38話 ④東條菫パート「なに、これ……?」
二日目の合宿は、やたらと時間が早く進むものだった。一日目の辛い練習を乗り越えたせいか、午後のバッティングや走塁練習はあっという間に過ぎ去っていた。勉強会に関しては、本日は内野、外野、そしてバッテリーとグループに別けられて、守間の細かい連携や状況判断の説明が繰り広げられたが、気づいたときにはすでに就寝の時間を迎えていたのだ。
「ん……うぅ……」
ふと目が覚めてしまった菫は、昨夜と同じく体育館に敷かれた布団から上体を起こす。確かに部員たちの寝言やイビキも気になるが、東條家の弟妹たちと比べたら大して差し支えない。
「なんか、寝つけないな……」
薄いティーシャツを纏った菫は一人呟くと、隣で横になっている凛の様子を窺う。菫の方に体を向けていたが、どうやらスヤスヤと静かに眠っているようだ。
凛の寝顔で少し頬を緩ますことができた菫はそのまま、周りで眠っている部員たちの様子を眺め始める。メイや美鈴からは大きなイビキが放たれており、まだまだ幼さが残る一面があった。それに引き換え、二年生の柚月や梓、叶恵にきららたちは静かに息をしており、さすが上級生と言わんばかりの大人らしさが垣間見える。しかし同じ学年でありながらも、咲からは寝言が続いており、また唯はゴソゴソと動き回っている様子が観察された。
「牛島、先輩……」
みんなのことを眺めていたはずの菫は、寝返りを打った唯の後頭部に目を置きながら、月明かりに照らされた暗い顔をしていた。結局、今日は一言も会話することができなかった。昨日の晩御飯のときから、どうも近づくことができなく、練習中の喧嘩でさえ止めに入るのが恐く感じてしまった。
眠気ではなく悲しみで瞼が重くなるのを実感した菫は俯き、再び布団で横になろうとした。が、小さな違和感に気づいてしまい動きを止める。
『あれ? 夏蓮先輩だけいない……』
体育館には全く点灯されていないため見辛かったが、奥をよく見ると一式の布団には誰も寝ておらず、そしてキャプテンである夏蓮の姿が見当たらなかった。どこに行ってしまったのだろう。もしかして、御手洗いだろうか。
菫は気になって首を曲げて、館内に設置されているトイレの方を覗く。しかし明かりは全く灯されておらず、人がいるような気配すら感じない。
「も、もしかして……」
突如強張った表情に変わった菫はもう一度正面に顔の位置を戻し、誰も寝ていない布団に視線を送った。開けた布団には確かに誰かが入った形跡が残っているが、何度見ても無人の空間だ。
「う、うそ……これって……」
声と共に歯も震わせた菫は怯えながら、固唾を飲み込んで思ってしまう。
『――神隠し……!?』
菫が幼い頃に聞いた言葉である。目の前の人が突如消えてしまう現象。それを世間では神隠しと言われており、一説によると神様のイタズラだと述べられている。
しかしオバケ嫌い菫にとっては、そんな説などどうでもよかったのだ。なぜなら、怖いことに変わりないからである。
「凛? 凛ってば……?」
困惑した菫はすぐに隣の凛の小さな肩を揺らし、彼女を起こそうとする。他の眠っている部員を起こさないためにも微かな声で呼んでいたが、すると凛の瞳を僅かに開けさせることができた。
「菫? どうしたの……?」
「たいへんだよ! 夏蓮先輩が、神隠しに遇っちゃっていないんだよ~!」
小さな声ながらも必死さを表した菫だが、横になっている凛からはしばらく何も返事が返ってこなかった。突然起こしたことは確かに申し訳ないと思うが、どうしてこのような一大事に凛は平気でいられるのだろうか。
緊急事態だと叫びたい気持ちはやまやまな菫は冷や汗すら流すほどだったが、ジーッと睨む凛からは無表情で呆れた顔が見せられる。
「………………菫……?」
「な、なに?」
「神隠しは、ない」
冷静沈着に答えた凛が告げたが、神隠しという摩訶不思議な現象を信じてる菫は真っ向から否定する。
「だって、夏蓮先輩どこにも見当たらないんだよ!? トイレの電気もついてないし、こんな夜中に散歩もおかしいし!」
「だからって神隠しも、おかしい……」
まるで興味を向けてくれない凛は横になったままで、焦る菫とは真逆に落ち着いていた。親友である凛がそこまで言うならば、もしかしたら夏蓮は神隠しになど遇っていないのかもしれない。
多大な緊張に駆られた菫は固唾を飲み込んで、布団に埋もれた凛に恐る恐る声を鳴らした。
「ほ、本当に……?」
「本当。だから安心して寝よ?」
「う、うん……フッ!?」
どうやら大丈夫だと思った刹那、目を見開いた菫は第二の事件に襲われる。
「り、凛……?」
「今度はなに……?」
「と、トイレ……」
「……」
え? というリアクションすら出てこなかった凛からは、開いた口が塞がらない様子が観察できた。が、一刻を争う菫は困りながらも真面目な顔を見せ続けていた。よりにもよって、なぜこんなときに行きたくなってしまうのだろうか。夜中の学校トイレなど、もはや心霊スポットだ。そんな恐ろしい場所になんて一人で行ける気がしないし、きっと二度とこの場に帰ってこれないに違いない。
「凛、お願い!」
顔の前で両手を合わせて願掛けた菫は固く目を閉じていたが、凛からは再び返答がなかなか返されなかった。唯一起きている凛に、もう頼る他ない。
「…………わかった。じゃあ、行こう……」
「ありがとう!」
布団からゆっくりと身体を起こした凛の姿に、菫は感極まって涙が出そうになっていた。なんて優しい少女なのだろうか。凛と友だちでいられることに、これ以上の幸せなど無い。
二人は立ち上がって、菫は凛を先頭にしてトイレに向かおうと歩き出す。自分より一回り小さい背中だが、とても頼りがいのある後ろ姿であり、静かに後ろをついていこうとした。
――ガサガサ……
「ヒィッ!!」
突然の物音に固まってしまった菫は立ち止まってしまい、前を歩く凛を振り向かせる。
「どうしたの?」
「いいい、今、あたしの後ろで、変な音が……」
ゴソゴソ……
「ヒャッ!!」
再び鳴らされた正体不明の音に襲われ、菫は全身を震わせながら凛の胸に飛び込んで抱きついてしまった。
「もうやだ。合宿なんて、もうやだよ~」
このまま凛のことを、ずっと抱き締めていたい。
恐怖心が有頂天に達した菫はもう目を開けられないほど固く閉ざしていたが、ふと凛から小さな笑い声が耳に入る。
「大丈夫。ほら、あれ……」
「へ……?」
片目を開けた菫に見えたのは、凛が細い腕を前に伸ばしている姿だった。何かを指差しているだろうかと、恐れながらもゆっくりと後ろを振り返る。
ガサガサ……
「あ……」
「ね?」
凛を離さないままの菫は一人の部員の寝姿を確認したところで、心の恐怖が一気に覚めたのだった。凛の差した指先には、寝返りで背を向けている唯の姿があり、どうやら物音の正体は彼女の寝相のようだ。
「牛島先輩かぁ、脅かさないでくださいよ~……」
菫はため息が出てしまったが、いつまでも動き回る唯はついに布団を蹴飛ばしてしまい、彼女の寝間着姿が解禁された。部活同様、少しも肌を見せない長袖長ズボンだった。
「風邪、ひいちゃうかも……」
ふと唯のことを心配した菫は動き出し、トイレとは真反対である唯のもとに寄る。五月の夜はまだまだ冷えるのだ。先輩が体調を崩さないためにも、布団を掛けてあげよう。
眠る唯のそばにたどり着いた菫は彼女の布団を持ち、上から被せてあげようとした。が、菫の動きはまた止まってしまった。
「なに、これ……?」
唯を見て不思議に感じた菫は力が抜けてしまい、布団を落として彼女を見下ろしていた。
さっきまでは背を向けられて確認できなかったのだが、唯の捲られた長袖からは彼女の腕が飛び出していた。だがその姿は普通の様子ではなく、辺りに黒い塊のようなものがいくつもあり、目の当たりにした菫を凍りつかせている。
「そ、そんな……これ、全部……」
唯の腕に泥か何かでも付着しているのかとも思った菫だが、目を凝らして見るとその正体がわかってしまう。それも怖いオバケよりも驚いてしまうほどで、まともに声など出せなかった。
『――痣だ』
遠くから凛にも見守られる菫は、あまりにも多すぎる唯の痣に目をとられてしまい、黙りながら月の光に背を向けていた。




