第三回. ワガママ
「白の開闢は色能力のある人間が受ける最終義務だよ。あの部屋への禁固は普通の犯罪者なら大したことない。でも能力のある犯罪者にとっては白は毒。だから抜け出したんでしょ?」
どこまで俺のことをララミンは見透かしているのか。やはり普通の子供じゃない、のか?
「私はあの部屋に入れられたって何も感じないし、むしろご飯が出るから快適な部屋」
「全盲ならどこでもそうだろうが」
寝ている時も起きている時も、ララミンの瞼の中の瞳が俺の視界に映ることはない。開けることをしたくないのか開けることすら出来ないのか、俺が見るララミンはいつも寝ている顔と変わらない。
「関係ないよ。私は見えなくて良いもん。余計なものを見る必要なんてないし、見たくない」
そこで言葉が途絶えた。空高く飛ぶ山鳥が、甲高い声を響かせて小さな影を作った。
「話が逸れちゃったけど、色能者はそれぞれが特徴的で唯一の色を持つ。黒でしょ?」
ババに揺られるララミンが顔を下に向けてくる。
「俺はもう少し前にいる」
だが、見ている場所が違う。声だけで場所を特定するのはまだ慣れてないようだ。少しばかり気の毒にも思ってしまった。他人に対してそんなことを思うことなどなかったんだが。
「私が見る場所にいるくらいしてよ。私見えないって言ってるじゃん」
気が利かないね、ほんと。と呆れられるが、矛盾もいいところだ。
穏やかな風が吹く平原を歩く。道がないわけじゃない。ちゃんと青草の中に肌色の道が走っているが、そこを通らない。ババがデカ過ぎて道幅をとり、行商の荷車や流浪者たちの通行の邪魔になる。そして向けられるババへの奇異の目。分からんでもないが、そこに俺が含まれることが羞恥だ。
「能力ある人間にとって自分の色を奪われるのは、どんな苦痛よりも耐え難い苦しみがある。能力があるのは、それだけその色に依存する。それは能力の代償でしょ?」
ララミンの言葉には同意せざるをえない。見透かす悔しさがあるが、その通りだ。俺にとって何よりも黒が安泰の色。だからこそ白しかない部屋は肉体的に味わう苦痛とは比にならない苦しみがある。
「普通の人間は白から様々な色を取り込んで染まる。でも能力のある人間は生涯染まることがないし、染めることも出来ない。だからその色を奪われて、善の化身とされる白に強制的に染められるのは生き地獄でしかない」
「よく、知ってるな?」
認めざる終えない。俺は捻くれてるわけじゃない。自分よりも弱い奴に興味がなければ、その逆は関心を持つ。ララミンに対してはその毒のおかげでそうなっているが、子供のくせにそこまでの知識があるのは驚きであると内心で関心もしてしまう俺がいる。
「馬鹿でしょ?」
俺が褒めてやったつもりでも、ララミンは受け取らない。ため息交じりに声で見下す。
「普通じゃないから知ってるの。何度も言ってるのに、どうして分からないかなぁ?」
ララミンに同意するようにワンと吼える。この場に俺の味方はいないな。元よりそんなものはいないが、疎外感が少しばかり胸に響く。染められてきてるのか? 俺は。
「ガスイは白の開闢を脱獄した。そしてまた人を殺して裁かれた。それは各国に情報が流されて下手したら懸賞金を掛けられてもおかしくない階級の犯罪者ってことだよ?」
「光栄だな。賞金首になるなんて、流浪者にすれば誇りだぞ」
悪の道に生きる者であらば、それは名売り。己の存在に平伏し恐れるものを手の内に納めることも出来る。力による絶対的支配は光の中での国を治める者と同等であり、快楽だ。
「それはない。私がいる限り義務を背負う犯罪者でしかない。それも危険ランクSとして。本来なら能力を抑える為にバングルか枷を付けるの。それがされないのって分かる?」
俺が危険人物に認定されたことは分かった。だからこそ、何故ララミンが俺の監視者になるのか。それがいまいち理解出来ん。
「私が呼ばれることなんてほとんどないんだよ。証拠に犯罪者のくせにティドゥのこと聞いたことないでしょ?」
義務に関しては酒場や賭博場で聞くことはある。同じ道に生きるものたちの情報は交差する。そこが事実である確証になる。だが、俺は判決を言い渡されるまでこんなデカイ犬を見たことも聞いたこともない。
「それだけお前が義務としての具現の中では特殊と言うことか?」
「やっと理解出来るようになった? 子供の物覚えよりも頭悪いね。私が余計なことをしないのは、その能力を使ったところで、私には無意味なの。だから手間を省いてるだけ」
褒めてるのか貶しているのか。やれやれだ。
「一つ良いか?」
「却下しても聞くでしょ? 馬鹿なんだから」
その通りだが、そこで聞いてしまえば俺は馬鹿と言う烙印を自覚してしまうのか?
「お前の義務を背負った罪人はどうなった?」
俺の今の義務はこれまで受けたものよりも格段に楽にしか思わない。あれをしろ、これをしろと言われもしなければ、規則正しい生活を強要されることもない。ただのお守り。それが今の俺の認識。
「やっぱり馬鹿だね。何度も言ってるんだけど?」
ババも同意するように小さく吼える。
「死んだと言うことで良いんだな?」
「何度も言ったって言ってるじゃん」
ララミンの願いを叶えた人間は誰一人としていない。義務を果たした人間がいないと言うのは、義務を背負ったまま死んだ以外ない。死ぬ以外での義務の解消は更生のみ。俺の義務は白の開闢の禁固も残っているが、それを完遂することもなくさらに重圧的な義務を着せられた。それがララミンの願いを叶えると言うことで良いらしい。
「何が難しい?」
「さぁね。私に忠実でなければついて来れないんでしょ。大人のくせにだらしない人間が犯罪者に成り下がるんだし、そんな人間に願いは叶えられないだけじゃないの?」
俺にも期待してない口調。半ば諦めを含む願い。
「あ、果物の行商っ。ガスイ、私ブドウが食べたい」
人がそれなりに真剣に考えていると言うのに、ララミンはやはり子供。離れた所の道を行く行商の馬車を見つけて目を輝かせているようだ。
「よく分かるな?」
「見えるものが全てじゃないんだよ。当たってるでしょ?」
確かにララミンの言う通り、道行く行商の引く荷馬車は果物や野菜を運ぶ一行。穏やかでのどかな風景の広がりを手に取るように理解しているララミンは、どうしても全盲だと言う確証を俺は得られない。
―――見えている。
そうとしか思えない。
「スズライまでまだあるんでしょ? おやつくらい良いじゃん。買ってきて」
「なら金を寄こせ。お前が有り金奪ったろ」
ララミンが金の入った袋を俺に落としてくる。全盲である些細な証であるのか、社会を知らない上での金銭感覚なのか、金と言うものへの執着はあるようでない。金を要求し、ぼったくる割りにはこうして金を俺に渡してくる。勿論俺の金なんだが。
「ティドゥの分もだかんね。新鮮味のないもの買ってきたら産地まで採りに行ってきて」
「なけりゃ諦めろ」
舌打ちして行商の列に向かう。ガキのくせに食に対するこだわりなんざ持つなと思う。俺がガキの頃なんか残飯食って生きていた。比べるつもりはないが、何かムカつく。
「おい、そこの行商」
行く手に立つと数台の中型馬車が止まる。
「何だ、兄ちゃん? 買い付けか?」
「ブドウを四箱貰えるか」
契約物であるなら卸を通さなければこんな道端じゃ強奪でもしない限りは買えはしない。
「良いだろう。ちょうど新鮮なもんがある」
車列を引く男が後に声を掛ける。どうやらそうじゃないらしい。
「はい、お待たせ。一人で四箱も平気? 結構重いよ? 量あるし」
娘だか、それくらいの年頃の女が小さな荷車を押してくる。木箱に詰められたブドウは確かに瑞々しい。俺たちが向かう先から来たということは、国境の町スズライの豊かさの象徴のようだ。
「問題ない。で、幾らだ?」
俺のことを知らない庶民。俺が犯罪者であり、逃亡の身であればこんな穏やかな買い付けなんてありえない。俺の邪魔ではない限りは闇を呼ぶことはないが、邪魔をするのであれば俺はこの行商の一行を殺めることに躊躇いはない。
「三万Lqだ」
「ふざけるなよ?」
たかがブドウが何故三万もするのか。不景気でもあるまいし、四箱なら精々一万数千が妥当だろう。
「ぶざけてなんかないよ。これが普通なの」
運んできた女が俺を無知のように言う。
「今のスズライは水不足なの。それも尋常じゃないほどにね。おかげで名産だった果物や野菜も他の市場価格とは桁違いに高騰してるの。仕入れも大変なんだよ。私たちの生活もてんてこ舞いなんだから」
「水不足だと?」
スズライの行商らしい一行の言葉に、眉間に皺が寄る。スズライに足を運ぶのはこれから向かうことを含めて三回目になる。二回行った時は水不足なんて言葉は不似合いもいい所だったはずだが。
「ああ。昔の生活も転換してるんだ。活気もなけりゃ、移住者に人口も減ってる。むしろおめぇさんみてぇなやさぐれもんの街になりつつあんだよ」
俺の格好を見て親父が顎鬚を掻く。言葉と裏腹に表情は警戒してる。当然だな。
「何があった?」
「泉が枯れちゃったの。おかげでそれに頼ってたせいで、スズライは昔の面影なんてないのよ。どうせあなたも流浪者か荒くれ者でしょ? 生憎だけどスズライに行ってもろくなことないよ」
人を見た目で判断してるな。だが悪気が感じられないからか怒りも覚えない。むしろ眩しい水の街が枯渇したと言う事実に対する驚きで覆い隠された。
「こら、リノア。客人に対して何てこと言いやがる」
親父が娘を注意するがその必要はない。事実だ。
「それにしても、その割にはちゃんとお金払うんだね?」
意外そうに言われる。俺も義務さえなければ金など払いはしない。
「義務を負ってるからな。監督者の前で余計な軽罪を重ねるつもりはない」
ただでさえ楽な義務だと思っている中に、束縛するような追加義務を背負うほど俺とて馬鹿ではない。
「へぇ、で、その監督者はどこ?」
「驚かないのか? 警戒もしてないようだが?」
金を支払い箱を引き取る。流石に手で持ち運ぶには不便だな。
「だってあなた、武器も何も持ってないじゃない」
「もしかして兄ちゃん、色能者か?」
「そうだ」
認めてやっと言うのに全く驚かれない。それはそれで何か寂しいものがあるな。
「見た目からしてそれっぽいもんね。黒色? ってか暑くないの?」
俺の肌が露出しているのは手先と鼻以上の僅かな部分。後は重ね着にマント時にハイネックで隠す。
「慣れだ」
ふーんと流される。ララミンの毒を喰らっているからか、何とも思わなくなってしまっている。
「ねぇねぇ、どんな能力持ってるの? あたしさ、能力者なんて初めて見たんだ。ちょっと見せてくれない?」
確かリノアとか呼ばれてたか? リノアが好奇の目を俺に向けてくる。そう言う目は嫌いだ。眩しい。今の格好でさえ全身を日の光から遠ざけたいと思っている。目すらも髪の下に隠している。光は白。真逆の色は何よりの毒。好奇心とはどんなに穢れたものであれ、白に戻る瞬間色。俺を恐れることをしない平民も久しぶりだ。いつまでもララミンを待たせるのは毒吐きを待つも同じ。早めに戻るか。日が暮れる前にはスズライにも着きたい。
「少し離れてろ。俺の陰に入るな」
親父とリノアの視線が俺の影に向き、後退する。影の中に箱を置いて固まりかけた血跡を噛む。治癒してない分すぐに出血し、かすかな痛みが再発する。
「影」
血を落とし影を模る。
「影が・・・・・・」
二人が俺の影が人型から円に変化する様子に声を漏らす。見慣れた俺にはなんてことなくとも、そうじゃない人間からすれば物珍しさに満ちたものということか。俺の主観があれば、また別の主観も存在する。決して同じではない主観の違いをこういう形で知るのは、どこか新鮮かもしれない。
「転移」
俺が元々所持品が少ないのも、こいつがあるからだ。必要なものは闇の中に置いておく。それは陽の元で闇になる影が存在する場であれば、闇に残したものをどこにでも表せる。殺めるだけではない力。いや、全ての力には元よりの殺めるものなどないのだろう。それを殺める行為に持ち出すことで覚え、変化させる。そうやって邪魔するもの全てを葬ってきた。
「うわわっ、箱が地面の中に・・・・・・っ」
リノアが目を見開いてオンブルに飲み込まれていく箱を凝視している。親父も似たような顔で口が開いたままだ。だらしない顔だな、全く。
「俺は戻る」
影の中に呑み込まれた箱は、もうここにはない。後はララミンの元でデプラッセすればそれで良い。
「あの箱はどこ行ったんだ?」
「闇の中だ」
身を翻す俺の背に親父の声が飛んでくる。ここまで見て恐怖を感じない人間は、ララミン以外に初めてだ。そこまでの黒を出してないのもあるんだろうな。
「ちょっ、ちょちょちょちょっ、待って待ってっ」
不意に体が大きく背後に引き寄せられる。リノアの声と共に首が若干絞まる。俺の羽織るマントを引張るリノアを一睨みすると慌てて首を振る。ララミンのカニ頭には足りないが、後ろで束ねた髪がババの尻尾のように揺れる。
「あなた、すっごいじゃん。なんて能力なの?」
その眩しい目を止めろ。そう言った所で聞く耳など持たないんだろう。俺はリノアの目を直視することも出来ず背を向ける。
「・・・・・・闇だ」
「闇? 闇って夜とか影みたいなもの?」
「そうだ。俺の邪魔をするなら闇に沈めるぞ」
細かい話をしたところで平民には理解出来ない。適当にあしらうのが最良だ。敵対する関係でないのであれば、他の関係を築く必要などない。馴れ合いは邪魔が増えるだけ。
「あたし初めてだからさ、ちょっと感激しちゃった」
感激、か。産まれてから一度たりとも不思議にも思ったことのない力。俺にとってはそれが普通で平民に力がないことの方が不思議でならなかった。何の力もなく武具に頼る人間の愚かさは、弱々しく醜いものだった。だから今でも殺すことに躊躇いはない。ただ、その認識にヒビを入れる最近の日常はどうも収まりが悪い。少女にすら勝てない力。その屈辱を植えつけられると、考えるだけでも虫唾が走る。
「もう会うこともない。良い経験だとでも思っておけ」
「うん。良い経験出来たよ。義務が早く晴れると良いね」
思わず振り返ってしまった。そのつもりなどなかったが、その言葉は俺を苛立たせるには十分だった。
「ふざけるな。何も知らない小娘がでしゃばるなよ」
「えっ・・・・・・」
好奇の目の色を、闇に落とした。そんな感じだろう。リノアの目に恐怖が宿る。
「あっ・・・・・・えっと・・・・・・」
その声だ。恐怖に捕らわれた瞬間の声は、俺には心地が良い。断末魔が何よりも俺には喜びをもたらすが、そう言うのも悪くない。そんなリノアの動揺を背景に溶け込ませ、その場を去る。足音が聞こえない。呆然と立ち竦んでいるのか。それもまた良い。いつだったか村を襲った時に殺さずにおいた子供の生気のない顔と同じような顔をしているのだろう。
「おっそーい。何してたの?」
道を外れ草原の中を戻ると、遠目からでもババがデカイと思った。
「関係ない。デプラッセ」
デプラッセで先ほどのブドウ箱を闇から取り出す。時流などない闇の世界にあるものは不変。故に新鮮なものはそれを無窮に保ち、朽ち果てるものは時を止める。
「怯えてたよ、さっきの女の人。平民脅すのは罪だよ。知ってる?」
「何故分かる?」
先ほどの行商へ視線を向ける。既に出発し車列は進んでいるが、人の表情など俺の視力は悪くないにも拘らず見えはしない。模りが見える程度。
「ティドゥが教えてくれたもん。ティドゥは三キロ先の蟻だって見えるんだよ」
あり得ない。犬の視力がそこまで良いわけがない。
「信じなくて良いよ。犯罪者にティドゥのこと分かってもらいたくないもん」
ブドウを一房彷徨うララミンの手に渡す。残りは俺が数粒手に取りババに渡してやる。
「別に恐れられるのは日頃のことだ」
「故意にやっちゃだめって言ってるの。義務を負う間は、人に肉体的精神的危害を加えることは禁止。今のガスイは犯罪者で、平民にも厚意を持って接することも義務。弱い人間をいたぶるんじゃなくて守るの。それが子供なら特に。未来を潰す人間なんて存在価値ないよ。能力封じられたくないでしょ?」
ララミンがババの背中に背負わせている荷物の中を首を傾げながら弄り、バングルを空に翳す。
「持ってたのか?」
「もち。私の願いを叶えることが義務だけど、これまでの義務だってもちろん継続したって良いんだよ?」
「お前の裁量次第と言うわけだな?」
「それくらいの脳力はあるんだね」
嘲笑に晒されるのは、子供でも殺意を覚える。義務を早急に解消し、その後即座に殺してやろうか。
「これを付けられたくないならおとなしく私の忠僕になること」
「後で覚えておけよ」
子供に言われた所で守るつもりはないが、上辺だけ頷いておく。が、この恍けは明らかな見下しだろう。俺は義務を解消しない限り毎日こんなんか? 死にたくなるぞ。
「一つ情報がある」
「スズライのことなら知ってる。それ以外なら聞くよ?」
「・・・・・・いや、いい」
会話が終わった。
「つまんない男。そんな大きな情報なんてどこにいても手に入るでしょ。ガスイって情報収集の仕方が下手。そんな情報だけじゃ行く先々で振り回されるのがオチ」
戻ってくれば来たで降り注がれる少女の毒舌。心休まるのは、今までは野宿など当たり前だったが、ララミンの監視下にあることで宿費が掛からず布団に包まれて眠れる時だけだ。費用は法廷経費。おかげで昔よりも流浪が快適だと考えている。ララミンの毒も眠ってしまえば所詮はただの子供。
「なら、お前は他に何を手に入れている?」
その物言いは俺以上の情報を持っている確信があるからだろう。礎のない言葉は空虚であり虚言そのもの。そんなものを俺は信じはしない。
「誓い」
もごもごとブドウを味わいながら、そう言った。
「は?」
だからそう返した。それが普通だろう。
「ガスイは私の何?」
たなびく雲の影にブドウの実り香を乗せ、皮も種も飲み込む俺にララミンが問う。
「お守りだ」
「ティドゥ」
俺の横で箱に貪りついていたババが命令を受ける。伏せている状態では俺を噛むことは出来まい。だが俺は用心深くもある。顔の届かない所に避ける。
「・・・・・・・・・このやろう」
「逃げられないって言ったじゃん。学習しないね、ガスイって」
全身に漂う爽やかなブドウの香り。そして全身にねっとりと絡みつくブドウの種と皮。それに半端じゃない量の涎。
「そう言う意味でも、だったか・・・・・・」
認識が少しばかり欠落したようだ。ババは噛むだけではなかった。デカ犬のくせに器用にブドウの実だけ食い、リスのように口内に溜めた皮と種を涎に混ぜ俺に吹き飛ばしてきた。
「だから無駄って言ってるのに」
俺の周囲の草花が闇に呑み込まれると言うのに、やはりババとララミンだけは木陰で一息ついているようにそこに居て、闇に呑み込まれない。
「くそっ! 何なんだお前らはっ!」
溜め込んだ怒りが噴出した。
「それこっちの質問。ついでに私に質問禁止って言った。どうしてティドゥみたいに忠実にならないかなぁ。今のガスイは私を亀鑑にするのも義務なんだけど」
「なってたまるかっ!」
くそっ。楽な義務だと思った。今までの旅に目的と子供に犬が加わっただけだ。だが、どうしてこうも苛立ちが孤独の頃に比べて溜まる。こいつを手本にして生きるなんぞ御免だ。
「そんなのガスイが人殺しだから。今までのように行くわけないでしょ。私の狗なんだし」
「ワウンッ!」
人の心まで読みやがるこの毒に塗れた少女を黙らせることの出来る能力者はいないのか。やはりスズライの町で武器の一つや二つを所持する他ないようだ。
「今更怒りを爆発させても、どうしようもないよ。犯した罪を省みて人生をやり直すことが義務なんだから」
「いちいちぶり返すな。ナイフで切り刻まれたいか?」
「だから無理だって何度言えば理解出来る? 理解出来るまで言ったげるよ。私には時間が沢山あるし」
癪に障る。虫唾が走る。どうしようもないくらいの衝動に駆られる。今なら恐らく待ちの一つや二つを軽く消滅させることが出来るくらいに、俺の中に闇の力が煮えたぎってる。
「黒の割りに耐性低いよね。闇は全てを飲み込むんでしょ? 自分の感情を呑み込むことも出来ないの? そんなんだから私とティドゥを殺せないし、自分よりも弱い人間しか手に掛けられないんだよ?」
理解していることを再認識させるように言う口調が気に入らない。未熟だと理解していることを成熟にも及ばない奴に言われると腹が立つばかりだ。
「なら、お前は俺よりも強いとでも言うのか?」
「うん」
清々しいまでの即答に、とっさの返答が出てこない。出そうになる怒りを押さえ込む。
「言われて我慢するようじゃ、程度が知れてる。無理しないで吐いちゃえば? 私監督者で飼い主なんだから、今くらいは愚痴聞いたげるよ?」
涼やかかつ上品にブドウを一粒ずつ味わうように食しながら、俺の愚痴を聞くと言う少女。
「でも、今のガスイってすっごい恥ずかしいよ? 子供に愚痴吐く男ってことだし」
一度毒を吐き始めると止まることを知らないのか、お前は。
「・・・・・・もういい。俺は先に行くぞ」
相手にするだけ無駄な労力の消費になる。
「別に良いけど、どうせ私の元に戻ることになるよ? 付き従ったほうが二度手間にはならないけど?」
「ガキのお守りなんざ散々だ」
苛々が収まらん。これ以上ララミンの元で毒を受けると発狂しそうだ。それはそれで俺にとっては興奮する闇の力になるが、生憎俺はまだ力の掌握が不十分。馬鹿馬鹿言われている以上、馬鹿はやらん。
「下らないプライドで動くのも、犯罪者の行動原理のうちだって知ってるのかなぁ?」
そんな一言が風に乗って俺の耳を擽ってきたが、その風にまた乗せてどこかへ吹き流す。しばらく頭を冷やした方が良い。いや、冷やしたい。その気分に従って俺はララミンとババの元から一人離れた。
「行っちゃった?」
「ワウ」
「どうせ一人じゃ国境も越えられないし、スズライで私を頼ることになるのにね」
「ワウ」
「でも、最初はこんなものだもんね。犬の躾なんて、その子の特徴を見ないといけないし」
「ワウ」
そんなやりとりなど、もう俺には届いてはいなかった。