九球目 ④花咲穂乃パート「監督、さん……」
◇キャスト◆
花咲穂乃
宇都木歌鋭子
錦戸嶺里
呉沼葦枝
梟崎雪菜
茨城県 つくみ市。
東京都に近い県南地域に属し、隣接する笹浦市よりも栄えた一つの市。延々と続く三車線道路は、多くの高層マンションや無限の発展を意味する市の木――欅で囲まれ、バスや電車も含め数多のエンジン音と自然が、この市を毎日包み込んでいるようだ。ショッピングモールや高級専門店なども以前から営業されているため、田舎人からすれば十二分に都会の景色が拡がっている。また学園都市としても有名で、私立中高のみに止まらず、日本有数の巨大なキャンパスとして誇る国立大学に、最先端の科学を司る技術系学校、実際の現場と提携を結んだ医療専門学校まで建設され、近年も人口増加傾向が見受けられる未来の街だと言えよう。
そんなつくみ市に数々の高校がある中、市内唯一女子ソフトボール部を設けている学校こそ、県立筑海高等学校だ。学力レベルが高いことは言うまでもなく、部活動にも多大な熱を注いでいることも、彼女らの練習に励み汗ばむ勇姿を窺えば容易にわかる。チームスローガンとして掲げている“初心忘るルべからず”を胸に秘め、腹底から声を上げて挑んでいた。
どうやら現在は、練習メニュー最後のベースランニングを行っているようで、ネクストランナーから代わった二年生レギュラー――花咲穂乃が、前傾姿勢のままスタートを切る。
『もっと速く! もっと先へ!! 本物を目指して!!』
チームカラーでもあるオレンジリボンで型どったセミショートのサイドポニーテールを揺らし、華奢でありながら逞しい魂を燃焼させる。本塁打想定の一周に直駆け、まずはダブルベースの白を踏み、やがて二塁ベースの角を蹴り、三塁ベースで最後の加速を着けてからホームへ帰還した。
三年生にも劣らぬ全力疾走の末、穂乃の息は荒れ果て枯渇していた。が、高き目標を望む凛々しい瞳は上向きで、自身の弱さと常に拮抗していた。
『――本気で挑まなきゃ……。もう前のような、怖がりのわたしには、なりたくないから!』
――「シュウゴォォオッ!!」
――「「「「ハイッ!!」」」」――
すると主将の一声が轟き、一から三年生までの総勢約三十人のソフト部員たちが一塁側ベンチへ駆け集まった。下級生ながらにして穂乃は集合前列で立ち、威厳に満ちた一人の女性監督を目前にする。
――「監督さんに脱帽!! お願いしますッ!!」
――「「「「お願いしますッ!!」」」」――
穂乃を含めた健気な部員らが囲んだ相手とは、背の高き女性厳粛監督――宇都木歌鋭子だ。九年目を迎えた校内では生活指導の役割を果たす一方で、保健体育教諭としても責務を果たしている。肩にも乗らぬ荒れた後ろ髪を垂らしながら腕組みを見せ、僅かな笑みも溢さない鋭き目を彩り、厳格の姿勢がよく似合うソフト部顧問だ。
やがて準備が整ったように目線を上げると、歌鋭子が改めて部員たちに低音を響かせる。
「もうすぐで五月だ。五月に関東予選大会があることは、もうお前らもわかってるだろ。六月のインターハイ前最後の大会だが、全身全霊全員で臨めるように。体調管理と健康管理、そして模範的な生活態度を徹底しろ……いいな?」
――「「「「はいッ!!」」」」――
「特に三年! 引退が掛かったお前らには、全てに“最後”が着くと思え! このチームでプレーできるのも、残り僅かだ……。一日たりとも、無駄にするなよ!?」
――「「「「はいッ!!」」」」――
男性染みた口調に手厳しい面構えの監督だが、穂乃は部内の誰よりも信頼を寄せている。少女にとって憧れの女性像であるが故に、つい見とれてしまうほど。
『宇都木監督のように、強くなりたい。選手としてだけじゃなく、人としても立派に!』
――「礼!! ありがとうございましたッ!!」
――「「「「ありがとうございましたッ!!」」」」――
選手と監督同士の終了挨拶を済ませ、部員たちはグランド整備に移る。身の丈以上の木製トンボを持ち出し、スパイクで刻まれた荒野の大地を、横に進みながら前後と均していく。今日もソフトボールをやらせていただいたという感謝の意を込めながら、凹み一ヶ所も抜かりないよう整備を進める。
「……これで大丈夫かな」
「花咲。一二年に集合かけてくれ」
「は、はい!」
するとトンボを片づけようとした穂乃に、歌鋭子の冷静な一声が刺さった。言われるがままにすぐ集合の声を拡散し、なぜか三年生を除いた、二十人弱の面子たちで監督を覆う。
一体何を聞かされるのだろうかと、先頭且つ中央の穂乃が考える中、一二年生全員が集まったことを確認した歌鋭子から理由を告げられる。
「急だが日曜の午前中、一二年のチームで練習試合をやることになった。相手は同じく、一二年でまとまったチームだから、新人戦のつもりで臨んでほしい」
それは世にも珍しい、四月下旬からの新チーム発足案に近かった。いくら早くても、三年生が引退した後の夏場が基本的だ。加えて、まだ入部仕立ての一年生も含めているだけに。
歌鋭子からは妙にも相手名が鳴らされないままで、穂乃は思わず眉間の皺を浮かべながら窺っていた。
「そのときのキャプテンは、花咲。お前がまとめてくれ」
「はい! ……あの、ちなみに相手はどこなんですか?」
恐らく県内の新チームであろうことは察しが着くが、瞬きを繰り返した穂乃は代表して歌鋭子に尋ねた。
他の部員たちも気になっている様子で、両隣の選手同士で目配せを重ねる。早期な新チームとしての初戦の相手とは、一体どこの高校なのか。
「それが、な……」
すると歌鋭子の表情が、部員たちの前でふと下がる。尖る瞳は残されつつも、どこか儚げな細目だと観察できた。
『宇都木監督……あまり、言いたくないのかな?』
穂乃の胸中に不安の雲が拡がろうとしていたが、苦しそうにも一息ついた歌鋭子が再び、厳つい面を上げたことで少し晴れる。筑海ソフト部員一二年生らの前で、漸く言葉が紡がれようとしていた。が、その対戦校名は二年生にとって、一年前にも聞いたことがある、忘れもしない故名そのものだったのだ。
「――笹浦二高……。ちょうど去年の今ごろ、お前たち二年生が戦った相手だ」
「えっ? 廃部くなったんじゃないんですか?」
確かに去年、笹浦二高女子ソフトボール部とは一度だけ対戦を交えたことがある。それは穂乃たち現二年生にとって初の練習試合でもあったため、鮮明に記憶している一戦だ。しかし、相手の彼女らはそれっきり表に出ることがなくなったのも事実である。公式試合での参加も皆無で、久しく耳に入ってこなかった名だが。
「今年復活したらしいんだ。キャプテンもメンバーも顧問も変わった、新生笹二ソフト部としてな……」
「そ、そうなんですね……」
「あぁ……。悪いがこの誘いは、断る訳にはいかないんだ。ワタシの恩師でもある、笹浦二高の学校長からの御願いだからな」
監督を目の前にしながらも、穂乃の瞳が少し暗く落ちていた。しかし、それも無理はなかったのだ。一年前に戦った彼女だからこそ、抱いてはいけない罪悪感が芽生えていた。
『わたしたちが勝ったから、笹二ソフト部は廃部くなっちゃったんだよ……。ソフトボールの楽しさも、教えられないまま……』
対戦で圧勝したことがきっかけで、一つのチームの破壊した気も否めなかったからだ。あの日は多大なるショックと影響を、笹浦二高生徒を始め、学校関係者にも与えたに違いない。
「……」
「……とりあえず、当日のキャプテンはショートの花咲だ。実際に新体制になってからも任せるかどうかは、練習試合後のお前たちの判断に委ねる。ちなみに当日のバッテリーは、捕手が錦戸、投手が呉沼で挑もうと思う。経験者の錦戸がリードし、呉沼も準備を怠らないようにな」
「「はいッ!!」」
すると穂乃の俯きを無視するように、歌鋭子が予めの采配を表明した。まずは二年生の二人――中学からの経験者で、鍛えぬいた身体を伸ばした短髪の錦戸嶺里と、高校からソフトボールと出会った、スレンダーと呼べる長髪な呉沼葦枝が、大小異なれど轟く返事で眉を立てる。
「それから、スコアラー兼マネージャーは、梟崎にする。控え選手としての準備も必要だが、みんなのサポートに目を配ってくれ」
「はいっ!」
今度も同級生――更に身形が細い梟崎雪菜が、自身の掛ける眼鏡を光らせて頷いた。
「残るポジション、それから打順は、明日からの練習を見て判断する。試合に出たければ、とことんアピールしてみせろ。もちろん、今回の練習試合は接待ではない。やるからには本気で立ち向かうからな……いいな!?」
――「「「「はいッ!!」」」」――
最後に全一二年生の返事がまとまったところで、歌鋭子より解散の音が鳴らされた。颯爽に散ってベンチに置かれた各個人の道具や荷物を運び、ソフト部専用部室へと駆け込んでいく。練習試合に対する楽しみな思いも吐き出すことなく、ひたすらに完全下校時刻を守ろうと着替えを始めていた。
日の入りを迎えた筑海グランドは、先ほどまでの部活動熱が嘘のように静観としていた。橙から紺に変わった空には輝き放つ星も現れ、練習終了の合図を鳴らしているようにも観測できるが……。
「どうした、花咲?」
夜が訪れたグランドには未だに、穂乃が歌鋭子の前で滞在していた。練習試合の話を聞かされてから、一向に動かず俯いていたのだ。もどかしさのあまり、ハーフパンツの両側縫い目を強く握る。
「……その、どうしても、気になっちゃって……」
「笹浦二高が、廃部になったことがか?」
「はい……」
グランド外の草むらから訪れる鈴虫の声に負けるほど、穂乃の返事はか細かった。どっしりと腕組みを構える歌鋭子に目も与えず、自身が履く泥だらけのスパイクばかりを見つめる。
「また戦って、またわたしたちが勝ったとして……また、廃部になっちゃったら……」
「それまでのチームだったってことだ。言ったろ? これは接待じゃないって……。真剣勝負に、同情して手加減することこそが、一番の侮辱的行為だぞ?」
「わかってます。わかってるん、ですけど……」
同情心を抱くことなど、相手からしてみれば大きな御世話に違いない。それはもちろん穂乃自身も理解しており、覚悟と誇りを持ち運ばなければいけない試合には不要装備品だ。
しかしどうも飲み込めず、雲行きが怪しい空の下で狼狽えてしまった。
「花咲……一年生からレギュラーのお前は、確かに優れた能力を持っている。それもプレーだけじゃなく、仲間たちの状態や内心まで意識して、素晴らしいリーダーシップだと言ってやる」
「ありがとうございます……」
監督への感謝の言葉にしてはあまりに小声で、目も合わせない呟きに過ぎなかった。目の当たりにした歌鋭子も呆れたため息を置いてから、縮こまる穂乃へ一方寄る。
「だがな、相手の心情まで考えてしまうお前の優しさが、選手としては唯一の欠点で、大きな弱さでもある。仲間には真心、相手には決心でいいんだ」
覚悟を決められない優柔不断さこそ、穂乃が長年抱いてきた弱点だ。歌鋭子にも見透かされてしまうほどの、可視的な揺らぎに他ならない。
「……」
「まぁそれに、今回はしっかりとした保険付きだから安心しろ。正々堂々戦ってくれって、清水さんから言われたんだ」
「え? し、清水さんって、秀さんのことですか?」
すると穂乃の顔が久方ぶりに、見下ろす歌鋭子へ上昇した。見開いた瞳には曇りが去り、思わぬ光が射し込む。
「あぁ。というか、お前知らなかったのか? 今は、笹浦二高の学校長やってるんだぞ?」
「そ、そうだったんですか!? 全然聞いてなくて……」
小学生当時に御世話になった、恩恵ある老人――清水秀。そんな恩人の名を聞いてから、穂乃の表情が晴れの兆しを示し始める。
「……久しぶりに、夏蓮のおじいちゃんに会えるかも……」
「夏蓮? ……そうか。花咲は、清水さんのお孫さんと同級生だもんな」
「えっ? う、監督さんは、夏蓮のこと御存知なのですか!?」
先ほどの問い返しよりも、物静かな穂乃のトーンが一段上がっていた。すると歌鋭子からは嘲笑を交えた頷きを放たれ、普段観察されない腰に手姿勢を見せられる。
「――清水さんのお孫さんが、笹二ソフト部を創ろうとしてるんだと。スターガールズのときからいっしょの仲間も集めてな……。その初戦を、ワタシらにお願いしてきたんだ。……フフ、あの人も富んだジジバカになったもんだ」
「笹二……夏蓮……スタガの仲間……そうなんですねっ!」
穂乃の小柄な頬が上がり、喜びで膨らみが増していた。なぜなら小学生時代、同じソフトボールクラブ――笹浦スターガールズで努力した旧友――清水夏蓮の存在を確認できたからである。
『――また、夏蓮と会えるんだ! ……ううん、夏蓮だけじゃない。もしかしたら、柚月に咲、それに梓にも会えるかも!』
同じ高校に通っていると聞いた四人にはかつて、穂乃は尊い手助けをしてもらったことがあるのだ。ソフトボール観を大きく変えてくれ、今では善き思い出として胸に残っている。弱々しい自分自身に、生まれて初めての強さを覚えさせてくれた親友だ。
『久しぶりだなぁ。みんな、元気にしてるかなぁ?』
再会できるという気持ちが、より一層の楽しみを際立たせる。穂乃の上向いた表情には、確固たる微笑みが浮かんでいた。練習試合の相手名を聞いたときとは真逆に振れ、今では早く試合開始を望むほど、絢爛とした光の暖かさを胸に感じる。
「だがな、花咲……」
すると歌鋭子から、歓喜の思いを薄れさせるように、持ち前の低い女声を当てられた。監督の顔を窺えば、元の鋭利に満ちた面構えに戻っており、尖る口先より紡がれる。
「――楽しむな、とは言わない。“初心忘るルべからず”だからな……。だがワタシらは、あくまで試合という真剣勝負に立ち向かうんだ。旧友と再会できる喜びがあるからといって、レクリエーション感覚に陥るな」
「監督、さん……」
「揺らぐなよ? 次期キャプテン候補」
「……はいっ!」
眉を立て、腹の底から返事を発声し、穂乃は歌鋭子に決心を表明した。確かに、夏蓮たちと再会できることは、多大な楽しみだと言える。数々の思い出を共有し合える、旧友であり親友でもあるからだ。
しかし、元戦友であることも否めない。現在の花咲穂乃にとってのチームは、同級生には錦戸嶺里と呉沼葦枝や梟崎雪菜など、そして宇都木歌鋭子を監督とした、筑海高校女子ソフトボール部なのだから。夏蓮たちと励んだ笹浦スターガールズの時代は、ずっと昔に終演している。
生きている限り、人間には必ず変化が訪れる。善し悪しの予想も着かない中で、酷にも強要させられるのが世の掟だ。そこで逃げれば成長できないことなど言わずもがな、変化という障壁だらけの人生を、まともに歩めず滞ることだろう。
いつまでも、乙女になれない少女のままで、生命の脈を無駄に打つだけとなってしまうのだ。
『――だからこそ、変わらなきゃいけないんだ……。未来に進むために……弱いわたしが、強いわたしになるために! ……本物に、なるために!!』
歌鋭子に御辞儀をし、漸く穂乃もグランドから去ることにした。早速着替えを済ませて下校しようと、部室そばの女子更衣室に入室する。完全下校時刻間際の今ではすでに部員たちが皆無な貸切状態で、一人泥だらけの練習用ユニフォームを脱ぎ畳み、リボンをキュッと締めた清楚な制服を着飾った。
しかし、窓を閉め切った隙間風もない室内で、穂乃の制服リボンが妙に揺れていた。模範的に固く結んだはずなのに、またサイドポニーテールのオレンジリボンさえ静止しているのに、胸元のリボンだけが小さな微動を繰り返していたのだ。




