疑心暗鬼
ついに本日からは合宿がスタートするが、どうも天気は歓迎していなかった。
体育館に集合するみんなたち、すると柚月からは新たな練習メニューが組まれることとなるが、その内容はより過酷なものとなってしまい、選手たちを震え上がられてしまう。
一人除いて……
本日からは二回目の節に入ったゴールデンウィークでは一節目と比べて短いため、今日から家を出ていく旅行者が多く見られる。この託された三日間を楽しもうとする者たちが訪れる場所はそれぞれ、お散歩日和というに相応しい天気であり、恵まれた環境の下で心を癒していた。
そんな日本列島には数々の晴れマークが並んだ今日である。しかし、とある県だけは違った。
「ヌゥア~ゼじゃゃぁぁぁぁーーーーーーーー!!!!」
茨城県南の地域であるこの笹浦市にある県立高校、笹浦第二高等学校の体育館内に集まる女子ソフトボール部の一人、月島叶恵の大声が、どんよりとした空へと放たれる。
広い体育館の扉を開けている笹浦二高女子ソフトボール部員たちの前には、今朝からザーザーと冷たい雨が降り注いでおり、扉のそばには絶句する叶恵と、眼鏡と共に下を向く篠原柚月、その後方には悩める清水夏蓮と呆然とする舞園梓とまとまっており、更にその後ろでは、メイ・C・アルファードと東條菫と菱川凛、間を開けて植本きららと牛島唯と星川美鈴が並んでおり、皆同じように雨空を見上げていた。
扉の前には数匹の雀たちが雨のせいで飛び立てず雨宿りをして空を見上げているように、それぞれ固まって集合している彼女たちも黙っている。体育館内には誰もいないような静けさが拡がっているなか、無情にも外からの雨音のみが響き渡っていた。
自然の声が聞こえてくるこの空間で、キャプテンの夏蓮は空を見上げながら口を開ける。
「結構、長く降りそうだね……」
残念がるように呟いた夏蓮に、隣にいた梓は静かに頷く。
「今朝のニュースだと、この雨は今晩まで続くみたいなんだ」
「そっかぁ……せっかくの合宿なのに、残念だなぁ」
最後にため息を漏らす夏蓮は、その小さな体を丸めて肩をすくめ、とても残念がった顔を床に見せていた。
一方で、夏蓮と梓の後方でまとまる三人グループの一つ、菫たちも困った顔を空に向けていた。
一昨日には、同じ新しいグローブを購入した菫と凛は、昨日も練習が無くて御披露目することができなかった分、今日もグローブを使えないことに悩ましく見上げていた。
「また、新しいグローブはお預けか……」
ボソッと囁く菫の隣にいる凛は、姉のような彼女に寄り添いながら手を握る。
「仕方ない。明日ならきっと大丈夫だよ……」
空を見上げながら答えた凛だったが、眉間に皺を寄せている菫と違って、ほんわかな明るい顔を見せていた。
すると、凛とは反対側にいるメイは、ニヒニヒと怪しげな笑みを浮かべながら、横に大きく伸びた口を披露している。
「お二人さん。よろしければ、このワタクシがグローブを柔らかくして差し上げましょうか?」
よくテレビで映る悪徳商法を思わせるようなメイは、菫と凛の前で手ぐすねしており、不気味な眼光を放ちながら笑っていた。
「め、メイさん?どうしたの?」
「いやいや~何も考えてないですよ。新しいグローブの匂いを嗅ぎたいなんて、これっぽっちも思ってないんですよ」
明らかに本音を言ってしまっているメイに、菫は苦笑いをしていると、突如目の前に小さな少女の後頭部が現れる。
「り、凛?」
菫の前方で両腕を広げている凛は、その小さな体でメイから菫を守ろうとしており、メイのサファイアの目にキリッとした視線を見せていた。
「不審者には、貸さない」
「ふ、不審者とは失礼なッ!!」
突如メイからは笑みが消えてしまい、真剣な顔つきの凛に歩み寄り怒りに満ちた小顔を向ける。
「ワタクシはそんな卑劣な人間ではありませんよ!!せめて闖入者と言ってくださいッ!!ねぇ、菫もそう思いませんか!?」
「……あんまり、意味変わってないと思うけど……ていうか、メイさんよくそんな言葉知ってるね」
日本生まれと言ってもアメリカの方が滞在期間が長いメイは、目の前の凛と激しく火花を散らし合っているが、一方で菫はそんな幼い二人を見下ろしながら笑っていた。
体育館に少し明るさが帯びてきたところだが、もう一つのグループにいる美鈴も、菫たちと同じような悩みを抱えながらため息をつく。
「ウチらもせっかくグローブ買ったのに、ほんと残念っすね」
美鈴は暗い顔で下を向いてしまうと、隣にいる背の高いきららは膝を折って、同じ目線になって笑顔を見せる。
「そんなことないにゃあ。雨なら練習量が減りそうだから、むしろ嬉しいにゃあ。ねぇ唯?」
「……」
「唯?」
「……ん?ああ、ごめんごめん。そうだよな。俺もそう思う」
言葉の後に笑って見せた唯だったが、それを見ていた美鈴は彼女に違和感を感じていた。唯先輩がボーッとしてるなんて珍しい。しかも、相手がきらら先輩なのに……やっぱり、昨日のこと気にしてるのかな?
昨日はグローブを購入したものの、それまでの過程が問題だった。美鈴たちは釘裂高校の生徒であり、以前にも絡まれた女子生徒、赤髪の美李茅、青髪の風吹輝と名のる者たちと遭遇してしまい、終いには、唯と昔に付き合いがあるらしき人物、鮫津愛華と出会してしまった。暴力に発展し唯が傷つけられそうなところで、田村信次や大和田慶助ら大人たちに助けられたが、それ以上に心の傷を付けられていた。
唯と知り合いになったのは自分が小学六年のときであった美鈴は、先に中学校に行っている唯の友人関係の人物など見たことがない。しかも進学先がまた別の中学校であったため、唯の中学校生活には触れられず、彼女が何をしていたかなど知る由もなかった。
『一体、唯先輩には何があったんだろう?』
きららに笑顔を見せ終わるとどこか寂しそうな顔つきになる唯を、きららの背から目の当たりにした美鈴は考えこみ、尊敬する先輩である彼女の過去を気にしていた。
◆◆◆
「やぁ、みんな!!おはよう!!」
突如として体育館には、大きく高々な男声が響き渡る。
女子ソフトボール部員たちが揃って顔を向けた先には、顧問である信次が笑顔でおり、体育館の入り口からみんなのもとに歩いてくる。
「先生……どうしよう……」
キャプテンの夏蓮が今にも泣き出しそうな表情を浮かべているが、相変わらずのスーツ姿でネクタイを整える信次は笑みを止めずに立ち止まる。
「生憎の天気となってしまったが、とりあえず今日は、室内でできることをやっていこう!!」
信次の笑顔につられて頬を緩ますことができた夏蓮だったが、ふと叶恵がツインテールを揺らして顧問に身体を向ける。
「でも、できることって言われてもどうすんのよ?」
叶恵の疑問で夏蓮は再び悩ましい顔つきに戻ってしまった。この合宿では、マネージャーの柚月から予め練習メニューを組まれていたが、それはもちろん外での活動であった。それができない今、室内練習のメニューなど全く考えておらず、何をしたらよいのか検討がつかない。
不安に満ちた夏蓮は、今回の合宿を誰よりも大切にしていた柚月の、俯く背中を眺める。あんなにしっかりとしたメニューを考えた分、初日が雨だなんて、柚月ちゃんもかわいそうだ。さっきから喋らないし、きっと落ち込んでいるに違いない。柚月ちゃん……
「……フフフ」
ふと柚月の肩が微動したのが目に映った夏蓮は、あれ?と彼女の様子を再確認する。今、確かに笑っていたような気がしたけど、どうしてかな?それとも気のせい?
明らかに様子がおかしい柚月だが、彼女は突如動きだし、自身が持ってきた大きなリュックサックから一つのクリアファイルを取り出す。分厚くなっている中身からは線の入ったルーズリーフが束になって現れ、一枚一枚部員たちに渡していくと、落ち込んでいたように見えていたマネージャーからは得意気の表情が浮かんでいた。
「こんなこともあろうかと、雨天時の予定は作製してあるわ!」
そう告げながら部員たちに与えていく柚月は、最後に夏蓮の前に現れる。
「さすが柚月ちゃん!」
「笹二のマネージャーを嘗めてもらっちゃ困るわ。はい、どうぞ」
早速、目の下に隈が着いている柚月から一枚の真っ白なルーズリーフを差し出された夏蓮は、頼もしいマネージャーに笑顔を見せて受け取った。ありがとう柚月ちゃん。きっとこの裏に練習メニューが書かれているんだろうなぁ。これでみんなもひと安心だよね……あれ?
柚月の偉業を称えながら、ふと部員の様子を覗いた夏蓮は不思議な思いを抱いていた。どうもみんなの様子が固い。唯ちゃんは無表情だけど、きららちゃんと美鈴ちゃんは驚いてるし、さっきまで賑やかだった菫ちゃんたちも固まってる。叶恵ちゃんだって強張ってるし、隣の梓ちゃんも動かない。みんな、紙に書かれた練習メニューを見てなってるけど、なんであんな顔になっているんだろう?
ひきつった顔を見せているみんなから変な空気を感じた夏蓮は、今手にしている真っ白なルーズリーフを固唾を飲んで眺める。
「夏蓮?早く見てよ」
「う、うん」
柚月から急かされる言葉を受けた夏蓮はすぐにルーズリーフを裏返すと、彼女の目は飛び出しそうなほど見開いてしまう。
「え……ええぇぇぇぇーーーーーーーー!?」
先ほどの信次の大きな声でも逃げなかった雀たちが、夏蓮の一声で一気に飛び立ってしまう。
みんなの表情のおかしさにやっと気づいた夏蓮は、全身を震わせながら、微笑む柚月に真顔を向ける。
「柚月ちゃん、嘘ですよね?嘘だと言ってください」
「なによ?こんなの、そんな大したことないでしょ?」
「これのどこがですかぁ~!」
恐ろしさのあまり泣き出しそうな夏蓮は、震える両手で持ちながら練習メニューを再度確認した。
その紙には、一番上にタイトルとして『雨天時メニュー』と大きく書かれており、その下に箇条書きのように練習内容と時間が記されていた。
しかしその内容はなかなかなもので、まずは『一時間完走』、次に『サーキット×3』と並んでおり、『館内キャッチボール』、『守備基礎練習』、『インターバル走』、『体幹トレーニング』と続いていた。最後に『マラソン』と書いてあるところで午前の部は正午をもって終了。
一時から再開される午後の部では、まず『30分完走+』という意味深なメニューから始まり、『素振り』『打ち込み』、『筋トレ』、『ストレッチ』と並び、最後には一時間の『勉強会』が記載されて夕方の六時に終了。
それ以降の生活は前日のミーティングで言われた内容と同じで、一番下にはやはりあの言葉『量より、質より、両方!!』の太字がデカデカと載っていた。
どこをどう見ても走る内容が多く、外でのメニューよりも過酷さを感じている部員たちが黙るなか、一人、欠伸を漏らす柚月は微笑ましい顔をしながらみんなの前で仁王立ちしていた。
「みんなには、主に足腰の筋力を付けてもらうわ。まあこれくらいはできると思うから、へこたれないように頑張ってね」
眠そうな柚月がいとも簡単だと答えているようにしか聞こえなかった夏蓮は、そんな鬼のマネージャーに改めて不信感を抱き始める。この内容ならできるって、柚月ちゃんでいう限界ってなんなの?もう恐すぎて、予想がつかないよ……
「……生きてる間に、もっと美味しいものを食べてくれば良かった……」
ため息で肩と顔を落とした夏蓮は、これから引き起こされる過酷な未来を考えながら、自分が死することが頭に過ってしまっていた。
しかしキャプテンの予期は決して間違ったものでなく、周りの選手たちも共に驚き嘆いている。
選手たちが驚愕のあまり固まるなか、梓はふと柚月に尋ねる。
「ねぇ柚月……このピッチャー特訓は、室内でやるの?」
ルーズリーフに書かれた練習メニュー一覧の隣に、時間と共に書かれた『ピッチャー特訓』という文字に指差す梓だったが、その詳しい内容は昨日から知らされていない。
用紙を見る限りでは、この特訓は二節に分けられており、まずは午前の二時間、次いで午後の二時間半と記載されている。野手の選手たちが練習メニューを行う一方で、投手は外れてこのピッチャー特訓を受けるのだろうが、それ以上の内容はどこに載っていなかった。
すると、柚月は待ってましたと言わんばかりに頷く。
「それは外でやるわ。体育館の周りは屋根のお陰で濡れないし、そこに人工芝を敷いてやろうと思うわ」
「人工芝なんてあったの?」
「もちろん。学校からすでに借りてあるわ」
用意周到な柚月に感心する梓は、へぇーと少し驚いていた。だが、ふと隣に同じくピッチャー特訓を受ける叶恵が、何やら訝しげな様子で近づく。口許を手で覆いながら梓の耳に口を向けると、特効隊長は静かに声を鳴らす。
「アンタ、この特訓マジで覚悟しておいた方がいいわよ……」
「う、うん……」
危険を知らせるように話した叶恵の言葉を聞いて、梓は何がなんだか理解できないまま認めていた。多分、叶恵はもう柚月から内容を聴いているんだろう。でもあの叶恵が、あそこまで怖じ気付いてるなんて珍しい。その特訓って、一体何なんだろう?
叶恵が去っても疑問が残ったままの梓は、嬉しそうに微笑む柚月を見ながら考えていたが、恐らく投げ込みだろうと簡単に結論着けて終わらせた。
梓が話し出したことをきっかけに、辺りの選手たちの口がそれぞれ開かれていく。しかし、その声はどれも悲愴を帯びていた。
「うわぁ、容赦ないなぁ……凛、無理はしないでね」
「できるだけ、やってみる……」
自分のことよりも心配する菫に、ルーズリーフをしかめながら見て答える凛。
「ん~ん、これで本当に、ワタシの身長が伸びるのでしょうか……」
自分の小さな身長を危ぶみながら頭を掻くメイ。
「あんまりっすね……」
「もうやだ~!帰りたいにゃあー!!」
「……」
ため息混じりで答える美鈴に、用紙を持ちながら両手で頭を抱えるきらら、そして何も話さず無表情を貫く唯。
不平不満が飛び交う体育館では、選手たちがそれぞれの想いを声にして嘆いており、室内ですら雨が降りだしそうになっていた。
キャプテンでありながら、この練習メニューに手が震えている夏蓮はガックリと俯くなか、彼女の瞳からは光が消えかかっていた。こんなメニュー、運動神経悪い私に出来っこないよ。それにみんなだって強張ってるし、誰一人納得していないみたい。でも、これを否定したら、折角考えてくれた柚月ちゃんの気持ちを踏みにじることにもなっちゃう。柚月ちゃんだって、嫌がらせでこんなメニューを作ったわけではないってわかってる。でも……
顔を上げて選手たちの辛そうな顔を覗いた夏蓮は、この窮地を脱したい気持ちと、親友でありチームの強化のために努力する柚月への感謝の気持ちが交差してしまい、どうするべきか検討がつかなかった。
『誰か、助けて……』
絶望に染まりかかっていた夏蓮だったが、その刹那この笹浦二高体育館の入り口から、バタバタとした駆け足と激しい息遣いが近づいてくる。
「おっそくなりましたぁーーーー!!!!」
暗雲から一筋の陽を感じ取った夏蓮が振り向くと、入り口からは輝く額がこちらに猛ダッシュしてくるのが目に飛び込み叫ぶ。
「咲ちゃーーんッ!!」
大きなエナメルバッグとボストンバッグを入り口側に置いた中島咲は、駆け足で早速柚月の前へと向かう。
「あら、咲」
不思議そうに柚月が呟くと、息を荒くしている咲の顔がたどり着く。
「あのですね、今朝はしっかり起きたんですよ!起きたんですけど、アタシの妹である、にこのヤツがですね、なかなか起きてくれないもんで、起こすのに時間がかかってしまったんですよ!はい!」
最後に苦笑いをしながら低姿勢を見せる咲は、ふと自分のきれいな額を手のひらで撫でる。
「へぇー……んで?」
突如にこやかな表情を浮かべた柚月に、咲はビクッと電気が走ったように固まってしまう。
「で……それで、ですね、それから家を飛び出したのはいいんですけど、走っていたら小さな女の子がおりまして、なんとその子がなんとかわいそうなことに!傘を持っていなかったんですよ!ですから、このアタシがその子の家まで送って差し上げてました!だって、そんなずぶ濡れでかわいそうな女の子を放っておけるわけにはいかないじゃないですか~!?はい!」
長々と話した咲が最後に再び笑いながら額を撫でたところで、柚月はにっこり顔のまま練習メニューのルーズリーフを差し出す。
「はい、これ」
「あれ?怒ってないの?」
「いいからいいから、室内練習の内容を確認して」
「……うんッ!!」
いつもの輝きスマイルになった咲は、柚月から受け取ったルーズリーフを早速眺めるが、それも束の間、大きな丸い瞳を飛び出していた。
「なんじゃこりゃあぁぁーーーー!!」
咲の大声は、目の前で笑顔を見せる柚月の髪を揺らしていたが、マネージャーの笑みは止まなかった。
「咲ちゃ~ん!」
「お、夏蓮?」
すると咲の背中には、涙目で怯えている夏蓮が抱きつく。
「咲ちゃ~ん、助けて~」
自分より高い身長の咲にくっついた分小さく見える夏蓮だったが、泣きじゃくりながら切に願っていた。ここは咲ちゃんに任せるしかない。きっと咲ちゃんもこのメニューには納得していなかったはずだから、ここはバシッと部活経験者たる意見を言ってほしい。
中高と女子バレーボール部として過ごしてきた咲に夏蓮は涙ながら期待を寄せると、遅れてきた選手は笑顔で返していた。
「わかったよ、夏蓮。アタシに任せて!」
「咲ちゃん!」
ウィンクをして言い放った咲は、夏蓮に笑顔を取り戻させることができると、すぐに正面の鬼マネージャーに凛とした顔を見せつける。
「柚月ッ!!」
「はい?」
不思議そうに首を傾げる柚月に、ムッとした咲はルーズリーフの練習メニューに指差す。
「これ、どういうこと!?アタシ認めないからね!!」
咲の背中に隠れるようにしている夏蓮は、自分が望んでいたシチュエーションを見事なまでに再現していた咲に、多大なる信頼感が生まれていた。お願い、咲ちゃん。みんなのためにも、どうか練習メニューを変更してもらってください。
「何が気に入らないのよ?咲ならこのくらい出来ると思うんだけど……」
「い~や、これはおかしい!!」
困り果てた顔を見せた柚月の前で、咲は反抗精神を貫いており、夏蓮だけでなく選手みんなからも視線を集めていた。
「だって、これ……」
次々に言葉をぶつける咲を抱き締めている夏蓮は、願いと共に彼女をギュッと強く握る。
『お願い、咲ちゃんッ!!』
怒りがついに有頂天を迎えた咲は、夏蓮から期待を載せられながら、ついに自身の考えをぶつける。
「……勉強会が増えてるんだもん!!」
「そこぉーーッ!!!?」
予想もしていなかった咲の言葉に、夏蓮は思わず声を出してしまった。
周囲からは呆れ返った視線を集める咲は不思議そうな顔を見せていると、小さな夏蓮は咲の正面へと回り込み焦り顔を見せる。
「か、夏蓮?アタシ、変なこと言ったかな?」
「咲ちゃん、違うよね?そんなことを言いたかったんじゃないんだよね!?」
「だって、勉強会が晩ご飯を挟んでるんだもん!こんなんじゃ、折角のご飯が美味しく感じなくなっちゃうよ!」
どうやら夏蓮たちの期待は全くわかっていない咲が真剣に言うと、夏蓮はションボリと肩を竦めて歩き去ってしまった。
「え・み・ちゃん?」
「ん?」
突如柔らかな声に呼ばれた咲は振り向くと、そこには満面の笑みを見せる柚月が立っていた。笹浦二高のモテモテ生徒でもある彼女の笑顔は相手を引き込む力を持っており、完全に咲を落ち着かせる。すると、その麗しき唇がゆっくりと動き出す。
「あなた、遅刻しておいて、そんなこと言うの?」
「ギクッ!!やっぱ気にしてた!」
あくまで笑顔のままである柚月の言葉に、咲は片足を上げて両手を横に伸ばして、変なポーズをとってしまう。
「いいわよ。勉強会無くしても」
「ほ、ホントにぃーーッ!?」
「ただ、その代わり……」
共に笑顔になった二人だが、柚月は咲へと歩み寄り、髪をかきあげ口先を咲の耳元まで運ぶ。
「咲ちゃんには、それはそれは恐ろしい、脱落者多数の別メニュー用意してあげるからさぁ」
「ウッ!?」
咲には直接見えなかったが、柚月はさっきまでのきらびやかな笑顔を消して恐ろしい表情とトーンで話しており、咲の全身に震えが発生していた。
「勉強会ですッ!!はい!!ワタシ勉強やりたいですッ!!」
「あら、そぉお?」
気を付けの姿勢になった咲の返しに、柚月は再び眩い笑顔で呟くと歩き去っていく。前に選手たちを置く立ち位置に着くと、改めて気を引き締めた顔を見せつけた。
「さぁ、みんな!千里の道も一歩から!茨城の頂点を目指し、インターハイに行くわよッ!!」
「「「「……」」」」
柚月の鼓舞するはずの言葉には誰も返事をせずにいたが、苦い顔をしていた叶恵が一歩前に出る。
「……ほらッ!!早速やるわよ!!」
ルーズリーフをギュッと握りしめて、どこか無理をしているようにも見えてしまう叶恵だったが、確かに選手たちの注目を集めていた。
叶恵ちゃんは、ホントに努力家なんだなぁ。諦めてる私と違って……
一度小さな胸を張る叶恵を見た夏蓮は、再び柚月に渡された練習メニューを覗く。千里の道も一歩から……どこまでやれるかわからないけど、まずは踏み出す勇気だ。ここまで来たからには、柚月ちゃんの気持ちを蔑ろになんてできないッ!!私たちなら大丈夫ッ!!たぶん!
「み、みんなぁ!!」
叶恵のように一歩前に出た夏蓮は、自分の真剣な顔を選手たちに見せつけ注目を浴びる。
「まずはこの一日を、しっかり頑張ろう!!私たちなら、きっとできるから!!」
「「「「……」」」」
「あれ?」
折角の意気込んだ発言も無駄になってしまった夏蓮は、選手たちの不安に満ちた表情を目の当たりにしてしまい、徐々に眉をハの字に変えていく。みんなはやっぱり、やりたくないのかな?どうしよう……
暗雲が晴れない体育館では、今は沈黙の空気が流れており、誰の顔も上げられていない。
まだまだ新設したばかりの笹浦二高女子ソフトボール部には、早くも亀裂が入りそうな、そんなときだった。
「ほれ、早くやるぞ?」
ふと声が聞こえた選手たちは、まとまっている端にいた唯の、飄々とした様子に顔を向ける。
「唯ちゃん……」
キャプテンである夏蓮も意外な想いを込めて言葉を漏らすと、唯は不安がる選手たちに背を向ける。
「まずはユニフォームに着替えなきゃな。きらら、美鈴、行くぞ」
静かに告げて歩いていく唯は、入り口付近に置かれたボストンバッグの方へと向かっていく。
「……あ、唯待ってにゃあ!!」
「唯先輩、すぐ行きます!!」
名前を呼ばれたきららと美鈴も早速走り出し、唯を含めた三人はそれぞれのバッグを手に取って姿を消していく。
そんな三人の姿を見送った夏蓮は、少し頬を緩ますことができていた。唯ちゃん、ありがとう。未経験者のリーダーみたいに、みんなのことを引っ張ってくれて、私、ホントに助かるな。 今度は、私が残りの選手たちを引っ張らないと、だよね。
「みんな、やろう……」
体育館に残った、三人の一年生と四人の二年生たちが、体育館の入り口の方を見ている夏蓮に顔を向けられる。唯のおかげで微笑むことが続けられてるキャプテンは、今度は一人一人の顔を見ながら話す。
「まずは、やってみよう。確かに、練習メニューは想像以上に辛そうだけど、たった一人でも練習する人がいるなら、下手で運動音痴な私も頑張るからさ」
自身を蔑むように言ったキャプテンの言葉は、選手たちに少しの元気を与えているようだった。
「……菫、やろう?」
「凛……わかった。けど、ホントに無理はしないでね」
耳を澄まさなければ聞こえないくらいの声で言った凛は、心配し続ける菫に笑顔で頷いていた。
「ねぇねぇ凛!!ワタクシにも何か言ってください!!」
「あなたは何も考えてないし、それに経験者だから必要ない」
「そんなぁ~!!」
元気溌剌だったメイは、凛の僅かな冷たい言葉で悲しんでしまうが、そこには徐々に場の和みが生まれていく。
場が少しばかり明るく感じ始めた夏蓮は、良かったと心の中で呟くと、視線を感じて横を向く。するとすぐ近くには梓と咲が並んでおり、二人の顔からも雲が無くなっていた。
「やろう、夏蓮」
「やろうやろう!!勉強会始まる前に動き切んなきゃッ!!」
「って咲、眠る気でしょ?」
梓に呆れられたように突っ込みを受けた咲は苦笑いを浮かべると、夏蓮も笑うことができて心の軽さが戻ってくる。
「じゃあ、まずはユニフォームに着替えよう。それで体育館に集合で、予定通り六時から練習開始ね!」
「「「「はいッ!!」」」」
今日初めての揃った返事が返ってきたところで、選手たちは早足で、リュックサックやエナメルバッグ、ボストンバッグをそれぞれ持って、至急更衣室へと向かっていった。
◇◇◇
「やれやれ、夏蓮もまだまだ、キャプテンできてないなぁ」
体育館に残された柚月は、みんなが出ていった入り口を眺めて呆れたように呟くと、共に残っていた信次が笑う。
「でも、最後にちゃんとみんなのことをまとめたじゃないか!僕には、やっぱり彼女がキャプテンに見えるよ」
「どうだかね……」
苦笑しながらため息を漏らした柚月だったが、内心は自分の案が通ったことにホッとしていた。ちょっとやり過ぎたとは思ったけど、未経験者のみんなも認めてくれて良かった。意外だったのは、あの牛島さんが一番最初に認めたことだった。あのグループを引っ張ることがたいへんだと思ってたけど、どうやら助けられちゃったみたいだね。
唯とは今までにあまり関わりを持ってこなかった柚月は、そんな唯に改めて親近感を湧かせていた。
「でも、篠原もさすがだね」
「はぁ?」
隣で腕組みをする信次にふと名前を呼ばれた柚月は、不思議に思いながら顔を向ける。
「さすがって、どこが?」
「あの練習メニューだよ」
「あんな残酷なメニュー考えられるなんて、さすがだねってこと?」
柚月が悪乗り気味に尋ねるが、信次は笑いながら首を左右に振る。
「だって……」
信次はそう言うと、頭一つ分小さい柚月に優しい微笑みを見せる。
「……あの練習メニュー考えたの、昨晩だろ?しかも一人で、人数分を……」
二人の間には静かな一時が流れたが、柚月は自嘲気味に笑い再びため息をつく。
「……やっぱ、先生にはお見通しか……」
昨晩、帰宅した柚月は早速テレビを点けて、合宿当日の天気予報を調べていた。昨日まででは、この三日間は『晴れ時々曇』のマークで並んでいたのだが、どうもテレビの予報が変わっていたことに気づく。
『明日、雨なの?』
突如として現れたマークは雨を示す傘マークだった。すると柚月はすぐに信次の携帯に電話をして、合宿当日に『あるもの』を用意するように連絡する。
しかし、これだけで終わらなかった柚月は、晩ご飯も食べずに自室に籠って、夜遅くまで机の前に座りながら『雨天時メニュー』を急遽作製を始めた。
スクールバッグからオシャレな筆入れと、裏が真っ白な学級通信プリントを取り出して机上に置く。
『今回の目標は、みんなの意識改革……でも、能力の向上だって必要不可欠。それだとこの練習をしたい。でも、みんなができることなのかな?少しレベルを下げた方が……ん~ん、上手くまとまらないなぁ』
自分の理想の練習と、未経験者を考慮した内容がなかなかマッチングできない柚月は考えあぐねていると、時間は刻々と過ぎていき、自室の時計を見れば夜の零時を回ろうとしていた。
室内には母親からの、ご飯は食べないの?という心配した声も聞こえてくるなか、柚月は、大丈夫とだけ言い残して作業に黙々と取り組んでいた。雨だからって、一日たりとも無駄な合宿にはしたくない。みんなが上達するなら、いくらだってメニューなんか作ってやるんだから……
「できたー!」
一人の部屋でつい声に出して叫んでしまった柚月は、やっとの想いで『雨天時メニュー』を完成させる。嬉しさが込み上げてくるなか、早速プリントを人数分コピーするため、コンビニへ向かおうとしたときだった。
『いや、待てよ……』
ドアの部に手を伸ばしたところで固まった柚月は、ふと部屋に飾られている時計を覗く。
『深夜の一時じゃ、外出できないじゃん……』
柚月は、時計が指している時間を見ながら、唇を噛み締めていた。
この茨城県には『茨城県青少年の健全育成等に関する条例』という決まりがあり、十八歳未満の青少年による、夜の十一時から四時の間での深夜徘徊を禁止している。警察を始めとした大人たちに見つかってしまえば補導されてしまい、最悪の場合、訪れた場所の人たちにさえ罰金が課せられてしまう。
それを知っていた柚月は舌打ちをすると、再びスクールバッグからルーズリーフを取り出して机に向かう。こうなったら、全部手書きでやってやる。さぁ、こんな時間だと肌荒れが心配されるから、とっとと終わらせちゃおう!
その後、利き手の小指側の手を真っ黒にしながらもすごいスピードで書いていく柚月は、何とか人数分のメニューを作製し、こうして短い夜を過ごしたのだった。
そして今、寝不足で正直立ってるだけでも辛い柚月は、信次を隣にして、みんなが去っていった体育館の入り口を静かに見守っていた。
「あんまり無茶はしないでな。身体壊されちゃったら、それこそ一大事なんだからさ」
柚月のことを思った信次の優しい発言だったが、それを聞いた柚月は眠気に襲われながらも声を出して笑っていた。
「先生、心配症なんだから」
「僕は君の担任であり、そして顧問だよ。まだまだ足りないくらいさ」
「フフフ、先生は優しいね~。でもね、先生……」
笑っていた柚月はふと、隣の信次に身体ごと向けて強気な顔で言葉を紡ぐ。
「笹二のマネージャーは、そんなか弱い乙女じゃないわよ」
真面目に答えた鬼マネージャーの目には、信次から温かな微笑みと、全てを受け入れる頷きが映されていた。
「それと先生?」
「ん?」
「昨日言った物は、ちゃんと持ってきた?」
「うん!!新聞紙とガムテープだろ?職員室にたくさん置いてあるよ」
「よかった……じゃあ、早速お願いがあるの。あのね、午後のバッティング練習に間に合わせてほしいことがあってね……」
誰にも聞かれない柚月の願いを最後まで聴いた信次は、いつもの笑顔で頷いて体育館から出ていった。
そんな彼を少しばかり頼りに思っている柚月は入り口を眺めながら、たった一人の顧問に温かな気持ちが生まれていた。
『ありがとう、先生。頼んだわよ……』
体育館でついに一人となってしまった柚月は、選手たちが来るのを今か今かと待ち望んでいた。
◇◇◇
「ん~……」
「菫、どうかしたの?」
更衣室でユニフォームに着替えている菫は悩ましい顔をしながら、すでに着替え終えた凛の隣で腕組みを見せていた。
「なんか、牛島先輩の様子が、いつもと違う気がしてさ」
守備ではショートを守る菫は、隣のポジションであるサードに務める唯を思い返しながら、今日の彼女に変な違和感を覚えていた。なんか全然元気がなかったみたいだし、いつもなら愚痴の一つや二つ漏らしているはずなのに……
普段は見せない唯の落ち着いていた様子を、どうも無視できない菫が凛の隣で考え込んでいると、ふと二人の間に割り込むようにして、元気が有り余る金髪の幼女が出現する。
「そうですそうです!!いつもの唯ちゃん先輩だったら、ギャー!とか、ハァー!とか言ってるはずですからね」
「それはアナタでしょ」
呆れた凛からは冷酷な突っ込みを受けてしまった、まだユニフォームの半ズボンを履ききっていないメイだったが、彼女はエヘヘと頭を掻きながら笑っていた。
「それにさ……」
場の和みが生まれた三人かと思いきや、菫だけは浮かない顔をしながら呟く。
「……唯先輩やきらら先輩、それに星川さんにも、なんか距離置かれてる気がしちゃってさ……」
菫の言葉にメイの笑顔は消えてしまい、凛も俯く菫を悲しげに眺めていた。
現在この更衣室にいるのは、残念ながら女子ソフトボール部全員ではなかった。体育館に残っている柚月はもちろんだが、菫が言った三人の姿は室内にはなく、本日も別室で着替えている。
そんな唯たちがいつも揃って女子トイレで着替えていることを知っている菫は、今度はそんな三人のことを気にすることになっていた。練習のときとかは全然感じないけど、この着替えるときはどうしても考えてしまう。先頭を切って連れていく牛島先輩、それに笑顔で続いていく植本先輩、それに同学年なのにまだあまり話したことがない星川さんまでいない。決してあの三人に不信感を抱いてなんていない。でも……
すると菫は、落ち込んだような顔をしながら脳内で呟く。
『……もしかして、私たちのこと、嫌ってるのかな?……』
疑心暗鬼になりかけている菫は固まってしまい、隣でメイと凛から不思議そうに眺められていた。
「そんなこと、ないと思うよ」
ふと声をかけられて、自分の心を見透かされたように感じた菫はすぐに顔を向けると、少し離れたところにキャプテンの夏蓮がハイソックスを上げていた。脹ら脛から勢い良く延ばして膝まで持ち上げたキャプテンからは優しい視線が送られており、菫は自然と顔を向ける。
「唯ちゃんたちは、悪い意味で距離なんか置いてないよ」
「夏蓮先輩……どうして、そう思うんですか?」
不思議な顔をした菫は質問すると、夏蓮は真ん丸な笑顔を向ける。
「唯ちゃんってね、みんなが思ってる以上に、いい人だから。ねぇ、叶恵ちゃん?」
菫から笑顔を反らした夏蓮は、隣でユニフォームのボタンを閉めている叶恵に尋ねる。
「ま、まぁそうかもね。バカにしてくるときは別として……」
ムッとした様子で叶恵は答えると、今度は帽子を被った梓が、茫然とする菫に近づいて口を開ける。
「唯もきららも、いろいろ問題あるヤツらだけど、悪い人じゃないのは確かだ。私が保証する」
菫の前に立った梓は自信を持った表情で答えており、あの二人を後押ししていた。
「へぇ、そうなんだぁ!」
すると梓の後ろでは、まだユニフォームの半分にも着替えていない咲が、アンダーシャツから右腕を通しながら呟く。
「てか、梓ってあの二人のこと詳しいよね?なんで?」
「いや、ちょっと前にさ……」
疑問を表情にも浮かべた咲に、答えづらそうな梓は人差し指で頬を掻きながら苦笑いを見せていると、まだアンダーシャツに片腕しか通していない咲が怪しげな顔をして近寄る。
「おや~?隠し事とはいけませんなぁ~……イテッ!」
すると咲は自分の背後にいた、すでに着替え終えた叶恵から空手チョップを頭にくらっていた。
「な、なにすんのよぉ?」
叩かれた頭を両手で撫でる咲は涙が出そうな悲しげの顔で振り返ると、仁王立ちした叶恵から厳しい視線を向けられる。
「遅刻を誤魔化そうとしていたヤツが、でしゃばってんじゃないわよ」
「ふ、ふぁーい……」
ため息混じりに返事をした咲だったが、二年生の選手たちは呆れを通り越して笑っていた。
「あ、あの……」
すると一年生の塊にいる菫が、二年生たちに向けて聞き返す。
「皆さんは、気にならないんですか?牛島先輩たちが、いっしょに着替えないこと……」
最後に顔を下げてしまった菫は、陰鬱な顔をしていた。
だが、ユニフォームを整えても微笑みを絶やさない夏蓮は菫の前に行くと、静かにしゃがみこんで、俯く菫と目を会わせる。
「か、夏蓮先輩……」
「菫ちゃんは、今こうやって唯ちゃんたちのことを思ってる。それって、とっても優しいことで、素晴らしいことだと思うよ」
「は、はぁ……」
突然自分のことで褒められた菫は返す言葉が見つからなかったが、夏蓮は一度目を閉じて、再びゆっくりと光る目を見せる。
「でもね、それはきっとあの三人もそうだと思うよ。特に唯ちゃんは、ね」
「えっ?」
キャプテンの最後の言葉が気になった菫の前で、夏蓮はニッコリとしながら立ち上がる。キャプテンと目を会わせていた菫も自然と顔を上げていると、小さな主将は輝かしい笑顔を放つ。
「唯ちゃんってね、このチームの中で誰よりも、相手のことを思いやる人なんだよ」
夏蓮の笑顔を真に受けた菫は言葉が出ず固まってしまうが、周りの二年生は皆和やかな様子が伺えた。先輩方の言うことが本当ならば、牛島先輩たちは悪い人たちではないんだ。これはきっと、あたしの偏見に過ぎないのかもしれない。そうじゃなかったら、練習のときだって、あのときの練習試合だって、明るく話しかけてくれたりしないもんね。
徐々に笑顔を取り戻してきた菫は、唯たち三人を思いながら帽子を被る。
『あたし、信じて待ってますからね……牛島先輩、それにきらら先輩、そして星川さん』
皆が着替えを済ませたところで、女子ソフトボール部員たちは退出していき、最後に菫が更衣室の鍵を施錠する。待ってればきっといつかは、牛島先輩たちと今よりも近づけるはずだ。どうしてトイレで着替えをするのかはわからないけど、今は三人を信じて待っていよう。
「よしッ!」
施錠を完了した菫は、自分のことを待っててくれた凛とメイたちと共に、明るい顔をしながら体育館へと駆けていった。
◇◇◆
「ドレスチェンジ完了にゃあ!!」
「ユニフォームもドレスなんですか!?」
笹浦二高の一階にあるきれいな女子トイレでは、すでにユニフォームを着替えたきららと美鈴が洗面台の前で話していた。
ガチャ……
奥の方にある女子トイレのドアが開けられると、中からはユニフォーム姿の唯が現れ、二人のもとへと歩み寄る。
「悪い、待たせたな……」
唯が告げた後、すぐに女子トイレから退出したユニフォームの三人は横に並びんで、誰もいない静かな廊下道を歩いていく。
唯ときららが隣り合いながら進んでいき、その後ろ姿を見上げてついていく美鈴はニヤつきながらじっと二人を眺めて歩んでいた。唯先輩もきらら先輩も、高い身長でモデルさんみたいだなぁ。特に唯先輩の、ユニフォームを腰パンして肌を一切見せない姿がとてもかっこいいし、とっても憧れるなぁ……
「美鈴……」
「あ、はいッ!!」
背中越しで名前を呼んだ唯は急に立ち止まり、首を回して美鈴と目を会わせる。
尊敬してやまない唯からの目にまだ慣れない美鈴は強張った顔をして気を付けをしてしまうと、ふと唯が少し悲しげな表情をしていることに気づく。唯先輩、やっぱ昨日のことかな? うちはもう気にしてないのに……
緊張がなくなった代わりに不思議さが増してくる美鈴だったが、目の前で辛そうな顔をする唯から小さな囁きを受ける。
「あのさ、いつもゴメンな……」
「え?……」
どうして唯が、いつもと言って謝ったのかわからない美鈴は疑問の瞳を開けながら先輩の彼女を見つめる。
「ど、どうしてですか?」
「美鈴は一年生だろ?同学年の東條たちとなかなかいっしょにさせてやれなくて、だからゴメンな」
「そ、そんなこと……」
普段は明るいきららすらも悲愴な表情で見守るなか、言葉が止まってしまった美鈴は俯く唯に心配する視線を送っていた。すると唯からは背を向けられてしまうと、再び大きな背中を見せられる。
「俺たち不良なんかとつるむよりも、ちゃんとした東條たちと仲良くした方が楽しいと思うぜ。もしも俺たちが嫌だったら、好きにしていいんだからな……」
そう言い残した唯は再び足を動かして前に進んでいく。
そんな唯にきららもついていくなか、一人取り残されてしまった美鈴はまだ動けずにおり、二人の徐々に小さくなっていく背を、今度は哀れんだ目で眺めていた。
『唯先輩……どうしてですか?』
突然遠ざけるように言われてしまった美鈴は茫然と眺めていると、二人の姿が曲がり角で消えてしまう。確かに昨日のことは衝撃的だったし、唯先輩たちに何かあったのかと考えてしまうくらい怯えた。でも、うちはそれでも唯先輩が大好きだ……とても、とっても……だから、うちはついていきますよ。お二人が周囲からどんな目で見られていても、うちだけは絶対に離れません。たとえ東條や菱川、メイと仲良くなれなくても、うちは唯先輩のもとにい続けますから。
真面目な表情になった美鈴は再び動き出し、誰もいない、音も聞こえない廊下を駆けていき、二人の先輩たちの背中を全力で追っていった。
皆様、今回もありがとうございました。
プレミア12、日本は決勝に行けず残念でした……今度はWBCでぜひとも巻き返しを期待しております。
さて、少しチーム内の亀裂が出てきましたが、合宿は無事に終わるのでしょうか?
合宿は高校時代私もやりましたが、意外と衝突することが多いものなんですよ。でも、本音をぶつけ合う分、絆はより強くなっていくものです。一種の青春ドラマを思わせる練習漬けの日でした。
さぁ来週からやっと練習スタートです。引き続きよろしくお願いいたします。




