独り善がり
時刻は朝の七時半。
ゴールデンウィーク中の日曜日である今日はまだ車や人通りが少なく、笹浦市には静かな朝が訪れていた。
そして今、この笹浦運動公園ソフトボール場では、笹浦二高のユニフォームを纏った女子たちがおり、練習試合のためのグランドづくりを行っているところだった。荷物については田村信次が学校の体育倉庫から車で持ってきた。皆、慣れないグランドづくりだったが、それぞれ役割分担をして行われている。
ホームベース周辺では牛島唯、植本きらら、星川美鈴の三人がいた。今朝、無事に起きれるか心配していた唯だったが、目の下に隈をつけて前夜寝ていない様子の美鈴が、唯の目覚まし時計が鳴る前に家のインターホンを鳴らして起こした。その後きららも唯の家に到着するが、先に来ていた美鈴が耐えられず寝てしまい、逆に唯は起こす側となってしまったのだった。
「唯先輩……今朝は、すみませんでしたっす……」
美鈴は下を向きながら言い、己の行いを改めて悔いていた。
それを聞いた唯は、全く怒った素振りはみせず、優しく言葉を返す。
「気にすんなよ。集合時間に間に合ったんだから、結果オーライだ。それに、美鈴の寝顔かわいかったぞ」
わざわざ自分のために早起きをして来てくれた美鈴には、無論感謝の気持ちしかなく、気にせずいつものも元気な様子でいてほしい。そんな想いを寄せて言ったあと、美鈴は突如身震いをして見せた。
「かっ……かわ……いい!?唯、先輩が……かわいいって……」
唯の何気ない言葉を聞いた美鈴は、顔を真っ赤にしており、全身の震えが抑えきれずにいた。
緊張を与えるような言葉でも言っただろうか?唯は美鈴の変わった応答を不審に思っていた。
三人はバッターボックスをラインカーで描く仕事を任されており、ちょうど今唯の手によって完成されたのだが、
「ねぇ唯~……本当にこれで大丈夫かにゃあ?」
と、きららは困った様子で唯に話しかけ、我に返った美鈴も含めて三人で、白線で記されたバッターボックスを眺めていた。
「ああ!言われたとおり四角は描いたんだ。文句は言われないだろ」
「ん~でも~……」
唯は自信を持った発言をしたのだが、きららは表情を変えられずにいた。
そこには、左右の両打席が確かに四角で描かれていたが、形はきれいとは言えたものではなく、大きさは一致しておらずそれぞれ異なった台形のようになっていた。それはバッターボックスと言うには程遠く、敷き詰められた大理石のように見える。
「なんか違うようにゃあ……」
「相似には程遠いっすが……」
「でも、四角は四角だろ?」
三人の思い違いなやり取りは終わりを知らず続いたが、目が良い美鈴は地面にあるものを発見する。
「先輩、地面に何か埋まってるっすよ」
美鈴は唯ときららにそう言うと、指差してその位置を示した。その地面からは、保護色で隠れて見えづらいが、茶色い縄の先端部が飛び出ていた。
ただのゴミじゃないかと考える唯だったが、美鈴は他の場所にも埋められていることも見つけ、それぞれを結ぶときれいな長方形になることに気づく。
「これって、マークじゃないっすか?」
「ミスズン大発見にゃあ!!」
「なるほど……さすが美鈴だな。頼りになるぜ」
「ほ、褒められた……唯先輩に褒められた~……えへへっ……うえっへへっ……」
唯の微笑んだ発言のあと、美鈴は顔を背けて、頬を赤くしてニヤついていた。
美鈴……なんかおかしいような……
唯の心の疑念感はより強く抱かれ、寝不足な美鈴を心配していた。
こうして、美鈴のマーク発見をきっかけに、三人は歪んだバッターボックスを消して描き直しを始めた。ラインカーを握ったのは美鈴だったが、終始変な笑みを浮かべながらラインを引いていた。
一方で、東條菫、菱川凛、メイ・C・アルファードの三人はそれぞれトンボを持ってグランド整備をしていた。
今朝は、まだみんなが眠っている東條家から共に出てきた菫と凛だったが、隣り合ってグランドに向かう途中でメイと遭遇し、それから三人はずっといっしょにくっついていた。
菫と二人きりでいたかった凛は、明るくトンボを鳴らすメイの存在にイライラした様子でグランド整備をしていた。
「どうして二人きりじゃないの?どうして二人きりじゃないの?どうして……」
何度も同じことを呟きながらグランドを均す凛を見て、菫は、
「凛……掘れてる掘れてる……」
と、同じ箇所を強く均す凛に苦笑いをして見せた。
「それにしても、きれいなグランドですよね。アメリカのグランドを思い出します……」
すると、小さなメイが大きなトンボを肩に担ぎ、外野に拡がる芝生を見ながら話しかける。メイの輝かしい明るさはなく、昔の思い出を懐かしんでいる様子だった。
「そういえば、メイさんってアメリカ出身だもんね」
「はい!!私の名前のC!!カリフォルニア州ですよ!!」
菫の問いにメイは元気を取り戻したかのように明るく振る舞った。
「そうなんだぁ。でもメイさん、日本語上手だよね?アメリカでソフトボールやってたって聞いたけど……」
「私が生まれたのはアメリカです。でも、ママの仕事の関係ですぐに日本に来ました。パパは日本人だったので、その実家で育ったんですよ」
「じゃあ、そのあとアメリカに?」
「はい!!アメリカに戻ったのは、私がちょうど小学生になったときです。中学生までいたんですけど、今年またママの仕事で日本に帰って来ちゃいました」
メイは眉をハの字にして答え、少し舌を出して見せていた。
「へぇ~。メイさんのお母さん忙しいんだね?」
「菫のお母さんみたい……」
菫のあとに、話を聴いていた凛も輪に入ってメイに話しかける。
凛が呟いた菫のお母さんは、現在銀行員の職に就いており、会社の関係で帰宅する時間は夜の九時を越えるのが普通である。酷いときには会社の近くのビジネスホテルに泊まることもあり、家事全般を長女の菫に任せている。
メイのお母さんの職はわからなかったものの凛と菫は、母親が仕事で忙しいことへの気持ちに共感していた。
「でも、私はそんなママが大好きです。もちろんパパもですよ。ソフトボールを始めたきっかけはママでしたし……」
メイはいつもは見せない、しんみりとした様子で口を開いていた。
家族に対する愛。それは菫と凛も共感している。仕事をして大変なのに、自分たちの面倒を見てくれた両親。そのおかげで、今こうして楽しくソフトボールをしている……
「また、ママとキャッチボールしたいな……」
三人のグランド整備は、明るみよりも温かさを秘めながら行われていた。
また一方で、ファーストベース上にはラインカーを手に持った中島咲が、眉をピクピクと動かしていた。
「う~ん……曲がっている気がする……」
ラインカーを使って、ホームからファーストへかけての白線を見て、咲は腕組みをして悩ましそうにしている。
咲が描いたラインは、ホームの少し離れた所から曲がり始めており、蛇のようなうねりを見せていた。
「もう~……センスがないんだから」
ラインカーの後ろに立つ咲に対して、マネージャーで一人制服姿の篠原柚月が呆れて言っていた。
「いや~……それほどでも~」
「私の言葉に褒めた要素、明らかに無かったよね?」
頭を掻いてうれしそうに反応する咲を見て、柚月は咲の勉強のセンスのなさすらも感じてしまい、大きなため息をついていた。
「咲ちゃん、大丈夫だよ」
すると二人のもとに、キャプテンである清水夏蓮が立ち寄り、咲の前にあったラインカーを握りしめる。
「ラインの引き方のコツは、絶対に下を見ないこと。最終地点を見ながら一歩ずつ、二度書きするようにやれば上手くできるよ」
夏蓮は優しくそう教えると、現在いるファーストベースからホームに身体とラインカーを向けて、一歩ずつ丁寧に白線を引いていく。すると、あっという間にホームまでたどり着き、その白線はきれいな直線の姿を表していた。
「夏蓮すごーい!!」
「へぇ。伊達に昔は、ヒモ夏蓮と呼ばれてただけはあるわね」
夏蓮のライン引きに感動して拍手する咲のあと、柚月は夏蓮が小学生ソフトボールクラブ、笹浦スターガールズに所属していた当時を思い出していた。当時、夏蓮は常に補欠だったこともあり、荷物運びやグランド整備を率先して行っていた。その器用な作業は様々な人から認められており、いつしかチームの皆からは、グランド整備の達人、整備の魔女、ライン少女夏蓮ちゃん、ヒモ夏蓮など、褒めてはいるのだろうが変な名前をつけられていた。
「柚月ちゃん、バカにしてるでしょ?」
夏蓮は、柚月が一番バカにしているような当時のあだ名を言ったことに、納得がいかずふてぶてしくしていた。
「まさかー!!私は夏蓮ちゃんを尊敬してまちゅよー」
「ほら~、やっぱりバカにしてる~!」
柚月のテキトーな受け答えの様子を見て、夏蓮はさらにヒートアップして顔を赤く膨らませていた。
「ねぇねぇ!!そういえば、柚月はどうしてユニフォームじゃないの?貰ったんだから着れば良いのに」
二人のやり取りを見ていたのか疑わしくなるほど、咲が突然気づいたように質問をする。
「え?そりゃあ、私はマネージャーだからよ。試合に出るわけないし。それに私もユニフォームだったら、あなたたちみたいに汗臭いと思われちゃうじゃない?」
「ほー、なるほどー!!」
「違うよ咲ちゃん!柚月ちゃんは私たちをバカにしてるんだよ!!」
「えーっ!?」
柚月の他人を小馬鹿にする発言は続き、学業成績が下の夏蓮と咲を弄んでいた。そんな柚月は一度髪を掻き分けると、ピッチャープレートの方へと視線を送った。
ピッチャープレートでは、月島叶恵とユニフォームを着た信次が作業を行っており、ピッチャーズサークルを作っている。プレートの中心には信次がメジャーの本体を押さえており、その端をラインカーに付けて叶恵が円を描いていた。
「アンタ、長さ間違ってないでしょうね?」
「ああ!!二メートル四十四センチ!!今度は大丈夫だ!!二は反対にしても五にはならないからな!!」
実は先ほど、二人は外野のファールラインとフェンスラインを描いていたのだが、一度目はとんでもなく広いグランドとなってしまった。明らかにおかしいと思った叶恵は、信次が持つメジャーを見ると、本来の長さが六十七メートル六センチなのに対して、九十メートル九センチとなっており、野球張りの広さとなってしまった。どうも信次は六と九の数字を反対に見間違えていたようだが、叶恵は、
「七はどこいったのよ!?」
と、罵声を浴びせると信次は、
「え!?これって斜線じゃないのか!?ほら、よく速さとかで使う毎秒毎分とかの毎の部分だ!!」
と、悪気は全くないと言わんばかりの笑顔で返していた。
結局二度描きすることになってしまった叶恵は、信次のことを心から見損なっており、最後のピッチャーズサークルを描いているところだった。
二人の間には先ほど以上の心の距離感があったが、信次は気にすることなく口を開き始める。
「今日は、楽しみだな!!」
すると、ピッチャーズサークルを半分ほどまで描いた叶恵は突然止まり、うつ向いて怪訝な表情を浮かべていた。
「アンタさ……わかってて今日の相手を選んだの?」
叶恵は信次と目を合わせず、下を向いたまま言葉を放ち、ラインカーを強く握りしめていた。
「去年ボロ負けした相手……か?」
信次は叶恵と違って微笑んだ様子で言い、叶恵にとって、それは少し挑発的なものにも感じ取れた。
筑海高校。
実は、このチームは去年、月島叶恵が創設したチームの初の練習試合相手でもあり、笹浦二高を大敗に追いやったのだった。その試合をきっかけに叶恵の部員は、ソフトボールの辛さ、苦しさ、厳しさに気づいたためか部を辞めていってしまい、気づけば叶恵一人だけが残るという事態まで発展してしまった。結果として叶恵の高校ソフトボール一年間を襲ったと言っても過言ではない。
そんな相手と再び試合をすると聞いた叶恵は、去年戦ったからこそわかる、筑海高校の強さを誰よりも感じており、ここしばらく眠れない日々が続いていた。
下を向いたまま動こうとしない叶恵だったが、信次はそれを見て静かに口を開く。
「怖いか?」
信次は先ほどまでの微笑みを消して、叶恵だけが聴こえるように発言した。
しかし、叶恵は口を一度ニッと動かして、目の前にあるラインカーに両手を伸ばす。
「悪いけど、愉快で仕方ないわ……だって、大きな借りを返すチャンスだもん」
叶恵は強気の表情でそう言うと、再びラインカーを握りしめピッチャーズサークルを描くため一歩踏み出す。
正直、叶恵の気持ちを心配していた信次だったが、勝負に対して前向きな叶恵を見て内心ホッとし、真剣にラインカーを動かす叶恵の姿を見届けていた。部の中でも小さな背なのに、一人で大きな荷物を背負うツインテールは、信次には戦士のようなかっこよさがひしひしと伝わっていた。
「ふぅ~、こんなもんかしら?……ん、何よ?」
きれいな円を描き終えた叶恵は、一度額の汗を裾で拭き取りひと安心といったところだったが、信次の温かい視線に気づいて不思議そうに視線を向ける。
「いや、月島の背中を見ていただけだよ」
信次は叶恵に相変わらず明るい、朝の優しく照る太陽のように微笑んでいた。
すると、叶恵は信次から視線をそらし始め、ソフトボール場の入り口の方を警戒するかのように見始める。
「来た……」
叶恵の呟きのあと、信次も振り返って目をやると、入り口から見覚えのない、背番号が無い赤いユニフォームの女子たちが、エナメルバックを輝かせてこちらに小走りで向かって来てるのが映る。総勢二十名はいる彼女たちの足音に気づいた笹浦二高のみんなも、一旦作業を止めて眺めている。胸に赤い文字で筑海高校と横に羅列した戦着を纏った女子高校生たちは、荷物を地面に置いてすぐに横並びをし、一斉にサンバイザーを取り外す。
「き、気をつけ!!今日一日、よ、よろしくお願いしまーす!!」
「「「「「よろしくお願いしまーす!!」」」」」
筑海高校のキャプテンによる緊張した挨拶のあと、続けて部員たちもきれいに揃えて叫び、軍隊のように一礼を見せた。
このような状況に遭ったことがない笹浦二高のほとんどは、凍りついたように固まってしまい、どうしたら良いかわからずにいた。すると、
「みんな!!気をつけ!!」
と、キャプテンの夏蓮が一声を挙げてみんなの注意を喚起する。
「今日一日、よろしゅくお願いしまーす!!」
「「「「よろしくお願いします……」」」」
緊張して噛んでしまった夏蓮のあと、笹浦二高の部員たちもただならぬ緊張感に襲われてしまい、いつものような元気な挨拶ではなかった。
すると、相手チームはすぐに三塁ベンチへと移動して、バックからグローブ、スパイクなどの用具を取り出す。しかし、筑海高校のキャプテンは挨拶を終えてからずっと動かず、笹浦二高の部員を眺めて動かずにいた。
自分が挨拶で失敗してしまったことを悔いる夏蓮だったが、気になって視線送ると、お互い目があってしまうが、ハッと気づいたように目を見開く。
「ほ、穂乃ちゃん!?」
「やっぱり!!夏蓮だよね!!お久しぶり!!」
驚いた様子で夏蓮が叫ぶと、穂乃と呼ばれたキャプテンは、さっきまでの緊張が吹き飛んだように笑顔を見せていた。
「嘘!?穂乃じゃん!!高校でもキャプテンなんだ」
「穂乃~!!久しぶり~!!」
夏蓮の声で改めてきづいた柚月と咲も笑って答えて手を振り、三人は相手キャプテンのもとへと駆け寄る。
彼女の名前は花咲穂乃。背は夏蓮より一回り大きく、髪はショートカットな彼女だが、実は夏蓮たちとは昔からの同期仲間であり、小学六年時の笹浦スターガールズキャプテンを務めた選手である。泉田涼子の後を継いだ穂乃は、小学校卒業後は三人と他の中学に入学したのだが、そこでもソフトボールを続けて、そしてこの筑海高校では再びキャプテンとして健在している。当時は三番ショートの役割を果たしており、彼女の生まれつき才能は柚月に匹敵するほどだった。
そんな穂乃とは小学校卒業以来の再会。夏蓮たちは喜ばしい様子で、昔の話なども含めて話していた。しかし、穂乃は三人しかいないことに気づいて少し暗い表情を表す。
「やっぱり……梓はいないんだね……」
舞園梓の名前を含むその言葉には、夏蓮たちも自然と俯いていた。元笹浦スターガールズにいた者として、六年前のあの出来事は聡明に覚えている。
元気がなくなった様子の咲と柚月だったが、一方夏蓮は顔を上げて口を開く。
「大丈夫。梓ちゃんは、きっと来るよ」
夏蓮は一人笑顔を見せて言い、場の空気を和ませる。すると、咲と柚月もその微笑みにつられて明るい表情へと戻っていた。
不思議に思う穂乃は「どうして?」と尋ねるが、夏蓮は、
「だって、私たちの梓ちゃんだから」
と、理由にならないような言葉を返したが、笹二の三人はとてもうれしそうに笑っていた。
「花咲、アップを始めろ……」
すると、四人のもとに一人の女性の声がする。その正体は穂乃と同じユニフォームを着た女性であり、信次に匹敵するほどの背の高さで、体育会系出身と思わせるような鋭い目付きをしていた。
「はい、監督!!」
その女性を監督と呼んだ穂乃は表情を変えて、「またあとでね」と、言葉を残して部員のもとへと走り去った。
「初めまして……えっと……笹浦二高のキャプテンかな?」
女性は小さな夏蓮のことを見下ろすように話しかけると、夏蓮は緊張で震えながら、「は、はい!!」と答えていた。
「そうか。今日はよろしくな。あと、田村監督は?」
少しの頬の弛みを見せた女性はそう言うと、
「宇都木鋭子監督ー!!おはようございます!!」
と、石灰で鼻先が白くなった信次が、宇都木鋭子のもとへと駆け寄った。
「本日はわざわざお忙しいなか来ていただいて、本当にありがとうございます!!」
信次は頭を低くして丁重に振る舞っていた。
「いえいえ、こちらこそ。半年後のチーム運営の参考にもなりますし、こちらとしても今日はよろしくお願いします」
対して宇都木鋭子も、被っていたサンバイザーを外して、信次に敬意を表していた。
「清水!!グランド整備も終わったから、練習を始めなさい」
「はい、先生」
信次の優しい命令に対して、夏蓮が笑顔で返事をすると、部員を一塁ベンチへと集めさせて早速ランニングを開始した。
「見たところ、選手は九人ですか……なかなかギリギリでたいへんですね。DPやFPも使用できませんし……」
宇都木監督は、ランニングをする笹浦二高の部員、ベンチでメンバー表を作成中の柚月を見て、人数の少なさに悩ましそうに言っていた。
「いや、実はもう一人選手がいるんですよ。今日はまだ来ていないんですがね……」
信次はそう言うと、宇都木に苦笑いを見せていた。
そんな信次に宇都木監督は不審な思いを抱いており、今度は遅刻を許す監督がやっているのかと呆れていたが、信次は、
「まぁ……正式に部にはまだ入っていない子なんです。でも、ソフトボールが大好きみたいで、今日の練習試合に何度も誘ったんですよ。だから、きっと来ると思います」
と、宇都木の目を見て自信に満ちた表情をしていた。前向きで希望に満ち溢れたその顔は、良くも悪くも監督らしからぬものであった。
「なるほど……では、試合は一時間半後の十時に開始でお願いします。審判等はこちらがやりますので、一試合真剣勝負でお願いします」
宇都木は愛想笑いを浮かべて伝えると、信次に背を向けて三塁ベンチへと去っていく。
信次は背中を見せられても、「よろしくお願いします」と一礼をして一塁ベンチへと向かった。
宇都木は内心、笹浦二高に対して不審な思いが募っていた。去年はソフトボール部創設時、井村幸三が顧問だったが、彼の部費不正受け取り事件で消滅している。結果として井村は教員を辞めることになってしまい、ソフトボール部とともに姿を消した。そしてまた今年、しかも同じ時期に再生した笹浦二高ソフトボール部。去年とは違った、どこかレクリエーションの空気を漂わせており、自分が指揮を執る筑海高校とは全く真逆なものだ。それもそのはず……今回の顧問はまるで、ボランティアに参加する大学生のようにも見え、監督としての威厳さなど全く感じ取れない。一人欠ければすぐに試合ができなるような状況でもあり、またすぐに廃部になってしまうんではないか?
そんなことを考えながら宇都木はベンチへと向かい座ると、自分のチームではなく、笹浦二高チームを眺めていた。
『まあ何よりも、あの子がまたソフトボールをやってことが、不幸中の幸だろう……』
宇都木はそう思いながら、先頭を切って走る月島叶恵の、周囲の空気を無視した一生懸命な姿を見つめていた。
『彼女のソフトボール魂を、教師として、監督として、疎かにしてあげたくない……たとえ、相手チームだろうとな……』
鋭い目付きながらも遠くから見守る宇都木は、去年の試合で相当な点数差をつけられても、必死で投げ抜いた叶恵を思い出していた。あのときは、それはそれは惨めであり、叶恵だけがプレイしていたようにも見えた。一人で声を出し、一人でチームを引っ張り、一人でアウトを獲っていた。三回にはすでに十点差をつけられていたが、それでも叶恵は最終回までを続行を打診した。結果は25-1と圧倒的な差をつけられてしまうが、それでも最後まで諦めず投げ抜き、勝利に貪欲だった。
あれから一年経つが宇都木は、自分と同じようにソフトボールに熱い想いを抱く彼女を密かに応援していた。
笹二と筑海の練習は、ライト、レフトとそれぞれ外野の芝生で行われていた。練習内容はお互いほぼ同じで、キャッチボール、バントトス、ティーバッティングを進める。一方、それぞれの先発ピッチャーは肩をつくるため投球練習に入り、本日先発の叶恵はレガースを着けた咲を座らせて投げ込んでいた。笹浦二高サイドは、練習のように和やかな空気のなかで行われており、その元気と明るい雰囲気は、このグランドに拡がっていた。しかし、叶恵だけはどこか強ばった表情を続けて投げていた。対して筑海高校は、宇都木監督の厳しく恐ろしい眼差しを浴びながら行われており、笑顔の者など誰一人おらず、皆すでに緊張感を高めていた。
そして時間は進み、試合開始まで残り三十分となった。両サイドはそれぞれのベンチへと駆け戻り、フィールディングの準備を始める。
キャプテンの夏蓮と穂乃がメンバー表交換を終え、先攻は笹浦二高に決まる。笹浦ベンチは、先にフィールディングを行う筑海のプレイを黙って見ていた。
「ボールファーストー!!」
筑海高校のキャッチャーによる大きな声で行われ、守備する選手たちも闘争心を抱き叫んでプレイしている。ノッカーの宇都木鋭子による打球は全ての守備人に襲いかかり、ボールへの俊敏な移動、飛び込みなどで必死にくらいついていた。その雰囲気は高校球児に劣ることのないものであり、相手の笹浦ベンチを凍りつかせていた。
「すっげぇ気合いだなぁ……」
美鈴、きららと共に立ちすくんでいた唯は、初めて見る相手のフィールディングに圧巻されて言葉を漏らす。菫や凛の二人も同じように圧倒された様子であり、未経験者の五人は、昨日に叶恵が言っていた、フィールディングでプレッシャーをかけろという言葉を改めて実感していた。
「ヨシッ!!みんな集合!!」
すると、ベンチの中から信次の声が叫ばれ、それに気づいた部員全員が信次の回りに集まる。選手のみんなは、さっきまでの練習とは異なった表情をしており、体の震えを見せるなどの緊張が走っていた。
しかし、信次にはその様子はなく、笑顔で一人一人の顔を見て口を開く。
「今日の練習試合は、笹浦二高ソフトボール部の記念すべき一戦だ!!皆、この日までたくさんの汗を流してきただろう。その苦労が、今日身についているかが証明される。最後まで諦めず、みんなで戦おう!!」
信次の前向きで明るい発言のあと、部員は一斉に返事をした。しかし、未だに震えが止まらない様子が続いており、ただならぬ緊張感が走っていた。
「やぁ~みんな」
ふと、笹浦ベンチの後ろから男性老人の声がする。耳にしたみんなはその方を向き始めていた。
「校長先生!!」
信次の言葉のあとベンチ前に現れたのは、笹浦二高の校長を務める清水秀だった。いつものようなスーツ姿で出てきた清水校長は、皆の緊張をほぐすように笑顔を見せていた。
「みんなの試合が楽しみで観に来てしまったよ~。みんな頑張ってねぇ」
清水校長の優しさが込められた言葉に皆は、徐々に笑顔を取り戻していた。夏蓮たちによって伝えられた、梓の六年前の話に監督として登場した清水校長を、皆はより一層の信頼をおいていた。
菫。凛、メイの三人は、校長先生の前で頑張ろうと意気込んでおり、また唯、美鈴、きららたちは、清水校長が監督やればいいのにと、冗談混じりに言い、ベンチ内は和やかな空気に包まれていた。
「あれ!?涼子ちゃん!?」
咲の突然の発言につられて、夏蓮と柚月も視線を変える。すると、ベンチの近くには、制服姿の泉田涼子が手を振って立っていた。三人はすぐに涼子のもとへと駆け寄り、来てくれたことを心から喜んでいた。
「涼子ちゃーん!!」
「もう……ちゃん付けは禁止でしょ?」
抱きつく咲に困った様子の涼子だったが、うれしそうに頭を撫でている。泉田涼子は現在女子バレーボール部の主将であり、本日は練習が午後からということもあってこの場に来ていた。応援をしに来たと伝える元キャプテンの言葉には、夏蓮たちも自然とヤル気と元気が芽生えていた。
また、ベンチにいた信次のもとにはもう一人、柄の悪い男が姿を現していた。
「慶助!!来てくれたのか!?」
「いや、清水校長に強制連行されたんだよ……全く……人使いの荒い元担任だよ……」
笑顔で迎える信次とは逆に、大和田慶助は困り果てたように言っていた。慶助は、高校時代担任であった清水秀を自身の車でここまで連れてきたらしく、それは前日に頼まれていたという。せっかく今日は仕事が休みだったのに、清水校長のために働く日となってしまい、大きなため息をついていた。
「もうすぐ終わるわ……準備よ……」
すると、相手フィールディングを見ていた叶恵が皆の和やかな雰囲気をかき消すように言っていた。
筑海高校のフィールディングの次に行う笹浦二高は、夏蓮が全員を整列させ始める。
観に来てくれた涼子、そして校長先生に良いところを魅せたいと誰もが胸に秘めており、静かに相手の終了を待った。選手にはそれぞれ緊張感はあったが、それは先ほどまでのものとは異なり、キラキラと目を輝かせていた。
「グランドあいさーつ!!ありがとうございましたー!!」
「「「「ありがとうございましたー!!」」」」
キャプテン花咲穂乃をはじめにグランド挨拶をした筑海高校は、素早くベンチへと戻り、宇都木監督の回りに集まっていた。
それを見て笹浦二高は、
「みんな!!行くよー!!」
「「「「しゃあー!!」」」」
と、勢いよくベンチを飛び出し、フィールディングを開始した。昨日の練習のようにノッカーは信次が行い、空振りをすることもあったが次々に打球を飛ばす。選手のみんなはエラーをすることがありながらも、みんなで元気よく声を上げており、とても良い雰囲気のなか精いっぱい動いていた。最後に信次は真上にフライを飛ばし、それをキャッチャーの咲が捕球すると、選手は一斉に一塁線側に整列をしてグランド挨拶をした。
こうして無事にフィールディングを終えた笹浦二高は、夏蓮の指示を聴いてすぐにグランド整備の作業に入り、内野の土をトンボで均して終わらせる。
試合開始まで残り僅か。ベンチ前で構えるそれぞれの選手は、筑海高生による審判の開始を今か今かと待っていた。
「集合!!」
審判の合図に反応し、両チームは駆け足でバッターボックスへと向かう。
「互いに礼!!」
「「「「お願いしまーす!!」」」」
両者真剣な表情で向き合って開始の挨拶を交わすと、筑海高校は守備へ、笹浦二高はベンチへと戻っていく。
まず笹浦二高は夏蓮を中心に円陣を組み、それぞれの肩に腕を乗せていた。
「練習通りやればきっと大丈夫。みんなで勝とう!!いってーん!!」
「「「「しゃあー!!」」」」
円陣で気合いを入れ直した笹浦二高は、一番バッター月島叶恵、二番バッター清水夏蓮がバットとヘルメットを持って、相手の投球練習を見ていた。右腕から投じられるボールは叶恵よりも速く見え、少し驚く夏蓮だったが、隣にいた叶恵には、「頑張ろうね」と、明るく振る舞っていた。しかし叶恵は一言もしゃべらず、真剣な表情を変えぬままヘルメットを被りバッターボックスへと向かう。左バッターボックスで一礼して土にスパイクで掘り、相手ピッチャーを睨み付け構え始める。
おどおどした様子の相手ピッチャーだが、ショートを守る穂乃が、
「呉崎さん、打たせていこう!!」
と声をかけて応援していた。
呉崎と呼ばれたピッチャーは一度大きく深呼吸をし、少しリラックスをしてバッターの叶恵に向き合う。
「プレイ!!」
主審の声でついにゲームが開始される。
筑海ベンチからはピッチャーに向けての大声援。一方笹二ベンチからも応援と、両者の声はこのソフトボール場全域に拡がっていた。
まずは初球。呉崎はゆっくりと体を倒し、プレートを右足で勢いよく蹴る。その足を引きずりながら左足を地面に着地させ、右腕の一球が放たれる。
バシッ!!
「ボール!!」
呉崎から放たれたストレートは外角に外れていた。ベンチで見ている笹浦二高勢もそのボールの速さに少しどよめきをもたらしていたが、続けて叶恵に声援を送っていた。
バシッ!!
「ストライク!!」
続けてストレートを放った呉崎は、インコースにストライクをキメてホッと安心した様子でいた。続けてすぐに三球目を投じる。
バシ!
「ストライクツー!!」
ストレート程の速さは無かったが、ボールは縦回転で落下して叶恵の膝の高さへと投げられた。
『ドロップ……どうやら、ストレート主体のピッチャーみたいね』
追い込まれてそう思う叶恵に対して、ベンチからは少しの罵声と大きな声援が続くが、叶恵はバットを短く持って次のボールを待った。
『よし……三振だ……』
まだ緊張がとれない様子の呉崎だったが、腕を回してアウトコースへとストレートを投じた。
しかし次の瞬間、叶恵は軸足を一歩前に出し、まるで走りながら打つようにバットを振った。
カキーン!!
叶恵の打球は一度バウンドし、サード方向に高々と上昇する。なかなか落ちてこない白球を待つサードは、一度バッターの叶恵のことをチラ見した。すると、叶恵はすでにスリーフットラインの上を走っており、チラ見どころか、目を見開いてしまった。やっとボールがグローブに入り、すぐにファーストに投げようとしたが、笹浦二高の俊足一番はすでにオレンジベース手前まで来ていた。
「セーフ!!」
一塁審判のジャッジのあと、笹二ベンチは大声で沸き上がる。先頭バッターが出たことに対して先制点が望める展開になり、皆うれしそうにしていた。
「月島先輩ナイスランです!!本当に早いんですね!!」
一塁ランナーコーチャーを務める菫がそう言い、叶恵は微笑みを見せず無言でバッティンググローブを渡していた。
叶恵のバッティングを見ていた唯たちは、あんなバッティングはありなのかと呟くが、経験者の柚月はスラップという打法であると説明していた。
スラップ。一塁セーフを目指し、走りながら打球を地面に叩くように打ち、内野安打を狙う打法。
柚月の話を聞いて、唯は叶恵のやり方は汚いなと批判していたが、それよりも先制のチャンスの期待感が高まっていた。
次は、二番ライト清水夏蓮。
夏蓮は身震いをしながら一礼して、ゆっくりと右打席に入る。万年補欠だった自分が、今や二番という打順になっていることに緊張が走り、ふとランナーの叶恵を見た。すると、二人は目が合い、叶恵は低く構えたまま一度首を縦に振っていた。それに気づいた夏蓮は、バットの持ち方を変えて、打席でバントの構えを始める。
『叶恵ちゃん……これでいいんだよね?』
『余計なことしたら、許さないからね……』
二人の想いが生じたあと、呉崎は夏蓮にボールを放つ。
「走った!!」
ボールが呉崎の指から離れた直後、ファーストから一声が上げられる。得意のストレートは打者の内角へと向かうが、夏蓮はバットを引いて見逃した。
審判のコールはストライクと叫ばれたが、ボールを捕球したキャッチャーはすぐに持ち変えて、セカンドベースへと投げ込む。二塁上ではショートの穂乃が捕球をし、そのタッチと叶恵のスライディングが交差した。
「セーフ!!」
二塁審判のジャッジの瞬間、笹浦二高ベンチは再び盛り上がる。叶恵の足の速さは誰もが知っていたが、実戦でさっそくその俊足による盗塁が決まり、初回からイケイケムードとなっていた。
「叶恵ちゃん!!ナイスラン!!」
ベンチと同じように、自分のことのようにうれしそうに叫ぶ夏蓮だった。叶恵からのジェスチャーを受けて、自分が行った見送りが正解だったことでホッとするなか、結果自分たちに先制のチャンスを生み出せたことに歓喜していた。が、叶恵は全く微笑みを見せることなく、すぐにランナーの構えを始めており、ベンチの雰囲気とはどこか違った様子を見せていた。
その後、夏蓮はカウントワンストライクから見事にファースト方向への送りバントを決めることができた。まだまだ試合の序盤でありながらも、最近の辛い練習は、自信の力に変わっていると既に感じながらベンチへと戻る。
状況はワンアウト三塁のチャンス場面。そして打席には、三番センターのメイ・C・アルファードが大きな声で挨拶をし、小柄ながらもどっしりと左打席で構える。
『初球からガンガンいきますよ~!!』
強気の表情を浮かべるメイに、焦る呉崎はボールを投げ込む。
カキーン!!
メイの、快音を響かせた打球はセカンドの頭上を越えていき、センター寄りの右中間へのライナーとなった。
パシッ!!
メイの打球は惜しくもセンターのグローブに収まるが、距離は十分と悟っていた叶恵はタッチアップのスタートを切っていた。センターもすぐに返球したが、叶恵は悠々とホームに帰還し、笹浦二高はいきなりの先制点を叩き出した。
「やったー!!日本での初打点です~!!」
アウトになったのにセカンドベース上ではしゃぐメイだが、それを見てベンチも盛り上がりを見せていた。
「あ、叶恵ちゃん!!」
キャプテンの夏蓮は、ホームを踏んで帰ってきた叶恵に向かい、先頭打者の出塁を褒め称えるようにハイタッチを求める。しかし、叶恵は夏蓮の横を通り過ぎていき、ヘルメットを外してすぐにグローブを手にはめていた。叶恵に対して疑念を抱く夏蓮は少し暗い表情を浮かべるが、すぐにベンチの明るいムードにかき消され、次のバッターへと視線を送っていた。
四番キャッチャー中島咲。
「エーミン!!一発打ち上げるにゃあー!!」
「唯先輩に回してください!!」
きららと美鈴の声援が響くが、バッターの咲はなぜだか、左右の手足が揃った状態で歩いていた。
「あれ?……もしかして咲ちゃん……」
「咲……たぶん変わってないかも……」
ベンチにいた夏蓮と柚月は、小学生のときの咲を思い出しながら苦笑いをしていた。
ぎこちない様子の咲は、滑らかさを失ったロボットのようにお辞儀をして右打席に入る。顔をゆっくりと上げて構えるその表情は、口元の震えが止まらず、目を大きく見開いていた。
バシッ!!
バシッ!!
バシッ!!
「ストライク!!バッターアウト!!チェンジ!!」
「はぁ……やっぱ私ダメだ~」
三回バットを振った咲だったが、ボールにかすりもせず三振を喫す。
「なんだ~?中島らしくねぇなぁ」
ネクストバッターとして準備していた唯がそう言うと、困った表情の夏蓮は、
「咲ちゃん……実は極度のあがり症なんだよね」
と、仕方なさそうに笑っていた。いつもはチーム一番声を出してプレーする咲だが、試合が始まってからは全く声が出ない様子で、終始体の震えが止まらずにいた。この症状は小学生の頃から夏蓮たちに見せており、その姿は練習とは別人のようだった。特にバッターとなると、多くの視線を浴びるためか、本人曰く、嫌いな守備よりも緊張するらしい。
ベンチの外で見ていた泉田涼子と清水校長も、咲のバッティング内容について話している。
「すみません……バレーボール部でも同じでした……」
「ハッハッハ……なんとも咲ちゃんらしいねぇ」
頭を抱えて悩ましく思う涼子のあと、清水校長が以前と変わらない咲の姿を懐かしんでいたが、二人の眉はハの字と同じ形になっていた。
笹浦二高の攻撃が終わるが、早くも一点を挙げたみんなは元気な様子で、自分のグローブを握ってそれぞれの守備位置へと走っていく。
チームの空気はとても良いものとなっていたが、相変わらず叶恵の表情だけは硬かった。叶恵はピッチャーズサークルで、捕手として座る咲に向けて投球練習を始める。相手ピッチャーは少し遅く見えるが、そのコントロール重視の繊細なピッチングは咲の構えるミットを微動だに動かしていなかった。
「ボールバーック!!」
打席とは異なった様子の咲は、いつもの大きな声を上げて、叶恵の最後の練習球を捕るとすぐにセカンドベースへと投げる。
ボールをもらった菫を始め、内野でボール回しが行われると、外野を含め九人がサークル内で円の形をとっていた。
「みんな、先制後の守りこそ大切。練習でやってきたことを信じて、積極的にアウトを獲っていこう!!」
集まるみんなに向かって放ったキャプテンは、顔を空に向けて息を大きく吸い込み、地面にぶつけるように吐き出す。
「かがやけ~!!」
「「「「笹二ファイトー!!」」」」
夏蓮から放たれた震え声のあと、みんなは続いて叫ぶと、円から外れてポジションへと向かっていく。前日に練習した円陣も無事に終えることができ、バックのみんなは意気込んで守備位置へとついた。
「中島……」
「ん?」
バッターボックスへと向かおうとする咲を引き止めるように、叶恵は小さく囁いた。
咲は気になって再び叶恵に近づくと、「口元隠して」と言われて、ミットで口を覆って叶恵に耳を近づける。
「ストレートは少なめ……変化球軸の配球でいくわ……球種とコースは私が判断するから……」
「う……うん……わかった……」
叶恵の落ち着いた声を聴き終えた咲は、多少の疑念を抱きながら主審の前に座る。叶恵はなぜ、私にあんなことを言ったのか?球種とコースは私が判断するからって、どういう意味なんだろうか?
咲の熟考は結論にまでは至らず、気づけば筑海高校、一番ショート花咲穂乃が左打者として立っていた。知り合いでもあるため一声掛けようとも思ったが、穂乃の顔は真剣そのもので、会話を拒絶しているようにも見えた。
『そうだよね……今は試合中だもんね』
咲はそう思うとすぐに、主審の開始の合図が放たれた。まず咲は叶恵に見えるように右指を動かして、球種のサインを送っていた。すると、叶恵はさっそく首を横に振り別のサインを要求した。咲は別の球種を示すがなかなか首を縦に降ってもらえず、次々にサインを送っていた。
叶恵の球種は多岐に渡っており、ストレートを始めドロップ、カーブ、スライダー、シュート、そしてチェンジアップとあり、もはや咲は当てずっぽでサインを決めていた。三回目でやっと叶恵が認めると、今度はコースのサイン。内外と高低の四通りを決める訳だが、ここでも咲は狼狽していた。
叶恵はやっと首を縦に振ると、大きく深呼吸をして体を折り曲げる。ステップを踏んで回される左腕から勢いよく白球が放たれ、咲のミットへと向かっていく。
バシッ!!
「ストライク!!」
まずは、左打者から逃げるような外角低めのスライダーを見せた。咲は、「ナイスボール!!」と笑顔でボールを返すが叶恵の恐い目付きは変わらず、第二球目の球種を要求していた。
『なかなかサインが決まらないなぁ……』
ライトで構える夏蓮は、さっきからなかなか意志疎通が取れていないバッテリーを見て不安に思っていた。
『ほう……また去年と同じように投げるつもりか……』
相手ベンチに居座る宇都木鋭子も叶恵のピッチングをまじまじと見ている。去年も叶恵が投手として戦ったこともあり、彼女が多彩な変化球を持っていることを知っているが、昨年同様、一球毎に首を横に振る叶恵の姿は独り善がりで、どこか余計に疲れさせているのではないかと感じとっていた。
キーン!
叶恵が投じたアウトローへのカーブは穂乃のバットの先端に当たり、三遊間への低いゴロとなる。必死に走ってセーフを狙う穂乃であるが、打球にはサードの唯が手を伸ばしていた。
「し、しまった!!」
唯は、打球には追いついたものの、掴めずファンブルをしてしまいボールを前に落としてしまう。慌てて拾ってファーストの美鈴へと投げようとしたが、
「早く返して!!」
と、叶恵が大声を上げてボールを返球するように命じた。叶恵の判断は正しく、投げてもセーフになることは唯にも目に見えていた。
結果セーフとなり、ノーアウトランナー一塁。
エラーしてしまった唯は渋々一言謝って返球するが、叶恵は無言のまま受け取りセットを始めていた。
『なんだよ……一言くらい言ってくれたって良いじゃねぇか……』
唯は叶恵の態度に少し腹をたてて思っていた。いつもなら何かしら罵声を上げる叶恵なのだが、今日は至って静か。いつもと違うチビ女には、違和感を抱いていた。また、自分のいきなりのエラーを犯してしまい、不満を募らせていたのだが、
「唯ちゃ~ん!!ドンマイドンマ~イ!!」
と、ライト方向からはキャプテンの明るい大声が響いていた。それをきっかけに周囲の選手たちも、唯に励ましの言葉を送り始め、気持ちを自然と切り換えることができていた。
ベンチから眺めてる信次も明るく微笑みを見せており、選手に向けて大きな声援を送っていた。
その後、叶恵の精密な投球は相手の二番三番を打ち取り、ツーアウト二塁の状況となる。ここでバッターは四番キャッチャーの選手。ベンチから錦戸と呼ばれる彼女は、大きな体を左バッターボックスへと運び、緊張した面持ちで構え始める。
「ピンチだな……」
「大丈夫よ……月島さんならきっと……」
笹浦二高ベンチでは信次と柚月のやり取りが繰り広げられており、両者心配した様子となっていた。
すると、叶恵は何度もサイン変更を求めるながらも、なんとかツーボールツーストライクまで追い込んだ。簡単にストライクを入れればきっと打たれる。かといって、ボールに外したら次の投球で攻めづらくなる。そんな思いが交差するなか、叶恵は投球動作に入る。
『これでキメる……』
叶恵は自分にそう言い聞かせ、柔軟な左腕をしなやかに振り回した。
バッターの錦戸にはアウトコースの速いまっすぐの球に見え、バットで手を出す。
「!?」
すると、球は急に軌道を変え始め、バットの下を潜り落ちていく。
バシッ……
「ストライク!!バッターアウト!!チェンジ!!」
「しゃああぁぁーーっ!!」
相手の四番を得意のドロップで三振にした叶恵は次の瞬間、左手を拳に変えて雄叫びを上げていた。ピンチから脱して吹っ切れた様子で叫び、仲間の声援に囲まれてすぐにベンチへと駆け戻っていく。その姿は相手にも伝わる、強き勇ましさが全面に出ていた。
ベンチ外で見ていた清水校長たちも、叶恵のピッチングを称賛しており、自然と口元が緩んでいた。特に清水校長は、去年の叶恵のソフトボールに対する行いを知っていたため、一層うれしく思っていた。
「……さて、一回も無事に終えたようだし……そろそろ行こうか」
「え?もしかして、俺の車っすか?」
「当たり前だよ~。そのために君を呼んだんだから~」
清水校長と大和田慶助のやり取りが行われると、慶助は仕方なさそうに歩き始め、ポケットから車のキーを取り出していた。
隣で聞いていた泉田涼子は何のことを話しているのかわからず、どこへ行くのか質問をする。すると、清水校長は笑顔で振り返り口を開く。
「迎えに行こうと思うんだ。良かったら、いっしょに来るかい?キャプテン……」
その言葉を聞いた涼子には、清水校長たちが今どこに行こうとしているのかが検討がついた。
「はい!!私も行きます!!」
涼子も笑顔で答えると、三人はグランドから離れていき、慶助の『虹色スポーツ』と書かれた車へと向かっていった。
ベンチでも叶恵のピッチングを褒められていたが、叶恵は笑わず、ベンチの端で座ってバックから水筒を取り出していた。
みんなは、叶恵はノリが悪いと多少ながらも思っていたが、一人柚月は、そんな叶恵を遠くから見守っていた。
『大丈夫……月島さんなら、きっとこの試合勝てるよ!!』
昨夜の八時過ぎ。
真っ暗の道のなか、私服姿の篠原柚月がエコバッグを持って歩いている。普段は眼鏡をかけている柚月だが、今回はコンタクトレンズをはめてオシャレに外出していたようだ。
「はぁ~また余計なもの買っちゃったかな~。でも明日のため、みんなのためよ」
柚月はそう呟くと、バッグの中にある、ソフトボールスコアブックを覗いて見ていた。マネージャーでありながらも明日の練習試合に対する想いは選手に劣らず、今か今かと待ち焦がれた様子で帰宅していた。
バン!!
「ん?」
すると突然柚月の耳に音が聴こえた。コンクリートにボールが当たったときのような、その音は一度のみならず、少し間を挟んで何度も鳴り響いていた。
「何だろう……公園の方かな?」
柚月は音の正体が気になり、その鳴る方へと歩いていった。
バン!!
バン!!
音は次第に大きくなっていき、柚月の足を次第に早歩きへと置換していた。すると柚月は気がつくと、夜でほぼ真っ暗な公園の入り口にいた。その公園は小さな子たちが遊ぶような遊具がいくつもあるが、奥にはコンクリートの壁があった。
すると、その奥のほうから再び音が鳴る。
「誰かいる……」
柚月は、顔までは見ることができなかったが、コンクリートの壁の方に人影が見えた。恐る恐る近づいて行くと、切れていた外灯が一度明るくなり、その人影の正体が判明した。
「月島さん!?」
そこにいたのはジャージ姿の月島叶恵が立っていた。柚月の声が聞こえたためか、叶恵は右手にグローブを着けて、汗を拭きながら振り返り、柚月の方に視線を送った。
「え!?なんでアンタがここに!?」
叶恵も柚月を見て驚き、二人とも予期せぬ事態となっていた。
「こ……こんな時間まで練習してたの?」
「……当たり前でしょ……」
驚きを隠せない柚月の言葉を聞いた叶恵は背を向け、再び前方の壁に向き合っていた。その壁には九分割のストライクゾーンが色テープで描かれており、何ヵ所か剥げているのがわかる。幾つもの球の跡も残っており、一朝一夕では生じない世界が拡がっていた。
「私さ……練習のときはバッティングピッチャーが主だから、こうやらなきゃ投球練習出来ないんだよね……アンタだって、こんな感じだったでしょ?」
叶恵の夜に響く小さな囁きは、柚月の胸に突き刺さっていた。自分も当時はキャッチャーという重責を担うことで、チームの練習では殆ど守備練習を行っていた。そこで、バッティングについては家で素振りをするなどといった、自主練習をしていたときを思い出している。自分は小学生のときの怪我で諦めて、それ以降夜遅くまでなどおろか、ただの練習でらやらなくなってしまった。それなのに、目の前にいる叶恵は、今日まで続けてきたことがわかり、内心その姿に唖然としていた。
「月島さんは、スゴいんだね……」
柚月は考え抜いた結果、自分の想いを明かす言葉がこれしか見つからなかった。じっと叶恵の背中を眺めているが、叶恵はゆっくりと口を開く。
「普通よ……プロになるためなら、どんな辛いことだって乗り越えなきゃいけないんだからさ……それに、去年のこともあるし……」
叶恵はそう言うと顔を上げて、多くの星たちが輝く夜空を見上げていた。
「……だから、明日は絶対に負けられないの……自分のためにも……チームのためにもね……」
少し哀愁を含んだその言葉は、柚月との距離を縮めており、二人隣り合って見上げていた。
「月島さんなら大丈夫だよ……でも、無理して怪我するのだけは気を付けてね……」
柚月は自身の過去を踏まえて、今汗を流す叶恵に微笑んで伝えていた。怪我の恐ろしさは自分がよく知っている自信があり、今を精一杯頑張る叶恵には味わって欲しくなかった。
「アンタさ……」
「ん?何?」
「……いや……ここで私が練習してること、誰にも言わないでね……」
「……うん!!」
そして現在。
ベンチの両脇に柚月と叶恵がいる。物理的な距離はありながらも、二人の心理は同じであり、お互い試合に対して目を輝かせていた。
これから二回表。
打順は五番からの唯から。
白熱の練習試合はまだまだ始まったばかりであり、このソフトボール場は熱気に包まれていた。




