アテナ・トゥリスの冒険
その日、アテナ・トゥリスは緊張に呑み込まれ、手に汗を握り締めていた。
人生を語るにはまだ短いがここが正念場だと何故か思った。地図を片手にする必要もないほどに有名な場所なだけあってすれ違う人々の視線も自然と自分から逸れていく。激しい時間帯が終わると一気に熱が冷めたように気配が消える。
それで緊張が和らいだわけではない。だが、全身を包み込んでいた熱気だけはとりあえず消えた。ここに来ることを決め付けるのに悩むこと数週間、覚悟を決めるのにさらに数日間、寝付けない夜が多かった。
それだけに、心身の状態はとても悪い。眠たげな目を擦っては欠伸を我慢している姿だけは、知り合いに見られたくない。
今日の目的自体はとても簡単だ。
アテナの前にはギルドがある。『星降る家』という名の国内有数のギルドの一つだ。
強力な魔術師を保有しているだけに登録希望者は後を絶たない。
そんな一人に今日、立候補する。
魔法学園の生徒の身分証明を片手に事前に手に入れた書類には書き込めるだけの個人情報を書き込んだ。
普通なら少年少女が登録するなど、許されないことだが、どうしてもアテナはここにこなければならない理由があった。
「い、いよいよじゃ……うぅ」
胃が痛い。倒れればどんなに楽だったことか。
普段のアテナならこんな場面に遭遇しても平気な顔をして乗り切ることが出来たはずだった。だが、今回は話が違う。これから行く先は十人が口を揃えて危険だというだろう。ギルドとはそういう場所だ。
ギルドに所属するもののほとんどは類稀な才能を持つ魔術師をギルドマスターがスカウトするか、自分の能力を売り込む形式の二パターンに分けられる。今回は後者に部類される。魔法学園のSクラスに所属しているといっても世界には通用しない。
アテナの個人能力は学園の定期試験の成績から大まかに理解しているつもりだ。それがどこまで通用するのかも担当教官から教えられている。
まだ早いとシュナリア教官に、何度も言われ続けた。それでも学園に通う生徒の一部にはギルド所属者がいる。瞬光の雷帝、太陽の使者、そして、月の使者。編入生として来た瞬光の雷帝は当時から、学園内でその存在を知られていたから実力者として認知していたが、他の二人、特に月の使者の存在はその強さと謎めいたことからどこかで似せていた。自然と高ぶる気持ちが知りたくて、ずっと待っていた。
そして、現実は一致した。
クロノス・ルナリア。学園を主席で入学し、いつも寝てばかりにも関わらず、文武共に優秀、しかし、アンチ料理スキルを修得しているという風変わりな男の子。
しかも、世界を震撼させた大罪人、天空の使者と血を分けた姉弟というから驚きだ。
「一歩、これを踏み出さねば……でも」
アテナは唸った。
いまの自分に正常な思考力はない。
恋は盲目とはよく言ったものである。正確には一方的な片思いによる暴走状態という情けないことになっていた。
恋愛はアテナの世代ではあって当たり前のものとなっており、一昔前のような堅い考えからなる関係から変化していた。だがその分、相手を選ぶことに対して気持ちの変動が激しい。そのせいで、男女間でのトラブルが絶えないこともしばしばあったり、なかったり、話だけを聞いていたなら不快な気持ちにならざるを得ない。
だが、それらの話を聞いてもアテナの熱は冷めなかった。
きっかけがどうだったのか、そんなことは忘れてしまった。
きっと、些細なことだったのだろう。
クロノス・ルナリア。
彼を目で追いかけていたのは、いつからだったか。
そんな彼をいつから好いていたのか。
唯一の救いといえば、他に彼を狙っている存在がいないことだ(と思いたい)。
クロノスは容姿端麗ということもあり、道を歩いていれば振り返る人もいることを先日知った。他人に興味のない彼の視線の先が気になったのは言うまでもない。
騒動が沈静化するまでの間、姿を見なかっただけでアテナの気持ちは不安に押し潰されそうになった。
恋は盲目。まるで、呪いをかけられたような鈍い痛みと鋭い痛みが交互に襲ってくるのはアテナだけのものではないはずだと思いたい。
誰もが体験するものだろう。
誰かを好きになるということで積極的に行動することが出来るのは女の子の特権だ(男の場合はただの暴走だと思うけど)。
アテナ・トゥリスにとっての初恋はそんなことで始まった。彼女にとって恋愛はどうすればいいのかわからない未知の領域であり、攻略不可能とされる分野でもあった。友人らに相談しようにも、なんだか恥ずかしくてなかなか切り出すこともできない。アピールできるものといったら料理。料理といったら彼の苦手分野ということもあり、知ったときは嬉しくて内心飛び跳ねてしまったが、披露する機会に恵まれていない。
悩むべき問題は多々ある。その中でもアテナにとって彼との間にある距離をどうやって埋めるかを必死に考えた。
そして導き出した結果、アテナはここに来る必要があると悟った。彼女にとってどうすればいいか、悩んでいるよりも行動することにしたのは自分でも信じられないことだ。
彼は学園よりもギルドにいることが多いことを、とある情報屋という名のストーカーに聞いた。それから、瞬光の雷帝に協力(とある友人の勇気ある行動の結果であってして、自分自身が望んだことではないことを主張したい)してもらったわけである。
しかし、雷帝ことグレイ・セリアの言うように目の前にきてみると自分一人では格式に圧倒されて入りづらい。
駄目だ。
俯くアテナだったが、救いの女神はそこにいる。
「そこでなにをしているの?」
アテナよりも小さな少女が見上げていた。だが、纏っている雰囲気に全身が震え上がった。
「ギ、ギルドに登録しに来たのじゃっ!」
目の前に現れた星降る家のマスター、マリア・ルーチェを前にしてぶり返してきた緊張感にアテナの意識は遠のいていった。
薄れゆく意識の中で、アテナは自分の不甲斐なさを呪うことしかできなかった。
†
4時間前。
「やだ、めんどう……絶対に無理!」
背後からの突然の声掛けに、クロノスは前もって用意していた返事を放った。
猫なで声の主、星降る家のギルドマスター、マリア・ルーチェは満面の笑みを浮かべながら舌打ちした。
しかし、表情は崩さない。
中途半端に開いていた扉を開けてマリアの部屋に入る。その手にはこれから処理する予定の紙束が握られていた。高性能シュレッダーの前に移動すると入り口に束を突っ込みスイッチを押すと軽快な稼動音と共に本日の仕事が終了した。現代社会において個人情報の機密性は年々深刻化しており、バラバラに切り裂くだけでは足りないため魔術的処理によって完全消去が一般的になっていた。
軽やかなステップを踏むように床を鳴らすマリアに対しクロノスも無音のステップで対抗する。狭い室内での追いかけっこ。見ようによっては不気味な儀式にも思える。しかし、マリアはこのギルドの長であり、クロノスはただの従業員という身分のため内心では捕まればただでは済まないことを理解していた。
気だるそうなクロノスにマリアは移動しながら作製した紙飛行機を投げた。机の上で丁寧に折られた出来栄えの紙飛行機は女性の腕力+魔術師の力量+マリア個人のお願い度を乗せて後頭部を掠めて壁を突き抜けた。時間が止まったようにクロノスが覗き込んだ奥には澄んだ青空が広がっていた。
殺される。直感がクロノスにそう告げた。
世界でも五本の指に数えられる世界最強の魔術師の一人、月の使者の異名を持っているクロノスだが持ち前の性格が仇となり時折相手の心情を読み違えることがある。
振り向くともう笑顔はそこに存在しなかった。
その直後、 揺れ動く炎を背負った一体の魔女の腕が襟首を鷲掴んだ。
ものすごい握力に影響を受けた爪の先端が首筋の薄皮を切り裂いたのを感じた。
グイっと引き寄せられると頬と頬がくっついた。ヒンヤリする色白の肌の裏側に秘められている恐ろしいほどの悪意を考えるとクロノスは地団駄を踏んだ。脱出不可能。事実上の捕獲という名の犠牲者が生まれてしまった。
「うちの書類係はいつから給料泥棒になったのかしら?」
「あ~、気持ち悪い……これは過労だ。働き過ぎだ。うん、絶対にそうだ」
だが、クロノスは諦めない。
だが、マリアの辞書に容赦という言葉はないように再度笑顔になりポケットから黒い物体を取り出すと目の前にチラつかせた。
「ここに超高性能の首輪爆弾があるけど、付けてみる? あと、お願いがあるんだけど」
以前、姉であるクロノア・ルナリアが身に付けていた超高性能首輪爆弾は装着後、マリアのタイミングで魔術的防御を無視して頭と体を分断させる恐るべし兵器だ。
その威力はデモンストレーションとして目の前で披露されたことがある。
最終兵器を取り出してくるだけ本気であることを理解した。
だが、クロノスとしては気持ちは変わらない。面倒なことは一切したくない。寝ることが唯一の至福であり、静寂と平穏を何よりも愛する身としては恒例や突発的な仕事と言うのはただの悪夢だ。いや、悪意に満ちた贈り物だとすら思う。
「いらんがな。知らんがな。逃げるがな。マリアさんのお願いでいい思いしたためしがない」
お決まりのセリフを羅列すると、マリアの眉間に一本のシワが入った。それを見て、同時にクロノスの中で覚悟が決まった。その昔、だだをこね続けた結果、あのシワ一本の後壮絶なことが起きたのを思い出していた。
「マジで? あんなこと本気でやるのかよ」
拘束から解放されるとソファーになだれ込む。言えるならこのまま眠りたかった。
「これがお願い。ギルド総動員の任務だから、あなたも参加もしなくちゃ駄目なのよ」
(あぁ、面倒だ)
顔の上に乗せられた一枚の紙の文面を斜め読みする。内容はシンプルに二文で示されていたものの、その二文の意味が厄介なものだった。
しかし、そこは女性らしい気遣いがあるということでもあった。でも、ややお節介とも言えなくもない。
任務を記憶すると紙飛行機を折ってシュレッダーに向かって投げると吸い込まれるように裁断機に切り刻まれた。
(だとすると……なにが必要か……わからんがな)
「それと、それと、これもお願いね」
「残念なことに手が足りなくて、受け取ることが出来ない。ドンマイ」
しかし、何を思ったのか今度は腹の上に 別の依頼束で山を作り上げようとする。食事前なので平らな土台ではあるが気の緩みがそのまま不安定な足場となってしまうため 身動きが取れなくなる。
「手が足りないならわたしの手を貸してあげますよ、書類係君」
ギリギリ逃げようとするクロノスの横腹を指先で押しながら、 セリュサが呆れて言った。
「あ~耳が聞こえなくなってきた。これは突発性の『これ以上は何も聞こえなくなる症候群』に違いない」
首をかしげながら両耳に手を添えるクロノス。
「あぁ、それなら注射三本でいいでしょう。ちょうど、知り合いのお医者さんから貰ったのよ」
懐からギラリと光り輝く鋭利な銀色。軽く添えられた指からは「いつでも打ち込める」という彼女の意思が込められているように感じた。充填されている薄い緑色の液体は不明。 それが三本も指の隙間に挟まれていた。
「マリアさん、彼を押さえつけてください。打ち損なったら六度痛い思いをさせてしまうので」
「太陽の使者は嫌だな~、冗談と書いて本気と読んじゃうタイプの方ですか? 恐いですね~、そんなんじゃ殿方が寄ってきませんよ」
「突発性の『何も喋れなくなる症候群』にかかってみる? ここにたまたま未承認の超即効性の危険な薬品があるけど」
今度の色は毒々しい紫色の中に相容れないのか分離している白い液体が沈殿していた。
「マリアさんに呼ばれてきてみれば、気が抜けたようにだらけているのね。今回は“とある期間内”あなたがだらけないように監視する依頼を受けたのよ」
とある期間内と聞いてマリアを見ると目を逸らされた。
それが意味していることはクロノスの頭の中にある先程の総動員の依頼のことだろう。
「別に、クロノスがしっかり働いてくれればいいのに、事が終わったら空気の抜けた風船みたいになっちゃってるんだからいいじゃない」
仕事が終わったら誰だって息抜きしたいだろう。ただ、クロノスは他人よりもちょっと
(かなり) 長いだけでどちからと言えば仕事も以前よりも積極的に行っていた。
月の使者。世界規模でその正体を秘匿されていた謎の存在。依頼人の前に姿を現しても秘密主義者のため正体を知らせることがなかった。しかし、先月に起きた音の使者、レン・リッジモンドとの戦いによってその能力と姿が世界中に知れ渡ってしまったために依頼が集中的に寄せられるようになっていたのだった。
「わかりましたよ……今回も脅迫概念に折れます。不幸だ」
「その薄ら笑いはなんなのよ?」
「いえいえ、あなたのせいではありませんから。……それにしても、この国はいまだに犯罪者が多いですね。クロノアがいるというのに、都市伝説とでも思っているのですかね。彼女に目を付けられた最後、世界規模の鬼ごっこをしても勝てないというのに、驚きでしょ。あーぁ……面倒だ。不幸だ。眠い……おやすみ」
そんな姉は現在、治まらない怒りを消化させる目的でレンを引き連れて(連れ回して)世界冒険旅行に出ている。その旅先で色々揉め事があるようだが自分と違い世界の頂点に君臨する大魔術師を心配するだけ野暮だ。
片腕をひらひらさせているクロノスに痺れを切らしたセリュサが四本の注射器を延髄目掛けて投げた。マリアの比ではない弾丸のような速度の投擲物はクロノスに刺さらずふかふかのソファーに毒液を注入した。
当人は宙に浮いていた。
「それでは時期が来るまでこの堅物とデートしてきます」
「へぇ、誰が堅物よ?」
宙で身を翻すと用意してあった衣装に着替える。全身真っ黒、それで緋色の双眸が月の使者の証だ。真似しやすいので偽者が多いのが最近の悩みというのはここだけの話だ。
指を鳴らすと踊るように依頼束がクロノスの前を1枚ずつ高速で通過した。
「堅物というのは真面目一本で、どうしようもない鰹節のような人のことですよ」
「それでは、わたしは乾物と同等って訳?」
「あ、御明察。流石、頭脳明晰。拍手~パチパチパチ――――」
そう言って依頼束を手の中に集めるとセリュサに向かって投げた。
「太陽魔術:サンブレイク」
「クロノア直伝、隠れ身の術 & レン直伝、瞬身の術+処分してくれて助かった」
「ちっ、逃げたか。では、マリアさん、また今度」
素早い身のこなしは強者であれば当然だが、使い道を誤るとどうして 格好付かないのか。
いつの間にか開いていた扉から追うようにセリュサも出て行った。マリアの索敵能力だとクロノスはすでにこの街から出ていた。
「……賑やかなこと」
マリアは黙って 扉を閉めると今度は自分の仕事に取り掛かる。
今日もこの家は忙しい。
†
「これで登録完了」
その言葉を聞いて緊張の糸が切れたのかアテナはぐったりと床に座り込んだ。
事前にグレイから内容を聞いていたからわかっていたことだが、思っていた以上に疲れてしまった。身体検査に始まり、能力検査、各種武器類や知識の確認など学園のテストがお絵描きに思えてしまった。
「つ、疲れてヘロヘロなのじゃ……」
一夜漬けの日々が報われたのを実感したくても圧倒的虚脱感は簡単に拭えない。
でも、マリアが差し出してくれた一枚のカードを見ると現実感が沸いてくる。
ギルドカード。所属ギルドを示す特別なカードは特別な鉱石を研磨して生み出されるので故意に破損させない限り新品同様の姿を保ってくれる。表にはギルドの紋章、裏には魔力を流すと浮き彫りになる個人情報が描かれていた。
「これで近づけた」
「嬉しそうね。ここに入団した人は久しぶりだから私も嬉しいわ」
甘い紅茶の香りに誘われてソファーに体を預けるとマリアから紅茶と一緒にお菓子をもらった。甘い味が薄れがかっていた頭を目覚めさせてくれる。
「ところで、アテナ・トゥリスさんには星降る家のしきたりとしてさっそく、依頼をこなしてもらいたいんだけどOK?」
食べ進めている途中でクッキーが床に落ちた。しきたり? そんな話はグレイから一切聞いてない。
内心、汗だくのアテナの気持ちを無視してマリアはテーブルの上を片付けると代わりに資料を 並べた。
「え~と、うち独自の最終試験みたいなものだから、気軽に選んでね」
◇
『一、ゼンマイ鳥の卵の調達。羽根がゼンマイのような形をしている変な鳥。卵の模様にもゼンマイの模様がある。美肌効果があるらしい。ただし、卵を見つけるまでに全身の骨が粉砕骨折する可能性大。』
『一、水色蜥蜴の尻尾の調達。水辺に生息している水に入ると透明になる珍しい蜥蜴で、尻尾を服用することで美肌効果があるらしい。探すのが困難とされている。また、蜥蜴の表面には毒があるので万が一皮膚に付いた場合、2秒以内に接触部位の付け根から切り落とさなければ死ぬ。』
『一、月光花の花粉の採取。満月の夜、山の頂にのみ咲くといわれている珍しい花。開花してから10分で閉じてしまう性質をもっている。花粉は化粧品に混ぜて使用される。使用し続けると、化粧ノリがよくなると言われている。しかし、加工せずに体内に花粉を取り込むと幻覚症状と興奮作用が十年間続くという研究結果が出ているので、生理的におススメしない。』
◇
「……どれも難しい内容(ていうか、わし……死ぬしかないのか?)じゃの。さすが、星降る家じゃ……悩む」
アテナの本心(心配)を理解できないマリアではないのだが、ここは厳しい顔で接する。
「最初は誰もがそう思うけど、この試験を突破すると、今後の依頼をスムーズにこなせるようになるのよ。難易度で選ぶなら、ゼンマイ鳥が簡単よ」
依頼内容は三つ。共通点があるとすればどれも美容関連の材料集めと言うことと死ぬ危険性が非常に高いということだ。マリアおススメのゼンマイ鳥は他に比べると全身の骨が砕けるだけでまだ安全だと客観的に見れば楽かもしれない。
「ん~、でも、ゼンマイ鳥は渡り鳥で決まった定住先がないからわしには難しいかの知れないのじゃ」
決まった方角に飛び進む渡り鳥は決まった時期にしか姿を見せない。いまの時期だと海の上を飛んでいたような気がする。
「それもそうか、アテナさんは感知に特化しているタイプではないから、鳥と蜥蜴は難しいかもね。水属性なら蜥蜴だけど、あなたは前衛タイプな気がするし」
先程の検査結果を見ながら呟く。事細かに数値化された自分のデータを見て、複雑な感情を抱きながら学ぶべきポイントを探していた。入ったからにはアテナもプロとして振舞う必要がある。得意を伸ばし、不得意をなくすようにしていかなければ活動する上で足手まといになってしまう。
この先、もしも彼と一緒に行動することになった場合、彼にだけ任せて自分は何も出来なかったらと考えると無性に悲しくなってくる。
目的を忘れるな。
どうしてこの場所に来たのか、それを忘れてはいけない。
「となると、月光花に決定ね。書類には判を押しておくから、気を引き締めていってらっしゃい」
手際よく資料を片付けるマリアに慌ててアテナは言った。
「わしは花の場所(というか、存在)を知らないのじゃ!!」
「知らなくて当然よ。月光花を管理しているのはわたしたちだけだもん。王室の人だって手続き踏まなきゃ手に入らないぐらい厳重警備よ」
マリアの言葉に、アテナの中で最悪のイメージが膨らみ続ける。
初めての試練。グレイの強さを目の当たりにしているだけにその過酷さを頭が補完するようにイメージを固めてしまう。
「場所はクロノスに聞いてね」
心が揺れる。
その名を聞いただけで顔が一気に紅潮した。
「……そ、そ、それは(あぅ、秘密にしたいのに)」
この場所にいればいつかは聞くかもしれない名をこんなに早く聞くとは思っていなかった。
そういえばこの場所にはクロノスの姉であるクロノアも所属しているとグレイが言っていた。学園で一度顔を見たことがあったがあれほど幸せを感じたことはなかった。
「このギルドで働く以上、緊張せずに交流してくれないと駄目よ」
思い出すのは気だるそうな姿。
そして、時折見せる普段は見せない力強い眼をした戦う姿。
他の誰が何を見ているのかアテナは知らないがクロノスの良い部分はたくさんある。学園外では都合が合わず(ギルドのため)に接点がなかったが式典以降外で見かけることも増えていた。それでも彼は謎だった。最強の魔術師の一人である事実があっても学園内とのギャップがそれを思わせない。
だからこそ、知りたい。
アテナも魔術師だ。自分の力量がどれほどのものか理解しているし、今後の成長具合も大まかに予測できる。それを踏まえた上で彼のいる領域に立つことが叶わない事も理解している。
それでも諦められないから苦肉の策として選んだ道だ。
「クロと喋べる……あぅ」
しかし、実際立ってみると想像以上に棘の道のようだ。
「青春よね~、それが若さってものよ。羨ましい限りだわ。でも、あれのどこがいいの?」
「それはわしにもわからないのじゃ!」
銀髪の風貌は学園内でも目立った。さらにあの態度は多くの人の眼を惹きつけ、それを嘲笑うかのように彼も立ち回った。同じ特殊武器の合同演習から始まっていつの間にか彼のことだけを考えるようになっていた。
アテナ・トゥリスにとって、クロノス・ルナリアとはどういう存在なのか? 深く考える前に顔が火照ってしまうので考えたことはなかったが改めて考えるとよくわからない。ただ、一緒にいたい。彼のことが知りたい。そう思っていたらこれが好きって感情なんだと知った。
そんな自分は 学園長の孫。その立場から近寄ってくる人も限定されつつあったがそんな人々を無視して探してしまう姿、一目見るだけで安心してしまうのがいまのアテナが持っている気持ちだった。
「わからないが、こう……胸が苦しいのじゃ」
「恋は盲目。愛は束縛。情は不要。でも、あなたのは本物ね。強い魔術師に惹かれるという意味ではそうかもしれないけど、あなたは内面をしっかり見抜いていると思う。男女の関係なんて難しく考えるものじゃなくて、もっと気軽に考えていいわよ。将来を誓うなら、話は別だけどね。あの子は見た目全然駄目だけど、やるときにはちゃんとやってくれるから考えるだけなら安泰かな。だって、王子様だもんね」
ああ、忘れていた。
クロノス・ルナリア。ラディルフィア学園の学生にして、クリスタル王国の元王子。
世界最強の肩書きに相応しいもう一つの肩書き。
それがアテナにさらなる重圧を与えた。
「まぁ、本人はそう言われるのが嫌だから言及はしないけど、彼を取り巻く魔術師の人たちは世界を巻き込む異常者(というか、一歩間違えれば破壊者)の集まりだからそれなりに心は鍛えておかないと気疲れしちゃうかもね」
世界最強の魔術師として有名な天空の使者、音の使者。そこに太陽の使者と星降る家の主力メンバーたちは世界のどこにいても活躍の声を聞かない日はない。
「うむ……やはり、クロはすごいのじゃ」
考えると深みに嵌る。そんなメンバーに自分という存在が入る隙間があるのだろうか?グレイの話しだと彼の序列は下から数えたほうが早く、クロノスは上からキッチリ三番目だ。
「そうそう、期限は三日後の陽が昇るまで」
「えっ? そんなの聞いていないのじゃ。ていうか、期限っていつから開始なのじゃ?」
「判を押して、受理してからだから、すでに30分経過~♪」
鼻歌交じりに立ち去ろうとするその姿を追う様に残りの紅茶を一気に飲み干す。
「こうしてはおられん、いますぐ冒険の買出しに行ってくるのじゃ」
「クロノスは町にいるから(多分、まだ逃げ回っているのかな?)忘れずに場所聞くのよ~」
「わかったのじゃ」
初めての任務ということで必要最低限のリストをマリアから受け取ると部屋を後にする。静寂に飲まれるように進む通路には人の気配はない。全員依頼をこなすために外に出ているらしい。
これが現場の仕事。
これからそれをこなすためにアテナは頬を叩くと言った。
「痛い…‥」
†
一時間が過ぎた頃、城下町の裏道でこそこそ隠れているクロノスを捕獲した。
見つけたときは何故隠れているのかと思ったが事情を聞くとクロノスらしいということで笑ってしまった。
ラディルフィア帝国の城下町は用水路によって運ばれる水の力によって動く機能的な町として有名だ。個人的には噴水の数が多く風に流されて服がしょっちゅう湿るのが悩みでもある。水車で引いた小麦から作られるパンは風味がよく味も濃いのでアテナも行きつけの店の前を通るたびに財布の紐が緩んでしまう。
そんな町の奥には巨大な壁のように横に波打つ山がある。
「月光花の場所? トゥモララフル山脈の頂上だけど……なぜ?」
トゥモララフル山脈。軍事国家として名高いラディルフィアを守る巨大な壁は所々に断裂した地層があり、気の緩みが命を奪う特殊危険区域に指定されている場所だ。
確かにマリアのいう通り、トゥモララフル山脈に入るには一国の王族でも不可能だ。特殊危険区域へ入るには専用の書類十枚と生命に関する署名をして遺言状まで書かなくてはいけないからだ。
やっぱり死ぬのか。
しみじみ、そう思った。
「この度、ギルドに入ったのじゃ。でも、場所を知らないからクロに聞けと言われたのじゃ」
聞けと言うことですぐにマリアのことだとわかるとアテナを見てスタスタと歩き出した。付いていくと大きな道具屋。店内には様々な分野の道具が棚に収められていた。そこから手当たり次第、クロノスがカゴに押し込んでレジで精算を済ませると別の店に向かう。
五店舗それをやると元の裏道に戻ってきた。両手と背中には大量の荷物がぶつかり合い鳴っていた。
「ところで、クロよ。本当にこんなに荷物が必要なのか? 山登りをする前に倒れてしまうのじゃ」
「はぁ……アテナは山登りじゃなくて、採取。おれはそういうの不要だから、わからないから、一般人の範囲内で取り揃えてみた」
必要ないというのはいつものクロノスらしい言葉だが、なんというかクロノスが用意したものは服、靴、食料、寝具類、安全具など登山用具だ。まったく適当だと言うのがよくわかる。
「大雑把なところがクロらしいのじゃ。だけど、頼みのクロがこの有様だと、どうしていいかわからないのじゃ」
「知らんがな。頼まれても困る。でも、トゥモララフル山脈はよく行くからアドバイスくらいならできる。一般には未開拓の山だが、ギルドが管理しているから頂上まで道標に沿っていけば辿り着ける」
真っ直ぐな姿勢のアテナにクロノスは首を傾げる。
「それは重要な情報なのじゃ。クロはとても偉いのじゃ」
「偉いけど、アドバイスにもなってないわよ。アテナさんだったかしら? トゥモララフル山脈なら懐中電灯と携帯食料で大丈夫よ。一度行ったことがあるけど、そんな両手に荷物を持たなくても平気」
背後からの声にびっくりしてクロノスに飛びついてしまった。カツン、カツンと鳴り響く足音にクロノスの表情が学園モード(気抜け)に変わっていった。オレンジ色の髪の毛に同じような暖色系の色彩の衣服、獲物を狙うような鋭い眼光はアテナの隣を見つめていた。
クロノスと言えばアテナが抱きついているので逃げたくても逃げれないのですでに諦めているようだった。
クロノス一人なら魔力の痕跡すら完全に消し去る術を持って逃げるのだがアテナがいるので不自然さが目立ちばれると思ったのだろう。
そこでやっとアテナが誰に抱きついているのか理解して離れると向き直って頭を下げた。
「おぉ、太陽の使者殿なのじゃ。お久しぶりなのじゃ、ということはこれらの荷はどうすれば……」
クロノスの買ってくれた荷物(合計金額不明)から選ばれたのは携帯食料と懐中電灯のみ。他の粗大ゴミのように地べたに置かれた道具にセリュサはため息を吐いた。
クロノスを睨んでは頭をかいた。
「仕方がないので、わたしが全部預かりましょう。家に置いて出発するには時間がかかりますからね。今後は時間管理もギルド員としてしっかりしましょうね」
指を弾くと目の前の荷物が炎に包まれた消えてしまった。独特の臭いがしなかったことから燃えたわけではないらしい。
「それでは、お言葉に甘えてよろしくお願いしますのじゃ。ところで二人はなにをしているのじゃ? デートかの」
ふざけているようで知りたいことを聞いてみると冷静だったセリュサが突然狼狽し始めた。
その姿にアテナの何かが危険信号を発した。
「違いますっ!」
嘘だな。
クロノスの様子から彼女自身気持ちがないというのは本当だろうが、突然感情が激しくなるのは怪しい。
気付いていないだけで何かあるとアテナは読んだ。
「彼もアテナさん同様に、依頼に行く前準備です。本来なら、こんなにのんびり準備をしているのが信じられないのですが、彼だからかもしれませんね」
依頼と聞いて妙な近親感を持った。
「どんな依頼に行くのじゃ?」
「悪の組織の壊滅。集団発生した魔物の鎮静作業。あとシェリフにマリアさんの代役で世界・政府会議への参加とかだったかな。多分、クリスタル王国の生き残りって意味とクロノアが捕まらないから腹いせだ」
仮にも最強の魔術師が扱う仕事だ。規模の大きさはあると思っていたが、分野まで超越するなんて言葉が見つからない。
それに学園内では非協力的なクロノスが会議に出席というのが信じられない。
「……頭が痛いのじゃ」
「そういえば、あなたはどんな依頼に行くの? トゥモララフル山脈って言えば、星降る家の管轄だけど」
事情を話すために近くの喫茶店でギルドカードを見せながら説明する。
もちろん、ギルド加入の事情は内緒だ。
「月光花の花粉の採取か。それは難しいことに挑戦するのね。でも、ゼンマキ鳥や水色蜥蜴に比べたら現物を確認し易くて、あなた向きともいえる」
「そういえば、クロはどこか調子が悪いのか?」
トイレに行っている間に質問してみた。しかし、セリュサは首を傾げてから横に振るだけだった。
「なんか、心、ここに在らずって感じじゃ」
ガラス戸の向こうで店員さんと喋っている人を見る。
思い返せばあの戦いからまだ一ヶ月しか経っていない。
信じていた友の心情を知らず、一度は殺されたとも言っていた。政府が秘密裏にアルビノを虐殺していたことが天空の使者の怒りを買ったことも後で公にされた事実だ。そして、彼自身がアルビノであることも世間の人々は知った。
アルビノであることの恐怖とアルビノということの恐怖。
それでも彼の日常が激変したと言うことはない。学園では今まで通りの授業風景があり、待ち行く人々も過剰に刺激したり、反応することもなかった。
でも、彼の心に根付いている不安まで消え去ったわけではない。
「わたしにはいつも通りにしか見えないけど、学園で接している分、あなたにしか見えない彼の姿があるのかもね。笑っちゃうけど」
同じ学園に在籍していても学年が違うのでセリュサは噂以外でクロノスを知らない。
噂と言うのは尾ひれが付く信憑性のないものばかりだ。それはクロノス・ルナリアと月の使者が同一人物だったという事実を消化するのに掛かった時間ということでもある。彼の実力は認めるがそれは戦闘姿勢のみで日常生活ではない。
それが現在、セリュサの持つ印象だ。
「体の傷は癒えたとしても、心の傷はそう簡単に癒えることはない。彼の心がどこにあるのかは誰にも分からないけど、いまの彼なら心配しなくても大丈夫よ」
音の使者の反逆。関係者しか知らない一連の戦争は政府最高司令官の指示で闇に葬られた。その罪状は極めて判断しにくく、関係者でも当人をどうすればいいのか現在も保留のまま天空の使者の監視下(クロノアはマリアの監視下)で判決の時を待っている。だが、きっと大丈夫だとセリュサは思っていた。
彼が狂気に駆られた原因である最愛の人が無事蘇ったからだ。
禁断の魔法として彼女の存在は世界規模の混乱を招くとマリアに判断され、星降る家の最高機密として現在はレンだけが知る場所で日々を過ごしているらしい。
それが一つの物語の終着点。
だけど、物語は終わっていない。
もう一人の主人公の心は傷ついたままだ。
「あなたはあなたが出来ることをすればいい。無事に帰ってきなさい」
そう、彼の心が本当に傷ついているとしたら誰にも治すことなど出来ない。それは彼が乗り越えるべき試練であり、現実だ。他人の力に頼って乗り越えたとしたらそれは逃避したことに変わりない。
「太陽の使者殿は、クロのことをどう思っているのじゃ?」
「気になる?」
「とても……」
「駄目な弟を持った感じかな。実力は除いて、年はいい感じに離れているからなこともあるけど、あなたのように素敵な場面を見たことがないからね。一線を越えることはないから安心して」
これは本音だ。
セリュサも恋愛感情を持ってもいい年齢であるがギルドのことを考えるとそう言ったことに適した人物にはまだ出会えていない。
「何だよ。人の顔見て気持ち悪い」
会話の終わった当人を見たら可笑しくて笑ってしまった。
その横顔にアテナは危機感を覚えた。
「敵はいっぱいいるのじゃ」
アテナの勘がそう告げた。
†
泥濘んだ傾斜に足を取られると元きた道を戻ることになった。
すでにここに来るまでに衣服は泥に塗れ、髪の毛まで真っ黒に染まっている。鼻で呼吸すると土の臭いが鼻を刺激した。正直、キツイ。自然の香りと言えば自然だが不純物の混じった香りほど気持ちが悪いものはない。だが、クロノスの話によれば乾燥すればミネラル分が多い土質のため肌はスベスベになるそうだ。
でも、依頼を引く受ける以上身なりを気にしていては仕事なんて出来ない。そう考えると自分の実力の無さにげんなりしてしまう。
「キツイのじゃ……」
両手で地面から頭を出している石を掴んでは登る。下手な登山よりも難易度は高いと思う。踏ん張りの効かない足場ほど嫌なものはない。
「迂闊じゃった……太陽の使者基準で考えなければならなかったとは」
序列で考えれば彼女は4位。クロノスとの実力が離れているとしてもその力は一般と比較してはならない。
おまけに美人だ。
「だけど、荷の選定はバッチリじゃな。あの荷物をそのまま持ってきていたら崖下に落っこちておったぞ」
口で言ったもののアテナの技術ではクロノス のように多くの荷を運べない。量があればそれに対して対策を立てられたことも事実だろうが、シンプルに考えるとこれで問題ない。
目的は花の採取だ。
多くの選択肢が手元にあると冷静に状況が飲み込めなくなる。集中するためには自らを追い込む必要だってある。
若い頃から経験を積むことで潜在能力を飛躍的に高めることができると本で読んだことがあるが、いまがまさにそれだろうか? 仮に星降る家の現行メンバーがこの道を通るとしたらどう切り抜けるのか考えさせられる。
だが、考えるだけで答えは出ない。でも、それは仕方がないとも思う。
アテナは素人だ。魔術師であっても分類で言えば見習いであり、訓練生ということになる。プロの世界、本物の命の駆け引きを必要とする現場を生きていきた彼らの行動力を感じようとしても無駄だった。
「今日で二日目じゃの」
基本装備の類もセリュサが選んでくれたものを着てきた。学園用の制服は脱ぎ、防寒に適した服装は山の気候を考慮した結果だろう。気圧の変化で人体への影響力は増す。酸素が薄くなるだけで血液循環は悪くなり、脳は機能を低下させる。最悪、行動不能にだってなりえる。
「特殊な磁場の影響で磁石は駄目か」
ポケットから取り出した方位磁石はくるくると回り続けていた。
(うぅ……わしは方向音痴なのじゃ)
上を目指すだけなら地形に沿って真っ直ぐ進めばいいだけだが、山という場所が方向感覚を麻痺させる。一度でも頂上への道を誤れば死ぬ自信がある。
「負けないのじゃ」
いまはただ頂上を目指す。泥だらけの手で汗を拭っては眼に入りそうになるのをもう一方の手で拭きとる。
簡単に折れる訳にはいかない。
だって、私の想いは変わらないから。
「せめて、木に印を……ってつかない!」
手持ちのナイフを持って手近の木に突き刺そうとするも頑丈な木によって弾かれてしまった。魔力耐性の高い植物は総じて防御面に特化している傾向がある。さらにこの山は星降る家の管轄であり、特殊危険地区であることを忘れてはならない。危険度で言えば町中で盗賊と会うほうが安全だ。
(なんて堅さじゃ。わしの実力じゃどうしようもできない)
剥がれている一部に指をかけて捕まることは出来ても傷が付けられないのであれば帰り道は絶望的だ。
「地図があってよかったのじゃ」
リュックから取り出すは ミミズ線で描かれたクロノス特製マップ。目印っぽい石や木が書かれているが登り口が悪かったのかそのような目星は見当たらない。
上下逆さにしても左右反転させても同じ事だ。
「クロらしい、これ大雑把な地図じゃの」
寄りかかれる石に背中を預けると現在位置を地形から把握する。時間から計算すると入山してからすでに十二時間が経過している。運動量に反して距離が全然稼げていないのは仕方がないにしても基礎体力がなさすぎてすでに眠気が出てきている。
「というよりも、この山は変な地形じゃの~」
滑りやすい足場、裂けている地表、木々の形も奇形なものが多い。 魔力濃度が高いと植物の成長に影響を及ぼすという話を誰かが言っていたのを思い出した。耳で聞くよりも目で見たほうが情報圧としては大きいが刺激が強い分、勉強になる。
少しずつ土質が変わり、障害物が多くなったことからアテナもやっと動きやすくなってきた。踏んでも沈まない小石を土台に一気に宙へ飛ぶ。
「岐路を考えると、今夜が勝負ってところかの」
アテナの呟きは不気味は笑い声にかき消された。
それから小さな足場を見つけては駆け上がる。時間がない。いまのアテナの中では時間が何よりも大事だった。土の域から草の域に変化する。緑色の天然の芝生が目の詰まった靴をより滑らせる。でも、今度は痛くなかった。
「魔物の足跡じゃ」
草の根をかき分けると重量感のある痕跡を見つけた。
七本爪のどれもが足の裏よりも深くえぐれている。周囲の植物も腐食しているのか、原形をとどめているものはなかった。以上のデータから学園の授業で習った『キメラ』だと思う。一般認識として学生が戦って勝てる可能性はない。
ギルド管理の場所と言っても生態系は人の手を加えない天然の状態を保っているらしい。特殊生物の「キメラ」は他生物を吸収しては特性を自分のものにする厄介な能力を持っているため研究者の間で乱獲された経歴があると言っていた気がする。しかし、乱獲する際にも「キメラ」の力に多くの魔術師が倒れたという。
それだけ凶暴な生物が近くにいるかもしれない……
「スヴェリア」
ポケットから金色のカードを取り出すと魔力を込めて宙に投げる。すると複数の魔法陣が飛び交い光が一つの形となった。
『呼んだ? どうかしたの?』
「一人じゃ心細いのじゃ。しばらく、傍にいてくれないかの?」
水の精霊、名をスヴェリア。学園の召喚授業で契約したアテナの良きパートナー。精霊は召喚主の能力に比例して戦闘力が変化するので発展途上のアテナとしては今後に期待したいところだ。背丈は同じで、髪は水が流れるようなウェーブ、透き通るようでいて白い肌は氷のような印象すらある。しかし、水の精霊なのに着ている服は太陽の使者のような暖色系なのが謎だ。
『契約してからしばらく時間が経っているからどうしようかな。それまでにチャンスはあれど、呼んでくれなかったことが気になるし……それに今日だけで、以後呼んでくれない可能性もあるわけだし……それなら、傍にいないほうがマシだと思うの』
「……返す言葉もないのじゃ。わかった、スヴェリアの要求を飲むから、わしの魔力が続く限り、傍にいてくれんかの?」
精霊少女は悩むようにして笑みを浮かべた。小さな手をアテナに突き出すと左頬を通ってある場所に人差し指を向ける。
『いいよ。じゃあ、さっそくだけど、水魔術――水と光の機関砲メイルシュロート』
一瞬のフラッシュから凝縮した水の弾丸が茂みの中で炸裂した。接触直後に弾ける魔術は即席の防御や回避では対処しきれない。どれほどの魔力を込めて放ったのかアテナには推測出来なかったが水の一部が高圧状態で飛んだため、切断された木々がランダムに倒れようとしていた。
(さすが、精霊……とてつもない破壊力じゃ)」
しかし、油断していると木の下敷きになる。精霊は肉体を魔力で構成しているため物理攻撃を無効化できるがアテナは人間なのでそんなとんでも能力を持っていない。
なので、
「逃げるぞ、“スペードのカードを配置、剣錫杖ソードロッド、発動”」
後方をスヴェリアに任せアテナは両手にトランプを持つとスペードの絵柄のものを縦に配置して魔力で固定する。特殊武器「トランプ」。絵柄によって効果の異なるカードは『配置』と呼ばれる技術を使って様々な武器を擬似的に組み上げて使用することが可能だ。ただし、扱いが難しいので使用する者は珍しい。剣錫杖ソードロッドを握り締めるとステッキの要領で地面に刺して一気に走り抜ける。泥濘に足を取られ、前傾姿勢から跳躍するのは骨が折れるも逃げなければ骨どころか命が消える。
『氷魔術ーー氷と土の結晶像エルクレイド』
後方から爆発する閃光が一瞬、周りのから景色を奪い去った。剣から手が離れるのを堪え、クラクラする頭を覚ましてから後ろを向くと宙に浮いているスヴェリアとこちらに向かって突進してきている魔物の群れが見えた。
『害のない魔物だから、命までは奪わないけど、どうする? 氷漬けだけだといずれ動き出しちゃうよ?』
害のない魔物と言われても実戦経験のないアテナからしたら魔物の善悪の判断がつくはずもない。どの魔物も獰猛な獣をよりグロテスクにしたものか、より凶暴に進化したような風貌だ。牙や爪は肉を引き裂き、骨を砕くためのものだろう。考えるだけでゾッとする。
しかし、命を奪うというのは気が引けた。
やはり彼らも命のある魔物だ。スヴェリアが害のない魔物というなら無駄に倒す必要もないだろう。切迫した状況で焦って力を連発すればそれだけ後のリスクが増大することも考えられる。
アテナ自身そのリスクが身にしみている。
息が荒くなる。
「逃げることを優先するのじゃ。魔力がなくなったらわしは終わりじゃからの」
そう言うと、アテナはスヴェリアの生み出した水の回廊を滑って進む。
足で進むよりも滑らかで自由度の高い道は木々の隙間を通り抜け、眼下の魔物たちをやり過ごす。
命にかかわるような戦いはしたくない。
大事なものは自分の命だ。この命がなくなれば元も子もない。
『手早く済ませればいいのね。だけど、あなたはもう限界よ? わたしを呼び出すほどの実力は持っているようだけど、魔力総量はまだまだね』
でも、 隣で水を操る彼女から聞こえる呑気な声にもアテナは反応できなかった。スヴェリアの言うとおり、いまのアテナは魔力制御して集中していなければスヴェリアを顕現させ続けられないほど消費していた。それは単純に精霊である彼女との実力に差があるからだと思う。
学生でも契約できる召喚獣は潜在能力を基礎にしているため現在の能力よりも上位個体が現れてしまった場合は召喚制御に苦労するとシュナリアが言っていた。これまで三〇分維持しているがいつ消滅してもおかしくない。
『使い魔というのは契約者の実力に沿って本来の実力を発揮できるものなの。いまのわたしの実力は大体三割くらい。だから、あなたにはわたしの実力をあと七割も引き出すことができる。そのためにはもっと修練を積んで実力を上げることよ』
「う~、わかったのじゃ。だけど、いまの状況と何の関係が……!」
覆い被さるようにスヴェリアがアテナの上に乗った。突然のことに動揺したが透き通る彼女の体を見ると背中にか細い鋭利なものが何本も突き刺さっていた。さらにその奥には元凶と思われる植物系の魔物がこちらに向かっていた。
そして、水の回廊が崩壊した。
重力に従って落下する状況にアテナは見た。突き刺さっている鋭利なものの先端から毒のような液体が流れていることに。水で構成されている体に不純物である毒が混じったための拒絶反応がスヴェリアの意識を一瞬奪ったようだ。
『離れないで』
目を覚ました彼女はアテナを抱えると落下する水を操作して巨大なブロックに変化させる。地上にいた獣たちは落ちてくる食料に歓喜の声をあげていたがすぐに悲鳴と変わる。骨を押し潰す音に気が狂いそうになる。透明の足場を見れば赤い液体が地面に染み渡っていた。
生物の死を間もあたりにして言葉を失った。
でも、アテナは思った。これがクロノスのいる世界なんだということ、戦わなければ死ぬのが自分だということ、これが戦うということを実感した。
『契約者が死ぬことは使い魔にとって、あってはならない最悪の事態。だからこそ、あなたにはこの状況を乗り越えて強くなってもらわなくちゃ困る。魔術で応戦する必要はないよ。あなたのすることは、とにかく生き残ること。わかった?』
それはアテナへの確認である。
「わかったのじゃ。じゃが、わしには魔術以外にトランプしか武器がない。それも54枚の枚数制限付き。スヴェリアに送る魔力を最低限に抑えこんだとしても、もう保っておられん。それに、スヴェリア。精霊が上位の使い魔とはいえ、肉体レベルはわしらと相違ないと聞いたことがある。だから、身を呈してまでわしを護らないでくれ」
背中に手を当てて水流操作によって毒の部分だけ切り出すと体外に捨てる。毒に蝕まれた時間は短かったがそれでもアテナからの魔力供給が少ないために肉体への負担が存在を空ろにしようとしていた。
苦しいのは アテナだけではない。いや、スヴェリアは平気な顔をしているがきっと内心は辛いはずだった。無理をしているような気がしてアテナは足が止まった。
そして、スヴェリアを抱きしめた。
「スヴェリアがわしを大事に思ってくれるように、わしもスヴェリアをともて大事に思っておる。アテナ・トゥリスは死なないと約束するから、そなたも約束してくれ」
一瞬のことだった。でも、心の底から思っての言葉が通じたのかアテナの体を温かい手が包み込んだ。
『人というのは、使い魔というものをどう思っているのかわからないけど、わたしたちの間ではあまりいい話はされていなかったのよ』
「どういうことじゃ?」
意味深な言葉に怪訝なアテナの返事を苦笑して返されてしまった。アテナは人間、そして彼女たちは魔物だ。古の盟約に基づいて行動を共にすることが許されているがそれすら許されなかった時代のことを言っているのだろうか?
でも、アテナにはわからなかった。
それは単純に過去を知らないからだ。
『あなたが契約主でよかった』
精霊は契約者の心身に大きく影響を受ける。
『アテナ・トゥリスは、わたしが思っていた以上に人間としていい器を所有しているということ。これ以上は、いわなくてもいいよね?』
「……ありがとう」
スヴェリアの言葉にアテナは心が満たされていった。
『なら、時間がないからぶっ飛ばすわよ。着地地点まで計算する余裕もないから、後はよろしく。無事に終わったら、また呼んでね。氷魔術――氷と水の間欠泉ハシュマリム』
しかし、感動の時間も虚しくスヴェリアの手に集められた水を地面に叩きつけた直後、跳ね返るようにしてアテナを巻き込んで空に上る。凄まじい水圧に目が開けられなかったが最後に見た景色は微笑むスヴェリアと襲いかかろうとする植物の魔物たちだった。緊急回避。だけど、こんなことは嫌だった。
「嘘つき」
自分を犠牲にしてまた助けられしまった。でも、それは彼女のせいではない。
自分が弱いからだ。
そして、いまはそのことに考えを割いている余裕はない。
彼女が助けてくれた分、絶対に花を手にしなければならないからだ。
放物線を描くように吹き続ける氷柱が地表に向かった激突する前にアテナは木に飛び移った。弾力のある木がクッションとなり、バキバキと音を鳴らして傷を作りながらも無事に着地することが出来た。
氷柱を見ると飛び上がった地点から頂上まで大分距離を短縮することが出来たらしい。
「急がねば」
飛び降りて前を見ると茂みから一匹の獣が出てきた。唸り声は威嚇、牙から滴る唾液は空腹を意味しているのだろう。
『強くなる方法? そんなの向かってくる相手を全部完膚なきまでに叩き潰せばいいじゃない。勝てなかったら? そんなこと考えちゃ駄目よ』
誰の言葉かは覚えていないけど、一時期考えたことはある。
強くなる方法、でも、それは間違いだった。
敵を倒すだけが強くなるんじゃない。
「そういえばまだこれもあったの」
銀色のカードを取り出すと残り少ない魔力を流し込む。するとみるみる形が変わり、新たな武器となる。
授業で作って以来使った試しはない。でも、現状を切り抜けるならこれ以上の武器はないだろう。
『あなたは何を迷っているの? いずれにせよ、あなたは戦う者として命を狩る側になる。それとも、魔術師になんてならなきゃよかったとか、思いながら立ち止まっているわけ?』
戦うのが魔術師。
そして、 殺すのが魔術師。
そして、守るのが魔術師。
終わった後には何かしらが失われているそんな存在だ。だけど、戦わなければそれ以上に何かを失うとしたら戦わずにはいられない。それが魔術師の性だとか、使命だとか綺麗事は言わない。
私は立ち止まらない。
支えてくれる人たちがいるから。
大切な人がいるから。
「変幻弓ドレッドノート、形状変化、『多連弓スラスター』」
さらに変わる新たなる武器。
連射機能を強化した一撃は獣に先手を許すことはない。
そして、もう遠慮はしないとアテナは覚悟を決めた。
†
魔物を密漁していた組織を壊滅(クロノスの独断で根絶&廃絶)にしたあと、魔物の領地抗争を説得し、今度は人間の低能な輩との面談は限界を超えて殺意を覚えた。
「これで、満足?」
政府人を護送するためにやってきたマリアに積もりに積もった殺意を握手で伝えながら溜息を吐き散らす。
それだけで 周囲に影響を及ぼす月の魔力が連動して地鳴りを起こした。突然のことに意味がわからない要人たちは子供のように列を乱して走り去っていった。いい大人がみっともない。
あんな命を守らなくてはいけないかと思うと将来が疲れてくる。
「もう、そんな仏頂面しないの! とにかくお疲れ様」
目付きの悪い子供をあやすようにお菓子を口に突っ込むマリア。
「外交問題を代行させるマスターがどこにいるやら」
「優秀な部下がいると助かるのよね」
「うわぁ……駄目な上司を持つと苦労する」
しかし、少人数の部下を持つギルドマスター先程まで最重要任務に当たっていたのでその内容を知っているクロノスからしたらこんな会議トーストでパンを焼く程度の問題だ
。
「書類の量を減らしてくれよ」
「本職を放棄しないの!」
さり気ないおねだり失敗。
「おれ、魔術師なんだけど」
「あれ、そうだっけ?」
「大変だ。急いで病院に緊急搬送しなくては」
「……おい、ちょっと待て」
「大丈夫ですよ。近代の医療技術は飛躍的な進歩をしていますから、きっと治ると思う」
マリアの弟子としてギルドに所属しているクロノスだからこそできる冗談のオンパレード。付き合いが長いからこそ許されるし、信頼しているからこそ頼むことができる。例えば、クロノアやレンが代理出席したらその影響力の強さから逆に世界支配政権の獲得とかやってしまうかもしれない。他の部下は部下で能力的に足りないので、当たり障りの無いクロノスが一番いいのだ。
これが二人の関係だ。
「ところで、あっちの仕事はしてくれた?」
思い出したように話を変えるマリアにクロノスは頭の中から仕事の項目を選ぶと内容を思い出す。今日受理したものは十七件。その内、十六件は終わったのであとは一件だけだ。
一番厄介な面倒な仕事だ。
「いや、まだだけど、なにか?」
でも、クロノスにも関係がないわけじゃないのでやらない訳にはいかない。
「さっき、連絡があったけど、トゥモララフル山脈周辺に魔物が集まっているそうよ」
事情が変わった。
「はっ? 聞いてないぞ」
「あなたの使い魔じゃない、別の魔王が呼び寄せた魔物たちがね。一応、隔壁に守られているけど、自然の摂理には勝てないのよ」
「突破されるまであと何時間だ?」
「17時間弱ってところかな。総攻撃と言うよりは攻撃手アタッカーに結構いい奴を選抜したらしいから」
ギルド管理の区域は周囲への悪影響を避けるためにギルドマスターたちが厳重な封印結界(これが自然の生態系の維持に買っている)を構築しているからこそ住民は安心していられるのだがそれは一定ランクの魔物だけに作用するもので本来、存在しないはずの巨大な敵には通用しない。
(ここから動いても時間がかかりすぎる。借りを作るのは好きじゃないが、仕方がない)
不承不承悩んだ末にクロノスは目の前の何かを指先で摘むと捻るようにして引き裂いた。歪んだ景色が見える中で両手で拡張すると中から次第に音が響いてきた。
黒い体で頭には角がある。人間に近い姿だが、その容姿には人間味が全く感じられない。
「久しぶりだな、クロノス」
「ちょっと、ヴァンに頼みがある」
何時だってトラブルは起きる。それが想定されるものなら早めに対処するのがクロノスだ。
だって面倒くさいから。
†
夜になってもアテナの戦いは終わらない。
防寒着として着ていた服は全身が泥に塗れ、乾燥した部分からパラパラと土が落ちる。ステッキ代わりに使っていた剣は自然消滅し、そこら辺にあった木の棒をもっていまは動いていた。足の筋肉が膨れ上がり、痙攣も起こしている。喉が渇いては小川の水を飲んで餓えを凌ぐ。辛いけど、足は止まらない。
「綺麗な星空じゃ……クロはこれが好きなのか」
標高七〇〇〇メートル級の山のどこにいるのかわからないが、地上よりも高い場所にいるので星がより見えて得した気分になった。
「それにしても綺麗な花じゃな。金粉見たいじゃ」
月光花。ひたすら上を目指していたら頂上でもないのに事前資料で見たものと同じ物を見つけた。月のように黄金色の息吹を吐き出しながらその場にある小さな花を資料道理に採取すると小瓶に入れる。
すると、小瓶に小さな光が灯った。花の性質からこれで夜道を歩いても心配することは無さそうだ。それに登りと違って下りならアテナの魔術を使って入り口まで滑り降りれば時間短縮になる。計算した訳ではないがこれはもしかしたらと思うとニヤけてくる。
「さてと、山を降りるか……え?」
ここにきて油断していた。初めての任務だったから、スヴェリアとの約束もあるから、そしてこの場所で見た星空が綺麗だったから、一生懸命だったからここがどのなのかを忘れていた。深紅の輪郭に金色の眼が闇に浮いている。その瞳が上下に揺れ動き、アテナの体も揺れ動いていた。
咆哮。
血の気が引いた。足がガクガクと震える。
プロとしても経験不足が精神面を恐怖で塗り潰してくる。それがアテナにとって最悪を作り出そうとしているのを自覚できてもそれまでだ。
対処方法がない。どうしたらいいのか、わからない。戦うべきか? いや、戦える相手じゃない。
逃げるか? いや、こんな疲労困憊の状態で逃げ切れる相手ではない。
そしてさらに言えば魔力切れだ。どこかで休眠をしなければ新たに魔力生成することが出来ないのが魔術師が持つ唯一の人間らしい部分だ。
つまり、絶体絶命であるということだ。
「う、嘘じゃろ?! こんなところでキメラなんて聞いてないのじゃ~」
「グゥゥゥゥゥ――――」
全長三メートルを超え、アテナの胴体ほどある巨腕が月を隠す。恐怖の象徴となる牙の間からは濃厚な魔力が吐出されている。ところどころのパーツが不揃いなのは「キメラ」の名が意味している。教科書通りを狙うなら接合部を攻撃すればいいということだがここまで巨体だとどこが接合部なのかわからない。
「うわわわわっ! え、えと、キメラの接合部は……どこじゃっけ?」
すでに混乱が頭を埋め尽くした。冷静さを取り戻したくても消しきれない。
「と、とにかく、逃げるが勝ちなのじゃ。 “ダイヤのカードを配置、十字盾クロスガード、発動”」
魔力が切れる前に封入していて分で時間稼ぎの盾を置く。巨大な十字の壁が「キメラ」を隠してくれたおかげでアテナの足が動いたのは幸運だった。しかし、眼前は崖だ。勢いをつけてギリギリ飛べるかどうかの距離だと直感で察知した。でも、考えている時間はなかった。
「よしっ」
呼吸を無視して全力で走り出した。
だが、それは許されなかった。
「うわっ」
ガリガリと鳴った直後に何かがアテナの背中を押した。 それが十字盾クロスガードだということに気づかなかった。盾ごと崖っぷちに飛ばされたアテナは自分の運命を覚悟した。
単純な力で殴っただけで壁を殴り飛ばした魔物はゆっくり動いて迫ってきている。
(すごい、力じゃ)
振り返りながらカードを手に持つと、「キメラ」の腕が月を覆い隠す前に光が全身を照らすのを見逃さなかった。
肘の付け根が歪だ。
「“スペードのカードを投擲、切断刃ビッグスロー、発動”」
魔力が込められた一枚のトランプが巨大化し、断頭台のように対象を切断する。わずかに歪んでいる部分ならいまのアテナでも余裕で可能だっただろう。それで瞬時の隙をつけば逃げ切れないこともない。
でも、現実は厳しかった。
パキン。
カードが「キメラ」の体に触れると金属音を発しながら折れてしまった。
「あれ? 嘘じゃろォォォォォォォォ――――!!」
そして、振り上げられた巨腕の衝撃でアテナは奈落の底に落ちるのだった。
†
全身がだるい。
額に落ちる水滴が口に入るとほのかな甘味を覚えた。生きている。その事実に感謝して起き上がろうとしたら手足は動かなかった。前後の記憶を漁って思い出せるのは「キメラ」に突き落とされたことだった。
そして夜は続いていた。
月光花のほのかな光が活力を与えてくれたような気がした。
必死に指先に集中する。
気絶していたとはいえ、少しでも動いてくれれば回復の見込みがあるからだ。
それから指が動くのにどれほどの時間がかかったのかはわからない。頭痛と吐き気に悩まされつつ、粉々に砕けた携帯食料を飲み込むと肉体強化に全神経を集中させた。脈動する内圧で激痛がより刺激されたが気を失わないように歯を食いしばってひたすら耐え忍んだ。
白い息が水を口に運ぶ。砂でざらついた喉を潤したら足に力を入れて周りのものを支えに立ち上がった。ガクガクするのは疲労が取れていないからだろうが、こんなところで休憩していたら生命がいくつあっても足りない。
任務はまだ終わっていない。時間は昼の鐘が鳴るまでなので余裕はある。
だが、夜の森という不確定要素の多い場所でついに不安が爆発した。
「うぅ……本格的なサバイバルは初めてなのじゃ」
シュナリア教官の野外演習で一度だけ経験したサバイバルは教師陣の監修があったので無茶しても死ぬ心配がなかっただけに安心できた。だが、いまは違う。ギルド管理の場所だが、救助されるなんて一言もマリアは言っていなかった。
「シュナ教官の授業が役に立ったのじゃが……わしは水使いじゃから、強い火は起こせないのじゃ」
水気を抜いた乾燥した木くずに懐中電灯を破壊して飛び散った火花で火種を作ると側にあった木々に火を灯させる。
でも、高山地帯よいうことで火の付きは弱々しい。アテナの心を支えてくれるこの火が消えたらと考えるだけで涙が溢れてくる。
ある一定のところまで火が強まると残りトランプを取り出して正しい配置にセットする。水使いのアテナが唯一火を扱える術は特殊武器であるトランプの効果を使った擬似効果だけだ。
「“ハートのカードを設置、炎の聖杯アグニ、発動”」
光をトランプが吸収するとそれと同等の光をトランプが放つ。吸収した光を蓄えて放出するこの効果は取り込んだエネルギーを消費し切るまで消えることのない。つまり、外部からの影響を受けないということだ。環境に左右される自然現象よりも心強い。
それを手にアテナは歩き出した。
体は動いたが次に立ち止まったらもう二度と動けそうにないと思ったからだ。限界の限界は超えられてもそのさらに一つ限界を超えるなんてことはアテナには出来ると思えない。
諦めないことが肝心だと誰もが言うが志だけでは突破できない壁もあることを受け入れなければいけないとここにきて思わされた。
ここは敵地だ。
アテナは歩きながら利用できそうな木の枝を手に取ると地面に突き刺して一息つく。
「寒いのじゃ……クロはいつもこんなことをしておったのかの」
危機的状況でもクロノスのことを考えるなんて 自分は本当にどうかしている。
でも、それが自分らしいからそれでいい。
「これがギルドか……」
完全実力主義にして命を賭ける場所。戦場においては情は不要であり、血で血を洗う必要があれば容赦なく切り捨てる。それが敵でも味方でも、肉親でも、友でもだ。場違いな場所に入ってしまったと少なからず後悔しているのだろうか? 自分のことなのによくわからなくなっていた。
星の導きと言える輝きにアテナは迷宮に迷い込んだ子供になった気分にさせられていた。精神論をしながら考えるのは今後のことでもなく、いまのことでもなく、クロノスのことだけだ。
旅立つ前の彼の表情を思い出してはどうすればいいのかだけずっと考えていた。
自分がギルドに入った時も特に何も思わず平然としていたのは驚きがなかったからか、それを知っていたからか、答えはわからないが少し残念だった。
「うわっ」
見難い足元の出っ張りに躓くも木の枝が上体を支えてくれたので助かったが全身を走った衝撃が与えたダメージは気力を根こそぎ奪い去った。
これ以上のミスは許されない。
(それよりも『魔物避け』をせねば)
一枚のトランプを取り出すと心臓の上にカードを貼り付ける。アテナの持つ特殊武器の中でも異質な能力を持つ一枚は体外に放出される魔力を吸収する特性を持つ。敵に感知されずアテナを周囲に溶け込ませてくれればいまは十分だ。
体勢を整えるとアテナはもっと太い枝を手にボロボロの上着を巻き付けると中に『炎の聖杯アグニ』を収納する。少し特殊だが松明の完成だ。
明るくなった部分に安堵しつつもう一度歩き出すとしばらくして小動物を見かけた。ウサギだ。アテナの存在に気づいているが逃げる様子はない。だが、アテナが前に進もうとするとアテナを見てから走りだした。
その行動が気になった。小動物は警戒心が強いため逃げることを前提に行動しているのが普通だ。
でも、寄り道している時間もなければあのウサギの謎を解いたところでどんなメリットがあるのかわからない。
わからないことは関わらない。心を鬼にしたアテナはウサギのことを諦めて歩き出そうとした。
すると、コツン。と何かが枝に当たった。
全身の痛みに耐えながらそれを拾うとみずみずしい果物があった。そして、後ろを見るとさっきのウサギがいた。ぎゅるるるる。スヴェリアと別れてから一人ぼっちだったアテナにとって久しぶりの温かい関わりは何の疑問も抱かせることなく口に運ばせた。
「うぐ……甘いよ」
ちょっと固かったけど、芯の部分は適度に熟しており甘みが疲労を取り除いてくれているような気がしてきた。
小さな救援者を見ると以前そこにいた。
「ありがとうなのじゃ」
逃げる様子がないウサギに感謝をしつつ、アテナは一歩を踏み出そうとして急制動をかけた。足の裏に位置する場所にウサギが移動していたからだ。
後ろを見るとそこにはいない。ということは、アテナが前を向いていた時に移動したことになる。
とんでもない素早さだ。
硬直。
そして、動き出す。
ここまでしつこいとついて来いと言われているような気がしてきた。
夜はまだ深い。多少ならいいかと心を動かしてアテナは進路をウサギに変えた。獣道に素肌が削られ表情が苦痛にゆがむも、どんどん進むウサギを見失わないように必死に追いかけた。
そして、広い空間に出て見つけた。
大きな果実樹だ。
月の光を全身に浴びているということは太陽の光も独占して浴びて成長した一本だろう。その枝に実っているのは先程口にしたものと同じだった。でも、色合いと大きさがまるで異なった。よく見ると地面に転がっている果物もある。
ウサギが二足歩行するわけではないんどえ頭で押しながら持ってきてくれたのだろう。
本当に温かい施しだった。
ぎゅるるるる、と本能がアテナに命令を出している。さっきよりも深い味わい、美味しいものが目の前にあっても我慢することなんてアテナには出来ない。
体の痛み、疲れがどこかに飛んでいった。
近寄れば近寄るほど、その大きさには眼を見張るものがある。 大人でも登るのに苦労しそうなほど大きな幹は足を引っ掛ける場所もなく、叩いてもビクともしない。いや、叩いたら樹が傷んでしまうのでダメだろう。懐を漁ると五枚のカードが出てきた。
スペードが一枚。
クラブが二枚。
ダイヤが一枚。
ハートが一枚。
攻撃特性はスペードとクラブだけ。ダイヤは防御特性でハートは補助特性だから実戦では使えない。となると戦うなら弓しか残されていない。
「“クラブのカードを投擲、魔女の鎌デスサイズ、発動”」
顕現する巨大な鎌が木の枝を切り落とす。先端には見るだけで二〇~三〇個の果物が付いていた。
「一度休憩するのじゃ」
地面に座り枝から果物をむしるとどんどん口の中に放り込む。学園では絶対にできない無茶食い。口に含むとどんどん溶けて甘さと一緒に水分が体を癒してくれる。まるで肉を食べているようなほど肉厚で、ハチミツを舐めているようなほど甘い味だ。
呼吸をすると体内で別の部分が熱くなるのを感じだ。
疲労回復によって魔力生成が始まったのだろう。そんなことを考えながら食べるごとにぐちゃぐちゃになる顔を涙が流れる。
「これが孤独というやつかのう……」
突然、溢れた涙。一人ぼっちという状況が教えてくれた一つの事実。それは アルビノという種族に対しての新しい見解であった。
クロノスのもう一つの顔。
彼が置かれてきた状況を考えると涙を止めることが出来ない。
声を上げてしゃくりあげながら泣く。
たった一人で抱えていた闇はきっと親友の裏切りよりも明らかになった自分の本当の姿に関することだと思った。彼は一人でいた。それはアルビノであることを悟られないためだと思っていただが違うのかもしれないとここに来て思った。
彼は魔物が好きだ。それはアルビノだからではなく、純粋に彼のことを純粋に認めてくれる存在が魔物だけだったからだろう。姉であるクロノア、親友のレンにはわからない心の闇。彼らには品位とカリスマ性が溢れ、多くの人々を先導することが出来る能力がある。
でも、それは相応の自信が備わっているからだ。
でも、クロノスにはそれがない。
アルビノの大量虐殺の理由。
アルビノが持つ特殊能力。
アルビノであるから周囲に及ぼす影響の数々。
それが違和感の正体だ。
戦いだけでは理解し合えない心の葛藤は長年溜め込み続けてきたことそのものだった。
きっとクロノスはこれからも一人で背負い続けるかもしれない。
それは彼が孤独だからではなく、誰も理解できないからだ。アテナ・トゥリスはアルビノではない。アルビノになることが出来ない。だからこそ、理解してあげられない。
それが無性に悔しくて悲しかった。
無力な自分に何が出来ようか。
食べ終わってから呼吸を繰り返す。十分なエネルギー源を基に時間を計算して今後の算段を組み立てる。ほんのり光は空を青くしていた。
タイムリミットは近づきつつある。
「誰か、助けにこないかの……」
小さな弱音もここで止めよう。
そしてここから脱出して会いに行こう。
その手に握られる弓を引くと小さな果実を撃ち落とした。
†
朝が来た。新緑に満ち溢れた風景をアテナは全力で駆けていた。
朝まで体力回復に費やし十分な魔力を蓄積した。あの果実を食べてから全身に行き渡る魔力の密度が変わったような気がする。真綿に水を染みこませたようにアテナの細胞に浸透した魔力が生み出すバネから生み出される爆発力は他の追随を許さない。
すでに目的地は視界の中に捉えていた。
弓を片手に太い木の枝を見極めて飛び移る。
変幻弓ドレッドノート、形状変化、短羽弓ウィングライト。
連射性を除外して、一矢による単発力と重量を極限まで軽量化した形状は本当に羽を持っている感じにさせられる。
弦に指を掛ける感覚も繊細な技術が必要とされているが、極限までに集中力の高まっているアテナにしてみれば朝飯前だった。どこまで引けばどこまで飛ぶのか、力加減、指の放し加減でどう変化するのかまで熟知していた。
『武器形状? 使い慣れていれば基礎状態からの形状変化は容易に可能だ。用途によって使い分けられることから、戦力幅も広がる。だが、形状変化は二年からだ。いま、出来ないからといって焦らなくても大丈夫だ』
使用者の最も使いやすい形に変える技術。望めば元々の形状すら超越して別の武器に変えることすら出来る。だが、そえは本来の機能を枠を超えてしまっているため性能としては劣化品だ。
究極の武器というものは使用者の技術を思い描くように実現することが出来る魔法の道具。でも、そんなものは幻想にすぎない。何故なら最初から誰もがそれを持っているからだ。
『武器は魔力で構築されているから、変化させたい姿のイメージを高い集中力で行なえばいい』
前方に敵がいた。スヴェリアが足止めしてくれた連中だろう。
アテナは弦を引いて矢をセットする。魔力によって装填された一本の矢羽を摘むと超訳と同時に放つ。風を切る音が追うように響き、一体の背中に深々と突き刺さった。
するとボコボコと背中が膨れ上がり爆散して、赤い液体が周囲を染め上げた。
アテナの魔力質は水だ。それを体内に撃ち込み体内の水を操作するのだが、これには距離と対象の体格によっては意味を成さない。上級魔術師ならば体内に魔力を撃ち込まずに直接操作することも可能だろう。
魔物は血に集まる。それは人でも同族でも何でもいい。正確には鉄の臭いが本能を刺激して襲い掛かってくると学会で発表されていた。犠牲になった生物には悪いがいまのアテナには躊躇という二文字はない。巨大な顎が咀嚼する音が響いているのを耳にするとアテナは方向を変えてさらに足を速める。
下山するのに必要なのは推定で四時間強。登りよりは遥かに早いがこうやって敵の目を引き付けながら進むのは神経を削る。
どういう理由か、最終日の朝方から魔物たちが活発に動き回っていた。妙に殺気立っているともとれなくもないが、それにしては種族間のバランスがバラバラな気がする。魔物にも友好関係のようなものがあり、種族によっては相容れないという話を耳にしたことがある。
先ほど爆散した魔物はまさにそれだった。隣にいた魔物は通常だったら隣にいるだけで殺し合いをするほど仲が悪い。
昨日、スヴェリアと行動していた場所まで近づいてくると姿が見えなくても広範囲に渡って気味の悪い気配に満ちていた。魔物の中には自らの縄張りを示すために自らの体液を周囲に撒き散らす習性があり、それに大気中の魔力が反応して妙な気配を漂わせたりする。
だが、ここに来て変化があった。
昨日まで木々で生い茂っていた場所がごっそり更地になっていた。
見事な緑色のカーペットだった場所には肌色に露出した地面と土中に埋まっていた岩石が身を曝していた。
丸裸になったことで山脈の下に位置する町がよく見えるようになったのは助かるが逆に恐怖に背筋が震えた。
ここはギルド管理の場所で魔物だって生息しているほど自然環境は天然に近い構造になっている。なので、実力で言えば強大な力を保有している魔物が存在しないとも言い切れる。
なのにこの眼前の状況はどう見ても一介の魔物が出来る範囲を超えている。種族反映のための交配による異常進化によって未知の生物が生まれたとしたら話は変わる。なんせ、ここには「キメラ」までいるのだから、内包されている遺伝子情報の突然変異の可能性は捨てきれない。
このまま結界を破壊して人間を襲うことになれば被害は甚大だ。
その前に情報だけでも手にしておいた方がいいのではないか? 魔物は人を傷つける存在だ。少なくともいままでのアテナならそう考えていた。
『全ての魔物を一概に悪と決め付けるのは正しくない。それなのに人間はなぜ悪と決め付けるのか? 魔物にも人間と同じように種族があり、子孫を残すために繁殖させる。食物連鎖の頂点にいるなら、それ相応の食糧として人間に襲い掛かるのも無理はない。だが、それは他の生物からすれば人間も同じことをしているというのにそう思うのか。簡単に恐いからだ。自分たちよりも強い存在に襲われることがな』
生命が脅かされる。昨晩初めて感じた命の危険性を知ったアテナだからこそこの言葉の意味は強くわかる。
私たちが戦えば必ず犠牲者は出る。それは魔術師と魔物たちが共存することが出来ないからだ。もしもそれが可能ならきっとこんなに辛い思いをしないで済むのにそれは何百年経っても実行されない。
眺めているとその奥で影が動いた。
見つめると群れになった魔物がどこかに移動する姿だった。その方角は明らかに外界の町に向かっていた。そして、その方角はこれから進もうという道だった。
帰るためには道を開けなければならない。
「変幻弓ドレッドノート、形状変化、砲槍弓ジャベリン」
今度は重量が重くなる。長さもアテナの背丈を超え腕輪のように腕に付いた弓を水平に保つと木の上に足を引っ掛けて力を入れて踏ん張る。そして今度の矢も巨大だ。まるで槍のような矢は先端部分が螺旋状にねじれており、撃ち出すと回転して壁を粉々に粉砕してくれるだろう。
「ま、まだじゃ、もっと強く……」
女の細腕では肉体強化しても限界がある。アテナの体格では扱えない長い矢はギチギチ音を届けながら少しずつ距離を開けていた。矢羽などなく、柄部分を槍投げの要領で握りしめ引いている感じだ。
『ドレッドノートの醍醐味は近接武器と違って、距離をシビアに考えなくてはならない。それは矢を射るまでに、対象を視認、構え、矢を添え、弦を引くという最低でも四つの動作を必要にする。近距離用に弓術を修得していても人と魔物では相性が悪い。だから、実戦で弓を使うなら常に死角に移動すること』
「いまじゃっ!」
アテナの眼に映る魔物の集団に向かって破壊の嵐が激突する。大砲の一撃を思わせる破壊槍は一体の魔物に突き刺さるとその体を高速回転させ周囲の魔物を巻き込んでそのまま一直線に進み始めた。地面は剥がれ、草木も同じくその環に乗せられていった。
これが実戦での戦いだと肌に感じる。
「変幻弓ドレッドノート、形状変化、水龍弓アクアフォース」
『魔物の群れに遭遇した場合、先頭を走っている奴に破壊力の高い一撃を撃ち込むのが効果的だ。理由としては主に二つある。一つは、群れの先頭にいるのが親玉ということ。もう一つは、統率力を削ぐことにある』
先の一撃で列に穴を開けた。でも、彼らの行動は止まることなく続けられた。
「集中しろ……油断大敵じゃ」
進行を阻害されたならこちらに気づいて襲いかかってきてもいいはずなのに見向きもしないのは妙だ。でも、魔物を前にしてあの数に接近したら死ぬのは自分だ。
青いボディの長弓を握りしめると空に向かって矢を放つ。水龍弓アクアフォース。天に昇る龍をイメージした一撃は空中で封入した量だけ分裂を繰り返し、龍の如く敵を喰らい尽くす。
青い空に溶けこむように巨大な顎が口を開いて再度列の魔物に襲いかかった斜面ごと砕きながらがっぽりと大穴を開けると残りの魔物に向かってアテナは弓を構える。
「変幻弓ドレッドノート、形状変化、輝連弓スピードスター」
弓の色がまた変わる。今度は水のように透き通り奥が見えるようになった。弓のサイズは短連弓と同じだが、弦の真ん中に指を引っ掛けるリングが備わっていた。
この弓の特徴は矢の装填速度だ。
指をにリングに掛けて引くと、中心部分からチェーンのようなものが伸びた。
それを近場の木に引っ掛けて近づけるだけ距離を詰める。
圧力が腕の筋肉を痺れさせるもアテナは歩を進める。力に負けて枝から音が鳴り始めてもアテナは歩みを止めない。その眼にはたった一つの道だけを見た。
そして、枝が折れた。ゴムのように伸びていたチェーンが物凄い速さで元の位置に戻ってくる。その反動にアテナの腕が上下に揺れようとするのを必死に堪えた。技の精度を保つために姿勢を崩してはならないと知っていた。
正しい姿勢で、正しい動作をして初めて本当の威力が発揮される。
カチン、リングが定位置についてそんな音がした。
それから滝のような怒轟が大気を打ち付けた。
アテナは一歩も動いていない。その手は弓柄を握り、もう一方は腰に添えられていた。にも関わらず、輝連弓スピードスターからは絶えず矢が発射され続けた。終わらない攻撃の嵐は残りも魔物たちを完膚なきまでに消し去った。
この弓は引き続けたチェーンが矢に相当し、伸びた分だけエネルギーをチャージするのが特徴だ。
多勢を屠ることに成功したアテナは息を荒げていた。短時間で予想外の魔力を消費してしまったこともそうだが、冷静に敵を前にして行動した自分が少し怖かった。
でも、やりとげた。これで帰れる。
少なくともそう思っていた。
「なんじゃ、この気配……巨大な魔の力?」
どこからともなく肌に突き刺さる痛み。敵の攻撃なら戦意が切れ掛かっているアテナはすぐに倒れただろうが少し違うようだ。
手足が動く。それだけに気味が悪かった。アテナはその場で深く息をした。吐き出した息に乗せて体外に放出された魔力を指で体の周囲に引き伸ばす。
南西側の魔力が弾けた。
つまり、敵はその方角にいるということだ。
再度弓に指を掛ける。
威力重視の砲槍弓ジャベリン。それを至近距離で放てばどんな相手でもダメージは与えられるはずだ。
装填する槍の重量がアテナの体を地面に縫い付ける。固定できる場所がないために自分をその場に止めてしまうのだ。問題は撃ち出した際の反動が肉体にすべて返ってきてしまうことだが、ここまで来たら覚悟を決めるしかない。
アテナにとって最後の試練だと直感が言ったような気がした。
そのための最後の攻撃は最大のものであって欲しい。これ以上の出力は帰りの体力まで根こそぎ使ってしまうかもしれないからだ。
学園でこの一撃を止められる生徒が何名いるだろうか? 少なくともシュナリア教官には叱られることになる。狙うは出会い頭の一撃。フェイントも何もなく単純に速度で近づいて放つだけだ。
刻一刻と近づいてくる相手との邂逅。アテナの心臓は張り裂けそうなほどに打ち続けた。心音が耳に届く。敵の気迫が肌を浸透して骨に伝播しているように痛みが強まっていった。
地鳴りが地面に地割れを起こす。
そして、見えた。
人間の大人を超える巨大な体。
頭部から生えている四本の角と六枚の翼。
一振りであらゆるものを破壊しそうな腕には牙のような刃が生えている。
魔力は内側に留めているつもりだろうが溢れているものがアテナの動きを制限した。
足が動かない。
今日まで見てきたどの生き物よりも強く、そして気高いなにかを感じさせる。
(これが気当たり?! ……体が動かない)
アテナに向かって歩いてくる存在に距離が縮まるごとに意識が朦朧としてきた。アテナは歯を食いしばり、痛みで誤魔化そうと試みるも口が動くことはなかった。
(魔力が乱れて制御ができない。変幻弓ドレッドノートも形を維持ができない。坂を転がってでも逃げられればいいのに……)
思考だけが正常だった。でも、そんなもの何も役に立たなかった。
無言の大男がアテナを見下ろす。青い眼が小さな人間を見て何を思うのか気になってしまうほど綺麗な眼だった。でも、その身に纏っている雰囲気は人間を嫌悪する負のオーラそのものだ。
手が上がる。その意味は考えることもなかった。
「……え?」
すうっと何かが抜けた。硬直した体が突然地面に倒れ込んだ。
そこからの流れは早かった。
声を上げる間もなく二つの影が頭上から降りてきた。
一人は巨大な男だ。全身が黒くサラサラの髪が特徴で、腕には複数の装飾品がジャラジャラと付けられており、背中には八枚の翼が生えていた。
そして、もう一人は知っていた。
その後姿をアテナはずっと見ていた。
全身黒ずくめだがフードを脱ぐとそこから見慣れた銀髪が顔を出した。
こちらを向いてはくれなかったがこの二人が敵でないことにアテナは心の底から安心していた。
これから起こることなんてどうでもよかった。
彼が来てくれた。それだけがただ、無性に嬉しかったのだ。
†
『対象は確認した。だが、相手方も動き出している。時間はないぞ』
「ああ、そういう状況か」
東の魔王ことヴァンの言葉に、隣を浮遊しているクロノスは納得した。アルビノの特殊能力で動植物に語りかけているが反応が全くないからだ。
敵はクロノスたちを除いて唯一の魔力体に接近していた。クロノスはとりあえず、周囲の動植物たちにこれから起こるかもしれない戦いに向けて勧告し続けた。
『どうするつもりだ』
「わかっていることを聞くもんじゃない」
そんなクロノスの手には一本の極太い角材が握られていた。
『角材一本で喧嘩を止めようとする奴は世界中を探してもお前だけだ』
「世にも珍しいベルジュシュの木から削りだした由緒ある角材をそこら辺の鈍と一緒にしないでくれ」
クロノスの言葉に現物を目を凝らして見たヴァンは天を仰ぐようにして目を覆った。
『ほう、あの現存している稀少な三本の内の一本を削ったのか……とんでもないことを考えるな。それにあれは金剛石よりも堅い人界最硬度じゃなかったか?』
「非殺傷を目的としているからな」
『当たり所が悪ければ、死。よくて、内臓破裂。というか、確実に死ぬだろ』
それは彼なりの配慮のつもりだったのだが、世界規模で考えるとこの自分勝手な行動は学者たちから非難の嵐を受けることになるだろう。
誰にも知られずに終わって欲しいのだが、確か貴重な動植物は年毎に定期チェックが入る規則があったような気がしたので今度の時には大騒ぎになっているだろう。
「俺は騒動の主を殺しにきた訳じゃない。止めにきただけだ。ま、いざというときは正当防衛ということで事後処理してもらうさ」
不殺主義。それがクロノスの魔物たちへの考えだというのがヴァンの彼を好いている理由の一つだ。人間と魔物の共存、その架け橋になろうとしているのがクロノス・ルナリアという男だ。
『それで相手が納得するのか? なにしろ、事の発端は人間の理不尽な言い分が原因だろう。南の魔王が直接出向くなんて、お前が出る幕じゃないと俺は思うぞ』
「魔王の動機に興味はないが、関係ない者が死ぬかもしれない。それも星降る家の判断ミスで、だ。騒動の主が死ぬのは俺も賛成だが、そいつが死ぬのは感心しない」
事の経緯を把握しているヴァンからすればこの言葉は本音だが、クロノスはそれを良としない。
彼は勘違いから生まれる犠牲者を助けようとしているのだ。
「自然界の掟を重んじるなら、命の価値を知るべきは俺たちの方だ。だが、理不尽で死なせるには惜しい人材だと思う」
『本当にそれだけか? お前から伝わってくる波動がピリピリして痛いぞ』
「なんなら、太いのを刺すか? 遠慮はしなくて大丈夫だぞ。針地獄というのは経験ないだろ」
『ああ。それなら間に合っているから魔力を抑えろ。あちら様もこちらの様子に興味が向いているようだし、……お姫様が困っているぞ』
空間感知能力に長けているヴァンには トゥモララフル山脈内で起こるすべての事象が手に取るようにわかっていた。
『若いのに無茶をするな。魔力制御技術には長けているようだが、気当たりでなにもできていない』
「ま、魔王なら当然だろう。死なないだけ、評価してやってくれ」
『俺の隣で平然としているお前は何者だよ』
「魔術師以上、魔王以上、神以下の盆暗魔術師だ」
目標まで近づくとクロノスは背を伸ばした。超硬度の角材の重さは軽く数トンにのも達するからだ。
『それじゃあ、盆暗魔術師の実力拝見といこうか。角材一本で魔王軍全滅。明日の話題になるぞ。これは楽しみだ』
「まったく……どうなっても知らないからな」
風を味方に一気に加速すると二つの体は流れるように現場に向かう。
「どんな方法を使っても構わないから、ここら一帯に潜んでいる魔物たちを避難させろ。このままだと、余計なとばっちりを受けることになるぞ」
『言われなくても、勝手に逃げてくれると思うぞ』
(誰だって命は惜しいはずだからな)
それでもヴァンは自らの力で特定空間を切り離し、別の場所に座標を流した。
一先ずこれでトゥモララフル山脈が地図から消えることはないだろう。
†
そして、彼が降り立った。
アテナは久しぶりのクラスメイトに頭の中が真っ白になりかけていた。
「……クロ?」
ヴァンを見ると顎で後ろを示されたので踵を返してクロノスはアテナに駆け寄った。衣服はボロボロで肌は露出しているのを植物の葉や蔓で補っていた。血は泥で汚れており、傷口が細菌によって化膿していた。声が出ていることから命に別状は無さそうだが、これ以上は動けないだろう。
それでもこの結果にクロノスは心底驚いていた。
(精神状態は良好。学生レベルにしては出来るほうか)
ヴァンは内心でそう思っていた。肉体の損傷よりも、未知の場所で死の恐怖にさらされたにもかかわらず、その眼に宿っている光は消えるどころかいまだに強い輝きを放っていた。
「悪いが、後にしてくれ。傷の手当をしたい」
アテナの状態を確認しているクロノスの周囲に巨爪の痕跡が刻まれた。相手が牽制の衝撃波を放ったらしい。
『東の魔王は二百年ぶり、月の使者は初めてだな。噂だけは聞いていたが、なるほど……相当の化け物だな。その血を作るのにどれほどの犠牲と時間を費やしたことか。お前は一度でも考えたことはあるか?』
「しらねーな。生憎、そういうことは考えないようにしてるんでな」
簡易的な治療を終えるとクロノスも魔王の顔を見る。人間への悪意に満ちた瞳は見る者によってはそのまま死へと誘ってくれるほどの圧力が込められていた。
戦いを避けようと思っていたクロノスだったがそれは出来そうにないらしい。
それでも、クロノスにもプライドがある。目の前の魔王がこの地にいる原因が人間側にあるなら話し合いで終えたいのだ。
「化け物と魔王が戦っていいことは何一つない。仲間を思うなら、身を引くことをおススメする」
『……いまさらだな。ここまで愚弄されておいて、引き下がれるほど我々の怒りは治まらない』
戦いの傷跡をクロノスも知っている。魔王の軍勢を倒したのはアテナだ。でも、それは彼女にも事情があるからで故意に抹殺しようと思ったわけではない。それはこの場所に来るまでの痕跡を辿れば読み取ることが出来た。
『ほら、言った通りだろ。ジャドを止めるのは面倒だと。こっちから手を出さなければいいという問題で片付かない。どうするつもりだよ』
「ヴァン、アテナを護れ」
呟く声にヴァンはゆっくり後退してアテナの前に立つ。それから指を動かすとぐにゃりと二人を包むようにして空間が歪んだ。
『本気か? 本当にお前らしくない。生きて帰れよ』
「で、いつでもいいのか?」
『構わない。すぐに壊れるなよ』
翼をしまうとジャドは腕から生えている牙を手の延長上に構え……打ち出す。薙刀のような広範囲への斬撃にクロノスは合わせるように角材を間に置いた。一瞬の閃光が衝撃に変わり地面を打ち砕いた。ひび割れた地面を走るように衝撃が全方位に拡散する。しかし、両名に傷はなかった。
『東の魔王を従えるだけのことはある』
「そりゃ、アイツが変わり者だからだろ」
魔物たちの王である魔王は本来魔界の奥底で悠久の時間を過ごしている。だが、ヴァンは自分の意思でこちら側によくくる存在だった。クロノスと出会ったのもそんな時だった。
『違いない』
ギチリと音はするも全く動こうとしない両名の武器。自慢の刃を防がれたジャドは怒るどころか、笑ってみせた。
『魔王の地位について数百年。人間は自分たちこそが世界の支配者だと言わんばかりの態度で、我らを迫害し続けてきた。そして、今回の件。同胞のためにも止まるわけには行かないんだ』
「それは立派な心意気だ。感動して、眠くなる」
今回の件。まだ公表されていない星降る家の独占している情報だが、無害である魔物たちを一部の人間たちが大量虐殺したという情報が入った。
事実確認のために動きまわると大量繁殖による生態系の乱れを正すためだという名目で政府軍から許可が出たという話を得た。しかし、その話に疑問を持ったクロノスは能力を使って詳細な情報を探ると真実は酷なものだった。
ただの憂さ晴らし。
無抵抗の魔物を一方的になぶり殺したのだ。それを公的に行うことが出来なかったので政府の関係者を買収し、犯行に及んだということだ。
それは人間の身勝手なことだとクロノスも、マスターであるマリアも思った。同じ命を持つものとしてそれを実行してしまった気持ちが全く理解できない。だからこそ、今回の件はクロノスにとって魔物たち、いや、魔王の気持ちを救うためにも争ってはいけないのだ。
だが、相手の怒りはどうなる? それだけがクロノスの気持ちを揺らしてくれる。
「そうそう……」
だが、クロノスは一つの確証を持っていた。
「お前たちを無差別に殺した連中だが、現在うちのギルドマスターが身柄を拘束している」
ジャドの力が緩んだのをクロノスは見逃さなかった。
『…………』
「気付いているやつはいると思うが、今回の騒動はまだ公にされていない。政府の連中も関係者以外知らないから、決めるなら今のうちだ」
その言葉は嘘ではない。現在はセリュサが監視係として、マリアが交渉人として真っ向から時間稼ぎを行なってくれている。
「本来の目的だけを遂行するなら、身柄を明け渡す。好きにしろ、だが……」
『考えられんな』
遮るようなジャドの言葉にはクロノスの言葉に揺れ動いているような気がしてならなかった。彼も魔王の一人として考えがある。それは王としてのプライドと民に向けてみせるもう一つのプライド。 そう、今回の件で身内を失った連中のためにもジャドは関係者全てを消さなければならない。
しかし、ジャドは相手の顔がわからない。その術を持っていたとしても身内を虐殺するような連中は全て同じだと本能が訴えてしまえば人類は一気に火の海に変わっていたことだろう。だが、それをクロノスは提示してきた。同じ人間を渡すと言ってきたことにジャドの頭は混乱した。
『仮にも一国の王の血を引く者。民を守り、先導するのが王の務めであろう。それを放棄すること、生け贄にすることを選ぶとは、やはり我らを馬鹿にしているとしか思えない』
「だから、俺はそういうのムカつくんだよ。そういうのはもう一人の天才魔術師に言えよ。ていうか、それしか考えてないし。どうせ殺すなら、一番被害が少ない方法で事を終わらせたいのはお互い様だろ」
『もう少しお前に早く、出会えていればよかったのに、な』
その言葉を肯定と受け取ったクロノスはすぐにマリアに連絡をした。待っていましたと言わんばかりにマリアが返事を返すとそれをジャドに伝えて角材から手を放す。
殺意は消えていた。そして、ジャドも姿を霧に変えて消えていった。
『後のことは俺に任せろ』
そう言ってヴァンも姿を消した。約束の人間を受け取りにマリアのところに向かったようだ。
静寂が山脈に戻る。
この場にはクロノスとアテナだけが残されていた。
「あ~あ、ここの担当区って俺なのに……面倒だ」
地面と木々を見てクロノスはげんなりしていた。
対するアテナは助かったことに「がはああ」と息を吐き出した。
そして、無言。
アテナはクロノスを見る。学園では見れない、月の使者としての姿をじっくりと瞳に焼き付けた。
「うー、ひどい目にあったのじゃ」
その言葉が届いたのかクロノスが近寄ってきた。その白い手が額に置かれるとすうっと痛みと疲労感が消えていった。
「無事で何よりだ。それで、気分はどう?」
「最悪じゃ、目眩がする」
「気のせいだろう。ここは高低差の関係で三半規管が狂うから」
それから クロノスは 考えるよに頬に手を当てるともう一方の指で町に向かっての方向を示した。
「そういえば、伝言だが、トラブルが起きても期限内に帰ってこいだそうだ」
「へ?」
「依頼内容規約には通常、緊急のトラブルに遭遇した場合として心身ともに正常な状態で帰ってこられなければ、状況報告後、事後責任を取る必要はないことになってはいるが、今回は俺が派遣されたから、さっきのトラブルはなかったことにされるらしい」
要するに制限時間は追加されることなく通常時間のまま継続中ということだ。
「……マジか?」
「日の出まで7時間以内に帰ってこなければ不合格」
「ということは?」
「実力が伴わない魔術師の再教育だな」
足から力が地面に吸い取られていった。
「……ということは?」
「地獄の特訓か、資格取り消しか」
上目遣いのアテナの眼から大粒のナミダが地面に吸い込まれていった。ボロボロの肉体に精神的なラストアタックは想像以上の傷を与えてくれた。
もう動きたくない。
「その状態から帰るのはほぼ不可能だろうから、今回はサービスでこの“飲めば力が泉の如く湧き上がる激マズ魔法薬改”か“美味しいけど、どんな副作用がでるかわからないけど、瞬間移動が一回だけできる強制肉体改造薬(厄)”を渡すから好きなほうを選んでくれ」
クロノスが目の前に2本の薬瓶を置いた。
無言で見つめるアテナだったが恐る恐る手にとって見比べた。
透明度が高いが瓶全体から悪臭を放つ薬。
どす黒い液体で何かが浮き沈みしている怖い薬。
はて、これはどういう薬だろう。
「クロはどうするのじゃ?」
「飛んで帰る。連れて帰ってやりたいが、規約違反になったら元も子もないだろ?」
「この薬……絶対に猛毒の間違いじゃ」
「じゃ、そういうことで。ファイト」
クロノスは服から零れそうな小さな瓶を指さしながら言った。
「そうそう、月光花の花粉は日の光にさらすと消滅するから、気をつけな」
それ、超重要じゃん。
慌てて日陰に入って中身を確認するとまだ消滅しないで存在した。が、こんなボロボロの服装でどうにかしろだなんて冗談にも程がある。
「嘘じゃァァァァァァァァァァ――――!」
アテナが吠えると同時にクロノスは飛び上がった。
それに対してアテナは薬瓶の一つの蓋を開けて一気に飲み干した。もう頭の中も、体のこともどうでもよかった。アテナにとって本当の意味で何かが弾け飛んだ。
終わった。
星降る家の玄関で倒れたアテナが救助されるまでその言葉だけがひたすら頭の中を過ぎったのは秘密だ。
†
「ただいま戻ったのじゃ」
ボロボロの包帯まみれでベッドの縁に座っているアテナは到着してからマリアたちの迅速な手当によって一命を取り留めた。
医療室で事件報告書と一緒に修繕費の見積もりを書いていたマリアはアテナの話を聞きながら事情聴取をしていた。
「本当に随分、ボロボロになちゃったわね。それに短期間で相当スリムでスレンダー美人になったわよね。きっと明日からモテモテね」
「うぐ……クロが来てくれなければ今頃、魔物の腹の中じゃ」
「あはは、それは貴重な体験をしたのね」
「笑い事じゃないのじゃ。それにしても、クロは本当に魔物と仲がいいんじゃな」
「読んだか?」
そんな声がすると入り口の前にクロノスとヴァンが立っていた。「お疲れ様」というマリアにクロノスは無言で手を振った。
それから指でヴァンを指した。
「こいつがいるから仲がいいんだよ」
「魔王じゃ」
「ヴァンだ。約束だぞ、今度遊びに来いよ。よかったら、その娘も一緒にな」
それだけを言って消えた。
「優しい魔王じゃ」
「いいムードをぶち壊すのは悪いけど、そろそろ、依頼の品を受け取っていいかしら?」
服の隙間からほのかに光る小瓶が出てきた。
「ふむ、確かに月光花ね」
マリアは言うとそれを机の上に置いて手近にあった薬品の混合液の中に入れた。すると液体がみるみる黄金色に光り、そのまま金色になった。
「この花は薬品の効力を引き上げる効果もあるのよ。だからこうして溶かして飲むと傷なんてすぐによくなるから」
そう言ってアテナの口の中に金色の液体が流れ込むと目を丸くした。
甘い。薬なのに全然飲める。
不思議な感覚に浸っているアテナだったがふと、部屋の一部がガタガタ揺れていることにそちらを見てしまった。
レンガを積み上げたような壁。その一部が少しずつ内側に動いていた。
そして、盛大な音とともに星降る家のメンバーがなだれ込んだ。
「あちゃー、こういうのはタイミングが重要なのに……この馬鹿一同が!」
特大のげんこつを全員に叩き下ろす(クロノスはその前に避けた)と溜息一つで、指を弾いた。
サラサラサラと崩れた壁と同じ部分の壁が砂のようになくなっていった。
そして、たくさんの部屋飾りと一緒に特大のケーキと料理が並び、奥には垂れ幕が飾ってあった。
「あはは、驚かせてごめんなさいね。ちょっと急務が入ったりして、手間取ったけど、一応伝統行事だから、無視できなくてね。三日って言うのはこれの準備期間だったの。ささ、早く手を洗って来なさい。主役がいないと始まんないわよ」
「も、もう……限界じゃ~」
緊張の糸が切れてそれからアテナ一週間寝込んだ。
†
これより五年後、アテナ・トゥリスは数々の試練を乗り越えて立派な魔術師になる。その一方で、彼女は思いを告げられないでいたりする。
思い人が国王になってしまったこともあり、アテナの気持ちはより難しくなってしまったのは事実だ。
ふと、部屋の窓際に置いてある小瓶を眺める。あの日、自分を助けてくれた彼の姿が色褪せることはこの先もないだろう。
そして、いつの日か――――
というのは、いつになるやら。
アテナ・トゥリスの冒険。 Fin