人間の王
環に秘密を打ち明けた王だったが、王が環を呼び出した用件はそれだけで終わりではなかった。
「そろそろ私の死期も近い。次の王へ引き継ぐ準備をしなければならない」
令尹としての桀は三年前に既に死んだことになっているが、その時でさえ既に死が不自然でない年齢にあった。現在の年齢を考えればいつその時が来てもおかしくはない。
そして王が死ぬということは、令尹がその次の王となるということでもある。
「次の王はもちろん令尹であるお前だ。そのための準備をしていくのだぞ」
環は王のその言葉に返事をすることができなかった。
王の屋敷を出た環の心中は空虚だった。
我が子を殺した王への復讐を糧にこれまで生きてきた。それが蜃気楼のように掻き消えてしまったのだ。
環は目標を見失い自棄になりかけていた。
しかしそんな環を救う出来事が旺姫の身に起きた。胎内に新たな命が宿ったのである。
無事に生まれてきた子は白い子ではなかった。が、環にとってはそんなことはどちらでも良いことだった。環はかつて王に殺された我が子が、再び自分の下に戻ってきたかのような、そんな感覚に包まれていた。
環はその子に伯と名付けた。
その名には様々な想いが込められていた。
伯の誕生で精神的に救われた環だったが、王が我が子を殺したという恨みが完全に消え去ったわけではなかった。
――私が、王になる、か……。
長い間、王に対し恨みを抱いて生きてきた環には、自身がその恨みの対象である王になるということへの抵抗感があった。
――王とは何であろうか。何のために存在しているのか。
環はそれを日々考え続けていた。
多くの民にとって、王とは絶対的な存在であり王を疑うという発想自体が有り得ないことだった。しかし、環とって王とは絶対的な存在ではなくなっている。それ故に王を疑い、その存在意義を考えることができた。
そして環は、ついにある結論に達した。
王の秘密を明かされてからしばらくして、環は再び王に呼ばれた。
王の屋敷へ向かうと、王の秘密を明かされた時のように外の警戒は厚く内部は人払いされていた。
「私は明日にでも死を迎えるだろう。その前に、お前に王と邦を任せたい」
もはや起き上がることも困難な王のその言葉は、環が予想していたものだった。
そして環はその求めを受けない決意をもってこの場へやってきた。
「王よ。私は我が子を殺した”王”を憎んでいます。その”王”は貴方ではないということも理解しています。しかし”王”が我が子を殺したという事実は変えようがなく、我が子を殺された私の恨みは消えることはありません」
淡々と語る環の言葉を桀は静かに聞いていた。
「恨みを向ける対象である”王”に、私自身がなるわけにはいきません」
「なんとなく、お前はそう言うだろうと予感していた。それも仕方のないことだ」
静かに呟いた桀が最後の力を振り絞り、病床から起き上がった。そして環に正対し、その眼をまっすぐ見据える。
「仕方のないことだが、それでは済まんこともある。この邦は王が支えてきた邦だ。王はこの邦の柱だ。王がいなければこの邦は混乱に陥るだろう。そうなれば、民はどうなる。新たに生まれてきたお前の子はどうなる」
桀は必死だった。環に同情する気持ちに偽りはない。しかし、それでも王は邦に必要な存在だという考えにも変わりはない。
「わかっています。邦には、いえ、民には王が必要です」
民に王は必要。
それが環の結論だった。しかし環の結論はこれで終わりではなかった。
「しかし、この邦を支える王が現在の数百年この邦を支え続けた”王”である必要はありません」
「何を言う。王とは邦そのものだ。数百年続いた”王”が斃れるということは、数百年続いたこの邦が斃れるということなのだぞ」
「邦とは民を包み守る存在ですが、民を包む邦が今のこの邦である必要はありません。真に大切なものは、王や邦ではなく、王や邦が守るべき民なのです」
民を守るために、環ができること。
「私が王になります」
王を引き継ぐことはできないと言った環が、今度は自分が王になると言った。
「それは、いったい……」
「これまで数百年に渡りこの邦を支えてきた王、”始まりの王”は眠りに就き、私が私として新たな王となります」
それは環の”王へ復讐”でもあった。環は”王の命”ではなく”王という仕組み”そのものを打倒し、復讐を果たそうとしているのである。
しかし同時に、これは伯たち次の世代への正しき世を伝えるためのものでもあった。
環は我が子を王に殺された。それは王が絶対者であるが故に起こった悲劇だと環は考えた。絶対者であるが故に、誰も王の横暴に対して諫言を行うことができず、桀のように「仕方がない」と受け入れてしまう。そして王は神秘の存在として王宮の奥に閉じ籠ることで、かつて民だったことを忘れ、絶対者であるが故の過ちを犯してしまう。
数百年続いたという王の神秘性を廃し、人間である環が人間として王の位に就く。そうすることで民と王の距離を近づける。それが環の考えた新しき王の姿だった。
「王の秘密は公表しません。これまでと同様に、神秘の存在のまま王には眠りに就いて頂きます。代わりに人間である私が新たな王となり、民と共に新しい邦をより良きものにしていきます」
民と共に。それが環の理想だった。
「そう、か」
環の決意を聞いた桀は、どこか安堵したような声を発した。
そして、そのまま永い眠りに就いた。