放浪の果て
その男は”コウ”と呼ばれていた。
コウが生まれたのは、遥か南の地域。大河が海に注ぐ豊かな土地の集落であった。大河によってもたらされる豊かな水と土壌。季節ごとに採れる豊富な海の幸。山に入れば、様々な道具に生まれ変わる金と呼ばれる素材も採れた。
しかし豊かな土地であるが故に、コウたちは悲劇に見舞われることになる。その豊かな土地を狙い集落を襲う者が現れたのだ。
この豊かな土地を狙う者は多い。コウたちも戦には慣れている。しかしこの時ばかりは敵の数が多すぎた。
一族は敗れ、散り散りになって逃げた。
この時コウに従った集団は、北を目指して走った。まだ若いコウだったが、本来の一族の長は戦で命を落とし、他の長候補は別の集団をまとめて逃げていったこともあり、コウはその集団の長として皆を導くことになった。
元々力が強く知恵も働くコウは、皆から頼られる存在だった。しかし故郷の外の世界に出るのは初めてのことである。
特に山を越えてからは周囲の景色ががらりと変わった。
見慣れぬ木々。
見慣れぬ草花。
見慣れぬ虫。
見慣れぬ獣。
夜空の星でさえも、見覚えのない輝きが煌めいていた。
そんな中であっても、皆に長と慕われ頼られている以上、絶望して全てを投げ出すわけにはいかない。
「もう少ししたら休もう」
そう言いながら指し示す先には、巨大な樹があった。
まるで見ず知らずの土地である。地上にはどんな獣がいるか知れない。樹上ならばまったく安全とまでは言えないが、警戒すべき対象は減るだろう。
丘の上から見た限りでは大した距離ではないように感じたその大樹の麓へ辿り着いたとき、既に日は大きく傾いていた。間もなく夜の帳が周囲を支配することになる。
「早く上ろう。日が沈めばどうしようもなくなる」
一族の皆が樹上へ登り一息吐いたとき、周囲は一寸先も判別できないような闇の世界となっていた。恐怖はあったが、それ以上に疲労が身体中を支配していた。
それは一族の誰もが同じであった。全員が眠りに落ちるのに、時間は必要なかった。
コウが目を覚ましたとき、空は僅かに白み始めていた。すぐに飛び起き、周囲を確認する。
いかに疲れていたとはいえ、見張りもなく眠りこけていたことに今更ながら慌てるが、夜間に異変のあった様子はない。
――良かった……。
周囲から一族の皆の静かな寝息が聞こえてくる。
安堵したコウはすぐに活動を開始した。皆を起こさぬよう静かに枝をよじ登り、大樹の頂上に立つ。やがて太陽が東の空に顔を出し始めると、周囲の状況がよくわかるようになってきた。
――あれは……?
コウの目に映ったのは、陽の光を反射し煌く水面だった。
――海か?
故郷では海に近い土地に暮らしていたコウたちは、漁の技術も持っている。漁ができれば、この地でも暮らしていけるかもしれない。
今後の不安で押し潰されそうになっていたコウの心中に、少しずつ熱が戻ってきていた。
一族の皆が起きてくると、まず食糧を探した。木の実などを集め腹を満たす。見慣れぬ木の実ばかりであったが、それらを避けていては食べるものはなくなってしまう。
これまでコウは見慣れぬ果実や草も積極的に口にし、それらが食べられるか否かを見極めていった。時には毒に中りしばらく動けなくなることもあったが、幸い命に関わる症状に見舞われることはなかった。そのうちにコウは実際に口にすることなく、果実や草が食べられるか否かを見極められるようになっていた。
腹が満ちると移動を開始する。明け方に樹上で見た海のようなものを目指して歩き始めた。
しかしその足取りはすぐに阻まれた。
「川だ」
故郷やこれまでの道中でも大小いくつもの川を見てきたが、今目の前に横たわるそれは、過去に見たことのないほど激しい勢いを持つものだった。
川幅は大したことはない。コウや一族の男衆ならば渡れないことはないだろう。しかし子供や女たちが渡るには危険であろう。
「安全に渡れるところを探そう」
コウはそう言うと、川岸を下流に向かって進み始めた。もし渡れるところがなかったとしても、下流へ向かって進めばやがて海へ出るはずである。
しばらく川沿いを歩き続けるが、渡れそうな場所は一向に見つからなかった。それどころか川幅は徐々に広がっていた。
――蛇行する川に沿って進めば距離は余計に歩かねばならないが、いつかは必ず海に至ることができる。
それだけを信じて歩みを進める。
唯一恐れることは、この大河に沿って下流に向かうことで、敵に占領された故郷に近付いてしまうことであったが、幸いこの大河は大樹の上で見た海のようなものの方角へ向かっていた。結局、その日は渡河は叶わず、川岸近くの高台を見つけ夜を明かした。
翌日もひたすら川沿いを下流に向かって歩き続けた。安全に渡河できそうな場所は見つからない。
一族を率いて大河の沿岸を歩き続けるコウだったが、その心中は二つの感情が互いにせめぎ合っていた。一つは新たな定住の地、即ち故郷が見つかるかもしれないという期待。もう一つは、その地に既に集落があり、再び土地の奪い合いになるかもしれないという恐怖。
豊かな土地であれば、既にそこを故郷とする者がいてもおかしくはない。むしろ当然いるはずだと考えるべきである。
――故郷を追われ苦しんでいる我らが、別の誰かを故郷から追い出すのか。
そもそも再び争いになって勝てるとも限らない。コウに従う一族の者たちは若く体力に優れる者が多いが、いかんせん数が少ない。故郷にいたころは、数百人を越える規模の集落を維持していたが、今コウに従うのは十数人程度のものだった。
――やはり戦はできない。先住民がいたら、争いを避けて別の土地を探そう。
やがてコウたちは海のような水場へ出た。
白く泡立つ波。
仄かな磯の匂い。
舐めると僅かに塩辛い水。
「故郷の海ほどではないが、確かに塩辛い水。海に間違いない」
この時コウたちが辿り着いたのは海ではなく海と見紛うほどの巨大な湖であったが、それは彼らには知る由もなかった。
ともあれ、大河が海に注ぐその土地は故郷にそっくりであり、コウたちをしばしの安息の予感が包み込んだ。
「しばらくここで身体を休めよう」
コウたちが落ち着いたのは、海岸沿いに口を開ける洞窟だった。それは一族十数人全員が中で身体を休めるのに十分な広さを持っていた。
久方ぶりの安息。コウたちはこの洞窟で月の満ち欠けが一巡するほどの期間を過ごした。長旅を始めてからこれほど長期同じ場所に滞在したことはない。
この地が新たな故郷になる。
長旅に疲れた一族の多くがそう考えたのは無理からぬことであった。
一族が安堵の雰囲気に包まれる中、しかしコウだけは危機感を捨てることはできなかった。
「そろそろ移動を考えたい」
コウがそう切り出したとき、一族の皆はその顔に驚愕と恐怖の色が浮かぶのを隠すことができなかった。
「何故だ、コウ! ここは十分安全ではないか。ここからまた危険を冒して移動する必要がどこにある」
「いや、ここは十分に安全とは言い切れない。お前も気付いているだろう、ゲン。あの足跡を」
ゲンと呼ばれた男は一族の男衆の中で最も身体が大きく力が強い。コウが最も信頼している男の一人である。そのゲンは足跡と言われ顔色を曇らせる。思い当たることがあったようだ。
コウが言った足跡とは、食料や薪を調達するために森に入った際に度々目にする獣の足跡のことである。熊だろうか、虎だろうか。その正体ははっきりとはわからないが、その大きさは並大抵のものではないということは明らかだった。しかもその数や一頭の獣のものではない。
コウの脳裏にはここまでの道中で数多く見てきた獣の姿や痕跡が思い起こされていた。故郷にもいた獣に似ているものや、まるで姿形の違うものまで様々であったが、総じて言えることは、その大きさが故郷にいた獣よりも全体的に大型な傾向が見られたのである。
「これまでは大型の獣も避けることはできたが、定住するとなると話は違ってくる。農耕を始めれば向こうから近付いてくることもあるだろう」
「ではどうするというのだ。獣は北へ向かうに連れて大きくなっていった。これ以上北へ向かっても獣はより大きくなっていくだろう。しかし南へ戻ることはできない」
「獣の近付けない土地に行く」
そう言いながらコウが指差したのは、海だった。いや正確には、その先に浮かぶ島だった。
「海を越えられる獣は限られる。あの島へ渡れば、猛獣の脅威はだいぶ減らせるはずだ」
コウの提案に皆は戸惑いと恐れの色は見せつつも、強い反対の意は出されなかった。一族の皆も、大型の獣を見かけて恐怖を抱いた者が少なくなかったのだろう。
すぐに森から木を切り出し、大きな舟を作り始めた。コウたちは大河や海に接する地域に育った一族であったが、舟を作り海を越えるという経験はない。海での漁は舟を使うこともあったが、漁の獲物を揚げておくための小さなものが主であり、海を渡れるほど大きな舟を作ることはなかった。
そんなコウが筏で海を越え島に渡るという発想に至ったのは、皮肉なことにコウたちを故郷から追い出した襲撃者が海から舟で現れたことの印象が強かったのだろう。
コウたちは力を合わせ、複数の小さな舟を連結した大きな舟が完成させた。
「あの島は、今度こそ我らの新たな故郷になる。皆、もう少しだ。頑張ろう!」
一族の者たちを激励し、舟を海へ漕ぎ出した。