40話◇合宿の意味◆①泉田涼子パート「でも、私(わたし)はね……」
ついに、合宿最終日を迎えた笹浦二高女子ソフトボール部。
厳しい練習ばかりのせいで、みんなへとへとになっているなか、顧問の信次から練習試合の話をされる。しかしその相手の名前を知った唯はすぐに断固反対の姿勢を示し、練習試合を見送るよう説得をする。
果たして、笹二ソフト部が選択した道とは?
そして、信次が今回の合宿を決行した理由とは?
長期休暇というものは、人間の感覚からするとあっという間に終わる時間であり、それが楽しいなら更に加速度を増す。心を持つ人が最も時間が長いと感じるのは『待つ』という心理状態時であり、いざ望んでいたものが始まって『来た』と思って体験してしまうと、想像以上に早き終焉を迎えることになるのが大概である。そして終わってしまった時間はただ人間の記憶に残るだけで、善くも悪くも『思い出』と化して、嘘のように現実から消えていくのだ。
人に与えられた時間は皆等しいとよく言われるであろうが、それは当人の心理を考慮してしまうと大きな差が生まれることを忘れてはいけない。
そして五月の今日は、ゴールデンウィークという長期休暇が終わりを告げる日である。休みの最後まで満喫していた家族たちは帰省ラッシュに飲み込まれ、車の渋滞、押し潰されそうな満員電車のなか帰路をたどる者たちが、この笹浦市にも溢れかえっていた。嫌な環境を強いられていることは否めないが、人々は不思議と笑顔を向け合いながら会話をしており、帰りの苦しさなど気にしていない様子が伺われる。
同じくして、この笹浦第二高等学校にもゴールデンウィーク最終日が訪れており、部活で遠征していた生徒たちがちらほらと校内を歩いていた。旅行とはかけ離れた部活動を過ごした生徒たちは、やはりほとんどの者が疲弊仕切ったように重い身体を運んでおり、若々しい彼らたちからどこか老いを感じさせるほどだった。
しかしそれは、一人の女子三年生を抜いての話である。
体育館前で女子バレーボール部の解散合図を済ませた彼女は指定ジャージを纏いながら部員たちの帰りを見送ると、自分も帰宅しようと運動靴に履き替えて校門へと向かった。確かに身体のあちらこちらは筋肉痛が顕在で、疲れのあまり全身から怠さも覚える。しかしこの厳しい長期休暇の遠征合宿を終えたことにより、新たに得た自信と希望で心と顔は前を向いており、自然と足取りを軽くしていた。
体育館とグランドで挟まれた校門への道を、大きなボストンバッグを肩に背負う一人の女子はセミロングの髪の毛を揺らして静かに歩いていると、ふと彼女の瞳にスーツ姿の老人男性が映り込む。彼は誰だろうか、など微塵にも思わなかった彼女はすぐに笑顔のまま駆け出し、一人グランドを眼鏡越しで眺める老人のもとへと向かうことにした。
「校長せんせ~いッ!!」
「おや?涼子ちゃん!」
嬉しい限りに高らかな声を放って向かう泉田涼子の先には、笹浦二高の校長を務める清水秀が、相変わらずの温かな微笑みを見せながら返事をしていた。
もともと二人は小学生ソフトボールクラブ、笹浦スターガールズのキャプテンと監督をそれぞれ任されていたため、涼子にとって秀は校長先生というよりも恩師と言った方が適切だった。また彼は現在笹浦二高女子ソフトボール部のキャプテン、清水夏蓮の祖父に当たる者で、幼い頃から知る涼子にとってはとても声を掛けやすい存在でもある。
「ただいま、合宿の帰りです!」
秀のもとへとたどり着いた涼子は笑顔を交わしながら、自分よりも少し背の低い校長を見下ろしながら話していた。
「いやいや、お疲れさま~。キャプテンとして、ずいぶん頑張ってるそうじゃないかい?」
「もちろん!! 夏のインターハイ、今年はマジで行くつもりですからね!」
両手を拳に変えてガッツポーズを見せた涼子は疲れが吹き飛んだように無邪気な笑みを浮かべ、秀に対して白く輝く歯を解き放っていた。
三年生にとっては最後の大会である、夏のインターハイ予選。県の中で見事優勝すれば全国大会へと進むことができる、全国の高校生にとっては名誉な大会である。だがそれは同時に、三年生にとって部活の引退を掛けた仁義なき戦いでもあり、誰も手を抜く訳がない真剣勝負だらけのトーナメントなのだ。インターハイと引退という言葉が少しばかり似ていることが、どうも皮肉な一面を感じさせる。
だからこそ一日でも長く、少しでも多くの時間を得て部活動を続けたい。
もちろん全国大会を目標とすることも素晴らしいことだが、多くの部員たちはきっとこの想いを抱きながら戦に臨むことだろう。少なくとも、涼子はその一人である。
「涼子ちゃんも今年で引退とは、ずいぶん早いものだねぇ。ついこの間までは小学生だったのにぃ」
「もう~何年前の話してるんですか? 私だってもう立派な女子高校生ですよ! いつまでも子ども扱いしないでくださいね~」
決して怒らず笑い話のようにして答えた涼子は胸を張り、秀の前で堂々たる立ち振る舞いを見せていた。自分だって今年で十八歳という、社会人にも適応する年齢だ。いつまでも子ども扱いされるのは肩が狭まる想いである。
すると秀はゆっくりと笑いながら、皺で囲まれた細い目を眼鏡越しから向けていた。
「子の成長とは、老いぼれには早すぎて、まったく理解が追いつかないねぇ」
「だから、子どもじゃありませんって!」
つい膨れ顔になってしまった涼子だが、小さなため息を漏らすがすぐに微笑みを取り戻すと、ふと笹二グランドへと目を向ける。広いグランドを見ればいつもそこには野球部が活動をしており、この校門までの道中に時折放たれる凄まじい打球が恐ろしくて危険視を向けるのが日常だ。しかし本日はそんな野球部がいなく、涼子は安心しながらグランドを眺めることができていた。
「笹二、ソフト部か……」
ボソッと呟いた涼子の視線の先には、現在ベースランニングを行っている笹浦二高女子ソフトボール部が、遠征のため野球部がいないグランドを全力疾走していた。どうやら現在は走塁練習を行っているようだが、一目見れば誰も手を抜いている者などいないことがわかり、まだ正式な部活動として認められていないながらも努力を怠らない様子である。
バレーボール部主将の涼子にとって、笹二ソフト部には四人の知り合いがいる。その者たちは皆スターガールズの一員であった選手たちであり、ソフトボール現役時代には彼女たちによく支えられていたことがしっかり記憶に残っている。一人も欠けてはいない、心から尊敬に値する四人である。
だが涼子は四人ではなく、額を見せながら駆け回っている一人の部員だけをじっと見つめていた。大きな声を出しながらオレンジベースを駆け抜ける彼女は無駄に元気で、燃費の悪そうな騒音車と似ている。だからといって嫌っている訳ではなく、むしろ真心を抱けるほどの存在である彼女を、涼子は静かに目を向けていた。
「やっぱり、咲ちゃんがいなくなって、寂しいのかい?」
突然隣の秀から、中島咲の名を囁かれた涼子は驚きで瞬時に顔を会わせ、監督時には見せなかった優しい笑顔を目に映されていた。
「はぁ……校長先生のそういうところ、嫌いだな……」
先ほどとは意味が違う重いため息をついた涼子は俯き、秀から目を反らしていた。まるで自分の心を見透かされた気がして、無意識についため口にもなっていたが、残念ながら図星を突かれたことに間違いはない。
確かに涼子は今、咲のことだけを眺めていた。もともと彼女とは同じバレーボール部に所属していた分想いを寄せているところがあり、どうしても気にかけてしまう。それはたとえ、今こうして転部されたとしても。
下を向く涼子がなかなか顔を上げられずにいるなか、秀は微笑みながらも悲しげな表情で喉を鳴らす。
「涼子ちゃんにとって、咲ちゃんは妹のような存在だからねぇ。それは昔も今も、変わらずに。寂しいのは、当たり前ことだよぉ。何も、隠す必要なんか……」
「……でも、それが咲の決めたことだよ。私は後輩であるあの娘の意見を、バレー部のキャプテンとして、先輩として受け入れたんだから……」
秀の言葉尻を被せて明るみも込めて放った涼子だが、その発言はまるで自分自身に言い聞かせているような言葉になっていた。なぜなら……
『――泉田涼子として、が言えなかった』
淀んだ空気を作りたくないだけに微笑みを表情に浮かべておきながらも、その顔は太陽で熱せられたアスファルトにだけ向かう一方で、虚しくも自分の言葉に対して何も返ってこない。
目を背けている秀からもついに笑顔は無くなっており、グランドから放たれる笹二ソフト部の大声が聞こえるだけで、二人の間には大きな沈黙が訪れていた。耳を澄まさなくても聞こえてくる、咲の高らかな声。それを期待していたはずなのに、聞けば聞くほど変に胸が痛む。実の妹が遠くに行ってしまい、もう自分のところには帰ってこないのかな、と感じさせる寂しさに駆られた。しかし……
「……校長先生……」
「なんだい、涼子ちゃん?」
嫌う沈黙を自ら引き裂いた涼子はゆっくりと顔を上げると、優しく笑う秀にではなくグランドの方へと向ける。ソフトボール部内の元気印である咲の活発な姿が目に焼き付き、無意識のなか頬を緩ますことができていた。
「……そりゃあ、寂しいくないって言ったら、嘘になるよ。私だって、咲といっしょにバレー部やってこれて、本当に楽しかったし、本当のこと言えば、これからもずっといっしょにいたいと思ったんだもん」
もう一度、ソフトボールをやりたい。
咲は直接そうとまでは言わなかったが、彼女が嘘をつく度に見せる額を拭う癖で、涼子は改めて咲を真なる気持ちを察することができたのだ。
咲からその気持ちを見せられた涼子は正直なところ、最初はバレー部に残ってほしいと言いたかった。大切という概念を大きく飛躍した彼女がそばからいなくなるなど、当時は頭の中で何度シミュレーションしても現実味を帯びなく、全く想像できない未来だったからである。中学のときから共に励んできた彼女とはこれからも、ワガママに言ってしまえばせめて自分が部を引退するまで、いっしょにバレーボール部として所属したかった。
――しかし、今は違う。
一塁から二塁へ盗塁の姿を放つ咲から、涼子は離れながらも温かな視線を送っていた。彼女の恐いもの知らずなヘッドスライディングで運ばれた土は白いセカンドベースを覆い尽くし、地面に埋もれしまったかのように存在を消しかけていた。
「でも、私はね……」
決して隣の秀に目をやらない涼子は口を開け、泥まみれの義妹的存在を見つめていた。彼女が何かに成功したときに口ずさむ、ヨッシャー!! の雄叫びが放たれると共に、涼子も今の想いを口にする。
「大好きな咲の笑顔をこうやって見ると、寂しさなんかバカらしく思えちゃうんだ」
ソフト部が活動するグランドから遠く離れた校門への道で、涼子には咲の笑顔がしっかりと瞳に映っていた。その様子はとても楽しそうで、心からソフトボールと向き合っているように生き生きとしている。もちろんバレーボール部にいたときも同じことが言えるが、今の彼女からは、当時には無かった自己の喜びが直に見えた。
『そんな咲に、バレー部に残ってだなんて、口が裂けても言えないよ……』
それはバレー部のキャプテンとして、咲の先輩としてではなく、泉田涼子としての想いだった。彼女を応援する裏で、密かに涙を流したほどの寂しさもあったのは事実である。今だって彼女がバレー部に復帰すると言われたら、心から喜んで受け入れるだろう。
しかし自分は、咲はソフト部でいいと考えた――いや、それがいいと気づいたのだ。何にも代替できない時間、それが一生に一度の高校部活動であり、その大切さは一年上の自分がよく知っている。
「涼子ちゃん。うふふぅ……」
ふと隣の秀から笑い声が聞こえ、涼子は不思議がって彼へと目を向ける。何も変なことを言ったつもりはなかったのに、どうして吹き出しているのだろう。
涼子は首を傾げていると、秀は笑いで刻印された微笑みを見せながら目を会わせる。
「涼子ちゃんはやっぱり、キャプテンに相応しい、強さを持ってるねぇ」
『強さ』という部分を強調した秀だが、涼子も訳がわからず自嘲気味に笑ってしまう。
「突然なんですか?私は強くも何ともありませんよ。ただ……」
苦笑いを消した涼子は哀愁ではなく、瞳の輝きを増した希望の光を解き放っていた。
「……たくさんの人々に、支えられているだけですよ」
秀と瞳を会わせることで告げた涼子は最後に素直な笑みを浮かべることができていた。
人という字は、人と人とが支えあってこそ成り立つ。
これはどこかの有名国語教師が放った言葉であるが、今の涼子には少しばかり異論を唱えたい気持ちが芽生えていた。自分という人間は、確かに他者から支えられて生きている。しかしそれは、たった一画で表せるような、少人数で僅かな人間ではない。友人を始めとする存在、バレーボール部のみんな、顧問の先生、家族、自分を応援してくれる者など、挙げれば切りがないほど溢れている。仮に自分が『人』という漢字を思いのまま書こうとすれば、画数を何本も増やして黒い異物を完成させてしまうだろう。
『でも、それが私を示している気がする』
自分は決して強い存在ではない。近くではいつも誰かが支えてくれたからこそ、あたかも一人で立ち振る舞っているように見えるだけである。その中にも中島咲はいてくれており、今でも見えない裏側で支えてくれていることも決して忘れてはいけない。
咲がそばにいなくとも、心はすぐ目の前にある。そう感じている涼子には、寂しさを超えた感謝があり、セカンドベースからサードベースを経由してホームへ突っ込む彼女を見守っていた。
「それにしても意外だなぁ。合宿やるとは聞いてたけど、結構ハードワークじゃない?」
グランドを眺めながら呟いた涼子に、秀はフフフと笑ながら頷く。
「あの練習を、この三日間きっちりやってきたみたいだよぉ。どうやら練習メニューを組んだのは、柚月ちゃんらしいねぇ」
「へぇ~。まぁ柚月らしいっちゃあ、らしいかもね」
篠原柚月のストイックな一面を知っている涼子は苦笑いをしてしまう。小学生のときから自分に厳しかった彼女の練習内容が、部員たちに強いられてると思うと何だかかわいそうになるくらいに思ってしまう。
涼子は気づけば、咲のことだけでなく笹二ソフト部全体を見渡していた。咲の順番が終われば間もなく次のランナーが全力疾走し、他の選手たちは休むことなく声援を送る環境が繰り広げられているが、そこからは一生懸命さが簡単に見てとれる。しかし誰一人として嫌な顔をしている者などおらず、強豪校の練習を見せられている気分にすらさせるものだった。
「……なんか、みんな楽しそう」
経験者とはまた別に未経験の部員たちもいるらしいが、こうして見ていると誰が未経験者なのかわからないほど活発で、強いチームによくある『統一感』が伺える。
「この前の練習試合と比べて、なんか雰囲気が良くなった気がする」
「そうかもねぇ。特に未経験者たちの娘なんか、とても声と元気が出てると思うよぉ」
「よく、誰が未経験者だなんてわかりますね?」
「何年もソフトボールやってると、顔つきだけでわかるものだよぉ」
「さすがは元、鬼軍曹」
「せめて監督って言ってほしいんだけどなぁ……」
秀の困り笑いが放たれるなか、涼子はもう一度だけ咲の様子を観察していた。環境を変化させても努力する彼女からは多大なる勇気をもらえ、しっかりと胸奥にしまいこんだ。
「じゃあ、私これで帰りますね」
「おや?せっかくだから、ソフト部に挨拶でもしたらいいのにぃ。咲ちゃんたち、きっと喜ぶと思うよぉ?」
得意の微笑みを消して細い目を大きく開けた秀だが、反対に涼子は頬を緩ませながら顔を左右に振る。
「あれは笹二ソフト部。スターガールズではありませんから」
悲愴を漂わせる言葉でないと同時に、涼子には悲しみなどなかった。それどころか覚悟を持つことができて、自然と胸を張れる。
秀と別れて校門から出ようとする涼子は、もうグランドの方には目を向けずに歩き、これからの未来に自信を持つことができていた。
『咲、ガンバ! 私も、負けないからね!』
連休中の辛い練習を終えた涼子はヘトヘトのはずだったが、アスファルトの地面を強く踏み締めて校門から出ていった。
◇◇◇




