十球目⑤梓→夏蓮パート「おふざけ無しで、真剣に投げます……。それだけは、覚えておいてください……」
◇キャスト◆
舞園梓
田村信次
清水夏蓮
篠原柚月
中島咲
牛島唯
植本きらら
星川美鈴
May・C・Alphard
菱川凛
東條菫
月島叶恵
夕陽の輝きが完全に落ちた、春夜の訪れ。ここの第一級河川――柳川周辺に連なる桜たちに見守られる中、月光のスポットライトで生まれた二つの影が向かい合う。
「せ、先生……」
「ハァハァ舞園……やっと、見つけたよ~ッハァハァ」
先ほどまで壁に向かっての投球練習を行っていた少女――舞園梓の元に、膝に手を着けるクラス担任――田村信次が喘息模様で現れた。
「ハァハァ……遅くなってゴメンね! ハァ、また、道に迷っちゃってさ~!」
「ど、どうして私が、ここにいるってわかったんですか?」
スーツの暑苦しさとはまた異なる、汗と笑顔を浮かべる信次からは、多大な疲労と事の急用さが窺えた。また、驚きを止められなかったのも事実だ。本日は土曜で休校のはずなのに、なぜ担任が訪れたのか。そしてなぜ、人気の少ない河川敷線路下にいることがわかったのかと、梓は不思議の念を取り払えなかった。
「舞園のお父さんとお母さんから聞いたんだよ。いつもここで練習してるって!」
「父さんと、母さんが……」
徐々に息を整えていく信次が笑顔を月明かりに照らしたが、梓は反らすように視線を落としてしまう。担任の表情など視界に入らない、鋭角を型どって。
『二人とも、余計なこと言って……』
お節介以外何物でもなかった。両親とはいえ、周囲には秘密にしていた投げ込み練習を、バラすような真似をされたのだから。しかも、現在女子ソフトボール顧問を相手に。
「……じゃあ、先生は、家に来たってことですよね……?」
「うんっ! 今日どうしても、舞園に会って話したいことがあってね!!」
「話したい、こと……?」
冷えて俯く少女と、熱き面を上げる童顔男性。相反する言葉の温度が夜風に渡ると、息を復帰させた信次は直立して胸を張る。
「まずは! 明日の練習試合に向けて、ユニフォームを作ったんだ! それで舞園の分を持ってきたんだよ!!」
「っ……」
ユニフォームと聞いた途端、梓の視線は僅かにも、信次の腰にまで上がったが。
「……って、あれ? 無い!! ……しまった!! ユニフォームどころか、鞄ごと置いてきちゃったんだァ!!」
「……」
空いた手のひらを驚き見つめた信次は、やがて頭を抱え落胆していた。どうやら自身の鞄を舞園家の自宅に置きざりにしてきたようだ。彼のドジっぷりは何度か目にしてきたが、まさか今頃になって鞄の不在に気づくとは。
「どおしよ~!? また舞園の家に行くってなると迷いそうだし~! 参ったな~……」
「……」
もうじき三十路の大人が迷子を懸念した姿には、普段から寡黙な梓は呆れ、ため息すら出せない更なる口の閉ざしを続けた。いつしか視線は信次の悲愴な顔まで到達していたが、引き気味の細目否めない。
「はぁ~……よしっ! また交番で聞いてみるか!」
「……ねぇ先生?」
「イエス?」
しかし茶番劇に付き合う微笑みなど、梓の表情には浮かばなかった。改めて信次を振り向かすと、今度は相手を突き放すような鋭利の瞳で語る。
「早く家に戻って、取って帰ってください。それにユニフォームとか欲しくないんで……。道がわからないなら私が教えますから」
言葉尻に視線を横の柳川へ放った梓。信次と心の距離を縮めようとする考えは毛頭無く、ただ冷徹さを貫いた。
しかし、空気を読んでくれない信次からは微笑みを放たれ、一歩物理的距離を縮められる。
「笹二ソフト部のユニフォームは、美術部の篠原がデザインしたんだよ。舞園も、きっと気に入ると思うんだ」
「っ! ……」
最高の絆で結ばれた仲間たちの一人且つ、“AZUKIコンビ”として元バッテリーだった親友――篠原柚月の名が確かに鳴らされたことで、梓はふと呼吸が止まる。マネージャーに生まれ変わったとは聞いていたが、あのドS女王様がしっかりとチームサポートまでしていたとは。
しかし梓にとっては、胸扉を開くほどの情報ではなかった。
「それなら、尚更着たくないです……。これからの新入部員にでも、あげてください……」
現役生活に終止符を打たせてしまったのは、紛れもなく自分のせいだと、しかめた梓は己を軽蔑した。あの日三振さえ取っていればと、強い後悔で深呼吸すらできない。
『もう柚月には、少しでも迷惑をかけたくない……』
暖かな夜風が彩る月夜の下、二人の間には一時の沈黙が流れる。頭上の下り電車が通り過ぎる騒音だけでなく、桜の花びらが地に落ちる音まで聞こえそうだ。静寂にも関わらず、居心地の悪さが顕だった。
「いつもここで、投げ込みをしてるんだってね」
「……」
すると信次が先に動き出し、線路下の周辺をあちらこちらと観察し始める。影に潜んだ大地には、湿った土に弱々しき雑草の葉。生命の息吹も感じられない、嘆き悲しみの投球練習場と言えよう。
「……ねぇ、舞園?」
「……」
返事は鳴らさぬまま、梓は振り向くだけに留まる。しかし早速目に移ったのは、喧しいほどに明るい信次の笑顔ではなく、逆にこちらが窺う形式となる後ろ姿だった。投げ込みで生まれた土の窪みを見下ろし、そしてストライクゾーンの的が描かれた壁を見つめながら紡がれる。
「やりたいならやりたいで、いいんじゃないかな? みんな、舞園のことを待ってるんだよ?」
「――っ! ……」
やりたいことをやればいい――それは以前、梓に悩み事を投げてきた、先輩を愛するが故に決断できなかった親友――中島咲へ送った教訓だ。
“「――咲は、咲のやりたいようにやれば、良いと思うよ?」”
信次による現代文の授業中で、素直と自分勝手を見極めた咲。現在は絆深き先輩――泉田涼子にも背を押され、無事にソフトボール部へ参入したようだが。
「私と咲を、いっしょにしないでください……」
だからと言って、梓は入部希望を表明するつもりはなかった。
「別に、いっしょになんか……」
「……私は、入部するつもりなんか一切ありません」
焦り顔で振り向いた信次の言葉尻を被せ、梓は目を見て言い切った。心の迷いなど全くないと言わんばかりに、左手で覆った三号球を強く握り締める。
『これは、責務なんだ……。私は、やっちゃいけない側の人間なんだから……』
「舞園……どうして、そこまでして入部りたくないの?」
なかなか諦めを表さない信次に眉を潜められた。きっと担任であり顧問でもある彼としては、是非入部してほしいあまりに違いない。現在ギリギリな部員数で活動中の、笹浦二高女子ソフトボール部だ。最低九人もの選手を要する集団スポーツのため、一人でも多く集めたい気持ちは経験者としてわかるのだが。
「……だったらまず、私のボールを見てから、部に相応しいか判断してください……」
すると梓は肩を返し、信次から遠ざかる。
「舞園……?」
「今から投げます。良かったら、バッター目線で見てください。先生右打者ですよね? だったらまだ、自信ありますので」
「……ヨシッ!! わかった!!」
投手板無きプレート位置を爪先と踵で掘り整え、梓は再びストライクゾーン入りの壁に向かい合う。無論右手にグローブは存在せず、ボールを握る左手の甲のみを掲げた。
「さぁこ~い!! 舞園のストレート、楽しみだなぁ~!」
すると、近くに落ちていた木の枝をバット代わりに、信次は梓の指示通り、壁前で右打者として構えた。どこか遊び感覚の愉快な様子が見受けられるが、梓の瞳はクスリとも笑っていない。
「おふざけ無しで、真剣に投げます……。それだけは、覚えておいてください……」
信次に何とか聴こえる声量で告げると、梓は早速、両手をお腹の位置に置いて深呼吸し、投球動作前のセットに入る。身体をゆっくり折り曲げ、ストンと落とした左腕を地面へ垂直に保つと、次の瞬間、左手の回転と共に右足は宙を浮く。左足を引きずりながら前方に跳び進む。右足が地面の窪みに落ち着いたと同時に、左手からボールが弓矢の如く放った。
―――バゴンッ!! ……。
「――っ! 舞園……」
「ふざけてなんかない……。真面目に投げましたよ……」
練習でいつも投じてきた全力ストレートは、猛スピードに比例した衝突音を壁から鳴らした。あまりの速度には素人の信次も動けず驚いた様子で、スイングは疎か、梓と目が合うばかりに立ち竦んでいた。
――ポトン……。
すると、二人の見つめ合いを阻害するかのように、壁に当てたボールが梓と信次の間に落ちた。ずいぶんと間を空けて、落ちてきたのだ。
「これでわかりましたよね? 私がソフトボールをやりたくない理由……いや、できない理由を……」
語りながら地面に転がったボールを拾い、梓は再度大きな壁を見上げた。煽られるように信次も背後を見上げると、二人の焦点が“とある跡”に一致する。
「これが、イップスってやつなのか……」
「えぇ。これが私の前に立ちはだかる、大きな壁……」
狼狽えた信次と見慣れた梓が揃えた、地面から約三メートル程上部の焦点。そこには確かに、つい先ほど投じたことで生じた、ボールの跡が残されていた。
真面目に投げた全力ストレートの結果は、ストライクゾーンを完全無視した大暴投だったのだ。
通常、ソフトボールや野球の投手は、利き腕と同じ打ちの打者から投げづらさを感じる。右ピッチャーなら右バッターから、左ピッチャーなら左打者からと、投じることに窮屈さを覚えてしまうからだ。つまりは、投打異なる相手にコントロールを付けやすいと言える。
が、右打者として構えた信次に、左投げの梓は大暴投を放ってしまったのだ。不器用という理由には収まりきらない、コントロールが皆目見当たらないまでに。
「みんな、口を揃えるように言う……責任感の強い私がソフトボールをやらないのは、もう誰も怪我をさせたくないからって。……確かに合ってる。でも、それだけじゃない……」
目上の相手には普段敬語で話す梓だが、すでに心のゆとりなど無く、信次が映らないほど俯いた姿勢で、微動する左手のひらを覗く。
「あの日を境に、ストライクすら投げられないんだ……。思った通りに、思った場所に……」
六年前小学五年生のとき、対戦相手の左打者頭部に当ててしまったが、その後も自主練習だけは続けてきた。しかし、その日からストライクの的にまったく入らず、投げたボールは高々と上がったりワンバウンドしたりと、毎回思いもよらぬ失投ばかり繰り返した。高校二年生になった現在まで、ずっと変わらず。
「左手が震えるんだ……。投げる瞬間、あの左バッターへのデッドボールが、フラッシュバックして……」
血濡れた顔で倒れた、六年前の左打者の顔が、投げる度に思い出してしまうのだ。
左手を下ろし、肩まで沈めたイップス左腕――舞園梓。大好きなソフトボール――それ以上に好きなものこそ、ピッチャーというポジションだった。集団スポーツとはいえ、全身全霊で挑める一舞台で、一人一人の対戦相手との真剣勝負には、いつも一球入魂の楽しさを体感したが。
「――もう、私には務まらない……。こんな高すぎる壁、私には絶対乗り越えられないよ……」
再びソフトボール選手に戻ったところで、信次が導き造り上げたチームに迷惑を掛けるだけだ。六年重ねた努力でも通じない、強き責任感故の後悔と罪悪感で生まれた、投球恐怖症という壁の前で、心理的に平伏すことしかできなかった。復帰しても、復活には至れないだろう。
夜の静けさが戻った、柳川周辺。上空の月は厚い雲で隠れ、周辺を更に闇へと包んでいく。また辺りには街灯もなく、この暗黒の線路下に光など全く届かない。
『諦めるしかないんだ……。もう私には、その道しかない』
希望の兆しが見えない梓は失望の瞳を閉じ、改めて自分自身に言い聞かせた。思い返せば、よく六年間も投げ込み練習を続けたものだ。自嘲しながらも誇りに思えるくらいで、終止符を打つ心の整理さえできていた。
『――今日で終りにしよう……。これからは一応援者として、柚月に咲、そして夏蓮と付き合っていこう……』
「どうした舞園? まだ一球しか投げてないじゃないか?」
ピリオドを胸に刻もうしたが、突如交わされた信次の言葉に、梓は瞳を少しだけ開く。何ともしつこい新任教諭だと、嫌味を込めた無礼なため息を溢す。
「……今の一球が全て、で、っ!」
落としていた顔を浮上させた梓だが、その刹那、細い目が驚きで抉じ開けられた。
「さぁどうした? カウントはまだワンボール! 一打席目は、まだまだこれからでしょ?」
強く明るく逞しく放った信次だが、表情は彼特有の優しい微笑みだった。少年のような瞳を煌めかせて。
「チッ……」
しかし信次とは真逆に、目の当たりにした梓は怒濤が迫っていた。思わず歯を食い縛り、前のめりのまま両拳を型どる。
「……何の、つも゛りですかッ……? ふざけてるんですかッ!?」
「この方が、練習になるだろうと思ってね」
前向きな打者への激しい憤りの思いが、梓の眉間の皺を深く刻ませる。が、絶望の淵に落とされた少女の気持ちも、無理はなかった。なぜなら、信次の立ち位置が一球目と変化していたからである。
――六年前、梓が頭部に当ててしまったバッターと同じ、左打席に。
「ウ゛ウゥッ!」
「どうした!? 舞園自身がボクに言ったんだろ? ボールを見てくれって!」
「誰も左打席でなんて、言ってない゛ッ!!」
「右打席でなんて、強制された覚えもないよ?」
六年前の悲劇を知り、わざと左バッターを演じているのだろうか――いや、そうに違いない。先ほど梓はポロリと“あの左バッター”と囁いてしまったのだから。
しかし、弱みにつけこむ行為以外何物でもない。恐ろしいまでに目を尖らせた梓は信次を睨み、恐怖とはまた異なる微動を拳に集める。
「さぁ早く投げなさい!! ボクは舞園が投げるまで、人としてずっとこのままでいるよ!!」
「ウゥッ……もうどうなっても、知らない゛ッ……」
受けた言葉に責任感を覚えた梓は、改めて眉を立てた信次に向かい、憤怒にまみれたセットに入る。力みが相当溜まっているが、一球目に比べて速い左腕の回転――ウィンドミル投法を繰り出した。
「ウルアァァァァア゛!!」
現役当初にも発した覚えがない咆哮を上げ、梓は投げ槍の如く放り込む。月を隠す暗雲を取り払おうと吹き付ける、弱くも勇ましい夜風と共に。
◇梓の壁――ソフトボールへの責務◆
同時刻の、笹浦第二高等学校。
土曜の休校日である本日は、校内生徒に訪ねた者は部活動生徒ばかりで、夜を迎えた現在は人気も僅か、また真っ暗な廊下が昇降口まで延々と続いていた。
しかし、笹浦二高女子ソフトボール部がミーティングで使用していた一室――二年二組の教室だけは灯りが満ちていた。室内には主将の清水夏蓮率いる、計十人の部員らが残っているが、決して良い雰囲気だとは称し難い。
「それが、梓ちゃんの過去なの……。誰もが認める、悲劇そのものだったんだよ……」
なぜなら夏蓮が、六年が経った今もなお梓を縛り苦しめる、六年前の過去を部員たちに話していたからだ。皆の顔が揃って俯き、しばらくの間は窓に当たる春風の音のみが話しかけていた。
「……そっか。ならオレらが中二のとき、梓にはワリィことしたな……」
「にゃあ……。アズキニャーがそんな状態だったなんて、全然知らなかったにゃあよ……」
中学二年生当時、梓とは深い関係を築いた様子の二人――牛島唯と植本きららが互いに寄り添い、落ちた肩を合わせていた。
「唯先輩……きらら先輩も……」
「Yips……。まさかワタクシたちのそばにもいたとは、知る由もありませんデシタ。灯台もと暗しデス……」
憧れの先輩である唯、またきららの悲しみまでが伝染した様子の星川美鈴に、国は違えど近き年齢の少女を思うMay・C・Alphardが涙ぐむ。
「舞園梓先輩……。それじゃあソフト部に入りたくないのも、なんだかわかる……」
「凛の言う通りだよ……。是非来てほしいと思ってたのに……残念だね」
声のか細さでより悲愴を強調させた菱川凛に、東條菫が賛同し頷いたが。
「それでも、私は信じてる! 梓ちゃんがまた、ユニフォームを着てくれることを。もう一度、グランドに来てくれることも! ……グズッ」
夏蓮は珍しい強気の眼差しで轟き、暗い全部員を振り向かせる。ただ、丸い瞳は溢れそうな潤みを保ちながら揺れ、悲しさを堪えることに精いっぱいだった。あと一言付け足せば、共に漏れてしまいそうなほどに。
『だって、やりたいんだもん! もう一度みんなと、ソフトボール……。四人でずっとやっていこうって、約束したんだもん!!』
最高の絆で結ばれた仲間たちで約束した、四人で願った未来。それは今でも、この小さな胸の奥底で疼いているのだ。
心に貯まった嘆き悲しみの波浪が、瞳のすぐ奥底まで訪れていた。下降していく顔が徐々にしかめを型どり、ついにタイルの床に落涙しかけたが。
「夏蓮の言う通り! アタシも梓が来るって信じてる!!」
「――っ! 咲ちゃん……」
まず右肩には、夜にも負けない輝く笑顔で放った、咲の左手のひらが置かれる。
「そうねぇ。この私がせっかくユニフォームを作ったんだから~……フフ、梓が着るまで、私も諦めるつもりはないわ」
「ゆ、柚月ちゃん……二人とも、ありがとォッ……グズッ」
そして左肩には、優美に煌めく微笑みで語った、柚月の右手のひらが贈呈され、夏蓮はついに堪えていた雨を降らせてしまう。しかしその粒たちはどこか温かく、悲哀が招いた物とは異なる天気雨だった。
「グズッ……ううん、二人だけじゃない、みんなも、ありがとッ」
みんなが舞園梓の参戦を望んでいると、夏蓮は部員たちの表情と言葉から察したことも、嬉し涙の要因に違いない。全部員が願っている、絢爛とした未来なのだと思ったが。
「ねぇ? もう帰っていい?」
「か、叶恵ちゃん……」
唯一不機嫌の面を見せた月島叶恵だけが、すでに自身のエナメルバッグを担いでいた。
「チッ、オメェよ~? オレらの雰囲気ぶっ壊すんじゃねぇよ!」
「明日は早いのよ? アンタたちも、とっとと帰りなさい……」
唯の言葉も虚しく、叶恵はそのまま教室出口へと向かっていく。
『叶恵ちゃんは……望んでないのかな……? でも……』
無念だが、致し方ないとも思える複雑な胸中だった。夏蓮たちが待っているのは紛れもなく、左ピッチャーの梓だ。同じポジションの叶恵にとっては、先発争いを招く存在なのだから。互いを磨き合うライバルとして、仲良くやったほしいばかりだ。
「か、叶恵ちゃん……」
「キャプテンならキャプテンらしく、明日の練習試合に集中しなさい……」
「え……う、うん……」
夏蓮の言葉に止まらない叶恵は、やがてスライド式扉を開け、廊下の闇に消え入ろうとしていた。ふてぶてしい後ろ姿を見せながら。
「……ん? 叶恵ちゃん?」
しかしなぜだか、叶恵は出口を一歩出たところで停止していた。決して振り向きはしなかったが、ツインテールを降ろした小さな背で、副キャプテンとして置き言葉を残していく。
「――これ以上考えてたら、明日に支障が出るわ……。あとは任せるべき人に、任せるわよ……?」
「――っ! 叶恵ちゃん……うん!」
叶恵の姿は儚くも消え、沈黙した教室には九人だけが残された。
たった一人に部の空気を乱された様子が否定できず、皆眉間に皺を集める始末で、嫌々ながらも帰り支度に身を向けていく。
しかし、夏蓮だけは微笑みを浮かべていた。さっきは泣いてしまったというのに、一人静かに頬を温め、叶恵が歩んでいった教室出口を見つめ続ける。
『――明日に支障が出るくらい、叶恵ちゃんも梓ちゃんのこと、考えてくれてたんだね。ありがと、叶恵ちゃん!』
それは、冷徹にも放った言葉の裏に隠された、熱血少女の思い遣りだったのだ。叶恵の告げた通り、今は梓のことを考えても仕方ない。自分たちがどれだけ思い悩んでも、彼女には届かない思いでしかないのだから。明日の練習試合に備えるため、早く帰宅するべきだと、任せるべき人の顔を浮かべた。
『お願い、田村先生! 梓ちゃんを、どうか導いて……』
「……さぁ、私たちも、明日に備えて帰ろう!」
テンションが一人浮いてしまっている夏蓮だが、徐々に部員たちも教室から出ていき、本日の笹二ソフト部の活動終了を迎えた。各々のユニフォームを折り畳み、初の対戦相手――筑海高校との練習試合に備えるべく、次々に昇降口へと向かっていく。
やがて二年二組の教室は柚月と咲を含め三人となり、忘れ物が無いかを確認してから退出を始めた。最後に室内の電気を消したが、夏蓮はもう一度だけ梓の机を見つめる。雲に隠れながらも放たれる、一筋の月光が敷かれた机上を。
『みんなで待ってるからね、梓ちゃん!』
輝ける未来を信じて、夏蓮は静かにスライド式扉を閉める。しっかりと施錠まで終え、三人横並びで廊下を進んでいった。




