九球目◇初の対戦相手◆①舞園梓パート
一回裏◇始まる伝統の一戦。乗り越えろ恐怖の一線――vs筑海高校編◆
◇キャスト◆
舞園梓
如月彩音
茨城県立、笹浦第二高等学校。
昼休み十分前のチャイムが鳴らされ、これから四限目を迎えるところだ。昼食を済ませた校内生徒たちは、次なる授業の準備を行っており、分厚い教科書やノートに目を通す予習や復習、自身らのクラスから家庭科室へ身を運ぶ移動教室、ジャージに着替えて体育館に向かう姿など、少し慌ただしい廊下が開通されていた。しかし各々の友だちと寄り添い過ごしているためか、授業に対する嫌気はあれど、言霊が飛び交う賑やかさがより窺える。「確か今日は指名されて発表だよ~」といった報告や、「ダルいよねぇ~。でも大丈夫だよ。だからガンバって!」といった共感からの応援を交えることで、息苦しい高校勉学を、共に呼吸を合わせて乗り越えようとしていた。
『確か次は、数学だ……』
すると、声も出さず心で呟いた舞園梓は一人、下駄箱近くの廊下をゆっくり歩いていた。いつも昼食を済ませてる生徒ラウンジから抜け出し、四限目の二年二組へ時間通り戻っているところだ。クセ毛が多少目立つロングヘアだが、今日も安定した揺れを続けている。
『高次方程式の宿題もやってあるし、何も問題ない。……ん?』
本日の数学授業内容を確認していたが、ふと梓の瞳に、慣れ親しい女性教諭の横姿が映り込む。どうやら掲示板の貼り紙を見つめているようで、近づくこちらには気づいていない様子だ。
しかし次の数学担当教諭でもあるため、責任感の強い梓は彼女のそばで立ち止まる。
「如月先生。次の時間、よろしくお願い致します……」
「あ、舞園さん!」
梓の囁きに驚き振り向いた彼女は、二年六組理系クラス担任――如月彩音だ。オフィスレディーの如く端整なスーツ姿だが、まだまだ二十五歳も満たない若々しさが強い。特に授業中、話が逸れて自身の失恋物語を語ってしまうくらい……。
「……先生、何を見てるんですか?」
「あ、うん。この勧誘ポスター」
「え……っ! ……」
彩音の人差し指にも煽られて向いた梓は、掲示板の前で一枚のポスターに目を奪われる。
なぜなら目の前に、笹浦二高女子ソフトボール部の勧誘ポスターが顕在だったからだ。大きな模造紙には妙に皺が多く刻まれ、四隅には無理矢理剥がされたような切り込みまで見て取れるが、丸みを帯びたポップな字体に数々のイラストが描かれ、愉快な部の雰囲気が主に伝わってくる作品だ。寡黙な梓も、自然と微笑んでしまうくらいに。
『ほとんどは柚月の字だけど、夏蓮の字も少しだけある……』
篠原柚月と清水夏蓮の二人で作製したのだと、親友の瞳には確かに映る。頬が上がった梓は、見覚えもない二人の勧誘ポスター作製映像が脳裏に流れ、想像に耽っていた。美術部でもある柚月がペン先を転がし、隣で夏蓮がそっとサポートする、仲良し二人の協同作業を。
「おかげで、月島さんも最近元気になったし。部ができて、ホントに良かったわ」
すると彩音がポスターを眺めたまま呟き、梓は次に隣の女性教諭に目が向かう。
「叶恵のこと、ですよね? 確かに、私も良かったって思います……」
「えっ、舞園さん、月島さんと知り合いなの?」
「いや。実際に話したことはないですけど……一人のソフトボーラーとして、知ってます」
月島叶恵との面識はないが、梓は彼女の顔を確かに認知している。去年に笹二ソフト部を立ち上げようとしたことでも有名で、他クラスとは言えども、正直気になっていた一人だ。
『いろいろあったとは思うけど、今は叶恵も楽しそうにやってるし……ホントに良かった』
時おりソフト部の練習模様を、梓は隠れながら観察していた。初めて窺ったときから、叶恵は夏蓮といっしょにキャッチボールをし、マネージャーとして入った柚月とも上手くやっている姿が印象的だ。ドSの驚異に晒される日々も否定できないが……。
現在は人数も増え、同じクラスの牛島唯、またこの前にはもう一人の親友――中島咲も加入した。ついに試合ができる状態にまで至り、創部からは順調に進んでいるよう見て取れる。
「叶恵も、夏蓮たちと上手く溶け込んでいるみたいだし。問題なさそうですね……」
「だと良いんだけどねぇ。月島さん、誰に対してもすぐ熱くなっちゃう娘だから」
彩音から苦笑いを放たれたが、あくまで梓は静かな微笑を保つ。
「叶恵は、大丈夫ですよ。夏蓮と柚月に咲がいるんだから……絶対」
親友三人の優しさを知っているからこそ、梓は確信を抱きながら彩音に伝えた。叶恵がもう一人にはならないよと、去年のような悲劇は二度と起こらないよと、言い聞かせるように。
『あ、そういえば、叶恵はピッチャーだったっけな……。私と同じ、ポジション……』
ポスターの方角に向きつつも、梓の視線は次第に下がり始め、タイトルの“笹浦二高女子ソフトボール部”が視界より消えた。
今から六年前の小学生時代、梓は現在の叶恵と同じポジション――投手を任されていた。控えだが主に外野手だった夏蓮、バッテリーとして二人で励んだ捕手の柚月、そしてすぐ隣で大声援を送ってくれた一塁手の咲らと、監督から繰り出される厳しい練習や試合を何度も乗り越えた。
いつも四人で、いっしょに。
最高の絆で結ばれた仲間たちと、共に。
『――っ! そっか……。私と叶恵が、同じピッチャーなら……』
すると叶恵との共通点から、梓はあることに気づく。再び視点を戻したタイトル欄には、もちろん“笹浦スターガールズ”ではなく、“笹浦二高女子ソフトボール部”と描かれており、勧誘ポスターへ、自嘲した瞳を開く。
『私がいなくても、何の問題もないじゃん。ピッチャーの私が入部る必要なんか、ないんだ……』
まるで自身と叶恵の立場を交換し、親友四人グループの繋がりまで変えようとした、ポジション変更案だ。同じ投手且つ同じ左利きなのだから、プレイヤーとしても大きな差し支えはないために。
しかし、寂しくないと言えば、間違いなく嘘になる。夏蓮たち三人の親友との間に見えない距離が生まれてしまいそうで、一人取り残される孤独感が過るばかりだ。
できるものならまた四人でいっしょに、同じグランド上に立ちたい。
その気持ちは、梓には確かにあるのだが……。
『――でも、私にはもう、ソフトボールをやっていい資格はない。やれる余裕もない……。つまり、やっちゃダメなんだ……。どうせまたやったところで、たくさんの人に迷惑を掛けるんだから……』
ふと自身の震える手のひらを覗いた梓は、思わず呆れた吐息を吹きかけた。背負ってしまった投球恐怖症は現在も完治していないことも含め、ソフトボール再開の音を鳴らす権利など認められないだろう。
もう誰一人も、己のプレーで傷つく相手を見たくない。
梓は反って、叶恵の存在に安心を覚えていた。何もできない自分の代わりとなり、親友三人の要望にきっと応えてくれるだろうと。夏蓮と柚月に咲も、その方が幸せになれるに違いない。
「ねぇ舞園さん?」
「私は、入部らないですよ……」
「え? ……」
彩音からの質問も明確にさせぬまま、梓はポスター前から離れようと動き出した。どれだけ勧誘されようとも、入部する希望の欠片など持ち併せていないのだから。
「……でも舞園さんは、清水さんたちと仲が良いんだし……。入部するだけでも、良いんじゃないかしら?」
彩音の横を通り過ぎた梓は立ち止まるも振り向かず、下がった肩を乗せた背中で語る。
「誘われてはいますけど、私は何もできないですし……。プレーも、指導も、サポートも、何もかも……。きっと叶恵が代わりに、私の分全てやってくれますよ」
経験者の叶恵なら、目的意識が高くリーダーシップの誇れる彼女なら、チームのためにきっとこなしてくれる。梓自身の分まで。
「でも、舞園さん?」
捨て台詞を吐いたつもりの梓だったが、再度届いた彩音の一声に足を止めた。もうじき四限目が始まる時間だというのに、授業開始時刻への焦りが生まれる。
「なんですか? 早くしないと、授業に遅れますよ?」
「舞園さんはさっきから、ピッチャーのあなたばかりを考えるみたいだけど……」
彩音の応答は言わずもがな、梓が投げた質問に合っていなかった。
気になって振り返った梓は首を傾げながら、何か言いたげな彩音を見つめる。発言に迷う恥じらいの赤色が観察されたが、ふと笑みを生ませ、開き直ったように言葉を紡ぐ。
「――清水さんたちは、ピッチャーのあなたではなくて、親友の舞園梓さんを待ってるはずよ……?」
それは、絆が繋がるポジションなど変更できないといった、彩音からの伝令だった。自身の存在そのものを待っているのだという、親友たちの想いが込められて。
「――っ! ……ど、どうだか……」
真に受けた刹那、梓は目をそっぽに向けた勢いに乗って立ち去ってしまう。単に彩音へ、返す言葉と顔が無かったからだ。ゆっくり歩いていたはずが、早足に変わっていた。
『嬉しいよ、夏蓮たちが私を待ってることなんて……でも……』
笑顔にはなれなかった。もはやしかめ面を落とすはめになる。普段上り慣れてる階段が、一段一段鮮明に見えるくらいに。
『世間に許してもらえるのかな? 私の復帰って……。相手バッターに傷を負わせたような、私が……』
あの日、頭部にデッドボールを直撃させてしまった相手からは、復帰の許可を受け入れてもらえるのだろうか。はたまた、彼女の両親はどう思うのだろうか。もっと言えば、相手や自分の親戚などの心境も気になるばかりだ。
そしてソフトボールの女神様はどう思うのだろうかと、梓はついに架空の相手まで考慮していた。一人歩く階段にはありもしない、周囲の視線に怯えながら。
『やっぱり無理だよ……。復帰しても、復活ができるとは限らないんだから……』
階段を上り終えた梓は、二年二組に繋がる廊下を歩み始めた。教室に入れば夏蓮と柚月に咲、また牛島唯とも会話した和やかさが窺えたが、話の輪に入ることなく自席に着く。机の横フックに掛けたスクールバッグに弁当箱をしまい、数学の教科書ノートを取り出す。
『――いいじゃないか……私は、一応援者のままで……。夏蓮と柚月と咲、それに唯や他の人たちを、遠くから見守る一人のままで……』
やがて教室前扉が開くと、先ほど遭遇した彩音が入場し、数学の授業が開始する。もちろん梓も切り換えるように深呼吸で改め、マメが浮かんだ左指先で教科書を捲っていた。




