少女探偵遊戯-きのこ館の殺人-
――一――
二〇一五年 六月一日――。
その日、臺理沙が早く起きたのは、ただの偶然であった。一年三六五日。これだけの日数があれば、一日くらい早く目覚める日があっても不思議ではないだろう。時刻は午前六時。普段七時半ごろ目覚め、大慌てで支度をし、八時には家を出る生活を送っている理沙にとって、六時に起きるというのは、数年来ないことであった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。いわゆる木漏れ日。こんなに穏やかな朝を迎えるのは初めてと言っていいかもしれない。小学校の夏休み、よく朝早く起きてラジオ体操へ向かったが、こんなに穏やかな印象はなかった。
理沙は起き上がり、カーテンを開く。朝日が眩しく理沙のことを照らし出し、ついでに六畳のフローリングの一室に光を与える。掃除なんてほとんどしない、女子力のない理沙の部屋は、日光に照らされて、埃が溜まって見える。なんとなくげんなりし、部屋を見渡した後、理沙は窓から庭を見つめた。
庭には、ギデオン・フェル(ディクスン・カーの小説に出てくる名探偵)のように太った老人がせっせと体操をしている。理沙はあまり知らないが、これが彼の日課なのである。老人の名は臺清太郎七〇歳。既に社会をリタイアし、悠々自適の毎日を送る、理沙の祖父である。
清太郎は太っているので、医師から健康診断ごとに、「痩せなさい」と無理難題を言われている。幼少のころから太っていた彼は、人生のほとんどを肥満状態で過ごした。だから今更痩せろと言われても、そんなことは無理に近い。しかし、律儀にも毎朝のラジオ体操は日課にしていた。日課にすると、それが儀式化し、何かこうそれをやらなければ気持ちが悪い。そんな心境に変化していたのである。
対する理沙は、Tシャツにハーフパンツという軽装のまま庭におり、清太郎の許へ向かった。ちょうどラジオ体操の二番が始まり、どこの部位に効くのか分からない体操を、清太郎は行っていた。
「おじいちゃん。おはよ」
体操をする清太郎の背中に向かって、理沙はそう言った。
すると、今まで淡々と体操をしていた清太郎の体がビクッと硬直し、そのまま体操を中断した。そして、幽霊でも見るかのように、恐る恐る首を回し、清太郎は理沙のほうを向いた。
「理沙かい。地震でも起きるんじゃないかね」
しわがれた声が理沙の耳に届く。
「地震? どうして、まぁ確かにテストの結果が分かる前に首都直下型地震がやって来て、すべてを崩壊させてくれればありがたいけれど」
理沙はさらっととんでもないことを言った。清太郎は困った顔を浮かべながら、再びラジオ体操を始める。太った体で行うものだから、本当にラジオ体操ができているのかは不明。何か、異様な盆踊りをしているかのようにも見える。
「今日はどうしたんだね。珍しい」
と、清太郎は尋ねる。彼の問いかけはもっともである。清太郎がラジオ体操を始めて、数年が経つが、一日たりとも理沙が現れたことはないからだ。今回の理沙の登場は、小学生の吹奏楽部が、ベルリンフィルオーケストラのような、巧みな演奏を行うくらいありえないことであった。
「あたしも分かんない。ただ、目が覚めちゃったのよ」
「来週からテストだろう。勉強をしなくていいのかね?」
「う~ん。確かに勉強しなきゃならないんだけど……」
理沙は口ごもる。テスト勉強は学生の特権の一つであるが、理沙はどうしても前向きになれなかった。当然成績は悪い。現在中学三年生である理沙にとって、テストの結果は進学先の高校を決める重要なもの。
今のままでは志望するS学に行くことは叶わない。それでも良い。むしろ理沙は中学を卒業してから、すぐにでも働きたかった。彼女には夢があるのだ。その夢とは探偵になることである。探偵といっても、不倫調査や身辺調査を行う、探偵社の探偵ではなく、推理小説に登場する名探偵に憧れているのである。理沙は自称、ギデオン・フェル氏の曾孫ということにしている。但し、彼女の家系をいくら辿っても、イギリス人は存在しない。純日本人なのである。
当然、イギリス人であり、架空の人物であるギデオン・フェル氏の曾孫なわけはない。というよりもフェル博士は結婚しているのかすら分からない。子供もいないし、そうなれば当然孫や曾孫だっていないことになる。だが、自分の祖父、清太郎があまりにもフェル博士に似ているものだから、きっと先祖はフェル博士なのだろうと、将来の夢に『バナナになりたい』と答える幼児のように、とんでもないことを考えていたのである。
「あたしは探偵になるからいいのよ」
ラジオ体操は終盤を迎える。
一二〇㎏を越える清太郎の体がぶるぶると震えている。理沙の「探偵」という言葉を聞き、清太郎はラジオ体操を止めたくなった。
「まだ、そんなことを言ってるのかね?」
「うん。あたしは探偵になるの。それで事件を解決するのよ」
「毎度言うがね、実際の探偵は、殺人事件に出くわして、警察と共に、事件を調査して、その後、登場人物の前で推理を展開するなんてことはないんじゃよ。そのくらい、理沙にだって分かっておるだろうし、いつも言ってるじゃろう」
「でもおじいちゃんは違うじゃない。事件を解いてきたんでしょ。いつも来る早乙女さんが教えてくれたわ」
「早乙女のやつ……」
早乙女というのは、K県の刑事部に所属する刑事である。新米刑事時代から、清太郎とタッグを組み、いくつかの難事件を解決してきたのだ。その縁があり、清太郎が探偵業から引退した後でも、事件に対しての助言を受けるために、ちらほらこの家にやってくるのである。
理沙はそのことを知っており、お茶やお菓子を出すついでに、早乙女の話を聞いているのであった。だから、清太郎が今でもたまに事件に関わっていることを知っているし、警察に捜査協力をする探偵の存在が、御伽噺の中だけではないということを察しているのだ。
「わしのことはいいんじゃよ。第一、探偵なんて職業はやるべきじゃない。お前さんはこぢんまりとした会社の事務職なんかが向いておるよ。その方がずっと賃金がいいし、将来は結婚し、子供を育てなければならん」
「今は女性だって普通に働いているけど」
理沙の声は不満そうである。
ちょうど、ラジオ体操が終わり、出っ張ったお腹をさすりながら、清太郎は縁側に座り込み、廊下に立つ理沙のことを見上げ、ため息をついた。
この年頃の少女には何を言っても聞かないのだ。夢を追う若者がいかに現実離れした考えを持っていて、それが明らかに実現不可能であるのに、その夢に向かって勇猛果敢に突っ込んでいく姿に似ている。
モラトリアムが魅せる夢のような時間の中に、理沙はいる。そのことを清太郎は自覚していた。夢を追うことは素晴らしいことだ。若さの特権であるし、美しくもみえる。だが、人の夢はその漢字が示しているように儚いものである。清太郎はそのことを長年の経験により知っているからこそ理沙には普通に生きてもらいたかった。
この時代。仕事は溢れかえっている。探偵なんていうハードな仕事に就くよりも、PCを使った事務系の仕事の方が食いっぱぐれる心配がないし、肉体的にも楽であろう。
「探偵になるなら、頭が良くなきゃならん」
清太郎はぼんやりとお腹をさすりながら、肩にかけた白いタオルで噴出した汗を拭う。しかし、理沙は負けずに反論する。
「推理力と学力は比例しないわ」
「とはいうがね、お前さんの好きな、つまりわしの父親ということになるギデオン・フェル博士はハーバードで文学士、オックスフォードで文学修士の学位を得ているんじゃよ。つまり、優秀だということだ。シャーロック・ホームズだってオックスフォードかケンブリッジを出ていると言われているじゃろう」
「ホームズは作中ではどこの大学出身か言われていないわ。それにメルカトル鮎だって」
「とにかく、勉強できるうちにしておくことじゃな。勉強の努力は裏切らない。勉強した分だけ知識になるし、それが探偵業に活きるということもあるだろうて。お前さんのクラスでも頭のいい生徒はおるじゃろう」
「頭のいい人はいるわ」
理沙の脳内に一人に人物が浮かび上がる。
「お前さんも頭の良い、人間になるこったな。探偵になるには基礎的な学力は必須じゃよ。お前さんが慕っている早乙女君だって、一浪したものの、W大を出ているんじゃからな」
「へぇ。あの人、W大出てるんだ。なら、あたしでもいけるかな」
「ばかもん! さぁ話は終わりじゃ。テスト前なんだから勉強しなさい!」
清太郎はそう言うと、うじうじと文句を始めた。当の理沙はこれは敵わんと、地震の発生を予期したねずみのように、早々とその場から立ち去った。
早めの食事を終え、彼女は学校へ行くことに決めた。どうしてそんなことをしたのかイマイチ分からない。ただ、家にいても勉強する気はなかったし、早く学校に行ってみたくなったのである。
自宅から理沙の通う中学までは徒歩で一〇分ほどである。走れば五分で着く。だからいつもギリギリまで寝ていられるのだ。しかし、今日はなんと七時に学校に着いた。こんなことは、太陽が今すぐ消滅するくらいありえなかった。当然、校内はがらんとしている。静寂がおりている校舎は、どこか霊妙な雰囲気がある。現在はテスト前ということで、朝の部活動も禁止されている。
だから、教室内にも誰もいないであろうと察していた。しかし、理沙の考えはあっさりと打ち砕かれる。下駄箱には既に外履きのスニーカーが一足収納されており、それはこの校舎の中に生徒の存在があるということを示していた。
下駄箱のネームプレートには『明日戸孝之』と書かれている。校内で一番優秀とされる、理沙と同じ組の男子生徒である。理沙は訝しい表情を浮かべながら、教室内に入った。すると、室内には一人の男子が……。言わずもがな、明日戸孝之だ。
孝之と理沙の接点はあまりない。同じクラスということだけであろう。普段話すことはないし、席も近くないから、お互いに名前を知っているというくらいの関係なのだ。少なくとも、理沙はそう思っていた。孝之は窓辺に立っていた。そこには花瓶が置いてあり、百合の花が活けてある。
普段、誰かが水の交換をしていると思っていたが、その正体が分かった。孝之が行っていたのである。孝之の机の上は教科書とノートが広げられており、寸前まで勉強をしていたということが読み取れる。
演繹法ではないが、推理の好きな理沙は、孝之が朝早く学校に来て、花の水を換え、そして勉強しているのだということを導き出した。同時に、なんとなく明日戸孝之の性格が垣間見えたような気がする。
「おはよ。明日戸君」
と、理沙は言った。決して緊張していたわけではないが、声は若干うわずった。
対する孝之は、まるで亡霊でも見るかのように、大きな瞳を広げている。中性的な顔。その顔が酷く歪んで見えた。
「お、おはよう」孝之はぼそぼそと言う。なかなか聞き取れなかった。「ええと、臺さんだよね」
「そう。臺理沙。理沙って呼んでよ。あたし、臺って苗字、あんまり好きじゃないの」
欧米風にフランクに名前で呼んでもらいたいのが、理沙の特徴である。決して、相手に恋愛感情を抱いているわけではない。すべて理沙が好きな欧米の探偵小説の影響だ。
「り、理沙ちゃん」孝之は初心な反応を見せ、繰り返し呟く。「今日はどうしたの? 君が早く学校に来るなんて、今まで一度もなかった」
「うん。別に理由があるわけじゃないの。でも驚いたわ。孝之君って朝早く学校に来て勉強しているのね。学校一の秀才だから、家で淡々と勉強しているのかと思った」
家で勉強。その言葉は孝之の心を捉えた。一瞬ではあるが、気落ちしたように孝之の目が沈む。その仕草に理沙はなんとなく気づいていた。
(あたし、何か地雷を踏んだかも……)
「テスト前だからね」
すぐに孝之は言った。まるで素早く声に出すことで、先ほどみせた気落ちした表情をなかったことにするみたいだ。
「いつもここで勉強してるの?」と、理沙。
「そうだね。ここで勉強してるよ。家だとなかなか集中できないし、仕事もあるから」
「仕事?」
理沙の顔が曇る。理沙も孝之もまだ中学生である。しかも中学三年生。義務教育の真っ只中にいるのである。つまり、アルバイトなんてできない。精々仕事といったら、家の手伝いをすることくらいであろう。そこまで考えると、孝之の家がどんな家であるが、おぼろげに記憶が浮かんできた。
「確か」理沙は探偵のように顎に手を置き、「孝之君の家ってきのこ博士の家よね」
「よく知ってるね。そう。有名な二階堂由紀嵩博士の家だよ」
二階堂由紀嵩氏というのは著名なきのこ学者である。日本の魚類学者『さかなクン』のきのこ版であると思い浮かべると分かりやすいかもしれない。古今東西のあらゆるきのこを研究し、ごくたまにテレビ出演もする。コナン・ドイルのSF小説に出てくる『チャレンジャー教授』と、「芸術は爆発だ」で有名な『岡本太郎』を足して二で割ったような癖のある性格のため、一躍人気が出たのである。その時に生まれた愛称が『きのこ博士』
しかし……。
「きのこ博士って亡くなったんじゃ?」
と、理沙は言った。
つい先日、きのこ博士が亡くなったというニュースがテレビやネットで流れた。享年七〇歳。研究者としては高齢だが、日本人の平均寿命よりはやや下である。早すぎる死が惜しまれ、各界からお悔やみの声が届いた。
「そう」孝之はダークブラウンに輝くシルクのような髪の毛をかきむしった。「亡くなったんだ。もう一週間は経つよ。大分、落ち着いてきた。僕はあの家で使用人として働きながら、中学に通ってるんだよ」
使用人。そんな立場の人間が現代日本にいること自体驚きである。
一般的な日本の家庭には使用人などいない。精々、裕福な人間がお手伝いさんを頼んだりするくらいで、日常的に使用人を抱えている人間は少ないであろう。理沙の中では使用人と言ったら、ダフネ・デュ・モーリアの小説『レベッカ』に登場する『ダンヴァース夫人』であるが、そのことは言わなかった。
「どうして使用人なんかしてるの? まだ中学生なのに」
理沙は物憂げな顔をしながら尋ねる。純粋に孝之の日常に興味があった。中学生をしながら家庭では使用人として暮らす。二つの顔を持つ孝之の存在が、どこか推理小説に出てくる奇妙な人間と重なって、理沙の興味に火をつけたのである。
「理沙ちゃんは当然進学するでしょ?」と、孝之。
「うん」そう理沙は答える。
「志望校はどこ?」
「S学園高校」
S学園高校はK県ではなかなか有名な進学校である。難関大学に多くの人間が進学するのだ。しかし、今のままの理沙の学力では到底入学することは不可能。そのことを理沙は痛いほど理解しているし、多分家の近くの公立高校に進学することになると考えていた。とはいっても、夢は大きな方がいい。理沙にとって、進学する高校などどうでも良いのだ。彼女にとって重要なのは、いかにして探偵になるか? ということだけであるのだから。
「S学か……」羨ましそうに呟く孝之。「結構いい学校みたいだよね」
「孝之君はどこ? やっぱり県内最難関のM高? それともK学院かしら? あなたほどの学力があれば、どこだっていけると思うけど、将来は東大生ね。いいえ、もしかしたらハーバードかもしれない」
理沙の夢想はとめどない。冗談と真実を織り交ぜて、緊張した場の空気を和ませようとしたのであるが、どういうわけかうまくいかない。緊張感はより一層強まり、空気は針のように痛く鋭くなる。
「僕はM高にもいかないし、K学院にもいかないよ」
「ってことは県外に行くの? 開成高校とか、灘高校?」
「まさか、県内に残るよ。僕のいく高校は市立のR高校。その夜間部に進学するつもりなんだ」
R高校は単位制の高校で、少しばかり曰くがある。一般の高校を中退してしまった人や、若いときに高校に通えなかった人が、大人になり高卒の学歴を手に入れるために通う高校である。とてもではないが、現役の中学生が選ぶ高校ではない。
特に、孝之のような高い学力を持つ人間が進む場所ではないのだ。ハーバードを出たエリートが就職先にマクドナルドの販売員を選ぶくらいありえないことである。
一瞬で何か曰くがあるということを、理沙は見抜いた。けれど、それをどう口に出すべきか迷った。明らかなのは、孝之が抱える背景は、『通常の中学生が持つものではない』ということ。彼は重たい十字架を背負っているのだ。
「意外かな?」若干の沈黙の後、孝之は言った。「僕はきのこ博士の家で働かなくちゃならない。それに僕自身はそれほどお金を持っていない。一般の高校に進学するのは不可能に近いんだ」
「どういうこと? 普通高校の学費って親が出すものだと思うけど。今の時代、高校にいくのは当たり前だし、その後の大学だって……」
「そうだね。それは分かるよ。でも僕にはその権利がないんだ。例えばチケットがなければ美術館に入れない。僕にはそのチケットを買うだけのお金もないし、支払ってくれる親もいない。僕にあるのは、きのこ博士の邸宅の使用人という肩書きだけさ」
「両親と一緒に暮らしてないの?」
この質問をするべきか迷ったが、結局、理沙は尋ねた。すると、孝之はノートや教科書をしまいながら、机に座り込んだ。
「うん。僕には両親がいなんだ。いわゆる私生児というというやつ。親は誰なのか分からない。けれど、そんな僕の境遇を不憫に感じてくれたきのこ博士が、僕を受け入れ、雇ってくれたんだ」
「普通は養子として迎え入れると思うけど、孝之君の場合は違うみたいね」
「きのこ博士には二人の子供がいるからね。まぁ子供といっても、どちらももう大人だけど」
そう言い、孝之は訝しそうな顔を浮かべる。
「きのこ博士は有名なきのこ学者でしょ?」理沙は言う。「なら、莫大な遺産があるんじゃないの? それを使って進学したらいいじゃない」
「遺産の基本的な分配は妻が五〇%、子供五〇%。僕には関係ないよ。それに今きのこ博士の家では、この遺産の関係でギクシャクしてるんだ」
遺産を巡り、遺族が対立する。それは決して小説の中だけの話ではない。多すぎる遺産は人の心を変え、時として殺意を芽生えさせる。横溝正史の『犬神家の一族』が理沙の脳内に流れる。佐清という仮面の人間が再生されて、その姿がどういうわけか孝之と重なった。
「なんだか大変ね。テスト前なのに。遺産なんて残すべきじゃないわ。全部寄付したらいいのよ。それか、本当に大切な人に渡すべき。孝之君は頭がいい。あなたの頭脳に投資することがベストな選択だと思うのに」
理沙は決して慰めるために言ったのではない。事実、そう思ったのだ。孝之ほどの秀才が単位制の……、それも夜間の高校に進学するなんてことは日本の将来にとっては痛手だ。決して、R高校を否定するわけではないのだけれど。
「遺産は僕には関係ない」
暗く淀んだ声で、孝之は言った。もちろん、すぐに理沙は答える。
「遺産?」
「うん。遺産があり、遺書があった。きのこ博士は机にメモを多く残しているからね。それを見てしまったんだ。それにきのこ博士は不審死だった」
「きのこ博士。不審死だったの?」
理沙の知っている限り、きのこ博士の死はニュースになったが、それほど詳しい死因が紹介されたわけではない。葬儀も密葬で、速やかに行われたようだ。
「そう不審死。普通は司法解剖をするところだけど、そんなことにはならなかった」
「まるで推理小説ね。それでどうなったの?」
「解剖医の数が少なくて、解剖は行われなかったんだ。検視で心不全であるということになった。メモが残されていて、万が一、不審死だと遺産は通常通り相続されなくなるみたいなんだよ。そうなると困る人がたくさんいるんだ。誰も司法解剖は望まなかった。もう、遺体は火葬されてしまったから、真相は闇の中。僕らの住むK県では監察医制度がないから、司法解剖が行わなければ、そのまま遺体は火葬されてしまう」
監察医制度を知っている辺り、孝之はかなり真剣にきのこ博士の死を調べたのであろう。そのことは理沙の心を強く捉えた。
「真相が闇の中じゃ色々と不審ね」と、理沙。
……数秒の沈黙。
その後、孝之は言った。
「うん。でも、特に何か証拠があるわけじゃない。ただ、勘というか。きのこ博士は死の数週間前から体調が悪かったんだ。謎の頭痛や手足のしびれがあったみたいだったよ」
「そうなんだ」理沙は答える。「でもきのこ博士って高齢よね。あたしにもおじいちゃんがいるけどたまに病院へ行ってるわ。あたしのおじいちゃん、一二〇㎏を越える巨体なの。孝之君はフェル博士って知ってる?」
「フェル博士?」
学校一の秀才、明日戸孝之であっても、ギデオン・フェル博士の存在は知らなかった。そこで、理沙は懇切丁寧にフェル博士がいかに凄い探偵で、知識人なのかを説明する。その話を孝之は淡々と聞いていたが、最終的にそれがディクスン・カーという推理小説が生み出した架空の探偵であるということを知り、肩をガックリと落とした。孝之が知っている探偵は、精々、明智小五郎程度である。
「理沙ちゃんはそのギデオン・フェル氏の曾孫なの? ってことはクォーター? いや、違うか。それよりも架空の人物なんだから、曾孫なわけないんだよね」
混乱する孝之。どう話を合わせていいのか分からないのである。小さな男の子が戦隊モノのヒーローに憧れ、その話をあたかも現実のことのように話す仕草と似ている。つまり、理沙に対してちょっと普通じゃない感覚が浮かび上がった。理沙はサンタを信じる歳ではない。分別のつく子供だ。たとえ、思春期の真っ只中だとしても。
「精神的な曾孫よ」理沙は得意げに言う。「日本の推理作家、清涼院流水さんの小説に出てくるロンリー・クイーンっていう探偵は、有名なエラリー・クイーンの孫って言う設定なの。ほら、著名な人物の孫っていう設定は結構あるでしょ」
「うん。金田一少年の事件簿とかね。『じっちゃんの名に懸けて』っていう台詞が有名だよね。僕は読んだことがないけれど」
「ねぇ、今回の事件、解き明かしてみない?」
理沙は心の底から津波のように、興味が襲ってくるのを感じた。時期はテスト期間であるが、そんなことは頭の中に入らなかった。今彼女を支配しているものは、不審な死を遂げたきのこ学者。きのこ博士の死因を特定することだけ。それにすべてが注がれている。
「でも」孝之は眉根を寄せる。「難しいよ。問題なのは、きのこ博士の子供たち。ええと、二人いるんだけど、彼らが事件を掘り返すことを極端に嫌っているということだよ」
「どうしてかしら?」と、理沙。瞳はキョトンとしている。
「簡単さ。言っただろ、不審死だった場合、遺産は通常通り相続されない。そんなことは二人にとってあってはならないこと。それに奥様だって……」
奥様というフレーズが理沙の耳にこびりついた。二〇一〇年代の日本で、それも中学生が、『奥様』なんていう、歴史の片隅に忘れ去れたような言葉を使うとは思わなかったのである。孝之は変わっているし、多分普通の中学生が経験しないようなことをたくさん経験しているはず。
『使用人』『不審死』『遺産』
どこまでも推理小説的だと思えた。
「奥様ってどういうこと?」
と、理沙は興味深そうに尋ねる。二重の目が細くなり、孝之の瞳を見つめている。
対する孝之は、これを言っても良いのだろうかと、少し思案した後、結局は理沙を信頼し、言葉を発した。
「奥様。つまり、きのこ博士の配偶者のことだよ。全身麻痺で動けないんだ」
「全身麻痺?」理沙は鸚鵡返しに口を開く。
「うん。全身麻痺で首から上が辛うじて動き、後は右腕が少し動かせる程度なんだ。きのこ博士の邸宅には僕の他にもう一人使用人がいるんだけど、その人が付きっ切りで看病をしているよ」
「使用人がお世話をしてるのね。でも子供たちがいるんでしょ? 手伝ったりしないの?」
当然の疑問を吐く理沙。孝之はフンと鼻を鳴らし嘆息した後、
「普通は自分の親の面倒を子供が診るものだよね。それが自然の姿だと思う。でもきのこ博士の家は違うんだ。裕福な家だけど、子供たちの性格は歪んでる。僕にはそんな風に思えるよ。彼らにとって必要なのはきのこ博士ではなく、彼が持つ遺産なんだ。お金がすべておかしくしてる。特に奥様の介護レベルは要介護5といって、一番重たいレベルなんだ。」
「雅子さん?」
「あ、ごめん。雅子さんは、宗田雅子といって、きのこ博士の邸宅で使用人を三〇年ほど続けている女性なんだ。僕の先輩って言えば分かりやすいかな」
「ふ~ん。雅子さんには遺産は入らないの?」
「入らないと思うよ。だって三〇年来の付き合いとはいえ、他人だと思うし。遺産分配が広がれば、奥様や子供たちに分配される金額が減っちゃうからね。奥様は介護レベルが非常に高い。だから、遺産を使って日常的に介護できる環境を整えなければならない」
「でも、子供たちはそんな風考えていない。あくまで自分たちの欲求を遺産によって叶えようとしてるってことね」
理沙は自信満々に言う。孝之はゆっくりと首を上下に振りながら答える。
「御名答。流石は名探偵の曾孫さんだね」
そう言う孝之であったが、表情は疲れている。大人同士の汚いやり取りをたくさん見てきたのであろう。彼の前に広がる現実は、通常の中学生が持つ、現実とは違う。どこまでも暗黒に満ちていて、夢や希望がなにもない。彼は優秀。それならば開けている未来だってどこまでも無限であるはずなのに、孝之にはそれがないのだ。
不憫であると理沙は考える。同時にこの事件をより良い方向に導きたい。
「遺産っていくらなの?」と、理沙。
孝之は濃霧の中うごめいているように、体をもぞもぞとさせながら、
「一億」と言った。
中学生には想像を絶する金額。
ちょうど時刻は八時を回り、クラスメイトが数名、教室内に入ってきた――。孝之と理沙の会話など、知る由もなく――。
ここで場面は校内から理沙の家へと移る。
「おじいちゃん」
学校を終えた理沙は、縁側に座りおやつである芋ようかんを頬張りながら、庭で盆栽の手入れをしている祖父、清太郎に声をかけた。
清太郎は理沙の方を向くことはなく、淡々と盆栽をいじくりまわしている。
「何かね?」
お気に入りの盆栽にハサミを入れながら、清太郎は言った。理沙はようかんを素早く咀嚼し、そして答える。
「一億円あったら何に使う?」
「一億? 宝くじでも買うのかね? あんなものは当たらんよ。買うだけ無駄ってもんだ。ジャンボ宝くじの当選確率を知ってるのかね?」
「知らな~い。一〇〇万分の一くらい?」
「惜しい。ゼロが一つ少ない。答えは一〇〇〇万分の一じゃよ」
「それって凄いの?」
「馬鹿もん。確か、紫色の瞳を持つ確率が一〇〇〇万分の一らしいんだが」
「紫。カラコンすればいいのに、紫って言うとエリザベス・テイラーが思い浮かぶけど」
「つまり、ありえんってことじゃよ。そんなことに金を使うのなら、参考書の一冊でも買いなさい。仕事でお金を貯める。それが一番近道じゃし、人道というものじゃよ」
「あたしなら、探偵小説を買うな。黒白書房の探偵小説集。それに六興キャンドルミステリーを揃えて、新青年の復刻版を買いたいし。原本でもいいかなぁ……」
理沙の夢はとどまることを知らない。
「新青年なんて馬鹿高い雑誌、わしは他に聞いたことはないよ」
そう。新青年は高い。けれど、日本の主要な推理作家がこの雑誌によって、デビューしているのである。その影響を鑑みれば、復刻版の値段が一〇〇万円を超える非常に高価なものだとしても、納得することができるだろう。
「それで」清太郎はハサミをだらりとぶら下げ、ようやく理沙の方へ視線を向けた。「一体一億なんて金がどこから出てくるというんだね?」
「遺産よ、遺産。きのこ博士って知ってるでしょ?」
と、理沙は言う。
すると、清太郎は縁側に座る理沙の許まで歩き、彼女の横に座り込む。大型の体が縁側の床を「キシリ」と鳴らす。ついで清太郎は理沙が先ほどまで食べていた芋ようかんの皿を見定める。
彼はようかんが好きであるが、肥満のため、ここ最近は控えている。食べたいものが食べられないストレスは、清太郎のような食事が大好きな人間にとって想像を絶する。たっぷりと肉のついたお腹をさすりながら清太郎はため息をついた。
「きのこ博士というのは、よくテレビに出ていたきのこ学者のことだろう。確か、この辺りに住んでいるじゃなかったかな?」
清太郎が言うと、理沙は答える。
「うん。きのこ博士が残した遺産が一億円ってわけ」
「どうしてお前さんはそんなことを知ってるんだね。新聞なんてまったく読まないくせに」
「実はね……」
理沙は自分のクラスにきのこ博士の家で使用人として暮らす、明日戸孝之のことを説明した。最初は、興味がなさそうに話を聞いていた清太郎であったが、次第にその表情が真剣味を帯びていく。昔の探偵の血が騒ぐのであろうか、彼は下あごにうっすらと生えたひげをポリポリとかきながら理沙の話に耳を傾ける。
「使用人か。それも中学生で。理沙、お前さんとは正反対を生きる人間もいるんじゃね。それに神は非常に愚かなことをされる。それだけ優秀で将来有望な少年を過酷な環境に置き、将来は探偵などになるという夢を持つ少女を悠々自適に生活させておる。こりゃ非常に理不尽であると言えるのぅ。不条理だよ」
「確かに不条理ね。カミュの『異邦人』みたいに。でも、あたしは別に悠々自適に生きてるわけじゃないわ。それにね、この遺産問題を解決しようと思ってるの? だって一億円よ。それだけのお金があれば、孝之君を普通の高校に進学させることが可能になるのよ」
「しかし、そうは問屋がおろさないじゃろうて。孝之君はただの使用人なんだろう。わしはきのこ博士が残した遺言書を知らんから、一概には言えんが、遺産は家族でなければもらえない。これは当たり前のことだ。まぁ孝之君の将来を感じ、誰かが遺産を譲渡してくれるのであれば、話は別になるがねぇ」
「そんなことはないわよ。きのこ博士の子供は遺産が目当てなんてですって」
「なるほど……」
そう言うと清太郎は遠い目を浮かべた。
彼も昔、遺産を巡るトラブルに多く見舞われたことがある。多すぎる金は容易に人の心を変えてしまう。それにより、人生が変わり、平凡だった日常が地獄のようになった人間たちを数多く見てきた。
財産など本当は残さない方がいいのである。本当に残された家族のことを思うのであれば、すっぱりとどこかに全額寄付し、そして死んでいくのがベストだ。少なくとも清太郎はそう考えていたし、自分にはほとんど遺産はないが、残して死んでいくとは考えていなかった。盆栽だけは残しておいてもいいかもしれないが。
「理沙」清太郎は呟く。「あまり首を突っ込まんほうがいい。お前さんは中学生だ。中学生なら中学生らしい生き方があるじゃろう。遺産問題という大人の世界を覗くことはせんでもいい。わしは反対じゃね」
「孝之君の将来がかかってるのよ。それでも無視できる?」
なるほど確かに、孝之の将来のことを考えれば、助け舟を出してやりたいという気持ちになるのは分かる。しかし、あくまでも孝之は他人だ。他人の子供を清太郎が引き継ぎ、育てることはできない。非常に不憫な話であるが、孝之を救うことは清太郎にはできない。もちろん理沙にも……。
「能力のある子なんだろう。その孝之君という子は」と、清太郎。
「うん。だって学校で一番頭が良いんだもん。将来は東大よ。きっとね。でも今のままじゃだめ。せっかくの頭脳も、単位制の高校なんていったら鈍っちゃうし、衰えちゃうわ。それって凄くもったいないことじゃないの」
「うむ。だが、定時制に進むから、将来が絶望に包まれるわけじゃないじゃろう。どんな道でも必ず答えはある。渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』ではないが、人はどこでも花を咲かせることができるんじゃよ」
なかなか納得しない清太郎の態度を見て、理沙はだんだん腹が立ってきた。子供にも人権はある。それは当然だ。理沙の血は沸騰するくらい熱くなった。孝之が抱える絶望的な背景が、まるで自分の身に降りかかったことであるかのように、怒りが沸いてくる。
同時に、これ以上清太郎と話しても無駄であると思えた。床に置いたようかんの皿を持ち、理沙は足早に台所に引っ込んだ。そしてその後、
(まずは行動を起こさなきゃ)
と、念じながら、学校の制服から、動きやすい軽装に着替える。
洗いざらしたゆったりとしたデニムに、白の麻のブラウス。年頃の女子とは思えない簡素なスタイルである。彼女の場合、服を買うお金があるのなら、推理小説の一冊でも買い揃えたいと思ってるのだ。そのおかげで、理沙の部屋の本棚は推理小説でいっぱいになっている。読むペースが買うペースに追いつかない。完全に蒐集家になっているのだ。
理沙が向かう先はきのこ博士の邸宅である。
きのこ博士がこの界隈に住んでいることは知っているし、彼の家は何度かテレビで紹介されているから、この近くに住んでいる人間であれば、それがどこにあるか容易に察しがつく。
時刻は午後四時を迎え、春と夏の中間のような空が広がっている。決して天気ではないが、雨が降ることはないだろう。理沙は足早にきのこ博士の家に向かって自転車を飛ばした。
きのこ博士の家はやや大きめな家だ。決してきのこの形をしているわけではないし、明治の富豪、渡辺金蔵が建てた二笑亭のように奇妙な家でもない。がっしりとした洋館風の邸宅である。
玄関にはグッと張り出した大きなポーチがありトビラも大きい。トビラの脇にはたくさんのきのこが置いてあり、きのこ博士のきのこ好きを踏襲しているかのようであった。黒い木製のトビラには、今時珍しいノッカーがついている。但し、ライオンの口ではない。
(結構大きな家。どうやって入ろう)
一介の中学生である理沙がこの家に入れる可能性は少ない。なら、孝之に会いに来たということにすればいい。それならきっと家の中に入れてくれるだろう。
そうこう考えていると、ちょうど、玄関から一人の人物が出てきた。
年は四〇代前半。若干髪が薄くなりはじめた壮年の男性である。少し急いでいたようで、玄関の前に立つ理沙のことを見つめた。
「何か用かね?」
声は低かった。それ同時に訝しいものが含まれている。明らかに不審を抱いている声。それにプラスして、どこか嘲るような口調であり、理沙はそれを聞いただけで、自分が決して歓迎されているわけでないことは容易に察することができた。
「あの」理沙は緊張から口ごもる。「孝之君、ええと、明日戸君いますか? あ、あたし同じクラスの臺理沙って言います」
「孝之の友達かい? 孝之なら家の中にいるよ」
と、言い、壮年の男性は玄関の脇にある液晶モニターのついたインターフォンを押した。すると、中からこれまた壮年の女性が出てくる。エプロンをつけたいかにもお手伝いさんという風貌をしている女性である。
理沙はその女性を見て、彼女が孝之と同じ使用人であると察した。
「どうかされましたか。悟様」
女性は言った。淡々とした鉄のように固い声だった。
「この子、孝之の友達らしいんだ。案内してあげてよ。俺はこれからちょっと出る。今日はそのままマンションへ帰る」
「かしこまりました」
女性は丁寧にお辞儀をし、悟という男性を見送った後、
「孝之のお友達ですか?」
と、声をかけた。
「ハイ」理沙は言う。「ええと、雅子さんですよね?」
自分の名前を言われた女性は酷く驚いたようである。
「私のことを知っているんですか?」
「ええと、孝之君から聞いたんです。それで知ってるんですよ」
「そうですか。ここで話すもの疲れますから、どうぞ中にお入りになってください。孝之もきっと喜ぶでしょう。普段はお友達などまるで尋ねてきませんから」
雅子は理沙を邸宅の中に入れる。
大きな玄関をくぐると、一本の長い廊下が見える。左右に部屋が二つずつあり、左側の二部屋は雅子の部屋(奥側)と孝之の部屋(手前側)だ。右側の部屋は食堂とリビングが一緒になっており、トビラが二つある。
廊下の壁には、油絵の抽象画が見事な額縁に収まり、展示されている。理沙の家には絵画なんてまったくない。あるのは清太郎が大事にしている盆栽くらいだろう。あまりに違いすぎる生活環境に、なかなかついていくことができなかった。
廊下の奥には階段があり、上にのぼることができるが、雅子はそこまで案内することなく、理沙をリビングまで案内した後、テーブルに座らせ、その後孝之を呼びに消えていった。
リビングは広く、三〇畳ほどの空間である。理沙の家が丸ごと入ってしまうのではないかと錯覚させる。室内は古今東西のきのこがたくさん置かれている。壷に入ったものもあるし、プランターに入ったものある。写真に撮られ、額に納められたものもあるし、きのこの絵画もある。何だかよく分からない部屋。しかし、整理の途中なのか、やや乱雑な印象を受ける。
どこかしら煩瑣なのである。恐らく、この先処分されることは目に見えている。きのこばかりの部屋はやはりどこか異常であると感じる。アウトサイダーアートではないが、ジョルジュ・デ・キリコの描いた形而上学的絵画のような不安感を与える。
恐らく五分ほどであろう。理沙が部屋の中で座っていると、雅子と孝之がリビングに入ってきた。孝之は酷く驚いている。それは学友が来たから驚いているのか? あるいは他に理由があるからなのか? 判断はできない。
隣に立っていた雅子がキッチンの方へ消えていき、人数分のオレンジジュースを出してくれた。綺麗に光るガラス製のコップ。そのコップはきのこの絵が描かれている。
「ど、どうしたの?」
オドオドと孝之は言った。彼の驚きは当然であろう。しかし、理沙は冷静さを保ちながら、
「朝話してくれたでしょ。遺産のことよ」
遺産。その言葉を聞き、孝之の顔が強張る。同時に、雅子の目が獲物を狙う鷹のように鋭くなった。もちろん、この変身に理沙は気づかない。
――二――
二〇一五年 五月一日――。
舞台はきのこ博士の事件。その一ヶ月前に遡る。場所はきのこ博士の邸宅。通称きのこ館。その離れである。
老齢の彼女はいつもと同じように、窓の外の風景を見つめていた。
自分はまるで、鳥かごの中に収められた哀れな鳥のように思える。ブロイラーだってもっとマシな生活を送っているかもしれない。それなのに、自分はこんな奴隷でもありえないような生活を送っている。
確かに金はある。彼女は今までそれほど無駄遣いをしてきたわけではないから、七〇歳を越える今、周りの七〇歳に比べれば、遥かに貯蓄はあるのだ。それに、有名な夫の存在もある。安泰であることには間違いない。しかし、その安泰が彼女にとっては地獄のように感じられた。
老齢の女性、彼女は二階堂小夜子。きのこ博士の妻である女性。妻といっても、世間一般が考える妻のようなことをしてきたとは到底思えない。自分の人生は何であったのか? 振り返ると疑問ばかりが蘇る。
若くして学者として成功したきのこ博士は、日本のきのこ業界の中ではぴか一の権威である。その特徴的な性格や人間性から多数のテレビ出演を重ね、学者ではありえないほどの財産を築いた。だから今、小夜子はこうして悠々自適に暮らしていられる。
もちろん、今までがずっとそうだった。しかし……。
再び小夜子は窓の外を見つめた。窓の外には、机にしがみ付くきのこ博士の姿が見える。きのこ館は少し特徴的な造りをしていて、母屋と離れの二つの住居に分かれている。離れにいるのが小夜子。離れはそれほど大きくはなく、一〇畳ほどの一室が二つあるだけである。その部屋のうち、一室を小夜子が使い、もう一つは物置となっている。
小夜子の部屋は角部屋だから、大きな窓が二つある。一つは二m近くあり、もう一つも一mほどあるのだ。二mほどある窓辺には大きな介護用のベッドが設置されていて、その上に四六時中小夜子は眠っている。
彼女は寝たりきりの存在。週に二度、マッサージ師がやって来て、寝たきりになった体を動かしてくれるが、それ以外は大抵眠っている。冬眠中の熊のように。生活のほとんどは自分ではできない。彼女にできるのは右腕を辛うじて動かすことと、首を僅かに動かすことだけなのだから。
食事はほとんど摂らない。まったく食欲はないし、まるで楽しくない。だから点滴による栄養摂取を行っている。いわゆる高カロリー輸液というものだ。故に、ベッドの横には常に点滴とその台が置いてある。細長い銀色のフォルム。そこには細長く映った小夜子が映り、太陽に光が当たり、日光を砕いている。
「今日はお天気ですね」
不意に声が聞えた。ここに来る人間は決まっている。
さきほど言ったとおり、週に二回来るマッサージ師の女性と、もう一人。このきのこ館の使用人、宗田雅子である。きのこ館にはもう一人の使用人、明日戸孝之という人間もいるが、彼はあまりここには立ち寄らない。なぜなら、小夜子が拒否しているからだ。この離れはごく少ない人間たちしか足の踏み入れない聖域。かなり独特な場所になっている。
雅子の問いに、小夜子は答えなかった。雅子が自分のことを見下していると察しているからだ。これは雅子が考える勝手な思い込みであるかは分からない。彼女は幻覚や幻聴を聞く統合失調症ではないし、寝たきり状態であるが、精神はしっかりしている。むしろ逆に、狂ってほしいと思うくらいだ。
確かに今日は天気がいい。窓の対面には母屋が映り込み、そこには仕事に精を出すきのこ博士の姿が辛うじて見える。
小夜子のいる離れから、きのこ博士の書斎が窓を通じて見える。この配慮はきのこ博士が行ったものである。彼は動けなくなった妻の容態を鑑み、常に自分の目に映るところにおいておきたいと察したのだ。
それはきのこ博士が持つ優しさが見せる愛情なのか? それとも他に理由があるからなのか? 真実を小夜子は知っている。しかし、それは誰にも言わない。ただ、胸の中にしまっている。思春期の少女が、想い人に対し、自分の気持ちを告げないように。
(あのきのこ狂いが……)
と、小夜子は念じる。小夜子にとってきのこ博士は夫であるが、同時に狂った人間であると捉えていた。自分ときのこ。どちらを取るかといったら、きのこを取る。それがきのこ博士であると考えていたのである。事実、彼は寝たりきりになった小夜子を離れに移動させ、使用人の雅子に介護させ、自分は仕事に精を出していた。
文句は言えない。小夜子がこうして寝たきりの生活を送っていられるのも、きのこ博士の稼ぎがあるからである。国からの支援があり、あらゆる介護のサービスが受けられる小夜子であったが、生活のほとんどはきのこ博士の財力に依存していた。
「カーテンを閉めましょうかね?」
人を食ったかのような声が聞える。忌々しい使用人だ。小夜子はそう感じる。
「いいわ。そのままにして頂戴」
と、小夜子は答える。すると、雅子は言われたとおり、カーテンを閉めずに窓辺に立ち、覗き込むように小夜子のことを見つめた。その表情はどこか自分の方が上であると言われているような気がして、小夜子は吐き気を催すくらい嫌になった。
「もう用はないでしょ。早く出ていきなさいよ」
「点滴を変える必要がありますから」
そこで、小夜子は点滴に目を向ける。自分の命を繋ぐ高カロリーの輸液がもう僅かしかない。
在宅介護の場合、医師から訪問介護の指示書を処方してもらい、訪問の看護師が点滴の交換にやって来る。そのようなサービスが訪問介護では当たり前だ。要介護5のレベルである小夜子は介護保険を使い、訪問の看護師によるサービスを受けることが出来るが、彼女はそうしなかった。なぜなら、雅子が看護師の資格を持っているからだ。そのおかげで、点滴のことはすべて雅子に任せてある。月に一度、息の掛かった医師が診察にやってくるが、それ以外のときは雅子が介護を行う。
日常生活の世話。そして下の世話まで。
それは小夜子にとって屈辱である。いっそのこと、残った右腕の力を振り絞り、高カロリー輸液の管を抜き、自害したい。そう考えるのだ。しかし、それすらできそうにない。彼女には精々点滴台に触れ、僅かにそれを動かす程度の力しかないのだ。
つまり、死にたくても死ぬことすらできない。これでは植物状態の人間と変わらない。いや、むしろ植物状態よりも性質は悪い。意識がある分、生き地獄である。意識があるのに、体は動かない。それは地獄よりも恐ろしいこと。そんな生活を小夜子は五年ほど続けている。
「換える必要はないわ」
小夜子の言葉を聞き、一切動じることなく雅子は答える。
「それでは死んでしまいます」
「私は死にたいのよ。あなたには私の苦しみが分からないでしょう」
「いいえ。分かります。小夜子様。私にはあなたの苦しみがどれだけのものか」
「ならこのまま私を死なせて頂戴。もうこんな生活はコリゴリなのよ」
「小夜子様が亡くなれば、きのこ博士は悲しみますよ。それに悟様や健様だって」
雅子は親しみを込めて主である二階堂由紀嵩、『きのこ博士』という愛称で呼ぶ。それはきのこ博士も公認であるし、小夜子も知っている。また、『悟』と『健』というのは、小夜子の息子たちである。悟は今年四〇歳、健は三十七歳になる。どちらも壮年の男性で既に結婚している。
「悟や健ですって、あの子達が悲しむわけないでしょう。あの子たちにとって必要なのは、私の……いいえ、夫の遺産よ。遺産相続のことを知らないわけじゃないでしょう」
「そんなことはありませんよ」
「あの子たちは私に死んで欲しいと願っているはずよ。夫の遺産は妻に五〇%、子に五〇%ですからね。けれど、私が亡くなれば遺産がもらえる額が増える。それはあの子達にとって嬉しいことでしょう。大分生活に困っているようだからね」
悟は数年前に立ち上げた事業が上手く行かず、苦しい生活を送っているし、健は憧れだった大学教授にはなれず、売れないライターとして生計を立てている。それでもきのこ博士は決して二人を助けたりはしなかった。大人になったら自分の事は自分でする。それがきのこ博士の考えだったからである。
悟も健も至れり尽くせりの教育を受けてきたため、学歴や社会的な地位は申し分ない。背中を押すことはしてきた。後は、自分の力で世界を動かすだけなのだ。しかし、悟も健も秘密裏にきのこ博士の遺産を目当てにしていた。それはきのこ博士も感じていただろうし、小夜子も察している。溢れ出るオーラが物語っているのだ。
いくら寝たきりの小夜子であっても、いや、寝たきりだからこそ、鋭敏にそのことを感じ取っていた。
「とにかく死なせて頂戴。後生だから」
と、小夜子は言う。それもかなり真剣に。もういつ死んだって構わない。
不謹慎な話だが、今ここで、関東大震災クラスの地震がきても構わないし、まったく謂れのない事件の犯人に仕立て上げられ死刑を求刑されてもいいと思っていた。
――三――
同日。つまり、二〇一五年 五月一日――。
場面は変わり、きのこ博士の書斎。
母屋である。そこにはきのこ博士がおり、ちょうど使用人の孝之がコーヒーを届けにきたところであった。きのこ博士の書斎は常にお香が焚かれている。きのこ博士が好きなのは白檀。サンダルウッドだ。甘い東南アジア系の香りが室内を覆っている。
孝之はこのニオイが意外と好きであった。どこかホッとする香りであるし、リラックスできる。だからこそ、きのこ博士の書斎にいくことを心の片隅で楽しみにしていた。
コーヒーをマホガニーでできた書斎机の上に置く。机の上にはざっくばらんと書類や原稿。書物などが散らかっている。きのこ博士は今年七十一歳になる。つまり、世間一般から見れば、とっくにリタイアしている年齢。毎日図書館に通っていても、毎日、釣りに精を出していても、毎日、縁側から黙って風景を眺めていても、なんらおかしくはない。
そんな悠々自適な生活を送ることができるのである。事実、大学の教授はとっくに引退していたし、今では研究をしているわけではない。彼がやるのは、時折訪れるきのこに関する書物の製作、あるいは意見を求められたときの対応。あとは後任の人間の論文を読んだり、過去の自分の著作をまとめたりすることだけ。
それにプラスしてテレビ出演の依頼があれば、それを受けたりする。仕事のほとんどは道楽でやっているといっていい。きのこに魂を売ったきのこ博士にとって、きのこに関する仕事であれば、なんだってやっていたい。そう思っているのだ。
時刻は午後三時――。
ちょうどおやつ時だ。とは言ってもおやつなど食べない。砂糖をひとかけら入れたコーヒーを飲むくらいだ。コーヒーだって丹念にドリップされたコーヒーではない。安物のインスタントコーヒー。それで十分だった。
きのこ博士は孝之が持ってきたコーヒーに口をつける。カップは備前焼で、数年使っているので、どこか鈍く輝いて見える。本当にいい焼き物は永く使えば使うほど、生き物のように変化していくのだ。きのこにも似たようなことが言える。毒のあるきのこだって……いや、毒のあるきのこの方が外見は素晴らしい。きのこ博士はそう思っていた。
「孝之」
ふと、幼年の使用人の名を呼ぶきのこ博士。
それに対し、入り口の前でお香のニオイを嗅いでいた孝之は、俊敏に背中をピンと伸ばした。その仕草を見る限り、師匠と弟子という関係のようにも見える。完全な主従関係ができあがっていた。
「何か御用ですか?」
特に用ということではなかった。ただ聞きたいことがあったのである。
「お前さんはいくつだ? 確か十五だったかね」と、きのこ博士。
「よく御存知で。今年十五歳になります」
「なら受験生ということだろう。高校はどうするんだね?」
「単位制のR高に進学し、ここで使用人を続けようと思います」
K県の高校について詳しいことをきのこ博士は知らない。ただ、孝之が成績優秀であるということは知っている。同時に、そのような成績優秀者が進む高校として、R高は相応しくないということも察しているのだ。秘密裏に調べていることを、孝之は知らない。もちろんこの二階堂家の誰もが知らない。
「普通の高校に進む気はないのかね?」
「そのようなことはありません」
「どうしてそんなことを言う。お前さんはまだ十五歳。子供じゃないか」
「ハイ。それは分かっています。けれど、僕には両親がいません。ですからそれほど裕福ではないのです」
きのこ博士は心の中で頭を擡げた。この若い使用人はまだ十五歳であるというのに、自分の未来が暗黒に満ちていることを察している。鈍い頭痛が襲う。最近頭痛や腹痛が酷い。歳の所為だろうか? いや、なんとなく原因は察している。きのこ博士はコーヒーを一気に飲み、頭痛を抑えようとした。しかし、頭痛は治まるどころか一層痛みを増している。
「どうかされましたか?」
と、孝之が言った。彼は意外にも細かいところに気づくのである。すでに五年以上使用人として生活している。日本では考えられないことであった。孝之にとって使用人としての生活は居候の身としては当然であると考えていた。
この世界には両親を失った子供のための施設がある。いわゆる孤児院というものだ。その場所がすべて悪いわけではないが、孝之はきのこ博士の邸宅で暮らせるほうが、何倍も……何十倍もマシであると考えていた。
「いや」きのこ博士は答える。あごひげをさすり、酷くなる頭痛に耐える。「お前さんは単位制の高校に進む。それでこの邸宅の使用人として暮らす。それでいいのかね? やりたいことはないのかね?」
その問いに対し、孝之は目を細めた。
担任教師から耳にタコができるくらい聞いた言葉だ。どうやら年頃の若者は、高齢者を納得させるだけの夢を持っていなければならないようだ。そんな世間の風潮が孝之には合わなかった。別に、ジャンヌ・ダルクやチェ・ゲバラのように革命を起こしたいわけではない。
夢なんてない。ただ、毎日を暮らすだけで良かった。少なくとも孝之はそう考えている。
「僕にはよく分かりません。ただ、いずれはどこかに就職するかもしれませんが……」
「お前さんが普通の高校に行きたいと望めば、私はそれを叶えてやることができるんだよ。お前さんはなぜ望まない? なぜ普通に生きたいと考えないんじゃ? 私はお前を見ていると、時折怖くなるよ。若い癖にどこか年寄りじみた考えをするし、夢や希望を持っていない」
「夢や希望を持ってもそれが叶わなければ意味はありませんよ」
あっさりと孝之は言う。それは自分の人生を諦めているようにも聞えた。両親がいないということが、ここまで孝之を冷たい人間に変えてしまったのだろうか?
「両親に会いたいかね?」
徐にきのこ博士は言った。
孝之は直立不動のまま、質問に答える。今まで自分の両親について考えたことはある。いくつも眠れぬ夜を過ごしてきた。
だが、会いたいかといえば『?』が浮かぶ。普通、子供は両親が育てるものだ。しかし、どういう経緯があったのかは知らないが、孝之の両親はそれを放棄した。と孝之は考えていた。きっと、何か深い理由があったのだろう。
「別に会いたいとは思いません」
ドライな対応。本当に同じ血の通う人間であるか怪しくなる。ブラム・ストーカーの畢生の大作『ドラキュラ』に出てくる吸血鬼、ドラキュラ伯爵のようにも感じられる。孝之からは思春期の少年がみせる溢れ出る希望や夢といったことが一切感じ取れないのだ。
いたく老成し、達観した考えを持ち、自分の道をできることとできないことで二極化し、その道が無理なのであれば簡単に放棄する。そんな人間なのだ。彼をこのように育ててしまったのは自分の責任でもある。きのこ博士はそう考えていた。
「僕は……」孝之は続けて言った。「両親がいません。ですが、こうしてきのこ博士の邸宅で暮らすことができるんですから、それで十分なんです」
「そうかね」きのこ博士は答える。頭痛が一層激しくなり、これ以上話すのが苦痛に感じられた。「私は少し一休みするよ。コーヒーをどうもありがとう」
「最近調子が悪いようですが、大丈夫ですか? やはり、お医者様に診せた方がいいのではないでしょうか? 雅子さんもそう言っています」
「医者かね。私は医者が嫌いなんじゃよ。それに頭痛や腹痛があるくらいだ。お前さんのように若ければ話は別だが、わしのように七〇歳を越えれば誰だって体のどこかに不調をきたすもんじゃよ」
きのこ博士はそう言い、机の上に広がった書類や書物をまとめ、その後、よろよろと立ち上がり、入り口前にある香炉の中で焚かれているサンダルウッドの火を消した。その時、書斎机の窓から外を見つめた。
窓の先には離れが見える。そこには妻である小夜子が眠っている。全身が麻痺し、右腕しか動かせない屍のような人間がそこにいる。点滴の柱に日光が当たり、細い光となってきのこ博士の書斎に注がれている。
細い光を見ながら、きのこ博士はゆっくりと室外へ出て行った。
一人残された孝之は机の上に置かれたコーヒーカップを手に取る。そして、部屋の中を一瞥する。
書斎の大きさは一〇畳ほど。左右の壁には、年季の入った収納棚が設置されており、書物や古今東西のきのこが飾られている。中には毒々しいものもあり、部屋を異様な雰囲気に仕立て上げるのに一役買っている。書斎机の上にもきのこが乗っている。
『ドクツルタケ』『シロタマゴテングタケ』『ニセクロハツ』といった毒きのこである。きのこ博士が持つきのこたちは毒きのこが多い。きのこ博士が毒きのこに深い愛情を注いでいることは、孝之でも分かった。但し、その理由は分からない。間違った使用法をすれば、たちまち凶器に変わる毒きのこ。そんな危ない代物に愛情注ぐきのこ博士。
(大丈夫だろうか?)
と、孝之は考えた。彼はきのこ博士の体調が刻一刻と悪くなっていることを察している。いくら七〇歳を越える老齢の男性であっても、この数週間で愕然と体調が悪くなることがありえるのだろうか?
末期の胃がん患者は調子が安定していると、長く生きる場合があるが、一度体調が悪化すると、その死は素早く忍び寄り、あっという間に命を奪ってしまうのだ。
きのこ博士ががんであるかは分からない。しかし、日本人の死因のトップは悪性新生物。つまり、がんなのである。きのこ博士は医者嫌いであり、ここ数年、いや数十年医者にいっていない。得体の知れない病気にかかっていてもおかしくはない。孝之はそれだけが心配だった。
しかし、不幸にも彼の心配は的中することになる。いいことは起こらないくせに悪いことだけは的中する。パンを落とすとバターを塗った面が床に落ちる。そう、マーフィーの法則のように……。
二〇一五年 五月二十三日――。
その日、きのこ博士は、かつてないほどの不調を経験していた。仕事は手につかず、体は鉛のように重たい。いや鉄といってもいいかもしれない。地球の重力が変化してしまったかのように錯覚する。
きのこ博士は誰にも言わなかったことがある。それはこの不調の根源が何であるか? ということだ。彼にはおおよそ察しがついていた。それが自分が受けなければならない罰であるとも感じている。だからこそ、きのこ博士は何も言わなかった。机の上には書き散らかした書類の山ができている。既にやるべきことはやった。もう、命など惜しくない。
徐々に気が遠くなる。お香の白い煙がやがて深くなり白檀の匂いも感じ取れなくなった頃、きのこ博士はゆっくりと目を閉じた――。彼が目覚めることは永久になかった。
最初にきのこ博士の異変に気づいたのは、どういうわけか孝之であった。彼はなんとなく悪い予感を察し、ふときのこ博士の書斎に立ち寄ったのである。
室内は白檀の香りが充満している。室内に入ると、少し頭がふらついた。あまりのニオイで立ちくらみが起こったのだろうと、孝之は感じた。
「きのこ博士」
と、孝之は言った。なぜ呼んだのだろう。目の前に突っ伏すきのこ博士は、どう甘く見積もっても正常であるとは思えない。歯車は完全に止まっている。そんな風に感じる。事態を重く見た孝之であったが、しばらくは動けなかった。御伽噺の中に足を踏み入れてしまったような感覚が、全身に伝わる。冷たい水が血管を流れるイメージ。
「きのこ博士。大丈夫ですか?」
再度、孝之は言った。反応がないことは分かっている。しかし、それでも言わなきゃならないと感じていたのである。というよりも、体を動かすことが容易ではない。呪縛、魔法にかけられたのだろうか。次の一歩がまるで出てこない。
数秒の沈黙を経て、ようやく孝之は動いた。そして、微動だにしないきのこ博士の体に触れる。それは躯。すぐにそう察した。きのこ博士は死んでいるのである。疑いようがない。遺体はまだ体温が残り、死後硬直も死斑も出ていない。恐らく死後数十分というところだろう。
なぜ、このようなことが起きているのだろうか? 自殺……。否、数週間前から謎の体調不良を訴えていたではないか。それが原因なのだろうか。そんなことを考えている場合ではない。この状況は自分だけで判断し、解決できるレベルのものではない。人を呼ばなくては。孝之が考えたのは、同じ使用人、雅子を呼ぶことであった。
雅子はちょうどキッチンで夕食の準備をしていた時刻は午後五時。窓の外はまだ明るい。そんな時、血相を変えた孝之が入ってくる。その姿を見て、雅子はすぐにただならぬ雰囲気を感じ取った。孝之は酷く老成したところがあり、普段はあまり驚いたり、叫んだりすることはしない。感情を忘れたロボットのような人間なのだ。
「ま、雅子さん」
孝之の声は震えている。こんな声は聞いたことがない。
「どうかしたの?」
鍋の火を消し、雅子は翻る。孝之の声はきのこ館で、得体の知れない事件が起きたということを、まざまざと語っているように思えた。
「きのこ博士が……。きのこ博士が死んでるんです」
「え?」
きのこ博士が死んでいる。
確かに孝之はそう告げた。孝之は冗談を言うタイプの人間ではない。仮に、そのようなタイプの人間であっても、主が死んでいるというジョークは、あまり喜ばれる言葉ではないだろう。雅子は眉根を寄せ、どう切り出すか迷っていた。
「雅子さん、どうしたら良いんですか?」
今にも泣き出しそうな孝之の声が、雅子の胸を貫く。できの悪い彫刻のように固まり、雅子は何とか口を開き、声を出す。
「死んでるってどこで?」
「書斎です」と、孝之。
「今すぐ行きましょう」
二人の使用人は、きのこ博士の書斎に向かった。すべては夢、孝之の妄想であってほしい。しかし、現実は甘くなく、孝之がきのこ博士の躯を発見したときと同じ風景が書斎には広がっていた。
「きのこ博士大丈夫ですか?」
白檀の香りが充満する室内をサッと横切り、雅子は素早くきのこ博士に近寄る。きのこ博士の顔色は白く、完全に絶命していると見えた。一体何が起きている? 雅子の脳内はパニックになる寸前であった。
「きゅ、救急車を呼ぶべきですか?」
少しずつ冷静になった孝之は、そう助言したが、雅子にはどう言うべきか分からなかった。こんな異様な事態を経験したことはない。過去にいくらかの修羅場は経験している。しかし、体が鉛のように動かなかった。この状況は……、
(あの時以上かも知れないわ)
既に絶命しているきのこ博士を見て、雅子は警察と救急車を呼ぶことに決めた。救急車を呼んだところで、きのこ博士が蘇ることはないだろう。
――四――
午後六時――。
救急車が到着し、さらに警察がやってきた。既にきのこ博士は絶命している。そのため、救急車にきのこ博士が乗せられることはなく、警察の捜査が入った。やってきたのは近くの交番の人間。きのこ博士は突っ伏し倒れている。自殺の可能性は少ないが、交番の人間がどうこうできるような次元の話ではない。
そこでK県の刑事が派遣され、事件を指揮することになった。午後七時には捜査が始まった。やってきた刑事は早乙女という壮年の男性で、きびきびと部下を動かし、捜査を始める。孝之と雅子は警察署の取調室に呼び出されることになった。
今まで、警察に厄介になったことのない孝之であったが、彼は持ち前の冷静さを取り戻しつつあった。その態度がいささか中学生離れしていたので、取調べを担当した早乙女は、ひどく訝しがった。
「君がきのこ博士の部屋に入ったとき、きのこ博士は死んでいたんだね?」
取調室は狭い。K県の警察署はそれほど広くないのだ。六畳ほどの空間に簡素な木製の折りたたみ机。そして年季の入ったパイプ椅子。窓は入り口のトビラから見て対面の壁沿いに、小さなものが設置されている。既に日は落ちて、蛍光灯の明かりだけが、虚しく取調室を覆っている。
「そうです」孝之は答える。「僕が入ったとき、きのこ博士が机に突っ伏して倒れていたんです」
「それは何時ごろか覚えているかね?」と、早乙女。机にはメモ用の紙とペンが置かれている。
「多分、五時少し前だと思います」
「今、遺体を調べている。部下の話を聞く限り、きのこ博士は死んでから間もないということだった。少なくとも君が発見する三〇から六〇分前に死んだのだろう」
「僕を疑っているんですか?」
「まさか。遺体は綺麗なものだ。刺された痕もないし、索状痕もない。他殺の線は薄いよ。きのこ博士は老齢で医者嫌いとして有名だ。何らかの病気を患っていた可能性も否めない」
「きのこ博士はここ数週間、謎の頭痛や腹痛、そしてだるさを感じていました」
「なるほど。なら死の兆候はあったわけだ」
「多分ですけど」
孝之の取調べはすぐに終わった。その後呼ばれたのは、同じ使用人である雅子。早乙女は室内に入ってくる雅子のことを見て、この女が何かを隠している可能性があるとすぐに見抜いた。しかし、それは事件と関係のあることなのかは判断できない。
雅子がパイプ椅子に座り、早乙女は簡単な質問から始めた。
「大変な一日でしたでしょう」
「ええ」雅子は言う。声は神妙で顔も絶望に満ちている。「きのこ博士はどうなるんですか?」
「事件性がないとなれば、一般的な遺体の処理と同じですよ。葬儀を行い火葬する。それだけです」
「事件性があると刑事さんは考えているのですか?」
「今のところなんとも言えませんな。だが、私は事件性がないように感じます。とはいってもきのこ博士という著名人が亡くなったのですから、不審死を疑わなければなりません。今、鑑識がきのこ博士の書斎を調べていますが、あなたはどうお考えですか?」
雅子は口ごもる。きのこ博士には遺産がある。つまり、今回の死を受けて、得する人間がいる。きのこ博士の妻である寝たきりの女性『小夜子』そして、二人の息子である『悟』と『健』この三名には莫大な遺産が転がることになるだろう。
「遺産を巡っての殺人かもしれません」
と、雅子は言った。全身から憎しみや苦しみが湧き出るようであった。
「遺産ですか」早乙女は言う。「確かにきのこ博士クラスの人間であれば、遺産があっても不思議ではありませんね」
「ええ。そのとおりです。事実、遺産が入ることを心待ちにしている人間もいるのですから」
「ほぅ。それは誰ですか?」
「これは私が言ったということにしないでほしいのですが」
「大丈夫ですよ。遺産を巡って遺族が対立するのは、決して珍しいことではありませんし、私はここで得た情報を外部に漏らしたりはしません。安心してください」
すると、雅子は嘆息し、姿勢を前傾にさせ、ひそひそと囁くように声を出した。その姿は近世の貴族の使用人。その言葉がピッタリと当てはまる。
「きのこ博士には二人の息子さんがおります。長男の悟様。そして次男の健様。この二人です。二人とも慢性的にお金に困っており、きのこ博士の許によくやって来ていました。きのこ博士は二人が来るたびに、叱りつけていたんです」
「金を貸していたということですか?」
「いえ、お金は貸していなかったようです。きのこ博士は金銭の貸し借りを嫌う方でしたから。家族や知人、その他の方にもお金を貸しているということは聞いたことがありません」
「しかし、今回のきのこ博士の死により、二人の息子さんには莫大な遺産が相続されることでしょう。つまり、今回の事件で得をする人間がいるということです。これは事件のニオイがしますな。いずれしても悟さんや健さんの話を聞く必要があるでしょう。……あぁそうだ、奥さんはどういった方なんですか?」
「奥様は、小夜子様は今回の事件には無関係です。それは間違いありません」
雅子の口調がはっきりとしてきた。怒りと悲しみが入り混じる独特な声質であったが、平静を保っている。対面に座る早乙女はクロスのボールペンをコツコツと規則的に机に当てた。
「どうして」早乙女は尋ねる。「事件に関係ないとお考えなのですか?」
すぐに雅子は答える。
「簡単です。小夜子様は全身麻痺なのです。介護レベルが要介護5の寝たきりの老人ですから。あの方にはとても殺人なんてことはできません」
「全身麻痺ですか」
「正確に言うと、首が少し動き、右腕が動きます。ですが、重たいものは持てませんし、本を読む事も難しいはずです」
「ふむ。それでは殺人は難しいですな。今回の件が殺人であればの話ですが。きのこ博士と小夜子さんの夫婦関係はどうですか?」
「関係ですか、一般的な夫婦関係だと思います。きのこ博士は介護をすることはありませんが、きちんと定期的にお医者様を呼び、介護の環境も素晴らしいものを取り入れていますから」
「なるほど」
嘘は言っていないようであった。きのこ博士と小夜子の関係は良好。というよりも、長年連れ添った関係である。どこか歪んでいても不思議ではないが、早乙女にはそうは思えなかった。彼の推理力や勘は大したことはないが、この時、雅子の言葉を鵜呑みにしたことは、早乙女にとってアインシュタインの最大の汚点『宇宙項』と同じくらいあってはならないことであった。この時、彼はそれに気づかないのではあるが。
雅子の取調べは終わる。時間にして一時間ほどであった。禁煙志向により、署内ではタバコを吸うことができない。立て続けに取調べを行ったので、ヘヴィースモーカーである早乙女はタバコが吸いたくてたまらなくなった。
時刻は午後七時半。次の取調べは悟。部下の話によれば今こちらに向かっているとのことであった。同様に次男の健も向かっている。一般企業に勤める悟と、フリーライターに近い存在である健。
いずれしても小休止したい。そう感じた早乙女は一人、いそいそと喫煙所に向かった。署の裏口から出た一角に喫煙所はある。四畳半ほどの狭い空間。傍目から見ると牢獄に見える。ここまで露骨に喫煙者を締め出さなくてもよいと思えるが、事実、この国の喫煙者の人口は減っている。昭和四〇年の男性の喫煙率はなんと八十二%を越えるが、それが今では三〇%を下回る勢いなのである。
時代は変わった。もはや喫煙者は風前の灯。ここまでいうといささか言い過ぎであるが、筒井康隆氏の『最後の喫煙者』のような時代がやってくるのかもしれない。
ダンヒルの六㎎のタバコをゆっくりと吸い、紫煙を鼻から吐く。『マルタの鷹』に登場するハンフリー・ボカードに憧れてタバコを吸い始めた早乙女。もう三〇年以上も昔の話。喫煙所には誰もいなく、薄暗くなった室内に明かりを灯し、しばらくの間、物思いに耽っていた。すると、部下である人間が喫煙所に入ってきた。
警察署。特に刑事部の人間の喫煙率は高い。ストレスが溜まる部署であるからであろうが、一般社会に比べても郡を抜いて多いのは間違いないだろう。部下はタバコを吸っている早乙女に軽く会釈をして、セブンスターに火をつけた。
「お疲れ様です」
と、部下は言う。煙を吐きながら、早乙女は答える。
「あぁ、ごくろうさん。今日は遅くなりそうだな」
「きのこ博士の件ですよね。事件性がありそうなんですか?」
「まだ分からん。だが、きのこ博士は以前から体調が悪かったらしい。それで突然ぽっくり逝っちまった可能性はある」
「多額の遺産が絡んでいますからね……。殺人ってこともあるかもしれませんよ。でもそれはないか……。あぁそうだ、遺言書が発見されたって知っていますか?」
「なんだと!」早乙女の怒鳴り声が轟く。「私はそんなことを聞いてないぞ。誰が言っていた?」
「鑑識です。というよりも複数発見されたようですよ。正式な物を弁護士が持っているそうです」
「複数ってどういうことだ?」
「それが不可解なんですけど、遺言書は複数あるそうです。条件によって開示される内容が違うみたいですよ。きのこ博士は研究者でありながら論文や書籍を出版されていますよね。つまり、作家でもあるんです。けれど、PCはほどんど使わずに、手書きで原稿を書いていたようです。それで、たくさんの書き直しや初稿の原稿など、すべて残してあったらしいんですよ。だから家族連中は遺書の存在を知っているはずです。口にはしませんが」
手書き作家が原稿をすべての原稿を残しておくのは珍しい話ではない。PCで原稿を書く作家にも同じことが言える。書くという作業は苦痛が伴う。一見すると、楽に見えるが実はそうではない。圧搾機で油を搾り取るように、精神力をゆっくりと搾り取られるのだ。だから、自分が書いたものには魂が宿る。そんな風に感じるものである。
自分の書いた原稿は子供のようなものだ。多くの作家が書きかけの原稿から、アイディアをまとめたメモ、そのほか初稿原稿から完成原稿、あるいはコピーした原稿、それらすべてを取っておくのである。
きのこ博士はどうやら遺言書を書いていたようで、その書類も何枚を残されていたらしい。遺言書があるということは、自殺の可能性もあるのではないか? 早乙女はそう感じ、二本目のタバコに火をつけた。
「遺言書か……。君はどう思うかね?」
と、早乙女は煙を鼻から出しながら、部下に尋ねる。ダンヒルのタバコはあまり売っていない。それでも紳士のブランドということで、彼はこのタバコを何十年と吸っている。それを部下も知っている。部下は燃えるタバコの先端を見つめながら、質問に答えた。
「自殺かも知れないってことですか?」
「そうだ。遺言書があるんだからな。遺言書にはなんて書いてあったか分かるか?」
「それが結構不可解らしいですよ」
「不可解?」
「ええ。自分が死んで、それが不可解な死であれば、遺産は一般的な流れで相続されないと書かれていたらしいです。あくまでメモに記載されていたことらしいですが」
「一般的な流れ? それはつまり、遺産分与のことか? 通常なら妻の小夜子に五〇%、長男の悟に二十五%、健に二十五%だろう。それが変るということかね?」
「詳しいことは弁護士が知っているらしいです。ええと、三千院とかいう初老の弁護士ですよ」
「三千院……。そうか。ご苦労」
早乙女がそう言うと、タバコを吸い、缶コーヒーを飲み干した部下は足早に出て行った。遺書の存在、そして不穏な遺書。これは何か事件なのか? 心がグッと重くなる。
時刻は八時を回り、ちょうど二階堂悟が到着した。
再び早乙女は自分のデスクに向かい、そこで部下が押収したメモ書きのコピーを見ることになる。
『遺言書
遺言者の死が不審であり、捜査の結果、殺人であると判明した場合、遺産は通常通りに相続されない。
詳しい内容はK県の弁護士であり、遺言者の知人である三千院 勉氏にすべてを一任している。
三千院氏の指示があるまで、遺産は誰も相続することができない。
平成二十七年五月一日
住所:K県K市中央区二番地十三町目八号
遺言者:二階堂 由紀嵩 印』
その遺言書はどこまでも不審に見えた。
早乙女は今年五〇を迎えるベテランの刑事。既にキャリアは三〇年近くある。しかし、メモ書きだが、こんな遺言書は初めて見た。これが法的に有効なのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、遺言書の書かれた日である。
五月一日。そしてきのこ博士が亡くなった日が五月二十三日。つまり、二〇日ほど前に遺言書が書かれたことになる。となると、事前にきのこ博士は自分の死を予期していたのだろうか?
それ以外にも、今回の事件には何か隠されているのであろうか? 次に早乙女が手に取ったのは、きのこ博士の死亡推定時刻、そして死因が書かれた調査書であった。
死亡推定時刻は、第一発見者である明日戸孝之がきのこ博士の室内に入った午後四時から遡ること一時間前。午後三時前後であることが判明した。詳しい死因は心不全であるとされている。
だが、この死因も一概に鵜呑みにはできない。度重なる事件の頻発により、解剖医の抱える事件数は多くなり、一体をじっくりと検体することが難しいのである。それゆえに、よほどのことがなければ、綿密に解剖されることがない。きのこ博士の事件も同じであった。『高齢』『事前の不調』このようなことを鑑みれば、突然死神が目の前に現れて、命を……、まるで米を刈り取るように奪ってもおかしくはないのだ。
「なるほどねぇ……」
早乙女は誰に言うでもなく呟いた。今日はまだまだ帰れそうにない。酒が恋しい。こういう日は上等のスコッチを飲み、何もかも忘れてゆっくりと布団に入りたいものだ。そう考えながら、疲れた体に鞭を打って彼は取調室に向かった。
二階堂悟は痩身であり、黒に青地のピンストライプが入ったスーツをまとった男性であった。シャツはくたびれていて、ネクタイを外している。仕事帰りのサラリーマンのという言葉が完全に当てはまる。夕暮れの新橋あたりの居酒屋でも行けば、このようなサラリーマンを多く見かけることができるだろう。
頭が少し薄くなっていて、堀の深い顔立ちがどことなくきのこ博士を髣髴とさせる。若干オドオドと揺れる瞳。弱々しい男。それが早乙女の感じた第一印象である。
「お忙しい中、御足労いただきありがとうございます」
と、早乙女が言うと、悟は引きつった笑みを浮かべた。無理矢理作った笑顔であることが十分に読み取れる。
「いえ。構いません」と、悟。
「あなたに来ていただいたのは、きのこ博士の死が不自然であったためなんですよ」
「不自然ですか?」
「ええ。遺言書の存在は知っていますか?」
「知っていました。メモ書きがありましたから。しかし私はあまり認められていませんでした」
「認められない?」早乙女は目を細めて尋ねる。「どういうことですかな?」
「まぁ、そのなんというか」悟の声が小さくなる。アフレコで声を当てて欲しいくらいだ。「恥ずかしい話、事業に失敗しましてね、それで今、首が回らないんですよ。だからといって、親父をどうこうしたわけではありません。それは信じてください」
「ですが、遺産が入れば相当楽にはなるでしょう。きのこ博士には莫大な遺産があるようですから。失礼ですが、今日の午後三時から四時にかけて、何をされていましたか?」
「午後三時ですか、ああ、ちょうど会社で打ち合わせをしていましたよ」
「打ち合わせですか、となればそれを証明できる人はたくさんいるということになりますな」
「ええ。け、刑事さん、まさか私を疑っているんですか?」
「落ち着いてください。決してそういうわけではありません」
取り成すように、早乙女は告げる。しかし、悟はそうは捉えなかったようである。びくびくと小動物のように動き、事態を見守っている。その姿は罪人のようには思えないが、どこか奇妙に見えた。恐らく、自分でも疑われることを察しているのであろう。それだけの理由があるのだ。
彼は自分が手がけた事業が失敗していると告げた。慢性的に金に困っているのということは、二階堂家の使用人、宗田雅子も言っていたことである。
「そ、そうですよね」やや落ち着き払い、悟は言う。「私にはアリバイがあります。何かこうアリバイというと推理小説を思い出しますが、会社の同僚に聞いてください。皆、私が午後三時から四時にかけて打ち合わせをしていたと証言してくれるはずです」
「そうですか」と、早乙女。
軽くメモに書き取る。このメモ書きの癖は決してアインシュタインやレオナルド・ダ・ヴィンチの影響ではない。もっと近くの人間の影響なのである。それも既に引退した名探偵。彼の癖を真似ているにすぎない。
「遺言書の話を進めましょう。当然ですが、遺言書の意味は知っていますよね?」
早乙女はゆっくりとタバコの煙を吐くように、息をついた後、そのように尋ねた。遺言書という普段の生活ではなかなか聞き慣れないフレーズが出て、若干ではあるが、悟の表情が曇る。しかし、そのくぐもった中には、どこか期待と羨望の色が浮かび上がり、誰が見ても遺産を当てにしているということが容易に理解できた。
「もちろん」悟は恥ずかしそうに言う。「知っています。親父の遺産について書いてあるんでしょう」
「察しが宜しいですな」と、早乙女。「そのとおりでありまして、遺産について書かれています。しかし、通常の遺言書とはちと違うのですよ」
「ええ。そのようですが」
「今回のきのこ博士の死。それが事件性のあるものであれば、遺産は通常どおり相続されないと書かれているのです。詳しいことは、きのこ博士が信頼をおき、遺言書の管理を依頼した三千院勉という弁護士の先生が知っているようです。この方の存在は知っておられますかな?」
「詳しくは知りません。しかし、親父の知り合いに弁護士がいることは知ってます。恐らくその方でしょう。けれど事件性があるって、刑事さん、教えてください。今回の親父の死は、まさか殺人ということを言いたいわけじゃないでしょう」
殺人――。
刑事になり、三〇年のキャリアがある早乙女であるが、その言葉は何度聞いても嫌なものである。人が人を殺す。この行為は何があっても許されるものではない。早乙女は昔、永山則夫という死刑囚の手記を読んだことがある。彼は生い立ちから殺人を犯すまでの人生があまりにも悲惨で、事件を起こしても仕方のないように思えた。
殺人鬼として、そして死刑囚として監獄に入れられた後、永山は自分の無知を知り、たくさんの書物を読み、そして書いた。まるで、自分の起こした愚かな行為を書くということですり減らすように。『無知の涙』という作品にはそんな永山の心境が書かれている。
とはいっても、殺人は決して起こしてはならない。遺族の苦しみを嫌というほど見てきた早乙女。泣き崩れる母親。バラバラになる家族。引き裂かれる愛情。そして、地獄のような苦しみ。
人は……、死ぬから尊い存在である。誰もが生きる権利があり、それを奪うことは許されない。たとえ、どんな理由があっても。江戸時代には敵討ちという制度があったが、実際には、敵討ちの成功率は高くなかったようである。復讐するだけ無駄なのだ。死は不幸の連鎖を巻き起こし、それまでの世界を一変させる。つまり、誰であっても起こしてはならないのだ。
それが、早乙女の持論である。取調室に、固く不穏な沈黙が流れる。どこまでも居心地の悪い空気。それを破るために早乙女は口を開いた。
「殺人という可能性はあります」
「殺人だったらどうなるんですか?」と、悟。その声は不安を増している。
「遺産の相続の方法が変わるのでしょう。そう遺言書に書かれているのですから」
「もしかして、私に遺産が入らないということですか?」
「その可能性も十分にあるでしょう。今の段階では何とも言えませんが」
「殺人のわけありませんよ。そんなこと、あるわけがない」
自分を鼓舞するような言葉を吐く悟。彼にとって、きのこ博士が持つ遺産が入るか入らないかという問題は、死活問題である。今後の人生が大きく左右されるのだ。それだけに、彼の遺産に関する執念は凄まじいものがあった。
同時に遺言書の内容を知っているようである。
「きのこ博士に恨みを抱いているという人物に心当たりはありますか?」
と、早乙女は言う。机に置いたメモに、『遺産』『重要』と走り書きをする。
「恨みですか」考え込む悟。「分かりません。親父はそれほど交流関係が広いわけではないのですが、テレビ出演が多かったでしょう。ですから、よく分からない人物と関係があっても不思議ではありませんよ」
「よく分からない人物?」
「ええ。例えばテレビ関係の連中ですよ。彼らは視聴率のためなら何でもしますし、親父のことを面白おかしく撮ることにかけては天才的ですからね。本当の親父はあんな無神経で粗野な、典型的な癇癪持ちの学者ではないのですよ。もっとしっかりとした分別のある紳士です。それは息子である私が良く知っています」
「そうですか。しかし、ここでは質問に答えてください。恨みを持つ人間がいるのかいないのか? はっきりさせましょう」
「い、いないと思います。私の知っている限りでは、親父は人間関係でトラブルを抱えるようなことは。きっと、今回の事件も殺人ではありませんよ。私はそう信じています」
殺人であれば、遺産が吹き飛ぶ可能性はある。悟はそれを重々承知している。だからこそ、なんとしても今回の事件を殺人として認めるわけにはいかないのだ。彼の口調を聞く限り、その態度がありありと感じ取れた。
当の早乙女は判断を決めかねていた。彼はきのこ博士がどのような人間か知らない。だが、予想では一般的な人間であると察している。恨みを抱くようなことはしていないだろうが、人は聖人ではない。もちろん神でもない。
インドの偉大な政治指導者。マハトマ・ガンジー。彼はノーベル平和賞に何度も候補になる有名な活動家であるが、全裸の女性を抱いて眠るという奇行があった。それに行き過ぎた菜食主義。ガンジーは子供が病気に苦しんでも、決して肉や卵、栄養のある食事を与えなかったというのは有名な話である。
つきつめて何が言いたいのかというと、どんな人間であっても弱点があり、叩けばホコリは出てくるということである。きのこ博士にも誰にも言えないような真実が隠されていてもなんら不思議ではない。それが『ヒト』というものだ。三〇年にわたる長き刑事生活の中で、早乙女はそう感じていた。
「分かりました」と、早乙女。「またこちらから連絡を差し上げることになるでしょう。お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします」
悟の取調べは終わる。
彼に対する印象は会う前と会った後で、それほど変わったわけではない。遺産を欲しているのは明らかだし、今回の事件を早く終了させて、早く無事に遺産を相続させたいと願っているのは簡単に読み取れた。
時刻は午後九時――。
遅すぎる晩飯(コンビニのおにぎり、カップラーメン)を摂った後、今日最後である取調べを始めることになる。二階堂健氏が到着したのである。
健も悟と同様、堀の深い顔立ちをしているが、かなりメタボリックな体型をしている。背はそれほど高くはないが、太っているので、大柄に見える。でっぷりと張り出したお腹。そして若干猫背のように丸まった体。話によればライターということであったが、売れない大道芸人。そんな風に見えた。
格好は青と黒のチェック柄のシャツにベージュのJKを羽織っている。下はデニムパンツで黒のアディダスのスニーカーを履いている。どことなく、とっちゃん坊やの雰囲気がある。少なくとも、一般的なサラリーマンのようには見えない。
取調室に入った健は、悟とは違い、沈着であった。物怖じしない性格なのかも知れない。ただ、表情は疲れていて、早くこの場から立ち去りたいという空気を放っている。
「どうぞおかけください」
机の前で立ち尽くす健に向かって、早乙女は優しげに声をかけた。
「意外です」と、健。声は低くなく、中性的な響きがある。
「意外? どういうことですか?」と、早乙女。彼は目を丸くした。
「刑事ドラマだと、取調べはきつそうな描写がありますから」
「ええ。事実、きつい場合もあります。担当する刑事によって違いますね。安心してください。私の取調べは、無理に自白させたり、長時間に及んだりするものではありませんから」
「それならよかったですよ。どうも取調べというと緊張しますし、あまり行きたくはありませんからね。それでどういうことなんでしょう? 警察は父の死を殺人だと考えているんですか? だから僕を呼んだんじゃないですか?」
「いえ。まだ殺人と決まったわけではありません。その可能性は薄いですよ」
「父は恨みを持たれる人間ではないと思います。僕は父の交流関係を知りませんが」
「きのこ博士は遺言書を書かれているのです。それをこれから説明しましょう」
と、早乙女は言い、風変わりな遺言書の内容を告げた。
淡々と聞いていた健であったが、遺産が相続できない可能性があると察すると、露骨に青ざめた表情を浮かべた。彼もやはり、人の子である。遺産が欲しくてたまらないというのは簡単に見てとれる。
彼もまた、他の人物同様、遺言書の内容を知っている可能性が高い。
自分自身ではそれを隠しているつもりであるが、隠しきれていない。
「今日の午後三時から四時にかけて、あなたは何をなさっていましたか? いいえ、どこにいましたか?」
早乙女はメモに『遺産』『重要』と走り書きをしながら尋ねた。健は頭をかきながら、
「ぼ、僕ですか。刑事さん、僕の仕事は御存知ですよね?」
「ええ。伺っています。ライターをされているんですよね」
「そうです。本当は学者か教授になりたかったんですがね、なかなか上手くいきません。それで、アリバイですよね」
健はそう言うと、持っていたメッセンジャーバッグの中からA6サイズの手帳を取りだす。人工皮革の手帳。そして、予定を見直すと、
「今日の午後三時から四時にかけては、△△社で打ち合わせですね。もちろん、確認してもらって構いません。絶対に嘘ではありませんから」
と、自信満々に告げる。健の言動を聞く限り、嘘ではないだろう。
「そうですか」早乙女は言う。「もちろん疑っているわけではありません。ただ、事実を整理したいだけなので、あまり心配なさらないでください」
「ならいいんですが……」
「先ほど、きのこ博士に恨みを持つ人間はいない。と仰いましたね。あれは事実でしょうか?」
「ええ。恐らくですけど。父の交流関係は知りません。えっと、弁護士の知り合いがいるということを、母が言っていたことがあるような。でも母は、その」
不意に健は口ごもる。訝しいものを感じた早乙女はデスクの上に広げてある資料から、家族関係に関するものを取り出し、それを見つめる。そこには寝たきりであるきのこ博士の妻、二階堂小夜子氏に関するデータが載っていた。まだ、取調べをしたわけではない。小夜子は寝たきりのため、警察署に来ることができない。よって、警察側から訪問するしかないだろう。
「確か」早乙女は言う。「お母様は寝たきりだとか」
すると、疲れきった表情で健が答える。
「ハイ。そのとおりです。かれこれ五年ほど寝たきりなのです」
「どうしてそのようなことになったんです? 宜しければお聞かせ願えませんか?」
「構いません。実は最初はただの風邪でした。少なくとも、家族は皆そう思っていたんです。しかし、運悪く風邪の菌が脳にいってしまい、その結果神経が侵され、寝たきり状態になってしまったのです」
「それは不幸な話です。それで五年、寝たきりであるということですか」
「この先ずっと寝たきりですよ。母は」
「小夜子さんは話せるのですか?」
「話せます。ほとんど話したがらないですがね。それに首から上が少し動き、後はリハビリで右腕が辛うじて動くんです。それでも食事をすることは難しく、大抵の介護を使用人である雅子さんが行っています」
そこで早乙女は雅子のことを思い出す。
早乙女はデスクの上に埋もれているメモ帳に、『右腕』とだけ書き記し、今回の取調べを終了させることに決めた。
時刻は午後一〇時を回っていた。
刑事の仕事は多忙である。他の仕事はしたことがないが、恐らく数ある職種の中でもトップクラスに忙しいだろう。誰もいなくなった喫煙所で、一人ダンヒルをふかしながら、早乙女は物思いに耽っていた。
J・J・マリックという推理作家の小説に『ギデオンの一日』というものがある。ギデオンというのは刑事で、彼の一日を追った小説だ。数ある事件に巻き込まれ、刑事という多忙な仕事の一日を感じ取ることができる。
今回の事件は殺人なのであろうか? 少なくとも、悟も健もそうは考えていない。彼らは遺産が入ることを心待ちにしている。恐らくではあるが、今日、二人が言ったアリバイは正しいものであろう。あそこまで自信満々に言うのである。間違いはない。となると、二人は事件の容疑者から除外してもいいかもしれない。
二本目のタバコを吸い終わると、喫煙室のトビラがばっと開いた。視線を金魚のように動かし、入り口を見つめる早乙女。入ってきた人物は自分の部下である人間。くたくたになったスーツ。そして第一ボタンを外したピンストライプのシャツ。全体的に疲れているように見える。いや、事実疲れているだろう。全身から負のオーラが垣間見える。
その姿を見て、早乙女は不思議とおかしくなった。自分たちはこんなに疲れてまで、何をしているのだろう。そんな風に感じたのである。
「お疲れ様です」と、部下は言う。すぐにセブンスターに火をつけて、背中をヤニで汚れた壁に押し付ける。「取調べは終わったんですよね」
「ああ」無難に早乙女は答える。「たった今な。そっちはどうだ?」
「私はきのこ博士の家の捜査と、奥さんの話を少し聞いてきました」
「小夜子さんの話か。確か、彼女は体が麻痺しているという話だったな」
「はい。あの人は事件には関わりはないでしょう。口数も少ないですし、人生は既に終わったものだと考えていますよ」
「ん、どういうことだ?」
「人生に絶望を感じているということです。そりゃそうですよね。首から上しか動かないんですから」
「右腕も動くらしいが」
「動くといっても、我々が言う『動く』というレベルではないですよ」
と、言い、部下は右腕でタバコをゆらゆらと動かした。
奇妙な動作を見ながら、早乙女は尋ねる。
「なら、どういうレベルなんだ」
「こうやって右腕を上に掲げるくらいです。物は持てません。不憫な話ですよ」
「雅子という使用人が付きっ切りで介護しているそうだな」
「そうですね。もう五年そういう生活を続けている話です」
「きのこ博士との関係はどうなんだ?」
「決して良好というわけではありませんが、悪いような印象は受けませんね」
「今回の事件。君はどう思う?」
早乙女の言葉に、部下は一瞬硬直する。タバコの先端から赤い光が放たれ、ゆっくりと紫煙を吐く。早乙女はタバコをもみ消し、新たなタバコは取り出さず、その代わりぬるくなった缶コーヒーに口をつける、
「……私は」数秒の間があった後、部下は答える。「事件性は薄いように思えます。早乙女さんは息子さんの取調べですよね。そっちはどうだったんですか?」
「ベルリンの壁のようなアリバイがあるよ。まだ裏を取っていないが、嘘は言っていないだろう。それに皆、それとなく遺言書の内容を知ってるようだしな」
「そうですか。なら事件性は薄いですね」
「あぁ。そうだな」
こうして会話を終え、早乙女は帰路についた。自宅に着いたとき、既に十一時を回っていた。これでも今日中に戻って来られたのだから早いほうである。
三千院弁護士、それはどういう人物なのであろうか? 彼の許へ行こう。早乙女はメモ帳に『三千院』『弁護士』と書き記し、シャワーに向かった――。
――五――
二〇一五年 六月二日――。
場所は理沙の通う中学の教室。時刻は朝七時半。
教室内は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、森閑としている。登校している生徒の数は少なく、五名ほどである。後、三〇分時が進めば、静寂は破られ、通常の中学校のような雰囲気を取り戻すであろう。
五名の人物の中に、理沙と孝之の二人の姿があった。彼らは窓辺に立ち、何やら難しい顔をしながら話をしている。その格好はとてもカップルのようには見えず、どこかしら不穏なムードを醸し出している。
「警察の捜査は終わったんでしょ」
と、理沙は言った。孝之は視線を理沙には合わせずに、窓から登校してくる生徒の姿を見ながら答えた。
「うん。もうきのこ博士が亡くなってから一週間経つからね。それに警察は事件とは考えていなかったみたいだし」
「でも、孝之君はそうは考えていないんでしょ」
「分からないよ。僕の考えなんて、あくまで子供の戯言さ」
「そんなことないわよ。江戸川乱歩の少年探偵小説に出てくる『小林少年』それに横溝正史のジュブナイルに出てくる少年社員『御子柴少年』も。歳はあたしたちと同じくらいだけど、立派に捜査の役にたっているのよ」
「そりゃそうだよ。だって小説だもの。そうしなければ話が動かない。でも、僕は現実を生きている人間だ」
「遺産。あれってどうなるの?」
「話によれば、数日中には相続されるらしいよ。事件性がないとされたからね。きっと、悟さんも健さんも大喜びさ。二五〇〇万という大金が相続されるんだから」
孝之ははっきりと言った。まるで証拠を掴んでいるかのように。
「奥さんの小夜子さんには五〇〇〇万円入るのよね?」
と、理沙は訝しむように眉間にしわを寄せ尋ねた。
「そう。奥様は寝たきりだから、あまり使い道はないだろうけどね」
「それだけのお金があれば……、孝之君は自由に進学できるのにね。何か理不尽な話よね。本当にお金が必要な人にお金が渡らず、必要のない人なのにお金を得る」
「人生そんなものだよ。上手くはいかない。それに悟さんや健さんはお金を必要としている」
「理不尽だと思わないの?」
「思っても仕方ない。それに僕はあまり進学先にこだわりがないんだ。これは本当だよ」
理沙はため息をつく。どうして孝之はここまで達観した考えを持つことができるのか? それが理解できなかった。花のある高校生活を送りたいと思わないのだろうか? 良い大学に行きたいと思わないだろうか? すべてを若くして諦めてしまう孝之の姿に、理沙は不穏な印象を受ける。
時刻が進むにつれて、教室内は騒がしくなる。今日もまた慌しい一日が始まろうとしている。
「孝之君」理沙は尋ねる。「もしあなたにも高校にいけるだけの遺産が相続されるのだとしたら、あなたはどうする?」
孝之は意外そうな顔をし、
「僕に遺産。万に一つもありえない話だろうけれど……。どう使うかな? 分からない。普通の高校に通うかもしれないし、もしくは使わずに貯めておくかもしれないな」
「進学校へ行きなさいよ。それで東大に進学して、一流企業に勤めるの。そうすれば高給取りになれるから、その後恩返ししたら良いじゃない」
「良い大学へいき、その後、良い会社に入る。そんな神話はもう崩れているよ。僕はきのこ博士の家の使用人で良いさ。それにね、僕はきのこが意外にも好きなんだ。ずっときのこ博士のそばにいたからね。あの家にいてきのこを眺めている生活は悪くない」
「なら、きのこ学者になれば良いんじゃない? そのためには普通の高校に行かなくちゃ……。十五歳で夢を諦めるなんておかしな話よ。十五歳は夢を諦める歳じゃなくて、夢を追いかける歳よ」
有名な詩人が吐いた箴言のように、理沙は言った。彼女には探偵になるという夢がある。それを必死になって追いかけているのだ。だからこそ、孝之にも夢を追ってほしかった。夢を追うことは素晴らしいことだ。たとえその道に敗れてしまったとしても、夢を追わずに諦めた人生と、どこまでも追い続けた人生は雲泥の差であろう。
「そうだね……」孝之は言う。にっこりと笑い、そこでようやく理沙のことを見つめた。
ちょうど時刻は八時を迎え、教室内は活気に満ち溢れた――。
舞台はきのこ博士の館に移る。時刻は午後四時。
学校を終えた孝之はきのこ館に戻り、使用人としての仕事に精を出していた。一般的に彼が勉強をするのは午後八時以降。使用人としての仕事があらかた終わってからである。要領のいい孝之は、短い時間で集中して勉強することで、校内一の学力を維持しているのだ。
孝之はきのこ博士の自室を掃除していた。これがいつもの日課である。しかし、それも今週まで。
この館は長男である悟に引き継がれることになるようだ。悟はどうやらこの家を譲り受け、ここで暮らすことに決めたようである。だから、きのこ博士の書斎は綺麗に片付けられ、新たな主を迎える準備が進められているのだ。
棚に飾られたきのこの多くは処分された。今残っているものはほとんどない。しかし、処分されたきのこの多くを孝之は譲り受けていた。きのこ好きの孝之の気持ちを汲み、雅子が気を利かせたのである。反対する悟や健を何とか説き伏せ、きのこを孝之に渡した。
だからこそ、孝之は雅子に感謝をしていた。ありがたい人。自分のような一介の使用人である人間に対して愛情を注いでくれる雅子。彼にとって、雅子は同じ使用人でありながら、母のような存在でもあった。
しばらく室内に佇んでいると、噂を聞きつけたのか、雅子がゆっくりと室内に入ってきた。孝之の顔をみると、フッと表情が緩む。
「ここにいたの」と、雅子。孝之は茫漠と立ち尽くしながら、首を上下に振り、
「ハイ」
と、一言だけ呟く。
「今、少し良いかしら?」
「もちろん構いませんけど」
「そう、ならちょっと座りましょうか」
きのこ博士の書斎には、応接セットのソファが置いてある。普段ここに足を踏み入れる客人は少ないため、ソファは新品のように輝き、鎮座している。孝之も雅子もそこソファに座り込む。使用人が故主のソファに座るという、ちょっと不可解な一幕となった。
座り心地のいいソファ。革張りで恐らく一〇万円は越えるであろう代物。孝之は少しだけ緊張し、背中を預けることはせずに、やや前傾姿勢のまま、雅子のことを見つめる。対面に座る雅子は、まるでソファは自分のものであるかのように、自然体で座り込んでいる。表情は明るいのか、暗いのか良く分からない。
しかし、孝之のことを見る目は、どこか心配そうに見える。母親が子供に見せる愛情のような色。
「今」雅子は静かに喋り始める。「テスト期間なのかしら?」
「いえ」孝之は答える。「テストは来週です。でも、今はテストに向けた勉強をしています」
「あなた、進学先はどうするの?」
今日は進学先についてよく聞かれる。日中は理沙に聞かれ、家に着いたら雅子に聞かれる。皆、自分のことを心配してくれる。自分自身、孤児であるのにもかかわらず、ここまで自分のことを気にかけてくれる存在がある。その事実に、孝之は嬉しくなった。体が軽くなり、どこか夢のような気分になる。
「進学先ですか」孝之は言葉を継ぐ。「前にも一度言ったかもしれませんが、単位制高校のR高へ進もうと思います。もちろん使用人としての生活は続けますよ」
その後、孝之は詳しく自分の進路について説明する。雅子は孝之の言葉、まるで仙人が言う説法を聞くかのように真剣に耳を傾けている。孝之が話し終わるなり、雅子は少しくぐもった顔を浮かべ、言葉を発した。
「あなた、それで良いの?」
「ハイ」孝之は頷く。「僕はそれで十分です。あ、それと、きのこありがとうございます」
「別に構わないけど、どうしてきのこなんて欲しいの?」
「きのこが好きなんですよ」
きのこの処分は二階堂家が困っていた一つである。それを孝之がほとんど譲り受けた。悟も健も遺産以外に興味はなかったし、妻である小夜子もきのこなど必要としなかった。故に、孝之の許にきのこが転がり込むことは、そう難しいことではなかった。けれど、悟も健もきのこを孝之が相続することに怪訝な面持ちを浮かべていた。
きのこの中には毒きのこもあり……、いや、きのこ博士は毒きのこを中心に蒐集していたといっても過言ではない。その毒々しい佇まいに惹かれたのか、きのこ博士は五〇種類を上回る数の毒きのこを持っていた。その内の一〇種類程度を孝之は譲り受けていたのである。
毒きのこというものの、食すわけではない。ただ、飾り愛でるだけである。それならば、決して毒に犯されることはないだろう。そのように雅子は考え、孝之のために骨を折ったのだ。
「本当に良いの?」雅子は心配そうに言う。「あなたはまだ十五歳なのに」
その問いに、孝之は答える。柔和な笑みがこぼれ、歳相応のあどけない顔が広がりを見せる。
「もちろんですよ。僕はR校に行きます。それで十分なんです。自分のペースで勉強し、働きながら、きのこを蒐集する。そんな生活が理想です。クラスメイトも良い高校に進み、その後、良い大学へいく。そして良い会社に入れば良い。そんなことを言われましたけど、僕はそれが幸せであるとは思えない。自分にとっての幸せは、日常生活にきのこがあり、そしてある程度暮らしていけるだけのお金があれば、十分に叶うものなのです」
「どうしてかしら、あなたって本当に欲がないのね。誰に似たのか分からない」
「僕には両親がいません。だから一概には言えませんが、両親はきっと勤勉だったのかもしれません。ああぁ。それなら、僕を捨てたりしないか……」
「そうね。あなたは、いえ、なんでもないわ。でもね、孝之君、もし一般高校に進学したいのであれば、私に言って頂戴。なんとかしてあげることができるから」
「どうして雅子さんは僕にそこまでしてくれるんですか?」
すると、雅子はグッと黙り込んだ。心配そうな表情が一層曇り、ゆっくりと息を吐く。室内に静寂が流れ、二人の間に染み渡っていく。
「それはね」雅子は決意を込めたかのように言う。「……仲間。いいえ、私はあなたにとって保護者みたいな存在だからよ」
「保護者ですか」孝之は安堵したかのように「雅子さんが母親だったら良いな。ってそんなことを考えたことがあります。けれど、僕はR高で構いませんよ。今のところ、その考えは変わりません。でも不思議だな。僕のことを心配してくれる人が、クラスメイトでもいるんです。今まで話した事もなかったのに」
「クラスメイト?」
「ええ。臺理沙という人です。最近ふとしたきっかけで話すようになったんです。彼女は探偵を目指しているんですよ」
「理沙。ってことはガールフレンド?」
ガールフレンドという言葉に、孝之は恥ずかしそうに顔を背けた。自然と窓の方に視線を注ぎ、そのまま黙り込んだ。