39話◇知らなかった……◆①東條菫パート「へっ? トーク、ですか?」
トイレに行くはずたった菫は、眠ってる唯の腕からたくさんの痣を目の当たりにしてしまい気にしていた。一体先輩には何があったのだろうかと考えていたが、残念ながら菫は唯を起こしてしまうのだった。
一方で菫と唯が話し込む様子をあまり快く思わない美鈴がいたが、凛と共に二人の真背中を眺めていた。しかし凛からはとある一言を返され、いかに自分の考えが愚かだったことに気づく。
合宿二日目、終了します。
五月の夜はまだまだ冷え込みが増すもので、昼と並べてみると気温差がとても大きい。うっかりしてしまうと風邪を引いてしまうことがあるため、就寝する際はしっかりと布団被るべきである。
しかし、布団からはみ出して静かに眠っている牛島唯を、一人の一年生は苦い顔をしながら見下ろしていた。
「これ全部、痣? 酷すぎる……」
真っ暗な体育館の屋根の下、東條菫は唯の不可解な腕を見ながら呟いてしまった。長袖の薄い寝間着から露出した腕には痛々しい内出血やカサブタが多く観察され、夜中ですら鮮明に浮かび上がっていた。その隣にはまた痣があり、そのまた隣には切り傷と、見れば見るほど出現して安易に数など確認できないほどである。
「もしかして……」
ふと固唾を飲み込んだ菫は仰向けで眠る唯に股がるようにして座り、彼女の上半身に纏われた寝間着を捲っていく。せっかく親友の菱川凛を起こしてトイレに行くはずだったが、今は全くもって忘れており、夢中ながら裾を上げて唯のお腹を御披露目させていく。
「やっぱり、こっちもだ……」
苦い表情を変えない菫は言葉を漏らして、唯の傷だらけの腹部を覗いていた。彼女のかわいらしい臍の周辺には腕と同様、あちらこちらに青い痣が浮かび上がっており、所々には絆創膏や湿布が貼られていたことが、強く目に焼き付く。
「絆創膏に湿布……そういうこと、だったんだ」
唯の上に乗りかかる菫はふと昨日の晩御飯のときを思い出し、唯のとった行動の理由をやっと理解できていた。マネージャーの篠原柚月が作ったカレーライスを食べ終わった彼女は、いつも共にいる植本きららと星川美鈴を連れて、笹浦二高すぐそばにある薬局に行ってくると告げて退出した時である。しかしその理由は正しく、この先輩の見るに耐えない素肌が全てを物語っているのだ。きっと彼女は薬局に行って、絆創膏や湿布を買ってきたに違いない。決して学校という場から離れて、三人で戯れようなどとは考えていなかったのだろう。
「どうして……」
未だに唯の姿を現実として受け入れられない菫は囁きながら、更に先輩である彼女の裾を捲り上げていく。ついにスポーツブラジャーの下部が見えてくるところだったが、今の菫の瞳には入り込まず、多くの痛々しい痣たちと向き合っていた。
『牛島先輩に、何があったっていうの……?』
唯の過去、そして現在の状況すら知らない東條菫。
誰かと喧嘩でもしてこんな傷を負わされたのか。はたまた、何かの事故に巻き込まれた際の痕なのだろうか。
唯の身に何があったのかを考え出した菫はジーっと彼女の腹部を眺めている。が、そのときだった。
「ん……ん~ん……」
突如として唯の身体は動き出してしまい、布団のシーツと寝顔に皺を浮かべていた。今にも目覚めてしまいそうだ。
相変わらず彼女の上に乗っかったままの菫は唯の顔に視線を移すと、起きないでほしいとも思わないまま、彼女の裾を掴みながら茫然と固まっていた。
喉を鳴らしながら動く唯の顔が菫の瞳に映るなか、ついに両者の目が会わされる。
「……ん?」
「あっ……」
今ごろになって起きてしまったと感じた菫は驚きを隠せず、目覚めた唯から何度も瞬きを見せられていた。自分が布団を掛けてあげるはずが、眠っている先輩の上に乗って肌をさらけ出させているのだ。この状況を何と説明したら良いのだろうか。
菫には、まだ唯が理解しきれていない様子が伺えた。しかし残念ながらそれも束の間で、横になっている先輩の瞳が大きく開かれると共に、ピンと背筋を伸ばしてしまった。
「お、お゛まえッ!! 何やって……」
「……牛島先輩、静かにッ!」
大声を上げた唯の言葉尻を被せた菫は咄嗟の判断で、握っていた先輩の裾からすぐに手を離し、今度はその両手で唯の大きな口を被せる。
まず思い浮かんだのは自分が逃げることではなく、周りの部員たちを起こさないことだった。変に誰かを起こしてしまったら、自分はもちろんのこと、お腹を露出された唯の姿だって見られてしまう。それでは犠牲者である先輩がとてもかわいそうで、きっと恥ずかしい思いをさせるに違いない。
後輩としてあるまじき行為であることはわかっているが、先輩としてプライドも持っているであろう彼女の気持ちのためにもと、菫は心の傷まで負ってほしくない唯にはこうする他に行動が見当たらなかったのだ。
「ン゛ゴイッ!! ゴゴエ!! ゴゴエオッ!!」
「先輩、お願いですから静かに!」
猛牛と化してしまった唯を、菫は辛いながらも決して離さず口を押さえ続けていた。心配ながら周囲を確認してみると、皆揃って静かに――大きなイビキをかく者もいるが――眠っている。どうやら、起こしてしまった部員は一人もいないようだ。
良かったと安堵のため息をついた菫だが、ふと違和感を覚えてしまい、瞬時に目線を唯の顔へと切り替える。
「はっ……」
ホッとしていたのもすぐに終わり、いつの間にか暴れるのを止めた唯からは、おそろしいほど尖った視線を向けられていた。まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまい、そのせいか腕に力が入らずにおり、必死で押さえていた先輩の口にただ添えるだけとなる。
静かに見つめ合うこととなった二人だが、すると菫の両手首は唯によって掴まれ、ゆっくりと口から離されてしまう。
放心状態の菫はただ先輩の恐い表情を見つめるだけだったが、ふと唯の瞳が下に移動するのが見受けられた。自身の素肌を確認したようだが、目線はすぐにもとに戻り、再び鋭い目を合わされる。
「……見た、よな?」
さっきまで暴れ叫んでいた唯とは考えられないほど、静かで落ち着いた声を菫は聞かされた。先輩が言っているのは、きっと身体の痣のことだろう。
「は、はい……」
声を震わせながら返した菫は最後に目線を下げて、唯から目を反らして陰鬱な表情を浮かべてしまう。
「そっか……」
とうとう唯もそっぽを向いてしまい、そばにいるはずの二人の間には、大きな溝が生まれているようだった。きっと先輩の機嫌を損ねてしまったに違いないが、これでは怒られても仕方ない。昨日のように、また嫌われてしまうのだろう。
思いもよらないアクシデントに見舞われた菫は眉間に皺を寄せながら俯いており、再び唯とは仲良くなれないのだろうと残念に思っていた。が、唯からは予想もしていなかった自嘲気味な笑いを受けることとなり、菫は驚きながらもう一度顔を覗く。
「先輩、どうし……」
「……なぁ、東條?」
「は、はい……」
菫のたどたどしい言葉尻は唯によって被せられると、僅からながら微笑む表情を向けられた。
「ちょっと、いっしょにトークでも、しようぜ」
「へっ? トーク、ですか……?」
笑みを浮かべた唯から白い歯と共に告げられた菫だが、正直微笑む先輩がなぜ話し合いをしたがるのか、検討が着かなかった。酷い真似をした自分のことを怒っていないのだろうか。トークと言っても、一体何について話し合うのだろうか。
疑問ばかりが募る菫は困惑していると、唯からは大きなため息を吐き出されてしまう。
「いいからいいから、まずは降りてくれよ。お前、割りと重いから苦しいわ」
「あっ、すみません!」
つい声を張り上げてしまった菫はすぐに立ち退くと、唯も布団からゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
「ここで話すのもなんだぁ……あっちで話そうぜ?」
人差し指を立てて気さくに呟いた唯だが、その指先には誰もいない体育館の入り口が見られた。
確認した菫は返事と共に頷くと、唯が歩き出したところで後ろをついていく。一体、何を話されるのだろうか。もしかして、殴られたりするのだろうか。今の言葉は俗に言う、体育館裏に来いと同じ意味なのだろうか。
自分の身に危険が迫ってると思いながら歩いていた菫だが、すぐに体育館の入り口に着いてしまう。徐々に身震いを覚えて立ち竦んでいると、唯から振り向かれ鼻で笑われてしまう。
「いつまで後ろにいんだよ? 隣に来いよ」
「あ、あたし、痛いのは勘弁してほしいです……」
恐怖心で千切れた言葉となった菫には更なる震えが襲っていたが、唯からは再び呆れたように笑われてしまい、緊張を和らぐ効果をもたらす。
「バ~カ。トークっつっただろ? お前にも、色々話してぇことがあるんだ。まぁいいから、隣に座んな」
「は、はい……」
菫は小さな返事をすると唯がそのまま座り込むことですぐに隣へと移動して、同じように座り込んで背中を並べた。
尻にはタイルのひんやりとした冷たさを覚えながら、目の前に笹浦二高の校舎が置かれた風景が広がっており、右には校舎の裏口、そして左には真っ暗なグランドが視界に入る。耳を澄ますと体育館脇の草むらからは、リィリィと鳴るツヅレサセの声が耳に入り、静かな夜をより象徴していた。
少しばかり冷える夜空の下、隣り合う菫は膝を丸めて唯の言葉を待っていた。
「……なぁ、東條?」
微笑みを浮かべながら目を向かわせた唯に、菫は何度か瞬きをして見せた。
「はい?」
「家族が大切だっていうのは、オレもよくわかってる。それを踏まえて、オレの話を聞いてくれ」
「わかり、ました……」
突如家族という言葉を並べた唯に、菫は不思議に思いながら見つめ返していた。家族についての話をされるようだが、なぜ突然そんなことを自分に伝えるのか。さっきの状況とは、全く関係ない気がするのだが。
すると唯はゆっくりと微笑み顔を校舎へと向けて話そうとするが、菫にはどうも彼女が儚げに見えてしまい、自然と肩が狭まる。それは無情にも弱々しいツヅレサセの声が加わることによって、牛島唯という人間の悲壮さを暗示させてるようにも感じた。
「実は、オレの家族さ……」
声を鳴らした唯が話し出すと、菫には、夜のせいではない、変な寒気がしてならなかったのだ。




