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プレイッ!!◇笹浦二高女子ソフトボール部の物語◆  作者: 田村優覬
二回◇すれ違いからの因縁へ――vs釘裂(くぎざけ)高校◆
83/118

勉強会に居眠りはいけません!!

シャワーを浴び終わった部員たちはついにソフトボールの勉強会。

叶恵が講師となってソフトボールの基本事項を説明していくこととなった。

また一方で、柚月と信次は晩ごはんの作製を行っていたが、そこで柚月にはある野望があった。

また、釘裂高校も笹浦二高に対して徐々に手を伸ばしていた。

 五月雨(さみだれ)の夕方では、もとより静けさを保ちすでに辺りは暗くなってきており、いつもより夜が来る時間を早く感じさせるものがある。このような天気になると、少年少女たちの外出は自然と短くなったり、あるいは行動を()めて室内で暮らしたりという、アウトドア的な人間に一時のインドア思想をもたらす機会を生ませるのだ。その影響は割りと大きなもので、人々はその日の天気によって休みの過ごし方を覚えると言っても過言ではない。つまりは、天候という神様のように巨大でアヤフヤな存在―昔の人はそれを御天道(おてんと)様とはよく言ったものである―は、我々人間の生活に大きな影響を与えるのはもちろん、趣味にまで介入してくる一面があることも忘れてはいけないのだ。

 そんな優しい雨は徐々に弱まる笹浦市で、傘を持ちながら帰る二人組が背中を並べていた。彼女たちが着用している黒色の指定ジャージの胸元には『KUGIZAKE HIGH SCHOOL』と、筆記体の白い刺繍が施されている。

 隣り合う彼女たちの身長には大きな差が見てとれるなか、まずは大きい身長である金髪ロングの女子高生が、たいへんな気だるさを込めた大きなため息を漏らしていた。

「つっかれた~。今日だけでこんなに投げさせられたら、気持ちの前に身体が終わるっつぅの……」

 女子高生らしからぬ派手な金髪を揺らしながら答えた彼女だが、本日は女子ソフトボール部の練習を学校の中でやらされるはめとなっていた。内容は主に走り込みや筋トレ、体幹を鍛えるトレーニングなどで、なかなかボールに触れられない退屈なメニューであったことがだろう。しかし、彼女は部においてピッチャーという重要なポジションを任されているためか、他の選手たちが基本トレーニングをしている最中にキャッチャーを座らせて投げ込みをしていたようだ。

 一般的な選手たちと比較すればまだ楽しい内容だとは感じるが、それ以上に何時間もの投げ込みで積み重なった疲労感が彼女の足取りを重くしていた。

 すると、金髪の彼女の隣で歩いていた、背の低い眼鏡の少女は一歩前に出て振り返り、嬉しそうな表情を放つ。

「でも、さすがは愛華(あいか)ちゃんだよ!!今日のボールも走っててスッゴく良かったよ!また明日も頑張ろうね!!」

  「明日もって、翔子(しょうこ)はウチのこと殺す気かよ?プロ野球選手ですら、連投なんてしねぇのによ……」

 相変わらずの冷たい視線を送りながら答えた鮫津(さめず)愛華(あいか)だったが、一方で内海(うつみ)翔子(しょうこ)も負けじと変わらない明るい様子で首を左右に振っていた。

「ソフトボールに連戦連投は当たり前だよ!大会にダブルヘッダーなんて、平気であるんだからね!」

「へいへい……」

 翔子からの応援というよりも無茶ぶりに聞こえてしまった愛華はとりあえず返事をしたが、目を会わせないことで言葉とは裏腹の意味を込めていた。

 翔子が言ったダブルヘッダーとは、一日に二試合を行うというとても過酷なスケジュールを意味している。主に学生ソフトボール大会は休日二日間に分けて進行するトーナメント式が用いられてるのだが、現在の茨城県には十四のチームがあることから最低でも三試合、多くて四試合をこなさなくてはいけないのだ。一日に二試合というのはとても労力を費やすものであり、体力面だけでなく精神面をも試されてしまう。もちろんこのような条件は茨城県だけでなく他県でも採択されているのが基本であり、高校野球のように長期に渡る大会運営とはほど遠く厳しい環境が拡がっている。しかしこの環境下では、人間が持つ全ての能力面をさらけ出すことができるため、その勝利を掴む瞬間は高校野球、増してやプロ野球よりも大きな感動をもたらしてくれるだろう。だが、残念なことにこれを知らないのが世間のようだ。

 ソフトボールがマイナースポーツの一種である理由が何となく察せられるなか、ふと愛華は隣の翔子が俯いているのが目に映る。さっきまであれほど(やかま)しかった少女がどうしたことかと思いながら観察してると、翔子が突然立ち止まってしまい愛華の歩みすら止められてしまった。

「どうしたんだよ?情緒不安定気味かぁ?」

 少しバカにする言い方で告げた愛華はニヤリと笑っていたが、翔子は僅かに頬を緩ませながら首を振って否定していた。しかしその表情は笑顔とはまた別で、どこか哀れみすら感じさせる儚い苦笑いのようだった。

 眼鏡の少女のことが次第に気がかりになっていた愛華は首を傾げていると、翔子は目線を落としたまま小さく囁く。


「もうそろそろ、関東予選だなって思ってさ……」


「……チッ……」

 愛華が舌打ちを鳴らしたことから、翔子の小さな発言は確かに彼女の耳へと届いているのがわかる。が、愛華は派手な金髪を揺らしてそっぽを向いてしまい、厳しい表情を見せていた。翔子はなぜ、こんなときに突然言うのだろうか。

「……そんな話したって、こういう空気になることぐらいわかんだろ、普通よ……?」

「ご、ゴメン……」

 顔を背けながらも叱りつけるように漏らした愛華に、顔を上げられない翔子はさらに弱々しい言葉を囁いていた。

「……もうそろそろ、大会に出たいなぁって思ったからさ。つい……」

 少女の小さな願望が告げられたところで、愛華はふと足下にあった水溜まりを覗き込む。するとそこには、雨に打たれて水面が揺れていることからなかなか見づらい景色が拡がっていた。しかし波紋が拡がり続ける一方で、下を向いている翔子の悲哀に満ちた笑みだけははっきりと、愛華の目にも映っていた。

「大会なんて、どうでもいいじゃねぇか?ウチらはよ、平気で表に出られるような人間じゃねぇんだ。釘裂のグランドっていう(ほり)の中で、レクリエーションとしてやってた方がよっぽど楽しいだろ……」

 暗い愛華は水溜まりに浮かぶ一人の夢見る少女へと言葉を送ったが、儚い彼女からの返答はしばらく返ってこなかった。

 井の中の(かわず)大海(たいかい)を知らず。

 小さな井戸の中に入ったままで外の世界に出ようとしないという、一般的には世間知らずの意が込められた(ことわざ)である。

 しかし、それは時として『出ようとしない』のではなく、『出ることが許されない』の意味もあることを忘れてはいけない。前者こそが本来の諺に値する考えで、向かっていこうとする勇気や自信に欠けていることを示している。

 ならば一方で、後者の考えとは一体どういったものだろうか。それはこの釘裂高校の生徒たちを見れば明らかである。社会においての失敗、それを超えて罪を犯した者のみが知る世界が井の中にある。そこは暗く冷たくて、ときに自分は生きているのか、生きている事への意味すらわからなくなってしまうのだ。


―誰も、自分たちを許してはくれない。

―誰も、自分たちの相手をしてくれない。


 このような後者の人間は珍しいケースであり、きっと全国回ってみても少ないことだろう。しかし愛華は、少なくとも自分たち二人はきっとこの少数派に追いやられた生徒であるのだと感じていた。まだ中学校のときの方が自分たちを見てくれた気がする。

 義務教育を経て、高校生となった二人に課せられた現実はとても厳しいもので、今のように顔を上げられない日々が続いていた。

 どうしてこうなったかと問われたら、真っ先にこう答えるだろう。


『それは、ウチらが釘裂女子ソフトボール部の一員だから……』


 ちょうど一年前、釘裂高校女子ソフトボール部は、大会を中断させるほどの問題行動を起こしてしまった。その結果、一年間の活動停止処分をくらってしまい、先日やっと活動再開に至ったのだ。当時入部していた者たちは皆一斉に部から離れて顧問すら解雇されてしまい、残ったのは鮫津愛華と内海翔子の二人だけだったのだ。特に愛華に関しては、途中で警察の御世話にもなっていたため、翔子だけが取り残された時期もあったことを伝えなければならない。

 それからは翔子が主に部への勧誘に努力し、現在ではギリギリの九人まで集めることができたが、どの部員も派手な見た目でスポーツ選手としてはあるまじき姿をしている。そのようなみんなはもちろん練習などには真面目に取り組まず、遅刻は当たり前、来たら来たで部室に隠れてゲームやお喋りをして過ごしているのが現状だ。

 つまりは、こんな環境にいる自分たちに、夢や希望を抱ける資格などないのだ。

 残酷な現実ではあるが、愛華はそれを痛々しいながらも受け止めていた。

「……そうかも、しれないね……」

 やっと口を開けた翔子に対して、愛華は僅かに顔を上げることで睨み付けるように視線を送っていた。下を向いている翔子にとっては少し厳しめな言葉だと思ったが、何だかんだ受け入れてくれたことが意外だった。

「だけどね……」

 まだ顔を上げることができない少女が言葉を続けた刹那、目の前にいる愛華に微笑みを向け始める。


「わたしにはまだ、大きな夢がある。だから、諦められないよ」


 自信があるというよりもどこか強張っている様子が伺われる翔子だが、愛華にはそんな少女が少し眩しく見えてしまい、再び視線を横に反らす。どうせインターハイに出場だと豪語するのだろうと思いながら、半ば翔子に呆れていた。そんな夢なんて叶えて何か意味でもあるのだろうか。自分たちのような人間が夢だなんて口にできるほど、この世界は甘くないことぐらいは知ってるつもりだ。

「……でも、部員のやつらはそんなの望んじゃあいねぇだろ……?」

 雨より冷たい言葉を出した愛華は横目で翔子を眺めたが、それでもわかるくらい彼女はさっきよりも笑って見えた。

「確かに、みんなは休みがちで、部活というよりも愛好会みたいな感じだよね。だけど何だかんだいって、みんなはいい人で、誘ったわたしたちのそばにいてくれてる。その恩返し、じゃないけどさ……」

 キラキラとした目を眼鏡から放つ翔子はついに愛華から目を放してしまうが、瞳の輝きと温かな微笑みだけは保っていた。


「……みんなと試合に勝って、インターハイに行って、いっしょに喜びたいなぁ……」


 翔子の小さな心の叫びを唯一耳にした愛華は、正直予想をしていなかった言葉に驚いて口が開かなかった。翔子は見た目の通り、決して不良娘ではない、釘裂高校には珍しいタイプの真面目女子だ。無いようで存在する校則をきっちり守りながら学生生活を営んでおり、常日頃から時間厳守であり五分前行動は当たり前、今朝のように自分のことを起こしに来る厄介な一面もある。

 そんな律儀な彼女から、柄の悪い対照的な部員たちと共に勝ちたいと聞いたのは初めてだった。練習中は基本的自分のピッチング練習に付き合っており、どこか部員たちと距離を置いているような感じがした。しかしそれは間違いで、本当はみんなのことを考えて距離を置いていたのだ。

 ダラダラしている者の前で、自分たちだけが真面目に取り組む姿を見せたら、わざわざ部に在籍している者に嫌な思いをさせてしまう。きっとこんなどうでも良さそうなことを考えながら、釘裂高校女子ソフトボール部のキャプテンをやっているに違いない。本当にお節介な女子高校生だ。

「みんなと、か……」

 つい言葉を発した愛華は最後に自嘲気味に笑ってしまい、そのまま前方の翔子に先程よりも優しめな瞳で眺める。

「ろくに練習すらしてねぇんだぜ?勝てるわけねぇだろ?」

 呆れたことで反って笑いが止まらない愛華が告げると、翔子はニコッとした表情を見せていた。

「わたし、みんなは意外と運動神経良いって思ってるよ。練習すれば、絶対に勝てるチームになるって!」

「練習すれば、な?」

「うぅ……愛華ちゃんのいじわる……」

 愛華の一言でノックダウンされた様子の翔子は苦い顔をして、一度元気になったことが嘘のように悩ましいため息を出していた。

 ふと雨空を見上げた翔子が目に映ると、愛華は不思議そうに彼女を見つめていた。そんなに天気のことが気になるのだろうか。

 すると翔子は愛華が考えていたこととは全く違う言葉を呟く。

「……練習試合でもやったら、みんなやる気になってくれるかな……?」

 天へと向けていた可愛らしい翔子の小顔を、再び見せられることとなった愛華は眉間に皺を寄せていた。

「練習試合?そんな相手……!?」

 ところが、愛華の瞳が大きく開いたことで言葉は途中で終わってしまう。

 愛華が驚きを表しているなか、翔子はどうやら気づいていないようで困り笑いを見せていた。

「そうだよねぇ。わたしたちと練習試合してくれる学校なんて、きっとどこにもいないよねぇ……」

「いや、いる……」

「え?」

 今度は翔子が不審そうな顔つきとなって愛華は見つめて返されていたが、彼女の頭には昨晩の出来事から試合相手がいることが浮かんでいた。


(ゆい)の高校、笹浦二高だ……』


 ふと不気味な笑みを溢してしまった愛華は翔子から首を傾げる姿を見せられるなか、口許をニヤリとした形を示していた。

「あ、愛華ちゃん……?」

「いるんだよ!!たった一校だけ!!」

「ふぁッ!!」

 突如声を大にして距離を縮めたことで翔子を驚かしてしまったが、頬を緩めたままの愛華には、笹浦第二高等学校こそが自分たちの練習相手に相応(ふさわ)しい理由があったのだ。

「笹二だよ!ほら、県立の!」

「笹二って、笹浦二高?あそこは確か、ソフト部無かったんじゃ……」

 眉をハの字にして答えた翔子に、愛華は彼女の両肩を掴んでさらに怪しい笑顔を近づけた。

「最近できたんだってよ!あっちには三年のやつらもいねぇし、きっと去年のウチらが起こした事件だって知らねぇはずだぜ!?」

「あ、愛華ちゃん、近いよ……おでこ当たってる~……」

 雄弁と化した愛華の言葉が送られたが、なぜか顔を真っ赤にした翔子は聞いているどころではない様子であり、彼女の小さな声が完全に揺れていた。

「やろうぜ、笹二と!早ければ来週にでも!あそこが相手なら、ウチはマジで練習がっばっからよ!!」

 愛華のボルテージは収まるところを知らず続いており、反って固まる翔子を追い込む形となっていた。

「……う、うん、わかった。愛華ちゃんがそこまで言うなら、明日監督に相談してみるよ……」

 あまり理解していない様子を浮かべながら翔子が答えると、愛華は満面の笑みを見せた刹那、小さな少女を強く抱き締め始める。

「サンキュー翔子!さすがはウチの恋女房(こいにょうぼう)だ!」

「あ゛、愛華ちゃん!!公の場でこんなのやめで~!!へなごと言わないで~!!」

 もはや沸騰したかのように熱くなった翔子はバタバタと暴れて、愛華の抱き締めから解放されることを望んでいた。が、小さな身体の少女にとって無駄な抵抗であり、大きな金髪女子をびくとも動かすことができていなかった。

 翔子が落ち着かないなか、愛華は彼女の見えない耳元で笑い続けていた。だがそれは先ほど翔子に見せた笑みとは異なり、どこか恐ろしさを表す怪しげな微笑みだった。


『これで、戦える……待ってろよ、唯。それに植本(うえもと)の野郎もよぉ……』


 愛華の胸中(きょうちゅう)には徐々に笹浦二高との練習試合への期待が高まっていたが、彼女の脳裏には復讐という二文字が浮かんでいた。目の前で親友がボロボロになることがどれほど辛いことか、親友から裏切られた苦しみと共に思い知らせてやる。

 周辺は暗く夜道と化しているなか、愛華は静かに笑っていた。しかし一方で、抱き締めから解かれない翔子の叫び声が鳴らされており、辺りはまだ夜の静けさとはならなかった。



 ◇◆◆



「ということで早速、勉強会始めるわよッ!!」

 教室の教壇へと上った月島(つきしま)叶恵(かなえ)は気合いの籠った声を辺りに轟かせて、着席する九人の部員たちから視線を集めていた。

 女子ソフトボール部が集まるこの教室は、笹浦二高のクラスである二年二組のものであり、学級担任が顧問の田村(たむら)信次(しんじ)であるため利用できていた。

 廊下側、中央、窓側と主に分けられた縦三列横六席に並べられた机には、まず窓側の前方では東條(とうじょう)(すみれ)菱川(ひしかわ)(りん)の二人が隣り合い、そのすぐ後ろにメイ・C・アルファードが座っている。また廊下側の最後尾では、星川(ほしかわ)美鈴(みすず)牛島(うしじま)(ゆい)植本(うえもと)きららの順で三人が横に並んでおり、どうやらきららが中央席の机を移動させてくっつけたようだ。そして中央前列の席にはキャプテンの清水(しみず)夏蓮(かれん)舞園(まいぞの)(あずさ)が座り、二人の後ろに中島(なかじま)(えみ)が一人着席していた。

 もはやお馴染みとなった席の座り方の笹浦二高女子ソフトボール部であるが、午後の五時を迎えた本日は雨のため、当初予定していた練習内容を変更してソフトボール勉強会が始まろうとしていた。学校指定ジャージを着込む選手のみんなはシャワーを浴びた後で、どこか眠たげな者もいるが、厳しい練習から解放されて少し安心した様子が伺われる。

 そんな眠気や気抜けを吹き飛ばすように叶恵が声を鳴らすと、三つのグループからそれぞれ一人ずつ笑顔と拍手が送られていた。

「いよッ!!叶恵先生!!」

「叶恵ちゃん先輩、good lackです!!」

「カァナ屋~にゃあ!!」

 まずは教壇から一番近い咲が大きな手拍子と共に叫び、次に窓側でメイが幼い親指を立ててみせ、最後に後ろの方できららが手をメガホン代わりにして高らかに声を上げていた。

「アンタら、絶対バカにしてるでしょ……?」

 (やかま)し三人組から応援とは少し違うような言葉が出されたことで、叶恵は案の定ムッとした様子で顔をしかめていた。

 しかし、これは決して悪い雰囲気であるとは思わないのがキャプテンだった。これこそ、笹二の部員たちが仲のよい証拠である。

 首を曲げて教室全体を見回す夏蓮は微笑みながら現在のやり取りに目を向けており、彼女たちを叱ることなく温かな目で見つめていた。

「ねぇ夏蓮?」

「なに、梓ちゃん?」

 ふと夏蓮は隣に座る梓から声をかけられ、微笑みを残しながら小首を傾けていた。


「にゃあ?そういえば、ユズポンと信次くんはどこにゃあ?」


 不思議がる梓が夏蓮に言おうとした刹那、後方の席で立ち上がったきららが辺りを見回しながら呟いていた。

「きららと全く同じこと。柚月(ゆづき)と先生はどこに行ったの?」

「ああ、二人はね……」

 梓の言う通り、今のこの教室には篠原(しのはら)柚月(ゆづき)と信次の姿が見えない。だがその理由を知っている夏蓮は、少し困ったような笑顔を見せながら言葉を続けた。

(わたし)たちの晩ごはん、作ってるみたい」

「え?二人で?」

「にゃあ?二人で!?」

 梓が何度か瞬きを示しているなか、夏蓮の小さな声はどうやら後ろの席まで届いていたようで、きららの顔がより険しいものになっていた。

 そんな二人から顔を向けられた夏蓮は、それぞれに頷いてみせて苦笑いで答える。

「男の田村先生に料理は心配で任せられないって、柚月ちゃんが言っててさ……」

「さすがはマネージャー。よくわかってる……」

「ニィ~、ユズポンめ゛~~。ちょっと隙を見せたらこれにゃあ゛~」

 納得した様子の梓からは信次へ、目付きを鋭くしながら()(ぎし)りを見せるきららからは柚月へと変な疑いがかけられていたが、夏蓮はあまり気にしない努力をして何も返答せず、最後にため息をついて前の黒板へと顔を戻した。

「ゴホンッ!!」

 すると教壇からは叶恵による咳払いが響かされ、再び彼女へと視線がむけられることとなった。

「まぁ今回は初回ということもあるから、(アタシ)から直々に、ソフトボールの試合中での基本事項をメインに聞いてもらうわよ……」

 教室中に緊張感を走らせた叶恵はどことなく威厳ある姿に見えるなか、夏蓮はそんな彼女を頼りにしながら視線を送っていた。柚月ちゃんや先生がいなくても、叶恵ちゃんならきっとみんなの気を引き締めてくれると思っていた。

 だが次の瞬間、叶恵は鋭い視線を窓側と廊下側の部員たちに飛ばし、彼女の細い人差し指がそれぞれに向けられてしまう。

「……特にそことそこ!!未経験者のアンタたちはしっかり聴くようにッ!!」

 叶恵の怒号と共に指先を向けられたのは、どうやらソフトボール未経験者である菫と凛、そして同じく経験者でない唯ときららと美鈴の三人組のようだった。

 一応は未経験者たちの顔色を伺った夏蓮だが、やはり彼女たちの様子は良いものとは言えないのが目と耳に入り込む。

「……なんか、腹立たしい……」

「まぁまぁ。あれはあれで先輩らしいんじゃない?」

 今や有名となった叶恵節にふて腐れた様子を浮かべた凛に対して、隣にいる菫は苦笑しながら(なだ)めるように話していた。後輩である凛からあんな言葉を囁かれても致し方ない。

 一方で後ろの方では、いつもだったら騒ぎ立てる三人組が珍しく落ち着いており、彼女たちのことも眺めていた夏蓮を不思議がらせていた。

「基本事項かぁ……こまけぇことはあんま好きじゃねぇんだけどな。なぁ美鈴?」

「……」

「美鈴?」

「あ、はい!!うちもそう思うっす!!」

 嫌々な様子を見せながら唯が話しかけていたが、対して美鈴は何やらボーッとしていたのが見てとれた。何か考え事でもしていたのだろうか。いつもなら唯に対して速答をするのが美鈴であるのに。

「きららもこういうの、あんま好きじゃねぇんだろ?」

「……」

「え?きららも?」

 返答されなかった唯と同じように、夏蓮も遠くから首を傾けながら見ていたが、その理由は彼女の尖った目を見てすぐに判明した。

「ユズポンめ~。信次くんのお嫁になんて、絶対にさせないからにゃあ~」

「まだ気にしてたのかよ……?」

 呆れた顔で呟いた唯であり、それを見ていた夏蓮もきららの観察をやめて前を向き、二人の息ピッタリのため息が漏らされていた。


「さてと、じゃあまずは試合の流れよ」


 叶恵からの真面目なトーン、ついに勉強会がスタートした。着席する部員たちの机上にはそれぞれ、マネージャーの柚月から持参するようにと言われていたノートやルーズリーフが、様々な形をした筆入れと共に置かれている。

 みんながシャープペンシルを握ったところで、教壇にいる叶恵は背を向けてチョークを握り、大きな黒板に書き込みながら話す。

「ソフトボールの試合は、この前の練習試合と同じで基本は七回まで。でも時に、七回まで到達せずに終わるときもあるのよ」

 チョークと黒板の接触音を鳴らしながら説明していた叶恵は、大きな字で『試合の注意点』と書き、その下には箇条書きで『コールド』『タイブレーカー』『リエントリー』『DPとFP』と順に書いてチョークを置いた。

「まずはこれ、コールドよ」

 すると鋭い視線の叶恵は選手たち各々の顔を覗きながら『コールド』と書かれた文字に人差し指を向ける。

「コールドっていうのは、その日の天気や相手との点差によって、七回まで試合をやらずに決着を着けることよ」

「じゃあ、今日みたいな天気だとコールドになるってことですか?」

 早速質問を飛ばしたのは、窓側に座った菫だった。未経験者ながらも積極的に疑問を聞いてくる辺りはしっかりしている。

 そんな菫に叶恵は頷き、再びチョークを持って『五回』と書き記した。

「もちろん雨のため中止ってこともよくある話よ。でも、その中で試合をしている場合、この五回を越えて中断されたら、試合結果はその時の得点で決まってしまうわ」

 疑問を投げてきた菫と目を会わせながら話した叶恵は、今度は黒板に『3-15』『4-10』『5-7』と暗号のようなものを書いていた。

「その数字は……?」

 書かれた数字の意味が見いだせない様子の菫が問うと、叶恵は菫を始め、部員全員を見ながら口を開ける。

「三回に十五点、四回に十点、五回以降は七点以上あると、そこで試合終了なのよ」

「ええ!?じゃあ、あまりにも大差をつけられたら、逆転のドラマもできないってことですか!?」

 叶恵は相変わらずの厳しめな表情をしながら頷いていたが、この残酷な得点はルールとしてしっかりと刻まれている。


――――――――――――――――――――――――――

 オフィシャル ソフトボール ルール 5-5項

 得点差コールドゲーム

 3回15点、4回10点、5回以降7点以上の差が生じたときは、得点差コールドゲームとする。

――――――――――――――――――――――――――


「諦めない限り勝負は負けない。でも、圧倒的な力の差を見せつけられたなら、そこで勝負は終わりなのよ……」

 腕組みをした叶恵によって菫が意気消沈してしまうなか、叶恵の厳しくも冷徹な言葉が続く。

「だからこそ、グランドに立つ者は相手相応の力を持って挑まなければならない。悪いけど今の(アタシ)たちでは、仙総(せんそう)はもちろん、三年生がいる筑海(つくみ)にすら、まともに七回まで試合は続かないでしょうね……」

 質問した菫だけでなく部員みんなに告げるようにした叶恵に、キャプテンである夏蓮も悩ましい表情を見せていた。叶恵の言葉はキツく感じて仕方ないが、これはルールとしてある事実。それについこの間の筑海高校との試合だって、相手は二年生でありながらもギリギリ引き分けている。残念ながら叶恵の意見は間違ってなどいないのだ。

 教室中がしんみりとした空気が漂うこととなってしまったが、叶恵はわかっていたかのように気にせず、再度チョークを握っていた。

「次はこれ。タイブレーカーよ。初めて聞く言葉だと思うけど、これは延長戦の時に起こるルールよ」

  黒板に書かれた『タイブレーカー』の文字に叶恵はチョークを向けていると、その横に『ランナー2塁』と書き加える。

「タイブレーカーにゃあ?何か壊しちゃうのかにゃあ?」

「戻った……」

 今度は教室の後ろからきららが質問を投げてきたが、隣に座る唯は彼女のもとの姿に戻ったことに小さく驚いていた。

「まぁ、あながち間違ってはいないわ」

 叶恵からは少し呆れた様子が伺われるなか、そんな二人のやり取りを見ていた夏蓮は苦笑いをしてみせたが、きららが言った通り、タイブレーカーとはある意味で壊すというニュアンスがあることを知っている。


――――――――――――――――――――――――――

 オフィシャル ソフトボール ルール 5-6項

 タイブレーカー

 8回表から無死・走者二塁を設定して攻撃を継続する。二塁走者は前の回の最後に打撃が完了した者とし、打者は前回から引き続く正位打者(正しい打順の打者)とする。

――――――――――――――――――――――――――


「同点であるタイの状況を終わらせるって意味だよね?」

 ふと夏蓮が黒板の前の叶恵に告げると、彼女は再び厳しく頷きを見せた。

「この前は練習試合だったから無かったけど、公式戦ではこのタイブレーカーがあることを忘れてはいけないわ。延長戦に入ったら、早速得点圏にランナーを置いて再開よ」

「にゃあるほど……要するに、チャンスからスタートにゃあ!」

「アンタ、何もわかってないでしょ……?」

「にゃあ?」

 きららは相変わらずの明るさで答えていたが、叶恵は呆れたよつに彼女の発言へ苦言を呈していた。きららが発言した通り、タイブレーカーとは攻撃時にノーアウトランナー二塁からのスタートととなり、延長戦での得点という大きなチャンスが促されるのだ。だが、これはあくまで攻撃時の話であり、逆の守備側からしてみれば大ピンチである。

 もともとソフトボールとは、短い時間の中で勝負を決めるスポーツとして考えられており、また守備側の投手が基本的に有利と見られているため、一点差を競う緊迫感のある種目なのだ。それは投手戦を意味しており、必然的に延長戦に結び付けられることが多々ある。よって、それをできるだけ引き延ばさないようにするためにこのタイブレーカーというルールを設けて、本来あるべき短時間スポーツを成り立たせようとしているのだ。

「延長戦で一点でも取られてみなさい?マジで落ち着いてなんていらんないんだからね。(アタシ)らが攻撃側の前に、まずは守備側のときを考えなさい……」

 不機嫌そうな面構えできららへと向けた叶恵は話をまとめると、すぐに次の展開を広げていく。

「それじゃあ次からは、試合での戦法について話していくわ。まずはこれ、リエントリー。再出場っていう意味よ」

 今度は『リエントリー』の文字に指を立てた叶恵が言い放つと、今回は簡単に説明をしていった。

――――――――――――――――――――――――――

 オフィシャル ソフトボール ルール 4-6項

 再出場リエントリー

 1. スターティングプレイヤーは、いったん試合から退(しりぞ)いても、いつでも一度に限り「再出場」できる。ただし、自己の元の打順を受け継いだプレイヤーと、交代しなければならない。

 2. スターティングプレイヤー以外のプレイヤーが再出場したときは再出場違反になる。

 3. 再出場違反は、相手チームから審判にアピールがあったときにペナルティを適用する。

――――――――――――――――――――――――――

「……要するに、試合から最初に出てる選手ができることよ。今、(アタシ)らは全部で十人だから、もしかしたらこれを使うときが来るかもね。違反とかならないよう注意しておきなさい……ん?」

 みんなに適切に且つ短めに話した叶恵はふと、後ろの席で挙手していた唯に焦点を当てる。

「なによ?」

「違反したら、どうなるんだ?」

(アタシ)ら高校生なら、その違反した選手だけが退場よ」

「結構厳しいんだなぁ……」

「それこそがスポーツであり、崇拝(すうはい)すべきソフトボールよ」

 叶恵と唯の静かなやり取りが終わると、選手たちはノートにメモを取っていく。退場者が出るような試合は避けたいという思いが重なったことから、教室にはシャーペンの書く音のみ響く、まるで受験生たちが集まったような空間となっていた。

「……それじゃあ最後はこれ、ディーピーとエフピーよ。これは筑海が使っていた戦法の一つね」

 叶恵は『DPとFP』と書かれた文字にチョークを叩いてみんなを注目させていた。

「まずはディーピーよ。これは打撃専門で、守備をせずに打つことだけする選手のことよ。その反対で、バッターやらずに守備だけやるのが、このエフピーのことよ」

 叶恵の言葉を目の前にして受けた夏蓮も、この戦術は小学生チーム―笹浦スターガールズ―に所属していたときも使用されていたことから、昨日の今日のように覚えていた。

「梓ちゃんはなんかはエフピーだったよね?」

 ふと横にいる梓に顔向けした夏蓮が聞くと、梓は真面目ながら静かに頷く。

(ウチ)はピッチングに集中するようにって言われてたからさ。たまには、バッターもやりたかったけどね」

――――――――――――――――――――――――――

 オフィシャル ソフトボール ルール 4-5項

 指名選手(DP/DESIGNATED PLAYER)

 1. 指名選手(DP)は打撃専門のプレイヤーで、どの守備者つけてもかまわないが、試合開始前に打順表にその記号(DP)と氏名・ユニフォームナンバーを記入しなければならない。

 2. DPの守備者(FP/FLEX PLAYER)は守備専門のプレイヤーで、打順表の10番目に記入しなければならない。

 3. DPの打順は、試合途中変更することができない。

 4. DP、FPがスターティングプレイヤーであれば、いったん試合から退(しりぞ)いても、いつでも一度に限り「再出場」できる。ただし、自己の元の打順を受け継いだプレイヤーと交代しなければならない。

 5. DPはいつでもFPの守備を兼ねることができる。また、FPはいつでもDPの打撃を兼ねることができる。

 6. DPはいつでもFP以外のプレイヤーの守備も兼ねることができる。そのとき、DPが守備を兼ねたプレイヤーは打撃のみを継続し、この選手を打撃専門選手(OPO/OFFENSIVE PLAYER ONLY)と呼ぶ。

 7. DP、FPはいつでも控え選手と交代できる。

――――――――――――――――――――――――――

 叶恵が伝えた『DPとFP』は、確かに前回の練習試合相手であった筑海高校が用いた戦術の一つであり、打撃を得意とする選手をDPに、投手や捕手と重要ポジション及び守備を得手とする選手をFPにするのが主流である。

「それぞれの意味は……」

「……はいはい!!DPはDESIGNATED PLAYERで、FPはFLEX PLAYERです!!」

 すると、叶恵の言葉尻はメイの元気みなぎる声によって被され、彼女の流暢な英語の発音が珍しく響かされた。

「さすがね。そこまでわかってる選手はそうそういないわ」

 叶恵も滅多に見せない相手の褒め方に、メイは頭を掻きながらエヘヘと照れ笑いしていた。

「メイさん、よく知ってるね!で、デザイネイテッド、プレイヤーだっけ?」

 地毛である金髪少女の前に座る菫も振り向いて笑顔を見せ問うと、メイは自信を持った顔で頷く。

「DESIGNATED PLAYERです。ワタクシは、運命によって選ばれた草薙剣(くさなぎのつるぎ)振る剣士と呼んでます。ちなみにFLEX PLAYERのことは、屈曲した未来に負けぬ帝釈天(たいしゃくてん)の教え子と言ってます!」

「く、くさなぎ……たいしゃく、てん?」

 聞き慣れない言葉を繰り出された菫は顔をしかめることで疑問を表現していたが、すると隣の凛が鼻で笑った音が聞こえる。

廚二(ちゅうに)……」

「あ、アハハハ~!か、かっこいいよねぇ!!メイさんの呼び方アリだと思うよ!!」

 メイのオリジナリティ富む名前の付け方には、凛が小さくボヤいていたが、それを無かったかのようにするため菫は苦笑いをしながら無理矢理褒め称えていた。


 勉強会が始まってから約三十分が経過した現在、叶恵は小さな身長ながらも大きな黒板に書かれた文字を消していく。最初よりかは空気が軽くなってきた二年二組の教室であるが、次の話へ移ろうとチョークを握った叶恵は依然として重苦しい表情は続いていた。むしろ、今までよりも険しい表情を見せながら、夏蓮と梓たちがいる中央席へと向けていた。

「もしかして……」

「あれ?(ウチ)ら、なんかした……?」

 不思議な様子で梓が隣のキャプテンへと聞いていたが、夏蓮は顔をひきつりながらゆっくりと後ろを覗く。確かにおかしいと思っていた。なぜなら、あの元気印の部員ずっと黙っていたのだから。

 梓も夏蓮につられるようにして顔を後方へと向けていくと、振り返った二人の目の前では安らかに机へ頭を載せている一人の姉がいた。


「や、やっぱりそうだ……」

「えみぃ……」


 苦笑する夏蓮と目を細めた梓に見えたのは、寝返りを打って気持ちよさそうに眠る咲だった。彼女の額は赤く染まっていることから、今からずいぶん前に寝ていたことがわかる。

涼子(りょうこ)ちゃ~ん、いっしょにシャワー浴びようよ~、背中流してあげるからさ~……」

 瞳を閉じている咲の開いた口からはキラキラと輝いた(よだれ)が垂れるなか、梓と夏蓮はじっと見つめていた。

泉田(いずみだ)先輩の夢でもみてるのかな?」

 呆れたように冷たい視線を送る梓。

「え、咲ちゃん、そんな恥ずかしいこと言わないでよ~」

 顔を赤くして羞恥心を沸かせる夏蓮は声を放つが、咲が深い眠りから覚める様子は全く見受けられなかった。

「チッ……」

 ついに叶恵の舌打ちが辺りに響かされてしまうと、彼女が左手で握っていたチョークがポキッと折れた音が鳴らされた。

「アンタはいつまで寝てんのよーーッ!!」

 怒りのボルテージが有頂天に達した叶恵は叫び、両手を拳に変えていた。

「いいじゃん涼子ちゃ~ん、いつものことでしょ~……」

 しかし咲の嬉しそうな寝言は続く一方であり、叶恵の怒号など微塵にも届いていないようだ。

 さすがにこれ不味いと感じた夏蓮は、叶恵がこれ以上怒り狂われては困ると思いながら、机上の眠り姫の肩を叩いて起こそうとしていた。

「ほら、咲ちゃん?起きて起きて?」

「もう涼子ちゃんったら~……意外と恥ずかしがり屋なんだから~」

「咲ちゃん!?」

 エスカレートしていく咲の寝言に、夏蓮は真っ赤な顔をして恥じらいを示していた。恐らく咲はバレーボール部の時の夢でも見ているのだろう。そのとき、共に励んできた一つ上の先輩である泉田(いずみだ)涼子(りょうこ)と、練習後のシャワーを浴びるシーンが思い浮かぶが、咲の言葉を辿っていくと、聞いてるこちらが恥ずかしくなるほどのものだった。

「ほら、涼子ちゃんの肌、こん……」

「……咲ちゃんもうやめてー!!」

 胸の高鳴りに我慢できなくなった夏蓮はついに咲から手を離してしまい、自身の耳を塞いで言葉尻を叫んで被せていた。

 なぜか起こす側の夏蓮が困り果てた様子が伺われるなか、ついに教壇の小さな先生も我慢の限界が訪れてしまう。

「ゴルゥアァァーー!!起きろォォーーーー!!」

 目を鋭くした叶恵から放たれた怒号は先ほどよりも格段と大きくなっており、この静閑とした笹浦二高校内全体を揺らすこととなっていた。だが眠り姫は決して瞳を開かず笑ったままである。

 咲に何をすれば目を覚ましてくれるかなど、誰一人としてわからぬまま時間が過ぎていくが、このあと咲が目を覚ましたのが数十分後だということは、もはや言うまでもないだろう。



 ◇◇◇



「ん?なぁ篠原?今、月島の声がしなかったかい?」

「どうせ咲のことでしょ……」

 白衣を纏った信次がエプロン姿の女子高生へと顔向けしていたが、柚月は呆れ顔を見せながらボソッと呟いていた。

 現在二人がいるここは、二年二組から遠く離れた家庭科調理室である。この大きな教室には全部で六つの大机が設置されており、それぞれ水道とガスが取り付けられている。家庭科の授業で主に使用される教室だけあって、窓側や廊下側の棚には生徒によって作製された衣服や小物、栄養素についてまとめられた模造紙が飾られていた。

 二人だけとなっている調理室ではいつもより広々としている様子が伺われるなか、柚月は黙々とガスで暖めている大きな鍋を、調理室内にあったお玉でかき混ぜている。合宿初日である本日の献立はカレーライスであり、室内にスパイスの効いた匂いが充満していた。机上にはすでに前菜であるサラダの盛り付けが済んでいるため、あとは残ったカレールーを全て溶かせば完了というところまできており、柚月の調理は仕上げへと向かっていた。

「しっかし、篠原はすごいなぁ。絵だけでなく、料理まで得意だとは知らなかったよ!」

 カレーライスを盛るための皿を並べていた信次が褒めていたが、カレーを煮込む柚月は視線を向けずにため息を隠し味として加えていた。

「てか、先生ができなすぎだから……包丁握ったことがないって聞いたときは、さすがに信じられなかったわ……」

 信次に呆れていた柚月だが、それも無理はない。調理開始前は二人で役割分担をして作ろうとしていたのだが、食材のカットを任された信次は包丁を鷲掴みしていたことで、急遽柚月が代わって行うこととなった。また、信次がカレー鍋に具材を入れる際に誤ってサラダも投入しようとしていたため、結局ほとんどの調理を柚月がやることになっていた。ちなみに信次がここまでやった仕事は、ご飯のセットと皿洗いだけである。

 ほぼ一人の力で作ったと言っても過言ではない柚月は信次にゆっくりと、冷たい視線を飛ばして彼の笑顔に嫌気が差していた。

「先生一人暮らしだよね?いつもどうやってご飯過ごしてるの?」

「コンビニ弁当とか、時間に余裕があるときはレトルトだよ」

「でしょうね……」

 あえて微笑みを貫いて答えた信次に、柚月はもう彼の食生活は手遅れだと感じながら一言で終わらせてしまう。

 もうじきご飯の時間になる頃、柚月は最後のカレールーの塊を鍋に投入する。グツグツと温度を上げている様子から、カレールーはすぐに小さくなっていくのがわかり、最後の最後まで丁寧にお玉でかき混ぜていた。

 ルーが見えなくなった柚月は菜箸を手に持ち、ジャガイモ、ニンジンの固さをチェックする。すると、双方とも菜箸の先がすんなり射しこむことができており、中まで火が通っていることが証明された。

 完成目前と迫る柚月は嬉しそうに、今度はお玉で一口分のカレーを(すく)うと、小皿へと移し変えて味見をしていた。

「さてと、できたできた!」

 味にも問題ないことがわかった柚月は呟き、最後は満面の笑みでお玉を置いていた。信次一人では心配だと思っていたが、どうやら間違いではなかった。きっと彼一人に任せていたら、カレーが完成しないどころか、調理室が魔の空間と変貌していただろう。自分も勉強会に参加しようとしていたが、今回ばかりは仕方ない気がする。

「おお~!!いい匂いだよ~!!」

 そんな信次からは相変わらず元気な姿を見せられ、彼がどれだけ足を引っ張っていたかなど理解していない様子が伺われた。呆れてものも言えないのが本音であり、小さなため息を漏らして無視しようとした、そのときだった。


 ビシッ……

「ア、イッタタタ……」


 突如背中から張りを感じた柚月は苦い表情を浮かべながら、手で背中を押さえながらそばの椅子へと腰かける。

「し、篠原!?大丈夫かい!?」

 信次も心配した顔に変化させて近寄るが、柚月は苦し紛れながら笑ってみせる。

「ちょっと疲れただけよ。前も言ったけど、先生は心配し過ぎだから……」

「でも、(ボク)には頑張り過ぎに見えるよ?」

 しかし柚月の苦笑いのせいか、信次の様子は晴れることなく、今日の雨空のように暗い情景が描かれていた。柚月の身体の事情は、かつて同じ小学生チームとして活躍した夏蓮や咲、そして梓たちが知っているが、この目の前にいる信次も知る一人である。小学生のソフトボールの試合のときに大きな怪我をしてしまい、その影響は今にも続いていることが痛みを通して実感できる。最近では不自由なく手足を動かせる生活を送ることができていたが、少し無理をすれば再び背中に電気が襲うようになっており、怪我からの呪縛から解き放たれずにいるのだ。

「頑張り過ぎ、か……」

 ボソッと呟いた柚月は俯いていたがふと鼻で笑ってみせて、心配して()まない信次へと微笑みを見せる。

「ねぇ先生?」

「ん?」

「先生の言うとおり、(あたし)は頑張り過ぎなのかもしれない。でもね、それには理由があるの……」

 痛みに負けずニッコリと笑っている柚月が言うと、浮かない信次が静かに口を開く。

「みんなが、勝つため?」

「もちろんそれもある!でも、(わたし)には密かに抱く野望があるの。それはね、まだ夏蓮たちには言ったことないんだけどさ……」

 少しの間、二人に沈黙の時間が訪れていたが、間を持った柚月は言葉を続けた。


「……いつかもう一度、キャッチャーマスクを被ること……」


 目を会わせながら堂々と答えた柚月には、信次が明らかに意外そうな顔をしているのがわかる。しかしそれも想定の範囲内であった柚月は自嘲気味に笑うと、目線を下げて安らかな表情のまま言葉を紡ぐことにした。

(あたし)が怪我人であることは、もう六年前からずっと受け入れてる。でも、だからって試合に出られない訳じゃない。一回でも、ワンアウトでも、いや、たった一球だけでも。(あたし)には試合に出たいという野望があるの……」

 それは、柚月がずっと抱いてきた儚き野望。

 いつかもう一度、グランドでキャッチャーを務めて、チームの勝利に貢献したい。

 正直なところ、それがいつ実現されるかは本人すら理解の外だが、強い想いだけはしっかりと心に居座っていた。

 哀れみが放たれる柚月の姿から、信次は笑うこともできず悲しげに放つ。

「せめて、希望と言ってくれよ?」

 信次から(いたわ)るような言葉を受けた柚月だが、彼女は逆に笑いながら話す。

「誰も認めてくれそうにないからね。だから、ちょっと悪いニュアンスを込めて、野望よ」

 怪我人である自分がこんなことを言ったら、恐らく周囲の誰からも応援されないだろうし、むしろ止められてしまうに違いない。怪我をした当初は入院まで経験したことから、その意見には素直に頷ける自分さえいるのも確かである。

―しかし一方で、ワガママな自分もいるのだ。

 応援する人がいなくとも、その望みが自分の身を滅ぼすこととなっても、それでも叶えたいほんの僅かな未来がある。

―だからこそ、野望なのだ。


「別に(ボク)は、君の想いを反対したりはしない」

 ふと声を掛けられた柚月は不思議に思いながら顔を上げると、目の前の割烹着姿の信次が優しく笑っているのが目に映る。その言葉からは―はっきりとは述べられていないが―応援染みたものを聞き取ることができ、長年強いられてきた背中の痛みすら、この瞬間は感じなくなっていた。

「でもさ……」

 しかし信次の言葉はまだ続くようで、柚月は真顔のまま彼の苦笑いを眺めていた。

「……どうか、無理だけはしないでほしいんだ……」

 笑顔と共に長年暮らしてきた様子がいつも伺われる信次のことが、このときはどこか悲しんでいるようにも見えてしまい、柚月は首を傾げて見つめていた。

「急に改まって、なによ?」

「だってさ……」

 珍しく生徒から視線を反らした信次を、腰を添えた柚月は不思議と笑みを溢して見上げていた。変に言いづらそうな彼の様子から目が離せずにいたが、次の瞬間、柚月は信次の言葉を疑ってしまう。


「この部には、もうすでに無理してる子が、一人だけいるからさ。それも篠原以上に……隠してさ……」


「え……?」

 柚月は固まってしまい、喉を微かに鳴らすことしかできなかった。なぜならそれは、部員一人一人を丁寧に観察するマネージャーの自分も知らない、初めて耳にした情報だったからだ。


 ガラガラ!!

「コラァーユズポン!!なに信次くんとイチャイチャしてるにゃあ!!」


 調理室のドアが開けられる音がした刹那、室内には鬼の形相をしたきららの怒号が響かされる。

 言葉をぶつけられた柚月も思考が停止して振り向いてしまうと、徐々に部員たちが入室してくるのが見てとれた。

「うわぁ!!この匂いは、(まさ)しくカレーライスですね!?」

 小さな鼻をヒクヒクさせて喜ぶメイ。

「本当だぁ!しかも篠原先輩の盛ったサラダ、とってもきれいだよ~!」

「本場の料理人みたい」

 机上に載せられたサラダを見ながら目を輝かせる菫と凛。

「ヨッシャー!!カレーだぁー!!」

「ヨッシャーじゃないわよ!!アンタのせいで、勉強会の後半まともにできなかったじゃない!!」

 カレーライスの匂いに感激のあまり声を唸らせる咲と、彼女の横から罵声を浴びさせる叶恵。

「いや~、なかなかいい夢だったから、つい!」

 咲は素直に笑いながら頭を掻いていると、次には梓と少し様子がおかしい夏蓮が現れる。

「夏蓮……?」

「き、禁断のシャワールーム……」

 梓の問いかけに振り向かず、顔を赤くしながら変な汗を垂らしていた。

 最後には唯と美鈴が隣り合って登場し、唯は感心したように口を開ける。

「マジでご飯作ってたんだな……美鈴、いっしょに食べような?」

「あ、はい……き、きらら先輩もいっしょっすか?」

「あ、あぁ。いつもそうなんだから、当たり前だろ?」

「そ、そうっすよね……」

 唯から不審そうに返された美鈴は苦笑いを見せて答え、調理室の扉を閉めていた。

 笹浦二高女子ソフトボール部のみんなが集まった調理室では、早速賑わった明るい空間と化しており、それぞれの部員たちはカレーライスを盛ってサラダを分けていく。午後の練習も相当キツかったため、皆いつも以上にお腹を空かせているのだろう。

 だがそんな騒がしい室内のなか、柚月だけは黙りながら座っており、選手一人一人の顔を覗いて考えていた。


『この中に一人、(あたし)より無理をしている子がいるってこと?』


 その詳しい内容まではわからない柚月だったが、信次が言った『篠原以上に』の言葉からは相当重い真実が隠されていると感じていた。一体誰のことだろうか。自分よりも無理をしているということは、誰か怪我を見せぬままソフトボールをやっているのだろうか。

 そこで柚月はふと、経験者である夏蓮を始め、梓や咲、叶恵、そしてメイのことを観察していた。この短い期間で見てきたが、この五人は何不自由なく活動できている気がする。恐らく、また別の誰かだろう。

 視線を切り換えた柚月は残る未経験者の菫と凛、唯と美鈴、そして信次にくっつくきららを眺めていた。確か凛は貧血であることを聞いたことがあるが、それはすでにみんなも知っていることであり、隠しているわけではない。菫のことだって、彼女が大家族の長女で忙しいことも耳に入れてるから違う。それに、唯や美鈴、きららの三人だって、多少は部の空気から浮いてることが否めないが、別に怪我をしている様子も見受けられない。

 全員に目を通した柚月は真実にはたどり着けず、結局信次が誰のことを言っていたのかわからなかった。

 本人に聞きたいのはやまやまだが、信次は今きららと共にカレーライスを盛っているため、この場面で近づいたらまた彼女から訳のわからぬ罵声を浴びさせられてしまうと感じ、一人黙って立ち竦んでいた。


『誰が怪我を隠しているのかな?それとも、また別の重要なことを隠してるってことなの?』


「柚月!!いっしょに食べよー!!」

 すると、一人で考え込んでいた柚月のもとには咲が笑顔で近寄っており、再び思考が停止させられてしまう。

「う、うん……そうね!」

 どうせわからないことを、どれだけ考えても仕方ない。

 そう感じた柚月は咲に笑顔で答えると、すでに着席している夏蓮と梓、そして叶恵もいる席へと足を運ぶことにした。きっといつか、本人の口から言い出すときが来るだろう。それまで、待っていよう。

 柚月の作ったカレーライスとサラダは全員の手に無事渡り、合宿初日の晩ごはんの時間が安らかに流れることとなった。

皆さま、本日もありがとうございます。

今年もいよいよ残りわずかです。特に予定のない私は、普段通り書いていこうと思っております。

さて、今回は実際のソフトボールのルールに則って書いてみました。実は私、大学時代にソフトボールの指導者免許及び記録員の免許を取得しました。免許を取ることは非常に簡単ですので、興味のある方は是非取ってみてください。特に指導者免許は二日間に渡る講習と実技がありますが、現役で活躍する実業団の方々から教わるため、とても良い経験になると思います。

来週はやっと合宿初日が終わると思います。

では、また次回もよろしくお願いいたします。


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