38話 ③清水夏蓮パート「先生!! もうやめて!!」
「内野~!! ラストのバックホームだよー!!」
ベンチ前に並ぶ外野組の一人でありキャプテンでもある清水夏蓮の大きなエールが放たれた。
本日遠征中の野球部がいないことで、学校のグランドを借りられている笹二ソフト部は現在、守備練習であるフィールディングが終わろうとしているところだ。前日の雨でまだ泥濘が見てとれるグランドではあるが、先に外野の夏蓮、メイ・C・アルファードと植本きららが解放されたところで、今度は内野組の最終フィールディングが行われようとしていた。
先に上がってみせた夏蓮だが、すでに疲労はピークを迎えており、こうして立っているだけでも辛さを覚えていた。一つの小さなボールに対して、広い範囲を駆けなければならない外野はとても足腰に響かせるものがあり、それに加えて自分が守るライトではファーストを始めとする内野のカバーが多彩に求められるあまり、人一倍走っていたようにも感じていた。
ふと膝に手を着きそうになる夏蓮だが、すぐに止まって内野の部員たちに凛とした顔を向ける。
『みんなだって頑張ってるんだ!! 辛いのは、私だけじゃない!』
自身の内なる想いで真剣な表情を見せた夏蓮は、スパイクで荒れた大地に立ち、内野を守る一人一人の顔を覗く。
早い打球だけでなく、バント処理もあるため瞬時のダッシュもしなければならないサードの牛島唯とファーストの星川美鈴。
自身の守備範囲だけでなく隣のカバーのためにも動き、セカンドベース上の連携さえ求められるショートの東條菫とセカンドの菱川凛。
そして守備をするみんなに大きな声を出して指示を送り続け、司令塔のようにしてまとめるキャッチャーの中島咲。
――それだけじゃない。
ふと夏蓮はすぐ隣で並んでいる二人の部員たちの顔を見つめる。
「ラストがんばれにゃあ~!!」
「みなさん!! 有終の美を飾りましょ~!!」
自分の練習が終わっても声を出して応援するきららとメイだっているのだ。
誰一人として、手を抜いている者などいない。だからこそ自分だって声を出して、頑張るみんなにエールを送ることが選手として、そしてキャプテンとしての指名であり義務である。
「みんなぁ~!! がんばれぇ~~!!」
汗を垂らしながらも夏蓮は叫び、グランドは真夏の炎天下を迎えているように温度が高まっていた。
ノッカーの信次も息を荒くしている様子が窺えるなか、彼の隣で座っていたキャッチャーの咲が気合いのこもった表情で大きな口を開ける。
「内野~!! バックホ~~ムッ!!」
天にも轟く声を放った咲が再び座ると、ノッカーの信次はまずサードで構える唯に身体を向ける。いつものようにユニフォームを腰パンで着飾る彼女だが、信次は真剣さながらボールをサードに打ち込み始めた。
――カキーンッ!!
信次の放ったボールは地面を這うようにしてサードに近づいていく。転がるにつれて泥が付着していくなか、唯の新しいオールラウンド用の黒いグローブに吸い込まれようとした、そのときだった。
――パスッ……
「んなッ!?」
泥濘のせいでいつもより荒れたグランド上、打球は突如不規則に跳ねてイレギュラーとなってしまい、声を鳴らした唯のグローブの親指部分に当たっていた。
残念ながらボールはグローブに収まらずサードベースの後ろへと転がっており、後逸となった唯はすぐさまボールを拾ってキャッチャーへと投げ返す。
――バシッ!!
「ドンマイドンマイ!! 次、ショート!!」
しっかりと返球された咲はサードに向かって明るく放ったが、納得できていない様子が伺える唯は舌打ちを鳴らして、そのままサードに残っていた。
「唯ちゃん!! 次に集中だよー!!」
キャプテンの夏蓮も声を掛けて背中を押そうとした。が、唯からは一言も返されずに終わってしまう。
「ゆ、唯ちゃん……」
相当悔しかったのだろうか。いつもなら、しゃあ!! や、もういっちょ!! と叫んで気合いを見せてくれるのに。
夏蓮の表情が心配に変わるなか、ボールを受け取った咲はそのまま隣の信次にトスで渡して、今度はショートの菫に向かって打球が飛ばされる。
――カキーンッ!!
唯のときと同様に正面の速いゴロとなった打球はすぐに菫のもとへ辿っていく。構えられたオレンジのグローブに真っ直ぐと突き進んでいった。
――ポロッ……
「はッ!?」
だが今度は、一度はグローブの中に入ったものの飛び出してしまい、菫の目の前に落ちていた。守備の要でもあるショートの菫がエラーを見せるなか、彼女は焦りも見せながらすぐにキャッチャーにボールを返す。
「うおっと~!!」
――バシッ!!
「あッ!!ごめんなさい!!」
謝った菫の投げたボールは咲の頭上高くに放たれてしまったが、頼りがいのあるキャッチャーのめいいっぱいのジャンプで暴投が帳消しにされた。
「中島先輩!! ホントにすみません!!」
「気にしない気にしない!! 次にガンバ!!」
「は、はい……」
相変わらず気さくに答える咲だったが、菫は弱々しい返事と共に俯いていた。
「菫ちゃんも、次に集中だよー!!」
「わ、わかりました!」
再び声を送った夏蓮は、戸惑った様子の菫から返答を受けていたが、表情を明るくすることはできなかった。あの菫がエラーをするなんて珍しい。それにどこか辛そうにも見えてしまった。昨日は問題無かったが、本日の午前練習が彼女を襲っているのだろうか。
彼女の様子がいつもと違うと感じる夏蓮は眉をハの字にして菫を見つめていたが、どうやら時間は待ってくれないようで、すぐにセカンドの凛へと打球が放たれていた。
――パシッ!!
すると今度は、正面の速いゴロはオレンジグローブ内に収められ、凛はすぐに持ち換えてキャッチャーにボールを放る。
――バシッ!!
「オッケー!! ナイスセカンド~!!」
「ふぅ……」
自分のプレーが終わって一安心と言ったところの凛は移動し、内野から外れて夏蓮たちの列に並んだ。
「凛ちゃん、ナイスプレーだよ!!」
「ありがとうございます。夏蓮先輩」
自分のことのように嬉しかった夏蓮は、静かだが微笑みを見せてくれた凛から返され、更に嬉しさを増して笑顔となっていた。
――カキーンッ!!
――パシッ!!
「うっすぅッ!!」
――バシッ!!
夏蓮が笑う間にはすでにファーストに打球が襲っていたが、美鈴は青と黒で彩られたファーストミットの音を立て、次に咲の胸元で赤いキャッチャーミットすらも鳴らすことができていた。
「星川さんもオッケーだよ!! ナイスファースト!!」
「あざっす!!」
咲に向けて一礼した美鈴もすぐに夏蓮たちの列に移動し、上がり組から温かく迎えられていた。
『よし! あと二人だ。いい流れになってるよ!』
すぐに真面目な顔に戻した夏蓮は、エラーで残った唯と菫に視線を送り、二人の成功を祈っていた。この二人ならきっと大丈夫だ。そう信じながら見つめていると、フィールディングは二周目に突入してサードの唯に打球が飛ばされる。
「唯ちゃん!! ファイトだよ!!」
――カキーンッ!!
夏蓮のエールは打球音と共に放たれると、唯には一回目同様の低く速いゴロが襲ってくる。
真剣を越えて恐くも見えるサードの表情だが、唯は打球の正面に入って腰を落とし、股を開いて捕球体制を取った。だが……
「あ゛ッ!?」
今度は打球が唯の開かれた足元をかすることなく通過してしまい、グローブの音は全く鳴らされなかった。
踵を返して通り過ぎていった打球を、唯は静かに棒立ちで見つめており、その姿からは空しさすら覚えるものが、少なくとも夏蓮には感じられた。先ほどの打球はイレギュラーをして弾んでいたが、今回は全く跳ねないゴロだった。いつもならボディストップを主に活用して、打球に触れようとする唯なだけに珍しいエラーだ。
「唯、ちゃん……」
唯の大きな背中を見せつけられた夏蓮は不安を抱えながらでしか眺められず、応援していた自分の表情に雲を浮かばせていた。でも、次こそ大丈夫だ。もう一度受けて、キッパリと上がってもらおう。
「唯ちゃん、ドンマイドン……」
「……チッ……」
「え……?」
再度声を掛けようとした夏蓮だが、その言葉尻は唯の鳴らした舌打ちで被されてしまう。
だが、夏蓮が驚いたのはこの行動ではなかった。
肩を震わせる唯は、いつの間にか左手に着けていた黒グローブを取り外しており、利き手である右手で高々と掲げていた。その刹那、彼女の右腕は地面へと一気に降り下ろされる。
「ックショーッ!!」
――バサッ……
「ゆ、唯ちゃん!?」
驚きで声を張り上げた夏蓮に見えたのは、唯が新しく購入したグローブを抜かるんだグランドに叩きつけた姿だったのだ。確かに今日のグランドはいつにも増して荒れており、思い通りに打球が来なくてイライラすることもあるだろう。自分がライトで守っていたときだって何度もファンブルをしてエラーをした。しかし、だからと言って物に当たるのは良くない。それも、あの新品で綺麗なグローブに。
怒れる唯の姿は、もちろん夏蓮だけでなく部員全員に目の当たりにされており、遠い場所で投球練習をしている梓や、グランドの隅で走っている叶恵たちごとまで振り向かせていた。
誰一人として笑っている者などいない気まずい雰囲気のなか、唯は立ち竦んで両手の拳を震動させており、近くにショートの菫がいるはずなのに一人に見えてしまう。
『唯、ちゃん……』
こんなとき、夏蓮はどんな声を掛けてあげれば良いかわからなかった。小学生のときに入っていたクラブチーム、笹浦スターガールズではあるまじき行動であったが故、今回のような出来事に出くわしたことがないのだ。唯の悔いる気持ちがわかるだけに、素直に声を出せない。
『ダメだ。いくら考えても、応援することしか頭に出てこないよ……』
腰パンといいグローブを投げつけるといい、決して紳士的には見えない彼女だが、唯が努力をしていることには間違いない。
もう一度唯のことを応援しようと決めた夏蓮は口許に手のひらを添えて声を放とうと、大きく息を吸い込んだ、そのときだった。
「愚か者ぉぉ――――!!!!」
突如男性の力みなぎる声がグランドを揺らし、夏蓮はそのまま息を飲み込んで声主に目をやる。
「せ、先生!?」
夏蓮を含む全ての部員たちには、ノックバットを強く握り締める信次の鬼のような形相が見てとれ、普段は終始笑顔でいる彼が別人になってしまった感覚が否めなかった。
「ア゛ン……?」
振り返った唯もまだ怒りが覚めていない様子で信次を睨み、今にも喧嘩が勃発しそうな空気が流れ込む。
「グローブに、なんてことするんだ!?」
「んだと、ゴルァ……?」
二人の鋭い視線が交わるなか、バットを持つ信次はついに歩き出してしまい、ノッカーとサードの距離が徐々に縮まっていく。
「ちょ、先生!?」
すぐに信次の進行を止めようとした夏蓮だが、非力のあまり男の腕を掴んでも引きずられるだけで、スパイクの歯でグランドに線を引いていた。このままでは、体罰に発展しかねない。
信次が近づくなか、唯も応戦するかの如く歩み始めてしまい、威嚇するように肩を揺らしながら進む。
「唯、落ち着くにゃあ!」
「唯先輩、気にしない方がいいっすよ!」
唯の方にはきららと美鈴が止めに入って、二人がかりで何とか動きを制止することができたのだが、彼女の恐ろしい表情は残ったままだった。
一方的に信次が進むなことになったが、夏蓮一人だけではどうにもできずにいると、こちらにはプロテクターを着けた咲やメイ、そして凛の三人が加わり顧問を押さえる。
「先生! 暴力は、ダメ!」
「信次くん先生!! Stop!! Stop walkingです!!」
前方から必死で押さえよつけようとする凛と、なぜか信次の背中に飛び乗っておんぶの状態となったメイ。
「せんせぇ~!! こんなことやってる場合じゃないでしょ!? 早く終わらせてご飯食べようよ!?」
「何でこんなときに、ご飯のこと考えられるの!!」
後ろから嫌々ながら引っ張る咲に対して、思わず叱りつける声で突っ込みを入れた夏蓮。
四人の女子たちが一人の男を止めようとしている前代未聞の姿がグランドに映し出されるが、信次の動きはいっこうに止まらず、もう少しで唯のもとにたどり着こうとしていた。
四人ですら止められない信次の底力に驚く夏蓮だが、ふと前から果敢に止めようとしている凛の顔が横に向けられる。
「――す、菫も、手伝って!」
凛のか弱い叫び声につられるようにして、夏蓮は視線を換えてみると、ショートの位置で一人突っ立っている菫の姿が目に映った。いや、どうやら戸惑いを伺える彼女も止めようとはしている。しかし、そばの唯になかなか近づくことができない様子で足が動かせずにいたのだ。
『菫ちゃん、どうして……?』
練習試合のときは叶恵と唯が喧嘩になりそうになったとき、すぐに止めに入っていた彼女だったのに、今ではその姿が全く見られない。どうして唯に触れようともしないのだろうか。
「これはオレの道具だ!! テメェみてぇな素人に、あれこれ言われる筋合いはねぇんだよ!!」
「ふざけるなッ!! 無礼者ぉ!!」
夏蓮が疑問を考えようとしたのも束の間、唯と信次の激しい口論は始まり、ついに二人の間が凛一人分の距離になってしまった。
「光り輝く新品極まりないグローブを投げつけるなんて、君は思わないのか!?」
「なにが、だよ!?」
歩みを止めて唯の目の前に立ち塞がった信次は彼女のことを見下ろしながら、普段は穏やかな瞳を尖らせていた。
このままでは、唯が危ない。
「先生!! もうやめて!!」
夏蓮は後方から大きく叫んで信次を落ち着かせようとしたが、彼の大きな背中が膨らむ様子が観察できて、再び罵声が放たれることが予想着いた。
『こんなの、私のやりたい部活動じゃないよ……』
悲壮のあまり涙が浮かんできた夏蓮は、早くも笹二ソフト部に大きな亀裂ができてしまったと感じていた。みんなで楽しく、且つ直向きに努力していこうと思って活動しようと思っていたのに。
もはや楽しさの欠片も見当たらないグランド上、ついに信次の大きな口が唯に向かって開かれる。
「東條や菱川!! それに星川と植本に、失礼だと思わないのかッ!?」
――「「「「――!?」」」」――
信次の叫びを聞かされた八人の選手たちは皆静まり、唯ですら瞳孔を開けているように見えた。先生はどうして四人の名前を挙げたのか、夏蓮は察することができた。
『――四人とも、唯ちゃんと同じように新品のグローブを使ってる……』
菫と凛は同じ色のオレンジグローブを、そしてきららと美鈴も一昨日購入したばかりのグローブを使ってるのだ。信次の言う通り、彼女たちの目の前でグローブを叩きつけるのは、失礼を越えて侮辱的な行為としても判断されてしまう。
辺りには沈黙の一時が流れたが、それを信次の声が引き裂く。
「確かに、僕は素人で下手な顧問だ。そのことは何度でも言いなさい。でもな、牛島! 道具を大切にすべきだなんてことは、素人の僕にでもわかるよ?」
信次は厳しい表情のまま告げて、歯軋りを見せる唯と目を会わせていた。すると彼は動き出し、一歩前に足を踏み入れる。
「せ、先生……は……」
声を張った夏蓮だったがすぐに胸の高鳴りは静まり、信次が唯の横を通り過ぎていく姿が目に焼き付く。とりあえず、体罰には発展しなくて一安心だった。
夏蓮はホッとしながら信次の、メイが乗りかかった背中を眺めていると、唯の投げつけられたグローブのもとでしゃがみこむ。
地面に足が着いたメイから解放された信次はすぐに立ち上がり、踵を返すと彼の手元には唯の、黒光りを放つグローブが両手に載せられていた。まるで主の唯のもとに、献上するかのように。
「牛島……君はこのグローブを、道具と言っていたね?」
信次は多少の泥が着いてしまったグローブを眺めながら、唯に対して優しいトーンで声を出していた。
「だって、そうじゃねぇかよ……」
唯は言葉の最後にそっぽを向いてしまうが、信次はふと笑いを彼女に見せて、いつもの笑顔に戻って再び声を鳴らす。
「確かに、グローブは道具だ。でもなぁ牛島、このグローブは、そんな簡単に表してはいけない気がするよ? だってさ……」
再度グローブ目を落とした信次に、唯もつられて眺めてしまう。
「――これは、慶助に買ってもらった、大切な代物だろ?」
「――!?」
先ほどの信次の言葉よりも驚いている唯の様子が、静かに見守っていた夏蓮にはわかった。慶助という人が誰なのかまでは知らないが、少なくともあのグローブは『自分で買った』訳ではなく、『誰かに買ってもらった』ものなのだ。それに以前柚月が言っていたが、グローブは選手にとっての相棒であり、それを蔑ろにしてはいけない。確かにそれを投げつけては仲間にも失礼だし、せっかく高いお金を出して買った相手にも申し訳が立たない気がする。たとえ、どんな理由であろうとも。
声を決して放たず眺めていた夏蓮だが、唯へと近寄る信次はグローブを前へ伸ばし、彼女の目の前まで運んだ。
「慶助だって、牛島のことを応援してると思うよ。だからこそ、もうこんな真似はしないように、な?」
「……チッ……」
――パシッ……
口許を震わせた唯は舌打ちを鳴らしたあと、信次の手元からグローブを素早く取り返した。
和やかな表情となった信次がバッターボックスへと向かい始め、夏蓮は唯の姿を誇らしげに見ていた。エラーをしたって次に生かせば、それはファインプレーのもとになるのだ。唯ならきっと、それができるはずである。
「唯ちゃん!! もう一度、頑張ろッ!!」
笑顔のまま夏蓮が声を掛けると、背を向けていた唯からは小さな頷きが返された。ラストになってからノーリアクションだった彼女からの返事にはとても嬉しく思い、安心してベンチ前から応援することができそうだった。
「みんなも、唯ちゃんのこと応援しよう!!」
唯と信次の止めに入っていた選手たちからも明るい表情で返事をされ、夏蓮たち上がり組はベンチ前に戻って整列した。
上がり組に対して唯は背中を向けており、何やら菫と話しているようだが、すぐにノッカーの信次へと身体を向けて大きく息を吸い込んでいた。
「ウルァー!! コイヤァァ――――!!」
地を揺らしかねない声を放った唯は真剣なもので、怒りではなく覚悟を持った顔をしてフィールディングに臨んだのだった。




