形骸の王
忠には大きな悩みの種があった。
忠は円王朝の国主、即ち円王である。忠は円王朝を創始した太祖・環から数えて三十代目の王である。
王とは国にあって比類する者のない至尊の位であり、円王忠は円国における最上位の存在である。誰にも憚られることなく、誰に遠慮することもなく振舞える唯一の存在。
……で、あるはずだった。
――本当に”そう”なのであれば、私はこうして思い悩むこともなかったろうに。
忠の口から自嘲の色を含んだ笑いが漏れ、忠の他に誰もいない室内に溶けて消えた。
近頃の忠は後宮にいる間は誰も近付けさせず一人でいることが多かった。妾妃を招くこともできるが、それも憚られた。何故なら後宮にいる妾妃のほぼ全ては玄氏か孤氏の息のかかった家から送り込まれた女たちであり、玄氏派の妾を招けば孤氏に睨まれ、孤氏派の妾を招けば玄氏に睨まれることになる。平穏無事に王としての生活を守りたいのならば、この両氏を敵に回すことはできない。
――王とは名ばかりだな。
再び自嘲の溜息が漏れた。
円国の繁栄は太祖・環の時代とは比較にならぬほどのものとなっている。
環の時代における円国の勢力範囲は偽海に浮かぶ神寝島とその周辺のいくつかの島のみに限られていたが、忠の時代には偽海を超えその周辺地域までもを支配下に置いていた。
その興隆を支えているのは、玄氏と孤氏という二大貴族の力であった。
玄氏は偽海西岸地域の蛮族を征伐した功績により、孤氏は偽海東岸地域を開拓した功績により、それぞれ力を得た大貴族である。玄孤両氏は、その後も数々の功績を挙げ、今やその勢力は主君である円王すら飲み込まんとするほどの勢いであった。
玄氏の当主・玄堅は自身の功績を
「我が玄氏の功績により、円国の支配域は偽海西岸地域の隅々に至り、円王の威光は西壁にまで及んでおります」
と主張し、
対する孤氏の当主・孤嵩は
「我が孤氏の功績により、円国の支配域は偽海東岸地域の隅々に至り、円王の威光は東海にまで及んでおります」
と喧伝していた。
しかしその内容に誇張があることを忠は知っていた。偽海西岸地域には未だ円王朝にまつろわぬ蛮族がおり、特に南の大河・南江の沿岸には強力な一族が勢力を張っていること。偽海東岸地域には未だ治水が行き届かぬ地域も多く、人が住める土地は限られていること。東海に浮かぶ島々を支配する諸国との戦が絶えないこと。
しかし、忠はそれを指摘することすらできない。それを指摘することによって玄孤両氏の機嫌を損ねれば、忠は王座に居続けることができなくなるかもしれないのだ。
それほどまでに玄孤両氏の勢力は力を持っており、それに抵抗できぬほど円王の力は衰退しているのである。
忠の円王としての仕事、為政者としての役割はその大部分を玄孤両氏に奪われ、今や祭祀を行う以外にはほとんどなくなっていた。
円王が行う祭祀の主な対象は、この天地を創造した創世の神と、人間の創造主であり円王朝成立以前にこの地を支配していたと言われる始王である。この両者は共に最上位の存在であり、そのどちらも比べることができないほど尊い存在とされている。
その日、忠が祀ったのは始王であった。
祭器に酒を注ぎ、祈りを捧げる。かつて祭祀は神や始王の声を聴くための重要な儀式であったが、現在においては政の領域に神秘の存在の意思が入る余地はない。円王の権威を保つために存続している儀式に過ぎないのである。
――その権威も、権力を伴わない現在の状況においてはどれほどの価値があるのか。
儀式を行うたびに、そんな虚しさが忠を襲っていた。
滞りなく儀式を終え、祭壇を後にする忠。
その時、事件は起きた。
虚しさに気を取られ集中を欠いていた忠は、祭壇から降りる際に敷物を足に絡ませてしまい、祭壇から転落してしまったのである。幸い、忠に大きな怪我はなかった。しかしその際の振動で祭壇の上に祀られていた祭器が倒れ、落下した。
円建国初期から数百年伝わるとされる祭器である。細かい損傷も多く、お世辞にも立派な物とは言えなくなっていた。その祭器が激しい衝撃を受ければ、その形を保てないほどの損傷を負ったとしても不思議ではない。祭器は大きく歪み、もはや儀式には使えないほどであった。
――大変なことになった。
呆然とする忠。
祭器を損なったこと以上に、神聖な儀式の場においてこのような凶事が発生してしまったことが、この国の未来を占っているような気がしてならなかった。
――儀式が形骸化し神や始王の声を聞けなくなった円に対し、始王が意思を示そうとしておられるのか。
その意思がどのような内容であるか、形だけの祭主である忠にはわからない。しかし祭器を損ねるという事態が慶事であるとは、忠には到底思えなかった。
事故により祭器は損なわれたものの、儀式自体は既に完了していたため、その場は玄堅が取り仕切り上手くその場を収めた。
「ご苦労であった」
「いえ、王にお怪我がなくて何よりです」
忠の労いの言葉に玄堅は殊勝な言葉を返す。玄堅は孤嵩に比べ、円王を侮る色は薄い。少なくとも表面上は。
「しかし祭器は損なわれてしまった」
「王よ。これを機に祭器を新しく作り直せばよろしいでしょう」
落胆の色を隠せない忠に、玄堅は明るさを含む声でそう提案した。
「祭器が損なわれたのは、祭器を新たに作り直せという始王のご神託でございましょう。祭祀の儀式が終わった直後に損なわれたのがその証拠でございます。円国に凶事がもたらされるという啓示ならば、儀式の最中に変事が起こるはず」
「なるほど、そういう捉え方もできるな」
玄堅の解釈を聞いて、忠の心にも明るさが戻った。
「この玄堅にお命じ頂ければ、以前にも増して立派な祭器を作成してご覧にいれましょう」
忠がこれを許すと、玄堅は勇んで退出していった。
玄堅が作らせた新たな祭器は、言葉以上に立派で豪奢なものだった。
元々の祭器は、両手で抱えられる程度の大きさのものが一つだけだったが、玄堅が新たに作らせたのは大小併せて八個で一組のものであり、それぞれが細かな装飾が施された華麗なものだった。
「この八個の祭器はそれぞれ八卦に対応したものになります」
得意げに説明する玄堅。八卦は古くから伝わる占いの基本概念であり、始王が発明したと伝えられている。始王の象徴として申し分ないものであるが、数を増やしたということでその存在感を増すという意味もあるのだろう。
――円国の権威を支える祭器を作ったという功績を誇ることで、孤氏を凌駕しようというのだな。
忠は玄堅の意図をそう推察した。そして同時に、同じ考えに至った孤氏が動き出すだろうということも。
そしてその予測は当たった。
「王よ。始王の祭器を新調したのですから、創世の神の祭器も新しくお作りになられるのは如何でしょうか」
孤嵩は上奏という形式でそう提案してきたが、その目に込められたものは、玄氏だけに功績を立たせることは許さないという圧力であった。
「そ、それもそうだな。では、創世の神の祭器は孤嵩に作成を任せよう」
形ばかりの王である忠に、孤嵩の圧力を退ける術はない。
そうして孤嵩が作らせた祭器も、玄堅が作らせた祭器に劣らぬ豪奢なものだった。
「この祭器は二つで一つであり、それぞれ天と地、陰と陽、など様々なものを表しております」
数こそ二つと少ないものの、その大きさは人が中に入ってしまえるほど大きく、それでありながら一部の隙間もないほどに細かな装飾が施されていた。
それはまるで「数が多ければ良いということではないぞ」と主張しているようであった。
忠としては玄孤両氏が対立しつつもそれぞれ満足して事が治まれば良いと考えていた。しかしその想いとは裏腹に、この祭器をきっかけとして両氏の対立は激化していくことになる。
まず動き出したのは孤氏だった。
「現在の祭祀における序列は、創世の神も始王も共に最上位におかれ優劣はありませんが、そもそもこの天地を作ったのは創世の神であり、始王も創世の神の創造物の一つに過ぎません。創世の神が始王よりも尊い存在であることは疑いはなく、創世の神を唯一最上の存在として序列を定めるべきでございます」
そう主張した孤嵩の意図は明らかだった。
自身が作らせた祭器で祀る創世の神の序列を上位に据えることで、玄氏に対し優位に立ちたいというのである。
当然、玄堅はこれに反発した。
「我々人間の創造主が始王であることは揺るがぬことであり、自らの創造主に対し最上の敬意を表することに何の不自然がありましょうか。始王も創世の神も比較することすら不敬なほどの尊い存在であり、共に最上の存在であることは揺らぐことはありません」
玄堅が始王のみを最上と主張しなかったのは、現在の円王が両者を共に最上としているためであり、円の民の多くもそう捉えているからであった。現状を変えようとする孤嵩に対し、現状維持の勢力を味方につけようと考えたのである。
しかし孤嵩は自身の主張を収める気はなかった。
強引に主張を押し通そうとする孤嵩とそれに反発する玄堅の対立は、もはや祭祀の序列のことだけには留まらなくなっており、大事小事に関わらず、そして円の朝廷内のみならず円国内全土に至るまで発展していった。
円王である忠だが、玄氏と孤氏の対立を止める力はなく、ただただ座して事の推移を見守るしかない。忠は自身の非力さに涙した。
玄孤両氏の対立は、直接兵を挙げ干戈を交える衝突こそなかったが、逆に言えば”直接干戈を交えていないだけ”とも言えるほどの状況になっていた。
そして、その最後の一線を超える時は確実に近づいていた。
最後のきっかけは、始王の祭器の八つのうちの一つが紛失した事件であった。
過失か否か、犯人は誰か、その一切が不明であったが、疑惑が孤氏に向けられることは避けられることではなかった。
「孤嵩が命じて祭器を盗み去ったに違いありません。始王の祭器を盗むなど、始王に敬意を持たぬ孤氏以外に誰が行うのでしょうか」
それに対し、当然孤氏は反発した。
「創世の神を最上位にと主張しただけで、始王に対する敬意を失ったわけではない。そもそも始王の祭器は玄氏が管理しているのだから、紛失の責は玄氏が負うべきである」
対立の勢いはもはや止められぬところまで至った。
それはつまり兵を挙げての衝突。
戦である。
河川の多い偽海東岸地域を本拠とする孤氏は多数の船を持ち、強力な水軍の有している。
それに対し、平原の多い偽海西岸地域を本拠とする玄氏は、強力な戦車隊を有している。
水上戦を得意とする孤氏と陸上戦を得意とする玄氏は、それぞれ相手が得意とする戦場を避けた。その結果、神寝島の内部には玄氏の兵が満ち、島の周囲には孤氏の船が取り囲む構図となった。
「不敬にも王を捉え人質とする玄氏は滅ぼさねばならない!」
「兵を挙げ円王を我が物とせんとする孤氏から円王をお守りしなければならない!」
双方が円王を使い自らの大義名分を主張する。
不幸なのは円王忠である。
自身には何の力もない。この事態を左右することはできない。にも関わらず、この戦の中心にいなければならない。
――王とは何なのだ。
忠は自身が王であるという事実を呪い。王でありながら力を持たぬ自身を呪い。この状況を傍観している創世の神と始王を呪った。
そのとき、忠がその内心に貯め込んだ呪詛に反応したのであろうか、神が為したとしか思えない事象が発生した。
円国の中枢が置かれる神寝島は、その中心に巨大な火山を有している。
その火山の火口の奥底に創世の神は眠っているとされ、稀に発生する噴火は神の寝息と考えられていた。
その火山の中心から、巨大な何かが天に向かって突き上げられた。
それは火山の爆発によりもうもうと立ち昇る噴煙だったのだが、それが何であるのかいったい何が起きたのか、円の民には理解することはできなかった。それほどの大規模な噴火だったのである。
そして何が起きたか理解できなかったのは忠も、玄堅も、孤嵩も同じことであった。
「創世の神が、お怒りだ」
忠がぽつりと漏らしたその言葉は、すぐ傍らにいた玄堅の心中に湧いていたものと同じだった。
「玄堅よ。お前たち玄氏と孤氏が争い、それを私が止めることができなかったことで、この地上を乱し、騒がせ、神の眠りを妨げてしまっていたのだ。お前たちはこの円の国の中枢にいて、この国と民のために力を尽くさなければならない立場にありながら、自身と自家を富ますことにのみ力を尽くし、結果この騒乱を引き起こした。そのことで神がお怒りなのだ」
忠の口から出たのは、玄堅に対する説教だった。主君が臣下に対して発せられたそれは、忠が王位についてから今までで初めて発せられたものだった。
「おそらくあれは創世の神が使用していたと言われる聖なる棍だ。神の怒りはかつてないものなのであろう。もはやこの島は、いやこの国はもう駄目だ。玄堅よ。お前は祭器を持ってこの島を出よ」
「王はどうなさるのです」
「私は円の王だ。神に祈りを捧げるための存在だ。神の怒りが治まるよう、この地に残り神への祈りを捧げよう」
「しかし……」
「玄堅。何も言うな。これは王としての命令だ。最期くらい王の命令を聞いてもよかろう」
玄氏や孤氏に迫られ、求められたものではない、忠が自身で発した最初で最期の”命令”に、玄堅は逆らうことができなかった。
「始王の祭器だけでなく、創世の神の祭器も持ち出すのだぞ。そして神の祭器は孤嵩に託し、今度は神の怒りを買わぬよう、玄孤両氏で共に協力してこの地を統べるのだ。いいな」
忠の心中にあるのは、死への恐れではなかった。この騒乱の素となり神の怒りを買うことになった玄孤両氏への怒りでもない。
あったのは解放感だけであった。
――もはやこれ以上、玄氏や孤氏に遠慮して座り心地の悪い王座に座る必要はない。
忠は初めて自らの意志で、王としての役割を全うしようと動いた。動くことができた。
死に向かう円王忠の心は、円王という位についてからこれまでで最も晴れやかであった。
王の元を離れた玄堅は、王の命令の通り祭器を持ち出し港で祭器を船に積み込んでいた。
「玄堅! 何をしている! いったい何事があったのだ!」
絶叫にも近い孤嵩の声。振り向くと孤兵が周囲を取り囲み、その中央で孤嵩が玄堅を睨みつけていた。
「良い所へ来た。孤嵩。円王の命により朝廷より祭器を持ち出してきた。お前は神の祭器を持ってこの島を離れるのだ」
言いながら玄堅が積み込みの順番を待つ神の祭器を指し示す。しかし状況を把握しきれない孤嵩が再び絶叫する。
「何があったのかと聞いているのだ!」
「あの神の棍が見えないのか」
恐慌に陥りかける孤嵩の姿に、玄堅はかえって冷静さを取り戻せていた。
「あれが、神の棍、だと?!」
「そうだ。我々が争いこの地上を騒がせたことで眠りを妨げられた創世の神が怒りを発し、聖なる棍でこの島を破壊しようとしておられるのだ。王は神の怒りを鎮めるためこの地へ残り、祈りを捧げられている。王は最期の命令として、我々にこの祭器を島から持ち出し今後争うことなく共にこの地上を治めるように仰せになられた。円王に代わってな」
「そんな……」
孤嵩は玄堅の言葉を全て納得したわけではなかった。しかし、今が非常事態であり争っている場合ではないことは理解していた。孤嵩は玄堅から神の祭器を受け取ると、自身の船へ載せた。
玄堅と孤嵩の船は神寝島を後にした。
玄堅と孤嵩はそれぞれ偽海の東西にある自身の所領に戻った。
始王の祭器を載せた船の一つに噴石が直撃し残り七つ祭器のうちの三つまでが船もろとも水没してしまったが、玄堅も孤嵩もその他の祭器も無事だった。
偽海の岸から見える噴煙はなかなか消えることはなかった。ようやく噴煙が見えなくなったころ、玄堅と孤嵩はそれぞれ調査隊を送った。
調査隊が神寝島のあった辺りの水域に至ったとき、そこにあったのは巨大な黒い岩山だけであった。
「こ、これが、神寝島、なのか……?」
調査隊の誰もがその事実を信じることができなかった。元いた動植物は何一つ生き残ってはおらず、地形そのものまで変わってしまっていたのだから無理もないことである。
「し、しかし、この島が神寝島でないとすると、神寝島はいったいどこに……」
周囲にそれらしい島は他にはない。そうなると、やはりこの島が神寝島であると信じざるを得ないのではないか。
調査隊の中に、それを受け入れることのできる者はいなかった。
「神寝島は見つからなかった。神の力によって偽海の底に没したのだ。それが真実だ」
隊長が絞り出すようにして発したその言葉に、他の隊員たちも頷くしかできなかった。
報告を受けた玄堅も孤嵩も、やはりあの爆発が神の怒りによるものとして受け入れた。
「円王は亡くなられた。円王朝の中枢も破壊された。もはや円王朝は存続できぬ」
円王と、円王朝は滅んだのだ。
「ああ、だから我らが円王に代わりこの地上を統べる以外に道はない」
それは、円王忠の最期の命令にもあったことだった。
玄堅と孤嵩はそれぞれの所領である偽海の東西において、新たな王朝を建てた。
それが弦王朝と弧王朝である。
そして二度と争いを起こして神の怒りを買わぬよう、弦と弧は互いに不可侵の盟約を結んだ。




