少女探偵遊戯-きのこ館の殺人-
――六――
場面は変わり、理沙の自宅。
時刻は午後五時を迎えようとしていた。理沙は鞄を自室に放り投げ、勉強もそっちのけに祖父である清太郎の許に向かっていた。彼は、いつものように縁側に座り込み、やがて来る夏の景色を感じ取ろうとしていた。その姿はさながら彫刻のようにも見える。但し、かなり太っているので、絵にはならない。何かこう熊が冬眠前に餌を大量に食べている姿に似ていた。
「おじいちゃん」と、理沙は清太郎の背中越しに声をかけた。「ちょっと良い?」
問われた清太郎は、くるっと首を動かし、理沙に視線を注いだ。
「もちろん構わんよ」
「遺産の件。覚えてる?」
「確か、きのこ博士のことじゃったかね。覚えておるが、それがどうかしたのかね?」
「孝之君には遺産が入らないみたいなの……」
孝之という名前を聞き、清太郎は記憶を蘇らせる。きのこ博士の許で働く理沙のクラスメイト。
「そうか。でも彼は大丈夫だろう」
「なんか悔しいわ。本当に必要な人に、お金が入らずに、必要のない人の許にお金が転がり込む、どうしてこんなに理不尽なことが起こるのかしら」
「うむ。そのとおりだな。理沙の言うとおり、この世は理不尽だ。これからお前さんが生きていく世界もきっと理不尽なもので溢れているはずだ。それが嫌なら、探偵なんて道は諦めるんだね」
清太郎は静かに告げる。このフェル博士に似ている祖父は、理沙の未来を心配している。探偵などというものは、理不尽な世界の代表格のようなものだ。それに……、
「お前さんは」清太郎は言う。でっぷりと出たお腹がぶるんと揺れた。「孝之君をどうしたいんだね? 彼は自分で進学先を見つけ、そこに進もうとしている。それならば問題はないだろう」
「あたしにも良く分からない。ただ、彼ほどの力があれば、R高に進むよりも、良い人生があるのに、それを送れないのがもったいないと感じるの。マッキントッシュの真空管アンプを使っているのに、スピーカーが三千円の代物だったら、アンプのよさを十分に感じることができないでしょ」
「そうだね。わしならダイヤトーンの大きなスピーカーが欲しいね。だが、孝之君はそうは考えていない。音楽なんて聴ければいいと思ってるだろう。理沙。お前さんは孝之君に惚れたのかね?」
「ほ、惚れた?」理沙は恥ずかしそうに言う。「そういうわけじゃないけど……」
「なら、いいではないか。孝之君が困っているのなら話は別じゃがね」
「うん」
そう、孝之は決して困っていない。それが問題でもあるのだ。断崖絶壁に腕一本でしがみ付いているのにもかかわらず、助けを求めようとしない。それが孝之である。けれど、理沙は助けたくてたまらないのだ。
「理沙。勉強をしなさい。テスト前なんじゃろう」
それっきり、清太郎との話は途切れた。
清太郎自身、どういうわけか理沙の話す孝之という存在が気になっていた。
理沙はというと、自室に逃げ込むふりをして、外に抜け出す。余程、勉強をしたくなかったのだろう。清太郎はため息をつき縁側に残り、物思いに耽る。しばらくすると、家に来客を告げるベルが鳴る。
今。この自宅には清太郎しかいない。仕方なく、太った体を持ち上げ、清太郎はどすどすとサイのように玄関へ向かった。きっと、セールスか何かだろう。そう思っていたが、実はまったく違っていた。
見たことのない壮年の女性が立っていたのである。
「突然すみません」
と、女性は言う。フォーマルなスーツに身を包んでる。クラシカルと言えば聞えは良いが、実際は時代遅れという言葉が当てはまる。薄いベージュのJKにスカート。八〇年代を彷彿とさせる肩幅の広いシルエットが印象的である。
「あなたは?」と、清太郎は尋ねる。
「『臺清太郎』さんですよね? ええと探偵の」
「今はもう探偵はしてないんですがね」
「失礼しました。私、二階堂由紀嵩の屋敷の使用人である、宗田というものです。実は折り入って頼みがあり、こちらに伺ったんです」
つい先ほどまで、きのこ博士のことを理沙と話していたのである。それが現実に魔法のように現れ、清太郎は不思議な気分になった。
「もしかして……」清太郎は言う。「孝之君のことですかな?」
「え!」
雅子の驚いた瞳が真ん丸く広がる。雅子は毒気を抜かれたように立ち尽くしている。まるで、預言者に的確に自分のことを当てられたかのように。
「ど、どうしてそれを?」雅子は恐る恐る言う。
「そのカラクリは簡単なのです」清太郎は言う。「実はですね。あなたの同僚である孝之君と、わしの孫娘の理沙は同級生なのですよ。さて、立ち話も疲れるでしょう。中にお入りください。そこで話を聞くとしましょうか」
清太郎は自分の一室へ雅子を案内する。自分の一室とはいえ、それほど広い空間ではない。八畳ほどの日本間である。畳はところどころ傷んでおり、張替えが必要であるし、電球色の明かりは、部屋をレトロにするのに一役買っている。部屋のトビラは引き戸。それもかなり年季が入っている。引き戸から見て右側の壁には、大正時代から使っている箪笥。反対の壁には観音開きの古びた棚が設置してある。
応接セットという気の利いたものはない。戸の対面にこぢんまりとした窓があり、ベルベット調のカーテンがかかり、ささやかに揺れている。窓が開いているため、柔らかい日差しと、涼しい初夏の風が入り込む。部屋の中央には直径六〇㎝ほどの卓袱台が置いてあり、清太郎は押入れから座布団を二枚取り出すと、卓袱台の周りに置いた。
「どうぞ、お座りください」と、清太郎。「不躾な部屋で申し訳ありませんがね。この老人が自由に使える部屋はここしかありませんのでな」
「構いません」雅子は答える。それも立ったまま。「素敵なお部屋ですね」
「ありがとう。少し待ってくださるかな。お茶かコーヒーでも用意しましょう。どちらが宜しいですか?」
「そんな、お気遣いなく」
「遠慮することはない。客人をもてなすのは当然の義務ですからな」
「それじゃお茶をいただけますか」
「分かりました。しばらくお待ちください」
と、清太郎は言い残すと部屋から消えた。そしてきっかり五分後、岡本太郎が作ったような湯のみにお茶を淹れ、さらに黒糖のかりんとうをお茶菓子として持ってきた。それを卓袱台の上に置く。
普段通常の生活を送っていたらまず見かけないような湯のみ。
その異常な形状に雅子の視線は注がれている。当然、その視線に清太郎は気づく。同時に、面白おかしそうに事態を見つめ、ゆっくりとあごひげをさすりながら、口を開いた。
「この湯飲みは私が造りましてな。こういう機会がなければ活躍せんので、今日は使ってみました」
対面に座る雅子は、やや毒気を抜かれたような顔を浮かべながら、
「は、はぁ。そうなんですか。でも趣味があるとは良いことでしょう」
「左様。きのこ博士が毒きのこを蒐集するようにね」
「それも御存知なのですか?」
「有名な話です。彼はテレビによく出ていましたからね。さて」
そこで正太郎は中途半端に言葉を切り、かりんとうに手を伸ばした。そしてそれをぼりぼりと噛み砕きながら、雅子のことを慈愛に満ちた顔で見つめる。
「孝之君のことが今回の話には含まれている。私はそう察していますが、話していただけますかな」
雅子は深く頷き、話し始める。
「実は今回の事件。まぁ世間では事件とは呼ばれていないようですが、私は事件だと考えています」
「事件とは穏やかではありませんな。話では、事件性のないものだと判断されたようですが」
「ええ。そのとおりです。あくまで表向きは。警察の捜査もそれほどしっかりしたものではありませんでしたから」
温い捜査。警察は多忙を極める。その事実を清太郎は知っている。次から次へと降りかかる事件。一つの事件にじっくりと取り組めないのは仕方のないことだろう。それに、一度事件性がないとされれば、それが覆ることはまずない。そのことを清太郎は良く心得ていた。
「あなたは」清太郎は言う。「今回のきのこ博士の死が不審死であると考えておられる。それはなぜですか?」
雅子はそこで視線を下にさげた。何やら考え込み、どこか重要な告白を考えている弁護士のようにも見えた。
「特に証拠があるわけではないんですが、ただ、そういう勘が働くというか、おかしな話でしょう」と、雅子。それに対し清太郎は、
「まさしく女の勘というものですな。しかし高が勘と侮ってはなりません。女性の勘は時として、論理に欠けた推理よりもあてになりますからな」
「不審死であれば、遺産の分与が変わるんです」
「遺産ですか。きのこ博士ほどの人物であれば、さぞ莫大な遺産があることでしょう」
「そのとおりです。しかし、今のままでは通常の遺産分与になってしまいます」
そこで、雅子は持っていた小さな革製の鞄の中から、一枚の紙切れを取り出した。A4の紙が数枚。綺麗に折りたたまれている。それを卓袱台の上に丁寧に広げた。
「これを見てください」と、雅子。言われるままに、清太郎は紙を受け取り、まじまじと見つめた。その紙は手記のようで、何度も推敲された跡があった。そこには次のように書かれている。
『孝之』
『遺産』
『将来のため』
散文詩のように書かれた文字。若干の震えがあり、文字はカタカタと揺らいでいるが、筆圧の強い文字がそこに書かれている。これが重要なことを示しているのかは、現段階では判断できない。しかし、清太郎はそうは考えていなかった。徐に立ち上がり、一冊のメモ帳を取り出し、そこにサラサラと何やら書き記し、再び雅子の前に座った。
「うむ。不可解な言葉ですな。これは一体なんですかな?」
勘のよい、このフェル博士風の老人はあえてそう尋ねた。
すると、雅子は痛々しそうに顔を歪めながら、興味深そうな口調で言葉を発した。
「私がきのこ博士の書斎を整理した時に発見したものです。恐らく、きのこ博士が残した言葉であると察しています」
「ええ。そのようですな」と、清太郎。彼は続けて、「それも遺産について書かれておる。それも『孝之』という名前も。これは不可解ですな」
「私、こう思うんです。実はきのこ博士は孝之に遺産を残してやるつもりだったんではないのかって」
「しかし、事実はそうではないのでしょう。一般的な遺産分与が行われる。つまり、配偶者に五〇%。子に五〇%」
「その可能性は高いです。まだ完全に遺言書が発表されたわけではありませんが、皆、密かに内容は知っているんです」
「どうしてですかな?」
「きのこ博士は自分が書いたメモや手記を机の上に残し、捨てずに取っておく習慣がありましたから。まるで見てくれと言わんばかりに……」
それは奇妙なことだった。遺言書を他人が見えるところに置いておく。これは何らかの思惑があるのではないか? そのように考えながら、清太郎は別の質問を飛ばす。
「事件性はなかったと既に判断されているのではないですか?」
「そこでお願いに参ったのです。あなたの力をお借りしたいのですよ。きのこ博士には友人が少なく、このようなことを頼める方は他にはおりません」
清太郎は困った表情を浮かべた。既に隠居した身。その老体に鞭を打つのはできれば避けたい。しかし、事態はそう甘いものではない。この目の前に座る壮年の女性は、清太郎の力を必要としているのである。あっさりと嫌だとは言えそうにない。
「うむ」清太郎は言う。「あなたが孝之君のためにそこまでしてやるのは一体どういうことなんでしょうか? 私にはそれが気がかりです。私が思うに彼は……」
そこで、清太郎は持論を述べた。その言葉を聞いた雅子は交霊術でも見たかのように目を真ん丸く広げ、
「流石は探偵。といったところでしょうか? そこまで分かるのであれば、是非お力をお貸しください。もちろん無料でとは言いません。調査費用はお支払い致します」
「費用など要りませんよ。道楽でやっているようなものですからな。しかし、時間をください。さらに言えば、事件の真相を知ったとしても、遺産分与が変更になるとは思えない。既に遺産は正規の形で分与されることが決まっているようですからね」
「その点は問題ありません。もう直ぐ弁護士の方から正式に遺言書の内容が発表されます」
「弁護士ですか。それはどういうことですか?」
「きのこ博士が書かれた正規の遺言書を持っている方からの発表です」
「正規の遺言書。その発表が迫っているということですね?」
「そうなります。恐らく通常通り相続されるのでしょう」
「なるほど。どうやらきのこ博士は一般的な手段で遺産を与えたくなかったようですな。しかし、それはどうしてでしょうか? さらに不可解なのは、どうしてそこまでのことを考えていながら、それを実行しなかったのか? ということでしょう」
「ハイ」雅子は言う。不意に顔に影が浮かび、毒々しいものに変わる。「私、遺書を改ざんした者があると考えています」
「改ざんですか。そんな恐れ多いことをするのは誰です」
「分かっているでしょう。きのこ博士の子供。つまり、悟様と健様です。お二人は慢性的に金銭に困っていました。そこできのこ博士に何でもお金の都合をつけてもらおうと訪れたのですが、きのこ博士はその依頼をすべて断っていました。それなのに、遺産は子供たちに分ける。こんな不可解なことはありません」
「息子たちも遺言書の内容を知っている可能性が高い。だから、事件性があってはならないと考えているようですな。しかし遺書を改ざんすることは犯罪行為です。弁護士も警察も馬鹿ではない。まぁ馬鹿はいるでしょうがね。そんなに簡単に悟氏や健氏の思うようにはいかないでしょう。つまり、遺書は普通に書かれたのです」
「それを調査してほしいのです。警察の捜査はなんだか頼りになりませんから」
きのこ博士は少しの間沈黙した。特にやることがない老齢の身である。自分の助けを欲している人がいるのであれば、手を差し伸べても良い。そんな風に思えた。
「分かりました」清太郎は言う。「調査をしてみましょう。但し、あまり期待されないほうが良い。私はただの老人。もはや終わった人間なのです。探偵として生きた時代はもう遠い過去の話です」
と、清太郎は終わった事件をもう一度掘り返すことになり、雅子の依頼を受けることになったのである。
場面は変わり、二〇一五年 六月三日――。
清太郎は人でごった返す、とある喫茶店の中にいた。完全に場所を間違えた。フェル博士のような堂々とした体格を持つ清太郎にとって、今時のお洒落なカフェは少々狭すぎる。いや、完全に狭いといって良いだろう。どうしてここまで客席の間隔を狭くする必要があるのだろうか?
理解不能。とはいっても仕方がない。清太郎は一面ガラス張りになった一席から外の様子をぼんやりと眺めていた。忙しそうに動くサラリーマン、OL、そして学生たち、スーパーに行くのであろう主婦もいる。時刻は午前十時。まだ一日が始まって、そう時間はたっていないのに、彼ら、彼女らはどこへ向かっているのだろうか。
そんな詩人のようなことを考えながら、清太郎は注文したチョコレートドリンクを飲んでいた。非常に甘ったるい。しかし美味。カロリーは一杯三〇〇キロカロリー。また太ってしまうかもしれない。
彼はこんなところにわざわざチョコレートドリンクを飲みに来たわけではない。確固たる目的がある。そして、その目的を果たすため、ある人物の登場を待っていた。最近めっきり会っていないが、元気であろうか? しばらく待っていると、慌しく人で溢れかえる道に、例の人間が顔を出した。季節は六月。環境省が行っているクール・ビズは既に今年も始まっている。
ネクタイやスーツを身に着けず、軽装することでエアコンの使用量を下げようという試みだ。
長袖のピンストライプのシャツ。そしてスリムなスラックス。オールデンの革靴。清太郎が待っている人物はざっとこのような身なりをしていた。よく言えばスタイリッシュだが、悪く言えば若者ぶっている。そんな気がする格好。
「珍しいですね」
と、現れた人物は言った。対して清太郎はにっこりと微笑みながら、
「何が珍しいのかね?」
「こんな若者風のカフェに呼び出されるなんて思いませんでしたよ」
「本当はね。十字路(近くにある純喫茶の名前)で落ち合いたかったんだが、あそこは今改装中でね。休みなんじゃよ」
「それでこんな場所に……。それにしても人で凄いですね。休みってわけじゃないのに」
「まぁ座りたまえ。早乙女刑事」
清太郎は早乙女を対面の席に座らせた。椅子はソファで、割りとしっかりした造りである。早乙女は紙カップに入れられた恐らくコーヒーである代物をテーブルの上に置いた。
二人がこうして顔を合わせるのは、久しぶりである。懐かしさが清太郎の心を覆っていく。ほとんど空になったチョコレートドリンクを飲みながら、清太郎は声を出した。
「何ヶ月ぶりかね」
「さぁ。もう半年は会っていませんね。それは確実です」と、早乙女。
「そうかね。君は今でも刑事を続けてるんだろう」
「当然ですよ。仕事ですからね。こんな腹の探りあいは止めましょう。一体何の用ですか? いえ、大体察しはついているんですが」
「きのこ博士の事件。あれは君が担当したようだね」
「ええ」早乙女はタバコを取り出したが、壁にかけられた禁煙という看板を見て、物憂げな表情で諦めた。「ですが、事件ではありませんよ」
「なるほど。それは君の意見かね?」
「私の意見? ちょっと意味が分かりませんが、清さん(早乙女は清太郎をこのように呼ぶ)はきのこ博士の件が事件だと考えているのですか?」
「可能性はある」
「だとしたら間違いですよ。あれは事件性はない。……あくまでそのように処理されました。しかしですね」
そこで早乙女はくぐもった表情を浮かべた。大雪の中、山荘に取り残されたような印象。素早く清太郎はその変身に気づき、満足そうにお腹を撫でる。
「司法解剖はされたのかね?」と、清太郎。
「まさか」早乙女は首を左右に振る。「時間も取れなければ解剖医の数も少ない。簡単に検視をして終わりです」
「その結果は?」
「心不全ですよ。まぁぽっくりと逝ってしまったというわけです」
「しかしきのこ博士はまだ七〇歳じゃろう。ぽっくり逝くには早すぎる」
「そういうわけじゃありませんよ。彼は体調が悪かったそうですし、事実、内臓の働きは弱っているようでしたからね」
「君はその検視結果に満足しているかね?」
「満足はしていませんが、我々の住むこのK市には監察医制度がありませんから、受け入れるしかありません」
監察医制度――。
東京二十三区を中心に全国の大都市にはこのような制度がある。
病気ではなく、不自然な死が見られたときに専門の監察医が解剖に立会い、死の原因を突き止めるのである。通常の司法解剖では発見されにくい、微細な点も発見できるので、犯罪捜査には一役買っている。しかし、清太郎が住むこの一角ではそのような制度がなく、解剖の技術はあまり高くない。
つまり、何かしらの不審死であっても、本当の原因が見過ごされる可能性があるのだ。これは由々しき事態であるが、文句は言えない。事実、監察医制度がない地域では行政解剖に関する予算が少なく、犯罪が見過ごされてしまうという。これは問題になっているが、現在も解決されずそのままになっている。
「毒という可能性はないかね」
徐に清太郎は言った。それを受け、早乙女の顔が一層曇る。
「毒ですか」早乙女は静かに囁く。森の中に一人、さ迷っているかのように。「きのこ博士は毒きのこをたくさん蒐集されておりました。それは事実です。そのことは清さんも知っているでしょう」
「うむ。わしの孫娘に理沙という少女がおる。彼女ならこういうじゃろう。事件に毒きのこが登場したならば、その毒きのこをギミックとして使わなければならない……とね」
「毒きのこにより、きのこ博士は毒殺された。しかし何のために。清さんは今回のケースの概略を知っているでしょう。つまり、遺産に関してのことです」
「もちろん。だが、通常の相続になるんじゃないのかね?」
「ええ。事件性がないと判断されましたからね。しかし、これが事件性のあるものだと、話は変わってくるのです。遺産の分与が変わってくるのですよ」
「どのように変わってくるじゃ?」
「それは言えません……、と言いたいところですが、無理に聞くんでしょう。実は遺言書は複数あるそうです。その内の一通は一般的に妻に五〇%、子に五〇%で相続されるそうです。それでもう一通あり、そこには少し変った趣向のことが書かれています」
「変った趣向?」
「そうです。きのこ博士の死が事件性だった場合、開示される遺言書です。メモ書きですが、押収した資料に興味深い物がありました」
そう言い、早乙女は第二の遺言書について説明をし、その後腕時計を見つめた。高給取りでありながら、彼の腕時計は国産の安物である。決してロレックスやオメガなど、高級な時計を身につけるわけではない。この辺の嗜好を清太郎は心地よく思っていた。
二人が会ってまだ一〇分と経っていないが、既に早乙女は時間を気にしている。それだけ多忙なのであろう。清太郎は話をまとめることにした。
「毒きのこが使われた形跡はなかったのかね」
ふと、早乙女は顔を上げる。完全に訝しく、眉間のしわがグッとよっている。
「毒きのこが使われた? そんな跡はありません。しかし……」
「何かあるのかね?」
「ええ。気になっていたのですが、特に問題はないと考えています。きのこ博士は毒きのこを蒐集されており、それを部屋の壁一面に飾っておられました。丁寧に飾っていたようですが、日の光に当たったり、ホコリに塗れたり、一部のきのこは腐りかけているものありましたよ。ですが、使った形跡はありません。きのこ博士はきのこ学者です。つまり、きのこかけては日本で一、二位を争う方なんですよ。そんな方がきのこの毒性に気づかないわけはありません」
「もっともな意見じゃな。だがこうは考えられないかね。きのこ博士は何者かが自分を毒殺しようとすることを知っていた。しかし、何の処置もとらず放置した」
「不可解ですね。元、有名探偵が言うような言葉ではありませんよ。一体どうしたんですか? さすがの名探偵も歳には勝てないのですか」
そこで清太郎は持論を展開する。それは五分ほどで終わる短い告白であった。
その告白とは、きのこ博士には隠し子がいるということである。
告白を言い終えると、毒気を抜かれたような顔で早乙女は呆然とした。テーブルの上に置いたすっかり温くなったコーヒーを一口飲み、そして答えた。
「それは本当ですか?」
「あぁ。きのこ博士の邸宅の使用人、宗田雅子さんに確認をとった。間違いないだろう」
「聖人君子のようなきのこ博士にそんな隠された秘密があるなんて信じられませんよ」
「君は初耳だったようだね。警察の捜査が聞いて呆れる」
と、清太郎は皮肉を言う。対する早乙女は苦々しい表情を作り、額に浮かんだ汗を白のハンカチで拭った。
警察の捜査を冒涜されたことは、心に刺さるが、そんな些細なことに気づかなかった自分の捜査能力の低能ぶりに腹が立った。禁煙を無視してタバコを吸いたくなったが、寸前のところでそれを抑える。
「け、けど……」カラカラの雑巾から最後の一滴を搾り出すように、早乙女は言う。「そんな大事なことをどうして雅子さんは言わなかったんでしょうか」
「君たちに信頼が置けなかったんじゃろう。だから言わなかった」
「ですが、それが事実なら、遺産分与に関係してきます」
「話を整理したい。今回の遺産分与はどのような形になっておるんじゃ?」
そこで早乙女は年季の入った黒革の鞄の中から手帳を取り出した。いつも使うメモ帳。それをぱらぱらと見つめながら、
「通常通りの遺産分与になるのなら、配偶者である小夜子さんに五〇%、子供である悟さんに二十五%、健さんに二十五%です」
「それはおかしい。平成二十五年九月五日に新法が成立したのを知っているかね?」
「ええ。もちろん、仕事柄知る必要がありますから」
「もし仮に、さっき言ったとおり、きのこ博士に隠し子がいた場合、隠し子も相続人になるんじゃよ。その人物を除いて遺産分与を協議しても無効になる」
「清さんのおっしゃるとおりです。しかし、今回の遺書に隠し子の件は書かれていません。新法は成立していますが、残された遺言書に書かれた言葉の方が効力は強いです。それを知っているでしょう。恐らく、今回は通常通り、配偶者に五〇%。子供に五〇%と決まる可能性が高い」
「本当におかしな事件じゃ。きのこ博士には隠し子がいたとされる。そして、きのこ博士はその人物を秘密裏に気にかけていた可能性が高い。しかし、遺産を贈与しようとはせずに、従来の相続方法をとった。さらに、遺言書のメモを見せびらかすように机の上に置いておいた事実。一体何故だろうか?」
「清さんは遺言書が改ざんされたと考えているのですか?」
「さぁ、遺言書を改ざんすることは難しいだろう」
「いえ、一概にそうは言えませんよ。きのこ博士が残した遺言書は自筆証書遺言ですから、改ざんは一見難しいように思えます。たとえ改ざんしても、遺言書自体は有効で、改ざんされていないものとみなされる。そんな話を聞いたことがあります」
「なるほど、確か、遺言書を管理している弁護士がおったね」
「ええ。三千院先生ですね」
「その人物の話は聞いたかね?」
「もちろんです。仕事ですから」
「どんな人物か、もちろん教えてくれるんだろうね」
と、清太郎は尋ねる。したり顔。対面に座る早乙女は午前中の職務を半ば諦めていた。この堂々たる体躯を持つ人物には頭が上がらない。今まで数多くの事件を一緒に解き明かして来たという恩があるのだ。それを反故にはできそうない。
早乙女は時刻を確認する。
午前一〇時三〇分――。
そしてゆっくりと話し始めた。
――七――
時は遡り、二〇一五年 五月二十五日――。
刑事である早乙女には、輝かしい休日はない。刑事という仕事は多忙。事件があれば休みなど返上して働かなければならない。もはや、そんな生活に慣れた。つい最近休んだのはいつだったか考えながら、早乙女は車を走らせていた。
ビンテージ感溢れる黒のムスタング。ほとんど唯一の趣味。それが旧車に乗ることだった。燃費は悪い。それに故障もしやすい。旧車に乗るメリットは一般的な車に乗る人間が見れば、皆無であろう。できの悪い子供を丹念に育てることを似ている。早乙女には子供がいないから、このムスタングが子供の代わりのようなものだった。
既に愛車を購入してから三年の月日が流れ、いつもせっせと動いてくれる。窓を開け、そこからダンヒルの煙を吐きながら、車は進んでいく。
彼が目指す先には、三千院という弁護士がいる。これから会いに行くのである。本来ならば警察署に来てもらうほうがありがたいのであるが、なかなか小難しい老人のようで、梃子でも動かないのだ。仕方なく、早乙女がこうして向かう羽目になった。
国道は混雑している。商用車やトラックで溢れ、特に都心に向かう道は大混雑。この国は人口過密だ。それに人の数に対して道路が狭すぎる。早乙女が所属するK県警は、都会のベッドタウンということで、しばしば都心に向かうことがある。その際、いつもこれだけ混雑しているのだ。ほとほと嫌気が差す。
前を走るトラックはS県ナンバー。東京から五〇〇㎞は離れているだろう。長い旅を送ってきたのだ。そんなどうでもいいようなことを考えながら、早乙女は何本目か分からないタバコに火をつけた。ダンヒルの高級感溢れる紫煙が車内に流れ、たちまちタバコ臭くなる。
六〇分ほど時間をかけて、早乙女は三千院の事務所兼自宅にたどり着く。
流石は弁護士である。大きな邸宅が目の前に広がる。三千院が住むのは、東京でも高級住宅地と呼ばれる一角で、周りの家も皆大きかった。医師、弁護士、実業家、職種は様々あるが、年収は一億はくだらない人物たちが暮らしているのだろう。
刑事という微々たる仕事では、このような場所に住むことはできない。キャリアで警察官僚にでもなれば話は別であるが。
小ぢんまりとした洋館のような家が三千院の自宅であり、事務所であった。西洋のゴシック建築のように左右対称であり、右側の建物が事務所。左側が住宅という構図である。日本ではあまり見ない、少し独特な形状をしている。家の前に屋根つきのガレージがあり、そこにはメルセデスとジャガーが一台ずつ停まっている。
(こりゃ凄いねぇ……)
と、早乙女は感じながら、ドアのベルを鳴らした。
「ジリリリリ」と洋館らしからぬ音が鳴り響き、中から白のエプロンをかけた女性が現れた。五〇代半ばであろう、若干小太りで、大阪に行けばどこでも会えそうな、典型的な『おばちゃん』という佇まい。
「どちら様?」
と、女性は尋ねる。
そこで早乙女はロロピアーナの生地で仕立てた、ダークグレーのスーツから警察手帳を取り出し、それをテレビドラマよろしくの姿で颯爽と女性に見せた。警察手帳。普段生活していれば、そんなものを見る機会がないだろう。女性の目は丸くなったが、すぐに状況を理解したようである。
「先生に会いに来た方ですね。お話は伺っています。私はここで女中をしている田中というものです。以後お見知りおきを……」
女中。そんなものが現代社会にいること自体驚きである。いや、使用人がいる家庭は存在するだろう。事実、きのこ博士の邸宅には二人の使用人がいたのであるから。驚きなのは、それを『使用人』ではなく、『女中』と呼ぶことである。
「ええ」早乙女は言う。スッと手帳を内ポケットにしまう。「三千院先生は御在宅ですか?」
「もちろん。御案内いたします」
「お願いします」
田中はゆっくりとトビラを開け、邸内に早乙女を入れる。
邸内も外観の豪奢な造りと同じようになっている。古風な美術館といった感じだろうか? 渋谷区にある松濤美術館、それに港区にある庭園美術館のようでもある。
大きな玄関をくぐると、どこのものか分からない大きな壷と、中世貴族の肖像画が描かれた絵画が飾られている。頭上には古びたシャンデリアが下りており、煌々と光を注いでいる。床には赤のベルベット調の絨毯が敷かれている。
廊下は長く点々と絵画や装飾品が飾られており、さながら美術館に足を踏み入れた感覚を与える。弁護士は昔ほど稼がないと言われているが、そうでもなさそうだと早乙女は感じていた。廊下を歩くと、その先には階段がある。階段といっても一般的な住居が持つ、一人通れば一杯となるものではない。悠々と三名は横に並べるだろう。
螺旋状になり、両側には手すりが付いており、足元には転倒防止のために明かりと、滑り止めが付いている。さらに壁には点々と電気式の燭台が設置され、淡い光を放っている。天井を見上げると、ガラス張りの壮大な吹き抜けが見え、開放感のある二階へ進むことができる。
二階の形状は簡単に言えばドーナツ型である。真ん中はガラス張りの吹き抜けになっており、ガラスの大型のシャンデリアがぶら下がっている。太陽の光がガラスを映し出し、光が計算され分散される。異国。それも普段生きていたらまずお目にかかることのないような心象を、早乙女は得ていた。
「こちらでございます」と、田中。
三千院の部屋は階段を上った対面の部屋。両開きのがっしりとした木製のトビラが目の前に広がる。そして、田中はゆっくりとトビラをノックした。
しばし沈黙があったが、中からくぐもった老人の声が聞える。低いバリトン。ガラガラとしている。
「入りなさい」
と、恐らく三千院弁護士だろう声は言う。田中はそれを聞き、トビラ開ける。蝶番の「キシッ」という音がこだまし、室内の風景が飛び込んでくる。
二〇畳ほどはある大きな書斎である。トビラの対面には大きな出窓があり、紫色のカーテンが綺麗にかかっている。日中だというのに、カーテンを閉じ、その代わり、中世イギリスの貴族が使用していたかのような鉄製のシャンデリアに明かりが灯っている。
出窓の前にはマホガニー製の書斎机があり、アーロンチェアに三千院は座っている。室内左右の壁は書棚になっており、ざっと見ただけで千冊は越える書物が所蔵されている。もちろん、一般的な書物ではない。弁護士にとって必要な論文や資料、専門書などである。
書斎机の前には革張りのソファとローテーブルが設置されている。どちらも高級な代物だろう。ソファはチェスターフィールドウイングバック。脚部分は猫脚になっており、ほとんど無傷のマホガニー製。鋲で打たれたレザーはダークブルーで全体的に高級感がある。これが二台、向かい合うように置かれている。
完全に住む世界が違う。そんな風に感じながら、早乙女は田中の影に隠れるように立ち尽くした。
「座りたまえ」
と、三千院老人は言う。人を威圧するような声。同時に、警察というものにあまり良い印象は持っていないということが容易に察せされる。田中がソファに早乙女を案内すると、そそくさと室内から消えていった。
その後、三千院は立ち上がり、泰然とした姿勢で、早乙女の前にやってきた。そして、自分の名刺をローテーブルの上に置いた。
「これはどうも」と、早乙女。「今日はお忙しい中、捜査に御協力いただき、ありがとうございます。私K県の刑事部に所属する、早乙女という者です」
早乙女は内ポケットから黒革の名刺入れを取り出し、それを三千院に両手で渡した。三千院は受け取るなり、あまり見もせずに、ローテーブルの上に置く。
「いや、構わんよ」
三千院はそう言うと、ソファに腰を下ろす。黒地のスリーピース。恐らくオーダーで仕立てられたものだろう。ぴたりと体にあったスーツはそれだけで一つの芸術作品と思わせる。安価な量販店で買えるような代物ではない。但し、ネクタイはせずに、瑪瑙のループタイをしている。白シャツとループタイが見事にマッチし、英国紳士というよりは、おしゃれな老人と形容した方が良いかもしれない。
三千院はポケットから、ロンジンの懐中時計を取り出し時刻を確認した後、パイプを取り出し、それを吸い始めた。今時、パイプ? と開いた口が塞がらない早乙女であったが、気を取り直り、話を進めることにした。
「今回伺ったのは」
そこまで、早乙女が言うと、パイプから煙を吐いた三千院が言葉を重ねた。
「分かっておる。きのこ博士のことだろう」
「ええ。きのこ博士の遺産のことです」
「こうなることは分かっておった。彼には多額の遺産があるからね。まぁ私ほどではないだろうが。それでも揉めているのかね」
その時、田中がコーヒーを持って現れた。備前焼のコーヒーカップ。黒備前である。てっきり、ウェッジウッドのカップでも出てくると考えていたが、そこは違っていた。いろんな文化や芸術作品が入り混じり、どこか奇妙な印象を与える。よく言えば、オリエンタル。悪く言えば下品。
「揉めているわけではありませんが」と、早乙女。「しかし、遺産を心待ちにしている方はいますよ」
「二人の息子だろう」コーヒーを用意した田中が煙のように足早に消えていく。その後、コーヒーに口をつけた三千院は言葉を続けた。「きのこ博士から聞いておる。放埓な息子が二人おるとね」
「ええ。あとは奥様ですね」
「全身麻痺の不幸な夫人だね。それも心得ている」
「私にはきのこ博士がどうしてこのような不可解なことをしたのか分かりません。遺言書のことを家族連中は皆、知っているようですが、通常通り相続されると考えてよいのですか?」
「その前に……。今回用意してある遺言書は複数。それは知っておるね」
「ハイ。一つは事件性があった場合に開示される遺言書。もう一つは、一般的な遺言書。この二通の可能性が高いです」
「そこまで分かっているのなら、話は早い。君の役目はきのこ博士の死が『事件によるものか』『そうでないのか』この二つを正確に導きだすことだ。そこで、君の意見を聞きたい。早乙女君と言ったね。君は今回の事件をどう捉えている?」
「事件性は薄いように思えます。まだ捜査をしたばかりですが」
「ならば答えはもう出ているではないか」
「どのような遺言書なのですか?」
「それはここでは言えない。守秘義務というものがあるからね。しかし、しかるべき時がくれば開示することになるだろう。その点は安心して欲しい」
「あなたを見ていると、どこか余裕を感じます。それはキャリアからくるものなのですか? それとも、何か別の理由があるからなのですか? 私にはそれが気にかかります」
と、早乙女は言う。彼は決して勘の鋭い刑事ではなかったが、凡庸というわけでもない。この時の彼は確かに冴えていた。三千院はキョトンとつき物が落ちたかのような表情を浮かべていたが、にんまりと柔和な笑みを零し、早乙女のことを見つめる。その仕草はさながら妖怪のようにも見える。
「君は」三千院は言う。「意外と鋭いね。確かに私はきのこ博士から重大なことを聞いている。それは間違いない」
その後、パイプを吸う。年季の入ったブライヤー(木製)のパイプから紫煙が流れ出て、部屋の中を覆っていく。二〇世紀初頭のイギリス貴族の邸宅に招かれたような雰囲気がある。早乙女は緊張からか、額よりしとどに汗が噴出し、それをハンカチで丁寧に拭っていた。
「重大なことですか?」と、早乙女。
僅かな沈黙。
三千院はゆっくりと頷き、
「そう。重大なことだよ」
「もちろん、それを教えていただくわけにはいかないのですよね?」
「あぁ。残念ながら、ここで言うわけにはいかない。しかし、ヒントはあるのだよ。君はシャーロック・ホームズを知っているだろう?」
唐突に、有名なコナン・ドイルが生み出した探偵の名が放たれ、早乙女は面を食らった。どうしてこの場にシャーロック・ホームズが現れるのだろうか? 早乙女は決して探偵小説好きというわけではないから、名前くらいしか知らない。探偵小説の多くは、一般的な警察の捜査から逸脱しており、やや現実味に欠ける。それが早乙女の感じている印象である。(もちろんすべて探偵小説が逸脱しているわけではない)
あくまで探偵小説はエンターテイメント。読者をはらはらとさせ、楽しませる必要がある。殺人はそのために必要なことだし、トリックはギミックの一つだ。だから現実離れすることはいささか仕方のないことであると言えるであろう。
「一応」早乙女は頷く。「知っていますが?」
「なら」と、三千院。「彼のように推理したまえ」
「推理ですか?」
「うむ。推理をすれば二階堂家に潜む歪んだ背景が見えてくるだろう」
「歪んだ背景ですか……。一体何が?」
「私が言えるのはここまでだよ。情報を掴むか否かは君の腕にかかっておる。さて、時間だ。私は忙しいのでね。話はこれまでだ」
そう言うと、三千院は室外にいる田中を呼び、早乙女を玄関まで送るように指示を出した。
どこまでも三千院のペースに巻き込まれる。優秀な弁護士であるということは理解できるが、彼は警察の捜査をどこか甘く見ている。すべてが自分の言うとおりに動くと錯覚しているようだ。とはいっても、三千院はこれまで多くの経験をしてきたことは間違いない。それは彼がみせる堂々たる佇まいから容易に想像できるし、警察のあしらい方も熟知している。
同時に警察嫌いということも感じさせる。それを露骨に態度に出さないのは流石であるが、早乙女も歴戦の刑事なのである。心境の変化を読み取るのはそれほど苦手ではない。いずれにしても二階堂家=きのこ博士には何か早乙女の知らない秘密があるようである。それを探る時間が欲しいが、この事件にそれほど時間が割けないということも事実なのだ。
すでに警察内部では、きのこ博士の件が事件性のないケースで片付けられようとしている。ろくな解剖もできず、次から次へ訪れる新たな事件のために、きのこ博士の件は封殺されようとしているのだ。それも仕方のないこと。今ここで、早乙女が言ったとしても何も変らないであろう。
「どうもお疲れ様でした」
と、田中が言う。白のエプロンが妙に似合っており、英国の女中というよりは、明治期、大正期の女中に近いかもしれない。横溝正史の小説の中に出てくるといえば、想像しやすいだろう。
「ええ」早乙女は答える。「三千院先生はいつもあんな感じなんですか?」
「あんな感じとは?」
「つまり、その、人を煙に巻くというか、飄々としているというか?」
「先生は警察の方があまりお好きではないのですよ」
「でしょうね。それは雰囲気で分かります」
「でも、あなたはまだ好かれている方だと思います。いつもならもっと短時間でお引取りを願いますから」
そこで早乙女は古びた国産の時計を見つめる。この邸宅にやってきてからまだ四〇分と経っていない。通常がこれ以下の時間で収めるのなら、確かに警察嫌いなのは目に見えている。
「なぜ、そこまで警察が嫌いなんですか?」
「事実を突き止めないからでしょう」
「事実を? そんなバカな。我々がどれだけの数の事件を解決してきたのか、弁護士の……それも偉大な先生である三千院さんが知らないわけはありません」
「そうですね。ですが、先生も若い頃は色々とあったんですよ、その影響が尾を引いているといっても過言ではありません。おっと、これは女中として失格ですわ。聞かなかったことにしてくださる?」
と、田中は微笑を浮かべる。どうもこの女中のキャラが分からない。結局、その後は、有益な情報を得ることができなかった。癖であるメモ帳に書く端書には『三千院』『若い頃』『警察嫌い』という文字が追加された。
ムスタングに乗り、ダンヒルを吸う。心に巣食った魔界のような空気は拭い去ることができなかった。何かある。それは分かっているのだが、皆目見当はつかない。同時に、それを逐一調査している時間はない。重苦しいため息とタバコの煙を吐き、彼は署内に戻った。
――八――
さて、回想は終わり、場面は再び、日中のうるさいチェーン店の喫茶店に舞い戻る。
そこには言わずもがな、二人の紳士? の姿がある。
一人は、でっぷりとした大柄の体躯。既製服ではサイズが合わぬため、仕方なくオーダーで仕立てた白いシャツ、その上にはベストを羽織り、下は三本のタックが入った、一般人の二倍の生地を必要とするであろうスラックス。その服装に身を包んだ清太郎。
もう一人はロロピアーナの生地を贅沢に使った、ほとんど唯一の高級スーツを着込んだ刑事、早乙女。
二人の間には重々しい雰囲気が流れているが、室内は場違いなビル・エヴァンスが流れ、この重鎮な空気を少しずつ溶かしていく。
「なるほど」と、清太郎。「三千院さんが言った『推理せよ』という言葉は、恐らく先ほど、私が君に言ったことと同じことだろう」
その言葉に、早乙女は首を縦に振る。やや暑苦しい空気。JKを脱ぎたくなったが、変にしわが寄るもの嫌であるから、そのまま我慢した。
「つまり」早乙女は答える。「きのこ博士に隠し子がいるということですね」
「うむ。そのとおりじゃ。しかし、隠された秘密はそれだけじゃない」
すると、早乙女はメモ帳をぺらぺらと捲り、
「ええと、三千院さんには何か隠された過去のようなものがあると推察されます」
清太郎はカップに残ったチョコレートドリンクを飲み干した。まだ飲み足りないが、こんな高カロリーなドリンクをおかわりした日には、医師からどんな怒りの鉄槌が放たれるか知れたものではない。
「そのようじゃ。それが警察嫌いと何か関係があることは想像できるね。君は何か察しているのかね?」
早乙女は首を左右に振る。
「まったく分かりません。弁護士ですから、警察とやり取りがあったのは間違いありません。特に三千院さんが若い頃の警察の捜査はがさつで乱暴な面がありましたから、認めたくはなくても、やや強引に捜査されたことがあったのかもしれないですね。例えば、警察の捜査どおり、自分は違うと思っても、それを飲まなければならなかったとか」
「君は『パラダイン夫人の恋』という映画を知っておるかね?」
「確か、ヒッチコック映画ですよね。私は見たことがありません。ヒッチコックだと『サイコ』くらいでしょうか。どんな映画なんですか?」
「法廷ミステリじゃよ。目の不自由なパラダイン大佐という人物が殺害される。その時、夫人が提訴されるのだが、この事件を担当する弁護士は、パラダイン夫人の美しい魅力心を奪われてしまうのだ。彼には奥さんがいるというのにね」
「不倫ものですか?」
「まさか、そういうわけじゃない、ラストは素晴らしい。私は好きな映画だがね」
「私の理解力がないのでしょうか? 話の前後が見えないのですが」
「鈍いね。早乙女刑事」
いたずらっぽく微笑む清太郎。不ぞろいに生えたあごひげを摩りながら、早乙女に視線を注いでいる。鈍いと言われた早乙女は特に機嫌を損ねたりせずに、考えをめぐらした。ここで『パラダイン夫人の恋』が登場してきたのには理由があるはず。
『弁護士』『女性問題』
「もしかして、三千院先生にもこれに近いことがあったと推測しているんですか?」と、早乙女。
「ほっほっほっ。御名答。今日の早乙女君は冴えておる、やはりスーツの仕立てが高級だと人の格をあげるというのは甚だ間違いではないようだね。私はそう考えている。三千院さんは独身貴族だそうだね。昔、何かいざこざがあってもおかしくはないよ」
「彼に女性問題があったとしても、それがどう事件とつながるか、私には理解できませんよ」
「意外なところから事件がつながりを見せることは多い。それを君も覚えておきたまえ。さて、そろそろいい時間だろう。君の仕事の時間を、この老齢の肥満の爺さんがとるわけにはいかない。お開きにしようか。いや、今日は忙しい中、どうもありがとう。礼を言うよ。早乙女刑事」
と、言い、大柄な体を揺り動かし、清太郎は店から出て行った。その姿をやや唖然としながら、早乙女は見送る。そして、メモ帳に『パラダイン夫人の恋』と書き足した。
早乙女と別れた清太郎は、自宅に戻り、いつもどおり縁側に佇み考え込んでいた。どういうわけか、自分は探偵に戻りつつある。既に遠い昔にすべてをやり終えた気がしていたが、人はまだ清太郎の探偵術を必要としているようだ。少しだけおかしな気分になる。
ずっと、隠居してからは探偵など二度とごめんだと思っていた。なぜなら、探偵という職は酷く精神を病むからである。彼はその昔、数多くの事件を手がけ、それらを解決してきた。それが清太郎の生きてきた証。探偵小説ではよく大団円で話が終わる場合がある。後味の悪い印象を残す物語よりも、和やかな気持ちになれる話のほうが、読者の受けはよい。
もちろん、探偵小説には『イヤミス』というジャンルがあるから、一概にハッピーエンドが正しいというわけではない。しかしそれは特殊で、ハッピーエンドが多いからこそ、存在するジャンルだろう。すべてがイヤミスだったら、この世界の探偵小説の多くは読まれることがないはずだ。
実際の事件が大団円で終わるケースはほとんどないと言っていいだろう。それは当たり前。なぜなら殺人という行為は、たとえその裏にどんな理由が隠されていても許されるものではないからだ。介護に疲れ、子供が親を殺すケース。反対に親が障害のある子供を殺害するケース。このような場合もあるが、それにしたって殺人罪は適用されるし、決して気持ちよく終わるものではない。
人は死ぬから尊いのである。それは分かりきっている。今回のきのこ博士の件は一体どうなっていくのだろうか? このままにしたほうがいい。心の片隅で、清太郎はそんな風に思いをめぐらせていた。
一張羅のスリーピースを脱ぐことも忘れ、大好きな食事を摂ることも忘れ、清太郎はただひたすらに考え込む。きのこ博士の事件。探偵としてキャリアの長かった清太郎は、何か隠されている秘密があると確信していた。それは間違いないはず。自分の勘がそう告げている。
但し、それをほじくり返していいのだろうか? きのこ博士は決して凡庸な人物ではない。矍鑠な老人であり、頭の切れる人間であったことには違いないだろう。そんな人物が残した遺産。
(彼はなぜ、財産を息子に残したのか……)
それは不可解な謎である。
悟及び、健という二人の息子は慢性的に金に困っていた。通常の親なら、資金を援助するかもしれないが、きのこ博士は決して助け舟を出さなかった。そんな確固たる決意をもって息子たちに接していたのに、死後はどういうわけか財産を受け渡すことに決めた。それも二五〇〇万円という大金を……。
同時に、遺言書は複数あるとされる。
一通は一般的な遺言書。
もう一通は特殊な遺言書。恐らく、隠し子に関することであろう。
(隠し子。面倒な話だ)
と、清太郎は考える。その昔、ある程度財産があり、地位もある人間には隠し子がいること自体、そう珍しいことではない。中世ヨーロッパの王族や貴族の間では、数多くの隠し子が産まれ、場合によっては人生のほとんどを幽閉されたことだってあるのだ。それと同じとは言えないが、日本でも隠し子の存在はある。そして法改正により、隠し子は遺産の正規の相続人になるのである。
時刻は午後一時――。
昼食も忘れ、清太郎が一旦考えをやめ、盆栽をいじろうとしていたとき、廊下を歩く、軽やかな音が聞えてきた。
その足音の正体。それは理沙であった。彼女は学校の制服を着て、やや得意げな顔をしている。紺色のジャンパースカート。そしてやや青みがかかった白のブラウス。学校指定のライトブルーのリュックサック。
「ただいま」と、理沙。
それを受けて、清太郎は「おかえり」と呟いた。
「おじいちゃん。どこか行っていたのね?」
「なぜかね?」
「だってその服装。おじいちゃんが探偵をしていたときに着ていた服だもん。それに玄関には黒い革靴があった。あれって普段は履かないし、大事にしているものでしょ。何かしていたのね」
察しの良い理沙は淡々と告げた。意外と観察眼は鋭いものがあるのだ。それは清太郎の血を引いている証拠であるのだろうか? 清太郎はため息をつきながら、盆栽いじりをやめ、理沙の横に座る。それを受けて、立っていた理沙も座り込む。
「きのこ博士の件。やる気になってくれたのね?」
と、理沙は言う。その声は自信と悔しさ。両方が入り混じっているように聞える。
「さぁ」と、清太郎ははぐらかす。「どうだろうねぇ」
「今更隠したって無駄よ。あたしにはすべてお見通し。雅子さんが来たんでしょ」
これは理沙の引っかけである。わざと雅子の名を出し、清太郎から答えを導き出そうとしている。清太郎が事件に関わるのだとすれば、誰かから依頼を受けたことになる。清太郎がこれからまったく関係のない事件に足を突っ込むとは考えにくい。となると、理沙が途中まで追っていた何らかの事件に顔を出すという可能性が高い。
つまりきのこ博士の事件である。あの事件を掘り返そうとする人物は二人しかいない。
一人は雅子。もう一人は孝之。この二人。孝之は普段学校へ行っているから、この家には来ないだろう。仮に来たとしても、理沙がその姿を見逃すはずがない。すると、残されたのは――。
「ねぇ、雅子さんが来たんでしょ。あの人は、今回のきのこ博士の死が事件性のあるものだと考えている。違う?」
「私はお前さんが何を言っているのか分からんよ」
清太郎は理沙の騙しには乗らなかった。あくまで冷静に自体を把握し、煙に巻こうとしている。そのことは理沙も分かっている。
「あたしはきのこ博士が事件に関わっていると思っているわ。それを孝之君と共に解決しようと思う。おじいちゃんが何を言ってもね」
「どうしてそこまでやる気なのかね」
「事件があたしを呼んでいるからよ。あたしの夢は探偵になること。なら、今回の事件はその経験を積むにはうってつけ。だからなの」
「お前さんはまだ子供だ。テスト勉強はしてるのかね?」
清太郎は上手くはぐらかそうとしている。けれどその手には乗らない。
「してるわよ。今日の授業は昼までだったから午後は丸々勉強に使えるしね」と、理沙。
「けれど、お前さんはきのこ博士の事件に取り掛かるんじゃろう」
「もちろん。でもちゃんと勉強もするわ」
「勉強というのは、学校の勉強をするということじゃよ。決して古今東西の探偵小説を読むことではない。それは分かっておるね」
理沙はペロッと舌を出し、清太郎を見つめる。そのいたずらっぽい笑みは、清太郎が早乙女に見せたものと瓜二つ。やはり家族なのである。家族の絆は強い。どこかしら必ず似るところがある。
「孝之君は学校一の秀才。彼の手伝いをすれば、多分勉強もできるようになると思う」
と、言う理沙の理屈はめちゃくちゃ。頭のいい人物のそばにいるだけで、頭が良くなるのならば、人は誰も苦労しない。休日の図書館は閑散とすることだろう。だが、そんなことはない。
「理沙……」清太郎は言う。「お前さん、孝之君に惚れたね」
「違うわよ。あたしはただ彼を助けたいだけ。彼ときのこ博士の事件は何かつながっているように思えるの。それを調べたいのよ。もしかしたら孝之君は……。いいえ、なんでもない。おじいちゃんお昼食べた?」
理沙は不意に話を変えた。恐らく、理沙は事件のとっかかりである事実を知っている。その点だけは早乙女の捜査力を遥かに凌駕している。探偵は論理的な思考が必要な職種であるが、それ以上に鋭い勘も必要になってくる。ハッと空から降ってくる天啓。それがあるかないかで、探偵として成功するかしないかが分かれる。
これはいささか言い過ぎであるように思えるが、清太郎は探偵に『勘』が必要であると考えている。そして、どういうわけか理沙にはその資格が備わっている。これは忌々しき事態である。
「いや」清太郎は答える。「まだ食べておらん」
「なら」と、理沙。「一緒に食べましょう」
二人は簡単にチャーハンを作り、それを食べた。時刻が午後二時を迎える頃には、理沙は足早に家を出て行った。足取りを見る限り、事件を追う……、つまり孝之の許へいくのだろう。思春期の興味を止めることはできない。暴走した列車を止めることができないのと同じことである。
それならば、せめて列車がレールの上を走るように矯正してやるのが、保護者の務めなのかもしれない。清太郎は諦めの表情を浮かべながら、理沙の背中を見送った。こんな日はモーツァルトでも聞いてゆっくりしたい。清太郎は午前中の出来事を振りかえりながら、ぼんやりと自室でレコードをかけ始めた。曲は戴冠ミサ。清太郎のお気に入りである。
――九――
さて、理沙はというと、清太郎は予想どおり孝之の許へ向かっていた。つまり、二階堂家に足を向けていたのだ。理沙はきのこ博士の自宅へは行ったことがない。しかし場所は心得ている。
きのこ博士の邸宅にたどり着くと、最初のベルで孝之が出てきた。着ているのは学校の制服で、デニムと白ブラウスを着ている理沙とは正反対の格好をしている。
「本当に来たんだねぇ」
と、孝之は嬉しいのか呆れているのか、どうとでも見えるような顔で言った。それを受け、理沙はにんまりと笑みを浮かべ、
「もちろん!」と、答えた。
「まぁいいや。中に入りなよ。今は雅子さんと奥様しかいないから。まぁ毎日そんなものだけど」
「ありがとう」
理沙はそう言いながら、邸宅に足を踏み入れる。理沙は十五年間生きてきて、これだけ栄耀な建物には入ったことがない。家の中に絵画が飾られているのは、彼女の知識の中では探偵小説に出てくる貴族探偵や富豪たちの家くらいだろう。清太郎は盆栽に興味があるが、絵画にはあまり興味がないようである。『絵画』という日常生活を送る上ではあまり必要ないものは一般の家庭にはないのだ。
「今井アレクサンドル」
と、孝之が説明する。
「誰それ?」と、理沙。探偵小説には詳しいが、絵画に関してはほとんど知識ゼロである。精々、ダヴィンチやピカソ。超有名な画家しか知らない。それでも作品とタイトルは一致しないだろう。
「現代の抽象画を描く画家だよ。海外では結構有名。それに良い絵を描くんだって。きのこ博士は彼の絵が好きだったんだ」
「へぇ。あたし絵は分からないわ」
その後、孝之の部屋に案内される。
孝之の部屋は八畳ほどの洋間で、孝之のサラッとした性格を投影しているかのようにシンプルな造りであった。とはいっても流石は二階堂邸。明かりは一般的な蛍光灯ではなく、煌びやかな鎖が天井からぶら下がる豪奢なシャンデリア。フランスのアンティーク感があり、花弁の形状をしたガラスの照明が神々しい明かりを放っている。
トビラから右側のスペースには書棚とデスク。左側には木製のベッドが置いてある。ダークブラウンのカーテンがかかっているが、高級感のある代物で、色が持つ重さをあまり感じさせない。
「座る場所がないんだけど、ここに座ってよ」
そう言い、孝之はデスクの椅子を用意した。江戸川乱歩の邸宅にあるような木製の回転椅子。明治、大正期のドクターチェアといえば分かりやすいかもしれない。濃紺のベルベッドが張られ、レトロな雰囲気がある。
「ありがとう」
理沙が座り込むと、それを察したかのように、足音が聞えてくる。そして、トビラがノックされた。
「どうぞ」と、孝之。入ってくる人物は大体想像ができた。この館には『孝之』『理沙』『雅子』『小夜子』の四名しかいない。小夜子は動くことができないから、必然的に残されたのは、
「孝之さん。帰ってたのね」
そう言い、雅子が入ってくる。そして孝之以外の人物がいることに目を大きく見開いた。孝之がこの邸宅に学友を連れてくることは今まで一度もなかった。そんな孝之が連れてきた最初の人物が同性ではなく、異性だったことに、雅子は驚きを覚える。とはいうものの、それを茶化すような真似はしない。
回転椅子に座る少女は、どこか最近会った人の面影がある。
「こんにちは」と、理沙。「私は臺理沙といいます。おじいちゃんがお世話になっています」
『臺』その言葉を受け、雅子は清太郎と理沙の関係を瞬時に把握した。
「あなた」雅子は驚きに満ちながら、「清太郎さんのお孫さん?」
「はい。雅子さんはおじいちゃんに依頼したみたいですね」
この根拠はない。清太郎は理沙の引っかけに騙されるような人物ではないが、雅子は違う。あっさりと理沙の敷いた罠にかかる。
「ええ」雅子は答える。「ちょっと調べて欲しいことがあって」
「おじいちゃんなら大丈夫ですよ、有名な探偵ですから。きっと事件を解決してくれます。心配しないでください」
「そう。それはありがとう。そうだ、何かお持ちしましょう。コーヒーか紅茶? それともジュースがいいかしら?」
「お構いなく」
「子供が遠慮するものじゃありませんよ」
「じゃあ紅茶をお願いします」
「孝之さんも同じものでいいかしらね?」
雅子の言葉に孝之は首を上下に振り、「お願いします」と言った。
雅子が一旦部屋から消えると、しんと静まり返る。いくら友達同士で事件を解き明かそうとしている関係であっても、二人は異性なのである。緊張しない方がおかしい。理沙は手持ち無沙汰を解消するために、部屋をぐるぐると見る。左側にあるベッドの横に、小ぶりな英国調の猫脚が可愛らしい棚がある。そこにはどういうわけか、きのこが大量に整理整頓され、置物のように置かれている。
「きのこ」理沙は何気なく言う。すると、孝之が恥ずかしそうに頭をかきながら、
「あぁ。あれはきのこ博士の遺品。僕が受け継いだんだ。全部じゃないけれど」
「孝之君はきのこが好きなの?」
「うん。好きだよ」
それは意外な台詞だった。この世にはあまり興味がない。孝之に対し、達観した印象を持っていた理沙であったが、やはり孝之とはいえ、通常の中学生。一般的な中学生が深夜アニメに夢中になったり、ゲームに精を出したりするのと同じで、何かしらの興味はあるのだ。きのこというのはいささか考え付かなかったことではあるが。
理沙は棚に飾られたきのこを見つめる。そのほとんどが見たことのないきのこ。少なくとも、市販されているものではない。同時にどこか毒々しく、それでいて少し華やか。並べ方でこうまできのこの印象が変わるのか? そんな風に思わせる。孝之にはどことなくセンスがあるように感じさせた。
「何のきのこなの?」
不意に、理沙は尋ねる。恐らく察しはついているのだが、あえて会話を成立させるために質問を飛ばした。一瞬孝之の目が真剣になる。『待ってました』という表情。やはり自分が好きな分野のことを語るのは楽しいのだろう。そう、理沙が古今東西の推理小説について語るのと同じように。
きのこが飾られている棚は四段組の棚で、そこにきのこがびっしりと収納されている。昆虫を標本にするのと同じ仕組みであろう。綺麗に整えられ並んでいるのだ。一列の棚には五つのきのこがあり、それが四段あるから、その数は二〇種。結構な数である。そのすべてを説明するのは骨が折れるが、孝之は逐一説明した。ここではその代表的なものを説明しよう。
「まずは」孝之は言う。「一番上の棚。その右端を見てごらん」
言われるままに理沙は視線を注ぐ。そこには赤い毒々しいきのこの姿。写真家の蜷川実花が撮りそうな、鮮やかな赤色を持つきのこだ。
「完全に毒を持ってますってきのこね」と、理沙。
「うん。毒を持ってるよ。毒きのこだからね。これはカエンタケ。食べると四〇度以上の発熱をするし、小脳を萎縮させる危険なきのこさ。後遺症が残る」
「その下にあるきのこは」
理沙は指を差す。そこには有名テレビゲーム、『スーパーマリオ』シリーズに出てくるような、赤と白の模様が特徴なきのこがあった。孝之は得意げに顔を緩ませ、
「これはベニテングダケ。有名なきのこさ。これも毒きのこ。だけどそんなに毒性は強くない。食べると、向精神作用がある。例えば幻覚を見たり、あとは下痢をしたり、でも、注意すれば食べれるらしいよ。食べてみる?」
「絶対ごめんね。それで一番下の段にある脳みそみたいなきのこは?」
「あぁ。これね。これはシャグマアミガサタケ。君の言ったとおり、脳みそみたいのが特徴なきのこ。それでいて猛毒を持つんだ。食べると七時間くらいで発熱や嘔吐、あるいは頭痛などの症状が現れ、死ぬ場合もある。これはね、煮沸すると気化して、その煙を吸っても効果があるんだ」
「ふ~ん。それは危険ね。煙を吸い込んで知らぬまに死んじゃったら、後悔してもしきれないわね」
「うん。他には……」
その他にも孝之は色んなきのこを紹介してくれた。どうして……、特に男性は自分の好きな趣味の世界を語るとき、ここまで少年のような心を取り戻せるのだろうか? それが不思議でたまらなかった。確かに、元探偵、そして七〇歳を越える理沙の祖父。清太郎であっても、好きな盆栽いじりをしているときは少年に戻ったかのように思える。
「なんだか素敵ね」と、理沙。その台詞は決して嘘ではない。「孝之君もこんな趣味があるんだ。なんか安心したわ」
「安心?」孝之の柔和だった顔がしぼむように歪む。「どういうこと?」
「だって学校だとなんだか近寄り難かったし、ロボットみたいな印象があったから」
「ロボットか。確かにロボットに近いかもしれないね。感情を出すのは苦手だから」
「そんなことないわよ。今こうしてきのこを説明してくれるあなたの姿はロボットじゃない。完全に血の通った人間そのもの」
「なんかSF的な話だね」
「あたし、SFはあまり読まないから分からない」
「そう……」
その時だった。トビラがノックされ、銀のトレイに紅茶を持った雅子が現れた。紅茶以外にもガラスの陶器に入ったクッキーが乗せてある。
「きのこの話をしていたみたいね」と、雅子は言い、紅茶をどこに置こうか思案していた。それを見た理沙も、孝之も紅茶を手で受け取り、クッキーは適当にデスクの上に置いた。
紅茶はダージリンで、決してインスタントなものではない。キチンと手順をもって丁寧に淹れられた香りがする。理沙は一口飲み、その味の素晴らしさに驚きを覚える。
「それじゃごゆっくり」
雅子は母親のような笑みを残し、二人の許から消えていく。
再び、理沙と孝之は二人きりになる。何かこう取り残されたような感覚があり、静まり返る。会話を探そうにも、なかなか良い言葉が思い浮かばない。
ふと、孝之はデスクの上に視線を滑らす。もちろん、その仕草を理沙が見逃すはずがない。マホガニー製の重厚なデスクの上にはテスト前だからなのであろう。教科書やノート。それに数冊の参考書が乗っている。やはり、秀才の孝之であっても勉強はするのだろう。そうでなければ、学校一という勲章は得られない。人は知らぬところで努力をしているものなのだ。それに気づかないだけで……。
しかし、机の上にはひっそりと一冊の本が収納されていた。栞が挟まれ、半分顔を出した一冊の単行本。
「何の本を読んでるの?」と、理沙。本好きの理沙にとっては気になる一冊だ。
「ああ、これね」
そう言うと、孝之はデスクの前まで足を進め、紅茶を机の上に置き、その本を取り出した。背表紙には『私を離さないで』と書かれている。著者はカズオ・イシグロ。
「カズオ・イシグロって知ってる?」と、孝之は言う。
理沙は首を左右に振る。なんとなく名前を聞いたことはあるが、知っているというレベルの話でない。理沙は本当にミステリしか知らないのだ。日本の有名な作家、川端康成、あるいは三島由紀夫、現代で言えば村上春樹、それらすべて読んだことがない。理沙が読む日本人作家といえば、江戸川乱歩、横溝正史、麻耶雄嵩……。
「そう。僕もあまり知らなかったんだけど、日系のイギリス人なんだ。ブッカー賞っていうイギリスの有名な文学賞を受賞している作家でね。この本はSFチックな話なんだ」
「SF。孝之君はSF好き?」理沙は尋ねる。すると孝之は紅茶を一口。
「そんな読むわけじゃないよ。ただ、この話は酷く悲しい。同時にどこか僕のようにも感じるんだ」
「どんな話なの?」
「臓器提供のために造られたクローン人間の葛藤だよ。彼らは臓器を提供するためだけに造られた。だからみんな若くして死ぬんだ。でも人間だ。心は……つまり魂は宿る。恋をすることだってあるだろう。死にたくないという感情もある。だけど彼らは死んでいく。そんな話さ」
「すごく悲しい話ね。でもそれがどうして孝之君を彷彿させるの?」
「僕は決して臓器提供のために造られた人間じゃない。もちろん死が迫った人間でもないよ。でも、僕には両親がいない。きのこ博士に育てられ、ここで使用人として生きている。それって一般的な中学生の生き方じゃないよね。不意に自分が凄く惨めに感じるんだ。その感情が、『私を離さないで』の主人公たちに凄く良く似ていると思った。それだけさ」
淡々と孝之は語る。理沙は孝之の本性を垣間見た気がした。彼は心の底では普通に生きたいのだ。きっと一般的な高校に進学したいはずであろうし、友達を普通に遊んだり、勉強したりしたいはず。だけど自分の少し変わった立場がそれを許さない。いや、きのこ博士も、使用人である雅子も、孝之が望めば、その道を用意したはずである。
ただ、孝之が拒絶しただけであろう。それ以外にも何か理由があるのかもしれない、R高へ進学するという理由が……。不器用な生き方しかできない。そんな孝之がどことなく不憫に感じた。理沙自身、当たり前に生きているが、孝之はその当たり前とは少し違う生き方をしなければならないのだろう。
「この本」理沙は言う。「読んだら貸してくれない」
「ごめん」と、孝之は答える。「これは借り物なんだ」
「借り物?」
しかし、背表紙に図書館の本であるという印はない。ということは?
「誰かから借りたの?」理沙は不審な表情で尋ねる。浮気を問い詰める女のような態度。
「うん」孝之は頷く。「人から借りたんだよ」
「学校の人?」
「違う学校だけどね」
「他校に知り合いなんているんだ。なんだか意外。詳しく教えてよ」
「理沙ちゃんってなんだか、警察官みたいだねぇ。取調べを受けてるみたいになるよ。あ、でも探偵を目指しているんだっけ、それならピッタリかもしれない」
「そう。あたしは探偵を目指してる。それに今回のきのこ博士の事件を解決したいの」
「どうしてさ?」
「それよりも本、誰に借りたの?」
「誰でもいいだろ。君には関係のない人だよ」
孝之はあまり話したくないようである。しかし理沙は負けずに、『私を離さないで』を手に取る。カバーの見返しに、本を読了した日付が記されていた。その文字は孝之の文字ではない。丸々とした女の子が描くような文字。
(女子から借りたんだ。筆跡を見るにあたしたちと同年代ね)
と、素晴らしい観察眼を発揮する理沙。
但し、このことは孝之には言わなかった。彼に女性の姿があろうとなかろうと、そんなことは関係ない。大切なのは事件を解くということなんだから。
「遺書ってどんなものだったんだろう?」
理沙はぼんやりと尋ねる。孝之は視線を理沙に向け、
「そんなに遺書のことを知りたいの?」
「そりゃそうよ。あたしは探偵だもの」
「遺書のコピーはあるよ」
「え? どうして?」
「きのこ博士は自分が書く原稿や手記、それだけじゃない。メモ書きしたものなどすべて捨てずに取っておく癖があったんだ。自分の書いたものには魂が宿るといわんばかりにね。僕はここの使用人だ。だからきのこ博士の部屋の清掃をすることだってある。きのこ博士は僕を気にかけてくれたから、時折、部屋に招き、きのこについてを教えてくれたことだってあるんだ。だから僕は遺産のことを知ってる」
「どんな遺言書だったの?」
「もう今回の事件は終わったことなんだ。だから、今更どうにもできないよ」
「それでもいいわ。内容が知りたい」
理沙は辛抱強く説得を続ける。対する孝之は温くなった紅茶を一口飲むと、遠い目で窓の外を見つめた。
「僕が確認した遺言書のメモ書きは二通。一通は通常通りの相続が書かれ、もう一通は……」孝之はひっそりと言う。「そこには不可思議なことが書かれていた。今回のきのこ博士の死が事件性だった場合、遺産は『僕』と『雅子さん』の二人に相続されるというものだったんだ」
「え?」理沙は驚きで目を大きく見開く。
話ではきのこ博士の遺産は一億。その半分ということは五〇〇〇万円という大金が孝之の手に入り込むのだ。もはや、高校進学だけでなく、その先の大学進学さえ、十分に賄える金額。
「それって凄いじゃない」興奮した理沙の声が大きくなる。
但し、孝之は冷静さを崩さない。きのこを紹介している時の人間味溢れる態度が影を潜めてしまっている。
「さっきも言ったでしょ。今回の件はもう終わったんだ。警察は事件性がないと判断した。その結果、三千院弁護士、えっと、きのこ博士の遺言書を管理する人だけど、その人による遺言書の発表がもうすぐあるはずだよ。きっと通常通りの相続になる」
「通常どおりってことは、孝之君には一円も遺産が入らないってこと?」
「そうなるね」
「なんかおかしな話ね。突然だけど。A・フリーマンって知ってる?」
「フリーマン? 知らないけど、推理作家?」
「そう。察しがいいわね。ホームズ……。つまりコナン・ドイルやチェスタトンが活躍した時代の作家なんだけど、科学的な小説なの。指紋を分析したり、X線を使ったり。それで、『オシリスの眼』っていう作品があって、その話には遺産の話が出てくるのよ。今と同じような感じ」
「つまり、遺書が複数あって不可解ってことかい?」
「そう。あたしね、どうも今回の事件が不可解に見えて仕方ないのよ」
と、理沙は言う。彼女は探偵のように顎に手を置き、物思いに耽っている。理沙はまだ中学生。だから遺産のことは詳しくない。大人の世界の話だと感じている。しかし、その仕組みはなんとなく理解できる。
きのこ博士に莫大な遺産があったことは事実。となれば、当然きのこ博士だってそのことを知っている。普通ならどうするだろうか? 理沙は考えを推し進める。孝之はというと、黙って理沙の反応を待っているようだ。彫刻のように固まり、微動だにしない。
「あたしが仮に」理沙は言う。「探偵として成功して、物凄いお金持ちになったとする。それで本格推理小説の黄金期に良く出てくるような暮らしをしたとしましょう」
「ちょっと待って」孝之は冷静に言葉を挟む。「それってどんな生活?」
「ごめん。簡単言うと、今のきのこ博士みたいな生活。それの探偵版。だから、探偵をしながら、色んな書物の研究をしたり、テレビに出たり、あるいは小説を書いたり……。それで生計を立てるの。さらに、使用人。下男や女中を置くわ。それで長い間暮らし老人になったとする。ある日、自分の死が近いことを悟り、遺書を書くことになる。そうなったら、孝之君、あなたはどうする?」
唐突な問いに、孝之は少し困ったような顔を浮かべる。理沙の説明はどこか現実離れしすぎていて、くだらない妄想のように思えたのである。孝之は自分がこれから成功するとは微塵も考えてなかったし、仮に何らかの事業で成功したとしても、下男や女中といった使用人を置くような生活を送ろうとは思わない。
むしろひっそりと小さなアパートを借り、そこで自分の好きな世界の研究に没頭したいと考えているのである。但し、そこは勘の良い孝之。理沙の言っている言葉から、彼女が何を言いたいのか導き出そうと四苦八苦している。理沙がここで、荒唐無稽なことを言い出したのには理由があるのであろう。でなければ、この自称探偵の少女は、不可解な遺産についての話をしないはずである。
季節は六月――。太陽が出ている時間が一番長い月。まだ時刻は三時を少し回ったところだ。少し暑さを感じさせ、梅雨入り前の最後の乾燥した風が、窓の外から吹き込み、カーテンを揺らしている。
「遺書を書くか……」孝之は薄っすらと瞳を細めながら言った。「仮にお金持ちになった僕に家族がいる場合、その家族に対し、財産を残すようにするよね。それは当たり前だ。あとは、使用人に対してだけど、まぁ気持ち的には微々たるものでも何か残したいと思うかもしれない」
その答えは、理沙を十分満足させるものであった。こくりと小さな顎を何度も上下に動かし、孝之の言葉を肯定した後、理沙は返答する。
「あたしも同じ。莫大な遺産があるのなら、なるべく多くの人に相続させてあげたいと考えるかもしれない。でも、きのこ博士はそんな風に考えていなかった」
「そうだね」と、孝之。「財産を残すってことは、必ずしもいいことだとは思わないよ。今回のケースは仕方ないと思うけどね」
「仕方ない? どうしてそんなことを言うの?」
「遺産を必要としている人がいるからさ」
サラッと大人びたことを言う孝之。まるで他人事。自分に対してのことは一切考えず、他人に対しての思いやりがある。理沙はその態度に、訝しいものを感じた。孝之が実は一般的な高校に進学したいと考えていることは、容易に察しがついた。しかし、孝之はその感情を抑え、県内の単位制の高校R高に進学しようとしている。
理沙はその事実を鑑みて、再び言葉を継ぐ。
「遺産を必要としてるのは、孝之君じゃないの?」
「僕以上に必要としている人がいるよ」と、孝之。
「誰?」
「悟さん。それに健さん。あるいは奥様」
全員きのこ博士の身内。一体どういうことだろうか? 理沙は険しい顔をして、孝之に視線を合わせる。中学生がする会話とは思えないが、二人は自分たちの人生に対して深く考えている。
「奥さんは寝たきりよね。だからそんなにお金は必要ない。それに悟さんや健さんだって立派な社会人のはず。ってことはある程度のお金を稼いでいるんじゃないの?」
「違うよ。奥様、つまり小夜子様だけど、あの人は動けない。介護費は国が結構負担してくれるけどすべてというわけじゃない。それに悟さんは事業に失敗し借金がある。彼には家庭があるから、なんとしても借金を返したいと思ってるはず。健さんも同じさ。彼はフリーのライターに近いことをしてるから、いつもお金に困っているよ。僕はそのことを知ってる」
「小夜子さんのことは詳しく知らないけど、悟さんと健さんは自業自得なんじゃないの? 遺産を必要としている人はむしろ孝之君だと思うけど……」
「そんなことはないさ。僕は単位制高校であれば、十分に進学できるんだから」
孝之の考えは牡蠣のように固い。意志を決して曲げないようである。その固すぎる意志は何となく不可解で、理沙の心を大きく掴んだ。意志の源泉はどこにあるのだろうか? 理沙は悶々とした気持ちのまま考えるが、答えは一向に出そうにない。
「仮にお金が入るのなら、孝之君はどうする?」
と、理沙が尋ねると孝之は答える。
「分からないよ。使うかもしれないし、貯めるかもしれない。いずれにしても縁のない話だ。考えるだけ無駄」
「あたしが不可解だと思うのは、きのこ博士が全員に財産を残さなかったこと。あたしなら、平等に財産を残したいと考えるもの。つまりね、『小夜子さん』『悟さん』『健さん』『孝之君』『雅子さん』この五人に残すわ。遺産はおよそ一億。一人当たり二〇〇〇万円もらえる計算になる。こうすることがベストなはず。なのに、きのこ博士はそんな風に考えず、トラブルになるような遺言書を残した」
「トラブルになるか。確かにそうかもね」
「遺書を複数残して、片方は通常の遺書。もう片方は不可解な遺書。こんな変な遺言書を残すことは普通なら考えられない」
「さぁ。僕には大人の世界のことは考えらないよ」
「こうは考えられないかしら?」理沙は持論を展開する。「遺書は実はきのこ博士が書いたものではなかった」
ピクッと孝之の顔を動く。眉間にしわが寄り、理沙の瞳を鋭く見つめる。
「どういうこと?」孝之は言う。冷静だった態度が若干ではあるが乱れている。「誰かが遺書を改ざんしたってこと?」
「改ざんというよりも遺言書を書いたのよ。きのこ博士に代わって」
「そんなことは不可能だよ。きのこ博士が残した遺書は自筆の遺書だ。きのこ博士本人が書いたものだよ」
「うん。でもきのこ博士は日常的に文章をたくさん書く人だった。だからたくさんの文字が残っていてもおかしくはない。ほら、犯行声明文を書くとき、筆跡をとられないために、新聞や雑誌の文字を使い文章を作ることがあるでしょ。あれと同じ仕組み」
「誰かが故意にきのこ博士の書いた文字を組み合わせて遺言書を作ったってことか。でも何のために……」
「理由は分からない。だけど、あたしが思うには、本来書かれた遺言書は、悟さんや健さん、それに小夜子さんに財産を残すというものではなかった。オリジナルはあなたが見つけた、あなたと雅子さんに財産を残すというものだとしたらどう?」
「変な話だね。どうして使用人の僕らに財産を残し、家族に一円も残さないのさ」
「話ではきのこ博士は、借金に困る悟さん、健さんのことを救おうとはしなかった。跳ね返していたんでしょ。なのに自分の死後はその意志を一八〇度変えた。これって結構変なことよね」
「実の子供たちだからね。自分の死後は助けることができない。だから財産を残すことに決めた。親心ってやつだよ」
「そうかしら。あたしには一概にそうは思えない。何か、第三者の介入があったように感じるのよ」
「考えすぎだよ」
孝之は取り成すように言う。理沙は勘が鋭い。女が持つ第六感的な力。その力を十二分に使っている。しばし、室内は沈黙が流れる。針で刺すような空気。理沙は黙って考えていた。眼の前に立つ孝之は居心地が悪そうに、首元をかいている。その姿を見て、理沙は一つの結論にたどり着く。
今までは何の確証もなかったので、特に気にも留めなかったが、今回の事件。なんとなく孝之が関係しているのではないかと、漠然と考え始めたのである。最初は小さな火種のような考えであったが、それはみるみると風船のように膨らんでいき、理沙の心の中に焦げのようにこびりつく。
黙り込んだ理沙を見るなり、孝之は言葉を発した。
「いずれにしてもさ。もう何もかも終わったことなんだよ。これ以上掘り返しても無意味さ。僕らがしなきゃいけないのは、遺書を分析することじゃない。来週に迫ったテスト勉強をすることだ。理沙ちゃんも勉強しなきゃならないじゃないの? 探偵になるには色んな知識が必要だ。そのためには高校に進学し、その先は大学だって」
清太郎と同じようなことを言う孝之。理沙はその姿を見て、少し諧謔な印象を受けた。どこか、清太郎と孝之は似ているような気がしたのである。確かにテストは重要なイベント。しかし、今の理沙にとってはテスト以上に、きのこ博士の問題のほうが大切であると思えてならなかった。
自分が抱えた本格的な事件。それがきのこ博士の事件なのである。理沙は一旦机のそばから離れた。そして、きのこの棚に目を向ける。きちんと収納されたきのこ。そのほとんどが毒きのこなのだ。禍々しい形状を持つ、きのこを見て、理沙の心は震える。
彼女に眼に色濃く映ったのは、シャグマアミガサタケ。脳みそのような形をした不気味なきのこ。それを良く見ると、手入れをされず放置されていたのか、少しいびつな形をしており、焦げ目が入っている。恐らくであるが、きのこ博士の書斎に置かれていたときに、日光を浴びたのだろう。
「それが気に入ったの?」と、孝之。いつの間にか理沙の後ろ立っていた。「おもしろい形のきのこだよね。いかにも毒を持ってますって感じだもん」
「ええ」理沙は答える。「少し焦げているわね」
「うん。きっと日光の仕業さ」
「確か、このきのこは気化した成分を吸っても危ないのよね」
「そう。よく覚えていたね。そのとおりだよ」
そこで理沙はきのこから視線を外した。そして孝之の顔を見つめながら、
「毒殺ってことはないかしら?」
と、囁くように言った。
孝之はその言葉に唖然としている。しかしすぐに冷静な態度を取り戻し、
「毒殺か。作中に毒きのこが出てくれば、それを使わないとならない。何か演劇的だよね。でもこれは現実世界の話。それに毒きのこが使われれば、すぐに分かるよ」
「そうかしら。きのこ博士の死因は心不全。心不全を起こすきのこってあるの?」
「ないよ。皆発熱したり、嘔吐したりするものがほとんどさ。但し、このシャグマアミガサタケは少し変わっていて、頭痛や、めまいを起こして、最悪の場合、死に至ることがある。解剖すれば分かるはずだと思うけど、今回は検視のみだったみたい」
「解剖をしない……そうなんだ」
と、理沙は意味深に呟く。
「もう考えるのは止めよう」孝之は言う。「もう終わったことなんだよ。遺産は通常どおり、贈与されることになるはずさ。それは変わらない。そろそろ勉強しなくちゃ。この話はまたの機会にしよう」
これ以上、孝之は事件を掘り返したくないようであった。この場にとどまっても有益な情報は導き出せないかもしれない。理沙は一旦、きのこ館を出て行こうと決めた。本来ならば、きのこ博士の部屋を調べたり、家の中をくまなく捜査したりしたい。それができれば、きっとなんらかの証拠を見つけることができる。そんな風に思えたのである。
理沙が室内を出ていくと、孝之が玄関まで送ってくれた。そして消化不良の気持ちを抑えながら、理沙はきのこ館を後にする。何か複雑な心境だ。すっきりしない。曖昧な孝之の態度。不可解な毒きのこたち。そして意味深な遺言書。
これらのアイテムはすべて何か重要なことを物語っているように思えてならない。理沙は考えを推し進めながら、一人、道端を歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。声の主はもう一人の使用人、宗田雅子。
「もう帰るのね」と、雅子。
「ハイ」理沙は答える。「テスト勉強もありますし」
「テスト。中学生って大変ね」
「そうですね……」
理沙は答えるが、どうも雅子の言うことが気になる。一体彼女はどうして理沙の前に現れたのだろうか。その理由が知りたかった。
「何か用なんですか?」
理沙は目を細めて尋ねる。すると、雅子は少し恥ずかしそうに顔を曇らせ、
「清太郎さんのお孫さんなのよね?」
「ハイ。おじいちゃんに捜査の依頼をしたみたいですね。おじいちゃん、普段は着ない探偵時代のスーツを着ていましたから、きっと何かの捜査をしたんだと思います。あたしには教えてくれなかったけど」
「そう。あなたはどう思ってるの?」
「どう思ってる? 今回のきのこ博士の死についてですか?」
「ええ。それもあるし、ねぇ清太郎さんは何か言っていなかったかしら?」
清太郎は何も言っていない。尋ねても教えてくれないだろう。彼は理沙が事件に関わることを猛烈に反対している。ありえないほどの拒絶反応。引っかけてみたけど、それに引っかかるほど、清太郎は間抜けではない。
だが、清太郎も今回のケースが一般的ではないことを察しているだろう。探偵としてほとんどキャリアのない理沙であっても、きのこ博士の死が単なる心不全であるとは思えない。
恐らく、雅子も何らかの事件性を考えているのだろう。それは態度で分かる。もしかしたら、何か特別な情報を知っているのでないか? そう思わずにはいられなかった。
「おじいちゃんは」理沙は言う。「あたしが事件に関わるのを反対しているんです。『テスト勉強しろ!』の一点張りですよ。だから特にめぼしいことを知ってるわけじゃないんです。ごめんなさい」
「そうなの」雅子はがっかりした様子で、「なら仕方ないわね」
「雅子さんはどう考えているんですか?」
「ええと、確か理沙ちゃんといったわよね? あなた今から時間はあるかしら? それともテスト勉強しなきゃ駄目?」
「大丈夫です。時間はあります」
雅子は何か知っているようだ。それを理沙は確信した。ならばテスト勉強をしている暇はないだろう。とにかく今は情報を集めることが大切。
二人は近くにある喫茶店へ赴いた。それはくしくも清太郎が早乙女と密談した、例のチェーンの喫茶店である。
時刻は午後四時――。
夕暮れということで、喫茶店は繁盛している。ガヤガヤとバケツの水をひっくり返したようにうるさく、店内に流れているショスタコーヴィッチの『ジャズ組曲』は完全にかき消されていた。丁度、ガラス張りの壁前の席が空いている。カウンターのようになり、何名かのビジネスパーソンがPCとにらめっこしている。それ以外にも学生の姿がチラホラ見える。
「コーヒーでいいかしら?」雅子は言う。「それとも紅茶? ジュースが良い?」
「雅子さんと同じで構いません」
「なら紅茶ね。ちょっと座って待っていて。買ってくるから」
そう言い残し、雅子はレジへ向かっていく。一人残された理沙は、ぼんやりとガラスの壁を見つめた。外を行き交う人の慌しい姿が見える。学生、主婦、サラリーマン。色々である。同時に自分はこんな場所で何をしているのだろうという奇妙な感覚がわき上がる。
興味と不安。それが入り混じり、理沙の心を侵食している。雅子がこんなところに自分を呼び出したのには理由があるはずだ。でなければ、こんなことはしないだろう。その理由とは一体何なのであろうか? 考えられるのは一つしかない。
もちろん、きのこ博士の事件のことだ。既に事件は事件ではなく、ただの心不全として片付けられているが、事実はそうでない可能性が高い。だからこそ、清太郎は大きな体を揺り動かし、捜査をしてみることに決めたのだろう。清太郎ほどの人間が動いたのである。きっと背後には何かある。それは間違いないように思えた。
しばらくぼんやりとしている理沙。すると、熱々の紅茶を持ってきた雅子が隣に座る。そして理沙の許へ紅茶を置く。
「あ、砂糖とミルク忘れちゃったわ」と、雅子。
「構いません。いらないですよ」と、理沙。
「そう。でもごめんなさいね。こんなところに呼び出して」
「別に構わないんですけど、あたし、本当に何も知らないんですよ」
「そうね。でもあなたはきのこ博士の死が普通でないと見抜いているわよね?」
「ハイ。雅子さんもそう考えているんじゃないですか?」
すると、雅子はくぐもった顔をし、紅茶の湯気に鼻を近づける。安物の紅茶であろうが、香りは良くて、どことなく鼻腔をくすぐる。
「あなたはどう思う?」
理沙の質問には答えず、雅子はそう切り返す。当の理沙は、どう言うべきか迷っていたが、ここは沈黙せずに素直に自分の意見を言おうと考え、
「あたしは、きのこ博士の死が事件性のあるものだと考えます」
「事件性? つまり殺されたってことかしら?」
「そうです。でも今更何を言っても遅いですが……。雅子さんは違うんですか?」
「殺されたかどうかは分からない。けれど不可思議な事件だと思ってるわ。警察の捜査もあまりしっかりしたものじゃなかったし。テレビドラマでよく見るような感じじゃなかったから」
「それでおじいちゃんに捜査の依頼をした。ってわけですね」
「そういうこと」
雅子は紅茶を一口。その後、理沙に視線を移した。何かこう、居心地の悪い時間が流れる。何か言わなければ、けれど都合の良い会話が見つからない。何故、こんなところで事件の話をしているのか分からなくなる。
「あたしは」理沙は何とか言う。「きのこ博士が毒殺されたんじゃないかって思ってます」
『毒殺』その言葉を聞き、雅子の顔が露骨に歪む。毒殺となれば、どこかに犯人がいるということになる。きのこ博士の館には主に次の人物の出入りがある。
○使用人である『雅子』『孝之』
○きのこ博士の妻『小夜子』
○息子である『悟』『健』
この五名である。日常的にこの五人はきのこ博士に会っていた。となれば、毒を仕込むことができたはず。理沙はそう考えていたが、決して口には出さなかった。あくまで勘であるが、消去法で考えていくと、犯人は簡単に導き出せるような気がした。
「毒きのこを使って毒殺……」雅子は青白い顔をしながら、「それが真実だとしたら恐ろしい話ね。だけど、あながち間違いではない。私はそう思うわ」
「まぁこれはあたしの考えた勝手な戯言。根拠はないんですけど、でも財産の残し方が不可思議だったから、何となくそう思ったんです。悟さんと健さんという息子さんがお金に困っていたというのは聞いています。だけど……」
「あなたは悟さんや健さんが怪しいと考えているのかしら?」
「いえ、確かに怪しいですけど、不可解なことがあります」
「不可解なこと?」
「そうです。きのこ博士は遺言書を複数残していて、その内の一通は事件性がある場合、遺産は通常に配分されず、あなたと孝之君に相続されると書かれています。となれば、わざわざ事件を起こすでしょうか? それに毒殺となれば、かなりのリスクがかかります。今回は事件性がないものと判断されましたけど……」
「でもこうは考えられないかしら」と、雅子。「遺書の存在を悟さんも健さんも知らなかった。だから事件性のあるケースの場合、遺産が相続されないなんてことも微塵も考えなかったということ。彼らは慢性的にお金に困っていたから」
「きのこ博士に遺産があることは誰もが知ってる事実です。となれば、当然遺言書の存在があることは察することができます。でも悟さんも健さんもそんなにお金に困っていたんですか?」
「健さんは良く分からないわ。でも悟さんは事業に失敗したし、ちょうどあなたと同じ位の娘さんがいるのよ。二階堂楓さん。可愛らしい子よ。孝之さんも何度か会ってるはず」
「あたしと同じくらいじゃ、ちょうど受験生ってことですね。高校進学、それにその先の大学進学。確かにお金がかかる年代ってことになります。だからといって、実の親を殺すとは思えませんけどね。でも意外です」
「意外?」
「ハイ。孝之君が女子と会ってるなんて考えつかないことですから。孝之君は学校でも静かだし、あまり人と喋りません。淡々と勉強しているロボットのような人なんです」
「そうね。あの子はどこか達観しているし、老成した考えを持っている。それは分かってるわ。だから今回あなたという存在が館に現れて、私は嬉しいと感じているの。あの子にも一般的な中学生が送るような日常を謳歌してもらいたいもの」
と、母親のような意見を言う雅子。孝之のことを心の底から心配しているのは容易に察することができる。
「孝之君は」理沙は言葉を継ぐ。「単位制のR高に進学すると言ってます。彼なら難関高校に行くことだってできるのに」
「孝之さんがR高に行くのには理由があるのよ」
「理由ですか?」
「そう、今言った楓ちゃん。彼女が進学する予定なのよ。あの子はね、不登校で中学に通っていないの。だから単位制の高校に行くって話。孝之さんはそれを知ってるわ」
「それってつまり、孝之君は何らかの感情を楓さんに持っているということですよね。いいえ、煩わしい言い方は辞めて、この際はっきり言うと、孝之君は楓さんのことが好き。そうなんじゃないんですか?」
「鋭いわね。私もそう思う。時折、彼女に勉強を教えたり、本を貸したりしていたから」
「楓さん、その人はどこに住んでるんですか?」
理沙の言葉を受け、雅子はカウンター席の隅に置いてあるアンケート用紙の裏側にサラサラと住所を書き記した。
「ライバル登場ね」と、意味深なことを言いながら、雅子は理沙に紙を渡す。
それを受け取りながら、理沙は答える。
「ライバル? 何のことですか?」
勘の良い理沙でも雅子が言っていることが理解できなかった。
「恋のライバルよ。楓さんは強敵よ」と、雅子は言い、理沙は答える。
「何か誤解してるみたいですけど、あたしと孝之君はただの友達……。ええと、友達っていうよりも捜査の協力関係って言っても良いかもしれません」
完全に雅子は誤解している。ワイドショーで芸能人の恋愛事情を眺める主婦のような目線。どこか楽しんでいるようにも思える。理沙は愕然としながらも受け取った地図の住所を確かめる。
N市△△町――。
そう書かれている。N市なら近い。自転車を使えば十五分ほどで行けるだろう。まだ夕方五時前。急げば会えるはず。理沙はそう考え、
「別に恋ってわけじゃないですけど、あたし、これから楓さんに会ってみます。あの、紅茶、ご馳走様でした」
理沙は雅子と別れ、足早にN市に向かうことに決めた。
時刻は午後五時――。
夕暮れ時のN市は買い物を終えた主婦や、学校帰りの学生、あるいは仕事の途中のサラリーマンなど、多種多彩な人物で溢れていた。駅前の混雑は酷く、まるでお祭り騒ぎのような喧騒。理沙はのろのろと亀のように自転車をこぎながら、慌しいN市をさ迷っていた。雅子から受け取った地図を見る限り、二階堂楓という人物はマンションで暮らしているらしい。
築一〇年のファミリー向けの賃貸マンション。そこに悟の家庭はある。マンションはどこにでもあるような形状。五階建てでエレベーターが付いている。エントランスは暗証番号によるカギではなく、アパートのような入り口をしている。防犯機能はゼロといっても過言ではない。
理沙はマンションの前に自転車を止める。マンションの住民用。それ以外の人間は駐輪厳禁と書かれたポスターが貼られているが、随分と前に貼られたものらしく、ラミネートされているのにもかかわらず、傷んでいる。お構いなし、理沙は堂々と自転車を止め、マンションの前に立つ。
勢いでここにやって来たものの、果たしてどうやって楓に会おうか? まったく面識はないのだ。それに悟のことだって知らない。探偵が堂々と容疑者に会っていいものか? 何か変なことにはならないか? 理沙は漠然と考えていたのであるが、行動しないことには何も変わらない。そう思い、意を決し、マンションの中に入っていくことにした。
楓が住むのは三階の三〇三号室。エレベーターに乗り、理沙は三〇三号室に向かう。清掃が行き届いたマンションで、床は綺麗だし、外観もそれなりに美しさを保っている。同時に、三〇三号室はすぐに分かった。エレベーターをおり、最初の曲がり角を右に曲がった先が三〇三号室であった。
トビラの前に立ち、深呼吸をする。緊張が理沙の体を覆う。探偵として容疑者に会うことは初めての経験。いや、これが探偵の仕事なのかはっきりしない。趣味の延長。そんな風にも感じる。インターフォンを押す手が震えていた。情けなさが体を覆うが、冷静さを保つように心がけ、理沙は探偵として新たな境地へ足を踏み入れた。
『ピンポーン』
どこにでもある、ありふれた電子音が鳴り響く。すると、中からこちら向かってくる足音が微かに聞え始め、その音は大きくなる。理沙の緊張は高まる。ちょうど沸点を迎えた水のように感情が迸る。その瞬間、トビラは開かれた。
「どちら様ですか?」
目の前に現れたのは、歳が同じくらいの少女。
長袖の白いTシャツに黒いハーフパンツを穿いている。靴下は履いておらず素足。完全にラフな部屋着という格好。もちろん、化粧などしていないし、髪も肩までの長さのものがざっくばらんにポニーテールにまとめられている。
理沙はすぐに察した。
(この子が楓さんね)
楓は訝しい表情を理沙に送っている。それはそうだろう。突然、見た事もない同世代の人物が現れれば、誰だって驚くし警戒する。特に話では楓は不登校らしい。そうなれば、人間関係を結ぶのを苦手としている可能性が高い。
「あなたが二階堂楓さん?」
と、理沙は呟く。声は震えていた。授業中、突然、教師に問題を解くように言われた感覚に近い。
楓の端整で可愛らしい顔が歪む。完全に警戒している。どこかアイドル然として顔は確かに同世代の男の子を惹きつける要素があるかもしれない。孝之が惹かれるのも幾分か納得ができる。
「そ、そうですけど」と、楓は囁く。声は小さく聞き取りにくい。「あ、あなたは誰ですか?」
当然の疑問。理沙は自称、中学生探偵である。身分を示すような名刺は持っていない。しいて言えば生徒手帳。それくらいだ。
黒いビニルのケースに包まれた生徒手帳を、あたかも警察手帳のように扱い、それを楓に見せた。
「あたしは臺理沙。中学三年。M中に通ってるわ。実は明日戸孝之君の友達なの」
『M中』『明日戸孝之』
その言葉を聞き、楓の表情が幾分か緩んだ。そして、理沙の生徒手帳をまじまじと見つめている。文明機器を初めて見たインディアンのようにも感じる。
「孝之君の知り合いなの?」と、楓。
「うん。知り合い。突然ゴメンなさい。いきなり変な人が現れて驚いたでしょ。でも、あたしは怪しい者じゃないから安心して」
「それで何の用なの?」
「きのこ博士って知ってる?」
楓の目が細まる。そして首を上下に振り、
「知ってるわ。あたしのおじいちゃん。それでいて孝之君の家の主。有名な人だし、テレビにも出てるから」
「そう。それなら話は早いわ。あたしはきのこ博士の事件を追っている、中学生探偵なのよ。それであなたの話を聞きたいと思い、ここにやってきたってわけ」
「中学生探偵? あなたは探偵なの?」
「うん。自称だけど」
「今、事件って言ったけど、おじいちゃん、ええと、きのこ博士は普通に亡くなったんじゃないの。お父さんの話ではそうだったし。お葬式も終わったし」
「もし、今回の死が事件性のあるものだったらどうする?」
「事件性? よく分かんない。あなたは一体なんで探偵なんかしてるの? 中学三年っていったらあたしと同い年。ってことは今頃テスト週間でしょ。前に孝之君に会った時、テスト勉強の話になったから」
「孝之くんとは仲が良いの?」
理沙がそう問うと、楓の顔がぴくつき、頬の朱が入る。孝之のことを意識しているのは間違いない。もしかしたら相思相愛の関係なのかもしれない。理沙は瞬時にそう察するが、どう会話を動かして良いのか分からなかった。自分は何のためにここに来たのだろうか? わざわざ孝之と楓の関係を知りにここに来たわけではない。
漠然と事件だと感じるきのこ博士の死の真相を、知りたいと思っているのである。それならば、ここに来たことは果たして正しいことなのだろうか? 既に終着した事件を掘り返し、それを興味本位で漁るのは、ゴミ捨て場のゴミを荒らすカラスのように汚い行為なのかもしれない。
「仲はいいかな」と、楓。「あなたも孝之君と仲が良いの?」
「あたしは」理沙は答える。「最近仲良くなったかな。ねぇ、カズオ・イシグロって知ってる?」
「カズオ・イシグロ……。もちろん知ってる。だって孝之君に一冊本を貸したもの」
ここで理沙の仲で事実が一つにつながり始める。あの『私を離さないで』を貸したのは楓であったのだ。理沙が考え込み、少しの間黙っていると、それを警戒した楓が再び声を発した。
「どうしてそれを知ってるの? あたしにはあなたがここにやってきた目的が分からない」
「あなたと孝之君の関係を知りたいの」
と、理沙は浮気を問い詰める女性のような口ぶりで言った。対する楓はいきなり現れ、変な質問ばかりする理沙の姿勢にほとほと嫌気がさしている。新聞の勧誘を断るように、声を強め、
「た、ただの友達。それだけよ」
「そう。なら良いけど」
「えっと、臺さんって言ったわよね」
「理沙で良いわ。臺って苗字、なんだかへんてこで困ってるから」
「理沙ちゃん。あたしの考えだけど、あなた孝之君が好きなの?」
「へ?」毒気を抜かれたように理沙は口をへの字に曲げる。
「だって……」と、楓は続ける。「あたしと孝之君の関係を知りたがるってことは、孝之君に興味を持ってるってことでしょ。孝之君にはあまり友達がいないって話だから。でもあたしのことなら気にしないでいいわよ。だってあたしは不登校だし、孝之君とつりあうような人間じゃないし」
「そんなことないわよ。あなたは十分可愛いし、孝之君とつりあう素敵な女の子だと思う」
「あたしと孝之君の関係。それとおじいちゃんの件がどうつながるの? あたしには良く分からないわ。それに事件って言ったけど、お父さんと何か関係があるのね。だって莫大な遺産が入るみたいだから」
「遺産のこと知ってるのね」
「そのくらい知ってるよ。お父さんは遺産が入ることになって、落ち着きを取り戻しているもの。その前は遺産が入らないかもしれないっていって、お母さんといつも喧嘩ばかりしていたの。だからあたしはこの家が嫌だった。学校にも行けないし、家庭にいるもの辛い。さっき言ったカズオ・イシグロの小説を覚えてる?」
「うん。『私を離さないで』っていう話でしょ。あたしは読んだことないけど、どういう内容か把握しているつもり」
「あたしはその話の登場人物に似ているような気がしたの。それに孝之君も。あたしたちは似てる。だからあの本を孝之君に貸したのもしれない」
「そうなんだ。でも遺産が入ることになって、家庭環境が元に戻りつつあるんでしょ。それならよかったじゃない」
しかし、楓は納得しない。依然として憮然とした表情を浮かべている。どこか疲れているようにも見えるし、怒りを含ませているようにも見える。恐らく遺産について何か知っているのであろう。理沙の鋭い勘はそう告げていた。
「遺産は入るけど」楓は言う。「孝之君や雅子さんには入らないみたい。お父さんと、あと叔父さん、えっと健さんっていうんだけど、後はおばあちゃん(小夜子)にしか遺産は入らないのよ。あの館で中学生なのに使用人をしている孝之君には一円も入らないみたい」
「それって結構不可解だと思わない?」
「不可解だと思う。お父さんとおじいちゃんはあまり仲が良くなかったから。遺産がスムーズにもらえることになって、正直あたしは驚いている。孝之君に遺産が入れば、自由に高校に進学できるのに。なんだかあたし、自分が惨めになって」
「孝之君の進学先?」
理沙は知っていながら、あえてそう尋ねた。楓はゆっくりと首を動かすと、物憂げな面持ちで言葉を継ぐ。
「うん。孝之君のクラスメイトなら、彼が凄く頭の良いことを知ってるでしょ」
「もちろん、学校一の秀才だもの」と、理沙。
「普通なら進学校に通うはずだけど、孝之君はそうは考えていないの。実は、あたしは不登校で学校に行っていないんだけど、そんなあたしが進学先に選んでいるR高に進学するって考えてるみたいなの」
「R高。単位制の学校ね」
「そう。孝之君にはもったいない学校。でもあたしが行くなら、自分もそこに進学するって言ってるのよ。なんだかあたしが孝之君の人生をどんどん邪魔しているみたいで嫌になるわ。疫病神なのよ。遺産も奪い、進学先も奪い。彼の人生を苦しめている」
話がややこしい方向に転びそうになっている。楓はどうやら孝之の生活のことを不憫に感じていることは間違いないようである。
「あなたが仮に探偵なら、孝之君を助けてあげてよ」
懇願するように楓は言った。その声は、先ほどまでの震えに満ちたオドオドしているものではなく、凛としてはっきりとしている。確固たる決意のある声。
孝之を助ける。果たしてそんなことが理沙にできるのであろうか? 既にきのこ博士の事件は終着しているのだ。それを中学生である理沙が掘り返すことは難しい。小説の中に出てくる探偵や刑事のように、もう一度再捜査ができる可能性はまずない。そのことを恐らく清太郎も知っているはずなのだ。
にもかかわらず、清太郎は事件の真相を知るために立ち上がった。きっとこの事件にはまだ理沙が知らない何かが隠されているのだ。それを知りたい。探偵として……。
「もちろん」理沙は答える。「あたしは事件の真相を知りたいって考えている。孝之君を救いたいとも考えているけど、彼はあくまで自分の意志で進学先を決めているみたい。だから遺産があってもなくても進学先を変えることはないかもしれない」
その時、後方に人の影を感じた。理沙は振り返ると、その先には壮年の男性が立っている。中肉中背のサラリーマン。くたびれたしわの入ったダークグレーのスーツ。シャツの第一ボタンをあけ、ネクタイはしていなかった。足もとの革靴も無数にしわが入り、年季を感じさせる。
「君は以前、親父の家に来た」壮年の男性は言う。すると、楓が嫌そうに答える。
「お父さん。もう帰ってきたの?」
(この人は確か、二階堂悟さん。遺産を相続する人ってわけか)
と、理沙は考え、視線を上に向けた。
――十――
同時刻――。場所は清太郎の一室へ変わる。
清太郎はふと窓の外を眺めた。既に時刻は午後六時を迎えようとしている。夏至が近く、通常であれば、まだまだ日の光が室内に差し込むはずであるが、(清太郎の部屋は西向き)今日はそんなことはなかった。
厚い雲が空一面を覆い。灰色の退廃的なムードを醸し出している。こんなときは『ポー』や『ラヴクラフト』などの怪奇小説を読むに限る。書庫から本を取り出そうとしていると、何かこう、清太郎は不安な心境に襲われた。根拠はないが、心の底から嫌な感覚が湧きあがってくるのである。
こういう日は、己の心を写し取られたかのように、空にも影響を与える。この厚い雲で覆われた空は、そのまま清太郎の心を模写したかのように思われた。
(何事もなければよいが……)
と、清太郎は念じる。勘の良い彼は、これから起きることをまるで予期していたかのようであった。
考えることは二つ。
一つはきのこ博士のこと。
もう一つは孫娘である理沙のこと。
この二つが重く心にのしかかる。なぜこんなに不安な気持ちになるのであろう? 清太郎は考えをめぐらせる。遺産を巡り、きのこ博士の邸宅では一騒動あったことは間違いない。しかし、それも終わりを見せようとしている。ただ、気がかりはある。遺言書が複数あり、それぞれが別の可能性を示唆しているからだ。
清太郎の考えを言えば、彼は孝之や雅子に財産を残したいと思っていた。恐らくきのこ博士はそう考えていたはずである。しかし、事実は違う。彼が遺産を継ぐ者に指名したのは息子の悟、健、そして妻の小夜子であった。これはなんとなく不可解で、清太郎の心を苦しめる。
きっと、本来は孝之と雅子に受け継がれる可能性があったのだ。少なくとも、きのこ博士はそう考えていたはず。となると、奇妙なことが思い浮かぶ。それは遺言を改ざんした可能性があるということ。きのこ博士の遺言を改ざんし、通常とは異なる遺産配分を、一般的な配分に変えた者がいる。そんな気がしたのである。
そのような法に触れることをしたのは誰か? 今回の遺産の取得により、得をするのは誰であろうか? それは考えるのに難しくない。答えは非常にシンプル。
『小夜子』『悟』『健』
この三名である。彼には何千万という大金が転がり込む。寝たきりの小夜子は別として、悟や健には嬉しい報酬であることには違いない。
となると、悟や健が今回の事件に関わっているのだろうか? その可能性はある。
本来、きのこ博士が残した遺書は一つであった。本物の遺言書こそ、未だに閉ざされ、三千院弁護士の元に封印されているもの。孝之と雅子に遺産が相続される可能性が高い。この遺書のことを、仮に事前に悟や健が知ることになったら、彼らはどういった行動を見せるだろう。
きのこ博士の書斎は自分が書いた原稿や手記、メモなどが溢れていた。そうなれば、遺言書の切れ端を何らかの偶然で見つけることは、低い可能性ではない。事前に悟、健が知っていてもおかしくはないのだ。二人は慢性的にお金に困っていた。だからこそ、きのこ博士の残す遺産がどうしても欲しかった。これは間違いない事実であろう。
彼ら二人(悟、健)は遺産を手に入れるために、きのこ博士を始末する必要があった。特に悟は今すぐにでも金が必要であったようだから、何度もきのこ博士に金を貸してくれるように頼んだ。しかし、息子からの願いを決して聞き届けようとしなかった。
その結果、何が起きたか? 不可解なきのこ博士の死。
これは偶然か? あるいは神のイタズラなのか? いや、そんなことはない。今回の事件には陰で暗躍する者が必ずいるはず。そうでなければ、このような話の展開にはならない。
(気がかりなのは、きのこ博士の部屋に残された毒きのこたち)
と、清太郎は推理する。警察の捜査では、きのこ博士から不審な成分は検出されなかったようである。しかし、慌しい警察の捜査。そして解剖医不足からくる、怠慢な司法解剖。この二つの条件を鑑みれば、毒物の検出がスルーされることだってあるに違いない。事実、現役の解剖医が、自分たちの置かれた苛酷な労働環境を嘆くケースを、清太郎は知っていた。
理沙ではないが、きのこ博士は毒物で殺害されたのではないか? そんな負の感情が沸騰するように湧き出すのだ。そんな時だった。夕暮れの室内に、電話の音が鳴り響いた。音はこもっており、リビングの方から聞える。
まだ誰も帰ってきてはいない。今、自宅にいるのは清太郎ただ一人。彼は仕方なく、日本人離れした大きな体を揺り動かし、リビングの方に向かった。そして電話に出る。何となく嫌な予感がする。こんな日の予感は妙に的確に当たるから困る。
「もしもし……」
清太郎の不吉な勘は当たる。受話器から聞える声は、壮年の男性のものだった。
「わかりました。これから伺いましょう。二〇分ほどで着くでしょう。ええ、色々御迷惑おかけして申し訳ありません」
と、清太郎は言う。
どうやら、理沙が何か問題を起こしたようである。彼女は自称探偵として、今回のきのこ博士の事件を独自に調査していた。それがある人物の琴線に触れてしまったのだろう。電話の主は、二階堂悟。
つい先ほどまで、清太郎は彼のことを考えていた。そんな彼から心を見抜いたかのように電話が来たのだから、運命というものは恐ろしいと考えていた。オーダーで仕立てたスリーピースをビシッと着こなし、清太郎は台所にメモ書きを残し、家を出て行った。
午後六時半――。
途中、駅前の菓子屋で菓子折りを買った清太郎はどすどすと地響きを鳴らすかのように、悟のマンションへ向かっていた。そして、彼の住むマンションに入り、トビラをノックすると、すぐに目当ての人物が現れた。
「どうも、色々お騒がせしたみたいですな。これはお詫びの印です。どうぞお納めください」
と、清太郎は言う。彼の前には、訝しそうに、そして怒りに震える壮年男性の姿がある。清太郎は会ったことがないが、この人物が二階堂悟であるということをすぐに見抜いた。どこかいやらしい雰囲気があり、清太郎は瞬時にあまり好きにはなれないタイプの人間であると察した。
「まったく、お宅の娘さんには困りましたよ。突然尋ねてきたと思ったら、遺産のことをべらべらと言うんですからね」
と、憤懣の表情で悟は言った。その言葉を聞き、すぐに清太郎は理沙が起こした問題を把握した。突き詰めて考えると次のようなことが考えられる。
理沙は事件を考える上で、悟が何らかの鍵を握っていると察したのであろう。そしてこの家にやってきて、問題を起こしてしまった。そう、清太郎は考える。この時、彼は悟の娘、楓のことは知らなかった。
「大変申し訳ないことをしました。それで理沙はどこへ?」
清太郎は作り笑顔をみせ、理沙のことを尋ねる。すると、悟は一旦室内に消え、理沙を呼んできた。現れた理沙は絶望的な顔を浮かべ、清太郎のことを一瞥した。表情を見る限り、怒り半分、悲しみ半分といったものであった。
「おじいちゃん」と、理沙。
「うむ、色々あったようじゃな。話は聞いた。きちんと謝ったかね?」
「で、でもあたしは」
「謝りなさい。これは命令だよ」
清太郎の声は重鎮に響く。それを受け、理沙はすぐに悟に謝った。悟は依然として怒りと憤懣に満ちた顔を浮かべていたが、舌打ちをするだけで、理沙の謝罪を認めた。
「今後はこんなことをしないでくださいよ。まったく、本当に困った娘さんだ」
悟は吐き出すように言い、それを受け、再度清太郎が言葉を発する。
「ええ。このようなことがないように、しっかりと言いつけますから、今回のことはお許しください」
そう言い、清太郎は理沙を連れ、マンションを後にした。理沙は納得していないようであったが、自分が何か言えば、再び悟の怒りを刺激すると察したのか、大人しくしていた。
夕暮れの中、清太郎と理沙はとぼとぼと歩いていた。自転車を脇で押す理沙。そしてステッキを持ち、一定間隔でアスファルトを叩く清太郎。二人は無言であったが、それを切り裂くように理沙が言った。
「ゴメンなさい。おじいちゃん」
「うむ」と、清太郎。「きのこ博士の件かね?」
「うん。遺産の話」
「遺産は中学生が話すのには少し大人過ぎるかもしれないのぅ」
「でも、あたしは悟さんが今回の事件に一枚噛んでいると思ったの。だって、今回の遺産相続で得をするのは彼だから……」
「そのとおりじゃな。じゃが、遺産のことを仄めかせば、悟氏が憤慨するのも予想できる。そのことは分かるね?」
「そうみたい。あたし、探偵失格ね。なんだか自分が凄く惨め」
理沙はため息を吐きながら言う。その顔からは今までやる気に満ちていた表情が嘘のように消え去っている。理沙も後悔しているのであろう。それはまざまざと感じることができる。清太郎は丸々と太った手で、理沙の柔らかい頭を撫でた。
「失敗は誰にでもある。重要なのはその失敗をどう生かすかだよ」と、清太郎。
対する理沙は、清太郎のほうを向かず、空を見上げながら言った。
「あたしの感じた印象だと、悟さんは事件に関わっていないような気がする。あの怒りは、事件に関わった人間が見せるというよりも、たまたま宝くじが当たって、それを秘密にしていたのに、どこかから第三者に秘密が漏れ出してしまったような焦りが感じ取られたの。それで怒りによって事態を収めようとした」
「なるほど」清太郎は満足そうに呟く。「理沙、お前さんは今回のケースをどのように考えているんだね?」
「あたしは誰かが遺言書を改ざんし、そしてきのこ博士を毒殺したと思ってる」
「毒殺? これはまた突拍子もないことを言うね」
「突拍子もないことじゃないの。きのこ博士はたくさんの毒きのこを持ち、それを孝之君が受け継いでいるのよ」
「じゃが、警察は一言もそんなことは言わなかったようだが」
「見過ごされたのよ。雅子さんの話では司法解剖が行われなかったみたいだし、あたしが少し調べたところによるとK県には監察医制度っていうものがないみたいなの。特にきのこ博士みたいに高齢の人間は心不全で片付けられる場合があるようなのよ」
「しかし、毒きのこを使えば、必ず痕跡が残るだろう。それを解剖医が見逃すとは思えないんじゃがね」
「もし仮に、食べ物に混ぜたり、注射をしたりすれば痕跡は残ると思う。だけど、あたしの考えは違うのよ」
「どう考えているのかね?」
「それは……」
理沙は持論を展開した。中学生が考える推理であるが、清太郎は概ね満足を見せた。理沙には才能がある。そして、彼女の言葉は真相を突いているように感じられる。
「理沙。お前さんの言葉が正しければ、それを行った人物がいるはずじゃよ。それは誰なのか察しはついてるのかね?」
「あたしの考えでは、今回の事件で得をする人が、きのこ博士を毒殺しようと試みたと考えていたの。でもそれは違うかもしれない。遺言書は複数あり、毒殺なら、悟さん、健さん、小夜子さんの三人には遺産が入らない。ってことは、今言った三名がきのこ博士を毒殺するとは考えにくい。だって、そんなことをしたら遺産が手に入らなくなってしまう。でも……」
「残された人物は雅子さんと孝之君ということか」
「うん、でもあの二人は使用人よ。きのこ博士を毒殺するなんて」
と、理沙が言うと、後ろから声が聞えた。年頃の少女の声。
理沙と清太郎は一旦会話を打ち切り、立ち止まり踵を返した。理沙と清太郎の視線の先には、二階堂楓が息を切らせて立っていた。
「ちょっと待って。話しておきたいことがあるの?」
と、楓は言う。何か重大なことを知っている顔つき。
理沙と清太郎はお互いの顔を見合わせた。そして、理沙はコクリと頷き、楓の前までゆっくりと進む。自転車を持つ手が、僅かに震えており、カタカタと揺れた。
「話しておきたいことって何?」
理沙が尋ねると、もじもじとしながら楓は言葉を返した。
「遺産のこと」と、楓。
「遺産?」と、理沙。
「そう。これはあたしの考えなんだけど、聞いてくれる?」
「ええ。何か知ってるのね」
楓の表情が真剣なものに変わる。不登校の少女が持つ弱々しいものではなく、凛と強い決意の色が見える。時間にして五分ほど、楓は持論を展開する。その話は理沙の興味を大きく引いた。後ろでは清太郎が難しい顔をしながら話を聞いている。楓が話す情報は、清太郎の考えを射抜くもので、おおよそ予想していたとおりのことだった。つまり遺産と遺言書のことである。
清太郎は事件の全貌を暴きつつある。後必要なのは、ほんの少しの情報だけ。しかし、既に事件は終わっているのである。理沙と清太郎が行っているのは、既に葬儀を終え、墓に埋葬された遺体を掘り返しているにすぎない。二人がいくら真相を暴いたとしても、きのこ博士の事件は、事件として取り扱われることはないだろう。
それはつまり、孝之や雅子に遺産が入らないことを意味している。
「力の限りやってみる」
と、理沙は言い、拳を固く握り締める。
その言葉を聞き、楓は若干安堵したかのように頬を緩ませた。歳相応の柔らかい笑みが浮かんでいる。恐らく、孝之のことが大切なのであろう。恋に恋をする年代。理沙はそんな気持ちがサラサラなく、すべての感情が推理小説や探偵という職業に注がれているが、楓はそうではない。
「お願い。孝之君を助けてあげて」
楓はゆっくりと言った。
理沙と楓は別れる。自分がどこまで楓の気持ちを汲み、行動できるかは分からない。でも、この事件だけはなんとしても解き明かしたい。そんな風に思うことができたのである。
自宅に着いたとき、既に母親が帰ってきており、夕食の準備をしていた。母親はパート勤めであるので、家に帰るのは夜七時を過ぎる。必然的に夕食の時間は遅れ、大体七時半ごろから始まるのだ。
時刻は午後七時十五分――。
理沙は清太郎と共に、日が落ちた縁側に座り込み、夏の夜空を眺めていた。
ここは決して都会ではないが、田舎というわけではない。澄み切った空が広がるほど自然に溢れていないし、今日は生憎曇り空である。それは理沙の心境を映し出しているようでもあった。理沙と清太郎はしばらくの間無言を貫いていた。少しずつ居心地が悪くなり、理沙は重い腰を上げるように、ゆっくりと口を開いた。誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
「あたし、やっぱりこの事件を追いたい」
「ほう」清太郎は答える。「しかし、ほどほどにすることだな。今回のように誰かに迷惑をかけるのはよくないことじゃよ」
「迷惑をかけるつもりはないの。でも、悟さんも健さんもきっと、今回の事件を掘り返されることは嫌なんだと思う。遺産が手に入らないかもしれないから」
「そんなことはないだろう。彼らが遺産を相続するのは時間の問題。それは覆らない」
「それってつまり、孝之君に一円も遺産が入らないってこと?」
「その可能性は高い。しかし……」
そこまで言うと、清太郎は口を噤んだ。それを受け、理沙は先ほど楓が言っていたことを思い出す。彼女の言うことが正しいかどうかは分からないが、重要なヒントに放っていた。
「孝之君。一体何を考えているんだろう?」
ぼそりと言う理沙。彼には孝之が行った行動が理解できなかった。
「彼はね」清太郎は答える。「非常に責任感の強い人間なんじゃよ。きのこ博士に似ているね。まるで親子のようだ。毒きのこの収集癖といい、考え方といい。本当に良く似ている」
「親子……。それが本当ならいいのに」
理沙は呟いた。同時にリビングから母の夕食が出来たと告げる声が聞えてくる。
話は一旦中断され、二人はリビングへ向かった。足取りは重く、沼の中を歩いているようだった。
翌日。つまり六月四日――。
テスト週間のため、校内はピリピリとしたムードが漂っていた。
時刻は午前八時――。
普段ならまだ生徒は来ない時間であるが、テスト前ということもあり、理沙の教室にはチラホラと生徒の姿が見える。勉強している者が多く、その中には孝之の姿もある。窓辺の席に座り、朝日を受けながら孝之はペンを動かす。しかし、理沙が教室に顔を出したことを確認すると、真剣な顔が変わり、どこか怒りに満ちているような表情を浮かべた。
理沙が学校指定の水色の鞄を机に置くと、孝之は理沙の目の前に立った。
「ちょっと良い?」
孝之は言う。その言葉には怒りと困惑が入り混じり、理沙の心を動揺させる。どこかこうなることが予測できたが、いざ現実のものになると、緊張が全身を包む。
「良いけど」と、理沙。「何なの? 難しい顔をして」
「昨日、君はきのこ館から帰った後何をしていたの?」
「知ってるんじゃないの?」
「うん。知っている。君は楓さんの家に行ったんだ。つまり、悟さんの自宅へ。どうしてそんなことをしたの?」
「情報を知りたかったからよ」
「情報? 君が行っていることは、きのこ館に関係している人物を混乱させるだけだよ」
「楓ちゃんが何か言ったのね。それであなたは怒ってる。違う?」
「怒ってるわけじゃない。ただ、これ以上事件を掘り返すのは止めてほしいと言ってるんだよ」
「自分の将来がかかっているのに?」
理沙はあくまで冷静に言った。理沙の言葉を聞き、孝之の顔がより一層醜悪に歪む。理沙を非難するような顔。当の理沙には孝之がどうしてここまで頑なに遺産のことを言うのか分からなかった。いや、何となく察しは付くのであるが、それは中学生の男子が行うにはやや大人すぎて理解できなかったのである。
「自分の将来」と、孝之。「そんなことは自分が良く知ってるよ」
「あなたは学校で一番頭が良い。そんな人は単位制のR高には進学しない」
「またその話。別に良いじゃないか。たとえ頭の良い人がR高に進んだとしても、R高は決して悪い学校ではないよ。勉強だってできる。大切なのは自分が置かれた場所でどう行動するかだよ」
自分の置かれた環境で花を咲かせるのは、難しいことである。特に理沙や孝之のような年代。未来への選択肢が無数に広がっている多感な時期は迷いを生む。多くの選択肢があるために、道を選ぶことが難しいからだ。
未来があるということは何も良いことばかりではない。何を選んで良いのか分からないから迷う。商品の数が多すぎて、すべてを把握できないと同じように……。故に、孝之がR高に進学を固く決めているように、あるいは理沙が探偵になるために日々鍛錬している人間の方が少ない。
皆、迷いながら自分の将来を模索する。それが思春期の特権であるし、本来の生き方である。未来を決定することは素晴らしいことだ。それに向かって汗を流し、鍛錬を重ねる。青春の一ページとしてはこれ以上ない美しい光景。しかし、何か一つに未来を絞り、行動するということは、他の可能性を閉ざすということでもある。その矛盾した生き方、考え方が、理沙の心を大きく掴んだ。
自分は、探偵になりたい。でもそれが叶わなかったら、自分が探偵として修行している今の行動は果たして意味があるものになるのだろうか?
「あなたの言うことは分かる」理沙は神妙な眼差しを送る。「そして楓さんをいかに大事にしているかも」
楓という名前が出たことで、孝之の表情が一瞬緩む。やはり、孝之は楓のことを想っている。これは疑いようのない事実。
「楓さんは関係ないだろう」
孝之は素早く言う。しかし、理沙は続けて、
「関係ない? 嘘言わないで、大きく関係するわよ。あたしはあなたがしたことを何となく察しているの」
「僕がしたこと?」
「そう、それは――」
と、そこで理沙は自分の推理を述べた。
時間にして五分ほどの短い推理。孝之は説法を聞くかのように真剣になり、話に耳を傾ける。教室内が少しずつ慌しくなり、朝の喧騒に包まれていく。しかし、理沙と孝之の間だけが、切り取られたかのように静まり返っている。
「どこにそんな証拠があるの?」
理沙の話を聞き終わった孝之はそう告げる。顔は動揺しており、どこか慌てているようにも見える。この姿は普段の孝之ではなく、必死にかぶっていたペルソナの仮面が取れたかのように無防備な姿を晒している。
「証拠っていうよりも、感情の問題よ」と、理沙。
「つまり、証拠がないのに君はそんな不可解なことを言っている。それはおかしいよ。探偵として失格だ」
「そうかしら。あなたは図星だから、そんなに慌てているんじゃないの?」
「そ、そんなことは」
「もちろん、楓ちゃんも察している。勘のいい子よ。そしてあなたのことを大切に思ってる。だからこそ、あたしに今回の事件の全貌を暴いて欲しいと言ったのよ」
「楓さんが? 嘘だろ」
「嘘じゃない。本当よ。だけど、事件をひっくり返すことは難しい」
「やめてくれよ。これ以上、きのこ館の人物を刺激するのはよくない。僕らの生活はこのままが良いんだ」
「どうしてそこまで自分を犠牲にするのかしら? 孝之君はそれが正しいと思っているかもしれないけれど、実はそんなことないのよ」
「君はきのこ博士が毒殺されたと考えているようだけど、誰がそんなことをしたって言うんだ? 悟さんか? それとも健さんか? あの二人が実の父親であるきのこ博士を殺害するなんてありえない」
「仮に、きのこ博士が毒殺されたとしましょう。となると、得をするのは誰だと思う? 遺言書は複数あり、事件性があった場合、財産はあなたと雅子さんに相続されると書かれていた。ならば、悟さんや健さんが事件を起こすとは考えにくい。だって、そんなことをしたら遺産がもらえなくなってしまうもの」
「でも、悟さんや健さんは、きのこ博士の書いた遺言書がいくつかあって、その文面を知っているわけじゃないだろう」
「ええ。そうね。だけどきのこ博士は日常的に、ものを良く書いた。その証拠がたくさん残っているわ。作家は自分が書いたものはなかなか捨てない。魂が宿るとでも考えているように。悟さんや健さんがきのこ館に来た際、どこかで遺言書を見つけた可能性は低くないわ」
「だ、だからと言って、きのこ博士を毒殺するなんて。それにそんなことをすれば警察に捕まるだろ」
「そうね。普通にやればね。だけど、あたしは犯人が綿密に行動し、今回の事件を遣り通したと思ってる」
ちょうど、時刻は八時半を迎え、教室内が騒がしくなり、話は中断された。孝之はつき物が落ちたかのように、ぼんやりとした眼で理沙のことを眺めていた。理沙は自分の推理を進めるために、ある人物に会いたかった。その人物とは……。
「ねぇ」理沙は言う。「今日もう一度あなたの家に行って良い?」
「きのこ館に?」孝之は答える。「これ以上事件を掘り返さないでくれよ。僕はただ平穏に暮らしたいだけだ」
「分かってる。行くのは今日でおしまいにするから」
「何が目的なの?」
「二階堂小夜子さん。つまりきのこ博士の奥さんに会いたいの」
「奥様に? 知ってると思うけど、あのお方は寝たきりなんだ。だからそんなに有益な話ができるとは思えない。それに情緒不安定なんだよ。雅子さんが付きっ切りで介護をしているよ」
「だけど会いたいのよ。お願い。時間は短くても良い。それで最後だから」
理沙の懇願に孝之は負けた。