1-1 旅立ち
重々しい色の雲で覆われた空、満月が半身だけ姿を見せている。
「窓の立て付けが悪いな、明日にでも直させるか」
風が窓を絶え間なくノックする音で彼は眠りを邪魔されていた。
冷たい月明かりが部屋を照らしている。
「誰か来たぞ」
警戒を促す声が枕元から聞こえる。
テラスへと続く窓がいつの間にか開いていた。
そこに黒装束の人影。身長、体格から男だと予想される。
「誰だ!」
ベッドに寝ていた彼が体をおこす。
――この距離まで気配を悟らせずに近づくとは……。
「…………」
黒装束の男は答える気がないようだ。
顔が布で隠されているため表情が読めない。
彼は枕元に備えてある短剣をそっと取り出した。
「ここを王子の寝室と知っての愚行か?」
そう、彼は魔王の第三王子、まだあどけなさの残る十歳の少年だった。
王族の子らしく精悍で利発的な面持ちをしている。
高そうな布で作られた寝間着を着ている。
「衛兵ーっ! 入ってこい! ……衛兵!」
王子は部屋の外に向かって大声で叫ぶ。
石造りの部屋である、壁は厚く少々大きな声を出しても周囲の部屋には届かない。
――部屋の前には常に二名待機しているはずだ、なぜ反応がない。
「まさか他にも仲間がいるのか」
王子が独り言を呟くと、それに反応して剣が返事をする。
「人の気配がしないのう、既に殺されたか……」
枕元で敵の襲撃を知らせたのが、いま王子の手に握られている短剣だ。
知性を持つ剣、彼は爺と呼んでいるが年齢は不明、爺の話では三百年は生きているらしい。
姿は黒く肉厚の短剣だが、彼の剣の師である。
「目的は何だ、金か、命か?」
敵は腰から剣をゆらりと抜き、王子の疑問に無言で答えた。
「命……か、誰の差し金だ」
敵が剣を振り上げ、王子に飛びかかってくる。
テラスの入り口からベッドの枕元まで、ゆうに七メートルはある。
それを敵は軽々と跳び、枕へ剣を突き刺した。
王子は横転しながら敵の攻撃を紙一重で回避する。
その勢いでベッド下へ転がり落ちた。
すぐ立ち上がり防御の姿勢を取る。
「人のベッドに土足で上がりやがって」
敵がベッドから跳び降り王子を追撃。
身長差を利用し頭上から剣を加速させ、速度と重量で彼を両断しようと攻撃する。
「大の大人が子供に本気になるなよ」
――攻撃が重いんだよ、クソッ、手が……痺れてきた。
金属が衝突する高い音が静かな部屋に幾度となく響く。
王子は迫る剣の腹を横から打ち落とし、剣先の軌道をなんとか逸らせていた。
しかし大人と子供の戦いである、剣圧でじりじりと後退させられる。
「うぐっ」
剣ではなく足での下段攻撃を受ける王子。
横腹を蹴られ窓際まで飛ばされる。
上段からの攻撃に神経を尖らせていた彼は隙を突かれたのだ。
「ゲホッ、ゲホッ」、
――くそっ油断した。足技ありなら先に言え。
蹴られた腹を押さえながら立ち上がる。
ほぼ部屋の対角線上を蹴り飛ばされた、あばら骨が折れていても不思議ではない衝撃だ。
敵は王子に休む暇を与えない。ゆっくりと静かに間合いを詰める。
雲が月を覆い隠し、部屋に差し込む光が失われ、闇が二人を包む。
「くそっ、なにも見えん」
「左じゃ」
王子は爺の声に反応し瞬時にバックする。
前髪をかすりながら、目の前を敵の剣が通り過ぎていく。
「爺には見えているのか?」
「まあのぅ、ほれ右上じゃ」
「ッツ!」、王子の腕が軽く裂かれる。
――熱っ。クソッ……。目隠し稽古、真面目にやっとけばよかった。
爺の指示に先導され直撃は免れているが、体の傷は着実に増えている。
剣がぶつかり合う音と彼の荒い呼吸が、暗闇に色を添えた。
雲が途切れ、月が再び顔を出す。
明るく照らし出された部屋の石畳には無数の血痕が花を咲かせていた。
「後から掃除する奴の身になれよ」
手足から流れ出る血の量に比べ、まだ冗談を言う元気は残っているらしい。
そこへ、敵が侵入してきたテラスの窓から突風が流れ込む。
ゆらめくカーテンが彼と敵の間に薄い壁を作り出す。
王子はベッド脇のナイトテーブルに置いてある水差しを敵に向かい投げつける。
陶器でできた水差しは敵の剣に当たり砕けた。
溢れた水がカーテンに染み込み、敵の体にまとわりつく。
チャンスは今しかないと、敵に向かいスライディングし股を通り抜ける。
通行料として敵の足首に深いキズをプレゼントしていた。
「グアッ」、初めて発せられた敵の声。
振り向きざま、体当たりしつつ敵の背中に短剣を深々と押し込む。
敵は彼の重みに耐えきれず前のめりに突っ伏した。
「言え、誰の命令だ!」
「クックック、王様だよ。――哀れな王子様…………」
――誰が哀れだ! 敵に同情されたくないわ!
敵から煙と嫌な臭いが漂い出した。
危険を察知した王子は敵から飛び退く。
じゅぐじゅぐと音をたて敵の皮膚がただれていく。
前もって呪いを仕掛けておいたのだろう、服だけを残し溶けて消えてしまった。
「いったいどういうことだ」、息を整えながら彼は愚痴をこぼす。
「王子よ、ドアの向こうを確認してくれるか」
「ああ。――誰もいないな」
「ふむぅ」
「どうした爺」
「衛兵を刺客が倒したのではないとすると、衛兵長に指示をだせる立場……」
「王の側近か王族、もしくは王だけ……」
「ということじゃ」
「そんなばかな、俺の命を取って得する奴など」
「まあ権力を持たぬ第三王子など気にする者などおらんわな」
「爺はひどいな」、少し冗談っぽく笑った。
「で、どうする王子よ」
「王に会う」
「殺されに……か?」
「なぜそうなる。コイツが嘘を吐いた可能性もあるだろう」、と刺客の残した服を蹴る。
「本当だった場合はどうじゃ? 確たる証拠もなく詰め寄っても王は自白などせぬぞ。はぐらかされ次は確実に葬られる」
「なら兄上に――」
「兄たちの策謀でないと言い切れるのかね?」
「クッ……」、苦悶の表情を浮かべる。
「誰かおらぬのか、確実に信頼できる奴は」
「……いない。俺はいつも兄上たちの後ろに隠れていた。父上と母上に守られていた」
――日頃の行いが原因だとでも言うのか? 俺に接近する者など誰もいなかったのだ……。たまに話す配下は俺ではなく王に仕えているのだ、彼らに深く接しなかったのが間違いだとでも?
「まあ、そうじゃろうな」
「頼れる者などおらぬ、いったいどうすれば……」、絶望に満ちた表情。
「足掻くしかないじゃろうて」
「俺に何ができる……」
「剣が1本と手足がある、生きていくのに不都合などあるまい?」
「城を捨て、泥をすすって生きろと?」
「生きたければ……な。――何を躊躇っておる、親離れするのが怖いのか? 地位を捨てるのが惜しいのか?」
「ハハッ……、爺その通りだ。俺は一人になるのが怖いし、王子という鎧が無くなるのも惜しい」
絶望していた表情に僅かだが覇気が戻り始める。
「けどな、命を失うのはもっと嫌なんだ」、王子はテラスに向かって歩き出す。
「爺、俺に手を貸してくれるか? この狭い鳥籠から抜けだし生き抜いてみせる!」
「ハッハッハ、わしに手は無いが、まあ知恵は貸してやるよ」
王子は月が姿を隠すのを待ち暗闇に紛れ城を抜け出したのだった。