ハコ
体育館の中は蒸し風呂のようである。出口の脇に備え付けられた扇風機は、ぎしぎしという音を立てながら、緩慢な速度で首を左右に動かし続けている。私は汗だくになっている福島の隣でステージを眺めている。
体育館の中央は通り道となっており、左右対称に同じようなブロックが配置されている。クラスは30人ごとに一つのブロックに分けられ、前から15人ずつ、2列に並べられている。私の前には4列の生徒が座っており、席は低学年が前となっている。私は左から2番目の席に座っているため、扇風機の音がひときわよく聞こえる。
てかてか頭の禿げた教頭が、早足にステージに上がり、生徒を一瞥する。への字に曲げた口を微動だにせず、生徒たち全体を、じろっと睨めつける。その表情は、沈黙と緊張を、我々に暗黙のメッセージとして発しているようである。
「それではこれより、B中学校の伝統儀式を開催します。今から呼ぶものは前へ出るように。」
周囲に緊張が走る。なぜかこの瞬間は、周囲に緊張が走り、時間が止まったように皆動きが止まる。
「本日の担当者は、秋田」。
多くの生徒は、ふうっと、緊張の糸が切れたように安堵する。そしておしゃべりの声が沸き上がる。
「いや、これさ、マジで何の意味があるのか、わからんね。」
隣に座った福島が、やれやれという感じで自分に話しかける。私は言葉を返そうとしたが、軽く一回、うなずくだけにしておいた。周囲の会話声が大きくなり始める。
「静粛に!」
教頭が指揮者のように、ピシッと空間に沈黙をもたらす。
「いいかね、静粛にすること。大切な儀式なのだ。秋田君、前へ。」
秋田は体格の大きい、バスケ部の生徒である。ニキビ顔が赤っぽさを示し、髪型は寝癖のせいだろうか、後ろだけ不自然にはねている。秋田は仕方がないという面持ちでステージに向かう。教頭は秋田の動きを、微動だにせず見ている。秋田がステージの端に上がると、教頭は「ふた」を生徒に掲げる。そしてお決まりのセリフを述べる。
「みなさん、今から秋田君に、箱のふたを閉めてもらいます。」
教頭はまるで卒業証書を授与するかのように、木箱のふたを両手で秋田に手渡す。木箱のふたは、1辺が20センチ程度の正方形だ。教頭の仰々しさとは対照的に、非常に簡素で安っぽい、100円ショップでも売っているようなふたである。私は触ったことがないけれど、経験者の話によると、「片手で持てるくらい」の軽さであるという。
秋田はそれを一応両手で受け取ると、直ぐにバトンを受け取ったランナーのように、片手に持ち替えて、すたすたとステージを横断する。おそらくこの歩いている時間が、一番緊張するのではないだろうか、と私は常々思う。ステージの反対側には簡素な机と木箱が置いてあり、指名された生徒は必ずそこまで歩いていき、木箱のふたを閉める。歩く時間はほんの数秒だが、人によってはわざとゆっくり歩いてみたり、おどけてみたりする。その間中、全生徒の注目は、ただ一人に集まるのである。
秋田は特段パフォーマンスをする必要性を感じなかったのか、足早にステージの反対側まで歩いていく。多分、多くの生徒と同様に、さっさとこの謎の儀式を終了させたかったのだろう。いつも皆がそうするように、彼も木箱にふたを閉めようとする。
ところが突然、儀式の最中に、横やりが入る。
「やめろっ!」
体育館にこだまするくらいに大きな声が、私のはるか後ろから発せられる。皆が振り向く。後ろから男子生徒が猛然と、中央の通路を走りきり、ステージにジャンプする。ステージの高さは決して低くなく、生徒の跳躍力は見事である。皆あっけにとられてその様子を見ているが、ほかに声を上げるものはいない。
唯一、機敏に動き出したのは教頭で、即座にステージの反対側まで走りきる。こういう事態には慣れているかのような、俊敏な動きである。それは一瞬の出来事であったのだが、ステージの端で、生徒と教頭がもみ合いになる。
「ふたを閉めるな!」
ほとんど発狂しているのかと思わるほど、大きな声で男子生徒が叫ぶ。秋田はまったく想定外の出来事に、ふたを持ったまま、どうしたらよいのかわからない表情を浮かべている。教頭は、まるで手慣れた警官が、犯人に手錠をはめるときのように、生徒を地面に取り押さえた。
「儀式」の最中に、教員が生徒を一方的に地面に押さえつけるという、極めて異様な光景である。ほかの教員たちが慌てて駆け寄る。抑えつけられた生徒には、もう抵抗する余地がないことを確認すると、教頭は生徒を抑えたまま、秋田に顔を向ける。
「秋田君、ふたを閉めてください。」
秋田は何が何だかわからないという表情で、ふたを閉める。ことっという小さな音を立てて、ふたが閉まる。特に何かが起こるわけではない。
教頭は口の両端を引き上げて、笑顔の表情を浮かべる。いつもながらにぎょっとする表情の変化ではある。しかしそれ以上に、この異常事態に平然としているところが不気味である。
「みなさん、秋田君が、箱のふたを閉めました。」
教頭はいつものように、高らかに宣言し、そして全校集会が終わる。突然乱入騒動を起こした生徒は、クラスの担任に引き渡される。この儀式の最中に、生徒による妨害が入ったのは、私がこの学校に入ってから、初めてのことである。
入学式の日、教頭が言った言葉を思い出す。
「入学おめでとう。これから皆さんに、わが校に伝統的に伝わる儀式を説明します。これから皆さんは、全校集会があるたびに、儀式に参加していただきます。皆さんが知っているような、結婚式やお葬式といった儀式とは少し違います。すぐに終わります。必ず出席してください。」
そういうと教頭は、間をおいて、我々新一年生の顔を万遍なく見渡す。皆の表情を確認してから、話を続ける。
「儀式では、全校生徒の中から無作為に一人の生徒が毎月呼ばれます。誰かが悪いことをしたり、良いことをしたりしたときに呼ばれるのではありません。無作為で選ばれます。呼ばれた方は、前に来て、木箱のふたを受け取り、反対側にあるふたを閉めてください。それで儀式は終了です。」
皆ぽかんとしている。いったいその儀式が何なのか、理解できないという表情である。教頭は再び生徒を見渡す。
「質問のある人は?」
「それって、何か、意味あるんですか?」
当然の質問である。
「良い質問です。ですが、その質問には答えません。」
おそらく誰もが最初に質問することなのだろう。教頭の口調は極めて機械的である。その後は儀式の手続きに関する質問がいくつかされて、教頭はそれらに対して一つ一つ丁寧に答えていく。
呼ばれたものに拒む権利はなく、ほかの人はただその様子を、黙ってみていることが求められるらしい。ふたを閉める、ただそれだけの行為なのだが、新入生は何か得体のしれない儀式に対する警戒感を抱いた。教頭はそれを見透かしたように、
「大丈夫です。みなさんすぐに慣れますから。難しいことではありません。」
実際に、入学してから最初の儀式では、2年生の生徒が呼ばれたが、彼女はそれをいとも簡単にやってのけた。新入生は、
「え、それで終わり?」
という表情を最初は浮かべる。儀式を行う生徒に対する指導は一切なく、ただ木製の「ふた」を、あちらからこちらに移動させ、閉めるだけである。ただ問題は、全校生徒の前に立って、それを行うということだけである。
妨害事件を起こした生徒は、山口という名前であった。今年受験を控えた生真面目な生徒であり、部活動には所属していない。クラスの行事などにも積極的に参加することがなく、仲の良い友達もそれほど多くない。
クラスの中では浮いた存在ではないけれど、一目置かれるような存在でもない。いじめの対象にもならないが、かと言って何か目立った特徴があるわけでもない。私は同学年の生徒から、そのように聞いた。
山口は事件後、数日間学校を休んだこともあり、事件の動機に関する情報は、どれも信憑性をかいたものばかりであった。少なくともわかっていることは、秋田と山口は無関係であるということである。
しかしこの事件には、生徒に知られてはいけない、何かしら複雑な事情があるのかもしれない。クラスの中には、積極的に情報を集め、この事件の真相を解明しようとしている生徒もいる。私も積極的にではないが、彼の起こした事件の動機について、密かに考えを巡らせている。
そもそも、山口は本当に、儀式を妨害したかったのだろうか?教頭の迅速な対応もさることながら、本当に妨害をしたいのであれば、別の手段とタイミングがあったのではないか。今にもふたを閉めそうな瞬間に叫びだし、走り出すというのは、「本当に妨害したいのであれば」いささか不都合なタイミングである。
妨害自体が目的ではなく、受験勉強に嫌気がさして、鬱積した感情を発散するために犯行に及んだのだろうか?それにしても、よくあれだけの声と、運動力を発揮することができたものである。山口の運動成績を知る知人からしても、「山口とは思えない」くらいに俊敏な動きであったという。
または、もっと深刻な動機があったのかもしれない。何しろ全校生徒の目の前で、伝統的な儀式を中断させようとしたのである。並大抵の勇気が必要であるのは言うまでもないが、そもそもそのような妨害行為に至ることは、誰も思いつかなかったに違いない。――少なくとも教頭以外は。
しかしどう考えてみても、あれだけの行為に及ぶ「理由」が見当たらない。あの儀式は、誰にとっても利益がなく、誰にとっても不利益にもならない儀式である。妨害したからと言って、誰かが得するわけでもない。
多くの伝統的な儀式というものは、時として我慢がならないくらい、長時間の拘束を余儀なくされる。それらと比べると、あの儀式は極めて良心的な時間である。だからこそ一層、「なぜわざわざあんなことを?」という疑問が大きくなる。
事件から二日が経過して、学校はいつもの秩序を取り戻している。しかし私と同様に、魚の小骨が喉に詰まったように感じる生徒は多いはずである。それはある意味で、全校生徒に課せられた、謎解きのように思われた。福島はいつものように遅刻ギリギリの時間に駆け込みセーフでやってきて、朝の読書時間を妨害する。
「いや、こらあ、あついわ、まじ。」
太った福島は、慌ただしくクラスに入り、ドカンと席に座る。
担任の教師が上目づかいにそれを一瞥し、まあ今日は許してやるか、というような顔をして、再び自分の事務作業に注意を向ける。校内のチャイムが鳴る。
クラスでは毎朝、始業のチャイムと同時に読書の時間となる。担任の教師はチャイムの後に入ってきた生徒に対しては厳しく、読書タイムが終了すると、説教タイムが入る。幸いにして、今朝の福島はそれを免れる一歩手間であった。
「で、犯人はわかった?」
読書タイムが終わった後、福島が私に声をかけてくる。
「犯人?推理小説の?」
私が答えると、福島はいやいやという顔で、大袈裟に手を左右に振る。
「あれよ、教頭乱舞事件の」
「教頭乱舞事件?」
生徒の間では、山口の妨害よりもむしろ、教頭の迅速な対応能力の方に注目が集まっているらしかった。教頭に関して、かつては陸軍に所属していたとか、殺しの技術を体得しているとか、様々なうわさが面白おかしく語られていた。
「犯人は山口さん一人だろ?それに、事件の主語がおかしいだろ。」
「いやいや聞けって。」
福島はまた大袈裟に手を振り、こう続ける。
「山口さんがわざわざあんなすることなくってさ、誰かに苛められて脅されて、そのうえで犯行に及んだっていう噂よ。」
「そういう噂は聞いたことあるけども、なぜあんな手の込んだことを?」
「なんだ、それを読書中に、考えていたんじゃなかったんだ。」
福島はそう言うと、お手上げという手振りを示して、私の席から去って行った。いじめという噂、その可能性も当初は考えてみた。つまり、山口を苛める誰かが、山口に全校生徒の前で恥をかかせるために、わざと「あのタイミングで」妨害をするように指示をした。犯人が教頭に予告をしていたからこそ、あれだけ迅速に教頭も対応ができたのであり、犯人も大喜びで目的達成、という筋書きの噂である。しかし、私には今一つそれが疑わしい。あれだけ迷いない声、行動を、誰かの指示に従って、躊躇なくこなすことができるだろうか?
なぞはなぞのままで、答えを得られないまま、半年が経過した。山口は三日間ほど学校を休んだ後復帰し、普通に学校生活を送っていたようである。儀式自体は毎月のように実施され、山口もそれに参加していた。儀式の間中、いつものように無作為に誰かが指名され、箱のふたを閉めた。山口自身はあれ以降、妨害行為には一切及ばず、あるいは山口の模倣犯のような人間は現れず、五回の儀式が完遂された。
私は、その儀式が行われるたび、あのドラマのような瞬間を思い出す。理由はないが、またあのような事件が発生することを、心のどこかで期待しながら。しかし半年の間、儀式は平穏な秩序が保たれた。山口と、山口の関係者(?)との間で約束ができたのかもしれない。しかし表だってそれを話題に取り上げる人も次第にいなくなり、皆の関心は別のことに移っていた。
それから数か月がたち、三年生の卒業の季節となった。卒業までの間、ついに一度も妨害行動に及ぶものは現れなかった。そして事件の真相を知る機会がないまま、山口は高校に進学した 山口が卒業してからというものの、不思議と集会のたびに、山口のことが話題となるようになった。我々が三年生になり、新入生が入学すると、「伝説の先輩がいた」と称して1年生に山口の武勇伝が継承されたためである。
全校集会があるたびに、私は教頭にねじ伏せられる山口を思い出し、もし完全なる妨害が実現したら、何が起こるのだろう?と思う。
あの箱は、撤去されるのだろうか。この儀式は撤廃されるのだろうか。しかし誰一人として、それを試してみるものはいない。そうする必要性もないまま、私も学校を卒業した。
卒業してから数年が経ち、テレビ番組で中東のデモ行進を見た。火炎瓶を持った青年が、警官隊に向かってなにやら大声で叫び声を発している。警官隊は、大きな盾で、抗議行動を続ける市民団体に向かって圧力を加えている。警官隊の圧力は強く、市民は催涙弾を打たれ、道路で横たわる人たちも大勢いた。
私はその惨状を見ながら、抗議行動にいったい何の意味があるのか、不思議に思った。テレビはデモ隊の横断幕を映している。そこには「Open The box!」という文字が掲げられている。私は不意に、山口と、ハコのことを思い出した。言葉の意味は違うのかもしれない。だけど言いたいことは、同じだったのかもしれない。