量より、質より、両方!!
柚月から渡された、明日から行われる合宿内容には、誰もが納得できない様子でいた。まるで部員たちをいじめているような過密スケジュールであるが、そこには柚月、そして信次による確かな意図が存在していた。
「―ということで、今回の合宿テーマは意識の高め合いよ。練習は今説明した感じでやっていくから、皆さんヨロシクね~」
パソコン室の前方にある、黒板代わりのホワイトボードの前で、マネージャーの篠原柚月は着席する部員たちに、きらびやかな笑顔を見せて立っていた。
部員たちの座る机にはそれぞれ、先ほどマネージャーから渡された一枚のプリントが置かれており、皆頭を下げて見ている。その内容は柚月によって簡単な説明をされたものの、誰一人として納得している様子はなく、目が点になっている者、開いた口が塞がらない者、顔をひきつって苦笑いをする者と多岐に渡っていた。
「ゆ、柚月ちゃん……これは、正気でしょうか?」
黙りこくる部員のなか、始めに口を開いたキャプテン清水夏蓮は、そのあまりにも恐ろしいスケジュールを作成した柚月と顔を会わせて、ゴクリと固唾を呑み込んでいた。
「正気かって、当たり前じゃない。これくらい、こなしてもらわないと、仙総は愚か、今の筑海にすら勝てないわよ」
ため息混じりで柚月は言うが、固い表情の夏蓮はその顔を変えずに、再び過密スケジュールの内容に目を通した。
横文字で箇条書きのように書かれた手書きスケジュールは、まず一日目の内容とその活動時間が上からズラリと記されており、二日目の練習開始時間までが載っている。合宿は全部で三日あることから、二日目からの練習内容は初日と同じであることは予想がつくが、正直当たってほしくない予想でもあった。そして最後の一番下の行には、黒の太字で『量より、質より、両方!!』と大きく書かれており、それは鬼のマネージャーらしい一言だった。
「朝六時から、練習スタート……ですか……」
机上にあったプリントを両手で持った夏蓮は、スケジュール表で顔を隠すようにしており、今にも鼻先にぶつかりそうな距離を保って内容を見ていた。
夏蓮の言った通り、合宿初日の練習開始時刻は朝の六時からであり、学校集合時間はその三十分前と注意書きされている。その練習内容は、まず三十分完走から始まり、次にサーキット、ベースランニング、キャッチボールと続いていく基礎練習が並んでいた。その後の午前中は主に守備練習をメインとしており、短距離ノック、フィールディング、ケースフィールディングと進んでいく。正午になると一時間の昼食タイムが設けられているが、その後はバッティング、走塁練習、そして最後に筋トレと記載されており、練習終了時刻は夕方の五時半となっていた。
「ねぇ柚月?」
プリントのスケジュールを見ていた舞園梓は、疑問を抱いた表情を柚月に向けていた。
「この、練習内容の隣に書いてあるピッチャー特訓って、具体的になにをするの?」
ピッチャーの梓によって指差されたプリントには確かに、横文字で縦に並んだ練習メニューの隣には『ピッチャー特訓』と書かれた文字があった。みんなの練習メニューの隣にあることから、恐らくみんなとは別の練習を平行して行うのだろう。それがどの時間までやるのかは、縦に矢印が伸ばされていることから察しがつくが、それ以外の詳しい内容は書かれていなかった。
同じくピッチャーとして活動する月島叶恵も、梓の言葉につられてスケジュールを確認しながら厳しい表情をしていたが、柚月はフフフと笑みが溢れていた。
「それは明日になってからのお楽しみよ。覚悟しておいてね~」
「楽しませる気はないだろ……」
学校で何人もの男子のハートを射止めてきた、モテモテでありアイドルのような眩しい笑顔を見せる柚月からは、梓は彼女の裏の恐ろしさを知る一人として、はぁと大きく息を吐いていた。
「六時から正午までの六時間、一時から五時半までの四時間半かぁ……」
夏蓮の隣で座って苦い表情を浮かべる梓は、次に明日の練習時間を気にしていると、さらにその隣の中島咲も困った表情をしており、両手の指を折りながら数えている。
「……ということは、じ、十時間半っ!?」
前髪を上げてキラリと光るオデコを突きだした咲は、その額に多くの横線を引いて驚いていた。中でも隣で咲の様子を伺っていた梓は、このとき咲が数学を苦手とする理由が何となくわかり、呆れて物も言えず黙っていた。
「ったく、それだけじゃないでしょ」
柚月と同じくホワイトボードの前で立っている叶恵は呟き、左手でプリントを見ながら右手を腰に添えていた。マネージャーから少し離れた場所で咲に呆れたため息を漏らすと、そのスケジュール表を見ながら口を開ける。
「夕食の後に一時間の勉強会だってあるのよ。そこもちゃんと考慮に入れておきなさい」
「えっ……じゃあ十時間半に一時間、つまり十足す一で半……十ー時間半ーッ!?」
十を越したところで指が足らなくなった咲は、隣の梓の手を借りて数えると、さっきよりも大きな驚いた声を出していたが、梓からはより冷たい視線が送られていた。
練習が終わった後のスケジュールは、夕方の六時から食事、そしてお風呂と二時間の過ごし方が書かれている。そしてその後の八時からは、叶恵が言ったようにソフトボールの勉強会と記されており、九時からは自由時間となっているが、自由と言うよりも就寝と言った方が適当であった。
「ちょっとちょっと柚月!!これバレー部どころか、野球部より練習時間多くなってるよー!!」
ついに起立してしまった咲は、その困り果てた顔を鬼のマネージャーに向けていた。ソフトボール部に入部する前までは、女子バレーボール部に所属していた彼女も、部活動の合宿をいくらか経験してきたが、今回のような残酷極まりないスケジュールを目の当たりにしたのは初めてであり、テストでは毎回ワースト順位を争う咲ですら、この練習時間の長さは理にかなっていないと感じていた。
一方で、咲の悲壮そのものを表した顔を見せられている柚月だが、同情することは一切せず、呆れたようにため息を漏らしていた。
「他所は他所、家は家よ。バレー部にも、そして野球部にも練習時間では負けたくないわ」
「そ、それに!!起きる時間だって。これは不味いよー!!」
大人っぽい柚月からの発言のあと、何とか言い返した子どものような咲は、スケジュール表に書かれた二日目の起床時間の行を指差して、未だに呆れ顔をみせる美人マネージャーに指し示した。
「なによ……四時半なんて、普通でしょ?朝練やっている私たちにとっては、そんなに苦ではないと思うわよ」
細い目をして淡々と柚月が話すと、咲はものすごいスピードで顔を左右に何度も振っていた。
「四時半はダメだよ。せめて五時にしないと……」
「なんでよ?」
「き、決まってるよ。だって……」
柚月から冷徹な視線を受ける咲は、まるで恐ろしい事態を予想したかのように顔色を悪くしており、次の瞬間、両手を返して甲を見せつけながら、重く閉ざされた口が開けられる。
「四時四十四分は、オバケが出るよ~。うらめしや~……」
ガタッ!!
「ヒッ……」
咲がふざけているようにしか見えなくなった柚月は、もう彼女を見る気も失せようとしていたが、突如教室の後ろの方から机が叩かれるような音が響いた。その音に続いて窓際から微かな悲鳴が鳴っていたが、みんなはまず一斉に後ろの方へと顔を向け始める。
「ゆ、唯ちゃん?」
二度三度と瞬きをした夏蓮の目に映ったのは、植本きららと星川美鈴の二人に挟まれている牛島唯が、何故か立ち上がって固まっていた。
「ゆ、唯先輩?」
「どうしたのかにゃあ?」
双方からも声を受ける大きな唯だったが、彼女の大きく開かれた目はいっこうに閉じられず、徐々に冷や汗を浮かばせていた。
「……美鈴」
「は、はいっす……!?」
座っていた美鈴は、唯を見上げて不思議そうに聞き返した刹那、唯は美鈴の小さな両肩をギュッと掴んで顔を近づけると、後輩の彼女を前後に揺さぶり始める。
「お、お前!!まさか、知ってていつも早く来て、俺のこと起こしていたのか!?」
「な、なんのことっすか~!?」
「と、惚けるな!!お前朝練あるときは必ず五時前にピンポン鳴らしてっけど、それって四時四十四分に俺を驚かそうとしていたからなのかぁ!?」
「ご、誤解っす!!オバケが出るなんて知らなかったっす~!!」
「お、オバケオバケって何度も言うなぁー!!夜眠れなくなるだろぉー!!」
「唯、落ち着くにゃあ!それにミスズンは一回しかオバケって言ってないにゃあ」
長い黒髪とと共に荒れ狂った唯を、後ろから抱き締めて仲裁した困った顔のきららは、息も荒げている彼女に久しぶりのため息を漏らしていた。
きららが唯に対して呆れた顔をしてるのを初めて見た夏蓮は、ふと頭に過る言葉があった。
『あれ……唯ちゃんって、もしかしてオバケ嫌い?』
中学校から同じだった唯は、校内ではいつも問題児扱いされており、常に誰をも引き付けない恐ろしいオーラを放っているようで、よく校内の上級生、加えて他校の不良グループともめ事をしていたことで有名だった。しかし、彼女のあんな一面を見たことが無かった夏蓮は、なかなか着席せずに肩で息をする唯に疑問を抱いていた。
「……オバケ……お、オバケ……」
「菫?」
後ろで騒がしくしていた唯にただ一人背を向けていた東條菫に、隣にいた菱川凛は彼女が怯えているのに気づいて首を傾げていた。
「四時四十四分……四十四分……」
「怖いの?」
「ヒッ!な、なに!凛どうかしたの?」
ビクッと突然起き上がったように反応した菫は、先程教室に響いた悲鳴と全く同じ音を出していた。傍で顔を向ける凛に笑って答えるが、彼女の全身の震えは止まらず苦笑いにしか見えなかった。
「どうかしたのは、菫の方だと思うんだけど……」
「わ、私!?い、嫌だなぁ~。私は平気だよ~ハッハッハァ~」
頭を掻いて笑う菫だが、凛の疑心はいっこうに深まるばかりであった。小学校のときからずっといっしょに過ごしてきた凛は思い返してみると、ふと遊園地へ遊びに行ったときの記憶が甦る。
あれは当時小学六年生のときで、東條家に誘われた凛は共に同行した日だった。菫の弟妹である、当時小学一年生の椿、まだ幼稚園児の桜たちといっしょに様々なアトラクションを楽しんでおり、主に菫が先陣を切ってあっちこっち駆け回っていた。だが、唯ー彼女が入りたがらなく、近寄ることすら拒んでいたものがあった。それがオバケ屋敷。次のアトラクションに向かうときも、わざと遠回りしていたほどオバケ屋敷を避けていた。そんなとき、オバケ屋敷に入りたいと言い出した椿と桜の気持ちを汲み取って、結局オバケ屋敷に入ることになった四人。しかし、オバケ屋敷中には一人の少女の悲鳴が何度も響いており、逆にオバケ役のスタッフが驚いていたくらいだった。暫くして四人が出口から出てくると三人は、面白かったねと笑い合って出てくるなか、一番背の高いお姉ちゃんの菫だけが大泣きしていたのを覚えている。
『オバケ怖いよぉ~!!もう二度と入りたくない~!!』
あれから四年。そのオバケ嫌いは未だに解決できていない様子でいる、大家族の立派なお姉ちゃんには、凛は面白おかしくて笑いだしそうになっている。
「菫、かわいい」
「り、凛!?どういうことぉ!?」
「ううん、何でもない」
「もう、嘘はつかないって約束でしょ!?」
「うん、嘘はついてないよ。ただ、菫がかわいいって思っただけだもん」
「う~ん……何かバカにされてるようなぁ……」
小さな口を手で覆って笑う凛に、腕組みをする菫は納得のいっていない表情で渋い顔をしていた。
「ねぇねぇ、菫」
「ん?なに、メイさん?」
後ろから肩をトントンと叩かれた菫は振り向くと、その目の前ではメイ・C・アルファードが、両手の指を駆使して口を横に広げ、鼻を立て、目を大きく尖らせており、かわいいはずの金髪少女が化け物と化していた。
「うらめしや~……」
「ギャーーーーーーーッハッハッハ~……」
バタッ……
「す、菫!?」
正面から撃たれたように倒れていく菫を何とか後ろからキャッチした凛は、大声を上げた彼女が気絶しそうになっていることに気づく。
「菫……大丈夫?」
「フッ……フフフ……凛?今日からは四時四十五分に起きようね~……へへへ……あと、トイレ行きたくなったら、私もいっしょに行くから、遠慮なく言ってね~……はぁ……」
最後に安らかな笑顔を見せて目を閉じてしまった菫に、凛は心配に心配を重ねた表情で彼女を看取っていた。
一方で、お腹を抱えて脚をばたつかせるメイは、仰向けで先頭不能状態に陥った菫に指を差してゲラゲラと笑っている。
「どうですか~菫!!これは、さっき私の前でヘラヘラしていた罰ですからね~!!」
笑いが収まらないで話したメイの言葉は、菫には全く届いていない様子であり、凛の細い膝を枕にして安らかに眠っていた。
「ちょっと!」
「ん?凛なんですか?」
真剣な表情に変えた凛に顔を向けられたメイは、まだ笑い顔をしていたが徐々に収まっていく。
「なんでこんなことするの?菫は小さいときからオバケが嫌いなのに!」
「さっきの仕返しです!!ヘラヘラしていた菫が悪いんですよ!!」
「あなただっていつもヘラヘラしてるじゃない!オバケが苦手で、夜はまだ一人でトイレに行けない菫がかわいそうよ!」
「そんなの知りませんよ!!オバケが苦手なら、尚更やった甲斐がありましたよ!!」
「なんでそういう考え方しかできないの!最近はあまり無くなったけど、また菫が一人で鏡の前に立てなくなるじゃない!」
二人の小さな一年生の可愛らしい言い合いはしばらく続いていたが、凛から繰り出される言葉は完全に菫を苦しめているようにしか聞こえず、部員たちには菫が、大のオバケ恐怖症だということが簡単にわかってしまった。
「ほ~ら、そこの妖精諸君。静まりなさい」
呆れ顔の柚月によって沈静されたメイと凛は、お互い白い頬を膨らませながら睨み合っていると、最後にフンッと言って顔を背けていた。
「……で、なんだっけ、咲?」
「えっ……あ、えっと、だから五時は不味いと言うことで……」
すっかりオバケ騒ぎとなっていた教室で、柚月は依然として起立したままの咲に問いかけるが、彼女もポカンとしていたため話の内容を忘れていたようだった。
「悪いけど、起床時間は変えるつもりはないわ。寝坊した人には、私からペナルティを贈呈するから、覚悟しておくように」
真剣な顔で放った柚月からは、そのペナルティの内容はきっととんでもないことを考えているに違いないと、誰もが固唾を呑んで黙っていた。
「でも、いくらなんでも練習時間長過ぎだよ~」
いっこうに着席しない咲は、スケジュール表に目を当てながら呟いており、あまりの過酷な予定に不満を漏らしていた。
「……そんなの、当たり前でしょ……」
ふと、柚月から言葉が漏れると、彼女は先程よりも厳しい表情を見せており、不思議がる咲に鋭い視線が送られる。
「私たちが野球部になんて、負けるわけにはいかないでしょ……」
野球部を目の敵にするように重々しいトーンで話した柚月に、驚いていた咲は言い返す言葉が見つからず、そんなぁ~と感嘆するとストンと座り、ガックリと椅子の背もたれに腰をかけた。
柚月がどうしてこんなにも野球部を意識するのか……それは親友の一人である夏蓮には何となく予想はついていた。柚月ちゃんは小学生のときから野球クラブの子たちと争っていたのを覚えている。マイナーなソフトボールを軽視して、メジャーな野球を楽しむ男子たちを誰よりも嫌っていた。それは今も変わっていなかったんだね……
立っている柚月を見上げる夏蓮は、彼女がソフトボールに対する情熱は昔と変わっていないことを知って嬉しかったが、その反面、憎しみのぶつけ合いのようにも感じてしまう彼女の野球嫌いに少し残念に思いながら、暗い顔を下に向いてしまった。
「ユズポン!!異議ありにゃあ!!」
一旦静まり返っていたパソコン室には、今度は後ろからかん高い声が鳴り響く。顔を上げて確認した柚月は、意気込んで挙手しているきららと目が会い、地毛である長い茶髪を揺らしながら立ち上がっていた。怒った様子のきららは、不思議がる柚月を睨み付けていると、歯軋りを止めて声を鳴らす。
「ユズポンずるいにゃあ!!こうやって、きららたちを苦しめて、自分は練習やらないなんて!!そんなユズポンの卑劣な罠には引っかからないにゃあ!!」
「いや、卑劣って……ちゃんとみんなのサポートするわよ……」
何を言われるかと思えば、練習しない自分に対する嫉妬かと感じた柚月は、血が昇っているきららに呆れた視線を送っていた。
「私もですよ!!柚月ちゃん先輩!!」
今度は窓際から明るく元気な声が鳴ると、そこにはきらら同様、派手な金髪を揺らすメイが挙手して起立していた。目の前の机を両手でバンと叩くと、サファイアの瞳を鋭く光らせて柚月に言葉をぶつける。
「全体の活動時間が夜の九時までということは、どんなに早く布団に入っても、たったの七時間程度しか眠れないじゃないですか!!これじゃあ私の伸びるはずの身長も伸びきりませんよ!!」
「異議ありって、そこかい……」
部内低身長対決をしたら間違いなく優勝候補であるメイに、柚月はため息を漏らして眉間に皺を寄せていた。
「合宿の三日間くらい大丈夫よ。ていうか、六時間も寝れば平気でしょ……」
「いや!!私は認めませんよ!!最低でも八時間は欲しいところです!!じゃないと身長が伸びません!!」
「案外、コンプレックスだったのね……」
終了時間に断固反対の姿勢を辞めないメイは、瞳を青い炎を燃やすようにして眼光を放っており、このスケジュールに従う気など全くない様子だった。
世界と比較しても睡眠時間が短いと言われる日本人の、平均睡眠時間が約七時間弱となっていことは有名である。中でも、彼女たちの年齢層である高校生の理想的な睡眠時間は、約八~九時間と指定されているが、実際のところはこの時間を切っているのが現実である。理由として挙げられるのは、主に学校の予習復習、塾や予備校に通って帰宅時間が遅くなる、あるいは夜中遅くまで開いてあるコンビニなどに立ち寄ったり、真っ暗な空の下で友だちと遊び呆けたりするなどがあり、年々なかなか眠らない高校生が増えている。しかし、一方でアメリカの睡眠時間は、日本よりは多いと見られているが、高校生や大学生などの人たちは結構少ない時間であり、世界で比較するとあまり睡眠時間を摂れていない方である。
そんな睡眠時間が少ない二ヵ国を行き渡っているメイだが、この日まで一日八時間以上の睡眠を欠かしたことはほとんどない。朝起きるとまず身長を測るのが日課となっている彼女は、練習内容よりも睡眠時間の方が大切だと考えていた。
「そうか、わかったにゃあ~!!」
「今度はなに?」
再び腕をピンと挙げたきららに、もうウンザリしている柚月は彼女に冷たい視線を送っていた。すると、自信に満ち溢れた顔のきららは、挙手していた右腕を勢いよく前方に伸ばし、何歳か老けたように見える柚月に人差し指を向ける。
「ユズポン、みんなに練習をさせておいて、その間に信次くんとイチャイチャするつもりなんだにゃあ!!」
「はぁ?」
肩をガックリ落として開いた口が塞がらなくなってしまった柚月は、偉そうに言葉を続けるきららに、ただ呆然と立って眺めていた。
「まったく~、いかにもモテモテ娘が考えそうな発想にゃあ。これだから、最近の若い女子高生は恐ろしいにゃあ~フムフム」
「なるほど!!きららちゃん先輩のお陰で合点がいきましたよ!!だから、私たちの睡眠時間を削って、ナイスバディにさせないように仕向けていたんですね!!」
茶髪と金髪のビビッドダブルパンチをくらった柚月は、呆れに呆れて一言も言葉が出てこなかった。ふと、顔を横に向けると、事務机には顧問の田村信次が座っているが、先ほど渡したソフトボールのルールブックをすでに読んでおり、今の会話など全く聞いていない様子が伺われる。
「……クローホップと扱われていたツーステップの投球は、2012年から合法化された……なるほど~、色々な意図がありそうで面白いなぁ……ん?」
マネージャーが見ていたことにやっと気づいた信次は首を傾げて反応したが、柚月は顔を背けて、心の声と共にため息を吐き出していた。
『こんな男とは、まずナイわ……』
結局、不思議な顔つきの信次には一言も話さなかった柚月は、教卓に両手を載せて俯いていた。
「私は柚月ちゃん先輩の案には、断固反対です!!」
「ユズポン法案、反対にゃあー!!」
再びメイときららによるワンツーパンチを受けた柚月は、二人がふざけているようにしか感じなくなっており、静かに不審な視線を送っていた。それでも何度も騒ぐ二人には、マネージャーはため息代わりの深呼吸をして目を閉じると、一度自身の心を整理するように俯き、その刹那、真下にある教卓に向かって静かな声を鳴らす。
「みんな、よく聴いて……」
彼女の下を向きながらの発言は小さい音ながらも、幼い子どものように騒いでいたメイときららを黙らせていた。着席する生徒たち、そして横から信次からの視線を受けているマネージャーは、次の瞬間、彼女の鋭い目付きをした真剣な顔を上げる。
「……私たちと相手の間には、とても大きな格差があることは、さっきの試合を観てわかったでしょ?高校一年間という大きなブランクを抱える私たちが、仙総のような選手たちから、勝利をもぎ取るにはどうしたらいいか……それは、彼女たちを超える練習量、メニューの質、そして揺るがない根性よ!」
柚月に真剣なトーンで話された部員たちは、同じように彼女の話を真面目に聴いており、さっきまで煩かったメイときららも自然と着席して落ち着いていた。
二人だけでなく、このパソコン室にいる者全員から視線を受ける篠原柚月、すると、目を尖らせていた彼女はふと暗い顔を見せ始め、困ったように目線を再び下げてしまう。
「正直、今回のスケジュールは、私もやり過ぎかなって、多少思うことはあるの……でもね……」
今度は首を横に曲げた柚月は、腕組みをしながら優しく見守る信次に視線を向けていた。ニッと笑って見せる顧問に、柚月からも自然と笑みが溢れており、再び彼女の笑顔は部員たちに向けられる。
「……先生と相談したの。今回の合宿のテーマをどうしようかってね。最初は私が、能力の向上がいいと思ったんだけど、先生の意見を参考にして、テーマを意識の高め合いに設定したの……まあ、だからってこんな過密スケジュールにするなんて酷い、と感じてると思うけどね……」
相手に同情するように語りかけた柚月は、微笑みを保ちながらもどこか辛そうな気持ちも見てとれる顔をしており、すぐに視線を卓上へと向けてしまう。 てっきり今回の合宿内容は、マネージャーを務める柚月が全て決めていると考えていた夏蓮は、あまり他者とは共に作業しない彼女に、意外だと言わんばかりの顔で眺めていた。
ポン……
「!?……先生……」
暗い笑顔を下げてしまっていた柚月の肩には、大きく立ち上がった信次の手が載せられており、彼の自信溢れる微笑みが部員たちに向けられていた。
「篠原の言っているとおり、この合宿で一番大切なものは、みんなが頑張ろうとする意識、つまり心を手に入れることだと、僕は思う!」
選手たちの能力よりも、まずは練習や試合へ取り組む姿勢に重点を置いていた信次は、座る部員たちの一人一人の顔を見ながら笑顔を向けていた。
「どんなに辛い練習をたくさんやったって、その本人に取り組む心、ヤル気が無ければ遊びの方がよっぽどマシだ。でも、遊びのようなレクリエーション活動でないのが部活動!今後、君たちに衝突する数々の相手選手は、遊びのソフトボールなんかじゃあ勝てっこないだろう。それは、さっき試合を観た、賢き君たちにはわかるはずだよ」
信次が言っている試合には、キャプテンの夏蓮たちと同年代の、現在二年生の選手がちらほらと出場しており、その誰もが試合に貢献していた。当時は一年生のはずなのに、まるで歳上の先輩のようにしか見えなかった相手選手たちからは、自分たちとは違う次元にいるのではないかと錯覚させるほどだ。
座る部員たち、ホワイトボードに寄りかかっている叶恵、そしてすぐ隣で立ちすくむ柚月、皆同じようにどんよりした雲を顔から浮かばせていた。だが、そんな分厚い雲から太陽の光が射し込むように、信次の明るい笑顔が選手たちを照らし始める。
「だからこそ、僕たちに必要なのは、相手を超える能力の前に、しっかりとした心の土台を作らなきゃいけないと思うんだ!苦しい練習でも諦めない、そんな強くたくましい心があってこそ、人は大きく成長できるからね……なぁ篠原!」
笑顔の信次に振られた柚月は、小さく頷いていたが最後に苦笑いを見せて、少し申し訳なさそうに顔を下げてしまう。あの冷徹かつ残酷極まりない鬼の柚月があんな態度をとるなんて、長年共に過ごしてきた夏蓮、咲、梓の三人には珍しく見えて仕方なかった。中でもキャプテンの夏蓮は、マネージャーとして入部してくれた彼女にふと心を寄せていた。柚月ちゃんは、私たちを苦しめるつもりで、こんな合宿スケジュールを作った訳ではないんだ。じゃなかったら、柚月ちゃんが自ら頭を下げるような言葉を言ったりしない。この日程はきっと、上手な選手だった篠原柚月ちゃんが考えた最善の練習内容なんだろう。一見無茶ぶりに見えるこのメニューには、恐らく柚月ちゃんが相当な時間を割いて考えてくれたものに違いない。それに、何でもかんでも一人でやってきた柚月ちゃんが田村先生といっしょに考えて、しかもその意見をちゃんと汲み取って考えている。きっと、それだけ本気で私たちを強いチームにしようとしているんだろう……本当に、心強いいマネージャーさんだなぁ。
徐々に微笑みが溢れ始める部員たちが座るなか、キャプテンは一度周りの様子を伺ったあと、今度は柚月を支えるように寄りそう信次の、優しく光を放つ春の太陽のような顔を眺める。そして、田村先生もやっぱりスゴい人だなぁ。先生の一言が、部員みんなに笑顔をくれる。さっきまでバラバラだったみんなの目線や気持ちを、しっかりと同じ方向に向けさせるなんて、さすがは国語の教師だよ。よく失敗して、みんなからはあまり尊敬されている場面は見たことないけど、それでも生徒一人一人のことをしっかり見てくれている田村信次先生。そんな温かい心の持ち主である先生が、私のクラスの担任で、しかもソフトボール部の顧問までやってくれて、正直私は感謝しきれない。先生に会えて、本当に良かったよ。
プリント下部に習字の太字で書かれた『量より、質より、両方!!』の言葉を、夏蓮は微笑んで眺めることができていた。相手を超える練習量よりも、メニューの質よりも、まずは両方をやれるだけの根性が大切とも読むことができる一文からは、作成時、居合わせていなかったキャプテンは、マネージャーの柚月と顧問で監督である信次の温かな思いやりの心をひしひしと感じとっていた。
ガチャ!
ふと席から立ち上がった夏蓮は、踵を返して座る部員たちに明るい表情を見せる。同じ場面が繰り返されるこのミーティングではあるが、今回は先ほど以上に心が軽く感じながら声を発することができる。
「みんな、私たちならできるよっ!!」
小さな太陽であるキャプテンが最後に白い歯を見せて笑っていると、部員たちの緊張は解れていき、多くの者たちの表情は快晴に変わっていった。
「キャプテンの言うおりだね」
「うん!!夏蓮が言うなら、きっと私たちだってできるよ!!」
前席で座る梓と咲は、敢えて周囲に聞こえる声で話し合い笑っていた。
ポン……
「にゃあ?」
後ろの席では、さっきまで立っていたきららが座っていたが、隣からは唯の手が肩に載っていた。不思議そうな表情を浮かべる彼女はそのまま横を向くと、唯の強気が込められた笑顔が目に映る。
「キャプテンもそうだし、マネージャーさんの言うとおりだなぁ。まぁ少なくとも、ここの野球部よりかは上手くなるんじゃねぇの?俺も男に負けるのは、気が乗らねぇしよ。美鈴だって、そう思うだろ?」
「もちろんっす!!唯先輩の向かう所に、私、美鈴ありっす!!」
「っつうことで、きららもいっしょに頑張ろうぜ。お前の大好きな田村も、言ってんだからよ?」
「唯……」
目を潤ませるきららは、立派な大人の顔に見える唯の顔を確認すると、教壇で立っている柚月に視線を向ける。
「わかったにゃあ!!でも、ユズポン!!合宿中は信次くんとイチャイチャしてたら許さないにゃあ~」
「まだ、そこんところ引っかかってたんかよ……」
呆れた顔をする唯の隣で、きららは柚月に指を差していたが、結局最後には星の輝きのように笑みを出していた。
ポン……
「す、菫?」
今度は窓側の席で菫が、小さなメイの両肩を優しく掴んで、包み込むようにしている。驚かされていつの間にか起きていた彼女だが、お姉ちゃんらしい笑顔がメイに向けられており、互いの顔が寄せられていた。
「だってさ、メイさん。あとはメイさんが納得してくれれば、全部解決だよ」
笑顔で話した菫だけでなく、凛からも視線を浴びるメイは、腕組みをして考え込むようにしていた。
「う~ん……」
「大丈夫!身長は、しっかりゴハンを食べて、夜更かしとけせずに、ちゃんとした時間に眠れば伸びるから」
「……し、仕方ありませんねぇ。菫が言うなら飲み込みます。人事を尽くして天命を待ちましょう」
「ほんと!?良かった~!」
「す、菫!?顔が当たってます~!!」
嬉しそうな菫と恥じらうメイの頬が重なっているなか、凛からは冷たい嫉妬の目が向けられていたが、最後には菫の笑顔に負けて自身も微笑んでいた。
和気あいあいとした空気はこのパソコン室に広がりを見せるなか、目の当たりにしていた柚月も徐々に暗さが晴れていく。
「良かったじゃない、みんな認めてくれてさ」
ふと声をかけられた柚月が振り向くと、そこにはさっきまで信次が座っていた事務机に寄りかかる叶恵が、腕組みをしながらニッと笑っていた。嬉しさが込み上げてくる柚月は、そんな叶恵には言葉を返すことができなかったが、一度頷いて満面の笑みを見せて答えていた。
一時は合宿が進むのか危ぶまれたが、みんなの気持ちはどうやらまとまったようで、誰一人として陰鬱な者はいない。みんながお互いを支えあうようなこの空間では、それぞれの優しさ、強さ、そして勇気が体現されているようで、顧問の信次も無邪気な笑顔で眺めていた。
「ところで、先生?」
「ん?」
明るいトーンで話した柚月に、信次はそのまま笑顔を向けて話を聴く。
「朝食とかのゴハンって、もう献立とかは決まってるの?」
「……」
「先生?」
ふと柚月からは笑顔が消えるが、信次は固まったまま笑顔を崩さずにいた。微動だにしない顧問からは、ここまで協力してきたマネージャーには嫌な察しがついてしまった。
「……ま、まさか……」
バサッ!!
すると、スーツが靡く音をたてながら、信次は柚月の前で急に頭を下げていた。
「すまん!!頭に浮かんでなかった!!」
「……と、言うことは……」
顔をひきつる柚月だけでなく、あまりの突然さにみんなから注目を受けている男性教師からは、衝撃的な言葉が送られる。
「ゴハンは……今のところ用意していない!!」
「「「「え゛ぇーーーーーーーー!!」」」」
頭を下げて謝罪していた信次のもとには、とんでもない大きなリアクションが返されていた。声色的に皆が驚いていた訳ではないが、すぐに夏蓮、咲、メイ、そして美鈴までもが悲壮な表情を浮かべながら信次を囲んだ。
「ちょっと先生!!ゴハン無いってどういうこと!?」
さっきまでスゴいと思っていた教師への感謝心も束の間、夏蓮は今にも泣き出しそうな顔で声をぶつけていた。
「すまん!!本当にすまない!!」
いっこうに頭を上げずにいる信次が謝罪を繰り返していると、刹那、三方向からスーツを力強く握られて前後左右と揺さぶられる。
「先生!!それじゃあ私たち死んじゃう!!死んじゃうよー!!」
「そうですよ、信次くん先生!!私のナイスバディ計画はどうなってしまうんですかー!!」
「それはダメっす!!食があるからこそ頑張れる人生っす!!」
四人囲まれている信次ではあるが、遠くからは七人の女子高生たちが呆然として眺めている。悲壮や怒りの声が入り交じるこの状況から、ゴハンが無いことで血相を変えてしまった者たちがいかに食いしん坊なのかは、最早言うまでもない。
踏んだり蹴ったりのミーティングが終わりを迎えると、時刻は夜の六時を回っており、窓から見える五月の空は黒と僅かなオレンジが彩られている。
結局食事の件は、初日の昼食は持ち込み、それ以降は学校の調理室を借りて自炊することに決まった訳だが、荒れ狂った四人を取り抑えるのに十分近くかかってしまった。なかでも、その四人にもみくしゃにされていた信次は、現在事務机にうつ伏せになって倒れており、揺さぶりによる疲労感と、女子高生を敵に回してしまったことの後悔の念に駆られている様子で寝込んでいた。
何とか場が整ったところで、再び教壇にはマネージャーの柚月が立ち、着席する部員たちに声を鳴らす。
「それじゃあ、ミーティングはこれで終わり。今日はもう遅いし、明日も朝早いから、今日はこれで解散としましょうか」
「えっ!?今日は練習しないんですか?」
柚月が言葉を切らすと同時に、窓際からは菫から驚いた顔を向けられていた。
「え、ええ。明日に備えてね」
「そ、そうですか……残念だったねぇ凛」
「明日から使えばいいよ」
ため息混じりで隣の凛に話す菫は、残念そうな顔をしていると、気になった柚月は二人を見つめながら首を傾げていた。
「何か、練習しなきゃいけない理由でもあったの?」
「あ、いや、別にしなきゃいけないって訳じゃないんですけど……実は……」
と菫は頭を掻きながら言うと、スクールバックからグローブケースを取り出して、その中身からオレンジ色で輝くグローブが机に置かれる。
「……昨日、凛といっしょに新しいグローブ買ったんですよ……」
「お揃いです……もちろん自分たちのお小遣いで」
菫が置いた後に、隣の凛もいっしょになって鞄ならグローブを取り出し、新品の革の匂いを放つオレンジグローブを机に置く。
「「「「オーーーーー!!」」」」
何度も走り回る部員たちであり、今回も再び夏蓮と咲、メイ、加えて柚月と叶恵も菫たちのもとへと集まって、机置かれたオレンジ色の内野用グローブをまじまじと眺めて始める。
「せ、先輩方、近すぎではありませんか~?」
「およそ二十センチ……」
苦笑いする菫と真顔で距離を推測する凛の目の前では、瞳を輝かしてグローブを見つめる経験者の二年生たちが何度も感嘆していた。
「菫ちゃん凛ちゃん!!触ってもいいですか!?」
小さな子どものように目をキラキラとさせる夏蓮が言うと、菫は笑顔で答え、一方で凛は表情を変えずに頷いていた。
二人のグローブは夏蓮と柚月の手に渡ると、夏蓮は嬉しそうに口を広げながらグローブを回転させており、何度もきれいだと呟いていた。また、柚月はさっそくグローブに手を入れて型を確認しており、しばらくするとグローブを取り外して机上に戻す。
「まだまだ硬いから、打球とかは掴みづらいでしょうね。オイル塗ってる?」
「はい!なんかお店の人が優しい人だったみたいで、オマケして貰いました。早速昨日の晩、凛といっしょに塗ってみたんですよ」
「私のを菫が、菫のを私が……」
グローブを柔らかく、そして長持ちさせるためのオイルは必需品であり、その大切さは、経験者にはもちろん当たり前のように周知であり、二人がしっかりとグローブの手入れをしていることが聞けた柚月は更に嬉しそうに喜んでいた。
「グローブは、プレー中に一番近くにいる相棒だからね。我が子のように、ちゃんと面倒見るのよ」
「はい!」
新しいグローブで盛り上がる反対側の後ろ席では、唯たちも少し興味を持って耳を傾けていた。
「新しいグローブ、素敵にゃあ」
「あの二人、もう買っていたとは……先を越されたっすね」
「グローブねぇ……」
きららと美鈴が笑顔で語るなか、あまり浮かない顔の唯はふと、自身の鞄から長財布を取り出し、中身を開ける。すると、その中には千円札が一枚と、僅かな小銭が入っているだけで、大きなため息をついて肩を落としていた。
「野口が一人かぁ……これじゃあ全然足りねぇよなぁ……」
以前の練習で経験者たちが使うグローブについて調べた唯だが、一番頭に残っているのはその値段だった。最低でも五千円をするグローブは、彼女にとっては大きな出費となるはずで、購入するにはかなりの決意をしなきゃいけないと感じていた。手にいれたい気持ちはあるが、購入になかなか手が届かない唯は、今も静かに体育倉庫から汚れたグローブを借りている身であり、このときは菫たちがとても羨ましく感じてしまい、オレンジ色のグローブが眩しく見えるなか更にため息を漏らしていた。
時刻は夜の六時半となり、辺りは静かな夜を歓迎するように外灯が光を放っている。暗くあまり車の通らない路地裏では、部活のミーティングを終えて学校から出てきた唯、きらら、美鈴の三人が横に並んで歩いており、ゆっくりと帰路をたどっていた。彼女たちの履く革靴と地面が接する音は何度も一定に鳴っており、この静かな夜空に向けて放たれている。
「グローブかぁ……」
ため息から声を出した唯は、瞬く星たちを見上げながら歩いており、今日見た菫と凛の新品グローブが頭から離れずにいる。素人の自分でもわかる、あの新品から放たれる見えない輝きには、意識をボーッとさせてしまうような、一目惚れに近い衝動に駆られていた。
「買ってあげようかにゃあ?」
「いや、いくら金持ちのお前からでもわりぃよ。買うときは自分で買う……」
大豪邸に住むきららからの誘惑には乗らなかった唯だが、実際に高価なグローブを買える見込みが無いのは確かだった。実の母である牛島恵と暮らすことになってからは、収入源はもちろん母のアルバイト代しかなく、アパートの月の家賃や水道光熱費にばかり集中がいってしまうほどであり、裕福とは言いがたい生活を強いられている。しかし、唯にとってはそんな暴力のない家庭は初めての経験でもあり、死んでしまったと言われていた母が生きていたことで、この母子家庭という優しく温かい屋根の下に暮らせるようになったことには、心底幸せを感じていた。高校生である自分にだってアルバイトができるため、きっと御袋は俺にも働いてほしいと思っているに違いない。それでも、こうやって毎晩遅くまで部活をやることを許してくれている。それだけで自分は裕福さを充分感じられている。今の状況に文句は言うつもりは全くない……
ワンルームの狭く安いアパートで、いつも笑顔で帰りを待ってくれている母を思い出した唯は、ふと口許が緩んで微笑を浮かべながら歩み続けた。
「あ、あの……」
「ん?美鈴どうかしたか?」
三人から鳴らされていた革靴の音は止まってしまい、後ろで下を向く美鈴に唯ときららは踵を返して眺めている。悩んでいるというよりも、何か言いたげな様子でたたずむ美鈴は、強張った口を何とか開けてみせる。
「実は私、今日、グローブを買いに行こうと、思うっす……」
「本当かにゃあーミスズン!!」
唯が、マジかと静かに驚くなか、きららは大声を出して歓喜に湧いていた。目をキラキラとするきららから見られている美鈴は、恥じらいを持ちながら笑っており、両手で握っていたスクールバックの持ち手を伸ばしたり縮めたりと波打たせていた。
「は、はい。今までのお小遣いが結構貯まったんで……それに東條や菱川たちも買っていたから……私も買おうと思ったんす……」
同じ一年生である菫と凛が先に買っていたことを気にする美鈴だが、それよりもきららと、尊敬して止まない唯からの視線を受けることで起こる乙女心の羞恥心に駆られていた。
顔を赤くしながらもどかしくも笑う美鈴に、唯は感心してウジウジする彼女に微笑みを向ける。
「そうかぁ……美鈴は貯金できる娘かぁ……俺と違ってしっかりしてるよなぁ、マジで尊敬するよ」
「い、いや!!唯先輩の方がかっこよくてイケメンで……もう崇拝レベルっす!!」
「……崇拝って?」
「唯は、神様同等ってことにゃあ!」
「俺、ただの人間なんだけど……」
鼻息を荒くする美鈴の前で、知らなかった崇拝という単語を言われた唯は、困った表情を見せて肩を落としていた。
「閃いたにゃあー!!」
「な、何が?」
いつものように突然大声を出したきららは、唯から疑わしい視線を受けながら、二人の間に入って顔を覗きこむような体勢をとる。
「三人でグローブを買いに行こうにゃあ!」
「さ、三人!?ゆ、唯先輩たちも来てくれるってことっすか!?」
「はぁ?だから俺は金無いって……」
眉をハの字にした唯のもとには、笑顔のきららが目の前まで移り寄り対面していた。
「唯、せっかくだから、ミスズンのグローブ選び、手伝ってあげようにゃあ。きっとミスズンも喜ぶにゃあ」
すぐ前で満面の笑みを見せるきららから視線を美鈴に移した唯は、一年生である幼い彼女の、緊張と期待で強ばっている顔が目に映る。美鈴は俺の大切な後輩であり、家族の一員のようなものだ。それに、美鈴と高校で再会してから、まだ先輩らしいことしていなかったし、寧ろ朝起こしてもらったりと日々尽くされている一方だ……よしっ、今日は美鈴のために、一肌脱いでやるか!
「……そうだな。三人で行くか!」
「ほ、ほんとっすか!?」
今にも倒れそうな赤い顔をする美鈴が驚くと、唯はきららの隣に立って頷く。
「美鈴には、いつも世話になってるからな。まあ、こんなことで全部恩を返せるとは思ってねぇけど、ちょっとでも返させてくれ……いいか?」
「……も、勿論っすーっ!!」
今日一番の嬉しさを感じている美鈴は、長年の夢が叶ったかのように微笑んでおり、興奮しながら目を大きく開けていた。
「じゃあ決まりにゃあ」
「ああ!とその前に、御袋に連絡しねぇと……帰り遅くなって、心配かける訳にはいかねぇからよ」
すると、唯は制服の胸ポケットからスマートホンを取り出して、母である牛島恵の電話番号を入力する。ダイヤルボタンに触れて耳に当てると、親子の電話はすぐに繋がったようで、帰りの時間を伝えようとするだけの唯からは既に笑顔が溢れていた。
「あのさ、今日、友だちがグローブを買いたいらしくて、いっしょに行ってもいいかな?……そう、美鈴ときららがいっしょ……うん、勿論できるだけすぐに帰るから……わかった、じゃあ切るね」
学校ではいつも男らしく振る舞う唯は、このときは女の子らしい可愛らしさがあるしゃべり方をしておいた。その優しい表情は変わらずに、スマートホンを耳から離すと、母の名前が映し出された画面を見ながら終了ボタンに触れた。
「大丈夫だって。その代わり、道草食ったり、美鈴ときららに迷惑かけないようにだってよ」
「唯、可愛かったにゃあ~」
「おい!!どういう意味だよ!?」
「唯先輩の、新たな一面……これは、ありだ……」
バカにしたように笑うきららの両肩を、バシッと掴んだ唯が正面から赤面を見せながら叫ぶなか、美鈴は茫然と立ったまま、可愛い女子高生らしい唯を目に焼きつけていた。
「ったく、バカにしやがって……」
「バカにしてないにゃあ。やっぱり唯は、一工夫すれば学校のマドンナになれるにゃあ!」
「俺は篠原みてぇには、なりたくねぇよ!」
笑いながら話し続けるきららに、口が荒い唯は腕組みをしてそっぽを向いていた。
「……ところで、美鈴は親に連絡、大丈夫か?」
「……あ、はいっす!!今朝言ってきたので問題ないっす!!」
一瞬意識を失っていたかのように見えた美鈴だが、すぐに我を取り戻してイキイキと敬礼のポーズをして見せた。
「なら、大丈夫だな……きららは?」
「きららは……大丈夫……にゃあ……」
ふと、さっきまで一番煩く眩しかったきららは、声をどんどん小さくしながら下を向き始める。
彼女の笑顔は徐々に陰鬱な表情へと変わっていき、隣にいた唯にははっきりと見えてしまい、二人の心に暗雲が立ち込めていた。
「……かえって、時間の無駄になるだけだから……」
「……そっか……そう、かもな……」
二人が同じようにくらい顔をしていたのに気づいた美鈴だったが、すぐに唯がきららの肩をポンと叩くと、気持ちを切り替えたように笑顔を見せ始める。
「よしっ!じゃあ、すぐに向かうぞ!」
「は、はいっす!!」
「……うん。わかったにゃあ!」
意気込む美鈴のあとに、俯いていたきららも顔をあげて、自身のアイデンティティである『にゃあ』の
語尾を取り戻して笑っていた。
その後三人は再び横に並んで歩き始め、この暗い闇に飲み込まれそうな道をゆっくりと歩いていく。雑談しながら進む彼女たちは、目的地を『虹色スポーツ』という、ここから徒歩でも行ける一番近いスポーツショップに設定し、胸の高鳴りを覚えながら闇に溶け込んでいった。
皆様、今回もありがとうございました。
野球の話にはなってしまいますが、今日からは日本シリーズが開幕します。互いにトリプルスリーを達成した選手を持つヤクルトとソフトバンクでありますが、一体どちらが勝つのか楽しみです。この両チームの面白いところは、実はどちらも今年就任したばかりの監督であることです。工藤監督率いるソフトバンクは去年の秋山監督の代から強かったですが、一方で去年最下位で終わったヤクルトの大躍進は、本当に真中監督はスゴいなと思います。
ここ最近はラグビーを始め、様々なスポーツが注目されておりますので、興味を持っていなかった方たちが、何か面白いと感じるスポーツを見つけてくれたらなと思います。私としては、いつか日本のソフトボールが、地上波でなくともテレビ放送される日を心待ちにしております。
さて、今回は信次が久しぶりにみんなの役にたちましたね。ここしばらくはダメ男として書いていましたが、大一番のワンポイントで活躍する彼には我ながら憧れますね。生まれ変わったら、彼のような教員を目指したいですね。まあ恐らく、今の教育社会では成り立たないんでしょうがね……
さあ、次回は唯たちが美鈴のグローブ選びのために、虹色スポーツへ行く回です。
美鈴、グローブを買う。
お楽しみに。




