第十回.別れ
足取りが止まる。杖が道端に当たり、カンと響く。俺たち以外に息を呑んだ動きもある。
「どうして?」
振り向くことなく、こいつから疑問を投げかけられる。冗談ではない声。もしかして事実だったか? だとしたらあり得ないだろ。死人がこの世にいるはずがない。
「人間であれば俺の闇に呑まれる。能力者であれば何かしらの対抗がある。だが、お前とババは何もしていないと言うのに、影響をまるで受けない」
「ガスイの力が未熟だからじゃない?」
再び歩みを始める。杖の音が森に響き、森に飲まれる。俺たちの足音の中に影が響く。アリスが立ち入り禁止だと俺を引き止めた理由がこれか。大したことはないが、向こうの緊張感は張り詰めるばかりだな。
「人間をいくら殺したと思っている?」
「だから、私の義務を課されたんだもんね」
「冗談に付き合うつもりはないぞ」
茶化すように明るく言うララミンの言葉を遮る。いい加減これまでの義務と言うものとの違いに、俺が影響されてしまっているのかもしれない。
「犯罪者のくせに、義務に縛られたいみたいな感じがするよ? 私は一つの願いを叶える事だけを課したんだけど、もしかしてそう言う趣味がある?」
どうして俺のことをそこまで見透かす? 俺はそれほど分かりやすい人間だろうか。
「知りたいなら良いけど、そのうちね。私が覚えてたらだけど」
その言葉と同時にララミンの足が止まる。
「何だ? ここは」
前を行く背中を見下ろしていたから気付くのに遅れたが、狭かった道幅が広場に突き当たった。
「スズライの人にしてみれば、ここが聖域。ほら」
ララミンが杖を前に何かを指し示すように突き出す。
「見えているのか?」
全盲のはずだが、杖が指す先には石碑がある。水狼の石碑。恐らくその先に水源がある。
「見えなくても肌に感じる空気と、音の反響でそこに物体があればそれくらいの把握は出来るの。杖なんてなくても歩けるけど、狭い道だと私だって恐いって感じることくらいあるの。子供相手にいちいち自分の考えを押し付けるのって、すごく迷惑」
なぜそこまで言われないといけないのか、俺は。ララミンの毒だけは嫌に響く。
広場に出たは良いが、これ以上先はただの森。日も傾いてきたとあって、深部は常人では把握出来ないだろう。俺としてはこの先の暗さは心落ち着く雰囲気があるのだが。
「この辺りの状況を教えて。さっきからずっと鼻がムズムズしてるのも何? 花粉?」
ララミンが何かを感じようとしているのか、顔をあちこちに振っている。この緊張感の中で何も感じていない呑気な姿に、俺の感じる緊張感までもが失せる。
「石碑は長らく手入れが滞っているのか、コケが繁殖している。鼻を擽ってるのはキノコの胞子だ。狼の糞も乾燥しているが落ちている。この辺りに出没したのは最近では無さそうだ。だが、今は状況が違うようだぞ。気付いているだろ?」
石畳の広場だが、隙間からは草が生い茂り、見たこともない妙な色をした花やキノコが胞子を飛ばしている。長時間いると体調に支障を来たすだろう。
「人が最後に入ったのは、数年は軽く経ってるってことだね。皆お腹空いてそうだし」
久しぶりに踏み入った人間に対する警戒。本来人間に限らず他動物とも一線を引く猛獣である狼。警戒心が強く、同類であろうとその心は凍てついている。それを気高く孤高と言うが、そうではない。警戒することはつまり、怯え。だからこそ、距離を保ち監視している。向かってくるなら手を掛けるが、ララミンには何故か強くそれを拒否される。理由の説明を求めたいが無関係だとあしらわれる。
「おい、どこに行くつもりだ?」
辺りにいるのは狼。だが、どれも獣としては物珍しくはないただの狼。
「決まってるでしょ。私の用はここにはないの」
ララミンが歩き出す。先には何もないただの森へ。ふらふらと慎重な足取りで。
「道はないぞ? お前なら間違いなく迷うと思うが?」
「何も見えない私が迷ったって迷ったことにはならないんだよ。私の世界はガスイと違って光が一切ないの。どこに居てもそれは絶対」
「ただ迷ったことに気付かないだけじゃないのか?」
「言うね? 犯罪者のくせにちょっと生意気じゃない?」
考えるまでもない。見えないのであれば一把握が出来ない。つまり迷ったと言う認識を抱くこともない。石畳の終わりを越える。その先にはただの森でしかない。それが感触で分かったのだろう。杖を振る動きが慎重になり、踏み出す足も踏み出す一歩に確認を含んでいる。
「ここからは同行する必要もないだろう。俺は俺で行くぞ」
「水狼はただの狼だって何度も言ったのに、聞き分け悪いね。初めてだよ。私について来るくせに言うこと聞かない犯罪者って」
笑われる。森に響く子供の笑い声に俺たちを警戒する狼が姿勢を低くする。薄暗さにはっきりと姿は捉えられないが、ほぼ円陣の中に俺たちを収めているだろう。
「ついて来たわけじゃない。そうするしかここまでの道がなかっただけだ」
「いいけど。でも監督者として忠告。この森に居る狼は山岳で見るような狼じゃない。能力のある試験管動物なの。言っちゃえば動物の色能者ってわけ。水狼もその類。つまり水狼は神なんかじゃないってわけ」
「何だと?」
動物の色能者? そんなものが存在するのか? つまりは人間の能力者と同じと言うことか?
「だから殺しちゃダメ。一匹でも殺したらここの狼は皆が同じ境遇で生まれたせいで仲間意識が強いから一斉に町に襲い掛かるよ。きっと人間に対しては本能異常に怨敵って思ってるかもね。一匹でも死んだらどうなるかな? 募りに募った恨み(おもい)の水風船を人って針で突き刺すんだよ?」
「それが法廷の粛清、か?」
能力と言っても狼だろう? 期待出来るほどに知能があるようには思わないんだが。
「どうだろうね? 狼を一匹殺して町を襲わせるかもしれないし、法廷所属の色能者の手かもしれないし、私には分からないよ。私は所詮は義務の具現。それ以外に関しては、私には何の権利もないもん」
「お前は一体何をしようとしている?」
不敵な小悪魔のような笑み。誰が何をしてもいずれはそうなることを知って、何もしないような気味悪さすらある。瞳の色を決して見せない瞼の向こう側に広がるこいつの色は、一体何色なんだ?
「ハウン。私はハウン。そう呼べって何度も言ってるのに学習能力ないよね。ほんと相手するのが疲れる。じゃあね、ガスイ。大人しく宿を取ってて。はいこれ」
森に踏み込んだララミンが、俺に振り返る。そして何かを放り投げる。舞う胞子を切り裂くように、小さな物が俺に向かって―――飛んでこない。
「どこに投げてる? 俺はこっちだ」
石畳に跳ねる金属音と差し込んだ光を反射する眩い輝き。
「私が投げた方にいれば良いだけでしょ。いちいち文句言う前にさっさと町に帰ればか」
ふんだっ、と身を翻して慎重な歩みで森の中に入っていく。
「我が儘すぎだろ、お前」
少しは事情を聞かせろ。半端に餌を与えられると狗は余計に腹を空かせるもんだが、あいつは故意にやっているとしか俺には思えない。ララミンが俺に投げたものを拾う。ララミン一人であれば、その装束ですぐに身分が知れる。白装束には法廷の紋章が施されている以上、民には監督者として外界にいる白装束の人間に対して崇拝と支援を怠ってはならない義務が常時課されている。そのおかげもあり、無償援助によるララミンの義務を解消するべく俺は今までと大して変わらない流浪をしている。だが、ララミンは子供。監督者として監視をする義務があると思っていたのだが、ララミンはほぼ己のことを第一に行動する。
「俺も戻るつもりはないぞ」
手にしたのは監督者のみに所有が認められるとか言う、大法廷よりの義務期間中における犯罪者の身柄保護による紋章のバッチ、白の法廷。これが大衆に対しての援助義務を要請する証にもなるが、俺が持っていても正直余り意味を成さない。風体が風体だ。偽物にしか思われない。ララミンの思考はやはり子供だと言うことだが、そんな細かいことなど考えることはないのだろう。