39話 ③東條菫パート「違いますよ、唯先輩!」
「家庭内、暴力……?」
体育館の入り口で座り込む菫は、隣で静かに微笑する唯の表情を見ても、眉をハの字に変えて呟いた。
『知らなかった。牛島先輩の裏では、そんな事件が起きていたなんて……』
家庭内暴力という言葉を知っている菫はその重大さをよく理解しており、ニュースで取り上げなどされればいつも暗い気持ちにさせる情報である。
――親が愛する家族を傷つけるなんて、考えられない。
五人姉弟妹の長女である菫はもちろん、七人家族の東條家にとっては理解しがたい行動である。
唯から話を聞き終えたことは良かったのだが、それは父親から受けた体罰という重々しい内容であったため、菫にとっては後味の悪いものだったことが否めない。それに家族の大切さをわかってると言われた分、先輩の姿がとても惨めにも思えてしまった。こんな悲惨極まりない事件が、こんなにも身近で起きていたとは。
すると唯は表情を変えぬまま頷き、自嘲気味に笑っていたが、どこか儚げな顔で下を向く。
「まぁ、家族と幸せそうなお前には、想像しづれぇよなぁ……オレ、今はお袋と二人暮らしでさ。おかげで、暴力は無くったっちゃあ無くなったけどよぉ……」
しかめる菫には、唯が無理して笑っているようにも伺われるが、ふと左の長袖を捲り上げて、腕に印された数々の痣を出現させて言葉を続ける。
「……残るもんは、残っちまったんだよな~……」
自身の傷痕を眺めながら囁いた唯に、菫には大きな悲愴感が襲い始めた。何とも言いがたい彼女の痛々しい左腕からは、家庭内暴力を受けたというおぞましき過去を顕著にしており、どれほどたいへんな苦しみを強いられてきたかがよくわかる。
しかも、唯の傷は、腕だけではない。
それは菫がさっき目の当たりにしたように、残酷的な傷痕は全身に広がっており、もはや世間には見せられないほどの姿だったのだ。
『え……?じゃあもしかして、先輩は……』
「牛島先輩?」
「あん?」
あることに気づいた菫は、隣で俯いた唯の顔を振り向かせ、緊張と悲しみを背負った重い口を開ける。
「先輩がずっと、長袖着てたり、腰パンで練習してた理由って、痣を見せないよう隠すためだったんですか……?」
目を会わせる菫は固唾を飲み込んで、少し驚いている様子の唯からの返答を待っていた。肌を露出させない先輩のユニフォーム姿は前から気になっており、思い返せば一度も腕や脚の素肌を目にしたことがない。不良染みた尖りを見せているとも思っていたが、本当の理由は傷だらけの身体を隠すためなのだろうか。
菫は尋ねておきながらも、できれば自分の予想が当たって欲しくない思いも芽生えており、強く歯をくいしばっていた。が、残念ながら唯からは瞳を閉じながらコクリと頷かれ、口が開いて塞がらなくなってしまう。
すると唯は瞼を開くとすぐに横へと目を反らし、大きなため息を出して鼻で笑っていた。
「こんなの見せたって、周りのやつらに気分悪くさせるだけだろ? だからオレは、隠し続けようと思ったんだ。まぁ今はもう、お前にバレちまったけどさぁ」
菫は、最後に唯から呆れたような笑われたが、愛想笑いすら返すことができず苦い顔をしていた。
――なぜなら唯の顔が、とても辛そうに笑っているように見えてしまったからである。
白い歯を出して、無邪気にも笑ってはいる唯だが、やはりどこか無理して微笑んでいるようにも伺われる。
だが、それもそのはずである。
身体のあちらこちらに傷を負う彼女には、あまりにも重たい荷物を背負わされてる気がするからだ。痣という、重苦しい傷痕を。
しかし、それでも笑ってみせる彼女からは心の強さを感じ、いかに立派な人間性の持ち主なのか実感できる。
菫はそう思いながら漠然と彼女の笑顔を見つめていると、唯の発した言葉からあることに気づき、再び息を飲む。
『じゃあ先輩はあたしたちのことを思って、わざと傷を隠していたってこと……?』
見た目は恐くヤンキーという言葉がふさわしく、学校では問題児としても悪名高い、ソフト部の先輩、牛島唯。そんな彼女からは、いつも自分たちに対して見えないバリアを張っている行動が思い出されるが、それは周囲のみんなに嫌な思いをさせたくなかった思いからなのだ。常に自身の受けた傷を隠しながら、一人で悲しい真実を闇に放っていた。それも、決して公にはせずに。
唯から笑顔を向けられている菫だったが、ついに彼女の悲惨な心持ちに苦しくなって俯いてしまう。今こうして事実知ると、先輩の一つ一つの行動理由もよくわかる。
部活中では、今日のようによく晴れた暑い日でも長袖で、アンダーシャツで手首まで隠し、大量の汗を流していた。また下半身の方では、ソックスをめいいっぱい上げて、半ズボンをギリギリまで下げて腰パンを着飾り、素肌は顔と手のひら程度しか日に当たっていなかった。始めは日焼け防止のためかとも感じられた。しかし、どうやらとんだ誤解であり、それは彼女の抱く心の悲鳴サインだったのだ。
部活での着替えに関しても、一度もみんなといっしょに更衣室に入らず、美鈴ときららをトイレへと連れてユニフォームを被っていた。自分たちに一方的に距離を置いているような行動ではあったが、それも誰一人にも身体の痣を見せないためである。きっと唯の傷のことは、いつも共にいる美鈴ときららが知っているため、二人に協力してもらっていたのだろう。合宿中のシャワー時間だって、もはや言うまでもない。
こうして唯は自身の身を隠して、周りの部員たちに一切露出した姿を見せてこなかったのだ。数々の怪しい行動を起こす彼女だが、その理由も全て
“みんなに嫌な思いをさせたくないから”
という一言でまとめられる。
『牛島先輩が、こんなに優しい人だとは思いもしなかった……』
下を向いている菫は、唯の本当の優しさを垣間見ることができた。
ふと思い出した先日の晩ごはんのときだって、彼女の優しさを象徴している。いっしょに食べようと思い、唯たち三人のもとへと向かったが、そこで自分は家族の話をしてしまったのだ。菫が母だけでなく父のことも大切にしていると告げたときには、唯は固まり美鈴ときららからは嫌な顔をされた理由は明白である。しかし唯一人だけは表情を変えず、何よりも怒らずにひっそりと去った。きっと先輩の心を傷つけたはずなのに、まるで何事もなかったかのように退出したのだ。
『――そんな思いも、あたしは知らなかった……』
「……ごめん、なさい」
顔を上げられない菫はボソッと呟いた。呼吸がしづらく胸が苦しく、気づいたときには自身の長ズボンに、温度のある雨を降らせていた。
「と、東條!? なに、泣いてんだよ!?」
唯が驚いている様子が伺われるが、菫は上がらない顔をしわくちゃにして、何度も鼻をすすっていた。
「だってあたし、何も知らないで……きっと先輩を傷つけたから!」
声の震えが大きくなる菫は膝を抱えて踞り、顔を隠しながら罪悪感に駆られていた。
もっと先輩と仲良くなりたい。
そう思って起こした自分の行動は、結果的に傷つけていたのだ。
それも暴力で引き起こされる身体の痣とかではなく、デリケート極まりない心の傷として。
自分はなんて大きな罪を犯したのだろう。これでは自分も加害者の一人で、まさに後輩失格だ。
過呼吸気味になってきた菫は泣き止まずにいるなか、唯からはふと呆れ笑いを放たれ、包むように反対側の肩に手を置かれた。薄い寝間着を着ているおかげか、温もりを確かに感じ取ると、ゆっくり泣き顔を上げて、優しく微笑む瞳と目を会わせる。
「牛島、先輩……」
「お前は何も悪いことしてねぇだろ? 謝る必要なんかねぇよ。だからもう、泣くなって」
涙で目が潤む菫だったが、それでも唯の上級生らしいかっこよさと、ソフトボール部の先輩らしい優しさが目に焼き付く。
すると、唯の片手は菫の二の腕を掴み、身を寄せるように引っ張り、まるで恋人同士が座りながら抱き合う姿となっていた。
「先輩……」
「東條、オレも悪かったな。ずっと隠しててよ……」
耳元で囁かれた菫は唯の表情を見ることができなかったが、少なくとも先輩が優しく微笑でくれている様子を感じる。穏やからは、とても温かな思いすら伝わった。
だが唯の言葉にはまだ続きがあったようで、静かな五月の夜中にひっそりと放たれる。
「――こんな先輩で、ほんとにゴメンな……」
「――はっ!」
唯に近寄った菫の顔は大きく目を開いていた。なぜなら彼女の小さな言葉には聞き覚えがあると共に、気になっていた一言だからである。
それは今日の練習時、フィールディングが一時中断されたときだ。
せっかく買ってもらったグローブを地面に投げつけた唯が、顧問の田村信次に拾われて受け取った際、ショートとして隣にいた菫と向かいあったときである。
部員のみんなもベンチ前に整列をして、自分たち二人がフィールディングから上がるのを待っていたが、汚れてしまったグローブを着用した唯はふと、立ち竦んでいた菫に近づく。
「東條……」
「は、はい……?」
陰鬱染みた表情で呼ばれた菫が振り向くと、唯は下を向いたまま呟く。
「ゴメンな、こんな先輩で。オレみてぇに、なるなよ……」
そのとき菫は唯を茫然と眺めているだけで、一言も返すことができなかった。あの言葉は、同じく新しいグローブを使っている自分に対しての謝罪だと感じていた。が、その裏では驚愕の真実も、意味が込められていたのである。
『――その本当の意味すらも、あたしは今ごろになって知ったんだ……』
普段気さくに話しかけてくれた唯の一字一句は、思い出せば思い出すほど深い闇を暗示していたことに、菫は今気づいたのだ。
「うぅ……うぅああぁぁぁぁ――――――!!」
ついに声を張り上げた菫は身体を捻り、唯の胸元へと泣き顔を埋める。
「ごめんなさい! ごめんなさい、先輩!!」
知らなかったからと言って、許されるとは微塵にも思っていない。
唯が大きな悲しみを抱えていることに気づいた菫は声を出しながら泣き叫び、何度もごめんなさい! と夜空に響かせていた。
「ごめんなさい! ほんっとうに! ごめんなさいぃ!!」
菫の止まらぬ涙は唯の寝間着に染み込んでいくなか、先輩はそんな後輩を今度は、痣だらけの両腕でそっと包み込んでいた。
「だから、謝んなくていいつってんだろ? あと、いくらなんでも泣きすぎだ、バ~カ」
いつものような明るい言葉を掛けられた菫は顔を上げると、やはり唯の微笑みが目に映り込む。しかしその笑顔はさっきまでとは別物で、傷を負ったはずの心から笑っている様子だった。
「なぁ、東條?」
「は、はい!」
菫は手の甲で涙を拭いながら唯に顔向けすると、微笑みを絶やさない彼女からは瞳の輝きを放たれていた。
「オレはこんな先輩だけどさ、少なくとも部員のみんなのことは大好きだ」
「だい、すき……?」
「あぁ。きららと美鈴を始め、オレを心から迎えてくれたキャプテン、中学のときに世話になった梓、それに篠原、中島。うっせぇ月島だって同じだ。一年のメイや菱川だって……」
言葉を切った唯は、菫の頭に掌を添える。
「――そして、お前もな」
一人一人の部員を思わせた唯だったが、菫は最後に自分が言われた部分に、多大なる愛を感じていた。部活に入ったことなどない自分が、先輩から大好きだと初めて言われたからであろうか、胸の奥から安らぎを感じ取るができて頬を緩ます。
「先輩……」
菫の瞳は潤んだままだが、もう涙は止まっていた。五月の月明かりに照らされる訳でなく、心から瞳に輝きを浮かべることができていた。
すると唯は自嘲気味に笑ってみせると、頬を赤く染めてそっぽを向いてしまう。
「大好きだなんて一方的に言ってっけどさ、こんなオレのワガママを許してくれんなら……これからもよろしくな」
最後にはもう一度顔を向けてくれた唯に対して、昨日の今日である菫は、本日初めて心から笑うことができた。
「はい! あたしの方こそ、ダメな後輩ですがよろしくお願いします! 牛島先輩!!」
「あ、あとさ……」
「はい?」
せっかく笑っていた菫は、目を反らした唯が放った呟きで、首を傾げて真顔に戻されてしまう。先輩は他に何を伝えようとしているのだろうか。
気になって言葉を待つなか、横に目をやる唯はさらに頬を赤くしながら口を開ける。
「……できれば、もうオレのことを牛島って、呼ばねぇでくれねぇか?」
「えっ!? どうしてですか!?」
和やかな空気とは一変した感じが否めない菫は大きく驚くが、唯は恥ずかしそうに喉を鳴らす。
「オレ、苗字が変わって牛島になったからさ。それで呼ばれても、まだしっくりこねぇんだよ。だからさ、東條にも……その……下の名前で、読んでほしいんだ」
目線を反らしたままの唯からはもどかしさを観察されるが、菫は再び暖かな心で彼女を見ることができ、更に微笑みを浮かべる。
「違いますよ、唯先輩!」
「えっ?」
早速下の名前で呼んだ菫は唯を振り向かせ、小さな驚きを与えていた。唯先輩がそれを願うならあたしもと、菫は無邪気に笑いながら言葉を続ける。
「あたしの名前は、菫ですよ? 唯先輩!」
瞳を大きく開けていた唯からは驚いている様子が見てとれたが、次第に赤い頬は緩んでいき、優しい微笑みと化していた。
「……そっか…………そうだな、菫」
「はい! 唯先輩!!」
心からの笑顔を向け会う、二人の部員。
下の名前を呼ぶだけで信頼感を受けとることができ、居心地の良さがひしひしと感じ取れる。同級生ならもちろんだが、それは例え相手が先輩だとしても、後輩だとしても同じことである。
相手の呼び方を変えるだけで、部活動には眩くも柔らかな光が射し込むのだと、微笑む二人の女子高生は今実感していた。
「――ふぇ、フェックシュン……」
「えっ!?」
「ん!?」
突如鳴らされたくしゃみの音に驚き、菫と唯はすぐに首を曲げて体育館の方へと目を向ける。誰か起きているのだろうか。
すると二人の目には三人の人影がこちらに歩いてくる姿が映り、次第に月明かりで照らされていく。
「きらら、美鈴!?」
「凛まで!?」
二人のもとにたどり着いたきららと美鈴、そして凛は穏やかに微笑でおり、唯と菫を見下ろしていた。




