表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一人称から三人称に移る為の哲学的準備

 


 ここ一年くらいは一人称で小説を書いているのだが、また三人称に持っていこうと思っている。


 で、こんな事を考える人はいないと思うが、色々考えてみると、「三人称で小説を書く」というのは自分にとってはこの世界の実在を信じるという事を意味する。小説を書くのにそこまで理屈付けする人もいないだろうが、徹底的に考えないと気がすまない方なので、そういう結論に達した。


 今、キルポーチンという批評家のドストエフスキー論を読んでいるが、そこにアインシュタインの言葉が載っている。アインシュタイン曰く「物理学者は哲学者と違って星の実在を疑ったりしない。そんな事していたら、星に関する計算なんかできない」 当たり前の発言ではあるが、これは大事に思える。科学者は世界を意識が見る夢とは見ない。だからこそ、計算に没頭できる。もしかしたら二秒後に自分の相対性理論が吹き飛ぶかもしれないではないか、というような思考は哲学であって物理学ではない。物理学は現実を想定する。だが、それはある種の想定の仕方であり、人間にとって便利な物の見方の一つだ。


 一人称で小説を書く、という場合、主体内部から世界を見て書く事になる。これはプロの書き手でも案外に徹底されていない。もっとも、これは法則性として絶対そうでなければならないというものでもない。ただ、書き手が、単に事実や事件を書けばいいと考えており、「たまたま」、一人称で小説を書くから甘い記述がでてくるというものだ。甘い記述というのは、主体の内部から見ている世界ではなく、世界は事実として確固としてあるという普通の見方に寄り添ってしまっている、というものだ。


 長くなっても仕方ないので一例を上げる。逆に優れた記述の例だが、伊藤計劃「虐殺器官」のラストーーー


「外、どこか遠くで、ミニミがフルオートで発砲される音がする。うるさいな、と思いながらぼくはソファでピザを食べる。

 けれど、ここ以外の場所は静かだろうな、と思うと、すこし気持ちがやわらいだ。」


 ラストの二行の語りの口調はそれまでとは違っているという事を「虐殺器官」を読んできた人は気付くだろう。ここで主人公の語りは変質している。もうすでに心が壊れてしまっているように見受けられる。これまでの運命の非業に耐えかねて、主人公の心は壊れてしまった。そんな風に見える。が、この「心の壊れ」は内部からは描けない。内部からそれを見た時、それは「声」「語り」の変化として示される。ここでは主人公の内面の変化は「語られず示され」ている。一人称で書くという事は、一人称の語りの構造が変化しても徹底的にそれについていくという事だ。つまり、主人公が最後に「異常」の領域に到達しても、内部には「異常」はない。「異常」はただ語り口の変化として示されうる。これが伊藤計劃の作家的洞察だった。


 一人称で書く時、重要なのは語り得ない部分にある。語り得ない部分を意識しながら書く事が一人称で書く際の重要な事柄となる。では、これを三人称の側から見たらどうだろう。三人称の側から一人称の主人公を見たらどうだろうか。そうなると、主人公(一人称)が語り得ないものについて、三人称では語れる事になる。ここで注釈をつけるとしたら、三人称で書く場合は、「世界とは私の意識だ」という世界観を捨て去る事になる。なにはともあれ、「客観的に世界は捉えうる」という世界観を持たなければならない。そんな事は普通だろうと思われるかもしれないが、僕は全く普通とは思わない。ここには極めて面倒な問題がある。


 ロシアの批評家キルポーチンはドストエフスキー「罪と罰」をリアリズム作品であると主張している。作者はあくまでもリアリズムの立場に立って主人公を造形していると主張している。この主張は正しいし、ドストエフスキーが常に社会とか時事問題に興味を抱いていたのとも一致する。だが、僕らは「罪と罰」を読む時、ラスコーリニコフの持つ観念性、幻想性に強く印象づけられる。だから、「罪と罰」は一方はシェストフのように実存主義的に捉える事ができるし、もう一方ではキルポーチンのように、リアリズム的に捉える事もできる。どちらの捉え方もドストエフスキーの本質の一面に光を当てている。


 この問題を僕がどう捉えるかというと、ドストエフスキーは次のように考えていたと思う。ラスコーリニコフという極端に観念的、幻想的な青年が思想に取り憑かれ斧を持って老婆を殺すーーそれはまさに、現実に「ありうる」。(実際、近い事件はあったらしい) ここで重要なのは、現実というのは我々が思っているよりも遥かに非現実的だという事だ。思っているよりも遥かに非現実的な現実を冷眼で捉える事が「リアリズム」であるとしても、人がそこに嘘を見る事は十分ある。何故なら、それが嘘だという人は現実というものを自分の視界で矮小化している人だからだ。現実は非現実的だという不思議な事実をありのままに見る事、ここに作家の目があるが、この作家の目はこの場合、三人称的だ。


 ドストエフスキーは「地下室の手記」から「罪と罰」に一人称→三人称の切り替えを行った。この時、観念的な青年は、内部ではなく外部から見られるものとなった。しかしそうなると外部の視点を信じなければならない。観念的な青年を客観的に描く位相を信じなければならない。


 それを信じられるのか、という事が僕にとっては極めて重大な問題だった。「そんなもの簡単だろう、客観的な物の見方でしょ」という人は問題を理解していない。ラスコーリニコフ的・観念的な青年とはまさに、そんな見方を否定し、乗り越えてきた強固な自我意識だからだ。この極限とも言える自我意識を更に包み込む視点は存在するのかというのが異様に面倒な問題として横たわる。


 さて、これをどう考えればいいか。


 ドストエフスキーに沿って考えると、ドストエフスキーという人は、「罪と罰」に至ってやっと、自分を客観化する事ができた。ラスコーリニコフという青年はあくまでも、社会の中の一存在としてある。社会の中の一存在として自分が存在する、という事を普通の人はたやすく認証する。だが、それをたやすく認証できない強固な自我の持ち主、本人は貧しい苦学生にすぎないのに、英雄と変わらないくらいの自己観念を抱いた人間ーーそういう人間もまた、社会の一存在として生きなければならない。自分が社会の一存在として単にあるのに我慢できず、自我の絶対性を主張する為にほとんど関係のない老婆を殺した青年、そんな人間が社会の中に生きている。その事をドストエフスキーは考えていた。当時のロシアをそうした社会だと見ていた。そこに、ロシアの悲劇を見ていた。


 そしてまた、ラスコーリニコフは若き日のドストエフスキーだったはずだ。左翼系のサークルに入り、捕まって、死刑になりかかった過去がドストエフスキーにはある。過去の自分を相対化する事、自分の運命を、作家としての認識によって抑え込み、それを「手に入れる」事。それがドストエフスキーのした事だった。


 人が夢を見て、努力している間、理想を抱いて行動している間、その人は運命の只中にいる。それは一人称的、外部を知らない一人称的視点と言って良い。だが、過去を振り返ってみれば、歴史を振り返れば、様々に挫折したり成功したりした人物が見える。彼らはそんな運命を生きた。しかし、彼らの内部で自分の未来を知っていた者はいない。


 三人称で小説を書くというのはその方法論上ーーつまり、彼を「彼」と規定した瞬間、「彼」という人物をひとくくりに定義できるという論理を表している。彼はベルグソン的時間、つまり意識としての時間としては無限定であり、自己は自己の内部から見た時、限界を持たない。だが、彼を「彼」と言った時、彼は一つの存在となる。彼は世界の中の存在となる。作家はその事を信じなければならない。そしてそれは自分が万能でないと知る事と一致する。小説世界を形作る作者の存在もまた、世界の中の一存在にすぎないと自我が承認する事が、三人称の記述を許す。つまり、三人称小説の主人公が究極的には一人の人間でしかないように、作者もまた、自己をそのような人間とみなすのである。ここに二重の認識がある、と僕は見る。究極的には文学の文体は自己の定義まで行き着くと考える。


 「私」と人が言う時、それは彼を中心とした放射状の世界を意味する。だが、「彼」と呼んだ時、その人は世界の中の一人の人間でしかないという事になる。この認識に到達するのは全く簡単ではない。僕なりに言えば、この認識に到達できるのは、自分というものを完全に諦めた人ではないかと思う。自分というものの限界を悟る時、その悟りが視点となり、自己の運命を照らし出す。ここに、個体存在としての絶望と類としての希望がある。マルクス的に言えばそうなるだろう。


 今まで言った事をまとめるとーー神の視点、三人称視点で主人公(キャラクター)を描けるという事は、究極的には、自分が単なる世界の中の一人(キャラクターの一人)でしかないと認識した人という事になる。


 では、シェイクスピアのような人は、自らを舞台の中で一人の役割を務める「一人の人間」と認識したのだろうか。あれほど広大な精神を持ちながら、自分は一人の人間でしかないと悟ったのだろうか?


 僕は、そうだ、と思う。といっても、ここでは死後の世界のように、現に生きている自分は世界の中の一人物して存在しており、それを見下ろすはるかな視点が存在している。作家としての彼は「亡霊」である。一種の生霊のように、自己という抜け殻を捨てて彼は作家になる。


 と、大きな話になったが突き詰めてみるとそんな事ではないかと思っている。三人称で主人公を描くとは、主人公が作者自身の分身だ(存在のレベルにおいて)という場合、自分自身を相対化する事を意味する。自分の運命を完全に統御するとは、自分の可能性を完全に諦める事を意味する。可能性を感じていては小説は書けないのか? 作家になってちやほやされる夢を持っていては素晴らしい小説を書けないのか? 作家ならば、認識すべきは、夢ではなく、夢を持っている自分であり、その自分が「どうなるか」だ。観念は人に夢を見させるが、作家は夢を見ている人間を描けば良い。人間は社会の内に存在する現実だ。現実は夢ではない。夢に囚われた個人は夢ではない。現実だ。


 作家は最初、自分の自我、自己意識を感じる。自己というものを中心に世界は成り立っていると思う。だが、彼は次第に挫折していく。挫折の過程は自分が世界の部分だと感じるという意味においてだ。彼の自己意識には最初から世界という限界が課せられていて、彼は内からも外からもその存在を感じる。自己は自己を世界の頂上のように感じるのに、本当は(見えない視点からは)単なる部分でしかない。山の中の石ころでしかない。意識はそれを感じる。


 僕にとっての物語はそのようなものとなるだろう。しかし、この物語は自我の絶対性について思惟しなければ発動しない物語のはずだ。挫折できるのは挑戦した人間に限られるだろうが、現代はどこに挑戦するのが適切なのか、まるでわかっていない。


 作家は自分の運命を感じる。自己の意志が絶対でない事を感じる。世界に限界があるように、自分にも限界がある。これを限界の側から描き出す。内面から、「語り」から描き出すと伊藤計劃になる。伊藤計劃は一人称的語りが、語りの限界を越えるラインで作品を終えていた(「虐殺器官」「ハーモニー」)。では、これを限界の外から書くとどうなるか。一人称の内面はどうなるのか。そうなると、彼を更に世界の部分として位置づける要素が強くなる。作家の視点変更は作家の自己認識変更だ。自分とは何かという問いが、世界をどの視点で描くかという問いに直ちに変化し、書くものが変化する。「地下室の手記」から「罪と罰」への変化にはそういう変化があったはずだ。


 文学とは、技術の巧拙を問うのでも、資本主義の中で人々に気に入られる為に言葉を巧み操るのでもなく、世界を見る術であると考える。文学が世界を見る術と言った時、作家がどの場所から見るのか、どんな視線で見るのかという問いが直ちに作家の主体的ポジションに対する自覚を促し、視線の先にある対象に対しては社会への洞察に繋がっていく。見る目は、主体の位置を明かす。作家の自己認識が客体を描き出す文体に反映する。客体は現実の世界そのものであるが、これは見られた世界だから当然変容を受ける。読者は作家の視点に潜り込み、そこで「再び」見ようとする。見る力が弱い人間は簡単なものだけを見る。彼らは「歯」が弱いので、柔らかいものしか食べられない。硬いものを食べる為に顎を鍛えるつもりは彼らにはない。


 主人公をどう捉えるのかという認識は作者が、世界の中で自己をどう捉えるのかという問いとリンクする。そう考えたい。私とは何かという問いは私の限界を見極めて、やがて、私が時間の中を通行していくのを(亡霊の立場で)目撃していく事となる。それは形を変えれば小説となるだろう。フローベールが「ボヴァリー夫人」の主人公エンマを「私だ」と言ったのはそういう事に思われる。フローベールは自分が発見した自分の限界を女主人公に違う形で託させた。そんな風に考えたい。


 …と長々と書いたが、この文章は三人称で書くという為の準備だ。簡潔に言うなら、そもそも独我論は破れないーーと考えるならば一人称が適切だが、僕は独我論を越えるのは信仰であり、論理ではないと思っているので、突き詰めれば、三人称は僕にとって人類に対して希望を持つとか、歴史に対して責任を持つとかいう意味になって「しまう」だろう。本人がその気がなくても、方法論を延長してみればそうなるのだろうと感じている。ではお前は信じるのか?と言うと、多分信じる。しかし、僕が何かを信じるのはもう自分が終わってしまったと感じるからだ。終わってしまったーーあくまでも形而上的にだがーー自分という個体を上から眺めるもう一人の自分がいて、僕はもはやもう一人の自分としてのみ生き残っている。この「もう一人の自分」というのは多分、「作家」なのだろう。人がどう言おうと、自分の運命を見つめるもう一人の自分は「作家」である。少なくとも僕にとってはそのようにしか名付けられない。


 〈散々書いておいてアレだけど、一人称でも「語り得ないもの」を膨らましていけばもっと豊かな内容で書けると、この文章を書いた翌日に思った。というのはドストエフスキーの「罪と罰」草稿を読んだからで、「罪と罰」は最初、一人称で書かれていたのだが、これが一人称で書かれた初稿がかなり面白い。まあ、まだ考え中という事にしておいてもらいたい〉

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] >僕は独我論を越えるのは信仰であり、論理ではないと思っているので 同意です。 [気になる点]  『罪と罰』は、どうだろう。  個人的には、アレは実験小説だと思うというか、不完全な作品だと…
[良い点]  ヒトリの人間でしかないにかかわらずかきおこすだけの価値はあるなんて。結局〇●称とは何ですか?   [気になる点]  テレビを現場・・・・という反論ゑ。  創る側もやっぱり。情報化社会に清…
[良い点] 幼女作家「とちゅうからねむくなっちゃった」 [一言] わたしはこの言葉を使うとき、既に「わたし」と「世界」は切り分けている。 だって、わたしは「世界」と同化していないのであるからこそ「わた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ