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革命

 かつて円王朝が支配していた地域を弦と弧に二分するようになってから百年余り。

 共に円王朝を前身とする兄弟国である両国は、建国当初に立てた不可侵の盟約を守り直接干戈を交えることはないが、円王朝時代から対立していた両者はそれぞれが独立してもその対立姿勢は変わらなかった。

 禁じられた戦の代わりに両国は相手以上の発展を目指し、国土の拡張、貿易の振興などにより競い合ってきた。今や弦弧両国は大陸東部の二大強国と呼ばれ、円王朝時代以上の発展を成し遂げていた。弦の領地はその西端は西壁に接し、北河から南江の間の領域は隈なく支配している。弧の領地は東海にまで達し、東海に浮かぶ島で発展してきた諸小国をも支配している。

 それぞれが相手よりも強大な国力を維持していると主張し、相手よりも豊かであると張り合ってきた。

 しかしそれは先代の弦王である(めい)王の時代までであった。明王が崩御した後に弦王の位についた明王の子・玄倒(げんとう)は、強く自信に溢れた父とは異なり、軟弱な性情をしていた。

 常に自信を持てず、重臣の顔色を窺うようにおどおどしていた。そんな玄倒の後見に立っていたのが、湟氏の当主である湟発(こうはつ)だった。

 湟氏は北河の治水を行い、その沿岸に現在の王都である玄安を築いた功績で名を上げた弦国屈指の名家である。元は弦王室から分かれた家でもあり、本来の姓は玄であるが、地水の功により当時の弦王から”湟”の地を下賜され、その地名を氏として名乗るようになったのである。その湟氏の当主である湟発は明王からの信任も篤く、明王の時代から人臣の最高位である丞相の位に就いていた。

 湟発は忠義心の篤い人物であった。玄倒に仕える重臣の多くは明王の時代からの臣であり、先王と比べ軟弱な玄倒に失望し侮っている者ばかりであった。しかし湟発のみは違った。

――国とは王によってその性質が変わるものではなく、王を支える臣下によって変わるのだ。

 それが湟発の思想であった。そのため湟発は、明王に仕えていた当時と現在とで王に対しての対応を変えなかった。

 湟発は玄倒に対し、非の打ちどころのないほどの立派な礼容で接した。弦に仕える臣下の内で最上位に位置する丞相・湟発が弦王に対する態度を示すことで、他の重臣たちもそれに倣うことを期待したのである。しかし他の重臣たちの尊敬の視線は、見事な礼容を向けられた弦王ではなく、それを行った湟発に対して向けられた。

「さすがは湟丞相だ」

「丞相がいればこの弦国は安泰だな」

 湟発を褒め称える重臣たちの声は時に弦王を侮る文脈で発せられたが、それを発した重臣たちはその声を潜めるようなことはしなかった。

「軟弱な王が自身を侮る声を聞いたとして何ができようか」

 それが重臣たちの声であり、それよりも湟発を褒めることで気に入られたときの利の方が大きいと考えたのであった。

 そして重臣たちの王を侮る雰囲気は彼らの部下の伝播し、弦の末端の官に至るまでになっていた。


 弦の王は軟弱である。

 その風評は偽海を越え弧国にまで伝わっていた。

 現在の弧王は名を信清(のぶきよ)といった。弧王家に姓はない。唯一無二の王家にそんなものは不要という考えであり、王朝成立前に名乗っていた”孤”という姓は初代弧王が捨て去ってしまったのである。

 現在の王である信清は幼少の頃より好戦的な性分として知られており、信清が弧王の位に就くと弦弧の対立の激しさは三倍にもなったと言われている。

 そんな好戦的な弧王が、軟弱な弦王に対し大人しく静観しているはずがない。

「今や弧は弦のみならず、かつての円王朝にも劣らぬ発展を見せている。にもかかわらず、弧の国主の位が弦や円と同じ”王”というのは如何なものであろうか」

 弧王は自身の能力と指導力に絶対の自信を持ち、それを裏付ける功績も数多く挙げている。弧国において憚る者のない、名実ともに絶対者であった。そんな弧王の発言に、否やを言える者は弧国内にはいなかった。

 そうして弧王は王を超える位を創作し、それを自称した。

 それが”人皇(じんこう)”である。

 皇、とはこの天地を創造した創世の神の名であったと言われている。天における絶対者である創世の神を”天皇(てんこう)”と称し、神が創造した天地の素となった神獣を”地皇(ちこう)”と称し、それらに対応した人間界における絶対者として”人皇”を自称したのである。

 この”人皇”は創作した位であり他に名乗る者のない称号であるが、弧の主であることを強調し特に弧皇(ここう)とも呼ばれることになる。


 弧が王を超える位を創作し自称したことについて、湟発は断固反発すべきであると主張した。

「弦と弧は共に円王朝から(わか)れ、本来は両者に優劣はありません。にも拘らず、実を無視して名のみで差を付けようなどとは言語道断でございます」

 しかし弧に弧皇の自称を止めるように求めたところで、あの好戦的な弧王いや弧皇・信清が応じるとは思えない。

「ならば、弦も王を超える位を創作し自称するより他はありますまい」

 その湟発の主張に、軟弱な弦王は珍しく反発した。

「王の称号は初代の円王が始王から継承したものであり、王を超えるということは、始王を超えることに他ならぬ。始王に対し畏怖の念の少ない弧では受け入れられようとも、始王を祭祀の最上位に置く弦においては許されることのない不敬な行いではないか」

 まさか反発されるとは思っていなかった湟発は驚いた。そして同時に、反省の念を抱いた。

――王からの反発を予想していなかったということは、私が王を侮っていたことに他ならない。

 形では見事な礼を行っていた湟発だったが、それは心の底から湧き出た尊敬の感情故のことではなく、弦王を立てて組織の規律を正すという打算のためだったことを改めて自覚し反省したのである。

――そんな自分が実を無視して名のみを(あらた)める弧を非難できようか……。

 湟発はそれ以上諫言することなく、弦王の主張をそのまま受け入れた。


 弧が”皇”を自称したことについて弦からの反発がなかったことで、弧皇の態度は大きくなっていった。弧としては王を超える存在であると自称している以上、王の位に留まる弦王に対し何ら憚る必要などないのである。

 そして弦としても、弧が”皇”を名乗ることについて反発せずに傍観してしまった以上、後になってそのことを責めることはできないという立場もある。

――やはり初めに反発すべきであった。

 しかし後悔は先には立たない。

 現状では弧の”皇”自称に対し意見することができない以上、弦も王を超える位を自称するより他は、弧の増長を止める手立てはないだろう。

「王よ。もはや弦も王を超える位を自称するより他はありません」

 湟発は再び王に対し上奏を行ったが、弦王の意見は変わらなかった。

「始王を超えるような功績は非才の我が身にはない」

「しかしこのままでは弧は増長し、弦の立場は悪くなっていく一方です」

「弧の創作した人皇という称号は、創世の神である天皇と対比し並び立つという畏れを知らぬもの。そもそも創世の神に”天皇”という称号を与えるという点が既に不敬であろう。いずれ神からの天罰が下るはずだ」

 弦王の抗弁に、湟発は一瞬言葉を失った。

――それではただの神頼みではないか!

「それに弧に張り合って弦も神や始王を畏れぬ行いをすれば、再びこの天地に災厄が訪れるかもしれない。円王朝の二の舞にはなれぬ」

 軟弱だと思っていた弦王が湟発の意見にここまで反発してくるのは初めてのことだった。

 このことで湟発の中で弦王玄倒の評価が変わりつつあった。

――この王は軟弱なのではなく、ただの臆病なのではないか。

 軟弱であるために重臣たちの言うことに逆らわず言いなりになってにいたのではなく、目の前にいる重臣に対し恐れを抱いていただけなのではないか。だから、重臣以上に恐ろしい神や始王の存在に対し、頑なな意思を示しているのではないか。

――軟弱で言いなりなだけであれば、我ら重臣が支え導くこともできるが、臆病で頑ななのであればどうすることもできん。

 湟発の心中に迷いが生まれ始めていた。

――このまま王が頑なな態度を崩さず、しかも弧に対しては軟弱な態度を続けたとすればどうなるか……。

 湟発の忠義心は本物であった。しかし、それは弦王個人に対して向けられたものではなく、弦という国そのものに対して向けられていた。そしてそれを生み出す根源は、弦の国に暮らす民への想いであった。

 弦の国のために、弦の民のために、湟発ができることは何であるか。

 湟発は国と民のために、自身にできることは全てやるつもりだった。


 弦の国主の位が”王”のままではいずれ孤の増長に対処し切れなくなる、というのは、湟発だけでなく弦朝廷に列席する重臣全てに共通する認識だった。

 そこで湟発は新たな称号の創作を命じた。もちろん弦王には了解を得ずに湟発の独断によるものである。

 そうして創作された新たな称号を聞いた弦王は畏れに身体を震わせていた。

「皇帝、だと?!」

「はい。創世の神の名と伝わる”皇”と、始王の名と伝わる”帝”を併せた称号となります」

「なんという不敬な称号か。創世の神だけでなく、始王も併せて愚弄しようというのか」

 玄倒の反応は湟発には予想通りのものだった。

「王よ。”名”を革めるということは、”命”即ち天命を革めるということです。それは天命を再び受けて、新たな気持ちで国を治めていくという決意を表すものです。この皇帝という位は決して創世の神や始王を侮ったものではなく、創世の神や始王に敬意を表し、その存在に近付くために称する号なのです」

「どんなに言葉を取り繕ったところで無駄だ。私は神や始王の怒りを買うようなことはせぬぞ」

 湟発がどんなに言葉を連ねても、玄倒の頑なな態度は変わることはなかった。

「なるほど、よくわかりました」

 これ以上は無駄だと悟った湟発は、玄倒の説得を諦めて退出した。

 湟発が退出の際に行った礼は、いつもの立派なものではなかった。


 弦王崩御。

 その報は弦国や弧国だけでなく、南の大国衆南国や大陸西方諸国にまで轟いた。

 公には病による急死とされたが、それが弦国丞相湟発による暗殺であることを疑わない者はなかった。

 崩御した弦王倒は安王と(おくりな)された。替わって弦王の位に就いたのは、安王の長子である玄()だった。玄思はまだ加冠前の少年、いや幼児であった。

 幼い新王だが、即位後すぐに皇后を迎えた。皇后の名は湟(えん)といい湟王后と呼ばれたが、この湟王后は湟発の養女である。元々は湟発の家に仕えていた侍女であったが、安王の崩御の前後に湟発の養女となっていた。これにより湟氏は弦王室の外戚となった。

 新王は親政を行えるような年齢ではないため、丞相であり王后の養父である湟発が政の全てを掌握した。王の代わりに湟発が政を行うという状況は安王の時代となんら変わることはなく、弦国は王が死んだとは思えないほどの落ち着きを見せていた。唯一異なっていたことは、湟発の呼称であった。新王の摂政となった湟発は、自身を仮王と呼ばせたのである。

 新王が即位し湟発が仮王と呼ばれるようになって半年後、湟王后が子を産んだ。もちろん幼い玄思の子であるはずがない。しかし湟発はこの子を弦王室の血を引く王子として扱った。(そう)と名付けられたこの王子の父親は誰であるか、ということについての推論・議論はほとんど起こらなかった。

 爽が生まれた直後、弦王の位にいた玄思が崩御した。

 やはり公には病による急死とされたが、それを信じる者は誰もいなかった。しかし同時に、それを非難する者もいなかった。明王の時代から弦を安定して治めてきた仮王・湟発への信頼感は、軟弱な王や幼い王よりも遥かに凌駕していたのである。

 湟発は立て続いた王の崩御は始王からの啓示として扱った。即ち、玄氏の徳が尽きかけている、と。そのため、弦王室の姓を革めることを公表した。その新たな姓が”煌”である。

 革めたのは姓だけでなかった。国主の称号を王から、かつて安王が頑なに拒否し続けた王を超える称号”皇帝”に改め、初代の弦皇帝には爽が就いた。

 弦の国主が皇帝を名乗ったことについて好戦的な弧皇は非難の声明を発したが、弧皇自身が同様のことをしていたため、その非難の声明は弦弧両国の民から相手にされず、すぐに忘れ去られることになった。

 そして弧皇、弦帝の称号は広く人民に受け入れられ、その後、大陸西部や南部の諸国にまで浸透していくことになる。


 爽が弦皇帝となったのと同時に、湟発はその称号を仮上皇と称した。

 湟発は二人の王の崩御に関わり、”父親不明の王子”を弦王、いや弦皇帝に就けたが、その後も仮上皇の立場のまま執政を行い弦国内に混乱は起きなかった。

 しかし弦帝・爽が加冠を行える年齢に達すると、湟発は速やかにその地位を退き全権を皇帝へ返上し自領に戻った。

 自領に戻った湟発は、間もなく病死したと伝えられた。


 湟発の死因が真に病死であるのか。

 市井にそれを知る者はいない。

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