あの二人は違う。
弁当箱を忘れてしまった中島咲が一人空腹のなか嘆き叫んでいたが、そこには彼女にとって救世主とも呼ぶべき存在が現れる。しかし、その存在は今度は東條菫を困らせることとなってしまう。
「無い、なぁい!なぁーーいっ!!」
正午を迎えた雨の五月、そんな笹浦二高体育館の屋根の下、中島咲が大声を上げて、キャプテンの清水夏蓮へと悲愴な顔を向けて寄っていた。
「え、咲ちゃんどうしたの!?」
「お弁当がないんだよぉ~~!!今朝、お母さんから作ってもらったやつ、きっとテーブルの上に置いてきたんだ~~!!」
頭を抱えて天井を見上げる咲を、夏蓮は同情するように困り顔を見せていた。あの大食いで、誰よりもご飯を重要視していた咲にとって、これは死活問題だ。
嘆く咲の叫びはいっこうに止まらず、ついには部員のみんなからも見られるようになってしまったが、一番近くにいる夏蓮は優しさを込めて咲の肩に手を置く。
「じ、じゃあ、私のお弁当分けてあげるから、元気出して……ね?」
「ほ、ホントーーッ!?」
夏蓮が囁いた刹那、咲はすぐに大きな目をキラキラと輝かせた顔を向ける。
言葉通り元気にはなった彼女だが、それ以上のテンションになってしまい驚いた夏蓮は引き笑いをしてしまう。しかしすぐに微笑みを取り戻して、お腹を空かせた同級生のもとへ自身のエナメルバッグを運び、その中から手のひらサイズのお弁当箱を持ち出す。
「実は、今朝自分で作ったやつだから自信ないけど、これで良かったらどうぞ」
「ありがとう、夏蓮!!やっぱり持つべきは親友だよねー!!」
夏蓮と同じく幼い頃から共に暮らしてきた篠原柚月と舞園梓からは呆れた視線が送られているなか、太陽の笑顔を持つ咲は夏蓮が開けた弁当箱を覗く。
「うわぁーー!!これ夏蓮が一人で作ったの!?」
「う、うん……」
「スッゴい美味しそうじゃん!!」
咲のベタ褒めに照れて頭を掻く夏蓮の弁当箱には、中央に仕切り板を置いて、手前の半分には白いご飯に黒胡麻が均等にかけられており、もう半分の領域には小さな玉子焼き、細く切られたキュウリとミニトマトとブロッコリーの野菜集団、三つほどのミートボールや焼き鮭の切り身がそれぞれ分けられている。あまり大きな容器でない分おかずの方が場所を取っている中身だが、食事のバランスを考えられたメニューとなっていた。
咲の横に伸ばした口からは透明な液体が垂れそうになっているなか、彼女はアンダーシャツの裾で拭き取って夏蓮を眺めている。
「夏蓮!!本当にありがとう!!」
「どういたしまして。はい、どうぞ」
「うん!!ありがとう!!」
「…………ん?」
自身の弁当箱を差し出した夏蓮は、さっきから手を合わせだけで動かず笑顔な咲がふと気になってしまい、不思議に彼女を見つめていた。
「咲ちゃん……?」
「もぉ夏蓮ったら~!ふざけないでよ~!ほら、早く早く~!」
「へ?なにが……?」
笑いながら話す咲の言葉に理解できず、夏蓮は首を傾げてしまう。
「惚けないでよ~!お弁当、他にもあるんでしょ?」
「えっ!?」
目をギョッと開けてしまった夏蓮は一度凍りついてしまう。
「……あの、咲さん……?」
「ん!?他にはどんなおかずがあるの?」
「……あの……これだけです……」
「………………ええええぇぇぇぇーーーー!?」
時間が止まったかのように笑顔で固まっていた咲は、突如としてもとの悲愴な顔に戻ってしまい、彼女の大声は目の前で弁当箱を構える夏蓮の髪の毛を揺らしていた。
まるで突風が吹き付けたような感覚を受けた夏蓮は、咲に一歩近づかれて自身の小さな両肩を掴まれる。
「ちょっと、夏蓮!!いくらなんでも少なすぎでしょ!?こんなんじゃ、ぜんっぜん足りないでしょうが!?」
「……いや、私はこれでお腹いっぱいに……」
咲の握力がもはや痛いほど力が増しているのを感じた夏蓮が怯えながら言うと、おでこを輝かせる大食い娘は首を物凄いスピードで左右に振る。
「い~や!!絶対少ない!!せめてこれの三倍は食べなきゃだよ!!」
「さ、さんばいぃぃ~~!?」
頑なに否定し腕を組み始めた咲に、夏蓮は開いた口が塞がらなくなってしまう。確かに咲が大食い女の子だということは小学生のときから知っている。学校の給食になると覚醒したかのように元気を取り戻し、余り物を競うじゃんけんには唯一女子一人だけ参戦していた。後だしやら不意打ちやらで高い勝率を修めてきた強者でもあり、当時は彼女のことを『じゃんけん選抜センター咲ちゃん』だと誰もが言っていたくらいである。また、そのときに彼女が得意気に呟いた一言、
『アタシの胃袋は、五つあるから』
という、胃袋を四つ持つ牛すらも凌駕していると断言した格言は、その日を境に今も同級生のなかで語り継がれている。
そんな偉業を持っている、大食いでも太っていない咲は困り果てた夏蓮の叫びに深々と頷いていた。
「そのぐらい食べなきゃ、体力だってつかないんだからね!?」
「は、はい……」
まるで説教を受けている思いの夏蓮は小さく呟くと、咲の光る額が更に近づいてくる。
「それに大きくもなれない!!だから夏蓮は全体的に小さい身体なんだよ~!身体が細すぎて、もう幼稚園児みたいだもん!」
「よ、幼児体型!?」
この日まで生きてきて初めて言われた言葉を受けた夏蓮は、自分よりも身長が少し高い咲を愕然と見上げながら、最後はガックリと肩を落としてしまう。痩せていることは何度も言われたことはあるが、さすがに幼稚園児みたいだとは言われたことがない。自分はそんなに小さな子どもに見えているのだろうか。
あまりのショックが身体中を重くしているのを感じた夏蓮は顔を上げられず、ついに両膝を床に着けてしまった。
「うるっさいわねぇ!何事よ!?」
絶望して落ち込んでいる夏蓮の前には、突如として月島叶恵がツインテールを揺らしながら見参し、夏蓮とほぼ同じ身長の彼女も弁当箱を片手に咲をジーッと見上げていた。
すると、いじける咲は夏蓮の弁当箱に指を指しながら叶恵に怒り顔を向ける。
「だってぇ~!これ分けられても絶対少ないんだもん!!」
「はぁ!?だいいち、忘れたアンタが悪いんでしょうが!?弁当は忘れるわ、今朝は遅刻するわ、もっと時間に余裕を持って行動しなさいよ!!」
「ジ~~……」
「な、なによ……?」
叶恵のお説教はどうも彼女の心には響いていないようで、咲は目の前の少女が持っている二段型弁当箱の中身をまじまじと見ていた。
「……よ~く見ると、叶恵も結構少ないよね?」
挑発気味な尋ね方をした咲だったが、叶恵は一度鼻で笑って仁王立ちしてみせる。
「よく聴きなさい!私のはカロリーや栄養素をしっかり計算して作ったものよ。なんでもかんでもたくさん食べればいいっていう時代は、とうの昔に終わってるのよ!!」
最後には人差し指を向けて言い放って決めた叶恵だったが、それを聴いた咲は口許に手を添えて怪しげに笑っていた。
「そんなんだから、背が小さいんだよ~」
「ブチッ……アンタねぇ!!」
キャプテンの夏蓮が未だに絶望をさまようなか、ついにキレてしまった叶恵は咲に飛びかかろうとしていた。しかし、そんな少女のもとには同じ投手として練習していた梓が訪れ、咲とほぼ同じ背の彼女に羽交い締めされて容易く動けなくなってしまう。
「叶恵、落ち着いて……」
軽々と持ち上げるようにして梓が呟いたが、逆鱗を触れられてしまったような叶恵は歯軋りを止めない。
さすがの咲も叶恵の鋭い視線に驚くなか、叶恵は唯一動かすことができた口を開けて喉を鳴らす。
「アンタねぇ!!もう一度言うけど、たくさん食べればいいってもんじゃないのよ!!世の中はね、どれだけ食べても横にしか広がらない女子がいること、わかってないでしょ!?」
「はぁ?」
叶恵の必死な叫びをぶつけられた咲は理解できず、困惑した顔で彼女を見つめていた。
すると、まだ怒った顔を咲に向けているが、叶恵は暴れるのを止めて梓から解放されると、踵を返して舌打ちを響かす。
「……遺伝。それは、私たちの敵よ……」
叶恵の小さな囁きに、咲は首を傾げてその華奢な後ろ姿を眺めていた。梓も突如落ち着きを取り戻した叶恵を不思議そうに見ていると、ツインテールの少女は歩き出して一年生たちのもとへと近寄っていく。
東條菫と菱川凛、その隣にメイ・C・アルファードが寄り添いながら食事をしているなか、叶恵は深刻そうな表情を浮かべながら三人の目の前まで来た。尻を着けている三人からは不思議に思う視線を浴びながら、叶恵は彼女たちの背後に回ってしゃがみこみ、凛とメイを両腕で包むようにして抱き始める。
「……遺伝はね、どんなに抗っても変えることができない、運命そのものなのよ……」
「……なんか、巻き込まれてるんだけど……」
「叶恵ちゃん先輩!どうかしましたか?」
小さな二人の一年生の間で俯きながら話していた叶恵には、悪意すら感じた凛からは困った顔を、何の意味だかわかっていないメイからは楽しげ笑顔を向けられていた。
辛そうな彼女の声を何とか耳に入れた咲がまだ首を曲げているなか叶恵は立ち上がって、今度はみんなから離れたところで食事をしている牛島唯たちのグループに向かっていく。
相変わらずの表情の叶恵は、三人からは警戒する目で見られていたが、気にせず星川美鈴の隣で膝を折って寄り添った。
「な、なんすか……?」
突然隣に来られた美鈴が困惑していたが、深刻そうな叶恵は動じずに咲へと顔を向ける。
「つまりはね!その運命がどんなに理不尽なものであろうと、私たちは逃れられないのが現実なの!」
「うちもチビ扱いっすか!?」
「ミスズンも、ちっちゃい娘クラブに入部だにゃあ」
「えっ!?」
愉快に笑うきららに言われた美鈴が驚くなか、遠くなった咲に聞こえるように叫んだ叶恵は再び立ち上がり歩いていく。すると、最後は絶望真っ只中の夏蓮のそばまで来る。
「か、叶恵ちゃん……」
何とか声を鳴らした夏蓮の隣で叶恵は両膝を体育館の床に着けて座り、悩めるキャプテンの肩に左手を載せる。
前方から見下ろしている咲からは相変わらずの戸惑う目を当てられているが、次の瞬間叶恵は顔を上げて凛とした真っ直ぐな瞳を放った。
「でもね!たとえそんな不条理な運命を背負わされても、私は絶対屈しないわッ!!」
叶恵の選手宣誓と似た叫びを真に受けてしまった咲が驚きで固まるが、そばで眺めていた梓はいよいよ馬鹿馬鹿しくなっていることに気づいて冷たい視線を送っていた。
だが夏蓮は瞳に熱を戻し始めており、真面目な叶恵は己の誓いを続ける。
「小さくたって能力は向上する。か弱くて力が無いなら、私たちは技術で勝負するわよ!背が低いことは大いなる武器……いつかこの言葉を聞く日を待ってなさい!!」
「か、叶恵ちゃん……」
隣で叫んだ叶恵に、今にも泣き出しそうな顔を向けた夏蓮は声を震わせていた。すると彼女からはすぐに真剣な顔を会わせられる。
「夏蓮、安心しなさい!アンタのことは、この私がずっと味方でいてあげるから……」
「は、はいッ!!」
師弟関係のようにも思われてしまう二人のやり取りは皆が注目しており、ほとんどの選手が揃って呆れた視線を送られていた。
しかし、叶恵の熱すぎるほどの熱がこもった言葉に夏蓮は涙しており、自信に満ちた顔をして微笑む彼女に抱きつく。確かに自分はか弱い存在であり、ちっぽけな女の子だということは以前から理解していたことだ。全てのスポーツにおいて、身体が小さく力が無いということは致命的なものだってこともわかっている。しかし、そんな自分を肯定してくれる人が目の前にいるなら頑張れる。
力が無いなら技術で勝負。
この言葉を胸に刻んで練習していこう。
「ありがとう。ありがとう!叶恵ちゃん!!」
泣き叫ぶ夏蓮が強く抱き締めていると、叶恵はポンと彼女の頭に小さな左手を添えて微笑む。
「私たちが初代よ。大きいやつなんか、見返してやりましょうね!」
「うん!うん!!がんばる!私がんばるッ!!」
目の前の咲と梓、三人グループで楽しく食事をしていた菫たち、自身のバッグの近くで立っている柚月、そしてみんなとは離れたところで集まって座っている唯たちからも呆れてものも言えない顔を見せられているが、二人の少女は強く抱き合いながら身体と心を合わせていた。
◇◇◆
ちょうど同じ正午の時刻。
五月のゴールデンウィークを悲しませる雨が降りしきるなか、釘裂高校女子ソフトボール部の部室裏でエナメルバッグを椅子代わりにして座り込む女子部員がいた。身に纏うユニフォームの上にジャージを着込んでいるなか、長い金髪は雨のせいで少し湿っているが、この範囲の狭い屋根の下なら仕方ない。
一人の部員は怪しげにチラチラと周囲に人がいないかを確認すると、ジャージのポケットには左手を、地面に置いたエナメルバッグのサイドポケットには右手を入れる。左手はすぐに目的物に触れられたが、右手の方はゴソゴソと中身を見ずに漁り続けており、取り出したい物がなかなか当たらない。昨夜、確かこの辺に仕舞ったはずなのだが……
「……あったぁ……」
すると指先に慣れ親しんだ小箱が当たる感触がした愛華は安堵のため息を漏らしながら呟き、右手で掴みながら取り出そうとした。
「愛華ぁー!どうしたのぉー?」
遠くから呼ばれるような声と共に身体中電気が襲うのを感じた鮫津愛華は、バッグのポケットに手を突っ込んだまま停止してしまう。この聞き覚えのある声なら、どうやら見つかった訳でないようだ。だが……
「うるせぇよ!!美李茅ッ!!見つかっちまうだろうがッ!!」
声主にバッと振り向いて更に大きな罵声を放った愛華の先には、何が面白くてかわからないが笑っている濱野美李茅と、その隣でどんな表情をしているのか検討が着かないほどの大きなマスクで口を隠している瀬戸風吹輝たちの二人が部室を連ねる建物の角に立っていた。距離にして訳十数メートルといったところだが、赤髪と青髪の二人がそこから徐々に近づいてくる。
「もぉ~何しようとしてたの~?」
愉快に笑いながら疑問を投げた美李茅は後頭部に手を添えながら向かっていた。
「愛華のことだから、どうせばっくれじゃね?」
マスクのせいで声が響きづらい風吹輝は冷徹な瞳だけを見せながら歩いていると、隣り合う二人はすぐに愛華の目の前にたどり着く。
座っているせいで、普段は二人のことを見下ろす方の愛華は見上げており、苛立ちを湧かせながら舌打ちを鳴らして立ち上がった。
「そうだよ、ばっくれだよ。中練とかつまんねぇし、午後もやるとか頭おかしいっつうの……」
今朝は同じ部員である同級生、内海翔子によって無理矢理起こされた愛華は早く寮に帰りたい思いでいっぱいだった。ただでさえ昨夜は遅くに帰宅したためまだ眠気が残る。それに今日の雨でも練習開始時刻を変更せず、走り込みや筋トレといった基礎練習ばかりの館内練習をやるとは愚かな決断だと感じていた。
睡魔に怒りを促され、中練に退屈さを強いられている愛華は我慢できず腕組みをしながら、せっかく来た美李茅と風吹輝に背を向けていた。
「まぁまぁ、そう言わずにさ~。愛華はピッチャーなんだから頑張ろうよ~?」
「愛華がいてこそ、釘裂ソフト部だし……」
反抗的な愛華の後ろからは二人の励ます声が放たれ、にこやかな美李茅は隣に来て肩を組み、相変わらず表情を面に出さない風吹輝はそのまま静かに見守っている。
「それにばっくれなんかしたら、またキャプテンに怒鳴られちゃうよ~?」
「美李茅、お前なんでそんなに楽しそうなんだよ?」
「エヘヘ、愛華がキャプテンに追いかけられるの、見てて面白いからさ」
「こっちの身にもなってくれよ……」
最後にため息を漏らして肩を沈める愛華はそんな喧しいキャプテンを思い出してしまい、見つからないうちに早く帰ろうと決意する。
しかし、もう遅かった。
「コラァーー!!愛華ちゃーーん!!」
「や、ヤベッ!!」
ビクッと身体を震動させた愛華は恐る恐る振り向くと、先ほど美李茅と風吹輝がいたところと同じ場所に、仁王立ちして両拳を見せつけるキャプテンの翔子が、顔を真っ赤にさせながら怒りの瞳を眼鏡越しに放っていた。
苦い顔しかできなくなった愛華は黙りながら、その小柄な翔子の姿におぞましさを覚える。翔子による生活妨害は残念ながら寮だけでなく、学校内での生活、そして現在の部活動でも同じことだ。疲れた、やる気ない、ダルいなど、あれだけ言っても自分の意見を汲み取ってくれず無理強いさせるキャプテンからは、今まで味わったことのない恐怖を感じてしまい、いつも首輪を着けられている気分になる。
一番見つかってはいけない者に見つかってしまった。
そう思いながら驚愕して動けない愛華に、小さくも恐ろしい顔をした翔子はドスドスと一歩ずつ近寄る。
「愛華ちゃん!!ご飯食べ終わったらすぐにブルペンって言ったでしょ!?」
少しずつ近づいてくる悪魔の存在に、愛華は全身に震えを訴えるがなんとか口を開ける。
「じ、じゃあ、まだ食べ終わってねぇよ……」
身体を後ろに反らした愛華が弱々しく呟くと、眼鏡を掛けた小さな魔神は小首を左右に振る。
「ぜぇったい嘘!!午前の部が終わって一番最初に抜け出したのは愛華ちゃんだったじゃない!!それにご飯はあたしが用意したおにぎりとゼリーだから、すぐ食べ終わるはずだよ!?」
実は練習前に食べてしまったという本音を言えなかった愛華は困惑するなか、必死で頭を働かせて言葉を繋げようと努力する。
「……じ、じゃあ食休みだ、食休み!ほら、食ってからいきなり動くと身体に悪そうだろ?」
「愛華ちゃんが自分の身体に気を遣ったとき、あたし見たことないけど!?」
お前はストーカーかと突っ込みたい気持ちが芽生えるが、こっちから近づいてしまっては何の意味もない。
「……じ、じゃあ……」
「……じゃあじゃあって、どうせ早く帰りたいとか思ってるんでしょ!?絶対に帰さないからね!!」
顔をひきつる愛華はついに言葉尻を被せられてしまうと、翔子は早足に切り換えて恐ろしい童顔を向かわせていた。ここで捕まったら今日の夕方まで帰してもらえないだろう。それどころか、翔子はキャッチャーで自分はピッチャーであるため、練習後はバッテリーのみの居残り練習すら予想が立てられる。この窮地をどうやって乗り越えていけばいいのか……
「……よしっ……」
ふと小さな声を漏らした無表情の愛華に、そばにいた美李茅と風吹輝から不思議そうの顔を向けられる。すると、翔子があと数歩と迫ったところで愛華は突如踵を帰し、エナメルバッグのショルダーをギュッと強く握り締める。
「逃げるが勝ちだぁ!!」
「あッ!!愛華ちゃん、待てぇぇーーーーッ!!」
エナメルバッグを両腕で抱えた愛華が勢いよくスタートダッシュをすると、翔子も負けじとすぐにダッシュで駆けていき、雨空の下へと出ていく。
こうして二人のバッテリーは疾風の如く姿を消してしまい、部室裏の屋根の下には美李茅と風吹輝が取り残される形となってしまった。
逃げ出した大きな愛華とそれを追う幼い翔子の姿を見ながら、美李茅はお腹を抱えながら笑っている。
「やっぱあの二人サイコーだよ~!チョーウケる!!普通逆っしょ!」
笑いすぎて涙も出てしまった美李茅がジャージの裾で目を擦っていた。
一方で、退屈そうな風吹輝はバカ笑いしている美李茅を呆れて横目で見ていると、ふと地面に光る物が目に入り首を傾げる。先端は銀色の金属が輝きを放つ半透明なプラスチック性の容器のようで、その中には僅かな透明の液体が映し出されていた。手のひらサイズの直方体を拾って確認しようとしたが、風吹輝にとっては見てすぐにその物の正体を理解する。
「ライターじゃん……なんでこんなところに……?」
眉をひそめている風吹輝は膝を折って地面のライターをゆっくり摘まむようにして拾う。だが、そのライターは周囲の温度と比べて暖かみを保っており、ついさっきまで誰かに握られていたと語りかけているようだった。
「これってさ……」
細い指先で掴むライターを眺める風吹輝が呟くと、いつの間にか静かになっていた美李茅は悲しげにため息を放ち頷く。
「それ、愛華のだよ……」
すると壁に寄りかかった美李茅からは笑顔が消えてしまい、しゃがんでいる風吹輝とは目を会わせずもう一度ため息を吐いて俯いていた。
ガラリと変わってしまった陰鬱な空気。毎日荒れ狂い大きく笑う釘裂の生徒にとってはあまりない雰囲気は二人に広まり、風吹輝は手に握るライターを見つめながら声を鳴らす。
「やっぱ、愛華って吸ってんだね……」
「うん。昨日、愛華が店の中に来たとき、完全にタバコの臭いがしたもん。風吹輝だってわかったでしょ?」
「ゴメン、風吹輝は生まれつき鼻が悪いから、臭いとか全然わかんない……」
「そっか……そうだよね。なんか、ゴメンね。嫌なこと聞いちゃったね……」
「別に気にしてないよ。おバカな美李茅が意図的に言うとは思えないし」
「どういう意味よ?」
風吹輝の冗談を毎日の如く受けている美李茅は微笑みを見せながら答えたが、最後には結局もとの暗い表情に戻ってしまい下を向く。
晴れ間など見当たらない雨空はもう一つ生まれてしまったような部室裏。そこでは二人の会話は一旦途絶えてしまい、弱いながらも地面を叩きつける雨の静かな音と、部室からは野蛮な女子ソフトボール部たちの大きく叫ぶ音が交差していた。
ふと曇天浮かぶ空を見上げた美李茅は、屋根の下にいながらも雨を打たれている気持ちになりながら沈黙を破る。
「……愛華は、かわいそうな女の子なんだよ。昨日会った牛島唯ってやつもそうらしいんだけどさ、それ以上に愛華の人生は辛いものだったんだ……」
普段はすることがない哀愁を漂わせた美李茅に、風吹輝は下から彼女の光が見えない顔を覗く。
「風吹輝もそれは知ってる。以前の愛華はあんな子じゃなかったらしいし、その理由を聞いときはホントに驚いたし、相当苦しんだんだなって思った……」
マスク越しで小さな声を鳴らした風吹輝に眺められながら、美李茅は自身の赤く染めた長い髪の毛を揺らして頷く。
「もちろん、それはアタシたちだって同じことが言える。この学校に来るような連中は、世間にとって迷惑な犯罪予備軍みたいなもんだからね。でも、愛華は違う。きっと、去年の騒動が彼女を変えてしまったんだと思うんだ。愛華は何もしてないのにさ……ん!?」
空を見っぱなしだった美李茅がふと驚き横に目をやると、すぐ隣で風吹輝が立ち上がり、細い右腕を伸ばして美李茅の腕を握っていた。
「翔子も、でしょ……?」
ジャージを着込んでいながらも、青髪少女から確かな温度を感じた美李茅は優しく微笑む。
「そうだよね。あの二人は違う。去年からソフト部に入部していた、あの二人はね……」
美李茅が会話を止めると、二人は寄り添いながらもう一度暗雲立ち込める空を見上げた。晴れなど訪れるのかすら疑わしいほどの厚い雲が覆っており、どこにも切れ間はない状況だ。どうにか開けようとしたって自分たちの伸ばした手は届かない。なぜなら
自分たち人間は皆、ちっぽけで弱く儚い生き物なのだから。
だがそれは、人生においても同じことが言える。
犯罪や騒動を起こした人間に待ち受ける未来は決まって無念極まりないものだ。いくら刑務所に入って更正しても、どれだけ心の中で反省しても、世間からの目を過去の事件から離すことなど不可能である。一度背負うことになった罪は生涯に渡って共に過ごすことが日常であり、それが忘れ去られる日が来ることは未来永劫ない。なぜなら、人間とは臆病で自分勝手な弱い生き物だからである。他人よりもまず自分にマイナスにはならないかと考えるのが人間の習性であり、それは人類誕生から継承されてきたものだ。そんな過去は、今更変えることなどできない。
『わかってる。そんなことはわかってる!でも……』
一方的に雨が降り続けるなか、美李茅は覚悟を決めたように凛とした顔を雨空に向かわす。
「風吹輝、練習行こっか?きっと愛華も翔子も始めてると思うしさ!」
過去を変えられないなら、明るい未来を信じるしかない。その可能性はきっと僅かなものであり、実現することなどほぼ無理に等しいだろう。しかし、その僅かな希望があるならば、自分は……いや、まず先に愛華と翔子には、この先の未来で心から笑って過ごしてほしいことを嘆願する。
自身のことよりもまずは愛華と翔子の未来を考える美李茅が尋ねると、風吹輝も合わせて真剣な目付きで答える。
「うん。行こう……どうせ愛華が翔子に捕まるのも時間の問題だからね」
最後に顔を会わせた二人は互いに笑顔を交わすことができ、大きなマスクを着ける風吹輝の表情ですら簡単にわかるものだった。
まず美李茅が歩き出してそれに風吹輝がついていこうとしたが、手に持っていたライターを自身のズボンのポケットにしまい込んでから美李茅の隣へと駆ける。それはまるで、この現場にライターが無かったかのようにする捏造染みた行動だったが、赤と青の二人は互いに笑顔を交えながら部室へと戻っていった。
◇◆◆
「そんなことより、お腹空いた~あ~!!」
「そ、そんなことって何よ!?」
咲から大きな悲鳴を目の前で上げられた叶恵が更に大きな怒号をぶつけていた。今度は夏蓮によって仲裁されているが、現場はまだ未解決状態である。
彼女ら三人のやり取りを端から見ていた柚月は相変わらずジメッとした目をしていると、ふとマネージャーのもとに一人の男が訪れる。
「一体どうしたんだい?」
体育館の事務室から飛び出してきた田村信次が心配そうに尋ねてきたが、柚月は表情を変えずにため息を漏らす。
「咲、弁当忘れたんだって……」
「ええ!?それは一大事じゃないか!!」
「大丈夫。大したことじゃないから……放っておきましょ……」
叶恵と咲が応戦しているのが続くなか、力のない柚月と焦る信次は二人を見つめていた。
「中島先輩、かわいそうだなぁ……」
凛とメイの間でふと言葉を漏らした菫は箸を止めて、咲の困り果てた様子を心配して眺めていた。
「でも、自業自得だと思う……」
「凛の言う通りです!!咲ちゃん先輩は、急いては事を仕損んじちゃったんです!!」
凛とメイからは咲の行いを仕方なく思っている様子だが、菫は変わらない想いを抱いて眉をひそめていた。何だか自分の妹のことを思い出してしまう。小学二年生の桜や幼稚園児の百合も忘れ物をするときは、きっと咲のように嘆き悲しんでいるのだろう。
そう思うと放っておけない菫はふと自分が持つ弁当箱の中身を見て立ち上がり、よしっ!と呟いて咲のもとへと足を運ぶ。
「うわぁ~ん……ご~は~ん~……」
「中島先輩!!」
「ん?」
体育館の床に倒れていた咲は突如起き上がって、にこやかな菫と顔を会わせる。
「あの良ければ、あたしのもどうぞ!」
「ええ!?ホントにぃーーっ!?」
先ほどの夏蓮のときのように瞳を輝かせる咲に、菫はニッと白い歯を見せながら頷く。
「たぶん、あたしのも少ないですから、夏蓮先輩のごはんといっしょに食べてみてください!」
「う゛ぅ~ありがとう~東條さ~ん。今度是非アタシのお店来てねぇ~。たくさんパン奢るから~」
「ありがとうございます!うちにいる弟妹たちがきっと喜びます!!……あれ?」
涙までは出ていないが裾で目を擦る咲に、菫は弁当箱を咲に差し出そうとした。だが、その刹那耳には聞き慣れない車のエンジン音が届き、咲から顔を反らして体育館の入り口に向ける。
「誰だろう……?」
不思議そうに見つめる菫の先には、体育館すぐそばに一台の山吹色のワンボックスカーが停まる。
「車……虹色スポーツじゃねぇのか……」
「なんだかキュートな車だにゃあ」
「この匂い……パン屋っすかね?」
入り口そばで食事している唯たちも眺める車体の側面にはメロンパンやアンパンなどといった様々な種類のパンたちが散りばめられながら描かれており、その中央には『スマイル工房』と大々的に可愛らしいタッチで表されていた。
咲のそばで正体がわからない菫が首を傾げて眺めていると、エンジンの音が止んで微動し揺れていた車の運転席からは一人の女性が現れる。白い白衣を纏い三角巾を被りながらドアを閉めるとすぐに車の後部座席のスライド式扉を開けており、その中からは勉強机程の大きさを持つ平たく積み重ねられた、パンを収納するバットを両手で取り出していた。
あれではドアを閉められないのではないかと思いながら、バットを担ぐ女性のもとへ駆けようとした菫だが、今度は助手席の方から小さな女の子が現れ、気を効かすようにして代わりにドアをスライドして閉めていた。互いに微笑み合う女性と小学校高学年くらいの二人の姿は親子そのものであり、それは今初めて彼女たちを見た菫でもわかる。どうやらパン屋で働く母親をその娘が手伝っているようだ。
自身の父母はいつも仕事先の忙しさでなかなかいっしょの時間を過ごせない菫にとって、そんな二人の親子が少し羨ましい気持ちが生まれて見つめるなか、女の子は母親から少しバットを分けてもらうと徐々に体育館の入り口へと近づいてくる。
「あ、あれは……」
咲がボソッと呟いたのを聞いた菫は気になって彼女に顔を向けると、彼女は言葉と共に大きな瞳から光を放ちながら今日一番喜んでいる様子だった。
「中島先輩、あの方たちはお知り合いですか?」
菫が眉をひそめながら尋ねると、咲は笑顔のまま額を広げた頭を大きく縦に振る。
未だに誰なのか理解できずにいる菫がいるなか、靴を脱いでついに体育館の床へと足を踏み入れた親子は二人とも笑顔を見せており、先頭に立つ母親が高らかに声を響かせる。
「こんにちはー!!スマイル工房の中島でーす!!」
部員のみんなが振り向くなか、夏蓮や柚月、梓たちが喜ばしくいる様子が伺える。
「中島って、もしかして……」
もう一度振り返って咲に顔向けしようとした菫には、先輩である彼女が最も喜ばしい笑顔を見せているのがわかった。
「待ってましたー!!お母さん!!それに、にこも!!」
万歳して叫んだ咲を間近で見ていた菫はやっと、二人の親子の正体を理解することができてマジマジと女性と女の子を眺めていた。あの二人は咲のお母さんと妹だったのだ。言われてみれば、両者とも笑顔が咲とそっくりであり、元気な話し方まで似ている。
咲とは幼馴染みの関係である夏蓮たちが喜んでいるのも何となくわかる体育館の屋根の下、咲の母である白衣の女性は眉間に皺を寄せながらため息をつく。
「なにが待ってましたーだ?咲!!アンタ、お弁当忘れたでしょ!届けに来たわよ!」
「ありがとう、お母さん!!これでまた長生きできるよー!!」
咲にとって長いという言葉は果たしてどのくらいの短さなのかと気になり苦笑いを見せた菫だが、声を交わしていた咲の母も呆れたように笑っていた。
母親の後ろで隠れるようにしている、咲からにこと呼ばれた少女もジメッとした目をしていると、早速顧問の信次が近寄って頭を下げる。
「はじめまして!!咲さんのお母様ですか?」
「はい!!担任でもある田村先生には、うちの咲がいつもお世話になっております!!」
「いえいえ~!」
共に笑顔で一礼すると、咲の母は自身が手で支えていたパンのバットに目をやる。
「つまらないものですが、さっき焼き上がったパンがありますので、良かったら部員のみなさんで召し上がってくださいな」
「ホントですか!?いや~わざわざありがとうございます!!」
「いえ、うちのおバカ娘が弁当なんか忘れるからですよ」
今度は二人が苦笑いを見せたところで信次は部員たちの方に顔を向けて、ちゃんとお礼を言って頂くようにと叫んでみんなに足を運ばせた。
最初にきららたち三人が受け取ると、次はメイと叶恵たちが小さな子どもらしくもらって喜び、その次には夏蓮、柚月と梓の顔見知りが中島家の前に立つ。
「咲ちゃんのお母さん、お久しぶりです!」
「あら夏蓮ちゃん。見ないうちに大きくなったんじゃない?キャプテンやってるんだってね。これからも頑張りなさいよ?」
「はい!咲ちゃんといっしょに頑張ります!!」
微笑みながらも敬礼のポーズをした夏蓮がパンを受け取ると、すぐに押し出すようにして柚月と梓が咲の母の前に現れる。
「おばさ~ん!お久しぶりだね!」
「お久しぶりです」
優しく微笑む梓の隣で珍しくテンションの高い柚月が放つと、合わせて咲の母もにこやかな顔で受け答える。
「おや、柚月ちゃんに梓ちゃん!!またソフトボール始めたって聞いて、おばさん嬉しいよ!」
「まぁ、私はマネージャーだけどね。梓は相変わらずピッチャーで頑張ってるわ」
「今度良かったら、試合観に来てください」
「もちろんだよー!仕事の合間縫って観戦させてもらうね!」
笑顔でパンを差し出した咲の母から受け取った二人は最後に、咲の妹であるにこにも声をかけて会話をする。
「にこちゃん、お久しぶり!私のこと覚えてる?」
自身の微笑ましい顔に指を指しながら柚月が尋ねると、少女の長い髪の毛は縦に揺られ小さな笑顔を包み込んでいた。
「柚月お姉ちゃん、お久しぶりだね!いつ見てもそうだけど、眼鏡掛けてる柚月お姉ちゃんもキレイだよ」
「くぅ~!にこちゃん、私と結婚しよっか!?」
「小学生に変なこと教え込むなよ……」
メロメロの状態である柚月の隣で梓がため息を放つと、二人を見上げているにこは名前通りのにこやかな愛想笑いで返していた。二人の大きな高校生から話しかけられてもハキハキと微笑ましく答えるにこは小学生ながらもどこか大人らしさが垣間見え、姉の咲と違ってしっかり者のイメージを沸かせている。
挨拶を済ませた柚月と梓が共に去った後、最後は咲と菫、そして凛もいっしょに立ち寄っており、三人の中で先頭を切った咲が母親の前に立つ。今か今かと待ちわびている様子でいると、突如妹のにこからはさっきまで見せていなかったふてくされた顔を向けられてしまい、彼女からはパンではなくまるで御節が仕込まれているような三段型弁当箱を差し出された。
「はい、お姉ちゃんのお弁当……あたしが見つけたんだからね……」
ムッとした様子で弁当箱を掲げていたにこだったが、ひたすら笑顔の咲は気にしていないようですぐに受け取る。
「サンキューにこ~!!さすがはアタシの素晴らしき妹だぁ~」
待ちわびていた弁当箱を抱き締めながら囁いた咲は自身の顔を箱に擦り付けながら、クンクンと鼻を利かせて中身の臭いを確かめていた。その臭いはそばにいる菫にも充分伝わってくるもので、目の前の焼きたてパンにも負けないご飯と数々のおかずたちを連想させる。
咲の嬉しそうな表情を見せられて、まるで自分の妹が喜んでいるようにも感じてしまう菫はホッと安心して頬を緩ませながら眺めていた。やはり元気があってこそ中島咲だ。見ているこちらも自然と笑顔にさせる咲の笑みが戻ってよかった。
凛も静かに見守っているなか、菫は笑顔を止めない咲に、よかったですね!の一言でもかけようと思ったが、空気を溜め込んだ瞬間前方の女子小学生から大きなため息が出されてしまう。言葉が出せなかった菫は不思議に思いながら咲の妹であるにこに目をやると、彼女は呆れた目を姉に向けているように見えた。
「ホントだよ。まったく……お姉ちゃんみたいなおっちょこちょい女が姉だと、妹であるあたしがしっかりしなきゃいけなくなるんだからさ……」
ふと嫌な空気を感じた菫はにこの発言を止めようとしたが儚くも遅く、ため息を交えた女子小学生は姉である咲に冷たい槍を投げ入れる。
「……ホントに、幼稚……」
姉として生ける菫が言ってしまったと思った刹那、やはり咲は目を覚ましたかのように大きな口を開ける。
「あ゛ぁぁ~~!!にこーッ!!今、アタシのことバカにしたでしょ~!?」
咲の怒号で体育館が揺れたようにも感じた菫だったが、正直彼女が怒ることは想定内だった。同じ姉である自分だって弟妹たちにからかわれる―東條家ではほとんどないが―ことは無性に腹が立つものであり、姉としてのプライドが事態を許さない。幼いときから面倒を見てやっているのはどっちだと怒鳴り付けたい気持ちになるのが普通であり、それを先輩である咲が今まさにその状況下である。
小学生の妹に指を座して身構える咲の前で、にこも突如目を鋭いものに変えて応戦してしまう。
「だってそうでしょうがッ!!今朝だってあたしが先に起きてお姉ちゃんのことを起こしてあげたんだけど!?それに何回も!何回もだよ!?」
小顔を突き出したにこの怒鳴り声は咲にぶつけられるが、それを聞いた菫はふと矛盾点を見いだした。そういえば、咲の遅刻した理由は妹を起こすのに時間が掛かったためと言っていたはずなのだが。
練習開始前、一番最後に現れた咲がマネージャーの柚月にトボトボと話していたことと比較していた菫は首を傾けて考えていたが、姉妹の口喧嘩はさらにヒートアップしていく。
「それはにこの声が小さすぎるせいだよ!!それじゃ目覚ましにもならないよ!!」
「よく言うわ!!あたしが起こす度に、もう一眠りもう一眠りって言って、いったい何度寝してたのよ!?」
「仕方ないでしょ!?昨日は涼子ちゃんといっしょに遅くまでゴールデンウィークの課題やってたんだから!!高校と小学校の宿題量をいっしょにしないでくれる!?」
「だってそれは先週から出てた課題を溜めてたお姉ちゃんが悪いんじゃない!!全然手を着けてないから困ったなぁって、帰りに涼子お姉ちゃん言ってたよ!?」
「ギクッ……涼子ちゃん、なぜそんなことを……」
「まぁまぁ!姉妹喧嘩はこのへんでこのへんで!」
図星に捕らわれた咲が伺えた菫は、すぐに二人の姉妹の間に入って苦笑いと共に仲裁していた。肩をガックリと落として顔から倒れそうになる咲を後ろから凛が支えているなか、菫の前でにこは再びため息で呆れた様子でいた。とりあえず大きな喧嘩までに発展しなかったことにホッとしていた菫が眉をひそめて笑っていると、小学生の少女から困り果てた顔を向けられる。
「こんな姉ですが、どうかこれからもよろしくお願いします」
小さなにこに頭を下げられてしまった菫はアッと驚いてしまい、自身の身を後ろに反って困惑してしまう。
「えっ!?なんであたしに!?」
「先輩だって思われてるんじゃない……?」
「へ……?」
ふと後ろから凛の声を耳に入れた菫は、目の前で深々とお辞儀をしている少女の意図が何となく理解する。きっと自分のことを上級生だと思っているのだろう。確かに咲とはあまり身長が変わらないし、この場にいて姉妹の喧嘩を止めさせた人間ならば、小さなにこからそう思われてもおかしくないのかもしれない。
自分を先輩だと勘違いしているにこがいっこうに頭を上げないままでいることに焦り、菫は再び困りながら笑って言葉を返す。
「いやいや!寧ろこっちのセリフだよ~!あたしは中島先輩の後輩だからさ!」
苦笑を止めない菫が頭を掻きながら答えると、にこは下げていた小顔を徐々に上げていき不思議そうな表情で身体を正す。
「本当なんですか……?まったく思えない……」
「ホントホント!中島先輩にはいつも優しくしてもらってるから、あたしはとても感謝してるんだよ?」
「そ、そうですか……」
にこが小首を傾げているあたりどこか納得していない様子が見てとれるが、菫はまだ自己紹介をしていなかったことをふと思い付いて、膝を体育館の床に着けて小さな少女と目線を合わせる。
「中島、にこちゃんっていうの?」
菫が微笑ましいながら尋ねると、にこは小さく頷き頬を少し緩ます。
「わたしは今五年生です。笹浦小学校に通ってるんです」
「そっかぁ!じゃああたしの弟と同級生なんだぁ!」
「そうなんですか?」
可愛らしい瞳を大きく開けているにこに、菫はとても嬉しいままに頷く。東條家は子だくさんの五人 姉弟妹であり、一人はまだ一歳になったばかりの男の子、東條蓮華。また一人は現在幼稚園年中組にいるお絵描き大好き少女、東條百合。残る二人は今にこが言った笹浦小学校に通ってる弟妹であり、現在二年生の元気なお転婆娘、東條桜、そして五年生のやんちゃ坊主、東條椿である。
なかでも椿とにこが同じ学年であることを聞けた菫はさらに嬉しさが込み上げており、営業スマイルとは思えない純粋な笑みを見せるにこに声を放つ。
「あたしの弟、東條椿っていうんだけど、知ってるかな?」
するとにこも菫の輝く笑顔が伝染したかのように微笑む。
「そうなんですかぁ!椿のお姉ちゃんで…………へ……?」
だが、にこの笑顔はすぐに真顔へと戻ってしまい、何度か瞬きをして固まってしまう。
突如として表情を変えたにこからマジマジと顔を見られるようになった菫も不思議に思いながら、同じような顔をして少女を見つめていると、ふと体育館の入り口の方から咲の母親が、にこ~帰るわよ~!と大きな声が放たれる。しかし、それでも反応せずにいる女子小学生は次の瞬間、さらに目を大きく開けて大量の空気を一気に吸い込む。
「ええええぇぇぇぇーーーーーーーー!?椿のお姉ちゃぁぁーーーーん!?」
まるで透明な口光線を受けたように感じた菫はバタっと尻餅を着いてしまうと、にこは母親には一切振り向かず、座る菫の前で正座してしまう。
「あ、あぁ、あのぉ……?」
完全に声を震わせているにこに畏まった正座を目の当たりにされた菫は、不審を通り越して困惑して目を会わせる。声の音量といい驚き方といい、やはり姉妹は自然と似てしまうのはわかるが、どうしてこの少女が椿の名前を聞いた途端に豹変してしまったのだろうか。
訳がわからないがとりあえず話だけでも聞こうとした菫がはい?と聞き返すと、きれいに畳んだ脚の太股に両手を載せたにこは座禅のように背筋を伸ばして見つめ返していた。
「も、もしかしてつば……東條くんのお姉様ですか……?」
「は、はい……東條菫ですけど……」
少女の緊張感が移ったように感じた菫も口ごもりながら呟くと、にこはハッと息を飲んで再び叫ぶ。
「す、菫お姉様!!」
その瞬間、にこは両手のひらを床に移して前のめりの状態で、菫に強張った顔を向ける。
「これはこれは!誠にはしたないところをお見せしたしまい、たいへん申し訳ありませんでしたーッ!!」
「ち、ちょっとにこちゃん!?」
戸惑う菫が手を伸ばすがもう遅く、にこからは頭を床に着けた土下座を浴びてしまった。いくら弟妹の友だちと言えども今までお姉様などと呼ばれたことがないため、どう言い返したら良いのかわからない。 なぜこのようなことをされなきゃいけないのか……一刻も早く顔を上げてほしい。
「にこ~!何やってるの!?もう帰るわよ~!!」
再び中島家の母から叫ばれると、菫の目の前のにこがバッと顔を上げて立ち上がる。兵隊のように気をつけをしながら見下ろされるなか、今度は素早い一礼を見せられていた。
「では菫お姉様!!失礼しますッ!!」
「に、にこちゃん待って!?」
菫の嘆きは儚くも届くことがなく、にこはすぐに目の前から走り去っていき、母親よりも先に体育館から出ていってしまった。
そのあとに咲の母も笑顔で立ち去ることとなり部員からは笑顔で見送られたが、菫だけは座ったまま眉をひそめて山吹色の車を眺めていた。咲の妹の行動すべてが疑問に思えて仕方ないなか、ふと自分のそばには親友の凛がいることに気づき、自然と立ち上がることができたが晴れない顔のままだった。
「なんだったんだろう……?」
にこたちが乗っていた車はエンジンを駆けるとすぐに姿を消してしまうが、菫の目には『スマイル工房』の残像が焼き付いてしまい、疑問と共に残る形となっていた。
「……なるほど……あの椿が、か……」
「えっ!?凛、何かわかったの?」
隣から呟かれた菫がすぐに振り向くと、対して凛は優しく微笑んだ顔で返していた。
「きっと、そのうち椿が教えてくれると思うよ。だからそれまで待とう?」
どうやら凛には何かわかったらしいのだが、いっこうに理解できない菫は苦い顔のまま頭を抱えてしまう。
「ん~……待つのは苦手なんだよなぁ……」
咲の妹と菫の弟に何かあるのだろうか。自宅にいるときでは、椿からにこのことなど一度も聞いた試しがなく不可解極まりない。今は合宿中で家には戻れないが、終わって覚えていたら直接聞いてみよう。あの二人が変なトラブルに巻き込まれていなければいいのだが。
どうせ解決はできないと諦めた菫はため息を吐くことによって頭を切り換えると、ふともう一つの疑問が頭に過り隣の凛を見る。
「そういえば、中島先輩は?凛、さっきまで支えていたけど大丈夫だったの?」
すると笑っていた凛はすぐに失笑して頷く。
「ほら、あっちで食べてる……」
呆れた様子の凛が上げた細い腕の先に菫は顔を向けると、さっきまで落ち込んでいた咲が座りながら、受け取った三段式弁当箱を床に広げて美味しそうにバクバクと頬張っていた。
「う~ん!!やっぱりお母さんの玉子焼きは格別だなぁ!中島家に生まれてよかったぁ」
さっきまで失楽していた人とは思えないほど笑って食べている咲に、凛はもちろん、さすがの菫も苦笑いを浮かべてしまう。
「中島先輩って、きっとストレス溜まらない人なんだろうなぁ……」
頬に手を着いてとても幸せそうに食べている咲を見ながら菫が呟くと、隣の凛は大きなため息をついていた。
「あの人は放っておいて、わたしたちも食べよ?」
「そうだね。いっしょに食べよう!」
咲の弁当騒動はとりあえず落ち着き、菫と凛も安心して座りそれぞれの弁当箱を広げる。なかでも菫の持っている弁当箱は今朝に椿が作ってくれたものであり、自慢の弟である彼に感謝を込めながら箸を掴んだ。また先ほど中島家から頂いた真ん丸のメロンパンも片手に持ちながら、菫は東條家と中島家の優しい味を噛み締めながら昼食を進めていた。
皆様、今回もありがとうございます。
先日、この作品のPV数が3000を超えました!!
見てくださった皆様、心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございます。どうかこれからも彼女たちのソフトボール生活を見守って上げて下さいませ。
さて、今回はほぼギャグ回のようなものでしたね。というか、合宿やってるのに練習風景がまったくありませんでした……どうかお許し下さい。
次回はしっかり練習させていきます。激しさを増す合宿午後の部スタートです!!
ではまたもよろしくお願いします。




