相棒
生憎の雨となってしまった合宿初日、笹二ソフトボール部は体育館で汗を流して努力していた。練習が辛いあまり嫌な雰囲気が立ち込めるなか、一人の部員だけは違った。
ゴールデンウィークの二節目を迎えた今日、茨城県内では不運にも静かな雨が降りしきっている。本日予定していた練習試合を中止する中高の運動部や、雨のなかでも外で練習しようと汗も流すスポーツ少年団とおり、なかなか恵まれない時間が選手たちを襲っていた。
そしてここは、茨城県にある県立高校、釘裂高等学校。生徒たちの問題行動が盛んに行われている、茨城県内では悪名高き一校ではある。しかし、今朝の雨とゴールデンウィークによる休講日のせいか、校内では普段はありえない静けさに包まれていた。
そんな学校のすぐそばには、釘裂高校生徒の寮が設けられているが、県立高校の寮というものは茨城県においては珍しいものである。寮を利用する生徒のほとんどは、遠方から来ていることが理由に挙げられるが、中には家庭内不和や不登校の防止なども懸念され滞在している。
だが、とある一人の女子生徒は、他に類を見ない理由でここにいた。
そんな金髪の彼女はまだ、教科書やお菓子の包み紙で散らかる自室の布団に入っており、スヤスヤと目を閉じていた。昨夜に帰宅した時間も遅かったため、今日は絶好の睡眠日和にしようと企んでいる。
外からの雨音だけが鳴り響く静かな空間だったが、それはすぐに騒がしいものとなってしまうのだった。
ドンドン!!
「愛華ちゃ~ん!愛華ちゃ~ん!!」
ノックが音を経てると同時に、一人の女子生徒によるかん高い声が襲い始める。
目覚めてしまった鮫津愛華は、寝返りを打って無視しようとしたが、外からのノックと声は大きくなる一方だった。枕元にあるスマートホンの画面を付けて時刻を確認してみると、まだ朝の七時の早朝である。
「んだよ~……るっせぇな~……」
寝癖で乱れた頭を掻きながらゆっくりと身体を起こした愛華は、寝間着にしているグレーのスウェット姿で、鳴り止まないノックが轟く部屋の入り口へと渋々歩いていく。
「愛華ちゃん!!朝だよー!!」
少女を思わせる叫び声は愛華の頭の中を痛めるようにして侵入しており、彼女は嫌々ながらの顔でドアを開けてしまう。すると、目の前には自分よりも遥かに小さな同級生が、釘裂高校指定のジャージを着て、『内海』と刺繍が入った大きなエナメルバッグを背負って、小顔には不相応な大きい眼鏡を着けて立っていた。
「なんだよ、翔子……」
見下すように呟いた愛華だったが、前方の内海翔子からは怒っている様子を思わせる、膨らんだ顔と眉間の皺を向けられている。
「まだ寝てたの~!?今日から練習!約束でしょ!?」
「はぁ?雨降ってんじゃん」
「中練だよ!!ほら、さっさと着替えて着替えて!!」
「お、おい!」
まだ眠たげだった愛華を無理矢理起こすかのように、翔子は彼女を押し込みながら部屋へと乱入する。
翔子に強制的に着替えを命じられた愛華は、まだ二度寝もしていなくもう一度温かな布団に入りたかったが、翔子からの厳しい視線から外れられなかったため、ため息を漏らしながら床に広がるジャージを持ち上げる。
「も~お、散らかし過ぎだよ!愛華ちゃん、女の子でしょ!?」
「……勝手に入ってきたのはどっちだっつうの……」
怒れる翔子の耳には届かないように愛華が呟き、スウェットを脱いでジャージの裾に腕を通す。
愛華と同じように寮で暮らしている翔子は、いつもこうやってモーニングコールをしてくるのが日常である。幸か不幸か、彼女は隣の部屋でもあるため、昨日部屋で何をしていたかも丸聞こえだ。
「あっ、そうだ!愛華ちゃんッ!!」
愛華が気だるい視線を送っていると、翔子は更に怒りを露にした様子で腕組みを見せていた。
「今度はなに?」
「昨日、虹色スポーツで暴れてたでしょ!?お兄ちゃんから聴いたよ!!」
怒りの小顔を近づけてアップする翔子を見た愛華はふと、昨晩虹色スポーツに訪れた際に会った店員を思い出す。そういえば、あの眼鏡の若い店員も名札に『内海』と書いてあった。まさかあの弱そうな男が翔子の兄貴だったとは。これは面倒なことになりそうだ。
「ウチは何もやってねぇよ。問題起こしたのは美李茅と風吹輝だ。アイツらのもとに行ったときにはもう手遅れだったから、ウチは冤罪だ」
「男子に暴力振るったって聞いたけど!?」
「あ、あれは…………はぁ……ウチだよ……」
「も~お!暴力はダメって、いつも言ってるでしょ!?」
ため息でガックリと肩を落とした愛華に、翔子は追い打ちをかけるかのように言葉をぶつけていた。
翔子の罵声を浴びながらもジャージに姿を変えた愛華は、翔子によって準備してもらったエナメルバッグを肩に掛ける。ずっしりとした重さが感じられることから、彼女がいろいろ余計な物を入れたに違いない。荷物なんてグローブとスパイクで充分だというのに、使わない着替えやらアイシングやら入れられて困ったものだ。
翔子のお節介な一面はいつものことだが、本日も愛華は冷徹な視線を送ることで反抗精神を表していた。すると前方の彼女はクルリと踵を返し、背を見せながら利き手である右手を拳に変えて突き上げる。
「さぁ、今日も張り切って行くよー!目指せインターハイッ!!」
翔子の背中が実物よりも少し大きく見えた愛華は、晴れぬ表情のまま下を向いてしまう。
「ほら、愛華ちゃん!行く……」
「……なぁ、翔子……?」
「ん?」
愛華に対して顔を向けた翔子は、彼女によって言葉尻を被せられてしまうと不思議がる顔をしていた。
目の前の少女があまりにも明るく眩しく感じてしまう愛華は、顔を上げないままポツリと呟く。
「……ウチらってさ、インターハイ行く資格、あんのかな……?」
「えっ……?」
すると愛華の小さな一言は、さっきまで騒がしかった翔子を黙らせてしまい、彼女の顔には今日の天気のような雲が浮かび始める。インターハイに行く資格なんて、普通の生徒ならあるに決まっている。だが、ここの生徒は例外だ。ただでさえあんな悲惨な事件を起こしているんだから。
二人が同じように俯く室内には外からの雨音が拡がるなか、すると翔子は僅かに喉を鳴らす。
「……でも、わたしは行きたい……」
悲しげな顔をしていた翔子だったが、次の瞬間、勢いよく顔を上げて、足下を覗く愛華に真剣な表情を向ける。
「だって、入部当初からの目標だもん!!それは愛華ちゃんだって同じでしょ!?」
俯きを止めない愛華の両腕を掴みながら、翔子は興奮したあまり泣き出しそうな顔に変わっていた。インターハイの資格に関しては、自分も時々考えてしまうことがあるが、それ以上に行きたいという想いの方が強い。
「……どうだか、な……」
しかし、翔子の直向きさは愛華には届いておらず、悲愴に満ちた顔をして自然と彼女の両腕を解いていた。どんなに足掻いても消せない、それは過去の出来事だというのはわかっている。全ては一年前の春に起きてしまった。あんな形で一年間の活動停止状態となってしまったことは悔やみきれないほどである。それはきっと、この二人が誰よりも一番理解していることなのだ。そう、誰よりも……
釘裂寮の一部屋では、外の雨よりも内なる雨の方が音を経てているようだったが、それは無情にも耳には届かない音源だった。
◆◆◆
同じく茨城県の県立高校、笹浦第二高等学校の体育館では、新設女子ソフトボール部が早朝から活動している。館内二階にあるランニングロードで行った一時間完走と、基礎体力向上を図る三回分のサーキットを終えた現在は、一階に戻ってキャッチボールをしている。だが、もう既に脱落者が出そうな雰囲気が漂っており、皆の息は上がりっぱなしだ。
「みんなぁ~声出してぇ~……」
キャプテンの清水夏蓮から何とか吐き出された声掛けだったが、それに返事をする者はいなく、体育館シューズの音ですぐにかき消されてしまう。足腰はパンパンで立っているだけでも辛いなか、必死にボールを投げては受け取っており、喘息を患ったような息遣いが続いていた。
中島咲と共にキャッチボールをしている夏蓮の隣には、新しいグローブを早速使っている東條菫と菱川凛の二人組みがいるが、疲れのあまり新しいグローブを使用している喜びなど感じておらず、苦い顔をしながらグローブの音を鳴らしていた。
「凛、体調は、大丈夫?」
「菫こそ、大丈夫なの?」
凛の貧血を心配しての言葉を放った菫ではあるが、その辛さを抱えた言葉は反って相手からも心配されるものとなっており、不安な心のキャッチボールをしているようだった。
二人に続いてその隣にはメイ・C・アルファードと植本きらら、最後尾には星川美鈴と牛島唯と並んでコンビを作っていた。キャッチボール前には、唯たち三人の新しいグローブで少し盛り上がっていたが、それも束の間、今は菫たち二人と同じように新しいグローブには誰も反応していない。
「さぁ来~い……もう、疲れたにゃあ……」
昨晩グローブを買ってもらったきららは、黄色の大きな外野用グローブを膝に置いて屈み、苦しそうに嘆いている。こんなキツい練習、とっとと終わりにして家のベッドに入って寝たいと、正直な想いを胸に秘めていた。
「あーッ!!きららちゃん先輩!!ボール行きましたよ!!」
「にゃあ?」
メイの必死な声が届いたときにはもう遅く、倒れそうなきららの顔すぐ横にソフトボールが通過していた。
「……め、メイシー危ないにゃあ!!投げるときは投げるって言ってにゃあ!!」
「言いましたよッ!!きららちゃん先輩だって、来いって言ってたじゃないですか!!」
「にゃあ?」
惚け始めたきららの後ろではソフトボールが転々として音を経てており、軽く謝りながらすぐにボールを拾いに走っていく。
何とかみんなの様子を気にしながらキャッチボールをしている夏蓮は、今の雰囲気があまり良いものではないと感じていた。みんな疲れているのはわかるが、だからっていい加減にやっていい練習ではない。
前方からは、部内で一番元気である咲からも辛さを見てとれるなか、夏蓮には徐々に不安な想いが募ってしまう。
『一回、中断した方がいいかな……』
やっぱり、この過酷な練習内容は無理だったのかもしれない。そう思い始めた夏蓮は咲からボールを受け取ると立ち止まる。
「あれ?夏蓮!?」
咲から不思議がる声が放たれるが、夏蓮はみんなの苦しそうな様子を眺めていた。気の緩みは怪我のもと。このままでは反って、誰かが怪我をしてしまうかもしれない。ここは一旦休憩して、もう一度切り替えて練習に望もう。そう思って声を掛けようと、息を吸い込んだときだった。
「美鈴、早く投げろッ!!」
夏蓮の吸い込んだ空気は音も無く、小さな口から静かに吐き出されてしまう。小さな驚きを抱えながら奥を覗いてみると、その最後尾で唯の、自身が持つ黒いオールラウンドグローブを構えている姿が目に映る。
「唯ちゃん……」
悪口にも聞こえてしまう唯の発言は、夏蓮だけでなく辺りの選手からも視線を集めて停止させていたが、一人美鈴だけは焦りながらボールを返していた。
「ご、ごめんなさいっす!!」
美鈴の発言が終わる頃には返球を受け止めた唯は真剣な表情を変えずに、後輩である彼女に向けてグローブの先端を突き出す。
「まだ、練習始まったばっかりだろ!もうへばってたら、お先真っ暗だぞ!」
「は、はいっす!!」
もうヘトヘトな状態になっている美鈴に喝を入れるような唯は、すぐにボールを右手に持ち換えて力の籠ったボールを投げていく。
唯を端から見た印象はあまり良くないとほとんどの選手が感じていたが、キャプテンの夏蓮だけは頬を緩ませながら眺めていた。言葉は確かに荒く厳しいものであり、高い身長から投げ下ろされる豪速球は悪意すら感じさせるものだったが、決して後輩に対するイジメ行為ではないことは、彼女と中高いっしょの学校で育ち、内面は優しさを備えていることを知っている夏蓮にはわかっている。
「唯ちゃん、スゴいなぁ……」
自分だってこの練習内容はとても辛く、いつでも諦めそうになっている。たとえ経験者であろうとも、久しく運動なんてしてこなかった分苦しさは倍増している。そんな状況はみんなだって同じはずである。隣で汗を流す菫や凛、さっきから悪送球ばかりでキャッチボールが捗っていないメイときらら、何度も膝に両手を着いてしまう美鈴、そして目の前にいる、同じく経験者の咲だって声を出す余裕も無さそうだ。
しかしその中で、唯の表情は辛さを乗り越えようとする努力の顔をしていた。今日の彼女の様子は確かにどこか違和感を覚えるが、それは決して悪いイメージではない。
バシッ!!
「いっ……ナイスボールっす~……」
「美鈴、続けていくぞ!さぁ来い!!」
「りょ、了解っすーッ!!」
痛そうな顔をしながらも美鈴は、先輩である唯に言われるがままにボールをすぐ返していた。ソフトボールなど愚か、部活動にすら今まで所属していなかった唯が、夏蓮には彼女がキャプテンのような頼りある姿さえ見えしまい、自分が主将であることを忘れて眺めていた。
「か~れ~ん!!どうしたの~!?」
ボールを持ったまま投げない夏蓮の前方からは咲の声が轟くが、キャプテンは変わらず、唯に温かな視線を送り続けていた。
「……よしッ……みんなぁーー!!」
笑顔になった夏蓮はふと、口許に右手のひらとグローブを添えて大声を吐き出す。唯の動きすらも止めたその声に視線が集まるなか、笹二のキャプテンは更に明るい笑顔を見せていた。
「あと五分!!唯ちゃんのように、集中して頑張ろう!!そしたら休憩だよー!!」
「「「「はいッ!!」」」」
夏蓮の笑顔をきっかけに、個々の選手たちからは大きな返事が返された。その理由は様々であり、中には休憩という二文字を聞いたことで喜ぶ者もいたが、それ以上に唯のことを踏まえたキャプテンの仲間思いの発言が掻き立てていたようだ。
「……菫、行くよ!」
「あ、うん!凛、ここだよ!!」
唯の方を見て少しボーッとしていた菫を呼んで構えさせた凛は、手のひらに収まらない大きなソフトボールを投げ始める。
「もう少しで休憩にゃあ!!メイシー!!ジャンジャン投げるにゃあ!!」
「じゃあ行きますよー!!」
「来いにゃあ!!ミスズンも唯のボール、頑張って捕るんだにゃあ」
「は、はいっす……」
「あッ!!きららちゃん先輩!!ボール行きましたってぇーッ!!」
「にゃあ?」
隣の美鈴に笑顔で話したきららだったが、再びメイが投げたボールは耳元を掠めるようにして通り過ぎていき、地毛である茶髪を揺らしながら、後ろに転がったボールを追いかけていく。
そんなきららの姿を目の当たりにした美鈴は、苦笑いで彼女の背中を眺めていると、今度は前方の唯に視点を換える。元気を取り戻したように笑顔を見せながら、左手にボールを持って頭上に掲げる。
「唯先輩!!行くっすよー!!」
「おうッ!!とっとと投げろーッ!!」
真剣そのものの恐い顔をしていた唯だが、美鈴は嬉しそうな顔を見せながら左腕を降り下ろし投げていく。
場の明るさが戻ってきた体育館、みんなの様子を伺っていた夏蓮だが、特に唯の直向きな顔が目に焼きつく。新しいグローブを着けたことで気持ちが変わったのかはわからないが、彼女がリーダーのように引っ張って見えるのは確かだ。それは自分よりも頼りがいのある背中で、こっちまで任せたくなるくらいだ。こんなことを考えてしまったらキャプテン失格と言われてもおかしくないが、揺るがない事実であることに間違いない。
『ありがとう、唯ちゃん……私も、頑張るから……』
「か~れ~ん~!!いつになったら投げるの~!?肩が冷めちゃうよ~!!」
咲の大声で我に戻った夏蓮は、ごめんねと笑いながら言いボールを投げ始めた。唯の頑張る理由はわからなくても、彼女の直向きさは評価したい。それがたとえどんな理由でも。
五分後、無事に館内キャッチボールを終えた選手たちは休憩に入ることとなるが、多くの者たちが和やかな雰囲気のなか体を休めていた。だがそれは、唯と菫を除いての話である。
◇◇◆
一方、体育館の外である屋根の下では『ピッチャー特訓』が始まろうとしていた。
投手である月島叶恵、舞園梓の二人は、マネジャーの篠原柚月に呼ばれて来た訳だが、二人が背中を合わせて眺める先には見慣れない用具が立っていた。
「……ネットなんて、あったんだ……」
ポツリと粒やいた梓の前方には、高さ約二メートル、幅約一メートル半の緑色ネットが立っており、その下には薄っぺらいホームーベースが置かれている。同じ大きさのネットは叶恵が顔を向ける反対側にもあり、二人の投手を挟むようにして設置されていた。二つのネットはそれぞれ等間隔の距離が取られており、二人の足元にプレート付きの人工芝を敷いていることでブルペンの環境を作り上げている。
見た感じだと新品なネットだと思い当たる梓だったが、すぐ後ろにいた叶恵は柚月へと顔を向ける。
「アンタ、これどこで借りてきたのよ?」
ネットを指差した叶恵が言った通りのことを考えていた梓は頷きながら、眼鏡を掛けるジャージ姿で、クリアファイルを抱き締めている柚月へと目をやる。このような大きいネットを見たことは、野球部が練習しているときくらいしか見かけたことがなく、時折訪れていた体育倉庫にも無かった代物だ。仮にこれが、今日遠征中の野球部から借りたものだとしても、雨の中でも平気で外に設置していることから、ここまで新品の輝きを保っているのはどうもおかしい気がする。
二人からは疑問を示す顔が向けられることとなった、部活中には珍しい眼鏡姿の柚月は静かに笑う。
「それは、ナイショよ……ウフッ!」
テレビで見かけるアイドルのような仕草で話した柚月だったが、彼女がそんな可愛らしい性格ではないことを知っている梓と叶恵はジメッとし目で見ていた。練習内容を平気で過酷なものにするのはもちろん、学校生活でモテモテの彼女は、ある日同い年の男子からラブレターを数通貰っていたが、それぞれ該当する男子たちの前で、笑顔を見せながらラブレターを破り裂いていたのは有名な話である。その篠原武勇伝は今でも続いているらしく、女子からしたら恐れ多いどころの存在ではなくなっていた。
そんな極限のあざとい一面を持つ柚月は一度咳払いをして、改めて二人に強気な目を見せる。
「さて、場も整ったみたいだから、お二人にこの三日間でやってほしいことを挙げてくね」
真剣ながらも女の子特有の高音を出す柚月は、最初に叶恵へと微笑みを向ける。
「じゃあ、まずは叶恵」
「スタミナ強化、でしょ?」
柚月の話した途端に叶恵がふてぶてしく答える。
「その通り!叶恵は走り込みと投げ込みをドンドンしてもらうわね。一日の投球数は、五百球以上で」
「はいはい五百ね……えっ、ごひゃく~ッ!?」
クールな面を維持していた叶恵は突如声を荒げてしまい、笑顔の柚月に大きな目を開いた顔を近づける。
「あ、アンタ!話と違うでしょうが!昨日は四百でいいって言ってたじゃないッ!!」
「ええ。昨日は、ね」
「はぁ!?」
声を震わせる叶恵だったが、柚月は決して笑顔を絶やさずに言葉を紡ぐ。
「高校ソフトボールの試合は、一日二試合あるのは周知のこと。そのくらい投げてもらわなきゃ、先発としてスタミナが持たないわよ~」
「アンタ……よくもそんな簡単に……」
「文句があるなら、もう先発させないからぁ」
「……このアクマ~……」
「ウフッ……よく言われるわ」
最後まで笑顔を突き通した柚月の前で、叶恵はがっくりと肩を落としていた。
「さて、次は梓ね」
柚月から恐ろしい笑顔を向けられた梓は、身の毛も弥立つ思いで固唾を飲み込む。
「梓は、まずはコントロール。スタミナは自身ありそうだから、投げ込みをメインにしてね」
「……やっぱり、五百……?」
できれば当たってほしくない予想だったが、梓が静かに尋ねると柚月の顔ににこやかさが増す。
「あら、察しが良くて助かるわ~さすがは梓ちゃ~ん。以上って付けてくれたらもっと嬉しいんだけどねぇ」
褒められた気がしない梓は大きなため息をついてしまい、叶恵と同様肩を大きく沈める。
柚月は平気で五百球と言っているが、実際この投球数はかなり凄まじいものである。実際の男子高校生でも、休日の投球数は平均では三百から四百の間であり、女子がそれ以下だということは言うまでもない。正直言えば、五百球とは投げ過ぎの部類に入るものであり、身体への負荷は相当のものである。
「……これ、絶対怪我するって~……」
失落してしまった叶恵の代弁者となった梓が粒やくと、柚月は微笑みながら目を閉じて顔を左右に振る。
「綺麗なフォームを心がければ大丈夫よ。練習後のストレッチ、アイシングだって、しっかりすれば問題ないわ」
「だけど……」
「安心しなさいって!……」
弱気な顔が晴れない梓だったが、柚月はその雲を払い除けるように、彼女の左肩に右手を載せて凛とした顔を近づける。それはさっきまでの、どこかふざけた顔つきではなく、真っ直ぐ相手の瞳を見る、鋭い視線だった。
「……それでもダメそうだったら、私が止めるから……」
柚月の真っ向からの言葉に梓は固まる。うちのマネージャーは無理強いをさせているだけではなかったようだ。しっかりと自分たちのコンディションを考慮しながら指示を出しており、投手のアフターケアのことまで考え、そして負傷という最悪の状況まで想定していたのだ。
「……柚月……」
梓が茫然としていると、柚月はふとため息を漏らしす。
「勘違いしないでよね。別に私は、アンタたち二人を怪我させようだなんて、これっぽっちも思ってないんだからさ……」
俯いていた叶恵も顔を上げてみると、梓から手を離した柚月は踵を返して二人に背を向けていた。
叶恵と隣合って柚月の背中を見つめる梓は、彼女の肩が少し低くなっていることに気づく。やりきれない、重い悲しみを背負ったような彼女の後ろ姿。するとその背中はため息と共に一度沈み、セミロングの黒髪といっしょにゆっくりと浮上する。
「……怪我の苦しみは、私が一番知ってるつもりよ。何年、怪我人として生きてると思ってんのよ……」
柚月の堪えるような小さな囁きは、叶恵と梓にしっかりと届いていた。柚月は小学五年生のときに、ソフトボールの試合中に大怪我をしてしまい、現在でもまともに体育に参加できないほど、充分に動かせない身体となってしまったのだ。辛いリハビリ生活を強いられて、やっと歩くことができたのは中学二年の三年前。それまでは車イスと共に過ごしてきた彼女は何とか耐え抜いて、以前とは衰えるが、動かせるの脚を再得することができた。しかし、どこか残念そうな表情をしていたのは否めなく、脚以上に失ったものの方が多いようだった。
それを間近で見てきた親友の梓は、柚月が今どんな気持ちでいるのか何となくわかる。柚月は、誰にも自分と同じような境遇になってほしくないのだ。取り返しなど求められない怪我をして、無惨に諦めてしまうことをさせないようにしている。だからと言って、それは練習を甘やかすこととは違う。選手個々の能力をしっかりと把握して、足りないものを補っていく柚月の指導法は、経験者の自分でも顔負けクラスのレベルだ。
怪我をしない程度に、ギリギリまで追い込むことによって、選手には力が備えられ成長する。
そんなことは現役選手なら誰もわかっているが、肝心な怪我との境界線を知らない者がほとんどであるから、怪我人は後を絶たない。しかし、そんなわかりづらい透明な境界線を、捨て身になって伝えようとしているのが篠原柚月。当時は自分のキャッチャーをやってくれていた、キャプテン候補でもあったあの彼女が言うことだ。きっと間違いないだろう。
ポン……
「ん?」
表情に明るみを増した梓は、右手を叶恵の小さな肩に置くことで彼女を振り向かす。
「やろう、叶恵。柚月のためにも、みんなのためにも。まずは行動を起こすところからだ」
凛とした前向きな顔で答えた梓だったが、一回り小さい叶恵からは冷たい視線が向けられていた。
「……そりゃあ、アンタの方が楽でしょうね。私は加えて走り込みもあるんだけど……」
「えっ、いやぁ~その~……」
叶恵の淡々とした言葉に、梓は狼狽えてしまい勢いがなくなってしまう。
折角、柚月の想いを汲み取っての発言は無駄に終わろうとしていたが、ふと前方から小さな笑い声が聞こえたため顔を向けると、華奢なマネージャーの肩は上下に微動していた。口許に手を添えて上品な笑い方が伺えるなか、すると幼馴染みの彼女はクルリと踵を返して微笑みを見せる。
「アンタ、どんだけ不器用なのよ~?」
「んご……ごめん……」
挑発気味にも見える柚月の笑みに、梓は強張った顔を下に向けて反らしていた。親友の顔が視界に入らなくなると、彼女の大きなため息が耳に届く。
「そりゃあ、キャッチャーやってた私の肩だって、よく凝った訳だわ。不器用でコントロール無いし、話す言葉まで意味不明で、文系のくせに国語はできないし……」
「そ、それは関係ない、で、しょ……」
ふと顔を上げた梓だったが、柚月の目を見た瞬間止まってしまう。少し俯く彼女の瞳は眼鏡越しでもわかるほど潤んでおり、太陽などない屋根と空の下で儚げに輝いていた。
「……柚月……?」
「ごめん、気にしないで……」
口許を震わせながら鼻を啜る柚月はすぐに背を向けると形に戻ってしまうが、梓はそんな彼女の想いを不器用ながら把握していた。きっと、思い出してしまったんだ。自分だって同じ選手として、バッテリーとして活動していたあのときを。
再び背を向けてしまった柚月からは小さなため息が出されており、梓だけでなく叶恵からも視線を集めていた。
「……ほら、じゃあ早速やるわよ」
雨の沈黙を破る叶恵の言葉に、梓は彼女の真剣な顔を見て頷く。すると叶恵は、ネット横に置かれていたボールケースを自分のプレート近くに運び出し、ボールを手に持って投球動作に入ろうとする。
「梓!」
「は、はい!?」
突如叶恵から鋭い視線をぶつけられた梓は、咄嗟に返事をして気を付けの姿勢になってしまう。
「突っ立ってないで、早くやりなさいよ!!アンタがやろうって言ったんでしょうが!」
「わ、わかりました!」
焦る梓も叶恵と背中を合わせるようにして練習を開始させることとなった。
呼吸が整った様子の柚月は振り返って、すでにボールをネットに何球も投げ込んでいる二人を眺める。真剣に取り組む姿勢を見せられているなか、ふと梓の真面目な顔を覗くことで頬を緩ませていた。
『梓の、バカ……なにが私のためよ……?まずは、みんなのためでしょうが……』
必死な顔で投球練習を始めた二人の左腕を、柚月は鬼のマネージャーらしくない瞳を輝かせて眺めていた。
◇◇◇
時刻はもうすぐ正午を指す頃、体育館ではピッチャー陣も含めてマラソンを行っている。柚月による、ダラケを決して許さない瞳に襲われるなか選手たちは必死に汗を流して、二階のランニングロードを何周も走っている。
体育館シューズの擦れる音、激しい呼吸の音、ときには女子高校生たちの悲愴な叫びも聞こえてくるなか、一人、顧問の田村信次は体育館入り口付近にある事務室に籠っており、選手たちが見えない場所で作業をしていた。
雨天を理由に、マネージャーの柚月から急遽仕事を依頼された信次は現在床に座りながら、丸めた新聞紙をガムテープで巻き付ける作業を行っており、ボール代わりとなるものを作製している。すでに大きな段ボール三つまで埋め尽くすことができたが、作業を止めようとせず、持ち前の微笑みと共に黙々と新聞紙を丸めていた。
コンコン……
「はーい!!」
事務室の乾いたノック音が響き、信次はドアに向けて大きな返事をする。すると扉はゆっくりと開けられていき、『虹色スポーツ』と書かれた作業服を纏う男性が、大きな段ボールを持ちながら登場する。
「ちわーっす。虹色スポーツでーす」
「おお、慶助!!待ってたよ!!」
侵入してきた虹色スポーツのアルバイター、大和田慶助に叫んだ信次は、作業をしながら満面の笑顔を向けていた。
「例のやつだ。ここに置いて置くぜ」
「うん!ありがとう!!」
信次に温かく見守られながら、慶助は大きく重そうな段ボールを、入り口の邪魔ににならないよう扉のそばに置いていた。
「ところで、何やってんだ?そんなの作って……?」
「業務委託だよ!うちのマネージャーに言われてさ」
「だとしても、ちょっと作りすぎじゃねぇか?」
信次が楽しそうに答えるなか、慶助は苦い表情をして部屋の環境を覗いていた。信次が作った新聞紙のボールは大きな段ボール三箱に敷き詰められていたが、その量は一箱あたり五十個以上であることが伺える。また、同じ大きさで空箱の段ボールがまだ二箱残っており、単純な性格の彼がその二つも埋めようとしていることは簡単にわかる。
もう充分ではないかと感じる慶助だったが、それでも下手な鼻歌を歌いながら作業を進めていく信次に、呆れるようにため息も漏らしていた。
作業を全く止めるつもりが無さそうな、終始明るさを保つ信次はふと声を鳴らす。
「これも生徒のためさ。教師は生徒のために、生徒は己の未来のために、だよ」
「なぁ、信次……」
「ん?」
手を止めない信次から顔を向けられた慶助は、少し暗い顔を見せていた。
「……前にも言ったけどよ、別に俺はお前を止めたりはしねぇ。だけど……そういう生き方、いつまで続けるつもりだ……?」
慶助の真面目な質問は信次を驚き顔にさせて、一度彼の手の動きを停止させてしまう。だが、それはすぐに微笑みへと変換されてしまい、慶助から顔を反らして作業を再開させる。
「慶助らしくない質問だね」
背中越しで返された慶助は信次の、そんな様々な傷を負っている背に声を添える。
「……人のためなんて、自分の身を滅ぼすだけじゃねぇかよ?」
「そうかなぁ?僕はそう感じないけどね」
「惚けんなよ!それで俺たちは、一度地獄を見ることになったんだろうがッ!!」
声を荒げてしまった慶助だが、背を向けている信次の温かな表情は変わらない。
「どうして続けんだよ?他人のために何かやったって、どうせ無視されて、何も返ってこなくて、終いには変質者扱いされるのがオチだって……そんなのお前が一番わかってるはず……」
「……慶助……」
興奮で口数が多くなっていた慶助の言葉尻は、信次の小さな一言で覆われてしまう。突然名前を呼ばれて狼狽えていると、背を向けていた信次は突如立ち上がり、身体ごと振り返って優しい眼差しを見せる。
「……慶助には、本当に感謝し、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だって、慶助が警察官辞めたのって、あのときの僕を守ったからだよね……?」
言葉を紡いだ信次の瞳から、大きな哀れみを感じてしまった慶助は目を反らして床を眺め唇を噛む。
「仕方ねぇことだろ、あれはよ……俺だって、真実を証明したかったんだから……」
高校卒業後、必死の思いで警察官になった慶助は、かつての記憶を思い出しながら拳を固めていた。喧嘩ばかりしていたバカな自分が、一生懸命勉強してなり得た警察官。人のために働きたいという想い、世の中を平和にしたいという願いを込めてなったのだが、それは儚くも、たったの一年ちょっとで失職することとなったのだ。
その理由は確かに、今目の前にいる信次が主犯と言われている、あの事件のせい。
当時は少年法に基づいて、まだ成人していなかった彼の名前は世に知れ渡ることはなかったが、巷では簡単に広まってしまい、彼は犯罪者扱いを受けていた。しかし、彼の行ったことが罪だと思わなかった慶助は猛反発してしまい、結果として警察官としての資格を失ってしまった。
あのとき大学生だった信次は、相当苦しんだに違いない。だが、それはこの自分も同じことが言える。警察官を辞職することになってから新たな職場を探したが、高卒である自分を喜んで受け入れてくれる企業などどこにもないのが現実だった。何度も面接をしては落とされて、その繰り返しが永久に続いていた。結局、まともな職には就けず、諦めてアルバイトをすることにして以来、今のフリーターに至ったのだ。結婚相手や親が他界している分それなりの誘通が効いているが、決して楽しい人生とはほど遠いものだ。
気がつけば、自分が警察官をクビにされた後の記憶を追っていた慶助は思考を止めて、一度舌打ちをしてみせる。心に暗雲がまだ残るなか、ふと前方から信次の穏やかな瞳を向けられていることに反応し顔を上げた。
暗い顔を止めない慶助は信次と目を会わせると、彼のニッと横に伸びていた口が開かれる。
「この生き方をいつまで続けるか、だよね……」
信次が自分の心情に気を遣ったように感じた慶助は黙り、彼の言葉を静かに待つ。すると、親友は笑みを溢しながら目を閉じてしまい、らしくない静かな声で囁く。
「……僕はね、命が尽きるまでやろうと思ってるよ。だって、それで誰かが笑ってくれるなら嬉しいじゃないか……」
言葉を終わらせた信次が目を開けると、慶助は満面の笑みを見せられてしまう。この男はどこまで御人好しなのだろうか。あれほどのバッシングを受けても尚続けるなんて、もう呆れてものも言えない。でも、それが田村信次なんだ。自分が一番知っている、世界でたった一人の親友の姿なのだ。
茫然と話を聞いていた慶助は鼻で笑うことで沈黙を破り、温かみを帯びた表情になる。
「やっぱ、お前には敵わねぇよ、バーカ」
「ああ!!バカとはなんだよ!!バカって言った方がバカなんだからな!!」
「それは子ども界での規則だ。大人のお前には適応されねぇよ」
「そ、そんなぁー!!」
ハイテンションのまま頭を抱え悩む信次が目に映るなか、慶助は頬を緩ませながら踵を返す。
「さてと、じゃあ俺は帰るぜ」
「え、もう!?せっかく来たんだから、牛島たちにも顔を会わせればいいのに!」
「昨日の今日だ。俺の顔を見て、悲惨な昨夜の出来事を思い出させたくねぇんだよ。それが大人の役目だ」
気取って淡々と答えた慶助だったが、内心はそう思っていなかった。昨夜は唯たち三人にグローブを買ってあげたものの、自分が働く店内で恐い想いをさせてしまったことを気にしている。今も引きずっていないか心配だというのが本音であり、一度顔を覗かせて様子を伺いたいのはやまやまだった。特に、唯のことは。
「慶助は、やっぱり優しいなぁ!人を見た目で判断してはいけないって、正にこういうことだよね!!」
「う、うるせぇ!」
後方から信次のちゃかすような話し方に、振り返った慶助はそのヤクザ風貌の顔を向けるたが、頬が赤く染まっていた。
「そ、それに他にも届け先があるんだ!仕事中の戯れは、アルバイターには御法度なんだよ!」
動揺を隠せなかった慶助だが、信次からは労るような顔を向けられる。
「そうか……じゃあ、お仕事頑張ってね!」
癒される心地よさを感じた慶助は、頬をもとの色に戻して緩ますことができた。自分たちは、恐らく世の中で考えたら、もうどうしようもない廃れた大人の一員だろう。教員として働く信次は違うと言われたとしても、少なくとも自分はそのはずだ。だが、お互いを思いやれる存在が一人でもいれば、こんなお先真っ暗な人生にも一寸の光が射してくる。それが、どんなに暗い闇に染まってしまった人生という路だとしても。
事務室の扉に手を掛けて開けた慶助はもう一度信次に微笑み顔を向けながら、静かに退出しようとする。
「お前も、頑張れよ……相棒」
「うん、またね……」
笑顔同士の交流は慶助がドアを閉じることによって途絶えてしまう。しかし、二人の微笑みは本日の天気に屈しないような明るさが宿り続けており、距離がありながらも心の温かさを交えていた。
笹浦二高の体育館を出た慶助は、すぐ目の前に駐車させていた『虹色スポーツ』と描かれた車に乗り込み、迷わずエンジンを鳴らす。
「よしっ!次に行くぜ!」
誰もいないワンボックスカーの中で呟いた慶助は、自身の気持ちに似せるようにして、車のアクセルを踏んで勢いよく校門から抜けていった。
◇◇◇
「お、おわったぁぁ~~~~……」
体育館では多くの選手たちが倒れているなか、キャプテンの夏蓮は仰向けに寝転びながら弱々しい声を漏らしていた。
午前の部の最後の練習であるマラソンを無事に終えた部員たちは、皆息が上がったままの状態であり、
床に苦しそうに寝転ぶ夏蓮やきららと美鈴、膝を床に着けて屈む菫と凛、立ってはいるが腰に手を添えて肩を上下に動かす梓と叶恵、小さなお尻をベッタリと着けて天井を仰ぐ咲とメイらがいる。だが一人、唯は小さく呼吸をしながら立ち竦んでおり、何かを考えているかのように俯いていた。
みんなの激しい呼吸音が館内に響くなか、唯一笑顔で立っている柚月は一度手を叩いてみせる。
「はい、お疲れさま。これにて午前中の練習は終了。これから一時間のお昼休憩に入りま~す」
明るみに言葉を放つ柚月だったが、悶える選手からは返答が全く無い。話すことすらままならないほど疲れているのだろう。柚月がそう思った矢先だった。
「ヨッシャァーー!!ご飯だぁーーッ!!」
突如声を張らせた咲は立ち上がり、とても嬉しそうな表情で万歳していた。
高らかに歓喜するオデコ少女に、柚月は引け目で視線を送っていたが、咲は早速倒れた夏蓮を起こして歩き出す。
「え、咲ちゃん……なんでそんなに元気なの……?」
「だって~ご飯だよ!ご飯!!もうお腹ペコペコだよ~!」
誰よりもご飯という言葉を愉快に叫ぶ咲は、ヘトヘトな夏蓮を引き連れて部員たちのバッグが集まった体育館端へと向かう。
他の疲弊した選手たちも引き付けられるようにして立ち上がり、自身のバッグをゴソゴソと漁る咲のもとへと歩き出していくと、柚月も後に続いていく。まだ始まったばかりの合宿ではあるが、ここまでのみんなは良くやっている。この気持ちで残りの日数を消化してもらい、大きく成長してほしい。
次々にバッグから取り出した弁当箱を開けていく選手たちの姿を見ながら、柚月は彼女たちに対する誇らしさを胸に、選手としての向上を密かに願っていた、その時だった。
「んな!……ぬああぁぁぁぁーーーーーーーーいッ!!」
部員たちが弁当箱を持ちながら座るなか、再び咲の叫び声が襲う。
「咲ちゃん、どうしたの!?」
そばにいた夏蓮が驚きながら尋ねると、咲はギミック動作で大きく開いた目を会わせる。
「……すれた……」
「え?」
いつも大きな声をを出している咲の言葉が珍しく聞き取れず、夏蓮は不審に思いながら聞き返す。
すると、目の前でガタガタと震えるお転婆娘は突然頭を抱え始め、自身のバッグの中身を覗いていた。
「どおしよおぉぉーーーーッ!!忘れたあぁぁーーーーッ!!」
悲愴の声を張り上げる咲が眺める先には、今朝母親から用意してもらったはずの弁当箱が、どこにも無かった。
皆様、今回もありがとうございました。
最近の夜は本当に寒いですね。活動時間が深夜の私にとっては、とてもじゃありませんが、手が悴んで辛い毎日です。また生まれつき鼻の悪い私は再び中耳炎になってしまいましたが、皆様も体調には御注意ください。
さて、咲ちゃんがお弁当を忘れてしまいました。食いしん坊な彼女は一体どうやって凌ぐのか、楽しみにしていてください。
それでは、また来週もよろしくお願いいたします。




