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少女探偵遊戯-きのこ館の殺人-

 ――十一――

 二〇一五年 六月四日――。場面はきのこ館。

 宗田雅子はいつものように部屋の掃除を終え、その後、小夜子夫人の許へ向かっていた。小夜子の部屋は一〇畳ほどの日本間。中心にベッドがあり、入り口から対面に大きな窓がある。薄手のレースのカーテンと、パリッとした白のモスリンのカーテンが二重にかかり、日中であっても少し薄暗い。

 ベッドの脇にはローボードがあり、その上にミニコンポが設置されている。S社製のなかなか高価な代物。きのこ博士が用意したものである。CDの多くはクラシックで、バロック期のものが多かった。つまり、バッハ、テレマン、ヘンデル……。そのあたりだ。

 但し小夜子はクラシックが好きではなかった。特にバロックはどこか壮麗な感じがして好きになれなかったのである。同時に、自分の人生に絶望を感じていた。

 彼女は既に五年近く寝たりきりである。歳は七〇。きのこ博士と同じ。一般的な七〇歳は元気だ。寝たきりになるにはまだ早すぎる。しかし、小夜子は違った。前述のとおり、風邪の菌が脳にいき、その結果、動けなくなってしまったのである。もう何度自分の境遇を呪っただろうか。

 いや、それ以上に彼女は自分の人生を呪わなければならなかった。たくさんの秘密が小夜子のことを襲い、苦しめている。彼女は窓辺に眼を向ける。柔らかな日差し。この部屋を暗鬱とした空気には似合わない木漏れ日。なんだかやっていられなくなる。

 そうこうしていると、部屋に向かって歩いてくる足音が聞える。足音でそれが誰であるか、小夜子には容易に察しがついた。この屋敷には人が少ない。既にきのこ博士は亡くなっているし、二人の息子たちは当の昔に家を出ている。母親が寝たきりになっているというのに、ほとんど顔を出さない。愚かな息子たち。

 そんな彼らが必要としているのは、小夜子ではない。きのこ博士の遺産。そして小夜子の遺産。彼女が後どれくらい生きるのかは定かではないが、この体ではまともに動くことができない。つまり、金を使うことなどできないのだ。介護費用は自分が貯めていた貯蓄でなんとか回る。となると、受け継いだ遺産は使わずに貯まることになる。

(あれだけのことをしたのに……)

 小夜子はひとりごちる。

 そんな時、部屋の戸がノックされた。

「入りますよ」

 聞き慣れた声。使用人である雅子の声。

 小夜子は答えなかった。どうせ答えようと、答えまいと雅子は入ってくる。雅子なしでは何もできない体が嫌になる。点滴ポールに眼を向けて、僅かに動く右腕を抱える。この右腕があと僅かでも動けば、点滴をいじり、そのまま死に至れる。そんな風に考えていた。しかし、その淡い欲望も届きそうにない。

 右腕はプルプルと震え、あまり言うことを聞かないのだ。戸が静かに開く。雅子が入ってきて、右腕を不自然に上げた小夜子の姿を不思議そうに見つめていた。

「何かあるんですか?」

 と、雅子は言った。そこで小夜子は右腕をベッドの上に下ろす。そして、視線を雅子に向けることなく、

「なんでもないわ」

 そう答える。

「今日はお天気ですね」と、雅子。

 しかし、天気のことなどどうでも良い。どうせ動けない身なのだ。外が天気であろうと、雨であろうと、……たとえ、槍が降っていようと関係ない。むしろ、戦闘機の大群がやって来て、空襲を巻き起こして欲しいくらいだ。そうなれば自分は死ぬことができる。死ぬことが目標になることは辛いこと。

 人は誰でも死ぬ。しかし、寝たきりになり、活動のすべてをベッドの上で送る病人に、未来はあるのか? 小夜子はないと思っていた。

「調子はどうですか?」

 何も答えない小夜子に対し、雅子はそう尋ねる。

 かなり慣れた手つきで部屋の中を整理し、ばっと閉じていたカーテンを開いた。午後の太陽がきらきらと見える。あっという間に日の光が室内を浸食し、ローボードの上に微かに溜まったホコリを映し出した。

「閉めなさいよ」

 そこで、ようやく小夜子は口を開く。もごもごとして聞き取りにくい声であったが、そこは雅子。手慣れている。何を言ったのか瞬時に理解し、柔和な笑みを浮かべた。

「でも、締め切っていたら光が入らないじゃありませんか? 太陽の光を浴びることは良いことですよ」

「浴びて死に至るなら、浴びたいわ。でもそんなことはないでしょう」

 と、小夜子。声は絶望的に響く。そんな皮肉めいた言葉にも、雅子は慣れている。笑みを崩さずに、ベッドの前までやって来て、布団を綺麗にし、小夜子にかけなおす。そして、

「死ぬなんてよくないですよ。きのこ博士が亡くなり、その後小夜子様まで亡くなったら、私はおかしくなってしまいますよ」

「本当にそう思ってるのかしら? あなたは私に死んでもらいたいと考えているはずよ」

「何をまた。そんな風に思っているわけないじゃありませんか」

「私があなたの立場なら、とっくに点滴の針を抜き、殺人を犯しているはずよ。いえ、むしろこんな寝たきりの状態になった私の姿を哀れむフリをして苦しめているのかもしれない。魔女のようにね」

「考えすぎですよ。私は別に。そういえば、弁護士の三千院先生から連絡がありました」

「連絡? どうせ遺産のことでしょう」

「はい。遺産についての話です。その細かい話があるそうなので、一度お屋敷にやってくるとのことですよ」

「悟や健はさぞ喜んでいるでしょうね」

 小夜子は痛烈に言った。母親よりも遺産の方が大事な二人の息子たち。小夜子は嫌気がした。

「そんなことはありませんよ。その日に合わせて、悟様や健様もやってこられます」

 と、雅子が言うと、小夜子がやる気なさそうに答える。

「いつ来るのかしら?」

「明日です」

「あなたは遺言書についてどこまで知っているの?」

「私ですか」

「私は知っているのよ。あの人から直に聞いたのだから。主人が残した遺言書には、事件性があれば遺産はあなたと孝之に受け継がれるという話だったはず。それがどうして、愚かな二人の息子に相続されることになるのよ」

 雅子は困ったような顔を浮かべた。きのこ博士から事前に聞いたという証言どおり、小夜子は遺産の話をかなり詳しく知っている。警察の捜査を終え、ようやく穏やかな日々が戻ろうとしているのに、小夜子はそれを蒸し返そうとしている。その姿が雅子には妙に映った。

「事件性がないと判断されたからですよ」と、雅子。

「だとしたら、日本の警察は愚かね。事件を事件として捜査することもできないんだから」と、小夜子は燃えるような瞳で言葉を吐いた。

「どうして小夜子様はそこまで今回の件を事件にされたいのですか? 仮に遺産が正式に分与されれば嬉しいことじゃありませんか」

「この体に多額の遺産はいらないわ。孝之やあなたのために使いなさいよ。その方が主人も喜ぶでしょう。それに、悟や健には遺産は必要ないのよ。そんなものがあるから、ハイエナのように金に群がるようになった。まぁ私の育て方が間違っていたのかもしれないわね」

 時刻は午後三時を迎えた。

 そろそろ孝之が帰ってくる時間であろう。そうこうしていると、それを見抜いたかのように玄関のトビラが開く音が聞えた。小夜子の部屋に広がる暗黒な空気が少しばかり緩み、雅子は声をあげる。

「孝之さんが帰ってきたみたいですね」

「そうね。あなたもう出て行っていいわよ。特にやって欲しいこともないし」

 通常なら、孝之はすぐに自室へ行くのであるが、今日は違っていた。すぐさま離れにあるこの小夜子の部屋にやって来る。しかし、妙なのは足音が二つ聞えるということだろう。その音に小夜子も気づいたようである。目を見開き、雅子に向かって言った。

「誰か来るのかしら?」

「さぁ」雅子は答える。なんとなく足音の正体は分かった。恐らく。「孝之さんのお友達かもしれませんね」

「友達」

 部屋の戸がノックされる。雅子がそれに対応すると、ガラッと戸が開く。僅かに動く右腕でベッドのリクライニングのボタンを押し、体を起こす小夜子。ゆっくりとベッドが動き、やがて戸の前に立つ孝之の姿が目に映る。中学の制服を着ている孝之の隣には、同じような制服を着ている少女の姿がある。

 小夜子はその少女のことを知らない。普段、この家に人が来ることはほとんどないからだ。そして、珍しそうな顔で少女を見つめた。

「こんにちは」少女は言う。「あたしは臺理沙といいます。孝之君のクラスメイトです」

 理沙と名乗る少女の視線が小夜子に注がれる。完全に体を起こした小夜子は、事態を把握できずに、雅子に説明を求めた。しかし、当の雅子も状況が分からないようである。その代わり、すべてを察しているであろう孝之が口を開いた。

「臺さんは奥様に話があるのだそうです。迷惑であればこのままお引取り願いますが、いかがでしょうか?」

「私に」小夜子は言う。「一体何の用なの?」

 問われた理沙は室内をぐるりと見渡した。その後、点滴ポールに視線向け、最後に大きな窓の向こう側に見える、きのこ博士の書斎を見つめた。太陽の光が注がれ、点滴ポールにぶつかる。光が集中し、一本の線となり、きのこ博士の書斎に向かって伸びている。

「きのこ博士のことです」と、理沙。

「主人のこと?」と、小夜子は言う。「よく分からないわね」

「少し、二人で話せませんか? 時間は取らせません。すぐに終わります」

 理沙の要求は、あっさりと受け入れられることになる。

 雅子と孝之が出て行くと、室内には理沙と小夜子の二人だけになった。歳の差は六〇近くある。老婆と孫のような関係。一体、理沙という少女は何を話しに来たのだろうか? そればかりが小夜子の心の中にクモの巣のように広がる。

 沈黙した室内。小夜子はそこでコンポを動かし、ほとんど聞かないクラシックを流した。ちょうどバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』が聞え始める。雅子が時折、コンポを動かすからその時のCDが入ったままになっていたのだろう。

「それで……」小夜子は言う。「私に何の用なのかしら?」

 それを受け、理沙は首を動かし、ゆっくりとベッドの前まで進む。

「きのこ博士の事件についてです」と、理沙は言う。

「主人の事件?」小夜子の目は細まる。

「そうです。あたしはこの事件を捜査しているんです」

「捜査? あなたは中学生でしょう。話が見えないわ」

 そこで理沙は自分の背景。そして孝之との関係。自分がなぜ今回の事件を追っているかを説明した。説明をぐっとこらえるように聞いていた小夜子であったが、やがて状況を理解したようである。どうやら神はまだ自分を見捨てていないようだ。小夜子はそんな風に感じ、この突然やってきた理沙を歓迎した。

「なるほどね。あなたは主人の死を事件性のある物だと考えている。その時点で警察よりは上ね。まだ若いけれど、優秀な探偵さんよ」と、小夜子が言い、理沙が答える。

「ありがとうございます。これからあたしの考えた推理を言います。けれど、事件は既に終わっていますから、中学生の戯言として聞いてください。もちろん嫌な気分になるようなら話は途中でやめますし、あくまでこれはあたしの推理なんですから」

「分かったわ。続けて頂戴」

 理沙はコクリと頷くと、自分の考えた推理を展開し始めた。

 時間にして一〇分程度。約束の五分では終わらなかったが、理沙は淡々と話した。その言葉を一切聞き逃すまいと、小夜子は高い集中力をもって話を聞いていた。そして、この若年の探偵が告げる事実があまりに的を射ているので驚きを隠せなかった。

 理沙という少女は真相を見抜いている。小夜子はこの少女に自分の人生を賭けても良いような気分になった。

「あなた」小夜子は言う。「一つお願いがあるの。聞いてくれるかしら」

「お願いですか?」鸚鵡返しに囁く理沙。「一体なんですか?」

「明日、この館に関係者が全員集まるの。遺産についての正式な会議があるのよ。その場で、今あなたが私に聞かせてくれた話をしてくれないかしら?」

「それは構いませんけど、嫌な気分になりませんか?」

「そんなことはないわ。あなたの言葉は真相を射ている。あなたの言うとおりよ」

「じゃ、じゃあ、やっぱりきのこ博士は――」

「そう、主人はね……」

 小夜子が言いかけた時、不意に戸が開き、外からお茶を持ってきた雅子が入ってきた。そして理沙と小夜子の顔を交互に見つめ、

「難しい話はなしにしましょう」

 と、答えた。雅子もすべてを察している。小夜子にはそう思えた。同時に、その後ろに立つ孝之も。

「明日が楽しみね」

 小夜子は言い、ベッドのリクライニングを元に戻し、再びベッドの上に横になった。心の中は晴れやかである。もう少しで自分は解放される。ヴァイオリンの曲が初めて美しいと感じる。そんな風に思えた。


 ――十二――

 同日、午後七時――。

 きのこ博士が残したメモ書きによれば、二階堂健は遺産を相続する可能性が高い。それは彼にとって福音に近い響きがあり、これまで質素な生活から脱却を約束するもの。しかし、彼は正直には喜べなかった。何かこう、心の底から這い上がる吐き気に近いものがある。なぜこんなことになるのだろうか? その理由は分からない。

 彼は今、仕事帰りのサラリーマン、あるいは学校帰りの学生、そして買い物を終えた主婦たちでごったがえす、駅のロータリーに佇んでいた。気温が高く蒸し暑い、健は半袖のチェック柄のシャツ、そして膝丈のショートパンツにクロックスを履いていた。鞄は小さな革製のショルダーバッグ。かなり年季が入っており、どこかクタッとしている。

 近くに喫煙所があるわけではないが、タバコを取り出し、それをふかしていた。メビウスの六㎎。健康に悪いということを知りながら、彼はタバコをやめることができなかった。昔、父である二階堂由紀嵩にも、タバコをやめるように進言されたことがある。それも今では良い思い出だ。

 健は駅の改札の方に目を向ける。どこにこれだけの数の人間が暮らしているのか、不思議なるくらい人は延々と吐き出される。そのすべての人間たちに、生活があり、日々の暮らしを送っているのである。そう考えると、自分の人生のちっぽけさが垣間見えるような気がして、やっていられなくなる。

(どうして俺はこんなことをしているのだろう?)

 そんな問いが、健の心を襲い、徐々に追い詰めていく。

『こんなはずじゃなかった』

 これは誰でも一度は考えたことのある問い。健とて例外ではない。彼はその昔、きのこ博士と同じで学者を目指していた。その結果、大学院まで進み、研究を重ねていたのである。しかし、彼を待つ現実はそう優しいものではなかった。

 既に大学の研究職は埋まっている。ディズニーリゾートで人気アトラクションの順番を待つように。とても研究職にはつけそうにない。となると、次の候補は教師である。しかしこれも難しかった。元々教えることが苦手な健は教員免許をとったものの、教師になるということはなかったのである。

 そうこうしていると、年齢は三〇に近くなる。『ポスドク』という言葉が囁かれることになって久しい。大学院を卒業し、博士となったのにもかかわらず、正規の職に就けない者を呼ぶのだ。結果的に、健は自分の身を少しずつそぎ落とすように、書き物で生計を立てることになる。

 それは彼にとっては茨の道だ。それ以外にも大学の非常勤講師をしたり、肉体労働のアルバイトに精を出したりして生活を送る。そんな彼の日常は、地獄と呼べるかもしれない。健の母、小夜子が寝たきりになり動けなくなったのもちょうどそんな時だった。

 悪いことは重なるもので、健の精神を大いに圧迫する。

 タバコを一本吸い終える。持っていた携帯灰皿に押し付けて火を消して、新しい一本を吸い始めようとした時、改札からはき出される群衆の中に、兄である悟の姿が見えた。健はタバコをしまい、悟のほうに足を向ける。その姿に悟も気づいたようである。険しい顔がにんまり笑顔になり、健のことを迎え入れる。

 くったりとした夏物のサマーウール製のスラックス。そしてシャツの裾をしっかりとスラックスの中にしまっている。鞄は手提げだが、安物だろう。ナイロンと革で作られた代物。足元の革靴も手入れができていないのか酷くくたびれて見える。

「久しぶりだな」

 と、悟。駅前の喧騒が凄まじく、声は酷く聞き取り辛かった。

 それでも悟の表情は明るい。今まではこんなことはなかった。常にストレスという名の亡霊に取り憑かれたかのように、ピリピリとしていたのである。それが今では……。

 その原因は分かっている。もちろん、きのこ博士の残した遺産が相続されることになりそうだからだ。一億ある遺産のうち、二五〇〇万円が手に入る。これだけの金があれば、ある程度の生活を送ることができるだろう。それに母である小夜子には遺産の使い道がほとんどない。やがてはこの遺産も手に入れる可能性がある。

 無限の未来が開けているかのように思えたのだろう。悟の表情は軽やかである。

「あぁ」と、健。悟とは裏腹に沈むような声。

「どうしたんだ? 元気がないじゃないか?」

「そうでもないよ。兄さんこそ元気そうだね」

「そうだな。色々あって、ようやく一段楽したからな。立ち話も疲れる。どこか適当な店に入ろう」

 そう言い、悟は人ごみを掻き分けるように、駅前の繁華街に向かって歩き始める。その後を、召使のように追う健。二人の兄弟は繁華街にあるチェーン店の居酒屋に入ることに決めた。

 平日ではあったが、週末のため店はそれなりに繁盛しており、鈴の入ったバケツをひっくり返したかのようにうるさい。それでも席が空いていて、悟と健はそこに案内された。恐らく大学生であろうアルバイトの女性にビールと適当なつまみを頼み、二人は椅子に背中を預けた。

「明日のことを聞いたか?」

 と、悟。おしぼりでおじさん臭く顔を拭っている。その仕草に健は少しだけ苛立ちを覚えた。自分が苦しんでいるのに、なぜ兄はこのように冷静で、それも嬉しそうな顔を浮かべているのだろうか? 理解に苦しむ。

「聞いたよ。遺産の話だろう」と、健。

「親父の残したメモ書きによれば、俺たちに遺産は入るはずだ。事件性がなかったのだからな」

「まぁ、そうなんだけど」

 多額の遺産が入るというのに、健の表情は暗黒である。もちろん、そのことに悟は気づいている。訝しい面持ちになり、フンと鼻を鳴らす。

「どうしたんだよ。そんな顔して。嬉しくないのか?」

「よく分からないんだ」

「分からない。何が?」

「兄さんは変だと思わないのか? 遺産が入るのは俺と兄さん、そして母さんの三人だ」

「それはそうだろう。俺たちは血のつながった家族なんだから」

「孝之君や雅子さんには一円も入らない。それはどう思う?」

 と、健は尋ねる。すると、悟は露骨に顔を歪める。ちょうどそのことで一騒動あったばかり。自称中学生探偵である臺理沙という少女が、今回の遺産相続に関して嗅ぎまわっているのである。それは悟にとって不快なことであった。

「どう思うも何も」悟は言う。「彼らは使用人だ。遺産の正式な相続人じゃない。それはお前だって分かるだろう」

「分かるよ」と、健。「でも何か凄く変なんだ。父さんは生前、俺に何もしてくれなかった。大学の研究職の紹介だってしてくれないし、もちろん金だって貸してくれない。そんな厳しい父さんが、どうして俺たちに財産を残すことになったのか、不思議でたまらないんだ」

「それが親心ってものさ。健、お前は結婚しているが、子供はいない。だから分からないと思うが、親にとっても子供はいつまで経っても子供さ。口では嫌がっても、心の中はつながっている。親父だってそう思っていたんだよ。だから俺たちに財産を相続させてくれるんだ」

「本当にそうだろうか?」

「何を考えている?」

「俺は、今回の件、影で暗躍している人物がいるような気がするんだ」

「暗躍? 考えすぎだ。どうしたんだよ。遺産を受け継ぎたくないのか? お前だって生活に困っているだろう。それは知ってる。だが、今回の遺産を相続すれば、その生活とはおさらばできるじゃないか。少なくとも、腰を据えて就職活動に専念できるじゃないのか?」

「俺はもう四〇過ぎている。今更就職活動をしたところで、意味はないよ」

 健はひっそりと言った。室内に、場違いな流行音楽が流れ、ちょうど、店員が頼んだ品物を運んできた。乾杯もせずに、健はビールに口をつけ、一気に半分ほど飲み干す。そしてやはり落ち着きがなさそうに、震えながら、ため息を吐いた。

 悟はというと、こんな健を見ていてイライラしてきた。どうしてここまで暗鬱な気持ちになるのだろう。健は昔から妙に生真面目なところがあったのは事実。だからこそ、今回の遺産の相続が気になるのだろう。しかし、なぜ彼はここまで遺産のことを気がかりに感じているのか? それが理解できなかった。

 恐らくであるが、何か知っているのだ。

「お前の許に誰か来たか?」

 徐に悟は口を開く。健は視線を悟に向けて、

「誰かって誰さ?」

 と、答える。

「例えば、その……」

「警察なら来たよ。兄さんも同じだと思うけど」

「あぁ。だけど、今回のケースは心不全で片がついた。事件性のあるケースだったら、俺たちに遺産は入らない。親父はそういう遺言を残していたみたいだからな」

「それは知ってるよ。俺が気になるのは、まさにそこなんだ」

「ん、どういう意味だ?」

 すると、健は席の隣においていた、黒の革製のショルダーバッグの中から、二枚の紙切れを取り出した。それは、健がきのこ博士の部屋に入った際、見つけた遺言書のコピーだった。どうして彼がそれを持っているのだろうか?

「父さんの部屋で見つけたんだ。悪いとは思ったけれど、拝借したんだよ。メモ書きの遺言書のコピーだ」

「おいおい」悟の表情が変わる。「そんなことして良いのか? このことを誰かが知ったら、遺産を相続できなくなるかもしれないぞ」

「兄さんはそこまで遺産が必要なんだね」

「当たり前だ。どうしたんだよ、お前は変だぞ、何があった?」

 健は二枚の紙切れを机の上に広げ、それを悟のほうに向けた。

「俺は」健はゆっくりと言う。「この遺言書はおかしいと思う」

「おかしい? 何がおかしいんだ?」と、悟。

「多分、父さんが残したのはこっちの遺言書だ」

 そう言い、一枚の遺言書を指差した。

 そこには、遺産はすべて雅子と孝之に引き継がれると書かれている。

「これは親父の死が事件性がある場合だったときのことだろう。もう関係ない」

「違うよ、父さんはこの遺言書しか残さなかったんだ。そして、俺たちに財産を残すと書かれた遺言書は誰か書いたものなんだよ」

「改ざんされたってことか? それなら警察や弁護士の三千院先生が気づくだろう」

「単刀直入に聞く。俺たちに遺産が引き継がれる。この遺言書を作ったのは兄さんじゃないのか?」

 時が止まったみたいに、悟は固まる。騒がしい居酒屋の店内で、二人の間だけが、切り取られたかのように静まり返る。悟の背中に暑くもないのに汗が流れる、どうして健はこんなことを言うのだろうか? 悟には理解できなかった。

「何を言ってるんだ?」

 と、悟は何とか言う。自分の口から吐いた言葉が他人の口から出た言葉のように聞える。そして、健は答える。

「だから、兄さんが遺言書を書いたんじゃないか? そう尋ねているんだ」

「どうしてそんなことをしなくちゃならないんだ」

「金に困っていたからさ。兄さん。俺は父さんが生前に俺たちに財産を残すことはしないといったことを聞いているんだ。だから、父さんが財産を残すわけはない。となると、今回の件を人工的に作った者がいるんだ。それは誰か? 俺は兄さんだと考えた」

「バカな!」吐き捨てるように悟は言う。一気にビールを飲み、疲れきったように嘆息する。「俺は何もしていない」

「母さんは動けない。右腕が辛うじて動くけど、遺産を改ざんすることはできないよ。残ったのは孝之君と雅子さんだ。でも二人が俺たちに有利になるような遺言書を書くはずがない。となると、残ったのは俺と兄さんの二人。でも俺じゃないから必然的に兄さんが犯人ということになる」

 犯人というフレーズを聞き、悟は酷くびっくりしたようである。まさか弟にここまで疑われるとは思っていなかったのであろう。

「健」と、悟。「お前は今回の親父の死が事件性のあるものだと考えているのか?」

 すると、健は答える。

「分からない。でもその可能性は高いんじゃないかと思う」

「まさか俺を犯人だと言うんじゃないだろうな? 俺がそんなことをするわけないだろう。遺言書のことを知っていたら、俺が事件を起こすのは何のメリットもない」

「だけど、金に困っていたじゃないか? そんな時、父さんが都合よく死ぬなんて考えられない」

「おいおい、バカなことを言うなよ。親父は以前から調子が悪かった。それはお前も知ってるだろう」

「確かにそうかもしれない。でも、父さんの部屋にはたくさんの毒きのこがあった」

 再び二人の間が静まり返る。

 毒きのこという言葉が、キーとなり、完全に雰囲気を変える。悟は健の言いたいことが何となく分かった。そして、事件を掘り返そうとしている彼に対し、ほとほと嫌気が差す。どうして皆、今回のきのこ博士の死を、事件と結び付けようとするのであろうか? それが理解不能であったのである。

 依然として、悟、健の間には居心地の悪い空気が流れている。どう足掻いても打開できそうにない重苦しい雰囲気。悟はため息をつき、キッと鋭い視線を健に向ける。見つめられた健は、それほど驚きはせず、さもそれが当然であるかのように、悠然とした態度をみせる。

「お前は」悟は言う。「まさか俺が親父を殺したんじゃないか? そんな風に思ってるのか?」

 一触即発の空気。返答を間違えれば、たとえ兄弟であっても、関係はこじれるであろう。それは確かである。健はそれをよく理解していたし、理解していながら、自分の考えた思いを抑えることができなかった。

「あぁ」健は答える。「俺はそう思ってる。父さんは毒殺されたんじゃないかって」

「バカ言うな。俺が毒殺するわけないだろう。俺は親父が趣味で集めていたきのこにどんな毒があるか、まったく把握していない。それに、普段あの家に行くことが少なかった。俺には親父を殺すチャンスなんてないし、そんなことをするわけない! 実の父親なんだぞ」

 そう言った後、悟は居酒屋の机をドンと叩いた。その音は、喧騒が凄まじい店内であっても響き渡り、一瞬であるが、静寂を生んだ。他の客たちが一斉に悟と健に視線を注ぐ。その視線に耐えられなくなったのか、悟は恥ずかしそうに顔を歪め、静かにビールを飲んだ。

 グラスに付着した水滴。そして悟から流れる汗。二つの水分が一体化し、机の上にぽたりと落ちる。悟はこの場から立ち去りたくて仕方がなかった。いくら兄弟であっても健の言うことは馬鹿げている。何よりも証拠がないし、第一……。

「お前の言うことはおかしいよ」と、悟。「メモ書きによれば、事件性があるものであれば、遺産は俺たちの許に入らない。それは分かってるだろう。なら、俺が親父を殺すということは、わざわざ遺産の相続のチャンスを潰すということになる」

 その言葉に対し、健は軽く頷く。先を続けろという仕草。

 悟は再び声を出し、意見を言った。

「ということは、俺には親父を殺す意味がない。俺が金に困り、遺産をあてにしていることは誰だって知ってることだ。俺は金に眼を奪われた奴隷。そんな風に思われたって構わない。だって事実だからな。何が言いたいかっていうと、俺は遺産を手に入れる必要があるってことだ。となれば、わざわざ親父を殺害するなんてことはしない。絶対にだ!」

 健は悟の言い分が良く分かっていた。確かに悟は遺産を必要としている。娘の楓も大きくなり、これから一層学費がかかる。それ以外にも大金が必要になることは多々あるだろう。それだけに悟はなんとしても遺産を手に入れる必要があるのだ。

 この事実は決して兄弟だから知っているわけではない。使用人である雅子、そして孝之であっても把握している事実。悟は隠そうとはせずに、何と思われようが、お構いなしに、きのこ博士の許に通っていた。

 生活するために……。そしてよりよく生きるために。

「兄さんの言うことはよく分かるよ」健は言葉を告ぐ。「だけど、俺にはどうしても今回の父さんの死が自然死であるとは思えないんだ」

「自然死だよ」と、悟は言う。その声は自分に言い聞かせるように強く響いた。「警察がそう認めてる。解剖はしなかったようだが、検視はしたんだ。毒きのこだって使われた形跡はないはず。健、お前は考えすぎだよ」

「そうだろうか? 俺にはすべてが上手くいきすぎて恐ろしいよ」

「もう一度聞く。お前の許にも来たのか?」

「来た? 誰が?」

「邪魔者だよ。確か、孝之のクラスメイトだ。名前は……、臺理沙。楓のことも知ってるようだった」

「知らないよ。俺の許には誰も来ていない。一体誰なんだ? その子は」

「探偵を名乗る、少しイカれた少女だよ。親父の死を、お前と同じで事件性のあるものだと考えている。ちょっとばかりいざこざがあってな。それでもしかしてお前の許にも来たのかもしれないと思ったんだ」

 健はその言葉に驚きを覚える。

 まさか中学生が自分と同じようなことを考え、そして捜査しているとは思わなかった。不意に、健は理沙という少女が気になってたまらなくなった。その少女はどこまで事態を把握しているのであろうか? そればかりが気がかりで、ビールを飲む手は完全に止まった。悟は、理沙が孝之のクラスメイトであると言った。一体、何が起きているのか? 考えるのはそればかり。

「やっぱり、知ってる人は知ってるんだよ。父さんが毒殺されたってことを」

 と、健は言う。その言葉には一層力がこもっている。

 当の悟は早くこの場から立ち去りたくてたまらなかった。皆、遺産が手に入るということでおかしくなってしまった。そのように感じ取られたのである。

 自分たち、二階堂家はどこでこんな風におかしくなってしまったのか? どうして他の家庭のように上手くいかないのか? いや、他の家庭が上手くいっているように見えるのは、自分たちが下卑た生活を送っているからかもしれない。

『他人の芝生は青い』

 その言葉どおり、他人の生き方は、よく見えるものだ。特に底辺をさ迷っているときには。

「だが」悟は言う。「警察はそんなことを言ってなかった。つまり、今回のケースは事件じゃないということだ。もうこのことを考えるのはよそう。俺はお前に幻滅したよ。同じ兄弟だ。それなのに、お前は俺のことを何一つ考えてはいない。それに実の兄を親父殺しの犯人であると疑っているんだからな」

「俺は」健は言葉を返す。「あくまでその可能性があるって言いたいだけなんだ。決して疑うわけじゃ」

「疑っているだろ。それは分かってる。でももう何も変わらない。明日、すべてが分かるさ」

「そうだね。それはそうだ」

「この話はもうなしにするんだ。もはや、済んだ話。今回の件は水に流してやるよ。だから、お前も余計なことを考えるのは止めろ。今更考えてももう意味はない。俺たちは正式に遺産を受け継ぐ。それが嫌なら、受け継いだ遺産を別に寄付したり、使わずにとっておいたりするのもお前の自由だ。だが、一つだけ言っておく。俺の邪魔はしないでくれということだ。俺は金を必要としている。このチャンスを逃すような阿呆ではない」

「分かってるよ。俺も悪かったと思ってる。ただ、居心地が悪いんだ。何か、大きな力で操られているような気がして、兄さんは今回の事件を追っている中学生がいると言った。俺も今回の事件に関わっている人間は、実は意外な人物なんじゃないかって思うようになったんだよ。最初は、兄さんかもしれないと思ったけど、今日話を聞いて、それは違うようだと分かった」

「ちょっと待て。お前の考える、つまり、暗躍している人物って言うのは誰なんだ? 一体誰がお前の心を悩ませる? それを教えてくれないか?」

「それは――だよ」

 健は口ごもる。しかし、自分の思いついた考えを悟に向かって告げる。その言葉を聞き、悟は大層驚いた表情を浮かべ、椅子に根を張ったかのように動かなくなった。居酒屋のBGMが奇妙に聞える。流行アイドルの歌が、場違いに聞え、二人の間に流れている。

「なんでそんなことが、第一、お前の考えている人物は」と、悟は言う。表情は完全に疑心暗鬼なもので、この世のすべてが信じられないとでも言ったような面持ちである。「俺にはもう、わけが分からん」

「俺もさ」健はそれ受け答える。「兄さんは俺の意見を聞いてどう思う?」

「どう思うも何も、そいつには一切のメリットがないじゃないか。なんでそんなことをする必要があるんだ」

「それは俺にも分からない。けれど、そいつは事件を起こすことで、いや、事件を事件じゃないとすることで、俺たちのことを救おうとしたんじゃないかって思うんだ」

「どうしてそんなことを。第一、警察に見つかる可能性だってあるのに」

「他にも影で糸を引いてる人間がいるのかもしれない」

「やめろ。もう俺は何も考えたくない」

 と、悟は劈くように言う。悲鳴に近い言葉が居酒屋に流れるが、誰も注意を払わなかった。悟の言葉は喧騒でまみれた店内のムードにあっさりとかき消された。いずれにしても真相は明日判明するだろう。悟と健は、明日の会議に理沙が参加することを知らない。そして、もう一人の人物も。

 この場で確かに言えるのは、事件は真相に向かって確実に動いているということだった。一見すると何も感じられないきのこ博士の死であったが、その裏には何か得体の知れない事実が隠されている。その真相に理沙や清太郎は気づいたのだ。探偵の血が、答えを導き、理沙と清太郎を突き動かした。


 ――十三――

 同時刻――。

 清太郎は一人、夕暮れの中を歩いていた。理沙は家にいる。今、この場にいるのは自分だけだ。彼は大きな体を揺り動かしながら、細い道をとぼとぼと歩く。ステッキの音が機械的に鳴り、ソフト帽の隙間から汗が流れる。その汗を古びたハンカチで拭いながら、彼は目的地へ向かって歩みを進める。

 彼が目的とする場所。それは三千院弁護士の邸宅である。清太郎と三千院博士はまったく面識がない。しかし、清太郎はどうしても、彼に聞かなければならないことがあったのである。故に、アポをとり、三千院弁護士の許へ向かっていた。

 夕暮れの薄闇が辺りを包み込んでいる。

 時刻は午後七時――。

 普段であれば夕食の時間。空腹はある。しかし、きのこ博士の事件を解くために清太郎は一心不乱に三千院の許まで行き、そして豪華すぎる邸宅のベルを鳴らした。すると使用人の田中が現れ、清太郎を三千院の許まで案内してくれた。どうやら、清太郎がやって来ることを事前に把握していたようである。

「夕食時にすいませんな」

 と、清太郎は言う。田中はフッと笑みを零す。歳相応のしわが目元にあらわれ、どこか御伽噺に出てくる老婆のようにも見えた。

「構いません。普段はほとんど来客がありませんから、むしろ嬉しいくらいです」と、田中。

「そうですか。実に慌しく約束を取り付けてしまったんでね。よく考えると失礼なことをした。そう思ってるのですよ」

 田中は長い廊下を抜け、三千院の書斎をノックする。室内から「入りなさい」と言う、重鎮な声が聞える。そして、田中は清太郎を室内に入れた。

 三千院の書斎には少し薄暗さを感じさせた。現代から切り離された、レトロで重厚な印象を与える。トビラから見て真正面にある窓。その前に設置された大きな書斎机に三千院は座っていた。モスリンのカーテンがかかり、室内には日の光がまったく差し込まない。その代わり、豪奢なシャンデリアから注がれる明かりが、柔らかく室内を照らし出していた。

「遅くにすいませんね」

 と、清太郎は言う。

 すると、三千院はゆっくりと立ち上がり、書斎机の前あるソファに腰をおろし、清太郎にも座るように促した。

「まぁ座ってください」と、三千院。

 その言葉を受け、どすどすと地響きを鳴らすように、清太郎はソファの前に進む。それを確認した田中が室内から消える。こうして、書斎には三千院と清太郎の二人だけが取り残される。

「さて」三千院が言う。「きのこ博士、つまり二階堂由紀嵩氏のことでしたな」

「ええ」清太郎は答える。「そのとおりです。実は少々お聞きしたいことがありましてね」

「その前に、あなたは探偵と言うことでしたが、誰からの依頼なんでしょうか?」

「それはそうですね。しかし依頼ではないのです。老人のつまらぬ趣味といっても過言ではないでしょう。私は今回のきのこ博士の死に不審を抱いている。しかし、それを掘り返して、二階堂家を混乱させようと思わない。確実なのは、真実を手に入れたいということなんですよ」

「なるほど、話によれば、元は探偵をなさっていたと伺いました。私も職業柄探偵の方と仕事をしたことがありますが、非常に興味深い職種であると感じましたよ。皆、興味がつきないようだ。あなたの気持ちも分かります。リタイヤするには少し早かったかも知れませんね」

「そうかもしれません」

「それで、今回はどのような件で? いいえ、なんとなく分かっています。お電話でも言っていたとおり、察しの良い方であれば何かもが分かるはず。そう思っておりました」

「しかし、警察は見抜けなかったようですがね」

「それは仕方ありません。警察が抱える事件の数は膨大です。今回の事件はそんな数多くの事件に比べれば些細なもの。仕様がないんですよ」

 と、三千院は言った。そして、着ていた上着のポケットからパイプを取り出し、それを吸い始めた。パイプとはまた珍しい。海泡石でできた琥珀色に光るパイプから紫煙が噴出してくる。室内にチェリーの香りが充満する。フェル博士とは違い、タバコを一切吸わない清太郎であったが、ここは三千院の邸宅である。何も文句を言わず、清太郎は背中を預けた。

 やはり、三千院はすべてを知っている。今回の事件が事件であるということを。そしてもしかしたら協力者であるのかもしれない。清太郎はそう察し、ゆっくりと目を瞬いた。

「なぜ」と清太郎。「このようなことをされたのですか?」

 紫煙を吐きながら、考え込むように三千院は答える。

「簡潔に言えば、強い意志に負けた、ということですかな」

「強い意志。それはまた面白い表現だ。確かに今回の事件を引き起こした人物。そうですねぇ。ここでは推理小説風に『X』とでも名づけましょうか。Xはなぜ事件を引き起こしたか。それはまた不可解ですからねぇ」

「しかしあなたはその全貌を知っておる。いえ、把握しているのではないですか?」

「ええ。まぁそんなところです」

「非常に興味深い。どうして気づかれたんです?」

「それは……」

 清太郎が言いかけた時、トビラがノックされた。

 話の腰を折られたが、清太郎は特に不快な顔をせずに、一旦言葉を切った。但し、三千院はそう考えてはおらず、不満そうな顔をし、トビラに向かって大きな声を出した。

「入りなさい」

 その言葉を受け、田中が銀トレイにコーヒーを二つ、そしてミルク入った白い陶器と、ガラス製の角砂糖が入った瓶を乗せ持ってきた。コーヒーが注がれているカップはオールドノリタケで、アール・ヌーヴォーを髣髴させる、しなやかな花柄が描かれた高級そうな代物であった。

「今日はこちらのカップにしました」

 田中はゆっくりと言い、そして慣れた手つきでカップをローテーブルの上に置いた。タバコのニオイと、コーヒーの香りが重なり、何とも言えない雰囲気を醸し出す。ニオイから察するに、インスタントではない。丁寧にドリップされたコーヒーであると察せられる。清太郎は、軽く太い首を動かし、にこやかな笑みで田中に礼を言う。田中はそれを受け、丁寧にお辞儀をすると、そそくさと室内から消えていく。

 彼女は自分が場違いな存在で、話の腰を折ってしまったことを察しているのである。なんともまぁ勘のするどい使用人だ。清太郎はそんな風に考えながら、コーヒーに口をつける。若干酸味のある特徴的なコーヒー。濃いめでありながら、風味があり、そしてさわやかである。きっと豆も良いものを使っているに違いない。普段はお茶ばかりで、あまりコーヒーを嗜まない清太郎であったが、そのくらいのことは分かった。コーヒーに二口ほど口をつけると、清太郎は言葉を続けた。

「私が、Xが事件に関わっていると察した理由は非常に簡単です」

「ほう」鼻から煙を吐きながら、三千院は言う。「どういう理由ですかな?」

「アナグラム。それも非常に簡単なね」

 アナグラムというのは、簡潔に言えば言葉遊びの一種である。単語や文章の中の文字を組み変えることで、新しい単語や文章に作り変える。そんな遊びである。

 ローマ字だけでなく、日本語でも存在する。

 たとえば、ネット上のウィキペディアではこのような例がある。

 anagrams = ARS MAGNA (アナグラム=偉大なる芸術『ラテン語』)

 アナグラムと言う文字を組み替え、ラテン語の偉大なる芸術と読み代えることが出来るのだ。これがアナグラム。清太郎は今回の事件にアナグラムが関わっていると察しているのである。

「うむ」納得の面持ちで三千院は答える。「面白いでしょう。確かにあなたの仰るとおりだ」

「なぜ、このようなことを? 三千院さん。あなたはどこまで今回の事件に関わっているのですか?」

「私ですか? それほど関わっているわけではありません。ただ、あなたの仰るXもそのアナグラムには気づいていたのです。ですから、自分の出生の秘密を事前に悟ることができた。そして、今回の事件を引き起こそうと決意されたのですよ」

「妙なのは、事件を引き起こすことによって、Xにはメリットがないということです。これは不可解ですねぇ。多額の遺産が関わってくる。となれば、誰だってその遺産が欲しいはずです。しかしXはそう考えてはない。これは非常に興味深い話です」

「左様。私もそう思います。ですから私はXに問いかけた。『今回の事件、君にとってどんなメリットがあるというのかね?』とね」

「そうしたらXはどのように答えたのですか? 何となく察することができますが?」

「それはここでは言えません。さて、あなたの目的を教えていただけますか? あなたはきのこ博士の死の真相を知っている。それは間違いないでしょう」

「私は毒殺であると考えています。きのこ博士の室内には毒きのこがたくさんありました。ですからそのきのこを使い、事件を起こすことは論理的には可能です。しかし……」

「問題はそこなのです。Xはきのこ博士を毒殺することができなかった。というよりも、人を殺害することなど一般の人間にはできない」

 沈黙が室内を襲う。清太郎は再びコーヒーに口をつける。そして角砂糖の入った瓶から二、三個の角砂糖を取り出し、それをコロコロと手でもてあそび、一つずつ、カップの中に入れた。

「仰るとおり」清太郎は答える。「私はXがこのような事件を起こしたとは思えません。ただ、Xはすべてを知っている。それは間違いないでしょう。そういう意味ではXは警察よりも鼻が利く。そんな感じがしますね」

「そうですな」三千院は言う。「警察の捜査は怠慢です。これでは世間から非難されても仕方ありません」

「毒殺されたことが事実なら、どうして警察はそれを見抜けなかったんでしょうか? 私にも、現役時代から付き合いのある刑事の知り合いがいます。彼は決して毒殺であるとは考えていなかった」

「警察は案外無能。それは過去の経験から心得ています。私は毒きのこに関して深い知識があるわけではありません。そんな私に言えるのは、毒を食材に混ぜて使用したのではなく、気化した煙を使い、死に至らしめたのではないかということです。それを砒素のように少しずつ使用していき、徐々にきのこ博士の生命を削っていったと考えられます」

「検視したのにもかかわらず、毒素は検出されなかった」

「それはそうです。解剖したわけではありませんからね。K県には監察医制度がありませんし、解剖医は非常に少ない。一人にかかる重圧が高いのですよ。余程のことがなければ見逃されてしまいます。今回もそのようなケースでしょう。犯人もそれを知り、その僅かな可能性に賭けたのかもしれませんなぁ」

「そうですか」

 と、清太郎は言い、カップに残ったコーヒーをすべて飲み干した。角砂糖を何個も入れたので、既に酸味のあるコーヒーは甘みのある黒い飲み物へと変化していた。これだけ砂糖を摂れば軽く一〇〇キロカロリーは超えたであろう。ダイエットを推奨されている身にとっては痛い事実。しかし、清太郎はそんなことを考えず、今は目の前の話に全神経を集中した。

 自分が考えた推理どおり、事件は行われている。自分の直感、そして推理力が衰えていなかったことは嬉しい事実であるが、やはりため息は出る。人はどうして、このように事件を起こすのであろうか? 色々な策略。思惑が入り混じっていることは間違いない。特にきのこ博士が生前抱えていた人間関係は、予想以上に深くこんがらがっているようである。

「あなたは」重苦しい空気の中、三千院は尋ねる。「どうなさるおつもりですか? 私を……、いいえ、Xや関係人物を告発されるおつもりですかな?」

 その問いに清太郎はどう答えるべきか迷った。告発などするつもりはさらさらない。だが、事件を事件として扱わず、見過ごしてしまっても良いのだろうか? 二つの思いが交錯し、清太郎の脳内でぐるぐると回った。

「それは」清太郎は答える。「分かりません。ただ、私の他にこの事件を追っている人間がいるのですよ」

「そうですか? それは警察の方ですかな?」

「いいえ、違います。探偵ですよ。いずれは非常に優秀な探偵なるでしょう。今はまだ探偵の卵ですが」

「それは興味深い話です。実は明日、二階堂家で遺産分与の話が行われます。正式に遺言書を開示し、二階堂家に伝えるのです。その時、是非あなたに参加していただきたい」

「明日ですか……。しかし、なぜ私を?」

「今回の件。Xの思惑どおり、事件性がないものであると判断されました。よって遺産分与の発表が正式に行われます」

「なるほど。そうですか」

「もし仮にあなたが今回の遺産分与がおかしいと思うのであれば、そこで告発されても構いません。私も同罪、罪を償うことになるでしょう。しかしそれはXのことを深く傷つけることになる。Xは強い意志と、確固たる希望を持ち、今回の事件を計画し、それを実行しました。その結果、今回のようになったのです。それはXの執念が見せた奇跡の一つでしょう。事件は決して悪いことばかりではないのです。臺さん。それはあなたも分かっているでしょう。特に探偵として現役時代は活躍されたのです。事件の全貌を解き明かし、それを開示することだけが解決の方法ではありません」

 言わんとすることは分かる。清太郎も現役当時は理不尽な事件、不可解な事件。様々なケースに携わってきた。今回のケースもそれに似たものであろう。

 清太郎は、ディクスン・カーの書いた『死者のノック』という作品を思い出した。トリックは小粒であり、決して良作であるとは呼べないが、倫理観を問われる話であることには違いない。倫理。それが清太郎のことを縛り上げる。

「明日の二階堂家の会合に私も参加しても宜しいでしょうか?」

 と、清太郎は尋ねる。声は冷静沈着。

 相対する三千院はにこやかな笑みを浮かべ、

「もちろんです」

 と、答える。

「私の他に二名の人物を同席させたい。一人は先ほど言った探偵。もう一人は今回の事件を担当した刑事です。刑事といっても彼の捜査能力は高いものではありません。事件をひっくり返すこともしないでしょう。但し、真相を知ってもらいたい一人なのです」

「構わないでしょう。明日、お待ちしておりますよ。時間は午前十時から行われます。是非、足をお運びください」

 三千院はパイプを吹かし、煙を吐きながらそう言った。

 午後八時――。

 清太郎は自宅へ帰ってきた。メモ書きを残しておいたため、既に夕食が終わっており、キッチンからは夕食の残り香がする。どうやらカレーライスであったようだ。リビングには一人の少女が立っている。もちろん理沙である。彼女は清太郎が帰ってきたことを俊敏に嗅ぎわけ、彼の前に足を進めた。

「おじいちゃん」と、理沙は言う。真剣な瞳。若さが溢れる心地の良い視線だ。「どこへ行っていたの?」

「それはね」清太郎は答える。「お前さんもなんとなく察しがついているんじゃないのかね?」

 理沙はこくりと頷く。細い首がしなやかに動き、理沙は物憂げな顔で清太郎のことを見つめた。いつの間に、このような大人びた表情ができるようになったのであろうか? 子供の成長はすこぶる早い。そんな風に清太郎は感じた。同時に、理沙から放たれる探偵じみたオーラに不思議な印象を覚える。

「三千院弁護士のところに行ってたんでしょ?」と、理沙。

「うむ」清太郎は答える。「そのとおりだよ」

「どうして?」

「決まっているじゃろう。きのこ博士の事件のことでだよ」

「おじいちゃんはあたしに事件のことを忘れて、勉強しろって言ったわ。でも、自分では捜査をしている。それはなぜ? やっぱりこの件は事件なの?」

 問われた清太郎はグッと顎を引き、考え込む。太り、たっぷりと肉の付いた顎が二重にも三重にもなり首と同化する。座り込んでいると、お腹の辺りの肉が邪魔だ。スリーピースのベストがはちきれそうに膨らんでいる。

 何度も言ってくどいようだが、清太郎は今回のきのこ博士の死を事件だと捉えている。もちろん、目の前に座る理沙も同じようなことを考えているだろう。だからテスト勉強をそっちのけで事件の全貌を解き明かそうと躍起になるのである。それはなぜか? 事件が探偵を呼ぶからか? それとも他に何か理由があるのか? 理沙の心を支える根源が何であるか? 清太郎は必死に考えていた。

「お前さんも分かっているんだろう」清太郎は静かに告げる。「わたしとお前さんは同じようなことを考えておる」

 その後、理沙は間髪入れずに尋ねた。

「ってことは、やっぱりきのこ博士は毒殺されたのね?」

「その可能性はある」

「犯人は誰?」

「恐らくお前さんが考えている人物と同じじゃよ」

「ってことは――さんなのね?」

 理沙が放った言葉はやはり、清太郎が考えている犯人と同一人物であった。その奇妙な一致に理沙が持つ探偵としての資質を垣間見たような気がした。自分の孫娘だからではないが、理沙には素質がある。そんな風に感じたのである。

 しかし、探偵としての生活はそれほど楽なものではない。自分が探偵であったから、それはよく分かっている。シャーロック・ホームズ。ギデオン・フェル。明智小五郎。作家が生んだ名探偵は数多くいるが、あのような華やかな世界ではない。もっと暗く陰鬱で、光の差さない世界なのだ。

 それを理沙は知っているのだろうか? その覚悟があるのだろうか? 事件を解くということは、全貌を明らかにするということは、何も良いことばかりではないのだ。特に今回の事件はそうなる可能性が高い。

 裏で暗躍する人物。『X』

 その人物は自分のメリットを捨ててまで、ある人物を救うために立ち上がった。そのことを理沙は知っているのだろうか? 事件の全貌を把握するということはXが全精力を傾けて起こした必殺の事件という牙城を壊す行為でもあるのだ。

「理沙……」清太郎は言った。「明日のことは聞いているかね?」

「うん」それを受け、理沙は頷く。「知ってる。明日、二階堂家では遺産分与の会議がある。それで正式に遺産分与される人物が決定するの。メモ書きによれば、『二階堂小夜子さん』『二階堂悟さん』『二階堂健さん』この三名に遺産は相続される可能性が高い」

「そのとおりじゃよ。しかしお前さんはどうする? 仮に事件のことを明らかにしても、事件のことはひっくり返らない。いや、ひっくり返すということは」

「そう。ある人物の計画を一気に台無しにしてしまう。その人物は警察を欺き、今回の事件を事件ではないものに昇華させた。それをあたしは壊してしまう可能性がある」

「覚悟があるのかね?」

 沈黙。

 深い霧が出る、冬のイギリスに迷い込んだ気分。あたり一面が鬱蒼たる白い煙に囲まれて立ち往生してしまうような感覚。理沙はしばらくのあいだ黙り込んだ。

 その間、清太郎は太った体を機敏に動かし、冷蔵庫の中から麦茶を取り出し、それをグラスに注いだ。理沙にも飲むか? と尋ねるが、理沙は要らないと答える。麦茶を軽く一杯のみ、再び席に座る。椅子の軋る音が聞え、それを合図にし、理沙は声を出す。

「覚悟はあるわ。ううん、それをはっきりと言わなきゃいけない気がするの。それが探偵としての責務だと思ってる」

「そうかね」清太郎は呟く。「なら、私はこれ以上何も言わないよ。お前さんの自由だ。だが、今回の事件は決して事件を解くから誰もが幸せになるようなものではないよ。その点はしっかりと把握しておくことだ。お前さんのような中学生が関わる事件ではない。できることなら、私はお前に手を引いてもらいたい。それはお前の祖父だから言っておるんじゃよ。それは分かってほしい」

「うん。それは分かる。でも知ってしまったんだもん。もう我慢はできない」

「ならば明日、私と一緒に二階堂家に行こうとするか。時間は一〇時からだそうだ。テスト勉強はしなくて良いのかね?」

「気になって手が動かないわ。それでも明日すべてが終われば、ちゃんと勉強するから心配しないで。それでおじいちゃん、あたしは事件のことを整理したいんだけど良い?」

 理沙はそう言い、清太郎に自分の考えた推理を話して聞かせた。時間にして三〇分ほどの推理。清太郎は興味深そうに時折相槌を打ちながら話を聞いていた。清太郎の考えも、理沙の考えも同じである。二人とも確実に事件のすべてを理解している。後はそれを告白するだけなのだ。

 話し終えた理沙の唇は固く乾いており、緊張感に溢れるものだった。決して高価ではない蛍光灯の明かりが、理沙と清太郎を静かに照らし出している。不思議な雰囲気である。なんと形容すればいいのであろうか? パッと霧が晴れ、魔法の世界に飛び込んだアリスのような気分。

「どう?」理沙は尋ねる。「あたしの推理。合ってると思う?」

 心配そうな声で理沙は言う。清太郎は自分の孫娘であるというアドバンテージを除いても、理沙には探偵としての素質があると考えており、それが確信に変わった。彼女は自分の孫。そして確実に探偵としての血を引いている。血は争えないとよく言ったものであるが、不思議な縁であると清太郎は考えていた。

「うむ」と、清太郎。「私の考えを同じじゃね。よくそこまで推理したものだ」

「そんなことないわ」理沙は恥ずかしそうに髪の毛をかきながら、「でも不可解なのはどうして――が、そんなことをしようと思ったか? ということよ」

「私は――を『X』と呼んでおるよ」

「X。まるでエラリー・クイーンね。おじいちゃんはドルリー・レーンっていう柄じゃないけど。Xはきっと恋焦がれていたのね。あたしには分かる。恋って人を大きく変えるし、理不尽なことを起こすもの」

「まるで恋愛の達人みたいなことを言うね。ろくに恋愛をしたことはないだろうに」

「でも何となく分かるの。ただ、今回の事件はXと犯人である、……ううんと『Y』ってことにしましょうか、Yは別人物。多分、二人は協力関係に合ったわけじゃないような気がするの。奇々怪々だけど、偶然二人を事件という糸が結びつけた。だから協力することになったのかもしれない」

「そうだね。人間の心というものは非常に繊細でつかみどころのない物だよ。どういう原因があり、動くのか誰にも把握できない。Xの行為は決して自分にとってメリットではないと思える節がある。どうみても他人には不可解な行動に見えるじゃろう。しかし、Xはそう考えてはいない。だからこそ、自分のすべてを注いで、事件を計画し、それを実行したんじゃよ」

「それを受け、Yは殺人という愚行を犯したってことね」

「お前さんが言ったトリックは正しいじゃろう。わしは具体的にそれを見たわけではないが、話を聞く限り、その方法が一番であると察している。まさに執念が見せた殺人方法だ」

「もしかしたら……」

 理沙が言いかけた時、玄関のインターフォンが鳴る。

 時刻を確認すると、午後八時半を回っている。来客には遅すぎる時間。清太郎は眉根を寄せながら、立ち上がり、玄関の方へ向かう。その後ろを理沙が追う。

「誰じゃろうね。こんな時間に」

 玄関に行き、清太郎は呟くように言った。

「どちら様ですか?」

 清太郎の緊張感のある声が響く。少しの間、辺りを静寂が包むが、外にいる人物は大層固くなった声で答える。

「夜分すいません。私は怪しい者ではございません。二階堂健と言う者です。少し訳がありまして訪問させて頂きました」

 二階堂健。その名前を聞き、理沙も清太郎もお互いの顔を見合わせた。梅雨前の熱気が二人を包み、より緊張感を助長させる。清太郎は、重いトビラを開く門番よろしく、ドアを開ける。すると、目の前には簡素な格好をした二階堂健が立っている。

 白いシャツに黄土色の瑪瑙でできたループタイ。クタッとなったスラックスに、安物の革靴といういでたち。若干薄くなり始めた頭からはおじさん臭い整髪料のニオイがする。

「どういう了見ですかな?」

 と、清太郎は言う。

 健はスラックスの後ろポケットからハンカチを取り出し、額に浮かび上がる汗をぬぐいとる。それが話す前の儀式でもあるかのように。そして、もたもたしながら言葉を発した。

「臺理沙さんは御在宅ですか?」

 それは意外な問いであった。てっきり清太郎に用事があると察していた理沙は、面を食らったように、びっくりし健の顔を覗き込んだ。一体自分に何の用なのか? 考えることはそう難しいことではない。健は先ほど理沙と清太郎が話していた、きのこ博士の事件にとって必要な登場人物である。

 となれば、話の内容はきのこ博士のことだろう。理沙はそう察し、清太郎の横から飛び出した。

「あ、あたしですけど。何か用ですか?」

「二階堂悟、ええと、これは私の兄なんですが、彼から話は聞きました。あなたは探偵で、私の父である二階堂由紀嵩のことを追っていると」

「は、はぁそうですけど、別にあたしは困らせようとして、調べているわけじゃないんです」

 理沙は困惑した。つい先日、悟とはトラブルになったばかりなのである。だからこそ、健の突然の来訪も非難に近い内容のものであると察したのだ。しかし、どうやら健はそう考えていないようであり、

「私がここに来た理由は簡単です」健は速やかに言った。「実は明日、私たちの家、つまり二階堂家で遺産分与の会議があります。そこに理沙さん。あなたにも参加してもらいたいんです」

「え」

 そう言うだけで、精一杯であった。理沙も清太郎も口を閉ざし、できの悪い彫刻のように固まっていた。健は一体何を考えているのだろうか? 

 さきほどまで、理沙と清太郎が二階堂家の会議に参加する話をしていたことは事実である。だが、それを二階堂家の人間が知っているかはまた別問題。当然、断られる場合だってあるのだ。三千院がいる手前、露骨に断るとは思えないが、悟の場合、理沙とトラブルを起こしている。嫌がるのは眼に見えているではないか。

 きのこ博士が亡くなり、二階堂家はそれなりに悲劇を被っているのだ。それを第三者である理沙や清太郎に荒らしてもらいたくないと考えるのは当然のことだろう。

 しかし、蓋を開けてみれば、まったく正反対のことを言う。健は確かに、理沙に対して『明日の会議に参加してほしい』と告げた。それも真摯な態度で。

 この事実は幾分か清太郎の興味に火をつけた。食事を摂る事も忘れ、清太郎はじっと視線を健に送る。当然、健もその食い入るような視線には気づいている。気づいていながら、彼は一心に理沙に対してアイコンタクトをとろうと躍起になっているではないか。当の理沙もその強い目力を感じ、仕方なく歪んだ笑みを浮かべた。

「でも」理沙は言う。「どうしてあたしなんですか?」

 その問いに対し、健は答える。

「あなたが私の兄、つまり悟とトラブルを起こしたことは聞きました。それと同時に、今回の父の死を事件であると考えている人物がいることに驚きを覚えたんです」

「は、はい。確かにあたしはそう考えています。それにおじいちゃんも。えっと、おじいちゃんっていうのは、今、あたしの隣にいる、この肥満体の老人です」

 肥満体の老人。実の孫娘からそのようなことを言われ、清太郎は幾分かショックを受けた。だらしなく出っ張ったお腹をポンと叩く。乳幼児なら丸々一人入ってしまうような太鼓腹。現代社会の偏った食生活によって形成された脂肪。清太郎は「クス」と笑みを浮かべ、仕方なく理沙の頭の上に大きく熊のような手のひらを置いた。

「何かわけありのようですな」と、清太郎。

 健は清太郎を一瞬見つめると、素早く首を上下に振った。

「ええ。わけありです」健は答える。「実は、私も今回の父の死が、何らかの事件ではないか? そう考えているのです」

 これは意外な言葉であった。

 なぜなら、今回のきのこ博士の死が事件性によるものだった場合、肉親である健には遺産が一切入らないのである。それは慢性的に金に困っている健にとっては大きな痛手のはず。にもかかわらず、そのような困惑した空気を醸し出さない。むしろ逆に遺産を受け取ることに躊躇しているような仕草を見せる。

 理沙も清太郎も健の姿を見て、彼が何らかの考えを持っていることを瞬時に見抜いた。それはつまり、きのこ博士が毒殺された可能性があることを、心のどこかで考えているということだ。理沙はどう言うべきか迷った。面と向かって『あなたのお父さんは毒殺されたんです』と言って良いのだろうか? 健をより困惑させ、これ以上ない心労の海に放り投げることにはならないか? それだけが気がかりだった。

 しかし、健には確固たる覚悟があったのである。彼は意を決したように眼を見開くと、素早く声を発した。

「私は父が毒殺されたと思っているんです。そして、あなたたちもそう考えている。だからここにやってきました」

 予想外の言葉に、理沙は驚きを隠せずに口をあんぐりと開ける。まさか、肉親の口から毒殺と言う言葉が放たれるとは思わなかった。

(この人はどこまで知ってるんだろう?)

 と、理沙は考える。

「兄は」健は続けて言う。「兄は信じていません。彼は今回の遺産が入らないと困るからです。その事実は既に知ってのとおりだと思いますが?」

 そのように言った後、健は居酒屋で悟に会ったこと、そして悟のことを疑っていることを逐一説明した。玄関での立ち話が異様に長くなる。どう考えてもこのようなところで話す話題ではない。仕方なく、清太郎は自室に理沙と健を案内し、そこで話の続きをするように勧めた。

 既に説明したとおり、清太郎の部屋は広くない。きのこ博士の書斎、三千院の邸宅とは比べることができない。恐竜と蟻、そのくらいの違いがある。応接セットなどないし、気の利いたおしゃれな革張りのソファもない。当然、机はマホガニーではなく、安物のベニヤ板で作られた簡素なものである。

 清太郎は、座布団を数枚用意し、それを畳の上に敷いた。丸い卓袱台が、昭和レトロな雰囲気を醸し出している。健はというと、ストンと座布団の上に座り、将棋でどのように攻めようか考えるように、下を見つめている。

「健さん」理沙は尋ねる。「どうしてあなたは毒殺だって考えているんですか?」

 健の視線が若干上に上がる。薄くなった髪の毛をなで、話の筋道を心の中で立てているようである。

「分かりません」健は答える。「ただ、勘が働いたというか、よく考えればおかしな話なんです。私たち家族はとても親父の遺産をもらえるような人間ではない。それは分かっているんですよ」

「でも、おじさんはきのこ博士の息子さんでしょ。それなら権利はあるのよ」

「権利はあるかもしれない。だけど、どう考えても親父が俺たちに財産を残すとは思えないんだよ」

 いつの間にか、健の一人称が『私』から『俺』に変わる。少しずつ緊張が解け、別の興奮が襲ってきているようだ。彼は疲弊した心を懸命に動かし、その力を言葉に変えている。そして、持論を展開しているのだ。

 相対する理沙は、正直に自分の意見を述べることに決めた。大人を前に、あまり変化球は投げられない。直球を投げることができるのは子供の特権であると思えた。理沙は静かに口を開く。

「失礼なこと言ったらごめんなさい。健さん、あたしにはあなたやお兄さんの悟さんがお金に困っていることを知っています。だから、今回の遺産が手に入るのは、むしろ運が良いことなんじゃないんですか?」

「もちろんそうです。兄もそう考えている。兄には年頃の娘がいます。この人物は知っていますよね?」

「楓さんですね」

「そう。実はあなたのことを兄から聞き、楓ちゃんにこの家のことを聞いたんです。少し調べたらすぐに分かりました。孝之君も知っていましたし、なにより、有名な名探偵、臺清太郎氏の自宅ということですから」

 有名な名探偵と言われ、理沙の後ろに胡坐で座り込む清太郎はフッと笑みを零した。自分が探偵として活躍していたのは、もはや四半世紀も昔の話である。今はただのメタボのおじいさんなのだ。探偵として活動することはほとんどない。今回の事件に首をつっこむのも、孫娘である理沙に合いの手を入れるためである。

 そうでなければ、わざわざ面倒な事件に関わることはしない。現実に起こる事件と言うものは、そう大団円を迎えるものではない。『イヤミス』というミステリのジャンルがあるが、後味が悪いケースが多い。その真相を、清太郎は自覚している。

「健さん。それに理沙」と、徐に清太郎が口を挟んだ。「苦労して集めた一〇の情報があるとしよう。しかし、その内の七つは役に立たないかもしれない。でも残りの三つの真相を追うことが大切なんじゃよ。それが探偵としての捜査の基本。そして、もう一つ言いたい。理沙や健さん、既にお気づきかもしれんが、真実を知ることは何も良いことばかりではない。辛く隠しておくべきであったと後悔することだってある。それでも良いのかね?」

 理沙も健もしばらく沈黙する。理沙の小さな顔が蛍光灯の光に照らされ、長く影を作っている。まったくBGMのない世界。ドヴォルザークでも流したい気分に清太郎は晒された。しかし、理沙と健を交互に見つめ、二人の反応を待った。

 先に反応したのは健。彼は眼をきょろきょろと小動物のように動かしたが、すぐに焦点を定め、清太郎のまん丸の瞳を見据え、口を開いた。

「もちろん、覚悟はあります。そのために俺はここに来たんですから」

 その後理沙も頷きながら、言葉を継げる。

「あたしだってそう。事件の真相を語り、それを当事者に伝える。それが探偵としての役割だと思うし。『X』や『Y』を救うことに繋がると思う」

 二人の言葉を聞き、清太郎は確かに覚悟の重さを感じ取った。これ以上、何を言うべきではない。老兵はただ去るのみ。そんな風に感じた。理沙の柔らかい髪の毛を見て、その後、成長段階の小さな体を見つめる。

 いつの間に、ここまで大きくなったのであろうか? つい先日まで自分の腰辺りまでしかなかった身長が今では胸の高さまである。そして、少女と大人の境目にあるような独特の表情。子供はどんどん成長するというが、理沙も例外ではない。特に最近の理沙はすこぶる早く成長していく。

 その成長を眼で追うのが大変なくらいだ。それは嬉しいことでもあるし、どこか悲しい事でもあった。自分の手を離れ、探偵として成長していく理沙。清太郎は今回の事件を完全に理沙に任せてしまっても良いと思えた。自分の役目は終わりなのだ。

 但し、理沙が今言ったように『X』と『Y』を救えるとは限らない。真実を語れば、すべての計画が破壊されたダムのように決壊するかもしれないのである。そうなったとき、理沙は自分の推理に耐えられるのであろうか?

 ミステリの世界には有名な格言が存在する。

 有名なところを挙げれば、

『ノックスの十戒』

『ヴァン・ダインの二〇則』

『後期クイーン的問題』

 そして最後は、フェル博士で有名な、ジョン・ディクスン・カーによる、

『密室講義』

 このあたりが良く知られている。

 今回の事件と特に関わりが強そうなのは『後期クイーン的問題』探偵が犯人を指摘したために、二次的、三次的な事件を引き起こす引き金になってしまうという問題である。きのこ博士の死が毒殺であるとなれば、それを計画した人物がいるということになる。そして、その人物を刺激し、新たな殺人を招く可能性だってあるのだ。

 それにXという存在も気になる。この人物は恐らくYの犯行を見抜いていながら……、自分にはメリットがなくなると分かっていながら、遺言書を改ざんし、自分の持つ正義を貫こうとした。この事は理沙も知っている。知っていながら、彼女はその小さな双肩に自分の推理をしっかりと乗せ、それを告発しようと考えている。

 明日になれば、すべて終わる。どう転ぶのかは『神のみぞ知る』といったところであろう。理沙は当然、清太郎が得ている不信感、そして疑心を感じ取っている。それでも尚、探偵の責務として、数多くのミステリ作家が提示した問題を乗り越えようとしているのだ。

「健さん」理沙の凛とした声が室内に轟く。「明日、あたしはすべてをお話するんです。それを聞いてください」

 健はゆっくりと頷く。覚悟を決めた死刑囚のようにも見える、若干の震えは感じさせるが、彼は眼を素早く何度も瞬きながら、理沙の瞳を強い目線で見つめ返す。

「分かりました」と、健。「明日は是非お願いします」

 力強い言葉が、終了のゴング。こうして、三名の座談会のような話し合いは終わる。

 玄関で別れ、理沙と清太郎は二人、自室へ戻った。準備はできている。後は語るだけ、理沙の表情には強い覚悟が現れ、自信と不安が入り混じっている。理沙はベッドに横になりながら、翌日のことを考えた。自分の推理が人を救うのか? あるいは奈落の底へ突き落とすのか? 理沙は何度も呪文を暗誦するように、やや暗示的に自分を勇気付けた。

『大丈夫』それが呪文の言葉だった。


 ――十四――

 翌日――。

 理沙はふと目を開けた。僅かながら緊張があり、眠れなかったのである。しかし、体はすっきりとしている。時刻は午前六時。いつもならまだ寝ている時間。それでも理沙は固く強張った体をゆっくりと起こし、大きな伸びをする。

 窓辺には木漏れ日が差し込んでいる。柔らかな朝日。その日差しが室内を優しく照らしだし、半分ほど開いた窓の隙間から、朝のすっきりとした初夏の風が流れ込む。時期的に、朝晩はそれほど暑くない。六月は梅雨であるが、梅雨前の今の時期が、日本では一番良い時期なのではないかと思えた。

 ぼんやりとしたまま、しばし硬直していた理沙であったが、不意に記憶が蘇る。今日は自分が探偵として事件を解決させる最初の日。

 世界初の推理小説と言われるのは、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』これは短編であるが、その一幕がなんとなく理沙の心に流れた。遠い昔に読んだ記憶。そして有名な日本の探偵作家、江戸川乱歩のペンネームにもなった、偉大な作家である。同時に、エミール・ガボリオの『ルルージュ事件』が思い浮かぶ。これは最初の長編推理小説である。

 どうして今、このようなことが思い浮かぶのかは分からない。ただ、次から次へと、今まで読んできた推理小説が濁流のように脳内に氾濫する。それはまるで、これから探偵として歩みを進めていく理沙を祝福するようだ。

 窓辺に足を進める理沙。未だに緊張感はある。この気持ち。テスト前の独特な緊張感とは違うし、遠足前のやる気に満ちた感情でもない。高ぶるエネルギーと失敗したらという不安が入り混じり、かつて感じたことのない未知なる感情を発生させていた。

(大丈夫)

 と、理沙は念じる。そうこうしていると、家の庭のほうからラジオ体操の音楽が聞えてきた。視線を下に向けると、清太郎が律儀にラジオ体操をしている姿が映る。滑稽に太った清太郎の姿は、どこか諧謔な印象があり、どうしてここまで努力しているのに一向に痩せないのか不思議に思った。理沙は白いTシャツに黒のハーフパンツという寝巻き姿で、清太郎の許へ向かう。

 ラジオ体操をしている清太郎は、突然現れた理沙の姿を見て、驚きを覚えていた。こんなに早く起きてくることは、あまり、というより滅多にないからだ。しかし、そこである記憶を思い出す。今回のきのこ博士の件の最初の日、あの日も確か、理沙は早く起きてきたのである。その奇妙な因果に心を打たれ、清太郎はラジオ体操をしたまま、理沙のことを眺めた。

「おはよ。おじいちゃん」と、縁側に立つ理沙は言った。

 それを受け、清太郎は必死に太った体を動かしながら、

「おはよう。今日は早いね。眠れなかったのね?」

「そういうわけじゃないけど。でも少しは緊張してると思う」

「探偵として推理をするたびに緊張していたら、この先やっていけんよ。しっかり己の推理に自信を持つことじゃ」

「あたしの推理。ホントに合ってるのよね? おじいちゃんと一緒だったんだから、大丈夫だよね?」

 念を押すように言う理沙。不安と緊張、そして興奮が入り混じり、独特のハーモニーを奏でる。確かに清太郎の推理と理沙の導き出した答えは一致している。しかし、それが一〇〇%正しいかは未知数。『X』の思惑。『Y』の動機。それはあくまで推理でしかない。本当の気持ちはどうかなど、本人に聞かなければ分からないのである。

「理沙」と、清太郎。「大丈夫じゃよ。きっと上手くいく。探偵として生きていくなら、自分の推理に自信を持つことじゃ」

 理沙は大層緩やかに首を上下に振り、清太郎の言葉に答えた。

「おじいちゃんは推理を間違ったことはないの?」

「それはある。間違いだらけだよ」

 その言葉は意外であった。有名な探偵。臺清太郎。その人物が推理を間違うことなどあるのだろうか? いや、あるだろう。少なくとも、東大の医学部を目指す学生であっても、一度くらいはテストで間違うことがあるはずだ。

「そうなんだ。おじいちゃんの推理はいつも完璧だと思ってた」

 と、理沙がはにかみながら言うと、清太郎はラジオ体操の二番を踊りながら、

「エラリー・クイーンだって間違うし、お前の好きなフェル博士だって何度も失敗している。失敗するから人は成長するんだよ。失敗を恐れては何にもならなん。それだけは覚えておきなさい」

「うん」

 なんとなく元気をもらえた。理沙は着替えるために、自室に舞い戻る。

 さて、理沙の日常の描写はこれくらいにして、最後の審判の場面に移ろう。時刻は午前一〇時――。場所はきのこ館。きのこ館には数多くの人間たちが集まっていた。きのこ博士はそれほど交友関係が広くないから、これだけの数の人間が集まるのはかつてないことである。

 葬式も近場のセレモニーホールを借りたため、自宅へいることはほとんどなかった。きのこ館のリビングルームには、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『最後の晩餐』の如く、様々な登場人物が入り混じり、独特の緊張感の中、これから始まる会議を待っていた。

 参加人物は以下のとおり。

『二階堂小夜子』『二階堂悟』『二階堂楓』『二階堂健』という二階堂家。

『明日戸孝之』『宗田雅子』の使用人二人。

『三千院勉』『早乙女刑事』『臺清太郎』『臺理沙』の関係者。

 ちょうど一〇名である。

 忙しく動き回るのが、雅子と孝之の二人。使用人としてできることはしたいのであろう。お茶の準備をしている。そして、リビングに設置された大きなテーブルの真ん中には説教を始める教師のように三千院が鎮座している。

 対面には悟と楓が座り、その横に健。リビングのトビラ付近には車椅子に乗った小夜子の姿もある。そして、テーブルの片隅に、早乙女、清太郎の姿があり、理沙はと言うと、窓辺に立ち尽くし、モスリンのカーテンの隙間からこれから展開する自身の推理の最終確認をしていた。

 午前一〇時一〇分――。

 粗方の準備を終えただろう、使用人二人の姿を見て、三千院が演技じみた咳払いをした。それを合図にしたかのように、室内には緊張感のある空気が流れ、一瞬の静寂が襲う。

「さて」三千院は言う。声は低く、それでいて柔らかかった。「これから正式に遺言書を読みあげるわけですが、その前に一つ提案したいことがある」

 その言葉を受け、露骨に顔を歪めたのは悟である。彼は古田織部の作った歪んだ器のような顔をし、声を発した。

「提案とはどういうことですか?」

「うむ」三千院は答える。「実は、今回のきのこ博士の死に疑問を持っている人間がいる。だからこそ、ここには探偵と、そして刑事である早乙女さんを呼んだのですよ」

「それは分かります。しかし、既に親父の死は一般的な心不全であり、事件性がないと判断されたはずです。そうでしょう、刑事さん!」

 やや強い口調で尋ねる悟。テーブルの片隅で事態を見つめていた早乙女は、どう言うべきか迷った表情になり、清太郎に助けを求める。しかし、清太郎は何も答えずに、にっこりと微笑むだけである。

 仕方なく、早乙女は口を開く。

「えぇ。まぁそうなんですか?」

「まさか今更遺産はなし、なんてことにはなりませんよね」と、悟。

「そ、それはそうですね」

 自信なく呟く早乙女。彼は今回の事件を担当した刑事であるが、一体どのような目的があり、今回のような会議が開かれるのか分からなかった。単に遺言書を開示するだけなら、自分のような存在は必要ない。それに清太郎と理沙だって関係ないはずである。しかし、この場には多くの登場人物がいる。

 横溝正史が書いた、畢生の大作『犬神家の一族』も驚きの展開が待ち構えている。そんなことは露ほども知らず、早乙女は口をもごもごと動かす。その姿からは歴戦の刑事である片鱗がまったく見えない。ヒッチコック映画に良くある、巻き込まれ型の主人公のようにただ愛想笑いを浮かべるだけだ。

 決して、そんな早乙女を見て、助け舟を出そうと考えたわけではなく、理沙が静かに口を開いた。

「今日の会議。その前に皆さんに聞いてもらいたいことがあります」

 その声に、理沙と孝之の目線が合う。すぐに孝之は視線を逸らし、その視線を楓に向ける。楓は恐らく孝之の視線に気づいていたはずである。しかし、決して孝之を見ることはなく、ただ俯き、事態を把握しようと躍起になっている。

「またお前か!」懲りぬガキだと、言わんばかりに悟が口を開く。「一体お前は何が目的なんだ。中学生の癖に他人の家庭を嗅ぎまわったりして」

「あたしは探偵です」理沙は力強く言う。「そして今回の事件を解き明かす義務があります。それを説明しましょう。三〇分くらいで終わる短い話です。その後、三千院弁護士の話を聞けばいい。そう思います」

 その後、理沙は大きく深呼吸をし、自身の組み上げた推理を展開しはじめた。

「今回のきのこ博士の死。私は毒殺だと考えています。つまり、彼を殺害した人物がいるのです。あたしは便宜上、その人物を『Y』と呼んでいます」

 そこで早乙女が手を上げて、理沙の言葉を制する。

「『Y』って一体誰さ? それに毒殺ってどういうことなんだよ?」

「まぁまぁ」清太郎がとりなすように答える。「理沙の話を最後まで聞きなさい。早乙女君。お前さんは出しゃばりだからいかん」

「はぁ……」

 と、早乙女が黙り込んだのを見る限り、理沙はリビングのトビラの前にいる、小夜子に視線を移した。彼女の横には点滴があり、それがしたたかに小夜子の体内に流れ込む。さらに護衛の剣士のように雅子が立ち尽くしている。

「今回の事件の犯人『Y』は二階堂小夜子さん。あなたなんです」

 この言葉はリビング内を雷鳴のように轟いた。小夜子が『Y』彼女は前述の説明どおり、全身麻痺の介護レベルが要介護5の病人である。彼女は右腕と首から上が少し動くくらいで、他にはまったく何もできないのだ。

「ど、どういうことですか?」と、雅子が言った。顔は完全に青ざめ、横に座る小夜子のことを見据える。

 小夜子とはいうと、いたって冷静である。それがさも当然といわんばかりに口を閉ざし、微かに動く右腕、ひざ掛けの上で小刻みに動かしている。

「この二階堂家は、実は凄くややこしい家族関係をしているんです。それを説明します」

 と、理沙は言う。彼女の態度に、その場にいる全員の視線が注がれる。こんな経験をしたことのない理沙であったが、なんとか自制心を取り戻し、必死に言葉を継いだ。

「きのこ博士には隠し子がいるんです。そしてそれは、あるアナグラムによって、巧妙に隠されていました。しかし、考えると実に単純なんです」

「アナグラム?」と、悟。彼は不満そうだ。

 そこで理沙はアナグラムが言葉遊びの一種であることを説明した。そしてその後、

「二階堂きのこ博士。彼の本名は二階堂由紀嵩。といいます。この由紀嵩と言う名前を見てみましょう。『ゆ』『き』『た』『か』四つの文字から出来ています。これを組み替えるとこう読むことが可能です。『た』『か』『ゆ』『き』つまり『たかゆき』=『孝之』です」

「バカな! そんなことはただの偶然だ」

 と、吐き捨てるように悟が言い、それを健がなだめている。理沙は一切動じることなくさらに持論を展開する。

「ただの偶然ではないんです。もう、作為的な力が働いているとしか思えません」

 そう言った後、理沙は孝之の方へ顔を向けた。当然、孝之はその視線を確認する。険しい顔が理沙の瞳に映る。孝之はどこまで自分の境遇を把握しているのであろうか? すべてを知っているのか? それとも何も知らずに今まで生活をしてきているのか? いや、それはない。理沙は孝之がすべてを知っているのではないか? そう思えて仕方なかった。

「先を続けなよ」

 と、ぼそりと孝之は言った。静まり返った空間の中、響いた孝之の声は、中学生離れした大人びた声質であり、それが理沙の心を一層緊張させた。

「わかった」理沙は言う。「先を続けます。孝之君の名前がきのこ博士の本名。『由紀嵩』のアナグラムであるということは分かりました。でも、確かに悟さんの言うとおり、偶然かもしれません。親の名前の一部をとって子供の名前にする行為はそれほど珍しいことではありませんし、事実行われていることです。まぁあたしたちの世代ではキラキラネームっていう不思議な名前が流行っていますけど」

 そこで理沙は一旦言葉を切り、深呼吸をする。空調が効き、一定の室温が保たれた二階堂家はそれだけで居心地が良かった。自分の家とはまったく違う、貴族の館に足を踏み入れた気分。理沙は言葉を継ぐ。

「でも苗字はどうでしょう。孝之君の苗字は『明日戸』結構珍しい苗字です。『あ』『す』『ど』これも実は言うとある名前のアナグラムになっているんです。その苗字こそ『宗田』つまり、使用人の雅子さんの苗字です」

「ちょっと待って」

 突如言ったのは楓。彼女はオドオドとした声で、理沙に質問を飛ばす。

「『明日戸』と『宗田』じゃアナグラムになっていないけど」

「うん」理沙は答える。「それはそうね。でもアナグラムっていうのは、決して同じ言語から言語へ変換させ、言葉遊びをするわけじゃないの。つまりこういうことが言えるわ。『明日戸』この名前をローマ字に分解しましょう。するとこうなる。『A』『S』『U』『D』『O』さらに『宗田』を分解すると『S』『O』『U』『D』『A』となっていて、『明日戸』と組み替えることが可能なのよ」

 理沙の声は徐々に自信を感じさせ、乗ってくる。そして、そのアナグラムを聞き、今まで黙っていた三千院が尋ねる。彼の面持ちを見る限り、大変満足そうな、それでいて観音菩薩を髣髴させるような態度が伺える。

「君は」三千院は言う。「孝之君がきのこ博士、そして雅子さんの子供だと思っているんだね。なかなか興味深い話だ。君はまだ中学生だから分からないだろうが、隠し子には遺産贈与の権利がある。法改正によって認められることになったんだよ。まぁ今回の場合は、きのこ博士の死因に事件性がなかった。遺産を相続するのは『悟氏』『健氏』そして妻の『小夜子さん』の三名。孝之君には遺産が入らない。けれど、通常の場合、隠し子に黙って遺産を相続してもそれは無効になるんだね」

 もう、わけが分からない。といった体で悟は耳を傾けている。自分の耳が、あたかも自分のものではないように、疑心暗鬼の態度である。それはそうだろう。自分の親。きのこ博士に隠し子がいた。それも厳格で真面目一本を通してきたような父親に。こんなことは悪夢としか思えなかった。同時に、その証拠が奇妙なアナグラムで出来ているということに驚き、ただ黙ることしかできなかった。

 反対に健はどうだろう。彼は前日、既に理沙からこの話を聞いていた。到底即答で「はい、そうですか」と言える論理ではなかったが、どこまでも真相を突いているように思えた。思えば、きのこ博士が何の背景もない孝之を拾い養子として育てること事態、不可思議なことである。そして、雅子の存在もだ。使用人として雇い、ずっと生活をさせている。この恩情に近い行為は、きのこ博士が家族の一員として雅子と孝之を大切に思っていた証拠ではないか? それを他人にバレないようにカモフラージュしていたのだとしたら、これまでの不思議はすべてつながるような気がした。

 同時に、事件性があった場合、遺産が孝之と雅子の二人に受け継がれるという遺言も幾許か納得することができる。

 さて、小夜子はこのことをどう思っているのだろうか? ほとんど動けなくなった身体。点滴ポールによってつながれ、半ばアンドロイドのようになり、車椅子に座っている。その視線はしっかり理沙に注がれ、安閑な態度であると感じさせる。つまり、どこまでも余裕なのだ。その態度は、理沙の告白の内容をすべて把握していると窺知させる。

「これはもう」理沙は言葉を続ける。「偶然ではないんです。あたしは孝之君が、きのこ博士と雅子さんの子供であると、確信を持っています。だからこそ、きのこ博士は孝之君の将来を鑑み、遺産を相続させようとしたんですよ。でもそうはなりませんでしたけど。これにも理由があるんです」

「俺にはもう」頭を抱えながら、悟が言った。「わけが分からん。雅子さん、これは本当なのか? この馬鹿げたアナグラムが真実を語っていて、親父には隠し子がいた。教えてくれ、真実を語ってくれ」

 一同の視線が、一斉に雅子に注がれる。

 これまで冷静さを保っていた雅子は完全に動揺している。小夜子の後ろに立ち、使用人然としていた態度は既に崩れ、一般人と化していた。額にはキラリと光る脂汗が浮かび、緊張感が伺える。まさかこのようなことになるとは思っても見なかったという面持ち。

 若干の沈黙があった後、雅子は震える声を出した。

「わ、私には何がなんやら」

 そのように言うが、力を感じさせない。人を納得させるような響きはまったくない。むしろ逆に自分ときのこ博士の関係を認めてしまうくらいの影響力がある。

「雅子」その時であったが、沈黙を破るしたたかな声が室内に響き渡った。

 声の主は小夜子。その声は全身麻痺の影響なのか、くぐもり聞き取り辛い。何十年ぶりに口を開いたという声質。普段ほとんど喋らない彼女の声を聞き、息子である悟も健も、そして楓も驚きを隠せないようであった。

「正直に言いなさい」と、小夜子。「もう隠しておく必要はないのです。この小さな探偵が言っているとおりでしょう」

「し、しかし、そ、そんなことは」雅子は四苦八苦している。「孝之さんが……そ、そんなことが」

「孝之。あなたも知っているんでしょう。話しなさい」

 問われた孝之は完全に動揺している。何を言うべきか分からないという態度。そんな彼の姿勢は従来の孝之が持つ冷静さを完全に置き去りにしてしまったかのようである。

「ぼ、僕は……」

 それだけが精一杯のようである。それを確認した理沙が、代わりに言葉を出した。搾り出すような声。その声が室内に響き渡り、鈍重な空気を作り出すことに一役買っていた。

「孝之君は勘の良い少年です。学校では一番の成績ですし、事前に自分の出世の秘密を察していても不思議ではありません。恐らく彼は、アナグラムの存在にも気づいているはずですし、それと同じでメモ書きの遺言を確認した時、それは確信へ変ったのだと思います」

「理沙」と、清太郎。合いの手を入れるかのように優しげな声。「それだけでは不十分だよ。なぜ、孝之君が遺言書のことを知っているのか? それを説明しなければならない」

「もちろん」理沙は静かに頷き、先を話す。「きのこ博士は著名な作家であり、きのこの研究者でした。論文を書き、机の上にはたくさんの書きかけの原稿、あるいはコピーなどが氾濫していました。きのこ博士の書斎の整理は、基本的に孝之君が行っています。きのこ博士はPCを使わない作家の特徴で、とにかく自分が書いた原稿はどんなものであっても、例えばメモ紙一つとっても捨てずに残しておく習性がありました。ですから、孝之君が室内の清掃中、遺言書の下書きやメモ書きを発見し、それを把握していたとしても不思議ではないんです」

 理沙はそう言い、孝之を覗き込む。孝之は理沙の視線をあえて無視するように、俯き、その後、雅子のほうに顔を向ける。雅子も、徐々に明らかになる真実を前に、動揺を隠せずに立ち尽くしている。そんな中、再び理沙は話を続ける。

「遺書は本来。孝之君と雅子さんに遺産が注がれるという物だったんです。きのこ博士は自分の隠し子である孝之君と、不幸な人生を歩ませた雅子さんに財産を相続させようと考えていたんですよ。そうでなければ、今回のように不可解な遺書を残すわけはありません」

「つまり」悟が口を挟む。「親父は俺に母さん、そして健には遺産を受け継がせることは考えていなかったってことか?」

「そのとおりです」理沙は満足そうに言う。「それが孝之君が雅子さんの子供である証拠なんです。きのこ博士は遺産を二人に受け継がせることで、自分の罪の償いをしようと考えたわけなんですよ」

「だが、じゃあ誰がもう一通の遺言書を作製したんだよ? それも何のために? 健、お前なのか?」

 健は首を左右に振り、ただ一言、「俺じゃない」と告げた。

「その答えを説明します」理沙は言う。「でもその前に、雅子さんに答えを聞きたいんです。雅子さん。あたしの構築した推理は合っていますよね? 答えてください」

 すっかり固まった雅子は、何も言えないようであった。美術館で有名作家の作品を見たかのようにその場から動けなくなっている。

「わ、私は」

 それだけが辛うじて放たれた言葉であった。それを受け、代わりに小夜子が質問に答える。

「DNA鑑定でもすればすぐに答えは判明するでしょう。きのこ博士、つまり、由紀嵩と私は一種の政略結婚でした。戦後の動乱があり、日本は高度成長期を向かえ、私も由紀嵩も親の命令によって結婚したのです。ですが、その前に由紀嵩には気がかりだった人間がいた。それが当時高校生だった雅子です。二人は立場の違いから別れることになりましたが、私たちが結婚し、数年ほど経ったとき、不意に邂逅することになったのです」

「偶然ではないんです」と、雅子は言った。「私はきのこ博士のことをずっとお慕いしていました。小夜子さんと結婚することが分かったとき、私は心の底から衝撃を受け、自分の人生に絶望をしました。でも、当時はまだ家柄、世間体を気にする時代ですから、私は身を引こうと考えたのです。しかし、それはできませんでした。その時、私が考えたのは、この館で使用人として働くという決断だったのです。使用人として働けば、いつだってきのこ博士の許にいられる。そう思ったのです」

 唐突な告白に孝之は死人のように白くなっていた。いくら事前に察していた内容とはいえ、本人の口から真実を聞くと、その重みが一層体を縛り上げるようであった。

「雅子さん。それじゃあ理沙ちゃんが言っていることは本当なんですね?」

 そう言ったのは健である。彼もまた青い顔をし、状況を把握しようと躍起になっている。同時に今まで不可解であった氷の牙城のような考えが、徐々に溶け出していく。

「真実です。孝之さん。私はあなたの人生をめちゃくちゃにしてしまった罪深い人間です。もはや生きていること自体無意味でしょう」

「そんなことはないよ!」孝之は力強く言う。「僕にとってあなたは母親でもあり、友人でもあり、仲間でもあるんです。僕は決して不幸せじゃなかったし、自分の生き方に満足していました。だから、そんな風に言わないでください」

 孝之は雅子の許まで足を運び、そして抱きついた。

 おいおいと泣き続ける雅子。積年の思いが一気に崩壊したかのようであった。どれだけ辛かったであろうか? その心の重さは誰の眼にも明らかで、部屋の空気をしんみりとさせる。

 時間にして五分が経つ。すすり泣く声が、モーツァルトのミサ曲のように聞えてくると、三千院が口を開いた。

「さて、小さな探偵さん。この続きを教えてくれたまえ。君にはまだ話すことがたくさんあるはずだよ。それが君に課せられた義務と言えるだろう。真実を解き明かすことは責任が発生する。中途半端ではならないんだ」

「もちろんです」理沙ははっきりと言う。「先を続けましょう。真実を知った孝之君が次に起こした行動は不可解なものでした。彼が起こした行動、それは遺言書を改ざんするということです」

「そう」悟が言う。「それが不可解だ。自分が親父の、ええと、きのこ博士の息子であると察し、自分に多額の遺産が入ると分かれば、もう一通の遺言書を書く意味がないじゃないか、それに、どうやって遺言を改ざんしたんだ? 親父はPCではなく、手書きの遺言書を残している。いくら筆跡を真似たとしても……」

「その理由は簡単です」理沙は答える。「きのこ博士の書斎には、これ以上ないくらい原稿の山がありました。その原稿の山を使えば、遺言書を偽造するくらいわけのないことです。さて、どうして孝之君は自分がもらえるはずの遺言書を破棄してまで、通常の遺言書を造ることにしたのか? これには二つの理由が考えられます。一つは、自分の出生の秘密を隠しておくため。もう一つは……」

 そこまで言うと、理沙は楓のほうをチラリと一瞥する。当然、その興味深い視線に楓は気づく。そして、少しだけ眉根を曲げて、考え込んだ。彼女は理沙の言いたいことが何となく分かった。同時に、それは自分の気持ちをなぞるような気分でもあった。

「孝之君は」理沙は言葉を進める。「楓さんに恋焦がれているんです。だから、彼は二階堂悟さんの一家を救おうと決意した。悟さんの家庭状況を把握し、それを救うためには遺産の分与が必要だと考えたのです。でも、きのこ博士は悟さんには財産を残すつもりはなかった。だからこそ、一般的な遺言書を作り出す必要があったのです。やはり、きのこ博士と孝之君は血のつながった親子。きのこ博士が雅子さんに惹かれ、自分の財産を残そうとしたように、孝之君も自分が好きになった人を救うため、自分の境遇を捨ててまで、遺産を渡すというという覚悟をしたのです」

 その言葉は、きちんと孝之の心に届いた。理沙は何もかも見抜いている。孝之は反論したい気持ちで一杯であったが、このどこまでも真相を突いている理沙の推理を覆すような、都合の良い言葉は思い浮かばない。ただ、恥ずかしそうに、それでいて、居心地の悪そうな顔を浮かべるのが精一杯であった。

「恐らく……」理沙は続ける。「三千院先生もこの事実を知っていたはず。知っていながら、それを黙認したのは、孝之君の強い意志を見たからです。同時に、きのこ博士とその隠し子である孝之君の関係を察し、黙っていることに決めた。あたしはそう推測しました。でなければ、ここまで都合よく物事は運びません。三千院先生、違いますか?」

 と、言う、理沙の問いに、三千院はパイプを取り出し、それを旨そうに吸いはじめる。室内にパイプのニオイが充満し、柔らかい煙が覆っていく。

「うむ」三千院は答える。「わたしは確かに知っておったよ。非常にうまく作られた遺言書だ。だからこそ、きのこ博士が作ったものではないと、すぐに見抜けた。同時に、誰がこんなものを作ったのか、それも察しがついたのだよ」

「ど、どうして?」健が質問を飛ばす。「孝之君は楓ちゃんのために、自分がもらえるはずだった遺産を放棄したというんですか?」

「想いが強かった。それだけじゃよ。思春期の恋心。それは時として大きな力になる。普段はそれほど力を持たない陸上選手が、自分の好きな人が応援しているというだけで、自己最高の記録をたたき出したり、野球部の冴えない部員が、恋人の前でホームランを飛ばしたりするのは、この時期の特徴として確かに存在するのだよ」

「なぜ、三千院先生はこの事に反対しなかったのですか?」

「反対ですと! もちろん反対はしましたよ。しかし、孝之君はそれを実行しなかった。強い意志が垣間見えたのです。私も昔、警察と恋人を巡ってやりあいました。警察は事件を解決することが出来ず、私は恋人を失った。だから、私は警察という組織を信用していない。そのことを思い出し、孝之君の言うことを聞き、次のように語ったわけですな。つまり、遺言書は複数あり、いかにも誰かが改ざんしたということをカモフラージュするように言ったのです。後は、そこにいる小さな探偵さんが言ったとおりですよ」

 三千院の言葉を聞き、疑問を感じたのは刑事である早乙女。彼は『X』の正体が孝之であるということを確認したが、『Y』つまり、きのこ博士を毒殺したという犯人が小夜子ということを聞いているのである。

 それはどこまでも不可解な犯人。右手が辛うじて動くだけの寝たきりの老人がいかにして、きのこ博士を毒殺することに成功したのか? それが気がかりで仕方なかった。

「理沙ちゃん」早乙女は尋ねる。「孝之君が遺産を改ざんし、楓さんのために骨を折ったことは分かった。しかし、君は『Y』というきのこ博士を毒殺した犯人がいて、それを『小夜子さん』だと言っている。これはどういうことなのか? 説明してくれないか?」

「そうです」理沙は頷く。「今回の事件にはもう一人重要な人物がいます。それが小夜子さん。通称『Y』です。彼女はきのこ博士を毒殺した犯人なんです。その動機は、雅子さん、孝之君のために遺産を譲り渡すため。あたしはそう考えています。でも、孝之君はそう考えていなかった。小夜子さんの意志を知らず、独断で遺言書を改ざんしたので、小夜子さんの計画を踏み潰してしまったのです」

「一体どうやってきのこ博士を殺害したんだい? 俺たち警察はキチンと捜査をしたし、解剖はできなかったが、検視は行った。しかし導かれた死因は心不全であり、毒殺ではなかったんだよ」

「それは、このK市が持つ、癌の一つです」

「癌?」

 と、早乙女は鸚鵡返しに繰り返す。理沙はコクリと小さな首を上下に振り、質問に答える。

「この市の解剖医は非常に少なく多忙です。余程のことがなければ司法解剖はしません。そして検視だけでは、毒きのこの毒を検出することが難しかった。特に今回使われた毒きのこはあまり一般的には浸透していない毒きのこなんです。それが捜査を難しくするのに一役買い、さらに監察医制度がないということも重なり、毒殺が見過ごされてしまったんです。小夜子さんはそのことを知っていたんです」

「なぜ、知っているんだ? 彼女は動けないし、毒きのこを使えばきのこ博士が気づくだろう」

「そう思います。ですから、この事件には小夜子さんだけでなく、きのこ博士も関係しているのだとあたしは察しました。つまり、きのこ博士は自分が毒殺されようとしていることを知っていた。その犯人は自分の妻であるということも。知っていながら、それを放置し、遺言書を書いたんです」

「どうしてそんなことを?」

「決まってます。自分の罪。つまり、隠し子を作ったという真実を認め、それを償うためです」

「それで、どんな毒を使ったんだい? 砒素や青酸カリと、ストリキニーネいうわけじゃないんだろう?」

「ええ。今回の毒殺に使われた毒は『シャグマアミガサタケ』というきのこに含まれる毒素です」

「シャグマアミガサタケ?」

 と、早乙女は繰り返す。

 皆、理沙の吐いた毒きのこを想像するが、その形状がイマイチ理解できない。そこで理沙が取った行動はその毒きのこを持ってくるということだった。

「孝之君。シャグマアミガサタケを持ってきてくれない」

 言われた孝之は、速やかに行動し、自室からシャグマアミガサタケを持ってきた。紫色をした脳みそのようなきのこ。その外見のグロテスクさは一同を驚かせた。

「これを使い、小夜子さんはきのこ博士を毒殺したんです」

「ちょっと待ってよ」孝之は右手を上げて声をあげる。「確かにシャグマアミガサタケの毒を使えば人を殺すことが可能だ。だけど、小夜子様は動けない。どうやってこの毒素をきのこ博士に摂取させるというんだよ?」

「鈍いわね。この毒の説明をしてくれたのはあなたよ。このシャグマアミガサタケは気化した状態でも毒が残るの。つまり、空気中に毒素を排出させ、それを吸わせることで、きのこ博士を毒殺したということ。事実、きのこ博士は一ヶ月ほど前から原因不明の体調不良を訴えていた。医者に行かなかったのは単に医者嫌いだからだけでなく、このシャグマアミガサタケの仕業だと分かっていたから」

 理沙がそこまで言うと、たまりかねた悟が口を開く。

「そ、それでどうやってお袋は親父を殺したんだよ。ホントなのか?」

「点滴ポール。そして日光を使ったトリックです」と、理沙。

「は? 何を言ってるんだ?」

「説明しましょう」

 理沙は立ち上がり、窓辺に動く。そしてポケットから手鏡を取り出し、それを太陽光に向けた。すると、太陽光が光に反射し、細長い線を作る。誰にでも分かる現象。それを見て、皆は理沙が言いたいことが分かったようである。そんな中、理沙は続けて言う。

「点滴ポールに太陽光を当て、その砕けた光をきのこ博士の書斎に当てる。これだけなら、右手一本でもできるんです。ちょうど、きのこ博士の書斎がある母屋と、小夜子さんの一室である離れは、向かい合わせになっています」

「理沙よ」不意に清太郎は口を挟んだ。「実際に皆さんにお見せしたらどうかね。ちょうど部屋は開いているのだから」

 その意見を汲み取り、理沙は一同を小夜子の部屋に向けた。そして、対面の部屋、つまり、きのこ博士の書斎の毒きのこが収容されていた棚にシャグマアミガサタケを設置し、再び、小夜子の部屋に戻ってきた。

 幸い、今日は晴れており、清々しい木漏れ日が小夜子の室内に降り注いでいた。理沙は車椅子に座る小夜子のそばへ行き、点滴ポールを差し込む日光に当てる。すると、日光は点滴ポールを反射し、細長い光へと変り、レーザー光線のようになった。その光を器用に操りながら、理沙は対面のきのこ博士の書斎へと、光を当てる。

 光は先ほど設置したシャグマアミガサタケに当たる。

「しばらく待っていてください」

 理沙はそう言い、一同は沈黙する。時間にして五分くらいであろう。沈黙が続くと、きのこ博士の部屋から一本の煙が立ち上った。それは日光が当たるシャグマアミガサタケから放たれている。

 それをしっかり確認した理沙は、満足そうに顔をにっこりとさせ、柔和で意味ありげな表情をしたあと、言葉を続けた。

「集束された光は、シャグマアミガサタケに当たり、きのこを燃やします。すると、気化した毒の成分が室内に染み渡るという仕組みです」

「し、しかし」健が言う。「煙はかなり目立つんじゃないですか? それにニオイだって」

「そうです」理沙は答える。「でも思い出してください。きのこ博士の書斎には常にお香が焚かれていました。それが日課なのだそうです。そうだよね、孝之君?」

 問われた孝之は、やや憮然としながらも首を振り、

「うん。それは本当だ。きのこ博士は白檀の匂いが好きだった。だから作業中は大抵、お香を焚いていたよ。それは間違いない」

「当然、この事実を小夜子さんも知っています。彼女は寝ながらにして、きのこ博士を毒殺するのに成功したのです。この方法のメリットは徐々に命を削るということ。一ヶ月という長い時期に渡って毒素を吸い込み、次第に命が削られた。もちろん、きのこ学の権威であるきのこ博士がこの毒殺計画を見抜けなかったわけはありません。彼もまた、小夜子さんが自分を毒殺しようとしていることに気づいていたはずです。それを利用し、彼は財産を孝之君と雅子さんに残そうと決めたのです。一般的に孝之君や雅子さんのみ、財産を残すという遺言書を書けば、必ず揉めることになる。だからそのカモフラージュとして、毒殺計画を利用した。あたしはそう考えます」

 理沙はきっぱりと言った。

 すべての証拠は揃った。そしてトリックもキチンと機能している。もはや、小夜子は言い逃れができない。いや、元々言い逃れなどするつもりはないだろう。彼女は車椅子に座ったまま、ぼんやりと対面のきのこ博士の書斎を見つめる。そして、立ち上った煙を興味深そうに眺め、何度か眼を瞬いた。

「今回のきのこ博士の死」小夜子は静かに口を開く。「それは事件なのです。そこの小さな探偵さんの言うとおり、私が由紀嵩を毒殺致しました。その理由は述べるまでもないでしょう。しかし、ここまで的確に推理を言われたのですから、すべてを説明します。由紀嵩と私は、親が組んだ縁談であり、決して恋愛的な結婚ではありませんでした。それは既に説明しているから分かるでしょう。当時、由紀嵩には結婚する意志などなく、ただきのこの研究に没頭したい、そんな人間でした」

 そこまで言うと、小夜子は車椅子に座ったまま、首を上に持ち上げ、煙を吐くようにため息をついた。室内は静寂がおり、誰もが小夜子の話に耳を傾けている。特に悟の顔は印象的で、今回のきのこ博士の件が事件であるということが分かり、不満そうに小夜子を見つめていた。その入りくねった視線は親子関係というよりも、金のつながりによる関係に見える。

 それに反し、雅子はどうだろう。彼女は淡々と話す小夜子の後ろに立ち尽くし、状況を見守っていた。すべてを隠すことはできそうにない。もう、真実は開かれた。その話を聞くしかない状況なのだ。

「由紀嵩と雅子は歳の差が二〇です」小夜子は言った。「彼らが関係を結んだのは、由紀嵩が四〇を越え、雅子が二〇歳になり、使用人として我が家にやってきたときのことでした。由紀嵩は本来、女性に惹かれるような人間ではなく、あくまで研究者らしく、研究に没頭しているのが当たり前、というタイプ。しかし、雅子には由紀嵩を惹きつける何かがあったのでしょう。私はそう推測します」

「一体」悟が尋ねる。「母さん。どんな理由があったと言うんだい?」

「由紀嵩が求めているのは、古い日本的な女性。戦後の社会が生んだ新しいタイプの女性には見向きもしなかったのです。社会に進出し、バリバリと働くような女性ではなく、自分の生涯を女中として家庭を維持してくれる。そんな女性が理想でした」

「そんな都合の良い人間がいるのかよ? お袋、俺は親父がそんな風に考えていたなんて知らなかったよ」

「それはそうでしょう。あなたも健も、決して由紀嵩の愛情を一心に受けて育ったわけではありませんからね。由紀嵩にとっての理想の女性は、自分の母親。つまり、あなたたちにとっての祖母。彼女が理想像でした。ですから、私はよく姑と揉めました。しかし、雅子は愛された。似ているからでしょう。同時に、由紀嵩は雅子の女中のようなきめ細かい仕事が気に入っていました。さらに雅子も由紀嵩に惹かれつつあったのです。この時、由紀嵩は私と離婚し、雅子と一緒になることを考えていたようでした」

「でも」今度は健が言う。「親父は母さんと別れなかったし、俺たちを育ててくれた」

「ええ」小夜子は力強く言う。「悟も健もまだ子供でしたし、捨てるような行為はできなかったのでしょう。第一、雅子が反対したに違いありません。ですが、由紀嵩は自分の溢れ出した感情を抑えることができなかった。元来、女性にまったくといって興味を抱かなかった彼は、雅子に対してだけは、異常に興味を示したんです。由紀嵩は古い気質であり、女中のような雅子と関係を組み、その結果、孝之が誕生することになったのです。しかし、ここで問題が生じました」

「問題?」

「そう。当時由紀嵩は研究者として非常にシビアな状態でした。きのこ学というものは、それほど世間に知られた学問ではありません。当然、国からおりる研究費は微々たるモノですから、彼はテレビ出演し、原稿の執筆などをして、研究費を稼いでいたのです。よって、スキャンダルだけは避けなければならなかった。ここで、彼は一生の過ちを犯します。孝之と雅子の存在を隠してしまうということです。しかし、彼にはそこまで非人道的なことができなかった。孝之を不幸な孤児であると詐称し、秘密裏に育てることになったのです。それから、由紀嵩の受難の日々は始まります」

「だから親父は雅子さんと孝之に遺産を……。それが罪滅ぼしだと考えていたわけか。道理で、俺たちには愛情のひとかけらも注がないわけだ」

 と、健は言う。彼の言葉は皮肉に満ちていた。どんよりと落ち込むような調子がある。自分の父親は母親を愛してはいなかった。同時に、息子である悟や健のことだって。

「もちろん」小夜子は続ける。「由紀嵩は私に対する負い目、引け目を感じていました。私と結婚することで私の人生を決定付けることになったのですから」

 そこまで言うと、小夜子の後ろに立っていた雅子が崩れるように泣きはじめた。

「奥様。それは違います」懸命に雅子は言う。「きのこ博士は、あなたや悟様、健様を愛しておられました。同時に、私や孝之のことも、だから、彼はアナグラムという形で孝之の存在を認めたのです。そして、あなたや悟様、健様のことが気がかりだったからこそ、財産を残すということに同意したのですよ」

「で、でも」悟が会話に割って入る。「親父は俺たちに財産を残すことはしなかったんだろ。あの遺書は孝之君が改ざんしたモノだって話じゃないか?」

「いえ。違うんです」孝之が言った。「僕は確かに遺言書を製作しようとしました。悟様や健様が慢性的にお金に困っていることを知っていたからです。そして、そのことをきのこ博士に伝える機会がありました。僕はきのこ博士に悟様と健様を救ってほしいと頼みました。すると、勘の良いきのこ博士は、僕が別の理由があり、頼んでいると察したのです。その理由とは、既に説明したとおり、楓さんに惹かれているという理由です。楓さんは不登校。でも高校からやり直したいと考えているんです。だから、彼女にとって進学が生まれ変わりのきっかけになるように、遺産を相続させる必要がありました。そのことをきのこ博士は知っており、同時に、黙っていても僕が遺言を改ざんするであろうことも察していました。だから僕は遺言を新たに作ることができたんです」

 たちまち、部屋の中は賑やかになる。きのこ博士を中心とし、そこから枝分かれする人間関係。そこにぶら下がる人間たちにはそれぞれ思うところがあり、生活がある。理沙はそう考え、今回の場合、どの人間の意志を優先するべきか迷っていた。

「あたし、こう思います」理沙は言う。「きのこ博士は決断を任せたんです。自分が毒殺されることを知り、さらに遺言書が改ざんされる事も察していた。だけど、彼は何もしなかった。それは贖罪の心がそうさせたかもしれないし、彼は生きている者、つまり、『孝之君』『雅子さん』『小夜子さん』『悟さん』『健さん』にすべてを委ねたんです。その結果、今回の件は事件ではなく、孝之君が計画したものになった」

 しかし、その意見に納得していない者がいた。それは楓である。彼女は小さな肩を小刻みに震わせながら、言葉を継いだ。

「孝之君。あなたはそれで良いの?」

 孝之の真剣な目。そして朱の入った頬。彼の長年の苦労はどのような形で決着が付くのであろうか。

「僕は」孝之は言う。「これで良いと思う。事件なんてなかった。理沙ちゃんの推理はすべて出鱈目だ! とは言えない。でも僕は楓さんに高校生活を楽しんでもらいたい」

「自分を犠牲にしてまで? あなたどうしてそこまで自分を犠牲にするの? 遺産があればあなただって自由に生きることができるのに」

「僕は楓さんが好きだ。きのこ博士が雅子さんを愛したように。その気持ちは分かってほしい。それだけだ。刑事さん、もう良いでしょう。事件は既に終わったんだ。今更事件にする必要はないでしょう」

 早乙女は酷くうろたえた。どんでん返しが起こり、きのこ博士の件は事件性のある物になった。しかし、それは自分たちの捜査能力の欠如を認めること違いないのだ。

「もう一度、捜査をし直します」と、早乙女。「それが一番よいことでしょう」

「しかし、どうやって?」健が言う。「親父の遺体は既に火葬しているし、今更、毒物を検出するって言うのも難しい。それに遺言書が改ざんされたものであるならば、法的には無効のはずです」

「そ、それはそうですが、今回の場合は……」

 しどろもどろになる早乙女。そんな不穏な空気が流れる中、それまで黙っていた三千院がゆっくりと口を開いた。

「心配は要りません。どの道、きのこ博士の遺産などないのです」

 その言葉は室内を凍りつかせた。

「い、遺産がない?」

 悟の慌てふためく声がこだまする。それを受け、三千院はパイプを吸いながら、最後の言葉を言った。

「きのこ博士にはこうなることが分かっていた。遺産分与は揉めますからね。いくら自分に罪の意識があるからといって、残った遺産をすべて隠し子に注ぐというのは難しい話。そんなことはトラブルになるだけです。しかし、孝之君の行為を淡々と受け入れる事も出来ない。そんな彼が取った決断は、真実の有無を問わず、遺産をすべて寄付してしまうということでした」

「寄付? どこに?」と、健。

「きのこの研究機関。それに孤児院です。複数の遺言書があると言いましたが、私が引き受けた遺言は三通あり、一通が真実です。前述の事件性あるないに関わる遺言書はすべてあなたたち二階堂家を試す罠だったんですよ。メモ書きは真実を隠す煙幕になったということですな。本来は誰にも財産を残さない。それがきのこ博士の意志です。そしてこれが正式の書類です」

 そう言い、三千院はJKの内ポケットから神聖な手紙を取り出した。


『遺言書


 第1条 遺言者は、遺言者の有する一切の財産を換価し、その中から遺言者の債務、遺言執行費用、不動産売却手数料、所有権移転登記費用、その他の租税等この遺言執行に関する一切の費用等を控除した残金をK県K市に半額遺贈する。また、残りの半額は一般財団法人、きのこ学研究所に遺贈する。なお、K市は、当該寄付金を小中学生の教育関連の費用に充てるべきものとする。

第2条 遺言者は、この遺言の遺言執行者として下記の者を指定する。

          記

  東京都K区中央町○○番地△△

  弁護士  三千院 勉

  昭和30年4月4日生


  平成27年5月1日


住所 K県K市東町○番地△△

遺言者  二階堂 由紀嵩 印』


 事件はこうして終着を迎えた。結果的に、遺産は誰にも渡らなかった。但し、孝之の進学費用だけは、きのこ博士が遺贈した施設から捻出されることが決まったようである。悟も健も遺産が入らないことにはショックを受けていたようだが、自身の父親の真実の声が聞え、満足したようだ。それきり、何も言わなかった。

 小夜子はこれまでどおり、きのこ館で暮らすことになる。もちろん、使用人である雅子、孝之の境遇は変わらない。孝之は楓に告白をしたが、それはまだ受け入れられなかった。最初は友達から、そんな終幕を迎えることに。

 刑事の早乙女は、今回の事件を掘り返すのではなく、戒めとして、自分の心の中に深く刻み込んだ。二度と、このようなことが起こらないように――。


 ――十五――

「おじいちゃん」

 推理を終え、自宅へ帰ってきた理沙。既に夕刻。日は落ち始めている。

「何だね?」

 と、清太郎は言う。それを受け、理沙は縁側に座り、アイスクリームを舐めながら、

「あたし、良かったんだよね? すべてはきのこ博士の手のひらで遊ばれていた感じだけど」

「初推理にしては大したものじゃったよ。後は経験を積むことだね」

「経験」

「うむ。まぁ今はテスト勉強に励むことじゃな。それが約束だからね」

 そうこうしていると、清太郎の古びた携帯電話に着信が入った。それは早乙女からの連絡で、新たな事件が起きたというものだった。アイスクリームを舐めながら、このフェル博士風の老人は深いため息をつく。

「理沙。テストが終わったら、また出番かもしれんよ」

 と、囁いた。夏の夜風が二人の頬を打った――。

〈了〉

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