第一回.闇、少女と犬
白の少女は、俺に何を求めようとしている? 俺は何を答えに提示すれば良い?
今思えば、俺は人間を愚かだと思っていたが、俺自身もまた人間であり愚かであったと選択の間違いを悔いているのかもしれない。大人しく捕らわれていれば――――――。
「おなか空きましたぁ」
それなりに遠慮をしたつもりの主張なんだろうが、言い方が生意気だ。
「知るか。俺は減ってない」
隣を行きながら俺を見下ろす少女が不満げに空腹を訴えてくるが、俺も同じく腹が減っている。ガキと言うものは我慢と言うものが出来ないから面倒だ。
「ティドゥ」
少女のその一言に俺の視界を闇が包む。夜ではない。日の光に照らされた俺の視界に光が一切入ってこない。それは闇。俺に殺された人間が最後に見た世界もこんな闇だったのかもしれないと、最近になって何となく分かるようになった。
「・・・・・・放せ、ババァ」
上半身を包むヌルヌルベタベタの、今朝食った肉と果物の消化された臭い匂いの生暖かさと、腹部と背部に感じる若干の痛みに直立不動になり声を絞る。圧迫空間と言うものは嫌いだ。俺は常に解放的でなければ気分が悪くなる。そこに光のない闇で在るならば、狭空間であろうと関係ない。見えるものがなければ、そこがたとえ狭かろうと広かろうと人間は空間の把握がその目では出来ない。だから手を伸ばす。体には緊張を持って。
「ティドゥはまだ三歳の女の子。ババァなんて失礼だよ。レディへの嗜みくらい弁えるべき」
ギリっと腹部に無意識に筋肉の硬直を迎える。空間が狭まり、上半身のあちこちに鳥肌が立つくらいに気色の悪い液体が俺を飲み込む。そろそろ呼吸が漂う匂いに染まりつつあるせいか、眉間の皺が震える。くぐもって聞こえる声が、俺には俺の背中から直に響いて熱い息と共に降りかかって気持ちが悪い。
「・・・・・・俺が悪かった。だから放せ、ババ」
俺の声がこの空間では曇る。恐らく外にはもっとくぐもって聞こえているはずだ。
「ティドゥ、もういいよ」
外から聞こえる少女の曇った声に、視界が再び日の光の下に晒される。
「で、おなか空いたんですけど?」
「空いてないと思えば空かない。景色でも眺めて気を紛らわせ」
「ティドゥ」
そして、少女の言葉にまた俺の視界は闇に染まる。抜け出した開放感は幻の夢であったように。
「・・・・・・分かったから、口を開けろババ」
「言うこと聞かない人は嫌いなの。分かる? 馬鹿じゃないんなら分かるよね? それとも馬鹿?」
もういいよ、と俺の世界がまた色に染まると同時に、頭上から声が降ってくる。
「誰も好きでお前と歩いてるわけじゃない」
上半身に纏わりつく涎を拭く。全身が唾液に染まって臭いことこの上ない。水浴びでもしないと誰も寄ってこないだろう。元より俺に寄ってくる人間などいやしないんだが。
「犯罪者のくせに生意気言うな。私の言うことに忠実であることだけに生きれば良いの。それを喜びと感じれば。って、そんなのただの変態じゃん。あれ? 変態だったっけ?」
俺に向かって遠慮なく物言う人間がいるとは、正直なところ思ってなかった。いるとすれば法廷のジジイ共くらいなもんだとばかりだったが、まさか隣にいるとはな。
「死にたいのか? ガキのくせして余計な口を聞くな」
振り返る。だが視線は若干、いや、結構上を見上げる。その瞬間南天に輝く白い陽が俺の視界を焼きそうな勢いで飛び込んでくる中に、俺は見た。
―――俺の背負う義務の具現化した、たった一人の少女を。
側頭部に束ねた黒い髪がそれぞれ二本ずつ計四本肩に垂れている。蟹の足だな、と前に言ってやったら、笑いながらババに噛み殺されそうになった。今思えば、今二回噛まれたのは随分と手加減した甘噛みだ。あの時の噛み具合は、俺の腹部と背部に今もなお歯形を残してる。まぁそれはいずれとして、俺を見下ろす少女は、その四本の尻尾のような髪に小さな体。歳はまだ十。見たまんまのガキ。それでこいつの説明は終わりだ。
「私を殺したいなら殺しても良いけど、その前にティドゥを殺せないと殺されるのはそっちだよ?」
ワウッっ! と犬なんだろうが、犬とは思えない低く大きな声が耳を劈く。
「ならやってやる」
そして俺は、ガキのくせに俺を見下ろす少女の小さな体が乗る、犬を見上げる。
「だって、ティドゥ。ブッチめちゃって欲しいみたいだよ」
そう言いながら犬の背中から飛び降りる少女。着地するまで一秒ほど掛かった。デカイ犬だ。少女が小さいのもあるんだろうが。
「いたっ!」
自ら飛び降りておきながら着地が出来ない。地に足が着いた途端、バランスが崩れララミンは倒れた。
「慣れないことをするからだ」
「クゥゥン・・・・・・」
その様子に犬が対峙する俺を差し置いて、身を屈めて少女に身を寄せる。
「えへへっ、平気だよ、ティドゥ。それに比べてさ、見てるだけなんて趣味悪すぎ」
「自分の始末くらい自分でつけろ」
少女が身を寄せた犬の鼻先に手を彷徨わせると、犬が鼻を伸ばして少女の手をそこに乗せてやる。それを支点にして少女が立ち上がる。何なんだ、この犬の人間様に対する態度の違いは。そして少女の俺と犬っころに対する態度の急変さは。
「じゃあ、やってみる、犯罪者?」
犬を支えにして立つ少女が・・・・・・俺に向かってだろうな。でも、明後日の方向を見ながら続きを話す。
「俺はこっちだ。どこを見ている?」
「あれ? そっち? もぉ、私が見てる先に立つくらいしてよね」
何故俺が叱られる? そして何故俺がお前に気を利かせなければならない? 自分で飛び降りただろ。ここでいちいち突っかかると、厄介になる。だから黙っておいた。この義務さえなければ、俺は真っ先にこいつを闇の中に引き摺り込んで殺す。それが出来ないわけじゃない。出来ない理由が在るから殺せない。全く、あのジジイは厄介な刑を俺に着せたもんだと呆れる。
「殺って良いならやるぞ」
「だって。ティドゥ。ブッチめちゃえっ!」
少女が、いやもう面倒だ。ララミンが超大型犬である、純白の毛並みを纏うララミンにしか懐かないティドゥ・ババに囃し立てるようなエールを送る。
「良いんだな? 手加減しないぞ?」
「ワンッ!」
こいつは殺し合いと言う言葉を、遊びあいとしか認識してないな。遠くから見ればどこにでもいるような犬。だが、やはり犬じゃないと俺の蓄えた知識の中では理解がある。
「あ、でも殺しちゃダメだかんね、義務期間中なんだから」
「・・・・・・手加減はしてやる」
ララミンが可愛がってるのはこの数日で知った。いたぶる程度に抑えてやるか。
俺の中での式は、
―――俺>ババ>ララミン。
これは実力的配分からしての妥当性を見出した結果。間違っている事実ではない。しかし、ララミンの中では、
―――ララミン>ババ>俺。
ガキの裁量だからこそ気もしないが、ババと俺の中では明らかな差別がある。理由は簡単。
《犯罪者で可愛くないから》
構わない。こいつに好かれようなんて思わん。むしろ今までにないくらいにこいつに対しては殺意衝動がある。俺の道を阻む人間の中では群を抜いて腹が立つ。
「何言ってんの? 手加減するのはティドゥの方。ガスイは本気でやんないと死ぬってば。馬っ鹿じゃないの〜? あ、だから犯罪者なんだっけ?」
キャハハと可笑しそうに俺を嘲笑するガキ。こいつは絶対に殺すと改めて心に誓い、ババに対峙する。
「ワンッ!」
可愛い泣き声なんてもんじゃない。可愛く吼えたのだろうが、図体がでか過ぎる分、その声は怪物を連想させる咆哮だ。
「掛かって来いってか? 随分舐めた真似だな」
「舐めてるもん」
余計な一言が引き金になった。直に国境越え。周囲は穏やかな平原の広がり。吹き抜く風が青草を愛でる。俺の嫌いな光景の広がり。そこに対峙する俺とババ。ババァと呼べば必ず噛まれる。だがババと名前がなっている以上愛称だと言った所で、俺の言葉なんか聞きもしない。
「こいつを殺して、次はお前だ」
「だから出来ないって言ってるでしょ。愚かな殺人鬼さん♪」
相当自信があるか、猛獣退治のように立つ俺とババを見て無邪気に笑ってやがる。どこまでも上からの見下ろす言葉に腹が立つ。子供にお目付け役にされるのは、あのジジイが俺に課した羞恥。あのジジイも俺の手でいつか土葬してやる。
「始めるぞ」
俺は剣も杖も銃も槍も持たず、使わない。不要なものなど持参しない。持つ物なんてほとんどない。最低限の水と金、着替え。俺の目の前にいるババが俺を噛む度に穴が開き、涎がテカり、臭う。臭い自体は普段から目以外は布で覆っているから自分では感じないが、町を歩くと通行人から鼻を押さえられる。そして避けられる。流浪の身としては恥などかき捨てだが、俺も人間。その目は気になるもんだ。
「ワウンッ!」
勢い良く楽しそうに吼えるデカ犬ともこれでおさらばと考えると、少しばかりその姿が可愛く見えるから不思議だが、容赦はしない。俺は全身から力を抜いて、親指を鋭い痛みを感じながらも小さく出血した塊を指先に宿す。
「血の匂いがするって」
俺が指を噛んだ瞬間、ババが吼えた。ララミンに何かを伝えたようだ。それを理解するララミンと言う子供は何なんだろうかと疑問を感じる。
「俺は血を使うからな。掛かってこないなら、こっちからいくぞ」
「いつでもどうぞ、だってさ」
平原に生える並木道の一本に背中を預けながら、俺たちの間を両目の瞼を閉じたまま見ているララミン。ババの最期をその目に見ないで済むのは悪いことじゃないだろう。
「覆い尽せ、影」
「クゥ?」
俺の影に指に溜まった血を落とす。実際にババとララミンの前で力を使うのは初めてだ。刑を言い渡されて以来、こいつらは俺を舐め続けた。ここいらで見せてやろう。俺の力を。
影に落ちた血に宿る俺の力が、俺を半径として周囲の青草を漆黒の影が一面に伸びる。血量が少量の分、その範囲はババを飲み込みララミンには届かない範囲で収まるが、ババを飲み込むには十分な闇の領域。
「そのまま不思議そうに死ぬが良い」
青草が朽ち果てたように、広がる影を足元に見るババに言い放つ。
「引き摺り込め、闇」
青空に蠢く全てを飲み込む闇の円。その上に在るものはいかなる範疇であれ、術者以外の全てを飲み込む。飲み込まれたものは、二度と光の中に戻れない。俺が引き出した闇はそのまま地中に対象物を飲み込み、生物なら圧迫と窒息を、物体なら圧迫による破砕をもたらし、死と破壊に追いやる。それが闇。
ババの足元を黒の闇が多い尽くす。たとえそこに影がなくとも、俺の血によって俺の影は日向であろうと闇を映し出す。だが、影じゃない。一度踏み込んだものを二度と離しはしない闇。領域に入ったババには悪いが、俺が術を解かない限りはこの空間からは二度と日の元には戻れない。オプスキュリアを詠唱した以上、後は闇の続く地中深くに引き摺り込まれて死ぬだけだ。
「・・・・・・・・・?」
おかしい。闇に染まる青草は大地に飲み込まれていく。成長する前に戻るように。だが、俺が闘っているものは草じゃない。犬だ。少しばかり常識と言う範疇から抜け出し怪物の範疇に収まるババ。
「何故だ・・・・・・?」
俺の頭は混乱を生じ始める。今までにない現実に目を奪われる。そんなはずはない、と。
「どうしたの? 何もしないの? って言ってるよ」
そんな俺に向かってララミンがババの吼えを訳す。今まではいかなものであれ、このオンブルに範囲のものはオプスキュリテによって、地中深くの遮断された闇の中に葬り去っていた。足元から引き摺り込まれる感覚から抜け出すことも敵わず、俺に助けを請う叫びの中で死んでいった。それが俺の力の一部であると自負していたはず。
「馬鹿な」
「だから言ったじゃん。本気でやんないと、またおなかに穴開くよ?」
超余裕。ムカつくくらいに言ってくれるララミンの言葉が俺の癪を触りまくる。俺はオンブルにさらに血液を投下し、力を増幅させる。
「少し力を見ただけだ」
「強がらなくて良いって。結果なんてやる前から分かってるもん」
言葉では強がる。俺のプライドが認めない現実を内面に押し込む。だが、ララミンはそれすらも見抜いたように笑う。それが俺の神経を逆撫でする。噛み切って出た血液をさらに搾り取るように力を込めてオンブルに落とす。無意識にその力は痛みを増幅させたが、そんなことなどどうでも良かった。ただババを本気で殺してやると瞳の色をさらに黒く光らせた。
「何もしないなら、こっちからいくよ?」
だが、変わらない。飲み込まない。ババが俺の視線の先で、その時はまだかと舌を出してハッハッハッと嘲笑するように立っている。それがさらに俺の衝動を駆り立てる。焦燥と共に。
「他に攻撃しないの? あ、それしかないとか?」
ぷっ、ダサ、とララミンが噴出した。
「見えてねぇくせにごちゃごちゃ言うな」
「本当の力なんて、見えるものの中になんかないんだよ?」
俺をこけにしてくるララミンにも怒りが湧く。
「オンブル」
ババを飲み込めばそれで良かったと思ったが、予定変更。俺を邪魔する奴は全て闇に沈め。
「無駄だって。ティドゥ、実力の差ってやつを見せたげちゃえっ!」
自分の足元を影が覆いつくしていることなど見えてないだろう。その闇は入り込んだもの全てを離しはしない。終わりがなく、いくらでもいつまでも飲み込み続けるのが闇。
「終わりだ。消滅」
オプスキュリテで力量不足なら、引き摺り込むだけではない闇への消滅のディスパレートルで死に至れ。これで飲み込めないものはない。確実に殺す。そして俺は、また自由の中に蠢く一つとして邪魔するものを消すだけの道を歩む。何が義務だ。罪を犯して何が悪だ。
「ティドゥ、ぶっちめちゃえっ!」
遅い。先に俺が唱えた。急速に闇に引き摺り込んでそのまま消滅するディスパレートルには、ババであろうと太刀打ち出来まい。
「何っ・・・・・・!?」
とっさに野生きする為の食糧を斬るためのナイフを取り出し、構える。俺の耳を射抜く咆哮に向かって。恐らく、俺は感じていた。闇を背負って生まれた中で感じたことなど無縁だった、当惑と恐怖を。