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プレイッ!!◇笹浦二高女子ソフトボール部の物語◆  作者: 田村優覬
一回裏◇始まる伝統の一戦。乗り越えろ恐怖の一戦―vs筑海高校編◆
56/118

十球目⑤梓→夏蓮パート「おふざけ無しで、真剣に投げます……。それだけは、覚えておいてください……」

◇キャスト◆

舞園梓

田村信次


清水夏蓮

篠原柚月

中島咲

牛島唯

植本きらら

星川美鈴

May・C・Alphard

菱川凛

東條菫

月島叶恵



 夕陽の輝きが完全に落ちた、春夜の訪れ。ここの第一級河川――やなぎ川周辺に連なる桜たちに見守られる中、月光のスポットライトで生まれた二つの影が向かい合う。


「せ、先生……」

「ハァハァ舞園まいぞの……やっと、見つけたよ~ッハァハァ」


 先ほどまで壁に向かっての投球練習を行っていた少女――舞園まいぞのあずさの元に、膝に手を着けるクラス担任――田村たむら信次しんじが喘息模様で現れた。


「ハァハァ……遅くなってゴメンね! ハァ、また、道に迷っちゃってさ~!」

「ど、どうしてウチが、ここにいるってわかったんですか?」


 スーツの暑苦しさとはまた異なる、汗と笑顔を浮かべる信次からは、多大な疲労と事の急用さが窺えた。また、驚きを止められなかったのも事実だ。本日は土曜で休校のはずなのに、なぜ担任が訪れたのか。そしてなぜ、人気の少ない河川敷線路下にいることがわかったのかと、梓は不思議の念を取り払えなかった。



「舞園のお父さんとお母さんから聞いたんだよ。いつもここで練習してるって!」

「父さんと、母さんが……」


 徐々に息を整えていく信次が笑顔を月明かりに照らしたが、梓は反らすように視線を落としてしまう。担任の表情など視界に入らない、鋭角を型どって。


『二人とも、余計なこと言って……』


 お節介以外何物でもなかった。両親とはいえ、周囲には秘密にしていた投げ込み練習を、バラすような真似をされたのだから。しかも、現在女子ソフトボール顧問を相手に。


「……じゃあ、先生は、うちに来たってことですよね……?」

「うんっ! 今日どうしても、舞園に会って話したいことがあってね!!」

「話したい、こと……?」


 冷えて俯く少女と、熱きおもてを上げる童顔男性。相反する言葉の温度が夜風に渡ると、息を復帰させた信次は直立して胸を張る。


「まずは! 明日の練習試合に向けて、ユニフォームを作ったんだ! それで舞園の分を持ってきたんだよ!!」

「っ……」


 ユニフォームと聞いた途端、梓の視線は僅かにも、信次の腰にまで上がったが。


「……って、あれ? 無い!! ……しまった!! ユニフォームどころか、かばんごと置いてきちゃったんだァ!!」

「……」


 空いた手のひらを驚き見つめた信次は、やがて頭を抱え落胆していた。どうやら自身の鞄を舞園家の自宅に置きざりにしてきたようだ。彼のドジっぷりは何度か目にしてきたが、まさか今頃になって鞄の不在に気づくとは。


「どおしよ~!? また舞園の家に行くってなると迷いそうだし~! 参ったな~……」

「……」


 もうじき三十路の大人が迷子を懸念した姿には、普段から寡黙な梓は呆れ、ため息すら出せない更なる口の閉ざしを続けた。いつしか視線は信次の悲愴な顔まで到達していたが、引き気味の細目(いな)めない。


「はぁ~……よしっ! また交番で聞いてみるか!」

「……ねぇ先生?」

「イエス?」


 しかし茶番劇に付き合う微笑みなど、梓の表情には浮かばなかった。改めて信次を振り向かすと、今度は相手を突き放すような鋭利の瞳で語る。



「早くうちに戻って、取って帰ってください。それにユニフォームとか欲しくないんで……。道がわからないならウチが教えますから」



 言葉尻に視線を横の(やなぎ)川へ(ほお)った梓。信次と心の距離を縮めようとする考えは毛頭無く、ただ冷徹さを貫いた。

 しかし、空気を読んでくれない信次からは微笑みを放たれ、一歩物理的距離を縮められる。


「笹二ソフト部のユニフォームは、美術部の篠原しのはらがデザインしたんだよ。舞園も、きっと気に入ると思うんだ」

「っ! ……」


 最高の絆で結ばれた仲間たちの一人()つ、“AZUKI(アズキ)コンビ”として元バッテリーだった親友――篠原しのはら柚月ゆづきの名が確かに鳴らされたことで、梓はふと呼吸が止まる。マネージャーに生まれ変わったとは聞いていたが、あのドS女王様がしっかりとチームサポートまでしていたとは。

 しかし梓にとっては、胸扉を開くほどの情報ではなかった。


「それなら、尚更着たくないです……。これからの新入部員にでも、あげてください……」


 現役生活に終止符を打たせてしまったのは、紛れもなく自分のせいだと、しかめた梓は己を軽蔑けいべつした。あの日三振さえ取っていればと、強い後悔で深呼吸すらできない。



『もう柚月には、少しでも迷惑をかけたくない……』



 暖かな夜風がいろどる月夜の下、二人の間には一時の沈黙が流れる。頭上のくだり電車が通り過ぎる騒音だけでなく、桜の花びらが地に落ちる音まで聞こえそうだ。静寂にも関わらず、居心地の悪さがあらわだった。


「いつもここで、投げ込みをしてるんだってね」

「……」


 すると信次が先に動き出し、線路下の周辺をあちらこちらと観察し始める。影に潜んだ大地には、湿った土に弱々しき雑草の葉。生命の息吹いぶきも感じられない、嘆き悲しみの投球練習場と言えよう。


「……ねぇ、舞園?」

「……」


 返事は鳴らさぬまま、梓は振り向くだけにとどまる。しかし早速目に移ったのは、(やかま)しいほどに明るい信次の笑顔ではなく、逆にこちらが窺う形式となる後ろ姿だった。投げ込みで生まれた土の窪みを見下ろし、そしてストライクゾーンの的が描かれた壁を見つめながら紡がれる。



「やりたいならやりたいで、いいんじゃないかな? みんな、舞園のことを待ってるんだよ?」



「――っ! ……」

 やりたいことをやればいい――それは以前、梓に悩み事を投げてきた、先輩を愛するが故に決断できなかった親友――中島なかじまえみへ送った教訓だ。


“「――咲は、咲のやりたいようにやれば、良いと思うよ?」”



 信次による現代文の授業中で、素直と自分勝手を見極めた咲。現在は絆深き先輩――泉田いずみだ涼子りょうこにも背を押され、無事にソフトボール部へ参入したようだが。



ウチと咲を、いっしょにしないでください……」



 だからと言って、梓は入部希望を表明するつもりはなかった。


「別に、いっしょになんか……」

「……ウチは、入部するつもりなんか一切ありません」


 焦り顔で振り向いた信次の言葉尻を被せ、梓は目を見て言い切った。心の迷いなど(まった)くないと言わんばかりに、左手で覆った三号球を強く握り締める。



『これは、責務なんだ……。ウチは、やっちゃいけない側の人間なんだから……』



「舞園……どうして、そこまでして入部(はい)りたくないの?」

 なかなか諦めを表さない信次に眉を潜められた。きっと担任であり顧問でもある彼としては、是非入部してほしいあまりに違いない。現在ギリギリな部員数で活動中の、笹浦二高女子ソフトボール部だ。最低九人もの選手を要する集団スポーツのため、一人でも多く集めたい気持ちは経験者としてわかるのだが。


「……だったらまず、ウチのボールを見てから、部に相応ふさわしいか判断してください……」


 すると梓は肩を返し、信次から遠ざかる。


「舞園……?」

「今から投げます。良かったら、バッター目線で見てください。先生右打者ですよね? だったらまだ、自信ありますので」

「……ヨシッ!! わかった!!」


 投手板無きプレート位置を爪先(つまさき)(かかと)で掘り整え、梓は再びストライクゾーン入りの壁に向かい合う。無論右手にグローブは存在せず、ボールを握る左手の甲のみを掲げた。


「さぁこ~い!! 舞園のストレート、楽しみだなぁ~!」


 すると、近くに落ちていた木の枝をバット代わりに、信次は梓の指示通り、壁前で右打者として構えた。どこか遊び感覚の愉快な様子が見受けられるが、梓の瞳はクスリとも笑っていない。


「おふざけ無しで、真剣に投げます……。それだけは、覚えておいてください……」


 信次に何とか聴こえる声量で告げると、梓は早速、両手をお腹の位置に置いて深呼吸し、投球動作前のセットに入る。身体をゆっくり折り曲げ、ストンと落とした左腕を地面へ垂直に保つと、次の瞬間、左手の回転と共に右足は宙を浮く。左足を引きずりながら前方に跳び進む。右足が地面の窪みに落ち着いたと同時に、左手からボールが弓矢の如く放った。



―――バゴンッ!! ……。



「――っ! 舞園……」

「ふざけてなんかない……。真面目に投げましたよ……」

 練習でいつも投じてきた全力ストレートは、猛スピードに比例した衝突音を壁から鳴らした。あまりの速度には素人の信次も動けず驚いた様子で、スイングは(おろ)か、梓と目が合うばかりに立ち竦んでいた。


――ポトン……。


 すると、二人の見つめ合いを阻害するかのように、壁に当てたボールが梓と信次の間に落ちた。ずいぶんとを空けて、落ちてきたのだ。


「これでわかりましたよね? ウチがソフトボールをやりたくない理由……いや、できない理由を……」


 語りながら地面に転がったボールを拾い、梓は再度大きな壁を見上げた。あおられるように信次も背後を見上げると、二人の焦点が“とある跡”に一致する。


「これが、イップスってやつなのか……」

「えぇ。これがウチの前に立ちはだかる、大きな壁……」


 狼狽(うろた)えた信次と見慣れた梓が揃えた、地面から約三メートル程上部の焦点。そこには確かに、つい先ほど投じたことで生じた、ボールの跡が残されていた。

 真面目に投げた全力ストレートの結果は、ストライクゾーンを完全無視した大暴投だったのだ。

 通常、ソフトボールや野球の投手は、き腕と同じ打ちの打者から投げづらさを感じる。右ピッチャーなら右バッターから、左ピッチャーなら左打者からと、投じることに窮屈さを覚えてしまうからだ。つまりは、投打異なる相手にコントロールを付けやすいと言える。

 が、右打者として構えた信次に、左投げの梓は大暴投を(ほお)ってしまったのだ。不器用という理由には収まりきらない、コントロールが皆目見当たらないまでに。


「みんな、口を揃えるように言う……責任感の強いウチがソフトボールをやらないのは、もう誰も怪我をさせたくないからって。……確かに合ってる。でも、それだけじゃない……」


 目上の相手には普段敬語で話す梓だが、すでに心のゆとりなど無く、信次が映らないほど俯いた姿勢で、微動する左手のひらを覗く。


「あの日を境に、ストライクすら投げられないんだ……。思った通りに、思った場所に……」


 六年前小学五年生のとき、対戦相手の左打者頭部に当ててしまったが、その後も自主練習だけは続けてきた。しかし、その日からストライクの的にまったく入らず、投げたボールは高々と上がったりワンバウンドしたりと、毎回思いもよらぬ失投ばかり繰り返した。高校二年生になった現在まで、ずっと変わらず。


「左手が震えるんだ……。投げる瞬間、あの左バッターへのデッドボールが、フラッシュバックして……」


 血濡れた顔で倒れた、六年前の左打者の顔が、投げる度に思い出してしまうのだ。

 左手を下ろし、肩まで沈めたイップス左腕――舞園梓。大好きなソフトボール――それ以上に好きなものこそ、ピッチャーというポジションだった。集団スポーツとはいえ、全身全霊で挑める一舞台で、一人一人の対戦相手との真剣勝負には、いつも一球入魂の楽しさを体感したが。



「――もう、ウチには務まらない……。こんな高すぎる壁、ウチには絶対乗り越えられないよ……」



 再びソフトボール選手に戻ったところで、信次が導き造り上げたチームに迷惑を掛けるだけだ。六年重ねた努力でも通じない、強き責任感(ゆえ)の後悔と罪悪感で生まれた、投球恐怖症という壁の前で、心理的に平伏(ひれふ)すことしかできなかった。復帰しても、復活には至れないだろう。

 夜の静けさが戻った、(やなぎ)川周辺。上空の月は厚い雲で隠れ、周辺を更に闇へと包んでいく。また辺りには街灯もなく、この暗黒の線路下に光など全く届かない。



『諦めるしかないんだ……。もうウチには、その道しかない』



 希望のきざしが見えない梓は失望の瞳を閉じ、改めて自分自身に言い聞かせた。思い返せば、よく六年間も投げ込み練習を続けたものだ。自嘲しながらも誇りに思えるくらいで、終止符を打つ心の整理さえできていた。



『――今日で終りにしよう……。これからは一応援者として、柚月に咲、そして夏蓮かれんと付き合っていこう……』



「どうした舞園? まだ一球しか投げてないじゃないか?」

 ピリオドを胸に刻もうしたが、突如交わされた信次の言葉に、梓は瞳を少しだけ開く。何ともしつこい新任教諭だと、嫌味を込めた無礼なため息を溢す。


「……今の一球が全て、で、っ!」


 落としていた顔を浮上させた梓だが、その刹那せつな、細い目が驚きでじ開けられた。


「さぁどうした? カウントはまだワンボール! 一打席目は、まだまだこれからでしょ?」


 強く明るくたくましく放った信次だが、表情は彼特有の優しい微笑みだった。少年のような瞳を煌めかせて。


「チッ……」


 しかし信次とは真逆に、目の当たりにした梓は怒濤どとうが迫っていた。思わず歯を食い縛り、前のめりのまま両拳を型どる。


「……何の、つも゛りですかッ……? ふざけてるんですかッ!?」

「この方が、練習になるだろうと思ってね」


 前向きな打者への激しい(いきどお)りの思いが、梓の眉間の皺を深く刻ませる。が、絶望のふちに落とされた少女の気持ちも、無理はなかった。なぜなら、信次の立ち位置が一球目と変化していたからである。



――六年前、梓が頭部に当ててしまったバッターと同じ、左打席に。



「ウ゛ウゥッ!」

「どうした!? 舞園自身がボクに言ったんだろ? ボールを見てくれって!」

「誰も左打席でなんて、言ってない゛ッ!!」

「右打席でなんて、強制された覚えもないよ?」


 六年前の悲劇を知り、わざと左バッターを演じているのだろうか――いや、そうに違いない。先ほど梓はポロリと“あの左バッター”と囁いてしまったのだから。

 しかし、弱みにつけこむ行為以外何物でもない。恐ろしいまでに目を尖らせた梓は信次を睨み、恐怖とはまた異なる微動を拳に集める。


「さぁ早く投げなさい!! ボクは舞園が投げるまで、()としてずっとこのままでいるよ!!」

「ウゥッ……もうどうなっても、知らない゛ッ……」


 受けた言葉に責任感を覚えた梓は、改めて眉を立てた信次に向かい、憤怒ふんぬにまみれたセットに入る。力みが相当溜まっているが、一球目に比べて速い左腕の回転――ウィンドミル投法を繰り出した。


「ウルアァァァァア゛!!」


 現役当初にも発した覚えがない咆哮ほうこうを上げ、梓は投げ槍の如く放り込む。月を隠す暗雲を取り払おうと吹き付ける、弱くも勇ましい夜風と共に。



◇梓の壁――ソフトボールへの責務◆



 同時刻の、笹浦第二高等学校。

 土曜の休校日である本日は、校内生徒に訪ねた者は部活動生徒ばかりで、夜を迎えた現在は人気も僅か、また真っ暗な廊下が昇降口まで延々と続いていた。

 しかし、笹浦二高女子ソフトボール部がミーティングで使用していた一室――二年二組の教室だけは灯りが満ちていた。室内には主将の清水しみず夏蓮かれん率いる、計十人の部員らが残っているが、決して良い雰囲気だとは(しょう)(がた)い。



「それが、梓ちゃんの過去なの……。誰もが認める、悲劇そのものだったんだよ……」



 なぜなら夏蓮が、六年が経った今もなお梓を縛り苦しめる、六年前の過去を部員たちに話していたからだ。皆の顔が揃って俯き、しばらくの間は窓に当たる春風の音のみが話しかけていた。


「……そっか。ならオレらが中二のとき、梓にはワリィことしたな……」

「にゃあ……。アズキニャーがそんな状態だったなんて、全然知らなかったにゃあよ……」


 中学二年生当時、梓とは深い関係を築いた様子の二人――牛島うしじまゆい植本うえもときららが互いに寄り添い、落ちた肩を合わせていた。


「唯先輩……きらら先輩も……」

Yips(イップス)……。まさかワタクシたちのそばにもいたとは、知るよしもありませんデシタ。灯台もと暗しデス……」


 憧れの先輩である唯、またきららの悲しみまでが伝染した様子の星川ほしかわ美鈴みすずに、国は違えど近き年齢の少女を思うMay(メイ)・C・Alphard(アルファード)が涙ぐむ。


「舞園梓先輩……。それじゃあソフト部に入りたくないのも、なんだかわかる……」

りんの言う通りだよ……。是非来てほしいと思ってたのに……残念だね」


 声のか細さでより悲愴を強調させた菱川ひしかわりんに、東條とうじょうすみれが賛同し頷いたが。



「それでも、わたしは信じてる! 梓ちゃんがまた、ユニフォームを着てくれることを。もう一度、グランドに来てくれることも! ……グズッ」



 夏蓮は珍しい強気の眼差しで轟き、暗い全部員を振り向かせる。ただ、丸い瞳は溢れそうな潤みを保ちながら揺れ、悲しさをこらえることに精いっぱいだった。あと一言付け足せば、共にれてしまいそうなほどに。



『だって、やりたいんだもん! もう一度みんなと、ソフトボール……。四人でずっとやっていこうって、約束したんだもん!!』



 最高の絆で結ばれた仲間たちで約束した、四人で願った未来。それは今でも、この小さな胸の奥底でうずいているのだ。

 心に貯まった嘆き悲しみの波浪はろうが、瞳のすぐ奥底まで訪れていた。下降していく顔が徐々にしかめを型どり、ついにタイルの床に落涙しかけたが。


「夏蓮の言う通り! アタシも梓が来るって信じてる!!」

「――っ! 咲ちゃん……」


 まず右肩には、夜にも負けない輝く笑顔で放った、咲の左手のひらが置かれる。


「そうねぇ。このあたしがせっかくユニフォームを作ったんだから~……フフ、梓が着るまで、あたしも諦めるつもりはないわ」

「ゆ、柚月ちゃん……二人とも、ありがとォッ……グズッ」


 そして左肩には、優美に煌めく微笑みで語った、柚月の右手のひらが贈呈され、夏蓮はついに堪えていた雨を降らせてしまう。しかしその粒たちはどこか温かく、悲哀が招いた物とは異なる天気雨だった。


「グズッ……ううん、二人だけじゃない、みんなも、ありがとッ」


 みんなが舞園梓の参戦を望んでいると、夏蓮は部員たちの表情と言葉から察したことも、嬉し涙の要因に違いない。全部員が願っている、絢爛(けんらん)とした未来なのだと思ったが。


「ねぇ? もう帰っていい?」

「か、叶恵かなえちゃん……」


 唯一不機嫌の面を見せた月島つきしま叶恵かなえだけが、すでに自身のエナメルバッグを担いでいた。


「チッ、オメェよ~? オレらの雰囲気ぶっ壊すんじゃねぇよ!」

「明日は早いのよ? アンタたちも、とっとと帰りなさい……」


 唯の言葉も虚しく、叶恵はそのまま教室出口へと向かっていく。


『叶恵ちゃんは……望んでないのかな……? でも……』


 無念だが、致し方ないとも思える複雑な胸中だった。夏蓮たちが待っているのは紛れもなく、左ピッチャーの梓だ。同じポジションの叶恵にとっては、先発争いを招く存在なのだから。互いを磨き合うライバルとして、仲良くやったほしいばかりだ。


「か、叶恵ちゃん……」

「キャプテンならキャプテンらしく、明日の練習試合に集中しなさい……」

「え……う、うん……」


 夏蓮の言葉に止まらない叶恵は、やがてスライド式扉を開け、廊下の闇に消え入ろうとしていた。ふてぶてしい後ろ姿を見せながら。


「……ん? 叶恵ちゃん?」


 しかしなぜだか、叶恵は出口を一歩出たところで停止していた。決して振り向きはしなかったが、ツインテールを降ろした小さな背で、副キャプテンとして置き言葉を残していく。



「――これ以上考えてたら、明日に支障が出るわ……。あとは任せるべき人に、任せるわよ……?」



「――っ! 叶恵ちゃん……うん!」

 叶恵の姿は儚くも消え、沈黙した教室には九人だけが残された。

 たった一人に部の空気を乱された様子が否定できず、皆眉間に皺を集める始末で、嫌々ながらも帰り支度に身を向けていく。

 しかし、夏蓮だけは微笑みを浮かべていた。さっきは泣いてしまったというのに、一人静かに頬を温め、叶恵が歩んでいった教室出口を見つめ続ける。



『――明日に支障が出るくらい、叶恵ちゃんも梓ちゃんのこと、考えてくれてたんだね。ありがと、叶恵ちゃん!』



 それは、冷徹にも放った言葉の裏に隠された、熱血少女の思い遣りだったのだ。叶恵の告げた通り、今は梓のことを考えても仕方ない。自分たちがどれだけ思い悩んでも、彼女には届かない思いでしかないのだから。明日の練習試合に備えるため、早く帰宅するべきだと、任せるべき人の顔を浮かべた。



『お願い、田村先生! 梓ちゃんを、どうか導いて……』



「……さぁ、わたしたちも、明日に備えて帰ろう!」

 テンションが一人浮いてしまっている夏蓮だが、徐々に部員たちも教室から出ていき、本日の笹二ソフト部の活動終了を迎えた。各々のユニフォームを折り畳み、初の対戦相手――筑海つくみ高校との練習試合に備えるべく、次々に昇降口へと向かっていく。

 やがて二年二組の教室は柚月と咲を含め三人となり、忘れ物が無いかを確認してから退出を始めた。最後に室内の電気を消したが、夏蓮はもう一度だけ梓の机を見つめる。雲に隠れながらも放たれる、一筋の月光が敷かれた机上を。



『みんなで待ってるからね、梓ちゃん!』



 輝ける未来を信じて、夏蓮は静かにスライド式扉を閉める。しっかりと施錠まで終え、三人横並びで廊下を進んでいった。

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