八球目◇みんなのキャプテン―栄光の扉、開くとき◆①信次→夏蓮パート「み……みんなぁ……待ってぇ~……」
中島咲の入部でついに九人の選手が揃った、笹浦二高女子ソフトボール部。ポジションを決める本格的な練習が始まろうとする中、清水夏蓮は未だにキャプテンが決められていないことに気づく。
みんなが認める唯一無二の存在――キャプテンは誰になるのだろうか?
そしてもう一人、舞園梓の未来は……?
◇キャスト◆
清水夏蓮
田村信次
篠原柚月
中島咲
月島叶恵
牛島唯
星川美鈴
植本きらら
May・C・Alphard
東條菫
菱川凛
舞園梓
笹浦第二高等学校グランド。
四月下旬の朝空には少しの雲が散りばめられており、風も穏やかでひんやりとした空気が広がっている。校内に咲き渡っていた桜たちもいつしか緑が帯び、五月に向けた新たなるスタートが自然界でも準備されているようだ。
もうじき八時を指そうとしている部活動らは朝練終了間際。しかし一秒たりとも無駄にせず、念願の結果という名の勝利を目指し、煌めき粒を発汗している。その中で一つの部――笹浦二高女子ソフトボール部は活動し、ジャージ姿の九人がグランド周りを走り込み、制服姿のマネージャーとスーツ姿の男性顧問に見守られていた。
「はい! あと一周よ~!!」
「ガンバれみんな!! ラストスパートだぁ~!!」
バインダーを手に持ちストップウォッチを握り締めたマネージャー――篠原柚月の後、笑顔高らかに叫んだ顧問――田村信次は手拍子も響かせる。しかし円らな童眼はすぐに隣のマネージャーへと向かい、顧問のハニカミがポツリと溢れる。
『そういえば、篠原が最初だったよね。ソフト部に入ったのは……』
思い返せば隣の柚月が、一番最初の入部希望者だった。
選手としてプレーを禁じられた大ケガを負っているにも関わらず、柚月は今日まで、部員のために様々なサポートを加えている。練習メニューの考案は言うまでもなく、時には指導者の如くコツを教えたり、現在のように個々人の成績を記録したりと、チームには欠かせない一人の立派な選手として在席している。未熟顧問の信次は、もはや頭が地に着く思いだ。
「……? 先生どうしたの? そんなに警察呼んでほしいの?」
「そ、それだけは御勘弁を……」
柚月の鋭利的な一言に苦笑いしながら、信次は再び走者たちへとエールを再送信する。もちろん部員それぞれの位置と並びは異なり、もうじき終わる者もいる一方で大差を付けられている者も否めない。
しかし皆、辛苦の努力を積み重ねている心構えは一致している。それをしっかり見抜いている信次は部の顧問として、また生徒それぞれの応援者として、黙っていられる落ち着きなど皆無だった。自分だって教諭になるためには、去年まで血眼の努力を続けてきたのだ。同じ過程を歩んだ者にしかわからない、努力を積み重ねる苦い味覚を思い出しながら、部員たちへエールを連射した。
「ガンバれ~!! 笹二ファイト~~!!」
柚月からは相変わらずの引け目を向けられた信次だが、次第に走者たちはラスト一周終盤を迎え、徐々にゴール地点である二人の前に向かってくる。まず見えた先頭は、ソフトボール経験者の月島叶恵と中島咲だ。ツインテール揺らす熱血少女と、輝く額で風を切るお転婆娘による、両者並んだ接戦が繰り広げられている。上がった息に比例した最後の一躍を繰り出し、とうとうゴール地点を駆け抜けた。
「「よしっ! 一位ィ!!」」
「ざんねーん。咲と月島さん、二人とも同率ね~」
ストップウォッチを見てタイムも囁いた柚月だが、膝に手を置いて屈む咲と叶恵には聞こえていなかったようだ。
「ハァハァなかなか、やるじゃない……ハァ、新人」
「そりゃあ、どうも……ハァ、新人は新人らしく、直向かなきゃだからね!」
呼吸が荒れ気味の叶恵には、咲が僅かな余裕窺える微笑みで返していた。決して挑発の一言ではないことは信次にも伝わり、二人ともライバルに相応しいニの口許を見せ合っていた。
『二人とも、笑ってて何よりだ』
共通点窺える叶恵と咲の二人は、信次の授業をきっかけに行動を起こしてくれた、勇気ある健気な生徒だ。もちろん彼女たちの裏方にはたくさんの協力があったことを、是が非で忘れてはいけない。
そんな二人が競い合って愉しむ光景には、信次も自身が行った授業内容に後悔など無い想いだった。悦に入るほど偉いそうな得意気までには及ばないが純粋に、もう一人の発起人である叶恵と、心からのエミを表現する咲の役に立てられたことを喜ぶあまりだ。
――「Yeah!! Best three!! これでギリギリ表彰台に立てマスネ!!」
すると三番目には、長い金髪を靡かせ谺した一年留学生――May・C・Alphardがたどり着き、しばらく間を空けてからは、未経験者ながら存在感を漂わす二年生――牛島唯と、彼女の後輩一年生――星川美鈴が四位五位としてゴールする。すぐに揃って地べたに座り込み、素直に降ろした長髪と短めなツインテールが隣り合う。
「ハァ……ア゛アァァ~疲れた!! 美鈴もよく頑張ったな……ハァ」
「ハァハァ……だいす……じゃ、じゃなくて! 尊敬する唯先輩には一生ついていくって、心に誓ってるっすから……ハァハァ」
何やら言い換えた様子否めない美鈴が焦りまで放っていたが、鈍感な信次も彼女の想いが見抜けず終いだった。しかし唯の微笑みにはつい目が留まり、自ずと頬を緩ます。
『牛島だって、今はこんなにも幸せに見える。ホントに、良かった』
始業式当初出会った唯は、無断欠席もするほど歪な生徒だった。しかし信次は彼女を、原因だった酷な家庭環境から救い出すし、母子家庭とはなったが、永久まで離別したくない美鈴と笑顔で接している。女子らしからぬ口調は未だ顕在だが、本当に帰りたい場所を見つけ、“普通”に憧れる一人の少女として捉えることができる。
ただ、いつも三人組で過ごす唯たちから一点気になったことは、一人の姿が空気になっていたことだ。思わず首を傾げながら周辺を見回したが、どうも当事者が近くには見当たらない。まだゴールに及んでいないようだ。
「……おっ! 今度は菱川。それに東條もだ!」
代わりに映って信次を微笑みに戻したのは、メイや美鈴と同じく一年生な仲良しペア――東條菫と菱川凛だ。ショートな髪型を運ぶ小さく細い凛が前を駆けながら六位、ポニーテールを下ろす菫が背後で見守るようにして七位とゴールする。
「ハァハァ……」
「凛、大丈夫? 水筒持ってこよっか?」
「ハァハァ……だ、大丈夫……。菫ってば、ハァ、わたしの事、気にしなくていいのに、ハァ……」
信次も心配目を献上するほど、喘息を患わっている凛は苦しみ悶えていた。正直彼女には部活動をさせたくない気持ちの方が根強く、顧問としても安心して見れたものではない。
しかし信次の眉間の皺を掻き消したのは、凛の小さな背を擦って心配を鳴らす、息が整った菫の看病姿だった。まだまだ走ることができそうな余裕の呼吸を思わせるが、その理由はきっと、体力が懸念される親友に付き添い続けて走り抜いたからだろう。ずっと後ろから、支えられて……。
経過途中でも凛のペースを気にしながら走っていた菫は、競技者としては失格有り得る心構えだ。が、七人大家族の姉らしい優しさが伝達される心配りに他ならない。黙って眺める信次をも、安らぎの笑顔を与えるほどに。
『――良かったね、菱川。菱川にも、素敵な親友が生まれて』
「はぁ、まだあそこか……。かれ~ん遅~い!! それに植本さんもファイト~!」
信次が心の呟きを放った直後、そばで叫んだマネージャーの柚月は、バインダーが畳み折られそうなほど強く握っていた。
信次も凛から部全体へ焦点を戻すと、先ほど探した茶髪な二年生――植本きらら、そして部の発起人である開門主――清水夏蓮が、もう限界だと言わんばかりの悲愴たる表情で重足を進めていた。
「み……みんなぁ……待ってぇ~……」
「は、速すぎるにゃあよ~……」
まだ一回り半分ほどしか進めていない遠方の二人からは、何とか耳に入る弱声が鳴らされた。特に信次は夏蓮に注視し、ふと相反した微笑みを浮かべる。
『――そんな清水がいたから、みんながこうして集まってるんだ。ボクだって笑顔になれる、笹浦二高女子ソフトボール部に』
始業式当日、夏蓮からのあの一言が無ければ、きっと信次は今この場にはいなかっただろう。
“「――ソフトボール部を創りたいんですッ!! 顧問になってくれませんか!?」”
大切且つ尊敬に値する生徒と、教室以外で顔を合わせられる、この外の世界に。
内気で普段は物静かな夏蓮だが、信次には担当クラスの一人というよりも、部の発起人としての存在感の方が強く印象的だった。一年前の部費横領の件もあって、周囲からは望まれない創部だったはずだろう。それもあったが故に、相当の覚悟を秘めて発言したに違いない。もはや頭も上がらないまでに敬を走らせる、小さくも勇敢な創設者だ。
しかし練習中の今は、夏蓮はきららと同時に倒れてしまいそうな状態だと信次には予想でき、助けたいあまり居ても立ってもいられない心境へ誘導させられる。
「……ね、ねぇ篠原? まだあの二人には、ちょっと辛すぎるメニューなんじゃ……」
いつもソフト部の練習内容を決めてくれるマネージャーへ、苦しみ悶える夏蓮ときららのために救助を試みた。活動を停める失礼は承知の上だが、最近の練習でわかった二人の体力は、周りの部員と比べてやや貧しく、帰りはいつも疲弊の頬痩せすら浮かばせているほどだ。努力は必要なのだろうが、無理をすれば、積み重ねは崩れてしまうだろう。
しかし、ご機嫌斜めな柚月には否定の首振りを放たれてしまい、ドSマネージャーの尖る牙が剥き出す。
「――出る杭が打たれる考え方、私大っ嫌いなの。出てない杭なら、私が力ずくでも引っ張らなきゃでしょ?」
「……そ、そっすね……」
論破された気味の信次は返す言葉が見当たらず、笹二ドSマネージャーの前では大きな口をも平伏す。以前に彼女が優秀な選手だったことも聞いているため、素人顧問としては黙って従うことしかできなかった。
◇みんなのキャプテン――栄光の扉、開くとき◆
笹浦二高女子更衣室。
まだ部として認められていない女子ソフトボール部には専用部室が与えられていないため、用具を体育館倉庫にしまってから訪れていた。上着ジャージを脱ぎ畳んで制服へと袖を通し、スカートを先に纏ってからズボンを下ろす。
鏡の前で荒れた髪型も整え、運動から勉学へ切り換えようとする中、夏蓮を始め着替えを終えようとする頃だった。しかし、唯ときららに美鈴はジャージ姿のままスクールバッグを持ち、更衣室から出て行こうと扉を開ける。
「あ゛ぁ疲れた……。これから授業とか、マジだりぃなぁ……」
「授業バックレるかにゃあ?」
「い~や。んなのことしたら、田村のヤツうるせぇし……。大人しく教室に行くよ」
「さすが唯先輩っす!」
恐らく三人は別の場所で着替えるつまりなのだろうが、夏蓮にはどうも心理的距離を感じてしまい、閉じられた扉を見続けてしまった。
『どうして唯ちゃんたち、いつもここで着替えないのかな……?』
実のところ練習開始前も、あの三人は毎日ジャージに着替えてから更衣室に訪れている。その理由はもちろん、夏蓮は知らなければ聞いてもいない。たとえ同性でも明かしがたい、乙女の恥じらいが秘められているからだろうか。
脳内の考えで動きが止まってしまった夏蓮だが、すると視界に染まっていた扉の前には、すでに着替え終えた菫と凛にメイが入り込む。
「先輩方! お疲れさまでした!! 失礼します!」
「また午後も、よろしくお願いします」
「Bye! Thank you!!」
ハキハキとした菫に落ち着いた凛が続き、最後に元気を残していくかのようにメイが笑顔で立ち去った。こうして見ると、三人グループが二組見受けられる部内環境に思えるが、別に唯と菫のグループ同士が対立している訳でない。むしろ菫に関しては練習中も、スキンシップを図ろうと全部員と会話する姿が観察され、一年生ながら大人らしい雰囲気向上の努力が垣間見えるほどだ。
『さすが大家族のお姉ちゃんだよ。菫ちゃん、スゴいなぁ~』
家にも上がらせてもらった夏蓮は菫に尊敬の意を込めていると、次に着替え終えた叶恵が取っ手を握る。
「じゃあ放課後! 体育倉庫前にすぐ来るように!!」
バタンと強めに閉めてすぐ走り去ったが、どことなく嬉しそうにもに窺えた。なぜなら本日朝練終了後、顧問の信次から良き報告を受けたからだ。
『叶恵ちゃんの気持ち、よくわかるなぁ~。だって今日の放課後から、練習場所が笹浦総合公園のソフトボール場に変わるんだもんね!』
笹浦総合公園ソフトボール場は一年前、叶恵自らが創部したソフトボール部の練習場所だ。良質の赤土に覆われた内野に芝生の外野と設備され、現在活動場所のグランド端とは比べ物にならないほど良心的環境だ。信次が言うには、以前から管理者へ連絡を続けていたらしく、めでたく今日から使用の許可をいただけたそうだ。
きっも叶恵は良い意味でソフトボール場を懐かしみ、胸を高鳴らせているのだろう。以前足裏に着けていた地に帰ることができるのだから。またスパイクで広大な舞台上を、思いっきり駆けられるのだから。
『――笹浦総合公園、ソフトボール場……。私たちにとっても、懐かしいところだなぁ……』
――「ちょっと夏蓮? 早く着替えてよ。私ら待ってるんだけど?」
しかし柚月から苛立った一言を放たれ、夏蓮は現実に戻る。気がつけばまだジャージのズボンを穿いたままで、更衣室内にいる三人のうち唯一終わっていなかった。
「あぁ~ゴメンゴメン! すぐ着替えるから~!」
「ニヒヒ~……。なんならこの咲ちゃんが、是非手伝ってあげよっ……」
「……結構です」
怪しげににやついた咲の言葉尻を即座に被せ、夏蓮はスカートのファスナーを閉じて無事に終えた。二年生を示す青のリボンをキュッと整え、三人いっしょに女子更衣室を出て施錠する。更衣室の鍵は担任の信次に渡せば良いため、早速二年二組へ続く廊下を揃って歩む。
チャイムが鳴るまで十分前の景色は部に所属していない生徒らで溢れているが、ぶつかりそうになりながらも何とか避け進んでいく。
「はぁ~。今日も疲れたなぁ~」
「悪いけど、夏蓮遅すぎよ。まさか菱川さんにも負けるとは」
「で、でも柚月ちゃん! きららちゃんとはほぼ同率だったよ!?」
「えぇ~、ビリで。しかも未経験者の植本さんと、ね」
「うぅ~。柚月ちゃんのイジワル~」
「あのさぁ夏蓮、柚月! アタシ、ちょっと気になってたんだけどさぁ……」
夏蓮が柚月に悩まされながら昇降口に近づいていく一行。会話はもちろん弾んでいたが、咲からお転婆娘らしからぬ話題転換を真に受ける。
「――ソフト部のキャプテンって、誰なの?」
「――っ! そ、そういえば、全然決めてなかった」
「エエェェェェ~~~~!!」
目の前でぶつけられた咲の大声には耳が裂けそうなあまりで、周囲の関係ない生徒たちをも反応させていた。しかし、選手九人を集めることばかりに集中していた夏蓮はまだ、キャプテンの存在を気にしていなかったのだ。女子バレーボール部から転部してからまだ間もない親友だが、確かに彼女の疑問は部員みんなの意見かもしれない。
「だ、誰が適任なんだろう……?」
部の主将――つまりキャプテンとは、部の顔でありチームのみんなを引っ張る、唯一無二の大黒柱的存在だ。選手としての高次能力はもちろん求められ、部員からの信頼を重宝すべき立場である。時には厳しく接して空気の乱れを阻止し、誰よりも重苦しい責任を課せられることもある。もしかしたら、監督よりも重圧を受ける役者なのかもしれない。部員たちとの日々の距離は、同じ生徒の仲間たちと極めて近いのだから。
「二年生……唯ちゃんも素質あると思うけど、やっぱ叶恵ちゃんかな~? むしろ一年生でも、菫ちゃんとかリーダーシップあるし……」
「あら未定だったの? てっきり私は、もう決まってるんだと思ってたけど……」
「え……柚月ちゃんは、誰が良いと思うの?」
ソフトボールの豊富な経験、及び観察力の鋭い彼女の意見なら、きっと間違いのない主将適任者なのだろう。
夏蓮の疑問に咲も興味津々の鼻をヒクヒクさせ待ち構える中、マネージャーとして第二の責任者でもある柚月は得意気に笑いながら、片腰に手を添える。
「そりゃあやっぱ、この部を……っ」
するとなぜか、柚月は突然にも立ち止まってしまい、求めた解答が途切れてしまう。どうやら昇降口を見ながら固まっているようだ。
「ゆ、柚月ちゃんどうした、の? ……はっ」
気になって柚月の視線を追ってみた夏蓮。すると一人の女子生徒と目が合うが同じくして立ち止まり、開いた口とハの字の眉を顕にする。隣の咲も気黙るほど停止させた相手とは、朝から嫌な沈黙に見舞われてしまう。
『――あ、梓ちゃん……』
三人の焦点を集める相手とは、ただ今登校してきた部活動無所属生徒――舞園梓だ。いつものように背を隠す長髪を降ろし、キリッとした表情からは真面目な凛々しさとクールが受け取れる。が、それは冷たさを感じるまで温度が下がった瞳で、蛇に睨まれた蛙の如く凍えさせる。
「お、おはよう。梓ちゃん……」
親友である彼女に何を緊張しているのだろうかと、反語的に夏蓮は僅かな勇気を原動力に声を鳴らすと、梓の頬が少しだけ上がる。
「おはよう、夏蓮……。それに柚月も、咲も……」
微笑ではあるが絶やさず小声で交わした親友には、柚月も咲も微笑みを浮かべて挨拶を済ませる。しかし二人からはぎこちなさが窺え、咲は苦笑いに変わり、柚月に関しては笑みの欠片すら残さぬ表情と化していた。
なかなか嫌な沈黙から逃れられない機会に遭遇するが、ふと梓は咲へ目を置き、何かを悟ったかのように頬をさらに緩ませる。
「……そっか。咲、ソフト部に入ったんだね……。よかった……」
「あ、梓のおかげだよ!! 自分のやりたいようにやればいいって、相談したアタシに言ってくれたから……」
「私は何もしてない……。咲自身がガンバった、それだけだよ……」
心から感謝を申した様子の咲だが、梓は彼女の想いを受け入れようとしていないのがわかる。お転婆娘の表情もどこか儚げで笑顔がなくなり、相談に乗ってくれた親友から背を向けられてしまう。
――「ねぇ梓? あとは、梓だけなんだけど……?」
『ゆ、柚月ちゃん……』
しかし梓の退去モーションを、柚月の低いトーンが抑止した。振り返らず長い黒髪ばかりを見せつけられたが、マネージャーとして生まれ変わった彼女の言葉が紡がれる。
「私たち、アンタのこと待ってるから……」
「やめときなよ……。どうせまた、みんなの足引っ張るだけなんだからさ……」
眉を立てた柚月の表情も、残念ながら梓の瞳には投影されていない。どれだけ真剣さを貫いても、目も当てられなければ無意味な演技に過ぎないのだ。
「あ、あのさ、梓ちゃん……?」
嫌な空間の化した昇降口前の廊下、夏蓮は穏和な一声で、少しでも闇を晴らそうと試みる。
「……なに、夏蓮?」
「あのね、実は今日から、練習場所が笹浦総合公園になるんだ」
「え……」
どうしてこのタイミングで練習場所を知らせたのか。きっと傍観者からしてみれば妙な流れだと感じるだろう。が、微笑み彩った夏蓮の思惑は柚月と咲も、そして梓までも、最高の絆で結ばれた仲間たちの前ではすでに展開が予想されていた。
「――私たちがいた、笹浦スターガールズの活動場所だよ」
夏蓮たちは、今日から使用できるソフトボール場には特別な想いがある。なぜなら小学生当時、笹浦スターガールズの練習場としても利用していたからだ。過去に四人が懸命に努力を重ねた聖地でもあり、今年再びプレイヤーとしてグランドに降り立つことができる。ただの懐かしい気持ちで収まるほど、浅はかな心境ではない。
「梓ちゃん。良かったら今日、見学だけでも来ない? 私たちはもちろん、部員のみんなもいい人ばかりだから、きっと大歓迎だよ」
「……」
しかし梓からは俯く猫背のみを放たれ、ついに教室へと向かうため歩き去られてしまう。何とも静寂で、悲壮感すら漂わせる後ろ姿のまま。
「梓ちゃん……。やっぱりソフトボールできないのかな? 居てくれるだけでも、私は嬉しいんだけど……」
せっかくの明るい心の灯火が消え入りそうに、視線が足下へ落ちかける夏蓮。しかし両隣の柚月と咲から、それぞれ肩に手を置かれたことで俯き下降が止まる。
「柚月ちゃん、咲ちゃん……」
希望を願う少女の瞳が、心まで支えてくれる二人の強気な表情に渡る。
「大丈夫よ。梓は絶対、再起してくれる。いや、再起させる」
それは、スターガールズ時代に梓と元バッテリーを経験した、厳しいながらも愛に満ちた柚月の意志。
「アタシも柚月に同意だよ! だって梓は、誰よりも責任感が強い選手だって、涼子ちゃんが言ってたもん」
またそれは、スターガールズ所属時にキャプテンだった一つ上の先輩――泉田涼子も含めた、周囲の意見も考慮した咲の気持ち。
「二人とも……うんっ!」
そしてそれは、兼ねてから嘆願していた未来に憧れ、夢見る一人の少女として頷いた夏蓮の心。
『――梓ちゃん。私たち、ずっと待ってるから。どんなに長くなっても、梓ちゃんの気持ちが変わる瞬間まで……』
その後、夏蓮たち三人も教室へ向かい、それぞれ散らばった自席に着く。教室には梓がすでに着席し、顔を隠すように教科書を握り、今日の授業予習を黙々と行っている。誰も惹き付けない壁張りにも窺える姿で、一人だけの空間に閉じ籠っているようだ。
しかし、夏蓮は信じて待つことにした。梓を取り囲む壁がいつしか崩れ、もう一度空の下で笑い会う未来を。




