38話 ②舞園梓パート「はぁ、ダメだなぁ……」
合宿二日目に突入した笹浦二高女子ソフトボール部は学校グランドで、練習用ユニフォームを纏った部員たちが野手と投手に別れて練習を励んでいる。すでに午前の半分を終わらせた部員であるが、それは決して楽な練習ではなく、これでひと安心だとはほど遠いものだった。昨日の練習を経験した部員たちの身体は、早朝から筋肉痛に悩まされていたが、通称、鬼マネージャー篠原柚月からは何の心配もされず練習がスタートされたのだ。強制的にグランドに出された選手たちは二十分完走から始まり、体幹を鍛えるためのサーキット、ゴロやフライの基本動作の確認、そしてキャッチボールをこなした。
身体に大きな疲労を抱えながらも、追い討ちをかけるかのような暑い太陽の下で行われている練習ではすでに大量の汗を流すこととなり、何度もアンダーの肩袖で拭う姿が見受けられる。
太陽が徐々に南中の位置を迎えようとしているこの時間では更なる日照りが襲うなか、現在ピッチャー特訓を行っている舞園梓はネットに何球もウィンドミル投法で投げ込んでいた。前日と同様、柚月に見守られながらの投げ込み練習となっているが、相変わらずボールのスピードには勢いがあり、彼女の左腕からは何度も光の球が放たれているようだった。
「はぁ、ダメだなぁ……」
しかし、呟いた梓は自身の投げるボールに不満を抱えており、眉間に皺を寄せながら次のボールを握っていた。
「どうかしら? コツは掴めそう?」
微笑みを乗せた柚月の問いかけだったが、梓は静かに首を横に振る。
「叶恵に言われた通りには投げてるつもりだけど、やっぱストレートになっちゃうんだよね」
「そう……」
一気に心配そうな顔に染めた柚月だが、不器用な梓にも彼女の気持ちが何となくわかる。
昨日のピッチャー特訓中に、柚月から言われた課題は、まずは自分が一番よく知っているコントロールの向上である。ここまでは全てネットの中に放ることができているが、またいつ暴投して柚月に叱られるかわからない。
そして新たに加えられたのが、球種を増やすこと。
小学生のときからピッチャーを経験している梓だが、その持ち球はストレート一本である。小学生のときはそれで良かったのかもしれないが、高校生となった今ではさすがに直球を当てられてしまうだろう。
そこで梓は変化球を虹色の如く多彩に持つ月島叶恵と相談することとなった。
不器用な梓の要望としては、あまり指先や手首を気にせずに投げられる変化球であり、今まで投げてきたストレートと変わらない軌道で腕を振り抜きたいとのことだった。
叶恵には頭を抱えさせてしまうこととなったのだが、梓の速球という特徴を活かしたいと訴えた柚月も含めて、三人で試行錯誤を行った結果、一つの球種を見つけることができた。
――それが、チェンジアップ。
チェンジアップとは、簡単に言えば遅い球であり、ストレートと同じ軌道を辿っていく変化球の一種である。主にバッターのタイミングをずらして打ち損じ、あわよくば三振を奪うことを目的としたボールであり、ストレートと遅い球という緩急を備えることができるのだ。
チェンジアップの投げ方は様々あるが、叶恵が推奨したのは握り方を変えることだけの手法だった。ストレートは主に人差し指と中指をボールの縫い目に掛けて、他の三本指で支えながら投げるボールである。ボールを放つ際に、縫い目に掛けていた二本の指でスナップさせることにより、その勢いが増す基本的な球種なのだ。
一方で叶恵が梓に教えた握り方は、一言だった。
「――オーケーサインで握るのよ」
叶恵が伝えた握り方はまず、ボールの横にある縫い目に、親指と人差し指で円を作りながら添える。そして残りの三本の指は縫い目に掛けず、あくまでボールの支えとしての働きだけだった。
ストレートとは握り方が大きく異なるが、これは自分の指でスナップをできないようにするためのものであり、言わば、力を抜いた直球である。腕の動かし方はストレートと何ら変わらないため、この握り方さえ覚えれば投げられる、簡単な球種の一つなのだ。
ストレートには自信がある――残念ながらそれしか投げられないのだが――梓になら今一番適した変化球であると決まり、現在何球もチェンジアップの練習をしていた。
しかしここまで、梓は未だにチェンジアップのコツを掴めておらず、簡単な問題のはずなのに難題化している問題児となってしまっていた。時々は決まることがあるのだが、残念ながらそれは五球に一球のペースであり、まだまだ修得には時間が掛かりそうだった。
「てか、少しぐらい掴みなさいよ。もう何球投げてると思ってるのよ?」
すると柚月から呆れたような顔を見せられてしまった梓は腰に手を添えて、本日投げた投球数をじっくり思い出していた。
「……二百、ぐらいかな?」
「それで手応え無し、と?」
「う、うん……」
「はぁ……」
聞こえるほどのため息を柚月から放たれた梓もさすがに悩ましい顔になり、チェンジアップの握りを確認していた。チェンジアップを投げたい気持ちはあるのに、なかなか結果として表れないのが無念極まりない。もっともっと投げて、早く覚えてみせよう。
「よしっ!」
梓は自分に気合いを入れるために一声鳴らして、土のグランドに取り付けられたプレートに足を添える。
「あれ、そういえば……」
ふと気になったことが頭に浮かんだ梓はセットを解いてしまい、柚月に不思議そうに眺められていた。
「どうしたのよ?」
「あのさ、叶恵は?」
そういえば、同じピッチャー特訓を行っているはずの、叶恵の姿が見当たらなない。特訓開始ではお互い背中合わせになりながら投げ込んでいたため、自分が気づかずうちにいつの間にかいなくなっていたのだ。
不思議がる梓はふと、人工芝に置かれた叶恵の黒いグローブに目が止まり見つめていた。御手洗いでも行っているのだろうか。しかし、あの鬼軍曹の名を持つ叶恵が練習中にそんなことするとは珍しい。
反って疑問が湧いてしまった梓は小首を傾けていると、柚月は突如、部員たちがノック練習を受けている方へも指差す。
「あそこ、わかる?」
「あそこ?…………あ!」
小さな驚きをした梓に見えたのは、グランドの端の方でランニングしている叶恵の姿だった。だがそれはただ走っているだけでなく、足腰や彼女のスタミナを鍛えるためであろうか、どこから持ってきたのかわからない大きなタイヤを、身体にロープを巻いて引きずりながら走っていたのだ。
「このまま山の神にでも、なったろうかぁ~~~~!!」
ここから相当離れているはずなのに叶恵の叫び声がよく聞こえ、梓は恐らく柚月のせいだろうと猫背になっていた。
「叶恵をどうするつもりなの?」
「そりゃあ、スタミナ強化よ。それに足腰の筋肉も着けてもらって、もっと力強いボールを投げてほしいしね!」
なぜか明るく答えたモテモテマネージャーには、梓は冷たい目でしか見つめることができなかった。昨日といい今日といい、思い返してみれば叶恵は走ってばかりの姿が浮かんでしまう。もはやそこらの駅伝選手よりも、走り込みをしているのではないかという疑念さえ沸かせるものだった。
「叶恵……山の神は坂道のはずだけど、私は応援してるから……」
笹浦二高の平坦を駆けている叶恵を眺めながら、梓は密かにエールを送ることにした。
「さてと、じゃあ私はみんなのご飯作ってくるから、ここらで抜けるわね」
ふと話を切り替えた柚月に、梓はグランドの時計台に視線を移し換えてハッと気づく。
「もうそんな時間だったんだ。全然知らなかった」
時計台の針は正午まで残り三十分というところを指しており、夢中で投げ込みをしていた梓には時の早さを実感させていた。
「みんなには、正午に家庭科室へ集まるように伝えてね。じゃあ、チェンジアップ、頑張って覚えなさいよ」
「うん、わかったよ。叶恵たちにも、ちゃんと伝えておく……」
梓は冷静に答えると、柚月からは背を向けられてその姿が次第に遠くなっていく。現在、顧問の田村信次はフィールディングのノッカーをやっていることから、どうやら柚月一人で昼食を作るようだ。確かに、彼女の話を聞いたところ、先生は皿洗いぐらいしかできなかったらしいから、彼女だけでも問題ないだろう。
柚月の背中が昇降口に吸い込まれるようにして消えてしまうと、見送った梓は握り締めたソフトボールに顔を向ける。
「早く、チェンジアップ覚えないとな……」
自分の特徴を活かすためと考慮してくれた柚月のためにも、同じピッチャーで握り方まで教えてくれた叶恵のためにも、そして辛い練習を続けてくれているみんなのためにも、このチェンジアップという球種を覚えたい。
「よしっ!」
再び気合いを入れ直した梓はチェンジアップの握りを確認して、プレート上でセットに入る。上体を少し寝かせてボールを持つ左腕を後ろに弾き、左足でプレートを蹴って前方移動を開始する。同時に左腕を風車の如く大きな円を描くようにして回し、右足の着地と共にブラッシングでボールを弾き出した。
「フッ!」
おまけに溜め込んだ呼吸も飛び出してしまうが、梓の放ったボールはネットへ一直線と向かっていく。果たしてチェンジアップは決まるだろうか。
「――あれ?」
だが、すぐにネットに当たってカサカサという乾いた音が鳴らされると、梓はストレートになってしまった投球にため息を漏らしてしまう。
『でも、まだまだこれから!』
しかし梓は真剣な表情を止めなかった。折れぬ心には勇ましい炎が変わらず燃え盛っており、正午までの残りの時間、諦めずに何球もボールをネットに投げ込んでいったのだ。




