
まあ、彼女を作ってしまうのも悪くないかもしれない。リョウとか他の友達にはちょっと悪いと思うが。
優里奈と同じ中学校だった男子生徒に彼女の事を聞いてみた結果、優里奈は真面目な子らしかった。中学校の頃は生徒会長もやっていたらしく、高校でも早くも生徒会に入るつもりだという。
だから、彼女の告白を受け入れる事にした。
「本当に!?」
「あ、ああ………その、俺なんかでいいのか? みんなに怖がられてるけど………」
「ぜっ、全然大丈夫だよ! 力也くんって確かにちょっと怖そうな感じするけど、本当は優しい人だもん」
学校の屋上にあるフェンスをぎゅっと握りながら、優里奈は顔を赤くした。
「だって、力也くんは虐められてる人を助けてたじゃない」
「え?」
「入学式の次の日の放課後の事よ。リョウ君が上級生に虐められそうになってた時、助けたじゃない」
見てたのか?
確かに、入学式の次の日にリョウは上級生に体育館の裏で囲まれていた。たまたま体育館の片づけを手伝っていた帰りにそれを見たので、親友を助けるために上級生5人を病院送りにしてやったのである。
「その……恥ずかしいけど、私………力也くんの優しい所に惚れちゃったの………」
「…………」
なあ、彼女ができるってこんなに恥ずかしい事なのか?
もちろん、彼女ができたという事をリョウや他の友人たちに話した瞬間に胸倉を掴まれた。いや、確かに悪かったとは思う。俺も彼女は社会人になってからゆっくり探そうと思ってたからさ。うん、高校生になった途端に彼女が出来てしまうのは本当に予想外だったんだよ。
優里奈に告白された事で、高校での生活ならば今までの生活よりも楽しくなるかもしれないと期待していた。
ああ、期待してたんだ。
クソ親父―――――あんな奴を”親父”とは二度と呼びたくない――――――に殺されちまった母さんが遺してくれたお金は結構な金額だったけれど、学費や生活費として使うには少なすぎた。
だから、俺はいつも学校が終わったらバイトに行くようにしている。近所のラーメン屋とかコンビニでバイトをした後に帰宅するので、家に戻るのはいつも9時頃だ。もちろん、勉強もちゃんとやらないとテストでとんでもない点数を取ってしまう事になるので、寝る前に勉強はする。
土日にもバイトはあるので、彼女ができたとしても会える時間はそれほど多くない。でも、出来るだけ時間を作って優里奈と会い、一緒にゲームセンターに行ったり、明日花も連れてカラオケに行ったりした。
そういう時だけは、幸せだった。
辛い事を全部忘れられる。彼女や妹の笑顔を見ていると、心の中にある傷がゆっくりと消えていくような感じがする。
これが幸せなんだな、という事を理解し始めた頃に――――――それは終わりを告げた。
自転車に鍵をかけてから、アパートの階段をゆっくりと上がっていく。
今の時刻は午後8時10分。今日はラーメン屋でバイトしてたんだが、仕事が早く終わった。しかも今日は優里奈が家に来ているらしいので、玄関を開ければ明日花と優里奈が待ってくれているだろう。店長から売れ残った餃子ももらってきたので、今日の夕飯はいつもよりも豪華である。
店長からもらった餃子を持って玄関のドアを開けようとしたその時だった。
『――――――ねえ、あなた本当に何なの!?』
『いたっ……や、やめてくださいよ優里奈さん!!』
「……!?」
ドアの向こうから、優里奈の怒鳴り声と明日花の悲鳴が聞こえてきたのである。
ぎょっとしながら、餃子の皿を玄関の近くに置き、大慌てで玄関の扉を開けて家の中へと飛び込んだ。
「――――――――何してる」
「あ…………」
明日花の髪を思い切り掴み、引っ張ろうとしていた優里奈が目を見開きながらゆっくりとこっちを振り向いた。
明日花と優里奈は仲が良かった筈だ。前にカラオケに行った時は一緒に歌ってたし、夕飯を食べに行った時も楽しそうに話をしていた。だから、この2人が喧嘩をするとは思えない。
拳を握り締めながら、ゆっくりと妹の顔を見下ろす。
怒鳴られたり、髪を引っ張られただけではなかったらしい。明日花の真っ白な頬は赤くなっていて、唇も切れて血が溢れ出ている。胸倉を思い切り掴まれたのか、上着のボタンもいくつか千切れ飛んでいて、床の上に散らばったマンガや雑誌と一緒に床を覆い尽くしていた。
逆に、優里奈は無傷だった。明日花は抵抗したのだろうが、反撃した形跡がない。
ゆっくりとリビングに足を踏み入れると、優里奈はぶるぶると震えながら明日花の髪から手を離した。
「ち、違うの…………力也くん、これは…………」
言い訳しようとする彼女を無視し、そっと明日花の肩に触れる。涙が右手に零れ落ちてきた途端、いつも感じていた怒りが肥大化を始めた。
最愛の家族を痛めつけた相手に復讐してやろうという憎悪が、加圧された状態で溢れ出し始める。いつもであればこのまますぐに後ろを振り向き、優里奈をぶん殴っていた事だろう。女だろうと容赦はしない。以前にも、明日花を虐めていた女子をぶん殴って血まみれにしてやったことがある。
そう、赤の他人であれば容赦はしなかった。
だが………こいつは、赤の他人ではない。
一緒にカラオケに行ったり、ゲームセンターで遊んだ。
学校から途中まで一緒に帰った。
一緒にご飯も食べた。
俺なんかに告白してくれた。
「………」
なけなしの思い出が、荒れ狂う憎悪から圧力を抜いていく。
後ろを振り向いた俺は、右手を伸ばし、言い訳しようとする優里奈の胸倉を思い切り掴んだ。確かに彼女は俺の彼女だ。ちょっとだけならば思い出も作った。だが、最愛の妹を痛めつけた事は絶対に許せない。
だから、殴らない事にした。
「り、力也く………」
「出ていけ………ッ」
「待って、話を………!」
「いいからとっとと出ていけぇッ!!」
胸倉を掴んだまま、彼女を壁に思い切り叩きつけた。幸運なことに、隣の部屋には誰も住んでいない。下の部屋にいる人には後で謝罪に行く必要があるが、それはどうでもいい。後で安いお菓子を買って、形だけ謝れば済むのだから。
呼吸を整えながら、優里奈を睨みつける。
彼女は、俺の目の前で初めて怯えていた。
他の女子たちと同じように。
俺を見て、怯えていた………。
「…………もう、その顔を見せるな。この家にも来るな。お前なんか、もう彼女じゃない」
「………!」
「次に顔を見せたら、首から上を吹っ飛ばしてやる」
呼吸を整えながら、そっと彼女から手を離した。
これが限界だった。
これ以上、優里奈を許す事ができなかった。
涙を流しながらぶるぶると震えていた優里奈は、ゆっくりと玄関の方へと歩いて行った。靴を履いてから玄関を出て、涙を拭い去ってから踵を返す。ドアが閉まったのを確認してから、まだ泣いている明日花の頭の上に優しく手を置いた。
彼女を傷つけた相手を無傷で逃がしたのは、これが初めてだ。
いや、きっと彼女は心に傷を負っている。
物理的に傷を付けられるよりも遥かに致命的な傷を、優里奈は負っている。
でもな、悪いのはあっちだ。何もしていない明日花を傷つけたのだから。
「…………明日花、ご飯にしようか」
ポケットから取り出したハンカチを最愛の妹に渡しながら、そう告げた。
そして、悟った。
恋をするのってこんなに辛い事なんだな、と。
何でこんなことになったのかは、後で明日花から聞いた。
どうやら優里奈は、いつも俺のすぐ近くにいて楽しそうに話す明日花に嫉妬していたらしい。しかも酷い事をされていたのはあの時だけではなく、カラオケで俺がトイレに行っている間にも冷たい事を言われたり、足を踏まれたりしていたという。
どうして教えてくれなかったのか、と問いかけると、明日花は微笑みながら教えてくれた。
『………だって、兄さんのせっかくの幸せを壊したくありませんでしたから』
俺はな、お前が幸せならいいんだよ。
俺なんか、いくらでも不幸になったっていい。その分の幸運がお前に行き渡るっていうなら、いくらでも不幸になってやる。
そう思いながら守ろうとしていたのに――――――身体を張っていたのは、俺ではなく彼女の方だった。
こんな下らん幸せのためだけに、傷つけられても、罵られても我慢し続けていた。
ダメな兄貴だな、俺って………。
「…………クソ」
昔の事を思い出してしまった。
クソッタレな事を今まで何度も経験してきたが、あれは今まで経験してきたクソッタレな経験の比じゃないくらいクソッタレだ。正真正銘のクソッタレである。
頭を掻きながら埃まみれのソファから立ち上がり、AK-47を手に取った。とりあえず、このソ連製の素晴らしいライフルでも眺めていようと思ったんだが、どうやら同志たちはゆっくり休ませてくれるつもりはないらしい。
コンコン、とノックする音が聞こえてきた直後、蒼い髪の男の娘がストック付きのスチェッキンと大型の折り畳み式ナイフを持って部屋の中に突入してきやがった。
「オイ力也ァァァァァァァァァァ!!」
「うおぉぉぉぉ!?」
「テメェ向こうの世界にも女がいたのかよオイィ!?」
ジャンプしながらナイフの刀身を展開し、思い切り振り下ろしてくるジェイコブ。何考えてんだこいつ。
ナイフを義手で受け止めると、ジェイコブは泣きながら立て続けにナイフを振り回してきやがった。
「ずるいぞお前、マジで! 俺なんかっ……俺なんかァァァァァァ! こんな容姿のせいで彼女より彼氏が出来そうなんだよちくしょォォォォォォォォォ!!」
「いや、あれ元カノ」
「ふざけんなコラ! 団長と副団長とシュタージのトップだけじゃないく、元カノまでいるってお前何なんだ!?」
「いや、あれ元カノ」
「ハーレムでも作る気かァ!? 毎晩美少女たちと〇〇〇〇して楽しむつもりなんだろこのド変態分隊長ォ!!」
「いや、あれ元カノォッ!!」
「こりぶりっ!?」
しつこいので、適度に手加減した右ストレートをジェイコブの顔面に叩き込んでやった。オーストリア製の超小型ハンドガンの名前を悲鳴の代わりに叫びながら吹っ飛んで行ったジェイコブは、手加減したパンチを喰らったにもかかわらず部屋の壁を突き破り、どこかへと吹っ飛んで行った。
いや、力は抜いたんだが………。
「…………」
しばらくすると、埃まみれになったジェイコブが泣きながら戻ってきた。彼は一応キメラの遺伝子で造られたホムンクルスなので肉体は頑丈である。壁をぶっ壊しながら吹っ飛んで行ったとしても、きっとノーダメージだろう。
「うえーん、隊長だけずるいよー」
「よしよし。あ、お使い頼んでいい?」
「なーに? ハーレム構築中のド変態分隊ちょ――――――隊長」
ニッコリと微笑みながら義手を目の前で思い切り握ってジェイコブを黙らせてから、彼にお願いする。
「タンプル搭にいるシュタージに、敵の戦力について報告しておいてほしい。こっちからボスに連絡するよりそっちの方が速い筈だ」
「了解だ」
敵に転生者がいたのは非常に厄介だからな。しかも、今まで戦ってきた転生者のように剣で接近戦を挑んでくるタイプではなく、高出力の魔力を使って強烈な魔術を連発してくる魔術師タイプの転生者である。
そういう相手と交戦した経験はあまりない。端末の前の持ち主も、どちらかと言うと剣で攻撃してくるタイプの転生者と交戦する事の方が多かったらしく、頭の中にある前任者の記憶にも強力な魔術を連発してくるタイプの転生者と戦った記憶は残っていない。
まあ、前任者は狙撃も得意分野だったらしく、発見される前に大口径の弾丸で頭を吹っ飛ばして戦闘を終わらせることの方が多かったようだが。
観測に使った大型潜望鏡には映像の録画機能もある。既にコレットが録画した映像をタンプル搭へと転送しているので、シュタージの方で解析してくれる筈だ。
それにしても、優里奈が白軍の転生者とは。
あの時は殴らずに逃がしてやったが――――――また牙を剥くというのなら、次は殺す。
「同志大佐、データの解析を開始します」
「お願い」
オペレーターたちが送られてきた映像の解析をしているのを見守りながら、私は腕を組んだ。
やれやれね。今回は楽勝かなって思ったけど、敵にも転生者がいるなんて。しかも剣で突っ込んでくる馬鹿よりも遥かに面倒な魔術師タイプ。攻撃力はあるし、防御力も高いし、魔力もなかなか枯渇しない。
相手が戦闘態勢に入る前に暗殺しちゃうのが一番楽なんじゃないかしら。寝てる間に首にナイフ刺しちゃうとか。
そう思いながら、机の上に置いてある資料を拾い上げる。
まあ、革命が長期化してくれた方が都合がいいわね。そうすれば”本隊もオルトバルカから戻って来れない”し。
セシリアちゃんが革命軍に全面協力するって言ったおかげで、今のタンプル搭にはなけなしの警備部隊とクレイデリア国防軍しかいない。なので、臨時の司令官は私って事になってるわけ。
この状況は私にとってはとっても好都合なのよねぇ……。セシリアに内緒にしてた”アレ”の開発を進められるから。
もし実戦投入できるなら、いつかは投入したいわね。まだ先になりそうだけど。
そう思いながら、”懲罰虫”と書かれた資料を机の上に置いた。
※コリブリは、オーストリア製の超小型ハンドガンです。




