それなのに、私は……
練習試合は遂に最終回を迎えているなか、そこには舞園梓が、清水秀校長先生を筆頭に連れていかれていた。暗いままの梓は、練習試合に向かおうとするのか、それとも……
世間はゴールデンウィークを迎えた日曜日。午前中でありながらも道路は混雑しており、平日同様、車のエンジン音が笹浦市を包み込んでいた。気温も半袖で調度良いのではないかというくらいの暖かさで、五月初旬にしては高い方である。しかし、そのおかげか外出する者は多く、家でゲームをして遊ぶだけでなく、外へ出て友だちと鬼ごっこや、クラブ活動として球技などを楽しむ少年少女たちも少なくない。それはもちろん友だち関係の者だけでなく、家族を始め多岐に渡っており、いかに人間たちがこの期間を満喫しているのかを暗示している。
春風が優しく靡く今日、『虹色スポーツ』と描かれた白の業務用の車の中、四人の男女が乗って渋滞に巻き込まれていた。車がなかなか進まず、ハンドルに人差し指を一定のリズムで何度も叩く大和田慶助、助手席で街並みを見ながら喜ばしい様子の清水秀がいる。また、後部座席には二人の少女がおり、膝の上に畳まれたソフトボールのユニフォームを俯きながら見ている舞園梓、その隣でさっきから心配した様子を浮かべる泉田涼子が座っている。あまり良いとは言えない空気に包まれたこの車内には、ラジオをつけることなく、車のエンジン音と清水校長の話だけが響いていた。
皆から優しく迎えられながらも、こうして三人に連れてこられた舞園梓はまったく気がのらなかった。このまま、笹浦二高と筑海高校の練習試合が行われているソフトボール場に向かっていると聞いたときは、行く気などまったく持つことができなかった。例え、その場に友だちの清水夏蓮や篠原柚月、中島咲がいてプレーしていても、ソフトボールと聞いただけで足は固まってしまう。また、昨晩に対面した田村信次もいることから余計に行きたくない想いが押し寄せていた。一度は行こうとも考えた自分だが、結局このザマであり、会わせる顔が見当たらない。一時的に解決したと思われた六年前のトラウマからは一向に開放される様子もなく、孤独な梓には、ただただ暗く重い気持ちだけが募っていた。
「それにしても、良い天気だねぇ」
ふと、車内には清水校長の嗄れた優しい声が響き渡る。窓から空の様子を伺いながら、みんなに聞こえるように話していた。
「こんな天気だと、自然と元気が湧いてくるねぇ」
「本当に元気なジジイなこったぁ……」
大和田慶助がボソッと呟いたのを聞き逃さなかった清水校長は、そのまま振り返り、慶助の左太股をつねり始める。
「何か言ったかい?」
「い、いえ……先生が元気で何よりだなぁって……」
笑顔で語りかける清水校長とは逆に、慶助は運転席のルームミラーに自身の顔から冷や汗が流れているのが見えた。また、その鏡からは後ろに座る梓の姿がよく見えるが、依然俯いているのがわかり、昨日の笑顔はどこにいったのかとため息をつきながら考えていた。
梓の存在で暗い雰囲気が続く車内。しかし、清水校長は変わらぬ笑顔のまま口を開く。
「本当に良い天気だ……こんな天気なら、今のスターガールズの娘たちも元気いっぱいプレーできるねぇ……あのときの君たちみたいにね」
校長は振り返り、梓と涼子に顔を向けた。ニコッと笑ってできるその皺からは、老人の老けではなく優しさを強調している。
しかし、梓は清水校長と目を合わせず、未だに固まったままであった。どうしてソフトボールの話なんて始めるのだろうか。もう私はやりたくないなのに。梓には精神的な圧迫を感じるなか、隣の涼子が笑顔で声を鳴らす。
「たしか、今日って大会とかありましたっけ?」
「うん。確か……関東大会だったっかねぇ……梓ちゃん?」
「……はい……」
清水校長に話を振られた梓は重い表情を変えず、下を向きながら小さく声を吐き出した。隣では、関東大会と聞いて驚いている涼子だが、よく知ってるね、と優しく問いかけてくる。しかし、一向に元気などないままで、まあ、と呟くだけで会話を終了させてしまう。涼子の優しさすら眩しく見える今日、梓は早く家に戻りたいという気持ちでいっぱいだった。
梓の一言で再び戻ってしまう空気だが、もとの状態に戻って助手席から前方を見る校長は、混雑する道路に顔を向けて更に言葉を続ける。
「それにしても不思議だねぇ。こうして、再び君たちといっしょに車の中にいるなんて……ちょっとした運命を感じるねぇ」
耳だけ傾けていた梓には、この言葉の意味がよくわかる気がした。自分が笹浦スターガールズに入団してから、車やバスでの移動は全て清水秀が運転手を務めていた。保護者の方々にはなるべく負担を掛けたくないという想いからだろうが、今思うとなかなかムチャなことをしていたものだと感じる。あのときから、今ほどではないが清水校長は優しく接してくれていた。それはもちろん私にも、そして選手全員に対してである。悩み事を聴いてくれたり、面白おかしい話題に溶け込んでくれたりと、笹浦スターガールズというチームをとても居心地の良いものへと変えていた気がした。それなのに、私は……
罪悪感を抱える梓だが、校長はただ口だけを動かしていた。
「うれしいねぇ……これはソフトボールがもたらした運命なのかもしれないねぇ。君たちが、ソフトボールを好きでいてくれて、そして離れずにいてくれたことが要因なのかもねぇ」
清水の言葉が終わると、涼子は一度笑いを見せ、ルームミラーに映る清水と目を合わせて話しかける。
「私はもう練習の手伝いとか行ってませんよ?バレー部入ってから、全然顔を合わせてないし」
「いやいや、涼子ちゃんは笹浦二高のソフトボールを見守ってくれているじゃないかぁ。部活の休憩時間のときとか見てるでしょ?」
「えっ?まぁ見てますけど……どうして知ってるんですか?」
「フッフッフ~。老人の勘ってやつだよぉ」
満面の笑みを見せる清水校長には、涼子は愛想笑いを浮かべていたが、視線をそらして梓のように下を向き始める。
「そりゃあ見ますよ……笹二のソフト部には、え……いや、大切な後輩たちがいますからね」
隣で聴いていた梓は、それは咲のことだろうと思い付いた。涼子と咲は、中学校に入ってからはバレーボール部に所属していた。同じ中学でもあった梓は時おり二人の練習風景を見たことがあるが、両者部活に集中しながらも楽しそうに行っていた。大概咲の方から近寄ったり、ときには抱きついたりとしていたが、そんなおふざけも涼子に笑顔をもたらしていた。学年は違えど二人の仲は部内最高にも感じ、それは高校に入っても変わらない。高校一年生として入学した咲は、真っ先にバレーボール部に入部し、二年である涼子と共に励みあっており、再び仲良しの二人が明るい雰囲気をもたらしていた。だが、現在は咲がバレーボール部からソフトボールに転部してしまい、残された涼子はキャプテンとして頑張っている。きっと、内心は残念に思っているのだろう。私だって、柚月が怪我をしてしまってもう二度とバッテリーを組めないと聞いたときは、本当にショックで夜も眠れなかった。しかし、咲が転部してからの涼子は、決して寂しい様子を見せておらず、変わらずバレーボール部を引っ張っている。咲が居なくなった分はみんなで補うんだと、部員に厳しく指導している涼子がかっこよくも見える。決して咲が無責任だとは思わないが、そんなバレーボール部のキャプテンからは、底知れぬ強さを感じた。
校庭でソフトボール部の練習をする咲を、体育館から優しく見守る涼子は、きっと心から応援しているに違いない。彼女は確かにソフトボールに離れてはいないが、じゃあ私はどうなのかな。
ふと、梓の頭の中に疑問が浮かぶと、清水校長は再び首を捻って後部座席を覗く。
「もちろん、梓ちゃんだって離れていないよぉ。スターガールズの日程を知ってるのが、何よりの証拠じゃないか~」
笑顔で答える校長に、梓は不意を突かれたように少し頬を緩まれた。
「そりゃあ……そうですよ……これも校長先生のせいですよ……ズルいんですから」
梓は相変わらず下を向いていたが、先ほどとはうって代わり、微笑を浮かべていた。
すると、隣の涼子は反応し不思議そうな顔を向ける。
「えっ?どうして校長先生がズルいの?」
「今のスターガールズの監督、知ってます?」
「う~ん……代わったとは聞いたけど、誰なのかは……」
「……実は、私の父親なんです……」
「そうなんだぁ、梓のお父さんかぁ……って、ええぇー!?」
大きく口を開いて驚く涼子は、その声を車内中に響かせており、その加減は、目を合わせていない梓にもよくわかる。
すると、清水校長は声を出して笑いだし、梓に向けて口を開く。
「私がズルいなんて、梓ちゃんも酷いなぁ」
梓は少し目線を上げると、運転手の大和田慶助の肩が少し揺れているのが見え、再び頬を緩ますことができた。
「ズルいですよ……校長先生は、絶対に私とソフトボールを離れさせないんですから……」
目線を再びユニフォームに移す梓に対して、清水校長は大きな笑い声を上げている。
「そうかぁ……でも、違うよ」
「えっ?」
梓は咄嗟に顔を上げてしまうと、助手席から顔を出す清水と目があってしまう。優しく見守る清水校長の目は、なんだか引き込まれる想いを生ませていたが、彼の口元がゆっくりと動きだす。
「梓ちゃんのお父さんから言ってきたんだよ。僕にやらせてくださいってねぇ」
次の瞬間、梓の目は大きく見開いて固まる。てっきり、清水監督から誘われたのかと思っていた。でも、どうしてお父さんが監督をやろうだなんて言い出したのか。私に気を遣ってか、家ではソフトボールの話なんて、日程くらいしかしないのに。
疑問が生まれ続ける梓だが、清水校長は優しい表情のまま言葉を続ける。
「お父さん言っていたよ……それでうちの梓が、またソフトボールをやる気になってくれればうれしいってねぇ。きっと、梓ちゃんにもう一度やり直してほしいんだろうねぇ」
まったく知らない情報を聴いて驚くあまりの梓は、フフフと笑う清水校長から笑顔を見せられていた。そんなことは初めて聴いた。実際、お父さんからは、またソフトボールをやってほしいだなんて、一度も聞かされたことがないのに。思い返せば、私がスターガールズにいたときのメダルや写真を捨ててくれと言ったときは、お父さんもお母さんも、かなり驚いた顔をしていた。二人が外出中のあるとき、押し入れに隠されたメダルたちを発見してしまったときは、正直、私の意見なんてどうでもよく扱われているのかなと思ったが、あれは二人からの『やり直してほしい』というメッセージだったのか。どうして気付かなかったのだろう。そうか……私は、仲間だけでなく、一番近くにいる両親すらも裏切っていたのか。
思考が進むにつれて顔を上げているのが辛くなった梓は、最初同様に俯きを見せ、顔を覗かせる清水に話す。
「校長先生……」
「なんだい?」
「やり直すことって、簡単にできるんですか?」
重苦しい表情に戻ってしまった梓からの言葉で、清水校長は笑顔を消していた。開いた口が塞がらない様子で、暗い顔の梓をじっと見ていたが、再び顔の回りに皺を寄せる。
「もちろんだよ。ねぇ慶助?」
「うわぁ……この場面で俺に話を振るのかよ……」
僅かに顔を上げた梓には、清水が笑顔を横を向けて、運転手の大和田慶助に話しているのが見えた。
徐行していた車は赤信号で停まり、大きくため息をつく慶助の肩が一度下がると、男の低い声が鳴らされる。
「実はよ……俺と信次は、どうしようもねぇ不良だったんだよ……まあ色々あって、やり直して、今こうして生きてんだけどよ……」
梓は内心驚いていたが、それは隣で驚嘆する涼子によって慶助に伝わっていた。
「その担任であった私は、二人には本当に世話を焼かされたよ~……まぁ今もだけどねぇ」
「え~?俺は今こうして立派に働いているじゃないですか。こうしているのも社会人たる証拠っすよ」
「まだアルバイトだろ?」
「ギクッ……知ってたか……」
二人のやり取りが始まると、それに乗っかるように涼子はすぐに笑い始め、運転席の肩に手を乗せて顔を近づける。
「なんだぁ~。兄貴さんやっぱり~!」
「やっぱり~ってなんだよ?最近のJKはイキってるやつばっかりだぜ……」
笑顔を見せている涼子とは対照的に、慶助は再び肩と共にため息を漏らしていた。
梓としては、正直、目の前にいるヤクザのような男よりも、生徒にあんなに優しく接している田村信次の方が気になっていた。あの人が問題児だったとは到底思えない。確かに、正門の前でビラ配りをしたり、生徒の家に上がったりと、やることは無茶苦茶で迷惑をかけているのかもしれないが、果たしてそれを不良として言えるのだろうか。
信号が赤から青に替わり車が始動すると、慶助は鋭い目付きでルームミラー越しに、驚きを隠せない梓と目を合わせる。
「まぁお嬢ちゃん。やり直すってことよりも、まずは立ち上がらなきゃいけねぇんじゃねぇか?」
「立ち上がる?」
「ああ。それは、誰かから引っ張られてとかじゃねぇ。自分の足で、しっかりと立たなきゃいけねぇんだ。まぁ俺は、やり直すことよりも、そっちの方が難しいと思うぜ……」
梓は慶助から目をそらし、過去の自身の行いを振り返っていた。六年前のデッドボールから、私はもう一度投げたいという思いで、壁当ての投球練習をしてきた。しかし、投げるボールはいつも想像も付かないところへ向かっていってしまい、描かれたストライクゾーン以外の場所に跡をつけている。大してコントロールに自信は持っていないが、こればかりは制球力のせいではない。そんな枠にはまったく入ることなく進んでいく日々は、肉体的な疲労よりも精神的な疲労の方が勝っていた。それを理由に、親友の夏蓮が創設したソフトボール部には未だに入らず避けている。私は、何度も立ち上がろうとはしている。だけど、あくまでそれは、しようとしているだけであり、実際はこのように立てぬままだ。目の前にいるこの恐ろしい風貌のお兄さんが、いかにまともなことを言っているのか、身をもって実感していた。
「……そうですね……でも、私はどっちも難しく思います……」
「あん?」
俯きながら話した梓を、運転手の慶助はミラー越しにその顔を伺う。
「……仮にですよ……私が立ち上がったとして、それはいつまで立っていられるのかなって……」
梓の頭の中には、自分が犯してきた罪たちが激しく飛び交っていた。
まず、柚月に対しては、自分が怪我をさせてしまったと思っている。あの試合、私が三振を取っていれば柚月は飛び込まずに済んだのに。もうソフトボールも、そして激しい運動すらもできない彼女にさせてしまったのは、弱い私だ。柚月と初めてバッテリーを組めなくなった日は、とても苦痛を感じてしまい、その頃からソフトボールが嫌いになりそうだった。だが、柚月が入院している頃、時折お見舞いに行ってみると、病衣を纏った彼女からは笑顔で、私の分まで頑張ってね、と優しく言われてきたおかげで頑張れた。そんな柚月は、冗談やいつものサディズム的な発言で私の前では明るく振る舞っていたが、その裏で辛いリハビリ生活を強いられているのは聞いている。面倒を見ていた看護師の人が言うには、柚月はもう一度ソフトボールをやろうと考えていたらしく、来る日も来る日もリハビリを行っていたそうだが、下半身もろくに動かせない彼女は何度も転んだり倒れていたらしく、自身の情けなさでよく涙していたらしい。それでも続けてリハビリを行う柚月は、いつもこう言っていたらしい。
「もう一度、ある人のキャッチャーをやりたいの……今度は、その人といっしょに、関東選抜として出場したい」
泣き叫ぶように言っていた言葉を聴いた私は、柚月はもうソフトボールのためではなく、私のためにリハビリをしてくれていると感じた。しかし、そんな彼女の約束を破るかのように、私はソフトボールを辞めてしまった。退院して無事に登校できるようになった柚月には、合わす顔がなかったが、それでも彼女はいつも私の隣では笑って居てくれた。優しく接してくれてはいたが、私に想いを託した彼女の意思を、私は台無しにしてしまったに違いない。
また、咲に対しては、一方的に距離を置いている。彼女がソフトボール部に入ってからは遠ざけており、最近はまったく話していない。スターガールズのときは、チームの元気印としてファーストを守っていた彼女は、柚月の怪我によりキャッチャーにコンバートされた。しかし、関東選抜に選ばれるような柚月とは別で、ピッチャーの投球をまともに捕ることができずにいた。被ったことないキャッチャーのマスクが不慣れのせいでボールが見辛く、ミットにボールを当てて前に止めるのが精一杯だと言っていた。基本的に全力ストレートのみを投げる私だったが、監督からは咲のことを思ってか、打たせてアウトを取れ、という指示を受けており力を抜いて投げてきた。結果的には、咲は何とか捕球することができていたが、正直私は、そのピッチングがまったく楽しくなかった。そんな投球を続けて、全力投球できないストレスを抱え始めた私は、あんな頭部死球を与えてしまったのだ。決して咲のせいだという訳ではない。実際あのとき、全力で投げたのは自分の意思からであり、その反抗心がもたらしてしまったのだ。終いにはそんな彼女すらも見捨ててしまう私であり、それ以降、咲はキャッチャーを自ら断念したらしく、代わりに他の選手がコンバートされた。結局、咲はファーストに戻った訳だが、その元気印はもうどこにもなかったらしい。そんな咲とは、学校では楽しく話してきたが、彼女が再びソフトボールを始めて、しかもキャッチャーをやっていると聞いて、私は彼女にかける言葉など見つからずにいる。ただ、申し訳ないと、心が叫んでいるだけだった。
そして、夏蓮に対しては、ソフトボール部からの誘いを断り続けている。スターガールズのときは、控え選手の彼女は私のブルペンキャッチャーを率先して取り組んでくれ、投球練習に一番付き合ってくれていた。自分が試合に出るよりも、選手たちのために動く彼女は、ライン引きや荷物運びなど、他の場面でも快く仕事に取り組んでおり、私を始め誰からも信頼を置かれていた。しかし、そんな親友である夏蓮からは、私が辞めたときは何度も、もう一度やろうと言われてきた。突然私が辞めると言って、一番最初に来たのは彼女であり、泣きながら私を止めていたのを覚えている。誰よりも私のことを心配してくれていた彼女は、内気なのにも関わらず私に抱きついてきたが、私は何も言わず無視してきた。また、中学のときには、お互い帰宅部としていっしょに帰ってくれた仲であり、とても優しく接してくれた。このときから私のことを思ってか、ソフトボールという言葉を発しなくなった夏蓮には、反って違和感を覚えた。ソフトボール部のない中学校で最終的にどの部にも入らなかった彼女は、家で暇なときは、ソフトボール実業団の試合を観ていると聴いたことがある。そんなソフトボール大好きっ子な彼女だが、私と帰っているときはまったくその話題に触れない。ただ、バレーボール部に所属している咲、美術部に入った柚月に頑張ってほしいと、二人を心から応援していた。時折私には、運動神経良いんだから部活やればいいのにと、明るく笑顔で照らしてくれていたが、私はそれすらもいつもそっぽを向いて通り過ぎてきた。内気な彼女を、私は平気で傷つけてきたんだ。
関東大会出場を決めた当時、夕日の帰り道で私たち四人は、みんないっしょにプロになろうと、誓いあった。最高の絆で結ばれた私たちならできると、私が思って発言したのを鮮明に覚えている。しかし、この様だ。自分からあんなことを言っておいて、ソフトボールから一番早く離れようとしたのは私だ。それはきっと三人だけでなく、監督やチームメイト、そして家族にも迷惑をかけたに違いない。 何が責任感ある舞園梓だ。自分のことしか考えられないただの無責任な人間だ。本当に、最低な人間だ……
罪悪感に駆られる梓は、今日一番の暗い表情を見せていた。私が再び立ち上がっても、きっと誰も応援してくれない。こんな酷い人間を誰が支えてくれるだろうか。一度立ち上がったとしても、きっとまた座り込んでしまうだけだ。本音と建前とはいつも背中合わせのように存在している。周囲のみんなはいつも私に明るくいてくれるが、それが建前だとしたら、本音はきっと私を悪く思っているだろう。
「私が立ち上がっても、みんなはやり直すチャンスをくれるのかな……」
車のエンジン音に負けそうな小さい声で話す梓は、膝元のユニフォームを握りしめるのを止めて、座席にもたれるように深く座っていた。
「……お嬢ちゃんなら、大丈夫だろ」
「え……」
車内に慶助の、低いが気軽にも感じる声が響くと、梓は視線を前方の運転席にあてる。どうしてそんなことを言えるのか。何か理由でもあるのだろうか。昨日会ったばかりの男に言われても、なんの信憑性などないと感じるのが普通だが、なぜだか妙に説得力があるように感じていた。
「……どうして……ですか?」
「あん?……なぁ先生?」
「フフフ……そうだねぇ」
すると、清水校長は助手席と運転席の間から顔を向けて、目を開いたままの梓と顔を合わせる。ニコッと笑顔を一度見せると、ゆっくりと視線を隣の方に移して口を開く。
「それなら心配はいらないよ。ねぇ涼子ちゃん?」
「はい!」
声のバトンは次々に移り変わって隣の涼子に渡されるて、彼女が元気な返事をすると、体を前に倒し始めて座席の下を覗くようにし、足下から一つのグローブケースが取り出される。
「はい、梓」
「えっ……私に?」
「うん!開けてみて」
梓は微笑む涼子から、その黒いグローブケースを差し出される。半信半疑のまま受けとると、中には一つのグローブが入っているようで、懐かしいオイルの匂いが鼻につく。正直、見たことのないグローブケースであるため、他人の物だろうと考えていたが、涼子の言われるがままに袋の口をほどき始めた。
「あれ……これって……」
袋の中を覗く梓は、目を見開きながらその中身をすぐに取り出す。黒くて今は小さく見える左利き用グローブ。しかし、これは間違いない。
「私のグローブだ……」
梓はしばらくそのグローブを眺めていた。押し入れの中に仕舞われた今までのソフトボールグッズで唯一無かったもの。それが、今目の前にあることに驚いて固まってしまう。
「どうして……こんなところに……」
オイルの匂いが広まる車内で、梓はユニフォームの上に自身のグローブを両手で持ちながら見ていた。
「それは、梓ちゃんが最後に投げた試合の忘れ物だよぉ。道具は大切にしなさいって、あれほど言っていたのにぃ」
「ご、ゴメンなさい……」
謝った梓は、前方から顔を向ける清水には視線を向けず、変わらず黒光りするグローブを目にしている。擦れている箇所もあり新品とは言い難いが、泥やホコリはなく、まるで昨日まで使っていたようにきれいだ。私が手放したのは六年も前なのに、どうしてこんなにもきれいなのだろうか。
「……先生が、手入れしてくれたんですか?」
梓は顔を上げて清水に向けると、校長はふと驚いた顔を見せていたが、すぐに微笑んで口を開く。
「夏蓮だよぉ。六年間、ずっとねぇ」
梓は大きくした目を清水校長に向けていた。私のグローブは、親友の一人である夏蓮が磨いていてくれた。しかも六年前から、ずっと。それはつまり、夏蓮は六年前から私のことを待っていてくれたということなのか。ひたすら私の忘れたグローブを磨いていたなんて、一言も言わなかったのに。
徐々に瞳に光を浮かべてグローブを眺める梓だが、清水校長は優しい微笑みのまま言葉を続ける。
「夏蓮が言っていたよぉ……また梓ちゃんのボールを捕りたいなって。あの子は試合に出ることよりも、誰かのために尽くすことの方が好きだったのかもねぇ」
この六年で梓は、心身共に大きく成長したはずなのに、持っているグローブが以前よりもはるかに重く感じていた。夏蓮は私のことを、あの日からずっと待っていてくれた。それは決して口にはせず、ただ私がやりたいと、口にすることをずっと待っていてくれたんだ。
ふと、梓の口許が震えを見せ始める。次第にその瞳からはポタポタと水滴が落ちていき、膝元のユニフォームを濡らしていた。それを確認してか、清水校長は顔を向けるのを止めて、助手席から車の進行方向を向きながら話す。
「梓ちゃん、待っているのは、もちろん夏蓮だけじゃないよぉ。まずは柚月ちゃんが考えたそのユニフォーム。青色だよねぇ。その色って、梓ちゃんの好きな色だよねぇ」
涙が止まらない梓は、膝元に畳まれた、青の文字で『笹浦二高』と描かれたユニフォームに視線を当てて始める。確かに、私が好きな色であり、最初見たときは素直にかっこいいとも思えた。柚月がこの色にした理由が、まさか私の好きな色だからってことなのか。どうして柚月は、いつもはドが付くほどのSなのに、時折このような優しさを見せるのだろう。
梓の鼻を啜る音が、運転席にいる慶助にも聞こえるようになっているなか、清水校長はさらに言葉を続ける。
「それに、咲ちゃんなんか、夜な夜なバッティングセンターでキャッチャーの練習をしているそうだよぉ。夏蓮から聴いたんだけど、それは梓ちゃんの速いボールを捕れるようにするためだって言ってたらしいよぉ」
梓は一度裾で涙を拭き取るが、決して止めることはできなかった。咲が、私なんかのために練習してくれている。しかもバッティングセンターとなると、お金だってかかってしまうのに。つい最近では、金欠だ~と、頭を抱えて叫んでいた彼女なのに、どうしてそんなところで大切なお金を遣っていたんだろう。もしかして、全て私のために遣っていたのか。咲の、バカ……
梓の呼吸は次第に荒さが増していき、車内中をその音が取り囲んでいる。車は渋滞から抜け出したようでスピードが増していき、泣き崩れ顔を覆う彼女の全身と、黒くストレートな長い髪を揺らしていた。
「……そして、ただひたすら生徒を応援する信次くんだってついている。彼のことは、小さいときから私が見てきたけど、決して裏切るような真似はしなかった。どうか彼を、信頼してあげてねぇ」
清水校長の言葉はフロントガラスから跳ね返るようにして、後部座席で声を出して泣く梓に届く。私の担任でもある田村先生。最初はデリカシーのない、変な男だとしか思っていなかった。私の事情も知らずに、ソフトボール部に入ってほしい、名前だけでも貸してほしいなど、よくも言えたものだ。しかし、昨夜の出来事でそれは偏見だとわかった。彼が左打席に構えたときは正直喧嘩を売られたようにも感じたが、私からのデッドボールを受けながらも、ずっと立って構え続けてくれた。そして、最後にストライクが入ったときは、彼は私以上に喜んでいたのを覚えている。どうしてそこまでと問うと、彼はこう言っていた。
『う~ん、わからないなぁ……先生が生徒のために動くなんて、ごく当たり前だと思うぞ』
優しい微笑みから放たれるその言葉からは、田村信次という一人の人間性を確かに表していたように思う。お人好しなのかバカなのか、そう疑ったが、今はまったく疑念など湧いてこない。ただ、私を立ち上がらせようとしてくれた彼に、ありがとうと、言葉を送りたい想いが強い。
梓の涙は止まりはしなかったが、顔を覆っていた手で両面を擦っていると、僅かに頬が緩んでいた。すると、梓の右隣からは一本の華奢な腕が背中を通って、左肩の上にその手が添えられた。その腕で優しく包まれているようにも感じながら、涙目で涼子の顔を伺う。
「涼子……先輩……」
「私も、応援してるよ、梓!」
無邪気にも白い歯を見せて笑顔で話す涼子は、彼女の右手で梓の震える左手を包んでいた。利き手である左手を優しく包んでいる涼子先輩からは、私をとても安らかで穏やかな気持ちにさせている。そのおかげで、左手の震えは修まっているのがわかり、涼子の柔らかくて大な掌の温もりだけを感じることができた。
二人は向き合って見つめ合うようにしていると、微笑みを見せた梓は一度頷いて水滴を落とすと、それをミラーから見ていた慶助は、ヤクザのような恐い風貌を持ちながらも微笑ましい顔で口を開く。
「どうやら、お嬢ちゃんなら、立ち上がった後も大丈夫そうだなぁ」
「えっ……」
「お嬢ちゃんには、家族や先生や友だち、こんなにも多くの人たちから応援されてるんだぞ。本当に恵まれたもんよ、羨ましいくらいにさ……」
慶助は最後に少し哀愁を漂わせていたが、すぐに微笑んで口を横に伸ばしていた。
それを聴いた梓も、涙ながら慶助のように微笑むことができた。ソフトボールをもう一度やってほしいという想いで、今もスターガールズと関わりを持っているお父さんとお母さん。私という、ただ一人の生徒のためにここまで尽くしてくれる清水秀校長に田村信次先生。そして、私が辞めた六年前から今まで、復帰を心から望んでいてくれている篠原柚月、中島咲、清水夏蓮、先輩の泉田涼子。かけがえのない人々がこんな近くに、こんなたくさんいる。それなのに、私は……どうして気付かなかったのだろう。確かに、私の前に立ちはだかる壁は、とても大きい。それは、見上げれば首が痛くなるほどの高さを持っている。でも、そんな壁なら撃ち破ればいい。何度跳ね返されても、何度倒れても、それが破れるまで続けていけばいいんだ。それを続けていくことなんて、きっと簡単だ。だって、私には、私を応援し支えてくれる人々がこんなにいるんだ。それなら私は何度でも立ち上がってみせる。イップスがなんだ。トラウマがなんだ。そんな個人的な悩みよりも、私はみんなの期待に応えたい。不器用な私が導いた結論だ。
すると、走っていた車は徐々にスピードを落としていき、ゆっくりと停車した。運転席の慶助は、エンジンブレーキをかけて外に出て、車の前方を回り込んで助手席のドアを開く。
「さぁお嬢ちゃん。こっからは、お嬢ちゃんの意思で決めな……」
梓は開かれたドアから見えたのは、笹浦総合公園の公設体育館だった。体育館前の駐車場に停められた車は、ソフトボール場はここから歩いて十分ほどで行ける距離でもあり、自分はもうすぐそこまで来ていることが暗示される。
「まずは着替えねぇとな。体育館の入り口側に女性専用の更衣室があるから、そこで着替えていきな。もちろん、荷物は全て持っていけよ。もうこの車には戻って来ねぇからよ」
慶助は言葉を終わらせると、助手席にいた清水校長も外に出て、梓の目の前の扉で立ってみせた。笑顔を向ける校長先生は一度頷いて皺と口を動かす。
「梓ちゃん。あとは、君が立ち上がるかの問題だよぉ。立てるかい?」
梓は最後にもう一度涙を裾で拭った。涙はやっと止まったようで、目の前の光景が鮮明に見え始める。すると、後ろからは再び涼子の両手が添えられたのを感じた。ふと振り返ると、そこには強気の表情を浮かべるキャプテンが言葉を発する。
「あとは、任せた!」
それは、泉田キャプテンが当時、バッテリーの梓と柚月によく言っていた言葉だった。よく最終回に言われることが多く、その言葉からはいつも、涼子先輩が私たちに信頼をおいていることが伝わってくる。彼女からの言葉で、たとえ最終回だろうと、疲れていても自然とがんばることができたのを覚えている。そして今度は、その言葉を私のみが受けていた。
梓は、涼子のように強気の表情を浮かべて頷くと、首をもとに戻してドアの方に向ける。膝元のユニフォームを笹浦二高のサンバイザーと共に左手で握りしめ、六年間姿を消していた左利き用グローブを右手で掴んで車の外に脚を出す。アスファルト場に着地した足からは乾いた音が鳴ると、外の空気を吸い込んで大きく深呼吸をした。最近のこの時間は外出することがほとんどなかったため、正午前の暖かな空気にすら懐かしさを覚えていた。
「……行けるかい?」
梓の隣で清水校長の優しい声が耳に入る。梓は、目を合わせなかったが、一度頷いく。
「……はい、監督」
梓は言葉を終えると、笹浦総合公園体育館の入り口へと一歩、また一歩と進み始めた。背筋を伸ばして歩くその姿は、まだどこか怖がっているかのようにも見えるが、それ以上に、自身の責任を果たそうという強い想いが反映されているようだった。
車のなかからは涼子もすぐに出ていき、清水校長と大和田慶助の三人で梓の後ろ姿を見送っている。
「頑張れ……梓」
「しっかし、マジで羨ましいわ~」
「えっ?」
涼子の隣では、慶助が上の空を見上げながらため息を漏らしており、そのまま言葉を続ける。
「……俺も、もっと友だち作っときゃ良かったなぁ……」
涼子はその言葉に一度驚いていたが、すぐに笑顔を見せて言葉を返す。
「兄貴さんなら大丈夫ですよ。見た目はアレだけど、根はいい人そうだし!」
「アレだけどって……仕方ねぇだろ?こんな暴力教師がいたんだからよ」
「それは、私のことかい?」
清水校長は慶助に眩しい笑顔を見せていたが、次の瞬間、彼のサンダルから飛び出た親指目掛けて革靴を降ろす。
「いってぇぇ~!!何すんだよジジイ!!」
「口の聞き方がなってないねぇ……じゃあもう一度」
変わらず笑顔を見せる清水校長は、踏んでいた右足を一度上げて、すぐに降り下ろす。
「ひいぃぃ~……ほれ見ろ、こういうところだよ……」
「なになにぃ?もう一回かなぁ?」
「け、結構です!!すみませんでしたー!!」
痛みから涙を浮かべる慶助は、清水に頭を下げており、そのやり取りを見ていた涼子は笑っていた。
「フフフ……やっぱり兄貴さんって面白い」
「体張ってお笑い取るほど俺は、根が強くねぇぞ?」
「大丈夫。兄貴さん、根はいい人だから」
「……なんでだよ?」
少し口ごもった慶助だが、涼子は未だに笑いながら言葉を続ける。
「だって、普通男の人って、車の椅子の下とか目の届かない身近な場所に、いかがわしい本とか置く習性があるんでしょ?でも今日、車内中調べて見たら何にも無かったから、兄貴さんは疚しいこととか考えない、ピュアな人だなぁと思ってさ」
「習性って、男は動物扱いかよ……お前、大多数の男から間違いなく嫌われるぞ……」
ため息をつく慶助での前で、涼子は楽しそうに顔を向けていた。最後に涼子たちは、背中を預けて歩いていく梓をもう一度眺める。あの小さな背中でたくさんの物を背負っていたと考えると、三人とも見過ごすことができなかった。でも、彼女なら大丈夫だ。
春の太陽は今日もこの笹浦市を優しく照らしており、暖かく心地よい環境を産み出している。春風に揺られながら、長い髪を垂らす彼女の後ろ姿は体育館の中へと消えていった。
カキーン!!
バットから快音が放たれると、打球はピッチャーの頭上を越えていき、セカンドベースのすぐ後ろでバウンドしていた。勢いがあまりないボールではあったが、センターを守る筑海高校の選手が掛けてきて捕球する。その時にはすでに一塁にはランナーが立っており、やむを得ずピッチャーに返球していたときだった。
「やったぁ!!初ヒットー!!」
一塁ベース上では、この回先頭バッターである、キャプテンの清水夏蓮が両腕を高々と揚げて喜んでいた。小学生のときは控え選手であった夏蓮は、その頃からバットに当てるのが精一杯でなかなか出塁したことがなかったが、本日初めての出塁を見事にセンター前ヒットで実現させることができて、内心もっと叫びたい気持ちでいっぱいだった。柚月ちゃんから言われた、一日百回の素振りを続けてきたからかな。まだまだ打球は弱いけど、これからも続けて、もっと打てるバッターになりたい。
夏蓮は、自身の両手でを広げて掌を見てみると、何ヵ所かは潰れているも、多くのマメができていることを確認して、自分の地道な努力の過程に誇りが持てた。
また、すぐそばの一塁側ベンチからも、ヒットを打って先頭バッターが出塁したことをうれしく思い、選手全員が夏蓮を褒め称えている。この回は絶対に勝ち越してみせる。一点でも多くとってやる。チーム一丸となって声を上げる笹二ベンチは、皆ベンチから飛び出しそうなほど顔をグランドに向けていた。
同点で最終回を迎えたこの練習試合。現在は七回の表で笹浦二高の攻撃中。笹浦二高の、さっきの回からこのような元気を取り戻した様子は、相手の筑海の選手たちにもプレッシャーをかけている。
相手キャプテンの花咲穂乃がピッチャーズサークルへと向かうと、
「大丈夫だよ。自信をもって投げていこう。打たれたときは私たちが守るから!」
と、笑顔で肩を叩いており、ピッチャーの呉崎を元気付けてショートに戻る。
ノーアウトランナー一塁。
ピッチャーの呉崎がロジンを何度か手に馴染ませて地面に置くと、バッターボックスには、本日絶好調のメイ・C・アルファードが、よろしくお願いしますと一礼して叫び、左打席にどっしりと構えてみせる。
両ベンチからは盛大な応援が続くなか、呉崎はキャッチャーの錦戸からのサインに首を縦に振り、セットをして第一球目。キャッチャーが内角に構えると、ピッチャーはプレートを蹴って前方移動を始め、大きく回した右腕をしならせて得意のストレートを放る。
カキーン!!
「うそっ!?」
注文取り投げた呉崎が一言漏らして打球の行方を追うと、ボールはライト線ギリギリに落ちて長打コースを転がっている。打球に追いつきそうにないライトは、案の定打球を後ろから追う姿になってしまい、気づいたときには外野フェンスラインを飛び越えていた。
「ツーベース!!」
一塁の学生審判が右手をピースの形にして叫ぶと、すぐに笹浦二高ベンチは歓喜で湧いていた。
「メイシー!!ナイスバッティングにゃあ!!」
「野郎~!何本ヒット打ったら気が済むんだー!!」
「何本だ何本だーっす!!」
ベンチにいる選手の一部、植本きらら、牛島唯、星川美鈴が笑顔で叫ぶと、ツーベースヒットを放ったメイは二塁上でガッツポーズをしてみせる。
「私、インコース大好きなんですよ~!!得手に帆を揚げてみました~!!」
高らかに喜ぶメイが二塁、ナイスバッティングと拍手を送る夏蓮が三塁。ここでバッターは四番、中島咲。本日はパッとしない打撃内容であるが、バッターボックス前で一度屈伸をし、一礼を済ませ一つ呼吸をおいて右打席に入る。私は、叶恵ちゃんのためにも打ちたい。ここまで、私なんかを的にして投げ抜いてきた彼女に、少しでも負担を減らしてあげたい。
この練習試合、ピッチャーの月島叶恵とバッテリーを組んでいる咲は、一度ベンチにいる叶恵の様子を伺う。きっとベンチの奥で休んでいるのだろうとも思ったが、叶恵はベンチから身を乗り出して応援していた。
「アンタ~!!四番なんだから、もうそろそろ打ちなさいよ~!!」
大声を上げる叶恵だったが、きっと立っているだけで精一杯のはずだ。彼女を少しでも楽に……そして勝ちたい。
咲はもう一度深呼吸をして、キリッとした目を相手投手へと向ける。今は緊張を気にするような余裕もなく、ただ無心のまま構えていた。すると、相手ピッチャーはセットに入り、ボールを投げ始め、咲は思いっきりバットを出す。
『絶対に、打つ!!』
カキーン!!
今日初めての快音を鳴らした咲は、バットを投げるように地面に置いて走り出すと、自分が放った打球を確認した。打球はショートの花咲穂乃の頭上を越えていき左中間へと落ちる。行け行けとベンチからの声を受けながら、咲はすぐにファーストベースの左手前を踏んでセカンドベースへと向かっていた。
外野からの中継のために追っていく穂乃は、まずランナーを確認するが、三塁ランナーはすでにホームイン。そして二塁ランナーももうすぐ着く頃だった。
「外野バックセカンド!!」
ボールを捕球したセンターは、穂乃の指示通りセカンド目掛けてすぐに投げる。その線上に入った穂乃は中継としてボールを受けて、すぐにセカンドベース上へと投じた。
咲の走塁と穂乃の辺球はほぼ同時にセカンドベースに集まる兆しであり、コンマ一秒を争う展開が繰り広げられていた。
「ドリャァーー!!」
全速力の咲はセカンドベースへと腕を伸ばして飛び込み、ヘルメットを落として突っ込んでいく。
パシッ!!
ズシャー……
二塁上は激しい土煙が蔓延しており、学生審判のジャッジを止めてしまう。春風に誘われて煙がどんどん晴れていくと、ベースに着いたランナーの手の上で、セカンドのグローブが置かれているのが見えた。
「……セーフセーフ!!」
両腕を横に伸ばす学生審判のジャッジで、笹二ベンチは大いに盛り上がりを見せていた。貴重な追加点を手に入れたこと、しかもそれが二点も入ったことで、やったぁ!!と抱き合う選手も現れており更にテンションを上げている。
「ふぅ……危なかった~……」
未だに倒れていた咲はやっと起き上がって、泥だらけになった胸元を叩いていた。
「咲~!!」
すると、ベンチからは一番に叶恵の声が聞こえた。少し怒っているような表情を浮かべていた彼女は、大きく息を吸い込んで声を鳴らす。
「やれば、できるじゃな~い!!」
最後に白い歯を見せてくれた彼女には、咲は更にニッと笑ってみせる。
「おいしいところだけ頂きました~!!ご馳走さまで~す!!」
いつもの元気印を見せた咲は、最後にお辞儀をしてみんなに答えていた。
ゴン……
『チッ……タイミングがずれた……』
五番バッターの唯は、投じられたボールがバットの先端に当たったのを感じると、打球はセカンドへの強いゴロとなっているのが目に映る。全速力で一塁に駆けていくが結果はセカンドゴロとなりアウト。しかし、その間にセカンドランナーの咲は無事に三塁に到達しており、ランナーを進めることができた。
「チクショ~……もう一本でかいの、かましてやろうと思ったのによ~……」
唯はヘルメットを取って、ピッチャーズサークル内の投手を睨み付けるようにしていた。前打席のようにホームランのような打球が打てず悔しがっており、恐ろしい目付きのままベンチへと帰ろうとする。
「でも、唯ちゃんはランナーを進められた。進塁打はオッケーだよ!」
一塁ランナーコーチを務めていた夏蓮からの温かな言葉で、唯は自然と微笑みを見せることができ、笹二のキャプテンに褒められたことを心地好く感じていた。一度夏蓮とハイタッチをすると、次のバッターである美鈴に、頼んだぞ~と、大きな声で応援してベンチへと帰っていく。
ワンアウトランナー三塁。バッターは六番の美鈴。追加点のチャンスで迎えたこの回、一度深呼吸をして左打席で構える。尊敬する唯先輩からの応援を頂いたからには、絶対に打ってみせる。ヘッドを下げず、叩きつけるように振り抜く。
小柄にも肩幅が広い左バッターが構えると、ピッチャーの呉崎は、錦戸からのサインに従ってボールを投げ込んでいく。
バシッ……
「ストライク!!」
『縦回転……ドロップか』
第一球目を見逃した美鈴は、ボールの回転と軌道からどだと判断し、ここまでの試合内容を思い出して次の投球を考え始める。
『あのピッチャーは今のところ、ストレート、ドロップ、チェンジアップを投げていてそのほとんどがストレートだった。今回はドロップだったけど、変化球を連続で投げてくるとは考えづらい。ここは、確率的に高いストレートに絞ってみよう……』
キャッチャーからピッチャーへとボールが戻ると、美鈴はすぐに打席で構えて第二球目を待つ。
呉崎と錦戸のサインのやり取りが始まるが、ふと、呉崎は一度目を見開いてみせるが、すぐに自信に満ちた表情で首を縦に振り、セットに入ってウィンドミルの動作に入る。呉崎の吐息の音が響くと同時に、その右手からは一矢のようなボールが放たれた。
『来た!!ストレート!!』
予想通りと感じた美鈴は、その速く向かってくるボールに迷いなくバットを出していく。
キーン……
「あれっ!?」
バットを振り抜いた美鈴は、再び高々と舞い上がる打球を見て驚いていた。地面に叩きつけるように打ったはずなのに、逆にフライになってしまった。悔しいながらも走り出して、打球の行方を見て追うと、ライトの後方まで延びているのがわかった。
「タッチアップ……」
三塁ベース上、ランナーコーチの菱川凛から冷静な指示を受けた咲は、すぐにベースへと左足を付ける。
パシッ……
「ゴー!」
「ドリィァーー!!」
ライトがボールを捕球した瞬間、咲は凛の澄んだ声の後に疾走していく。大きな砂ぼこりを上げながらホームベースへと向かうと、ボールはまだファーストに渡ったところで返ってこなく、ノースライディングでホームインすることができた。
「ヨッシャー!!三点目~!!」
右手を高々と上げる咲がベンチに向かうと、みんなからハイタッチやヘルメットを叩かれるなどで祝福されていた。
一方、結果的に犠牲フライを放つことができた美鈴だったが、腑に落ちない様子でファーストベースから相手ピッチャーを見ていた。
「美鈴ちゃん!ナイスバッティングだよ!」
「あ、ありがとうございます……っす……」
一塁コーチャーズボックスでうれしがる夏蓮にも、美鈴が納得いっていない様子が伺われて不思議に思っていた。
「美鈴ちゃん、どうしたの?」
「……いや、何でもないっす!たぶん見間違えっす!!」
美鈴は最後に、キャプテンに笑顔で答えてベンチに戻っていくが、もう一度自分に投じられたボールを思い返していた。
『……気のせいかな……ちょっと浮き上がったような感じがしたんだけど……』
プレート上でみんなから声をかけられて笑っているピッチャーを見ながら、美鈴は自身に見間違えだと言い聞かせていた。
「にゃっぶにゃぷ~!!」
バシッ!!
「ストライク!!バッターアウト!!チェンジ!!」
きららの豪快なスイングは、結局かすることなく三振してしまう。しかし、ランナーコーチから帰ってきた凛に頬を緩ませてグローブを渡す東條菫、ラスト締めるぞ、と大きな声で指揮を高める牛島唯、咲のキャッチャーレガースの装着を手伝って、この回もしっかりねと、微笑んで肩を叩く篠原柚月、みんなに、あと一回だよと、前向きに声をかけるキャプテンの清水夏蓮など、この回三点リードで勝ち越した笹浦二高は皆笑顔でベンチから出ていく。
一方、筑海ベンチで座って見ていた監督、宇都木鋭子も腕組みをしながら笹二ベンチを眺めていた。
『しっかしよく打つチームだ。いくら二年の呉崎が投げているとしても、彼女だって部に入ってからは投球練習をさせているのに。正直、八点で抑えられたことが良く感じる……フン、伊達に、関東のマシンガンと呼ばれたやつがマネージャーやっていないようだな……』
宇都木は笹二ベンチから声を出す、篠原柚月の姿を見て微笑ましく思っていた。
柚月は走っていく選手一人一人に声をかけると、最後にベンチからプレートに向かおうとする月島叶恵を見る。
「月島さん……」
「わかってるわよ……」
微笑んで声を出す柚月に対して、叶恵は背を向けて語りかけるようにしていた。
「正直、もうヘトヘトよ……でも、今はそんなことよりも、みんなとソフトボールしたい……」
叶恵はふと、振り返って柚月と目を合わせ始める。
「あと一回……行ってくるわ」
汗を流しながらも強気の表情を見せる叶恵に、柚月は笑顔で頷く。
「行ってらっしゃい!」
試合は遂に七回裏の始まり。
初勝利を目前として元気が有り余る様子の笹浦二高の選手たち。
一方、未だに諦めを見せない、瞳をギラギラと燃やす筑海高校の選手たち。
叶恵がゆっくりとピッチャーズサークルに入り、投球練習をおわらせると、最後の攻防が幕を開ける。
皆様、台風による影響は大丈夫でしたか?私が住む土浦市も洪水警報が出されていましたが、被害に遭ってしまった方々には、心から無事であることをお祈り申し上げます。
本日も閲覧して頂きありがとうございました。
梓は気持ち的には立ち上がることができたみたいですが、果たして試合はどうなるのでしょうかねぇ。
また、この章は仲間集め編として書いてきましたが、正直こんなに長くなってしまったことは予想外でした。勿論、この章はもうじき終了致しますが、今度は大会編等様々な話が待っております。どうか、末長くお付き合いしていただくことをよろしくお願い申し上げます。
次回は、この章が最終回になるよう書こうと思っています。果たして、笹浦二高は初試合を勝利で飾ることができるのか。
また来週、よろしくお願いいたします。




