八球目⑥信次→ 夏蓮パート「みんな……ホントに……」
◇キャスト◆
清水夏蓮
田村信次
篠原柚月
中島咲
月島叶恵
牛島唯
植本きらら
星川美鈴
東條菫
菱川凛
May・C・Alphard
数日後の、笹浦総合公園ソフトボール場。
間もなく午後五時半を迎える、週末の金曜日。橙の春空の下では、赤土グランドの土煙が舞う春風が吹き込み、外野側の緑芝生へ何度も突き抜けていた。
「みんなァァア!! ファイトォォォォ!!」
一人場違いなスーツ姿の顧問――田村信次の一閃が向かったグランド上では、笹浦二高女子ソフトボール部が本日最後の練習に取り掛かっていた。数日前に部員たちへ贈ったユニフォームに、栄光の未来に飛躍するために吹き出た玉の汗を、多大にも染み込ませている。
最後の締めは、走塁練習。
バッターボックスからスタートし、一人ずつ次々に一塁ベースまで駆け抜ける。部員全員が走り終われば、今度は二塁への盗塁。次に三塁を踏んでホームベースへの二塁打想定で帰還し、一人計五周するルールを設けた、循環型ベースランニングだ。
基本的な塁への進み方や時と場合に応じる正しい走り方、そしてランナーの生死を左右するスライディングに関しても、脚力向上と併せて磨いていた。
「この周が終われば、残り一セットだぁ!! ガンバってェェ!!」
信次がベンチより声援を送る中、マネージャーの篠原柚月が三塁ランナーコーチを務める一方で、部員の九人たちが二塁から生還してくる。まずはやはり、ソフトボール経験者の四人からだ。
「オリャアア゛!! ……さぁ次よ早く!! ……練習中に休める時間なんかないんだから!!」
呼吸の荒れが窺えないと思いきや、やはり狭い肩で息を繰り返し隠している月島叶恵。
「ウゥオォォ~! ヘッスラァァ~~ア!!」
果敢なヘッドスライディングでホームベースに飛び込み、大量の汗で光る額にまで土を塗った中島咲。
「Finish!! ハァハァ……さすがに四周目ともなると、けっこう苦しいデス。……ハァ、ニッポンで苦汁を嘗めると、このような思いになるのデスネ……」
改めて日本部活動練習に厳しさまで味わい、皺付いた顔を地に落とすMay・CAlphard。
「ハァハァ……ハァハァ……みんな~……ガンバれ~……ワッ!!」
そして、経験者らしからぬ弱々しい声を吐きながら駆け、ホームベースに躓き転んでしまった清水夏蓮。
経験者ですらベースランニングの脅威を受けている様子が、素人顧問の信次にも目に見えてわかる。
『みんな……ガンバれ!!』
「輝け笹二~!! ファイトファイト~!!」
内心でも表でも、信次は必死たる応援を向けることしかできなかった。部活動顧問としては、正しい振る舞いのはずなのだが、妙な情けなさが沸き起こってならず、得意の童顔スマイルが失せていた。
次にはもちろん、残る未経験者の五人が走塁を行う。やはり馴れない彼女たちも体力の限界が訪れかけている様子で、整った呼吸を表現する者など一人も見当たらかった。
「ハァハァ……ヤッベ。一周するだけで、こんなに疲れんのかよ……ハァ」
一セット目からここまでの全力疾走には呼吸の混乱を覚え、集めた眉間の皺の数だけ汗粒を垂らす牛島唯。
「ハァハァ……え、遠心力が邪魔で、走りづらいっす……」
三塁を通り越す際に訪れる方向転換が苦手で、精神的スタミナも疲弊した星川美鈴。
「脚が取れちゃうにゃあ~!!」
あまりにも度重なった疲労を痛感し、訳のわからないことを平気で悲嘆した植本きらら。
「フッ!! ハァハァ……凛! 無理しない程度にねぇ~!!」
未経験者ながら早くもスライディングを修得し、生還すればすぐにネクストランナーへ声を投げた東條菫。
「ハァハァ……ちょっと……ハァ、さすがに、キツいかも……ハァハァ」
患う喘息のせいで、誰よりも辛そうに身を前傾する菱川凛。
悲愴な景色だとも思えてしまう信次には、誰一人からも余裕な状態は観察されなかった。フラフラと気が朦朧としている中で、腰に手を添えたり両膝に手を乗せたりと、何とか支え持ちこたえている立ち姿だ。可能ならば僅かな休憩でも勧めてやりたい想いだが、それは熱心な彼女らの努力を蔑ろにする恐れがある。言わば、甘やかし行為に繋がってしまうだろう。
『ボクに許可されてできることは……やっぱ精いっぱいの応援しかないんだ……』
「……さぁここからここから!! 最後までガンバれェェエ゛!!」
ひたすらに繰り返す信次だが、同じグランドから唸る応援を送ることに、人生初めての息苦しさを感じていた。大切な生徒のために、先生たる己が手を貸してあげたい。しかし今の時間は、あくまで部員と顧問の関係だ。彼女たちの努力精神のため、選手としての成長のため、そして未来に輝ける希望のために、歯を食い縛りながら我慢を続けていた。
しかし走塁練習も、残るはあと一周り。四セット乗り越えた苦難を考慮すれば、あともう少しの辛抱で練習終了だ。
「……あと、一周……全力で行くわよ!!」
先頭の叶恵から放たれた鼓舞をきっかけに、ベースランニング最終セットが始まる。乱れた呼吸を誤魔化しながら、バッターボックスから一塁ベースへ駆け出そうしたときだったが。
「も……もう限界にゃあ……」
『植本……』
すると信次が注視を向けた先で、弱音を溢したきららは力尽きたように座ってしまう。
「きらら……ハァ……大丈夫か?」
「唯……もう……」
彼女の親友である唯も辛そうながら声を掛けるが、きららは詳細を述べる余力もないためか、黙った後は茶髪を揺らした左右の首振りだけ顕にしていた。
結局停止してしまった叶恵は、
「練習なんて辛くて当たり前よ!! 限界を乗り越えてこそ強くなるんだから!!」
と熱血檄を飛ばし継続させようとしたが、顧問の信次には、正直予想していた光景でもあった。さすがに運動慣れしていない未経験者がいれば、一人ぐらいは練習途中に体力の限界が訪れるだろうと。
しかし嫌な流れほど拡散するもので、きららだけに留まらず、波紋の如く周りの部員たちまで影響をもたらす。
「……ゆ、唯先輩……うちも、ヤバいっす……ハァハァ」
「美鈴……」
『星川まで……』
今度は唯の背後にいた後輩の美鈴が膝を崩し、きららと同様に赤土へ尻を落下させた。地に両手を当てて身を支えながら天を仰ぎ、狂う呼吸を繰り返す。
「ハァ……凛……大丈夫? 無理してない?」
「ハァハァ……ッハァ、ハァ……」
『やっぱり、菱川も……』
一方の菫の隣で、応答ままならぬほど苦しみ悶える凛も膝を落とし、項を公にした四つん這い姿勢を型どってしまう。
「三人とも……」
「ちょっと、走らせ過ぎたかしら……」
「篠原……」
脱落寸前の三人を見て呟いた信次の隣で、いつの間にか柚月がたどり着き囁いた。さすがのドSマネージャーにも、この光景には同情心が芽生えているようで、まつ毛際立つ目が憂色に染まっていることがわかる。
「切れもいいし、今日はここらで終わりにしてもいいかなって……。無理して怪我でもされたら、私は一番嫌だし」
「……そうだね」
大怪我に見舞われた柚月が告げたからこそ、信次は練習中断を考えた。ソフトボールにおいて最低必須人数は九人で、現在の部員数だって、マネージャーを除けば同等数である。仮に一人でも抜けてしまえば、試合ができないどころか、チーム存続の危機に瀕するかもしれない。
『一人も欠けちゃいけないんだ……。欠けたりしたら、去年の二の舞になってしまうかもしれない……』
すると信次は瞳を閉じて一息吐き、本日の練習はここまでにしようと心を整えてから、苦しみ果てた部員たちのもとへ歩み出す。継続を試みた叶恵には申し訳ない気持ちの一方で、ここ数日間の疲労もある中、皆よく励んでいる方だと讃えていた。また明日から努力してもらえばいいと思いながら、落ち着きつつ向かっていくが。
「ハァハァ……みんな……ハァハァ」
それは、一人の少女から鳴らされた疲労困憊気味の震え声だった。
部員全員の焦点が一ヶ所に集まると共に、信次も思わず立ち止まって視線を発言者に向ける。すると瞳には、膨張収縮を丸まった背で連続する、夏蓮の小さな後ろ姿が映り込んだ。内気な彼女自身も運動が不得意分野の一人だが、荒れ狂う息のまま声を鳴らす。
「――みんな、ハァハァ……あと、もう少しだよ。ハァハァ……スゴく辛いけど、みんなでいっしょに乗り越えよ? ……ハァ、エへへ、ハァ……」
「清水……」
信次にとって意外だったのは、唯一夏蓮が微笑んでいたことだ。相当辛いはずなのに、たった一人で場を和ます笑顔まで彩っていた。
「ハァハァ……菫ちゃん、凛ちゃん……体調は大丈夫?」
すると夏蓮はまず、菫と凛に心配気に近寄り、微笑みを灯しながら優しく問いかける。
「あ、あたしは大丈夫です。でも、凛が……」
「平気です……ハァハァ……菫が大丈夫なら、わたしも、ハァ、大丈夫です……」
顔を上げられない凛からは明らかな無理の姿勢が窺えたが、対して夏蓮はしゃがんで目を合わせる。
「凛ちゃん……無理はしちゃ、ダメだよ? でも、まだ大丈夫なら、いっしょにガンバろうね。私も凛ちゃん見習って、ガンバるから」
「清水、先輩……はい」
凛の驚いた様子は、目の見開きと止まりかけた呼吸から明らかだったが、それもそのはずである。なぜなら先輩の立場である夏蓮から、言葉の内容も下から目線なのだから。
一人の少女の発言が、嫌な空気を初期状態へ染め戻していく。次に夏蓮は、座り込んだままのきららと美鈴の目前に立ち、額の汗を拭いなから頬を緩ます。
「きららちゃん、美鈴ちゃん……どうかな? まだ、立てるかな?」
「カレリーニャ……きららはもう限界にゃあ……はぁはぁ」
「うちも……もう動きたくないっす……」
目を逸らした二人からは反抗的発言を受けてしまうが、夏蓮は最初にきららの横顔に集中する。
「きららちゃん……私たちってさ、辛い練習も、いつもいっしょにガンバってるよね……」
夏蓮ときららは確かに、練習中はよく隣合っていることが多い。二人が周囲と比べて体力がないことは信次も認知しており、能力もまだまだ未発達の選手同士だ。学校からグランドまでのランニングは自然と隣り合い、キャッチボールや外野での守備練習などでも、二人揃って努力の影を芝生に伸ばしてきた。
「そ、それがどうかしたかにゃあ?」
「……ありがと、きららちゃん」
「にゃあ!? 突然どうしたにゃあ!? きららは何もしてないにゃあよ!!」
突発的な感謝にきららの驚嘆が響き渡ったが、それでも夏蓮の微笑は夕陽と違って衰えず、汗にまみれたセミショートを左右に振る。
「――私はね、きららちゃんのおかげで、ここまでガンバれてこれたの。いつもいっしょに弱音を吐いて、いつもいっしょに寝転んで……でも、いつもいっしょに最後まで立っていられた……。それは、きららちゃんがいつもそばにいてくれたからなんだ。……いっしょだったから、運動音痴な私でも、限界を越えるべき練習を続けられたんだよ」
「カレリーニャ……」
不思議なことに、さっきまで荒れていたきららの息が吹き返していた。まさか疲れた振りをしていたのかと疑わしいばかりだが、夏蓮の小さな右手が差し伸べられる。
「きららちゃん、お願い。……あともう少しだから、いっしょにガンバらせて……ね?」
「……わ、わかった、にゃあ」
やがてきららはゆっくりと右手を動かし始め、差し出された夏蓮の掌にそっと預ける。瞳の潤みも見受けられる中、引っ張られたことで立ち上がった。
「ありがとね、きららちゃん。……それから美鈴ちゃんも」
「う、うちっすか?」
きららと違って確かに疲れ果てた様子の美鈴に、夏蓮の優しい瞳が渡る。今度はなぜか手を差し伸ばさなかったが、一度唯を窺ってから頬を上げてみせる。
「唯ちゃんが、美鈴ちゃんが立つのを待っているよ。……ね、唯ちゃん?」
「ゆ、唯先輩が!?」
目を覚ましたと言わんばかりに、美鈴の見開いた目が唯に直進した。
「……へへ。清水に見透かされちったなぁ~。……ほらよ、美鈴? ぶっちゃけ疲れっけど、オレたちも、いっしょにガンバろうぜ?」
「ゆッ!! 唯先輩の、てニョひら……」
夏蓮と同様に、今度は唯が右手を差し出した。ただ、美鈴が顔をやたらに赤く染めていたことが奇怪だったが、きららと同じく応え、無事に復活のときを迎える。
『スゴい……。あれだけ苦しそうだった三人が、また立ち上がった……』
じっと見つめていた信次も、静かながら驚いていた。夏蓮はたった一人で、息苦しかった空気を完全に払拭してくれたと。
もちろん夏蓮は未経験者だけに留まらず、経験者の三人にも状態を確認していた。疲れた様子は誰からも観察されるが、まずメイからは、
「No problem!! 蛙の面に水気分デスヨ!!」
と、普段と変わらぬ明々とした笑顔で叫ばれ、また咲も、
「勿の論!! アタシはいつでも絶好調だから!!」
と、更に煌めく笑顔を放ちながら、夏蓮に親指を立てた。
「よかった……叶恵ちゃんも、大丈夫?」
「当たり前よ。てか、話長すぎでしょ。もはや休憩じゃないの」
「ワッ……ご、ゴメンなさい……」
最後に夏蓮がションボリも肩を落としていたが、皆が立ち揃ったところで、信次が出るまでもなくベースランニングが再開した。一塁までの駆け抜け。二塁への盗塁。そして、三塁を回ってホームまでの生還と流れていく。
最終セットの疲れもあるはずなのに、信次にはなぜか他の周よりも活発に見えていた。素人目でも理解できるほど速度が増していたのだが、その要因だってすぐに気づける。
『――間違いない。清水の存在が、チームを動かしてる……。さすがは、笹二ソフト部の発起人だ』
経験者としては、物足りない部分が多くあるのかもしれない。が、清水夏蓮の存在があってこそ笹浦二高女子ソフトボール部なのだと、信次は夕陽を浴びながら感じ取ることができた。次第に快い暖かさに見舞われ、今度は笑顔を誕生させて叫ぶことができた。
「ラスト一周~~!! ファイトファイトォォォォ!!」
◇みんなのキャプテン――栄光の扉、開くとき◆
笹浦第二高等学校二年二組の教室。
練習を終えた現在は午後六時を回り、完全下校時刻が近づいていた。桜も随分散った四月下旬の夕方は次第に長さを増しており、特に屋外で励む部活動生徒たちには、来る本番に対するエールが夕陽として向けられているようだ。
一方で本日の練習を早くも終え、ユニホームからジャージへ着替えた笹二ソフト部は今、夏蓮が属し信次が担任となったクラス――二年二組の教室に集まっていた。窓側前席には凛と菫が机をくっつけて隣り合っていたが、意図的にも机を動かしたメイが更に隣りへ並ぶ。また廊下側後ろ席には、きらら、唯、美鈴の順で横並びし、中央席前から二列目には叶恵が一人。そして最前席に、実際の自席である夏蓮が着席し、隣に咲を置きながら黒板へ注目していた。
『練習を早く切り上げたのはいいけど……柚月ちゃんは、これから何するつもりなのかな……?』
夏蓮だけでなく皆が見つめる教壇には、ドSマネージャーの柚月が君臨していた。いつもなら一分一秒でも多く練習を強要してくる彼女だが、今回の落ち着いた雰囲気からは、何か考えがあっての練習後ミーティングだと受け取れる。が、なぜミーティングを開くことになったかまでは、まだ公にされていない。
「……さてと、じゃあ始めましょっか」
「柚月ちゃん……これから何をやるの?」
練習の疲労で身体の重力が増した状態だが、背筋を伸ばした夏蓮は教卓に両手を置く柚月に首を傾げる。しかし返されたのは頷きと微笑みだけで、明確な答えは勿体振られてしまい、すぐに雅やかな後ろ姿を向けられた。
教員用事務机で微笑ましく見守る信次は既知の様子だが、部員たちは不思議さ表す睨みを続け、ただ一点に視線を当てていた。
すると柚月がチョークで板書を終えると、手を払いながら改めて振り向き、ミーティング根拠を文字と共に知らせる。
「これから、笹二ソフト部のキャプテンを決めようと思うの。だからみんな、よろしくね」
「えっ!? いきなり決めるの!?」
思わず起立してしまった夏蓮は、柚月の発言を素直に驚いた。確かに黒板には“キャプテン”と縦に書かれているだけだが、あまりにも急展開過ぎる突発案だとしか捉えきれない。
「キャプテンって、みんなでしっかりお話して、時間を掛けて決めた方がいいんじゃ……」
「そうねぇ。確かにキャプテンは、チームの上でとっても重要な役割だからね」
「だ、だったら、また今度決めた方が……」
完全下校時刻までは三十分も満たず、長々と話せる時間は残っていないというのに。いくら、まだ決まっていない名役者だとはいえ、正直予想外のミーティング根拠だった。
徐々に眉間の皺が濃くなる夏蓮だが、不思議にも柚月からは笑い返されてしまう。
「恐らくみんなの中では、もう決まってると思うわよ?」
「へ……き、決まってる……?」
丸い瞳を何度もぱちつかせた夏蓮だが、再び柚月から上品な溢れ笑いを見せられた。しかし、彼女が教壇から降りて叶恵の隣席に座ったことで、訳がわからず終いのまま会話が途絶えてしまう。
『もう決まってるって……一体みんなは、誰がキャプテンだと思ってるんだろ……?』
そう思った夏蓮は周囲全員の顔を覗きながら、一人一人観察してみる。すると意外だったことは、誰も隣の者同士と話し合う姿が見受けられなかった景色だ。むしろ、待ってました! と言わんばかりに爽やかな様子で、静かに眉立て、且つ胸を張りながら待ち望んでいた。
「みんな……」
「夏蓮? どうしたの?」
「あ、咲ちゃん……。ねぇ、咲ちゃんは、誰がキャプテンがいいのかって決まってるの?」
思い返せばこの前、現状不明のキャプテンを発したのは、この咲本人だったことを覚えている。
“「――ソフト部のキャプテンって、誰なの?」”
一番遅れて部に入った彼女も、すでに主将と呼べる部員を見つけたのだろうかと、夏蓮は更に尋ねようと身を向けた。しかし咲が快活気味に答えようとした刹那、背後席の柚月から、
「私語は慎みなさい?」
と遮られてしまい、結局聞き出せずに元の体系に帰する。
やがて信次から一人一人の部員らに、一枚の紙切れを渡されていく。どうやらキャプテン名を一人記載し、最後に顧問が集計する投票形式で決めるようだ。
「周りとの相談もせず、みんなそれぞれが率直に思うキャプテンの名前を書いてね!」
なぜ柚月が私語をさせぬよう仕向けたかは、今の顧問の言葉で用意にわかった。部員一人一人の心が認める者こそ、主将にしたいがためだろう。周囲との相談などしたら、素直な気持ちなど失せるに違いない。
信次が配り終えると、皆は指示通り黙々と主将名を刻んでいく。窓からの夕陽が徐々に弱まる一方で、静観な教室は試験場のような記載音のみで満たされた。
やがて書き終わった部員たちがチラホラと現れると、起立して顧問の待つ教卓上に票を置いていた。しかし一人、じっと固まった夏蓮は悩める眉と目を、真っ白な紙面に落としていた。
『キャプテン……私が素直に思える、キャプテン……』
ペン先を紙面に着けたままで、やっと黒点を着けたところだ。一体笹浦二高女子ソフトボール部の中で、誰が適任なのだろうかと、夏蓮は今さらながら深く考え込む。
『やっぱり、二年生の誰かだよね……。柚月ちゃんはマネージャーだから、叶恵ちゃんか咲ちゃんか、唯ちゃんかきららちゃんになるかな……。その中でも、経験者に絞ったら、二人のどっちかだ……』
夏蓮としては、未経験者の唯でも主将を任せられる希望があったが、あくまで優先順位を意識し、経験者の叶恵と咲の二択に限定した。
今日までの練習を振り返れば、やはり二人の経験者らしい能力は長けていることが、幾度となく窺えた。
部内唯一、修得まで時間が掛かるウィンドミル投法が可能で、バッティングピッチャーやノッカーまで携わってくれた叶恵。
また誰よりも大きな声を何度も轟かし、能力的指導に留まらず、チームのムードメーカーとしても躍動していた咲。
両者のどちらか、だとすれば……。
『――私だったら……叶恵ちゃん、かな』
リーダーシップの面を考えれば、熱意を抱いて引っ張る叶恵の方が適任に思える。
優柔不断が故に長く迷ってしまったが、夏蓮は“月島叶恵ちゃん”と紙面に記し、一番最後に教卓の信次に託した。
すぐに集計が始まると、室内では妙な緊張感まで発生していた。ついにリーダーが決まる瞬間が訪れようとしている訳だが、全ての札を卓上に置いた信次が逞しく顔を上げたことで、夏蓮はつい固唾を飲み込む。
「……よしっ! みんなが選んだキャプテン!! 選ばれたのは……」
一人一人に顧問の目が渡り、全員の視線が一度ずつ交差した。そして、夏蓮が見つめる目の前の教卓で、笹二ソフト部主将名が雄々しくも放たれる。
「月島叶恵!!」
「やっぱり叶恵ちゃんだぁ! おめでと~叶恵ちゃん!!」
夏蓮は直ぐさま背後に笑顔を向け、誰よりも最初に叶恵の就任を拍手で喜んだ。一年前のことまで思い出せば、彼女は旧笹二ソフト部の主将だって務めていた、もう一人の発起人なのだ。引き継がれることに対しては文句など思い当たらず、もはや心から認められるほどの存在極まりない。
やはり他の部員たちも同じく投票していたのだと、夏蓮には、周囲の意見と一致したことに対する安堵まで生まれようとしていた。が、めでたくも選出された叶恵からは、歓喜の欠片も見受けられず、信次へ鋭い視線を飛ばし始める。
「――んで、あと一人は? 私は自分の名前書いてないから、候補はもう一人いるはずよ?」
「も、もう一人?」
どうも叶恵は、自身から立候補した訳ではないため、他なる候補者がいると貫いたのだ。
てっきり夏蓮は、得票数が一番多かったからこそ、叶恵の名が公表されたと思っていたのだが、周囲から飛び込んでくる意見を聴くにつれ、怪訝さが増していく。
「オレも、アイツの名前なんか書いてねぇし……」
「うちもっす。だってキャプテンっぽくないっすもん」
「きららもにゃあ。カナカナには荷が重すぎて、きっと背もペチャンコになっちゃうにゃあよ」
教室後方で並び座る唯と美鈴にきららの三人。もちろん叶恵からは抜かりなく、
「もってど~いう意味じゃアァァ!!」
と怒号を挙げ、ツインテールが確かに逆立っていた。
また窓際で着席している菫と凛、そしてメイたちからも同じような声が飛び交う。
「あれ……? あたしも、月島先輩じゃないんだけどなぁ」
「わたしも書いてないよ?」
「Really!? ワタクシもデス!! もしかして信次くんセンセイ、数え間違えちゃったのデスカ?」
金髪を揺らしたメイが跳ねるように立ち上がると、信次に苦笑いが生じる。
「ゴメンゴメン。少数意見も尊重して、今は書かれた名前を発表してるだけだよ。ちなみに、月島は一票だったね」
『い、一票って……叶恵ちゃんを選んだのは、私だけだったってこと?』
どうやら顧問が告げていたのは、まだ主将候補者だったらしい。
信次の台詞をきっかけに、夏蓮の脳内に疑問符が次々に出現する。一票だったと公にされた叶恵には、漏れなく唯たち三人から嘲笑を当てられていたが、今は部員たちが誰に票を与えたのかだけを気にしていた。
「さぁ次だ! まぁ次と言っても、これが最後の一人なんだけどね……」
『さ、最後の一人……?』
再び声を鳴らした信次から、二人目の主将候補者の発表が迫る。しかし彼の“最後の一人”という言葉を聴いた限り、夏蓮以外は皆、同じ相手に投票していることが推察できる。
経験者で考えれば、咲か柚月。学年を無視すれば、メイもあり得るだろう。また、未経験者でも良いしたら、唯かきらら。はたまた美鈴か菫か凛の誰かだ。
『――一体みんなは、誰を指名したの……?』
もはや全員の名前が浮かんで決められない夏蓮は、再び部員たちの顔色を窺った。すると今度は不思議なことに、皆からはハニカミや白い歯に微笑みを向けられ、記述前とは異なった表情が並んでいた。
「得票数はもちろん、残り全ての九票……」
ついに、信次の嬉しそうに開けた口から、最後の一人が公開される。
みんなが率直に選んだ、笹浦二高女子ソフトボール部の主将名が。
九人分の心と信頼を集めるまでに至った、たった一人の存在が。
――一人の弱気な少女の、目の前で。
「――清水夏蓮!!」
「え……エ゛エ゛エエッへへェェェェ~~~~エ!?」
エアコンも点いてないはずの二年二組の窓ガラスが、内側から確かに揺れた。それも割れそうな物音まで経てて。
「わ、わわ私がですか!? そそ、それに、みんなが!?」
ぶっちゃけあり得ない。バラエティ番組でよく視聴する、ドッキリとやらを仕掛けられたのだろう。
絶対に何かの間違いだと疑いながら、夏蓮は震えに震えた身を部員たちへ向ける。戸惑いなど隠せたものではなかったが、するとみんなの表情は一切の変化を見せず、一人一人から麗らかな雰囲気に招かれる。
「清水のアドバイスってさ、なんかすげぇわかりやすいしよ! さすが経験者ってカンジだ。それに……オレたちが部活入るって言った時、一番喜んでくれてたのが、今でも嬉しくってさ! なぁ美鈴?」
「えぇ! うちも、唯先輩と同じくっす! 入部仕立てのうちは一年生で一人だけだったっすけど、清水先輩が笑顔で優しく接してくれたこと、スゴい頼もしかったっす。ハッキリ言って、尊敬っす!」
「唯ちゃん、美鈴ちゃん……」
練習中の指導だけでなく、入部当初から信頼を置いてくれていた、唯と美鈴。
「きららもにゃあ! カレリーニャ、今日の練習で、いっしょにガンバろうって言ってくれて、ホントに嬉しかったにゃあよ。だからきららは、優しくて一生懸命なカレリーニャが、適任だと思うにゃあ!!」
「きららちゃん……」
能力に乏しいながらもお互い寄り添い、努力の源をいつも誕生させてくれる、きらら。
「あたしも、清水先輩がキャプテンになってほしいです! だって、あたしたちを勧誘してくれたのは清水先輩でしたし。むしろ出会ったときから、キャプテンだと思ってたくらいですもん! ねぇ凛?」
「うん。清水先輩は、わたしの体調を、よく心配してくれる。それだけじゃなくて、今日の練習で、わたしに見習わせてって言ってくれたこと、とても嬉しかったです」
「菫ちゃん、凛ちゃん……」
初めて出会った日から主将だと思っていたらしく、また練習中の何気ない言葉に喜びを感じてくれた、菫と凛。
「I agree with everyone!! ワタクシも、夏蓮ちゃんセンパイに清き一票デス! 今は外野でいっしょになることが増えて……。どんな打球が来ても、諦めず挫けない夏蓮ちゃんセンパイだからこそ、leaderになってほしいデス!! まさに! やはり野に置け蓮華草デスネ!!」
「メイちゃん……」
名前に含まれた蓮の字を意識したことわざを口ずさみ、諦めの悪さを反って評価してくれた、メイ。
全ての未経験者と一人の下級生経験者が、この自分を選んでくれた。素直に喜び感謝を申し上げることが、乙女の義理である。
しかし、夏蓮は未だ戸惑いの波に揺らされるばかりだった。本当に能力の低い自分で良いのかと卑下し続け、なかなか胸を張ることができない。
しかし、夏蓮の秘められた胸中の曇りまで、残る経験者三人が晴らしてくれる。
「確かに頼りないけど、私もアンタがキャプテンに相応しいと思うわ。……酷いことした私を、迎えてくれたし……。アンタには、もっと上手くなってほしいってもあるから……任せるわ、夏蓮!」
「叶恵ちゃん……てか今、私のこと下の名前で……」
「っるっさいわね! そんなことより、練習中はもっとガンバりなさいよ!!」
「……うん!」
当初は勧誘ポスターを引き裂かれた経験もあるが、今はチームの一員として努力し、リーダーシップを光らせる態度を放つ、叶恵から。
「アタシも夏蓮がいい!! 夏蓮の優しさってさ、なんか涼子ちゃんと似てるとこあると思うんだ!」
「わ、私が涼子先輩と!?」
「うん!! 自分だけじゃなくて、周りのみんなにも気を配って、チームのことスゴく考えてるなぁって感じるの! このアタシが言うんだから、適任間違い無しだよ!!」
「咲ちゃん……ありがと! でも、私はまだまだ、涼子先輩と足元にも及ばないよ。エヘヘ」
現バレーボール部主将、及び旧ソフトボールクラブキャプテン――泉田涼子との共通点を見出だし、ムードメーカーらしい前向きな明るさで照らしてくれた、咲から。
――「ということで、ガンバりなさいよ? 夏蓮」
「ゆ、柚月ちゃん……」
そして最後の一人である柚月を、夏蓮は呆然と見つめてしまった。
なぜマネージャーの彼女も、ヘタな自分を主将だと捉えてくれたのだろうか?
根拠がわからなかった。関東代表まで選抜された経験者の柚月こそ、叶恵のようなチーム牽引的存在を選ぶと思っていたのに。
「柚月ちゃんは、どうして私を?」
「フフ。そりゃあやっぱ、この部を立ち上げた人だからよ」
「え……でもそれだったら、叶恵ちゃんの方が……」
確かに叶恵は夏蓮よりも、一年早く笹二ソフト部を立ち上げた一人である。一時的とはいえ、先立って発起人となったことに変わりはない。
やはり叶恵の方こそ適任だと窺える、マネージャーの言葉だった。しかし柚月は、端整なカールセミロングを左右に振らし、得意気な鼻笑いを鳴らしてから答えを紡ぐ。
「――言ったでしょ? この部って。今の笹二ソフト部を造ったのは、紛れもなくアンタでしょ? 夏蓮」
「柚月ちゃん……」
発起人という枠を更に限定し、現笹二ソフト部をより意識した、柚月の主将決定理由だった。去年廃部となった旧笹二ソフト部とは一線を引き、また別のチームとして考えた結論だと窺える。新生――笹浦二高女子ソフトボール部として。
「さぁて!! 以上の二人が選出されたけど、キャプテンは清水で良さそうだね!」
「先生……」
キャプテンの文字の隣に“清水夏蓮”と版書した信次がチョークを置くと、改めて部員たちへ意思の確認が始まる。
「今日から清水が、みんなのキャプテン! 賛成の人は、是非拍手を!!」
――パチ、パチパチ、パチパチパチパチ!!
「みんな……ホントに……」
周囲全体から鳴らされた拍手の音が、夏蓮の小さな全心身を包み込む。誰一人からも反対意見を抱く様子は見受けられず、満場一致の祝福以外何物でもなかった。それは優しくて、どことなく暖かくて、真っ正面から迎えられたのだ。
「みんな……みん、なッ……グズッ……」
ふと言葉が詰まった夏蓮の瞳に、多大な温度が重なった想いが募り始める。涙となって具現化し、やがて頬を伝い、拭っても止めることができなかった。
『だって……だって……』
呼吸の乱れで声も発せず、雫の乱反射で虚ろな視界に変わり果て、二年二組の教室がぼやけてしまう。
『だって、みんなは……』
しかし夏蓮には確かに、部員一人一人の微笑みを覗くことができた。嘘偽りを感じさせない、個性は異なれど、夕陽のように照らしてくれる笑顔たちが。
一つ一つ尊い真心たちが何度も寄せられ、夏蓮は嬉しさのあまり、灯した光の雫を落としていく。
『――みんなは私を、私以上に、信じてくれてるから……』
未経験者だと勘違いされても仕方ないほどヘタな自分を、みんなは推薦してくれた。
弱気で内気で、これと言える取り柄など無いにも関わらず、部員たちは心を預けてくれた。
そして一人一人が、こんな自分と絆を結ぼうとしてくれたのだ。
もちろん、顧問を引き受けてくれた信次も含めて。
「みんな……ありがとッ……。グズッ、私を、キャプテンに選んでくれて……」
いつの間にか日の入りを迎えた上空には、数々の星たちが夜の世界を照らしていた。
「正直、私はキャプテンをやれるほど上手くないし、ダメダメのダメな一人です……」
一個一個は小さく、弱々しく儚い明りだと観察できる。しかし、一等星を中心に一つのまとまりを造り、星座として存在を煌めかせていた。
「それでも……こんな私を信じてくれたみんなには、とても感謝します……。だ、だから……」
そしてこの一室でも、未だ世間に知れ渡っていない新たなる星座が、今宵誕生する。
「――これまで以上に、精いっぱいガンバります!! ここにいるみんなと、ずっといっしょにいられるように努力するので、よろしくお願いします!!」
涙を止めることまでできなかったが、御辞儀した夏蓮には再び、部員たちからの拍手が鳴らされた。信頼の意が込められた、個性豊かな福音として。
こうして、笹浦二高女子ソフトボール部でついに、みんなの 主将 が決定した。まだ正式な部として認められていなければ、練習試合にさえ臨んだ経験はない。しかし、固く閉ざされていた栄光の扉が漸く開き始め、輝ける未来に繋がる架け橋が、確かに現れた。




