十球目④舞園梓パート「ソフトボール、辞めます……。もうこれ以上、誰も傷つけたくないので……」
◇キャスト◆
舞園梓
篠原柚月
清水夏蓮
中島咲
花咲穂乃
河施瑚鳥
河施優陽風
泉田涼子
清水秀
舞園瑞季
舞園勝弓
田村信次
全国大会の幕が降ろされた、一ヶ月後。
世間では夏休みから二学期へとバトンが渡る季節で、小麦色に日焼けした少女たちの登校が始まる。
「おはよ……夏蓮、咲」
「おはよう! 梓ちゃん」
「おっはよ~ん!!」
無論、舞園梓たちにも新学期の幕が上がる。最近は三人で登下校する日々で、主に中島咲が盛り立て役、清水夏蓮が小さいながら突っ込み役を演じていた。
「いや~秋ですな~! 恵みの秋! 収穫の秋! 美味の秋!!」
「全部食べ物じゃん!」
「アハハ……」
そして、梓は二人の話を聞いての笑い役担当に専念していた。
長閑な天気の下、三人の仲睦まじい雰囲気には、まだ残暑に見舞われる秋風が後押しする。紅葉たちも鮮やかに揺れ、自然の世界も応援しているようだ。
漏れ無く、梓の長い黒髪まで靡かせ。
「……」
「梓ちゃ~ん? どうしたの~?」
「学校遅れちゃうよ~?」
「……あ、ゴメン。……問題ない」
一度は立ち止まってしまったものの、離れた夏蓮の呼び掛けに微笑みを返してから、梓は二人の背を追った。まだまだ早すぎる寒冷さを、吹き付ける秋風から覚えて。
『――柚月は、いつ学校来れるのかな……?』
正直、毎朝思ってしまう心中だった。
全国大会が終わってから早一ヶ月が経つ今でも、篠原柚月には市内の病院で入院生活が続いている。下半身を動かすことができず、学校に行くこともままならない車椅子状態なのだ。
放課後はよく三人で、入院先へ御見舞いに向かった。部屋に入ってみると、いつもベッドに居座る柚月が笑顔で待ち、決まって快く迎えてくれる。持ち前のドS口も饒舌で、夏蓮と咲を難なく困り転がしていた。
「もぉ~! 柚月ちゃんのイジワルゥ~!」
「そうだそうだァ!! アタシも夏蓮に一票だァ!!」
「フフフ! あ~愉快愉快。……ん? 梓どうしたのよ? 一人ボケ~っとしちゃって」
「え……いや、問題ない。続けて」
柚月ら三人の明るさに反して、梓は違和感で型どった微笑みを浮かべていた。
夏蓮と咲を手のひらで転がすような、悪性格の癖が強い柚月。できればもう少し丁寧さを覚えてほしいあまりだが、それは彼女本来の姿で、どことなく楽しそうに窺える。たとえベッドに寄りかかった状態だと言えども、第三者の視点に立てば、たいそう解放的な笑顔に見えるのだが。
『どうせ作ってるんでしょ、その笑顔……。わかるよ、私も同じだし……』
梓一人だけが、心を遊ばせることができていなかった。
最高の絆で結ばれた仲間たちの一人であり、且つバッテリーとしても共にチームを紡いできた、大切な存在――篠原柚月。そんな彼女の現状と心情を、梓は直視することに苦しみを覚えていた。
『あのとき、私が三振を取っていれば……』
柚月は入院などしなかったはずだ。怪我を恐れずアウトを取ってもらい、チームは見事に全国ベスト4まで上り詰めた訳だが、勝利の余韻に浸る者は誰一人もいない。あまりにも代償が大きかったからだろう。梓自身が考える、無力なエースのせいで。
『――もっとエースが、切り札にならなきゃ……』
目の前の親友と同じような悲劇を、二度と起こしたくない。もう誰にも、偽造の笑顔を浮かべてほしくない。
それを叶えるためには、自他共に認める絶対的なエースが必要だ。
『――もっと私が、強くならなきゃ!』
強い責任感のもと、決意を固めた梓は以降、生活スタイルを自ら変革させていく。起床時間を早めた朝には、登校前のランニング。それが終われば、笹浦スターガールズの練習球――“S☆G”と黒ペンで記された二号球を使って、自宅の庭に立つ石壁への投げ込み練習。当時生まれて間もないワン太にすら不安視されながら、早朝練習を一人継続させていった。
「キュウ~ン……」
『もっと速く!』
もちろん、自主練習は朝だけではない。柚月の御見舞いから帰宅した後は、ハーフパンツのジャージに着替え、真っ暗な夜を迎えるまで再度の投げ込み。最初は早朝と同じく庭で行っていたが、母の舞園瑞季から近所迷惑になるとを告げられてしまう。
「ねぇ梓? ガンバるな、とは言わないけど……少し肩の力抜いてみ……」
「……わかった。今日から早速、別の場所で練習する」
「ちょっと梓!?」
瑞季の助言も最後まで聞かぬまま、梓は練習場所を、柳川を渡る線路下に改めた。人気の少ないここならば騒音になるまいと、陽もほとんどに浴びれぬ影の空間で。
『もっと強く!!』
母の瑞季や父の舞園勝弓も心配するほど、梓の長い夜練習が日常化していく。的を描いた壁を、ゴム質ソフトボールで打ち砕かんばかりに。
『――本物の切り札にッ!!』
強度の責任感を確かに抱きながら、梓は一球一球に魂を伝染させる。チームの未来栄光のために、何よりも柚月のような犠牲者を出さないために、ウィンドミル投法から全力ストレートを幾度となく射続けた。
それから一ヶ月後の中秋。
全国各地で行われる新人戦が近いこの頃、笹浦スターガールズは大会前最後の練習試合に挑んでいた。相手は同じく茨城県内のチーム――緋勝奈多オーシャンズで、県央では最も優れたチームとの一戦だ。
六年生の引退に伴い、代替わりした笹浦スターガールズは、監督の清水秀と元主将の泉田涼子の意見合致で、新キャプテンは花咲穂乃に委ねられた。また五年生でほぼ固まっていた守備位置の変更はなく、四年生以下の下級生らが、抜けた六年生と欠いた柚月のポジションを穴埋め。主軸がほぼ変わらない代替わりのため、補強すると告げる方が等しいのかもしれない。
「今日もよろしくね、瑚鳥」
「う、うん! 梓ちゃんのストレート、全部捕ってみせるから!」
円陣が終演したピッチャーズサークル内にて、新たに決まった四年生キャッチャー――河施瑚鳥から、梓は開いたグローブにボールを渡された。
梓と違って、試合慣れは疎か、相方が上級生であるため緊張感が随所に窺える、一回り小柄な瑚鳥。しかしベンチ外から、引退した六年生の姉――河施優陽風から声援を受けつつ、重そうなレガースと身を打席まで運んだ。
「ヨッシャ~!! バッチコ~イ!!」
一方ファーストからは、絶賛大声援配信中の咲。
「内野オールファースト! 大事にいこう!」
セカンドからは、指示と主将らしく凛々しい構えを放つ穂乃。
「みんなぁ! ガンバれェェ!!」
またベンチには、相変わらず応援を繰り返す夏蓮。
そしてベンチ外には、元主将の涼子に、今日だけ外出許可を得た、車椅子に座る柚月も訪れていた。先輩を始め多くの関係者に見守られながら、試合開始の音が響かされる。
――「プレイボールッ!!」
相手の一番バッターも打席に入り、両者白熱した勝負の劇場が開幕した。
『大丈夫だよ……瑚鳥』
小さな瑚鳥が構える大きなミットからは、確かに微動が観察できる。試合に対する緊張と、まだ慣れていない捕手の恐怖があるのかもしれない。彼女がキャッチャーの練習を初めてから、まだ二ヶ月も経過していないのだから。
『監督に言われた通り、投げるからさ』
すると梓は一度ベンチの秀に目を送ってから、投球モーション前のセットに入る。冷静沈着を保ちながら左腕を降ろし、投球板を蹴ると同時に風車の如く回転させ、早速第一球目を放ってみせる。初球の結果は、相手バッター見送りの内角ストライク。瑚鳥が要求したコースに、まずは正確に投げ込むことができた。
「梓ちゃんナイスボール!」
「瑚鳥も、ナイスキャッチ」
互いに一球の接し方を褒め合いながら、ボールを受け取った梓は再びウィンドミルを繰り出す。今度は空振りの外角ギリギリのストライク。
ツーストライクと、早くも相手バッターを追い込んだが。
――カキーン!!
「セカンド!!」
第三球目に快音を響かせた打球は、セカンド寄りの二塁へ飛び向かい、守備に定評がある穂乃ですら飛び込んでも防げなかった。先頭に対し、いきなりのシングルヒットが生まれてしまう。
オーシャンズベンチからは歓声が、一方のスターガールズベンチからはため息がと、表裏明確な心情へ分けられていた。
「ゴメン、梓!」
「謝らないで、穂乃。問題ないから。ナイスガッツだったよ」
しかし、打たれた梓には平常心が顕在だった。エラーした訳でもないのに泣き出しそうな穂乃から、微笑みを掲げて捕球する。
「……ねぇ、梓?」
「ほら、守備位置に戻って。状況確認、キャプテンの穂乃がやらなきゃ」
「う、うん……」
何か言いたげな様子の穂乃だったが、梓は主将の心言葉を察して、セカンドポジションに向かわす。
『大丈夫だよ、穂乃。私のことは心配しないで』
ノーアウトランナー一塁と、内外野それぞれに適格な状況確認を送る主将背番号10を見つめ、梓は、試合前に告げられた秀の監督命令を、瞳を閉じながら思い出す。
『――全力ストレートは禁止。打たせてアウトを取る……』
それが監督からのチーム方針だった。色々な要素が組み込まれているのだろうが、一番の要因はきっと、未発達な捕手の瑚鳥の存在に違いない。小さな下級生に上級生の全力ストレートを捕球させれば、最悪場合怪我する恐れさえ思い浮かぶ。いくらレガースを纏っているとはいえ、梓の得意な豪速球では危険を呼び起こす原因になりかねない。
『楽しいって言ったら、たぶん嘘になる……』
相手を直球でねじ伏せる、絶対的な切り札を目指してきた。そんな練習に大きく逆らった、制球重視の投球スタイルなのだから。一球入魂の梓にとっては、悪く言えば手抜き投法に他ならなかった。
『でも大切なのは、私が楽しむことじゃない。この先の未来で、チームが輝くことなんだ……。何よりも……』
次なる二番打者がバッターボックスに君臨すると、梓は小さく息を溢し、構えられたミットではなく瑚鳥の瞳を覗いてからセットする。
『――柚月と同じ悲劇を、瑚鳥には浴びせたくない!』
仲間を想う末、梓の魂無きストレートが再び繰り出された。唸りたがっている左腕を、責任感という気持ちで抑圧しつつ、コントロール重視で進行していく。
指導者たちの判断で回数制限に則った練習試合は、時間制限の公式試合とは真逆に、長々と流れていた。得点されてもすぐに追いつき、また追い越されの、両陣一歩も譲らぬバッティングが打ち続く。投高低打のソフトボール概念とは異なる、完全な乱打戦と化していた。
『あと、アウト三つ……』
ついに最終回を迎えた五回表。スコアボードを覗けば十対八と、後攻の笹浦スターガールズが二点リードした現況だ。練習試合とはいえ、この回を抑えれば勝利である。
『あと、アウト二つ……』
ここまで梓の打たせるピッチングは続いており、キャッチャーの瑚鳥も後逸する回数が減っていた。数えきれぬ被安打を受けながらも、チーム方針を脳裏に焼き付けて投げ抜く。
『あと、アウト一つ……でも、マズイ……』
大会前の勝利は目の前まで訪ねていた。が、状況はツーアウト満塁。一打同点、下手すれば逆転も想定できる、絶体絶命のピンチ場面だ。
対するバッターは、九番の左打者。仮にシングルヒットで抑えられたとしても、ネクストバッターは初回からヒットを放っている一番打者がいる。加えて何本も快音を響かせた、安打製造機ことアベレージバッターだ。
『――九番バッターでアウトを取らなきゃ、きっと負ける……。ここで抑えなきゃ!』
自身なりに勝利への方程式を立てた梓は構え、あくまで瑚鳥が捕球できるコースに、スピードを抑えて放る。第一球目は、アウトローへのストライク。第二球目はインハイに要求されたが。
――カキィィィィン!!
「んなッ!! ……ふぅ……」
猛烈な勢いで飛ばされた打球は、切れてのファールボール。フェアゾーンに放たれていれば、ホームランの可能性さえ窺える大飛球だった。
とはいえ、カウントはツーストライク。あと一球でアウトが取れるターニングポイントまで訪れた。
『あと、一球……』
梓の心の声をそのまま、ベンチの選手たちも喜び叫んでいた。既に勝利が決まったと言わんばかりに、ゲームセットの集合へ前のめりな数人も見て取れる。
『あと、一球……でも……』
しかし梓はここにきて、険しい面構えを見せていた。考えてしまったからだ。果たして対戦中のバッターを、魂無きストレートで打ち取ることができるのかと。
『あと、一球……なら……』
固唾を飲み込んだ喉に冷や汗を垂らすも、声援に応えたい梓。そのとき、思ってしまったのだ。
『――全力ストレート、投げたい!』
今日まで磨きを加え、一番自信のある球種――全力ストレートに全てを掛けたい。
監督にも相談していない、チーム方針に背いた自己中心的案だ。が、大会前にチームが勝つために、眩い明日へ飛躍できる希望を誕生させるために、この場面ではどうしても投げておきたかったのだ。
『ゴメン、瑚鳥。一球だけ……この一球だけ、耐えてくれ!』
長い試合時間で疲弊した様子の瑚鳥に心配りをしながら、梓は苦渋の決断を固めてセットに入る。コントロールは多少乱れるだろうが、柚月と経験してきた数々の真っ向勝負を強気の糧に、本日初めて瞳を尖らせた投球を行う。
『これで、ゲームセットだァ!!』
封じていた豪左腕をしなやかに回し、スパイクで足場を深く抉ったウィンドミルからの全力ストレート。最近の練習試合では見られなかった一球で、蒼く燃える梓の魂が籠められ、唸る勢いで放たれたが。
『――っ! あれ……?』
刹那、左指先に残った感触に、妙な違和感が走った。スッポリ抜けてしまった感覚で、投げたいコースへ最後の一押しを加えられなかった気が否めない。また、瑚鳥のミットを凝視していたためか、放った白球がどうもゾーン内路線より目に映らない。一体どこへ向かってしまったのかと、焦点を即座に変えてみたが。
「――っ!」
もう、遅かった。
――バリ゛リリィィィィッ!!
「――ッ!!」
プラスチックが砕ける音と共に目を見開いた梓は漸く、ボールがすっぽ抜けてしまったことに気づく。いきなり速めようとしたが故に、力みまで生まれてしまったからだろう。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
――「で、デッドボール!!」
狼狽気味な主審のジャッジ通り、結果は死球で押し出しの追加点。これでスコアは十対九と、点差は僅か一点に迫る。
だが、その事態すらどうでもよかったのだ。
『デッド、ボール……』
ただ今梓が呆然と見つめる、バットと共に倒れた相手バッターを目にすれば。
『――頭部への、デッドボール……』
梓の全力ストレートは、左バッターの側頭部に直撃してしまったのだ。ヘルメットには大きな亀裂が走り、また右耳部分は完全に破損し、多くの破片がバッターボックス内に散らばっていた。
緋勝奈多ベンチに笹浦ベンチも、梓が投じた一球に声を圧し殺していた。意識はある様子だが、喰らったバッターは背番号を上空に向けて倒れたままで、なぜか顔を両手で伏せていたからだ。
『そん、な……』
恐る恐る相手打者に近づこうにも、梓は痙攣が鳴り始めた両足を稼働させることができなかった。ついこの前も目にした気がする光景に、我ながら怖じ気づいていたのであろう。ただ今ベンチ外で試合展開を覗く、最高の絆で結ばれた仲間たちの一人を思い出してしまい。
『あの日の、柚月と同じ……』
静寂なグランドと化した、秋風薫る青空の下。周辺の樹木の多くは既に数多の枯れ葉を降らし、今年は少し早い冬を迎える暗示が観察できる。枝に残された三枚の紅葉も、今にも風に煽られて、真下の地に向かいそうだ。
すると、相手監督がベンチから颯爽と飛び出し、バッターのもとへと駆けつける。余裕など窺えない焦り横顔で、打者を揺すりながら起こしてやるが。
――「……お、おい!! 出血だ!! 出血してるぞ!!」
「――ッッ!!」
梓の驚愕した瞳にも、相手監督が叫んだ現実が飛び込む。飛び散ったヘルメットの破片で切れてしまったためか、相手少女の左頬からは確かに、紅の鮮血がドロリと伝っていた。
それだけでは止まらない。破片は額をも襲ったらしく、眉間を経由した赤い涙まで、顔面を蛇行していたのだ。ユニフォームに点々と赤を塗り、事の重大さをより強調させていく。
『また、だ……』
事態は騒然とし、未だ立ち上がれぬ打者のもとに何人も集まり、誰もが悲愴に染まっていた。もちろん、ピッチャーズサークルに一人立ち尽くす梓も同様で、右手のグローブがスルッと落ち、絶望の瞳で視界を狭めていく。
『また、怪我人だ……』
その日の秋風は妙に強く、そして冷たく吹き付ける。グランドの砂埃を巻き上げ、落ち葉たちを次々に飲み込んでいく。枝にしがみついていた一枚の紅葉もついに離れ、冷たい渦の中へ消えていった。魂が抜けかけた梓が伸ばす、長髪をも靡かせて。
『――また、私のせいだッ……』
その後、練習試合の結果は笹浦スターガールズが辛勝。一点差を守りきり、大会前としては上々のゲーム内容で終えることができた。
しかし、終了直後に梓は、監督の秀を始め、両親の瑞季と勝弓に直訴することにした。後悔と罪悪感で膨れ上がった責任感を胸に宿し、小五の秋に決断する。
「ソフトボール、辞めます……。もうこれ以上、誰も傷つけたくないので……」
終始俯いたままの、電撃引退宣言他ならなかった。その日を境に、舞園梓という一人の投手が、二度とグランドに現れることはなかった。抜け落ちたグローブも置いてきぼりにしたまま、帰らぬ選手となってしまったのだ。
『掌に、太陽の光を……。六年前も、よくやったっけな……』
そして引退してから約六年が経った現在、高校二年生にまで成長した梓は今日も一人影に隠れて、落ちかけ寸前の夕陽に手のひらを向けていた。
『そういえば、柚月とバッテリーじゃなくなってから、やるの忘れてたっけ……』
あの期間は自身のルーティンを忘れてしまうほど、心にゆとりが無かったに違いない。戦力外になった柚月に涼子ら先輩の引退と、今でも長い一時だと感じていた。怪我をさせてしまった相手バッターの出血顔も、鮮明に記憶しているほど。
『だから私は、もうソフトボールをやっちゃいけないんだ……。それが私なりに決めた、ソフトボールへの責務なんだ』
切り札どころか、あってはいけない捨て札になってしまったのだから。
日没の時刻も訪れ、梓は左手を降ろし、翳すことを止めた。呪縛的絶望の色に染まった瞳には、言うまでもなく太陽の光は射さず、柳川の線路下の壁に佇む。
『……帰ろっか、家に』
中学生になってから購入し使用している三号球を一目してから、梓は壁の的に背を向ける。ソフトボールをやりたいか、それともやりたくないかと聞かれれば、やはりやりたいと告げた方が事実だ。小学生公式球の二号球から、中学生以降新たに手にする三号球を馴染ませているほどだ。少なくとも、自分自身に嘘をついた愚行である。
『――それでも私には、乗り越えられない大きな壁がある……。可能性も希望も見えない、大きな壁が……』
諦めた心を宥めるようにため息を吐き、梓は帰宅しようと歩み出す。か弱い月明かりのみを頼りにした、暗く見透しの悪い夜道へ進もうとしたが。
――「舞園~~……」
「――っ!」
突如遠方から背後に届いた男声に、梓の張った両足が停止する。
この、男性にしては高い声域。
この、轟かんばかりの声量。
何よりもこの、夏の太陽のように暑苦しい声質から、主の正体を察しながらも、梓は驚いて振り向く。
『――た、田村先生!?』
「舞園ォォ~~!!」
遠く離れた一本道から必死に叫び駆けてくるのは、見慣れたスーツ姿の現担任――田村信次だ。手には何も持たず、ひたすらに汗を吹き出しながら猛ダッシュで近づてくる。暗く見づらいはずの、一寸先の夜道から。
「先生……どうして、土曜に先生が……」
届く訳もない小声で呟き、迫る信次を戸惑い見つめる梓。ただそのとき、見開いた瞳には一筋の光が射していた。現役当初にルーティンとして手のひらに集めた、太陽の輝きと似た煌めきを。
「舞園ォォォォオオ゛!!」
その夜、高い壁の中に追いやられた少女には確かに舞い込んだのだ。絶望の鎖を断ち切る原点となり得るかもしれない、眩しいまでの希望の光が。




