王位継承戦
季は円の王宮への道を急いでいた。
息を切らしながら部屋へ飛び込むと、王の傍付きの者や医術を司る呪術師たちが一斉に季の方へ振り向いた。
「王はご無事ですか!?」
「季よ、落ち着くのだ。私はこの通り無事だ」
ゆっくりとした動作で起き上がった王が、季に微笑みかける。
「季が一番か。お前は孝行者だな」
王には現在三人の息子がいる。長兄の伯、次兄の仲、そして末弟の季である。この部屋の中にいない伯と仲の兄たちは、まだ到着していないのだろう。
王が倒れたという急報が季の下へ届いたのは、まだ日の昇らぬ未明の時間帯だった。季の自邸は王宮からそれほど離れてはおらず、急報に応じて王宮に駆け込んだ時は、まだ太陽が南中するよりも前のことだった。伯と仲はそれぞれ政務により王宮を離れており、急報を受けてそのまま王宮を目指したとしてもまだ到着していないのは無理はない。
しかし季はそのことを口にはせず、王の言葉に恐縮した風を装った。
――王からの評価をわざわざ下げることはない。
近頃の季の関心事は、専ら王位の行方に向いていた。
現在の王は生まれながらの王ではない。現在の王が王となる前、その位にいたのは人間ではなかったと言われている。何しろ数百年に渡り王の位にいたのだから、神かそれに準ずる存在であることは間違いないだろうと一般的に考えられている。始王と呼ばれるその存在から、季の父である環が王位を譲り受け王となり円王朝を建てた。そして現在まで円王の地位にいるのである。
しかし人間である季の父である環は当然ながら人間であり、人間であれば寿命というものがある。王はもう随分な高齢になっていて、いつ死期が訪れてもおかしくはない。そうなると問題になるのは、その後の王位の行方である。
民たちの間には財産と相続の概念が浸透しつつあり、親の財産は子が相続するのが当たり前になってきている。そして王の持つ財産とは、この邦であり、この邦に暮らす民であり、それらを司る”王”という位そのものと考えることができる。
――次の王位は、三兄弟のいずれかが相続する。
季がそう考えるのは自然なことだった。しかし財産を相続するのは必ずではないにせよ長子が多い傾向にある。つまりこのままでは三兄弟の長兄である伯が王位を継ぐ可能性が高い。
――長兄を差し置いて私が王位を継ぐためには、王に気に入られる必要がある。
次期王位。それが季の目標であり、同時にそれに最も相応しいのは自分であると、季は考えていた。
「令尹はどうした」
至尊の位である王に次ぐ高位に位置する令尹は、現在履という男が就いていた。王が王となって以降、最も王の近くにいて王を支えてきた存在であり、王が最も信頼を寄せる相手でもある。
「令尹も間もなくこちらへ到着されるかと」
「政務の最中か」
「はい」
「ならば良い。私への面会などより、民のために政務に全力を注ぐようにと伝えよ」
王は常に民を最優先に考えてきた。その姿勢が、始王が眠りに就き混乱に陥りかけたこの邦を立て直す力となったのだと令尹も語っていたことがある。
「私の身の回りのことは伯仲季の三人で手分けせよ。そして余力を持って令尹を補佐せよ。令尹は私のことは気にせず政務に全力を注ぐように伝えよ。良いな」
それだけを季に告げると、王はゆっくりと目を閉じた。
「私はしばし休む」
「王!」
「ご心配には及びません。王はお休みになられました」
呪術師が王は眠っているだけであることを確認すると、季は安堵し退室した。
王の病室から退出した季は、令尹の執務室へ向かいながら今後のことについて思考を巡らせていた。
――この状況は好機と言えるのではないか。
王が病に伏せり、王からの伝言を季が握っている。その状況を認識したとき、季は自然と足を止めていた。王宮の回廊に一人、足を止め黙考する。
―今、王からの言葉を改変してしまえば、俺の思うがままに振舞えるのではないか。
王から令尹や伯仲の兄たちを遠ざけることができれば、王の言葉は季の思うままになり、王の耳に入るものは季が選別することができる。そうなれば思うように王を制御することができ、次期王への道も拓けるのではないか。
王という概念が人の手の届くところまで降りてきたばかりのこの時代でありながら、季は既に政略の思考をしていた。
考えがまとまると、季は再び令尹の執務室へ向かって歩き出した。
「おお、季殿。王はご無事でしたか」
令尹の執務室に入った季を見た令尹は立ち上がり季を出迎えようとしたが、季はそれを制した。
「お気遣いは無用です。それは王の意向でもあります。王からの伝言をお伝え致します」
季は王の伝言と称して令尹に語った内容は、もちろん季の都合の良いように改変したものだった。
令尹は王のことは気にかけず、政務に集中すること。
伯仲の兄弟は令尹の補佐として全力を尽くし、民のために働くこと。
王の身の回りのことや王宮の管理に関しては季が全てを司り、令尹や兄たちの手を煩わせないようにすること。
季は、王の言葉の大筋は変えず、王の周囲から伯仲兄弟を排除したのである。
「若輩の私では令尹や兄上たちの直接の力にはなれませんが、せめて後顧の憂いなきよう努めさせて頂きます」
健気を演じる季の態度に、令尹は季が語った”王からの指示”を疑うことはなかった。
後に同じ内容を季から聞いた伯仲兄弟も、疑うことなく素直に受け入れた。
令尹と伯仲の兄弟が政務に集中したことで、王と看病と王宮の管理は季が一人で取り仕切ることとなった。
「兄たちはどうした」
病室に現れるのが季のみであり伯仲の兄たちが来ないことを王は寂しがっている様子だった。
「兄上たちは令尹をお援けするために、日々お忙しくしておいでです」
「そうか。私の世話をお前一人に押し付けているのだな」
「い、いえ。そのようなことは……」
恐縮した様子で否定する季の態度に、王はかえってそれを肯定と捉えた。
「困った兄たちだ」
もちろんそれすら季の思惑通りだった。
王の身近で甲斐甲斐しく働く季と、病室に現れず外に出て政務を行う兄たち。王の覚えがいいのはどちらかというのは、言うまでもない。
王が倒れたことで、民たちの間でも次の王位の行方について噂されるようになっていた。
「やはり長兄の伯様じゃないのか」
「いや、しかし伯様は優しすぎる。戦や狩りでは仲様の方が一枚上手だ」
「優しいからこそ、王に相応しいのではないか」
「何を言う。人の上に立つのならば、何より強くなければ」
次の王は伯か、仲か。
民たちの噂は活発になっていたが、しかしその話題に季の名が挙がることはなかった。季は二人の兄たちに比べて、若く頼りないと思われていたのである。
――構わないさ。だが、最後に王位を手にするのは俺だ。
確かに季は末弟であるし、仲のように戦上手でもない。兄たちに比べ、王位を受け継ぐ正当性は弱いように思えた。しかし王位の継承というのは、現在の王・環が”始まりの王”から継承した一例があるのみで、どのように継承先を決めるのかという点については前例は皆無と言っていい。長兄が受け継ぐとも限らないし、戦上手が有利と決まっているわけでもない。
――最終的に決めるのは王だ。
季はそう考えていた。だからこそ、兄たちを王から遠ざけ、王に気に入られるように振舞っているのだ。
全ては季の思惑通りに進んでいた。
――そろそろ頃合いか。
これまで王の耳目に入るものは季によって取捨選択され、王から発せられた言葉は季によって歪められていた。しかしそれらは仮に発覚したとしても大きな問題にならない程度の軽微なものばかりであり、要するに様子見の範疇であったと言って良い。
――もう様子見は終わりだ。
そう決意した季は、様子見の間に練り上げた計画を実行に移した。それは季自身が動くのではなく、伯仲の兄たちを動かすための策だった。
「王が次の王を誰にするか、悩んでおられるようです」
まず季がそう伝えたのは、次兄の仲だった。
「通常であれば長兄である伯兄上に王位を継承するのが一般的ですが、邦を守る王としては仲兄上の方が向いているのではないか、と」
「そりゃあそうだろう。兄者は温厚すぎる。あれでは邦は守れん」
季が創作した”王の言葉”を聞いた仲は、気を良くして「次の王は俺だ」と周囲に触れ回るようになった。
仲の様子を聞いた伯は、季の元へ事情を確認しに現れた。
「仲が次の王は自分だと触れ回っているようだが、どういうことか知らぬか」
「王が次の王について悩んでおられると仲兄上にお伝えしました。王は伯兄上より、仲兄上の方が戦において強いと考えておいでのようです」
「なんと……。そういうことか」
「しかし、私はそうとは考えておりません。伯兄上は戦を好まぬだけで、決して下手ではないはずです」
事実、伯は小規模な戦であれば勝利を収めた実績は少なくない。
「これまで伯兄上の戦は小規模なものばかりでしたから、これまで以上の戦で勝利を収めれば王からの評価も変わりましょう」
「これまで以上の戦か……。しかしどこにそのような敵が」
「円王朝の治世を……。いえ、始王から継承した父上の王位を認めずこの邦を出奔した勢力が、この島の南方で集まっております」
環が円王となったとき、その王位継承に異を唱え反発の意思を示した勢力は少なくなかった。円王朝初期においてはそれら諸勢力は円王軍の前に各個に征伐され、反発勢力は大人しくなっていた。しかしその円王が病に倒れたという報を受けてその諸勢力が島の南方で集まり勢力を強めているという。
「なるほど。私が奴らを征伐すれば、王の迷いは晴れるであろう」
伯はすぐに兵を整え南方へ征伐軍を動かした。
伯が南方へ兵を動かしたと聞いて焦ったのは仲である。
「季よ、兄上に入れ知恵をしたのはお前だな」
「入れ知恵など……。そのようなことは……」
「まあ良い。しかし兄上だけに戦功を挙げられては、弟である俺は不利になる。俺もどこかの勢力を討って功績を挙げねばならん」
「でしたら、東方の島に巣くう混沌の一族は如何でしょう」
円王朝の中枢が置かれる島は、創世の神が眠る島として神寝島と呼ばれているが、その周辺にも小さな島があり、特に東方の島には始王の時代から始王に従わない者たちが棲んでいた。彼らは創世の神がこの地に来たときに、この地から追い出した混沌の一族であると言われている。
「混沌か。いいだろう」
仲はすぐに多数の船を作らせ、混沌の一族が救う島へ向けて兵を出した。
伯仲の兄弟が王都を離れ遠征に出たが、季は手薄になった王都で何か行動を起こすつもりはなかった。
――いずれは俺のものになる邦だ。兄たちには俺のために勢力圏を拡げておいてもらおうじゃないか。
季が兄たちを唆して出征させた思惑は、自身が王位を得た後の利益のためだった。
兄たちが王都を離れている間に季が行ったことは、これまでと同様に王に尽くし、王の心証を良くすることだけだった。
「伯と仲はどうした」
「相変わらず、政務にお忙しくしておられます」
季は王に兄たちの出征を告げてはいなかった。
「不孝者の兄たちだな」
「そんな……。兄上たちは民を最優先にという王の言葉に忠実なだけです」
「兄想いの弟を持って、伯と仲は恵まれているな」
健気な弟を演じる季は役者であった。季の演技を王はすっかり信じ、不孝者の兄たちと孝行者の弟という印象を植え付けられていた。
遠征に出た兄たちは、揃って勝利を収めほぼ同時に王都へ凱旋した。
この戦果により、王都における噂の花は再び大きく咲き誇ることになった。
「伯様も仲様に劣らぬ武功を挙げた。これで伯様の王位は間違いないだろう」
「いやいや、長年敵対していた混沌を討った仲様の方が挙げた功績は大きいだろう。やはり次王は仲様だよ」
「しかし混沌は我らの王には従わなかったが、敵対していたわけではないだろう」
次の王は伯か、仲か。民の噂話は尽きることはなかった。
その後も伯と仲は度々出征を行い、その度に円の支配領域を拡げそれぞれに名を上げていったが、両者の功績に決定的な差はないように思われた。
――そろそろか。
季は兄たちの武名が上がるのを待っていた。そしてそれが頂点に至った頃合いを見て、次の策を実行に移した。
「兄上たちの武功はそれぞれ天を突くほどに高まっておりますが、双方共にあまりに高くなりすぎており、地上を這う我々凡人にはどちらが上におられるのか判別がつきません」
季は仲の下を訪ね、そう告げた。
「父上はなんと仰っているのだ。民などの凡人ではなく、父王さえ判断できればよいのだ」
「父上も病室の中からでは何とも判断に困っておられるようです」
「そうか。ならば、直接雌雄を決する他あるまい」
仲のその反応は、季の予想通りだった。好戦的な仲は、必ず直接対決による決着を求めるだろう、と。
すぐに決戦のために兵を集め出した仲の動きに、伯も呼応するように戦の準備を始めた。
――せいぜい争い合って、疲弊するがよい。
季の思惑通り、伯仲の兄弟は兵を率いて戦を開始した。
その戦力は拮抗しており、早々に決着はつかないように思われた。