七球目⑥咲→夏蓮パート「九番目の選手として、今日からよろしくね!!」
中島咲
泉田涼子
篠原柚月
田原知子
笹浦二高女子バレーボール部員
清水夏蓮
月島叶恵
東條菫
菱川凛
May・C・Alphard
牛島唯
植本きらら
星川美鈴
舞園梓
笹浦二高体育館。
放課後を迎えた午後四時以降では、室内部活動生徒たちが集まる競技及び練習場だ。埃一つ見当たらないモップ掛け済みの床には、様々なスポーツの範囲マークが色テープで刻まれ、たった一室に数多の種目のため利用されていることがわかる。何よりも、僅かに凹んだ一部、体育館シューズの擦れた太線にキズ多き跡を窺えば、どれだけ部員たちが必死の努力を積み重ねているのかが、実像を見なくても随所に伝わってくる。
そして本日の練習舞台は、笹浦二高女子バレーボール部が主に陣取り、緑のネットを拡げてフィールドを作っていた。平日である今日は、予定ではいつも通りの室内練習を行うはずだった。が、練習着ではなく試合用ユニフォームを纏う姿を拝見でき、異質で熱い雰囲気がネットから飛び漏れていた。
――バシッ!! ドンッ!!
「咲、ナイスパイッ!!」
「あ、ありがとうございます、りょ……泉田先輩!!」
豪勢なスパイクが決まり笛が鳴ると、背番号9の二年生――中島咲が、共に立ち向かう背番号2とキャプテンマークを備えた三年生――泉田涼子とハイタッチを交わした。これで連続得点であることには、他の選手たちも円陣を組んで喜び合い、控えとして応援する上級生に同級生たちも、相手コートに面した敵サイドらも、またスコアボードの得点表を捲る女性監督――田原知子までも、皆が輝かしい活躍に歓喜している。
――ただ一人、咲だけを除いて……。
『だって、アタシの引退試合なんだよね。これ……』
記念写真撮影があると思ってユニフォームを持ち運んできた咲。しかし実際は甚だしく異なり、現在は涼子から告げられた引退試合の真っ最中だった。
引退試合とは称するものの、相手はキャプテンを欠いた笹二バレー部のレギュラーメンバーで、全てが三年生。対して咲は涼子と控えの仲間と共に、六人の中でエースとして躍動している。コート上、たった一人の二年生という重圧も受けながら。
その一方で、急で予想外な活動変更には未だに馴染めなく、自分の活躍で得点を取ったことよりも、試合終了後の未来に怯えてばかりだった。
どうして、自分は退部を強いれてしまったのか。もしかしたら、大好きで憧れの的である先輩の涼子から、ついに愛想を尽かされてしまったのだろうか。
今はセッターとしてボールを快く上げてくれる様子の涼子だが、咲はどうしても本気のスパイクに必要なジャンプを踏み込めていなかった。
『嫌だよ……涼子ちゃんに、嫌われるのだけは……』
――バシッ! ドンッ……。
再び咲が響かせたスパイクショット音が、女子バレーボール部員全てが訪れる体育館全域に拡がった。もう何点取ったのかも忘れるほど撃ったはずだが、嬉しさはいつになっても胸に訪れない。ただ理解できることは、今は現実だとばかり言い聞かせるような、スパイク後の手のひらの痺れのみだった。
――ピ~~ッ!!
「あ~あ……。終わっちゃったね、咲」
「へ……」
長い笛が止み終わった刹那、傍で囁いた涼子の一言が、咲をスコアボードに振り向かす。思い返せばあと一セット奪えば勝利という時点で、得点表には確かに“25”の一枚が堂々と姿を現していた。
「終、了……アタシの、引退試合……」
「……さぁみんな!! 咲の前に集まって!!」
茫然自失に近い咲の言葉尻が涼子に被せられると、全ての部員たちが片側コートに集まる。数々の先輩や同級生の部員たち、そして顧問の微笑みに囲まれたが、反って胸に突き刺さる思いで眉を潜めてしまう。
「中島。はい、これ」
「田原先生……これは……」
まずは顧問の知子から贈呈物が、狼狽気味の咲へ手渡される。その薄い一枚は画用紙よりも固く折り畳めそうにないもので、中央を空白にして様々なメッセージが記載されていた。
「見てわかるだろ? 中島への色紙だよ。今朝から、みんなで作ったんだ」
顧問に説明を受けながら、咲は真心込められた一枚の色紙をじっと眺め続ける。回りをカラフルに彩られた文字には、
“卒団オメ!!”
“いっしょにプレーして楽しかったよ!”
“咲の笑顔は忘れないから!”
“ソフト部ガンバれ!!”
“どの部になっても応援してるよ!”
など、悪口とは程遠い色鮮やかなエールばかりが、記載者の名と共に顕となっていた。また中央付近には、
“咲き誇れ!!”
“笑顔が似合う中島咲!!”
と、黒太字の達筆で上下に刻まれており、古文及び習字担当である顧問の文字だとすぐわかるほどだ。
「田原先生も、書いてくれたんですか?」
「もちろん。あとはその間に、集合写真を貼れば完成だ」
「集合、写真……」
色紙から目を離した咲は、笑顔のまま取り囲む部員たちを覗き見る。誰一人として悲しんだ表情を見せず穏やかで、涙を溢す湿度も感じられない。本格的に嫌っているため嬉しがってるのかと受け取れるほどで、嫌な未来に終始戸惑い眉を曲げ続ける。
「ねぇ、咲?」
「りょう、こ……先輩……」
すると天使の一声の如く、皆の中央から一歩前に出た涼子に尋ねられ、思わず咲は人前で禁止されている名前を漏らす。しかし、大好きな先輩の表情は全く変わることなく朗らかで、一番近い距離からハニカミを受ける。
「――咲は、ソフト部に行きなさい。もうバレー部には、思い残すことないはずよ?」
「ど、どうして……」
訳がわからぬまま過ぎていく世界こそ、本当に恐ろしく怖いものだ。涼子には決して、“ソフトボール部に行きたい”など示したつもりがない咲。何かにすがりたくなるばかりで、円らな瞳には徐々に潤みが増していた。
「だって咲は、私がいなくなったらソフト部に行くんでしょ?」
「そ、そのつもり、だったけど……」
「……それに、咲は今すぐソフト部に行きたいみたいだから」
「そ、そんなことまで言ってないですよ!?」
声の裏裏りと共に猛反対する咲だが、涼子からは表情一つ変えられず、左右の首降りで返されてしまう。
「口では言ってないけど、咲の心は確かにそう言ってるよ。一刻も早く、笹二ソフト部に行きたいってね」
「そ……そんなこと……」
心の声など誰にも聞かれるはずがないだけに、咲は初めて涼子に不信感が募る。怒っている様子は全く窺えないが、そこまでして大好きな先輩は、自分を辞めさせたい気持ちがあるのかと、目を会わせることすら辛く感じ俯いてしまう。
『やっぱり、嫌われちゃったんだ……大好きな、涼子ちゃんに……』
――ピトゥ……。
ふと咲の足元に、大きな一粒の雨漏りが生じる。しかし二つ目、三つ目と止まらず、悲哀の雨が館内を浸らす。床の水滴にはシワクチャな泣き顔まで反射され、悲劇のヒロインに近しい少女と化していた。
田村信次の現代文授業を参考に、両方の部活をやりたいと素直を言い放った咲。ところが、それは悉く裏目になってしまい、バレー部の皆からは、最も恐れていた自分勝手だと捉えられたに違いない。
もうこれで、本当に終わってしまうのだ。
笹浦二高女子バレーボール部としての、自分のスポコン生活が。レギュラー争い巻き起こる部内で共に励んできた、仲間たちとの絆も。厳しく指導しつつも選手に愛あるが故に接してくれた、顧問への信頼関係も。
『涼子ちゃんとの、仲も、これで……こんな、形で……』
誰もが認めるバッドエンドだ。窒息しそうなほどの悲哀的終演だと、膝が崩れ伏しそうになったときだった。
「黙っててゴメンね、咲。別に私らは、咲のことが嫌いになった訳じゃないの……」
「涼子……ちゃん……」
「だってね……」
無意識にも泣き顔を上げることができた咲には、涼子の穏便な笑みと遭遇する。実の姉のように錯覚するほど、静かながら優美なままに。
「――こうでもしないと、咲の心が笑ってくれないから……」
「アタシの、ここ、ろ……?」
やたらと心というフレーズを繰り返す先輩に、咲はいつしか敏感になっていた。呼吸の荒れは増すが何とか返答すると、涼子から深々と頷かれ、優しい瞳を合わされる。
「咲の笑顔ってね、みんなに元気を分け与えてくれるの。今のみんなを見ればわかるでしょ?」
ふと涼子が周囲の部員たちに目を回し、咲もつられて一人一人と顔向けする。やはり誰も別れを惜しむ様子など観察されず、にこやかさだけが次々に涙を越えて瞳に映る。
「今はみんな笑ってくれてるけど、今朝私が引退試合やるって言ったときは、みんな泣き崩れながら色紙書いたんだからね」
「そ、そんな……」
咲にとっては意外すぎる真実だった。皆自分を嫌っているのだと思ってしまっていた分、驚きメーターの振れ幅が膨らむ。
「でも約束したの。責めて最後は咲を、咲からもらった笑顔で送り出そうって」
「じゃあ、みんなは……」
微笑みの正体は、別れを惜しむ我慢だったのだ。二年生の自分一人だけに、まだレギュラーでもない存在なのに、涙を堪える優しさまで見せてくれていたとは。
「咲が笑うとね、気づけば自分も笑顔になってて、いつの間にか笑みの輪が拡がって、最後はみんないっしょに、前向きになれるんだよ。今のみんなは、今まで咲が笑顔でいてくれたから、元気に笑えてるんだ」
「アタシの、笑顔が……?」
「うん。だから、いつも笑顔を届けてくれた咲にはね……」
心掛けて笑顔を続けていたつもりなど、バレーボール部活動中の咲には毛頭無かった。どちらかと言えば顧問によるハードな練習に叱咤に苦しめられ、肩を落としていたこと機会の方が多かった気がする。
しかし、その無意識な行いによって生まれた笑顔に包まれながら、主将の涼子から瞬く微笑みを向けられ、肩に掌を置かれる。
「――ずっと、心から笑っててほしいんだ。素直にやりたいことやって、嘘もつけないほどピュアで愉快な、みんなを照らしてくれる私の愛後輩、中島咲でいてほしいの」
「涼子、ちゃん……グズッ……うぅ……涼子ちゃ~ん!!」
再び溢れ出した涙と共に、咲は迷わず正面の涼子に飛び着く。先輩の胸中で顔を伏せながら、ただひたすらに強く抱き締めた。
なぜなら先輩の想いに、確固たる愛が含まれていたと気づいたからである。後輩の歩む道を尊重しつつ、正しき道へ案内してくれる、先に歩んだ者としての優しさが。
「咲とやったバレーボール部。試合はちょっとしかなかったかもだけど、私はとても楽しかった」
「涼子ちゃん!! 涼子ちゃん~!!」
中学生になって始めた、二人の女子バレーボール部活動。一つ上の涼子だっただけに、残念ながら咲には、共に公式戦に出場した記憶が数えられるほどだった。たった六人しかコートに立てない熾烈なレギュラー争いのため、ほとんどが途中出場からの共働きが否めない。
「練習のときだって、挫けそうになったときはいつも、咲の笑顔、咲の躍動するプレーに助けられた。だから私は、こうして何とかキャプテンやれてるんだよ」
「そんなこと、そんなことない~!!」
涼子といるだけで、厳しさも楽しさに変換できた今日までの練習。積極的にアピールしようと、いつも喉を枯らすまで叫び続けたのを覚えてる。そうでもしないと、大好きな涼子と試合に出られないからだ。早くしないと先輩が引退してしまうからと、毎日を公式大会中のように必死で努力した。
「私が上げたトスで、咲のスパイクが決まると、すっごく嬉かった。ガンバってきて良かったって。正直、私にとって心の支えだったかも」
「そりゃあ、グズッ、アタシだって!!」
涼子から上げられたトスには、いつも食らいつく思いでスパイクを撃ち放った。例え自分に対するトスでなくとも、強引と呼ばれるまで積極的に。それで得点した後のハイタッチが、咲にとっては一番の祝福だった。大好きな先輩の役に立てられたという、一連の証明行動なのだから。
「だったら!! グズッ、だったら涼子ちゃんの引退までいっしょに……」
「……それじゃダメよ、咲」
「どうして!?」
タメ口になっていることにも気づけないほど、過ぎされし思い出で泣き狂にながら顔を上げた咲。しかし今度は、涼子の手のひらが頭に載せられ、穢れ無き白い歯を覗かせる。
「――今度は、夏蓮たちに笑顔を分けてあげてほしいの。もう一度見てみたいんだ。咲たちがまた、ソフトボールやってる姿を。最高の絆で結ばれた仲間たちの、輝くプレーをさ」
それはバレー部主将としてではなく、泉田涼子としての素直な願望だった。それも咲たち四人に長らく接してくれた、元小学生ソフトボールクラブのキャプテン――また、咲にとって心置ける一人の親戚として。
「涼子ちゃん……涼子、ちゃん……グズッうぅ……」
「ちゃんのままかい……。でも、許してあげる。その代わり、私ができなかったソフトボールを、楽しくやってね」
いっこうに笑顔になれない咲だが、今度は涼子に抱き着こうとしなかった。なぜなら今胸に飛び込んでしまえば、それは先輩の想いに背くことだと感じたから。旅立つ者にはあるまじき行為だと、送られる者として悟ったからである。
「グズッ……グズッ……うぅ……」
「ほら、いつまで泣いてるの? 集合写真撮るよ? さっきから待たせてる人が、一人いるんだから」
「へ……」
すると涼子の視線が、咲の後にある体育館入り口に向かう。撮影者がいるような雰囲気に煽られながら振り向くと、確かにカメラを手に持った担当者がいた。しかし思いもしていなかった制服女子の正体だけに、驚きで声を荒らす。
「――ゆ、柚月~!?」
やっと気づいてくれたと言わんばかりにため息を吐いたのは、笹二ソフト部のマネージャー且つ咲の親友の一人――篠原柚月だった。何ともふてぶてしい様子のまま、ランウェイを歩むように近づいてくる。
「涼子先輩も人が悪くなったものね~。関係ない後輩パシって、こんなに待たせるなんてあんまりよ。マネージャーとしてソフト部の練習に行きたいのに……」
「ゴメンなさい柚月。別に忘れてた訳じゃないの」
「ホントかな~?」
先輩の涼子を苦笑いさせるほど強気で、本人らしい上から目線な柚月だが、最後には鼻で笑って咲へ言葉が飛ぶ。
「――咲! 私も、ずっと待ってるんだけど?」
「柚月……グズッ……うん。涼子ちゃん、みんな……」
一度鼻を啜った咲は柚月から目を離し、もう一度涼子たち全ての部員、顧問の顔まで一望する。
『これを言ったら、全部終わっちゃうんだよね……』
バレーボールが嫌いなスポーツだとは、決して思っていない。できるのならば、まだ在籍したい気持ちまであるのが本音だ。
しかし、兼部できるほどバレー部もソフト部も甘い部活動ではない。双方続けようとすれば、きっと身体は付いていけず崩壊し、何もできなくなる暗黒の未来を迎えるだろう。
そんな悩める選択に協力してくれたのが、涼子を初めとする笹浦二高女子バレーボール部のみんなだ。わざわざ引退試合まで催してくれたこの機会を、蔑ろにしては失礼極まりない。
「ば、バレー部のみなさん!」
気をつけの姿勢で止まった咲には、依然として涙が浮かんでいた。だが次の瞬間、みんなの敬える想いに応えるべく、拡げた額を床に向けて覚悟を放つ。
「――ありがとォォ~~ございましたアァァアァァァァ~~~~!!」
――ピトゥ、ピトゥピトゥ……。
腹の底から、胸の奥から、そして心のままに響いた感謝の叫びが、笹浦二高体育館を大きく揺らした。しかし咲の足元は再び本降りの雨が訪れ、シューズの内側にまで染み渡る。真心を受けた嬉しさ、部を離れる寂しさが交わることで、感動の雫が相乗的に雨量を増し、写真撮影どころではない表情になってしまう。
「咲、まだ泣いてる……」
「中島にとって最後なんだ。泉田、胴上げでもしたらどうだ?」
「先生、それナイスアイデアです! みんなぁ! やるよ~!!」
すると涼子を筆頭に、咲の回りには部員が集合し、めでたい胴上げ劇が始まる。
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
「ちょ、ちょっと~!!」
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
「待ってってばぁ~~!!」
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
館内の宙を舞う咲からは、涙が少しずつ飛び離れていく。同僚たちの掌が背中を押してくれ、人としての温度を感じ取れる。四回目の胴上げにはほぼ瞳が晴れ、五回目になると次第に笑顔に近づいていた。
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
「みんなぁ~!!」
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
「ありがとォォ~~!!」
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
「まだやるの~!?」
――「「「「バンザ~イ!!」」」」――
しつこいあまりの胴上げは結局九回も続いてしまい、待ってる柚月には呆れた顔を向けられていた。
しかし、その数は引退者の背番号と同じ“9”であることを考えれば、笹二バレーにとって必然で致し方ないことだ。また号泣していた咲も、いつものような晴々しい表情に戻り、ついにバレー部最後の集合写真撮影が行われる。もちろん主役の咲が色紙を掲げて中央に、その隣で涼子が喜ばしげに携わり、そして部員と顧問が二人を包むように立ち並ぶ。
「はい、いきまーす! 円周率の小数第四位は~?」
「柚月そんなのわかんないよ~!!」
「正解は五でした~」
「二でもないのかい!!」
「フフッ……ではでは改めて、いっきまーす! 一足す一は~?」
――「「「「ニィィ~~!!」」」」――
――パシャッ!!
無事に撮り終えた笹二バレー部員たちから、咲は多くのメッセージをもらう。一人一人と握手を交わしたりハグされてたりと、個性溢れる様々な形の応援を受け取ることができた。いつしか笑顔の楽園と化したバレーコート上では、もはや泣いていたことも忘れるほど愛しいフィールドに変わり果て、満開の笑顔が咲き乱れようとしていた。
『――? 涼子ちゃん……?』
ふと隣から静かに去ろうとした涼子に、咲の不思議目が向かう。去り際の横顔からは口許しか窺うことができなかったが、頑ななへの字が顕在だった。
『涼子ちゃん、もしかして……泣いてるの?』
肩が下がった背番号2を儚げに放つ先輩の後ろ姿を、沈黙した咲はじっと見て心配してしまう。最後に言葉を掛ける余裕もないのだろうか。やはり涼子にとっては、今回は甚だしく辛い選択だったのかと、思った矢先だった。
――「ちょっと涼子先輩? まだ終わってないんだけど~?」
「柚月……」
すると涼子は柚月の声で立ち止まり、一度大きな深呼吸をしてから、発信者へ微笑みを振り向ける。
「どうしたの? 柚月にお願いした写真撮影は、もう終わったはずだけど?」
「そんなのわかってるわよ。でも、まだ終わってな~いの」
先輩には微笑みが戻っていたことには安心したが、咲も涼子と同じく柚月の台詞に首を傾げた。一体何がまだ終わっていないのか尋ねようとすると、カメラを握ったままな担当者からは、鋭さを効かせる得意気な笑みを放たれる。
「――まだ二人だけの思い出写真、撮ったことないんでしょ? せっかくだから、私が撮ってあげるわよ」
「柚月……はぁ~~! うんッ!!」
笑顔溢れた咲はすぐに先輩のもとへ駆け寄り、涼子の右腕を全身で抱き締める。元気高らかな幼い少女のように、強く、ギュッと。
「涼子ちゃんとの思い出写真だぁ!!」
「ちょっと柚月!? そんなのお願いしてな……」
「……私なりの仕返しよ? 涼子先輩」
「仕返し……?」
無邪気に咲が笑う一方で、柚月の行動に涼子が焦った様子で眉をひそめていた。そんなことまでお願いしていないと、先輩の困惑が目の前で垣間見えたが、撮影者は片足重心で上から目線を保つ。
「――だって今日は、涼子先輩をボッロボロに泣かすつもりで来たんだからぁ。六年前、写真を撮られた仕返しとして、しかも今回私をパシった罰よ。さぁ、笑った笑ったぁ!」
「――っ! ……フフッ……ホンット、綺麗なのにドSで……全然かわいくない後輩だッ……」
突如下を向いた涼子の一言が震えていたことは、一番近くで抱きつく咲にはよく聞こえた。
「涼子ちゃん……大丈夫?」
「咲……ありがとね。私は大丈夫。……さぁ! ホントのホントの最後に、二人で思い出写真撮ろっか!」
「うんッ!!」
この世界に生まれた瞬間から、人は誰しも人格形成を始める。様々な経験をして、“自分らしさ”と呼ばれる抽象物を型どっていくために。
「涼子ちゃんとの思い出写真~!!」
「咲ってば~ハシャギ過ぎよ~?」
しかし数々の経験を身にしても、忘却能力を備えた人は大切な出来事ほど忘れてしまう。むしろ嫌な過去の方が覚えやすいという、本人の意思とは裏腹な記憶装置に縛られながら。
「ピースで撮ろっ! 涼子ちゃんの背番号と、アタシたち二人の意味も込めて!!」
「咲……うんっ! そうしよう!!」
そこで人は、過去の記憶を具現化し、可視物として永続的に残そうと考えた。それが写真であることは、もはや言うまでもないだろう。
「は~い、二人とも準備は良くて~?」
経験した過去の思い出、または写真を人格という枠中に当てはめ、誰もが予想できない自分自身を彩らせていく。それはまるでジグソーパズルのようで、完成形はモザイクアートに近い。
「ねぇ涼子ちゃん!」
「ん?」
「やっぱアタシ、涼子ちゃんのことダ~~イ好きだよ!!」
「……フフッ。私も、咲が大大ダ~イ好き!」
しかし、過去の記憶や写真全てを当てはめてはいけない。嫌な過去を当てはめてしまえば、心のキズや未来へのトラウマという、治療困難な心的ダメージを与える危険性があるからだ。
「はい、じゃあせっかくだし、スタガ式でいくわよ~!」
「「オッケー!!」」
ならば当てはめるべきpieceとは何か?
それはきっと、咲と涼子が今撮ろうとしている、“思い出写真”と称される、いつまでも輝き余す一枚に違いない。なぜなら、二人が笑顔でピースを構えているから。抱き合うことで身を寄せ合い、内に秘めてきた心まで近づけているのだから。
「せ~のっ!」
「「シャイニー!!」」
――パシャッ!!
「あ、そうだそうだ! ねぇ涼子ちゃん?」
「なに、咲?」
こうして咲と涼子は、永遠に遺したい思い出写真の撮影が終わった。二人にとって最も大切な一枚が、胸の奥に当てはまる。
「どうして涼子ちゃんは、アタシの心の声が聞こえるの? もしかして超能力とか~!?」
「ナワケ~……フフッ! だって、咲ってさ~……」
すると涼子は突如、前髪下りる自身の額に手のひらを当て、咲の目の前でサッと拭ってみせる。
「――嘘つくと、い~~っつも! こうする癖あるじゃん……ウフフッ!」
「そ、そうなのォ~~!?」
――「今さら気づいたんかい……」
「柚月までェ~~!?」
今回ピースサインで撮った思い出写真は、これから別々の道を歩む二人にとって、かけがえのない一枚となるだろう。同じ型どりをした、大きな大きな人格の一部――pieceに。
◇心からのエミ◆
笹浦二高グランド。
時刻は十七時を指す夕焼け時。様々な部活動が行われている笹二グランドの隅で、ジャージ姿の女子ソフトボール部員と、一人のスーツ姿な顧問が集まっていた。現在はキャッチボールが終わり、二人一組でネットに向かったトスバッティング練習を行っているところだ。
「まったく~、マネージャーはまだ来ないの?」
苛立った様子でバットを振る月島叶恵に、トス係の清水夏蓮は手の動を止める。
『柚月ちゃん、何かあったのかなぁ~?』
同じ教室とは言えども、柚月が遅れる理由など聞いていない。もしかしたらと心配の念が積もり、夏蓮の視線は叶恵の足下まで落ちていた。
夏蓮たちの隣で行う東條菫も気にした様子で、
「篠原先輩が遅いなんて、何か珍しいよね、凛?」
とバットを下ろし、ボールをトスしたいた菱川凛に尋ねる。
「うん……体調でも崩しちゃったのかな……?」
――「that's too bad !! 今朝はあんなにも元気だった柚月ちゃん先輩ナノニ~!?」
すると菫と凛に横槍を刺すかの如く、隣でバッティングを楽しんでいたMay・C・Alphardが悲観していた。
メイのトス係に関しては植本きららが務める一方で、またその隣でバットを肩に載せた牛島唯、またそのトス係である星川美鈴たち三人にも、不穏な空気が漂い始める。
「……そういえば、唯先輩は同じクラスっすよね? 何か知らないっすか?」
「さぁ~何も……。篠原、どうかしたのか~? 確かアイツ、昔っから身体悪かったんだよな、きらら?」
「にゃぷ~……。中学生のとき車椅子だった姿、きららも覚えてるにゃあ……」
「そ、そうだったんすか……」
マネージャーの存在たった一人の欠員に、笹二ソフト部の心が雲がかる。顧問の田村信次も暗く沈黙したままの腕組みで、いつしか夕陽に伸びた夏蓮たちの影は、皆下を向いたまま静止していた。
「……? あ、柚月ちゃんだ!」
すると呟いた夏蓮の瞳には、昇降口の方から姿を現した制服姿の柚月が映る。何とも嬉しそうな表情の彼女をよく観察してみると、その手には何故かカメラが握られていた。が、理解する間も与えずソフトボール部の元へ近寄ってくる。
「新入部員よ~! みんな仲良くしてあげてね~!」
めでたい報告とはいえ、依然として不機嫌極まりない様子の叶恵からは、遅いわよ!! と一言叫ばれたが、夏蓮を始め、周囲の部員たちの顔も上がり始める。まさか新入部員を連れてくるための遅刻だとは思いもしなかったため、柚月が無事だと知った安堵と、新たなメンバーが増える喜びの表情へと移ろいでいく。
『――? あれ……?』
しかし、夏蓮は思わず小首を傾げる。眺める柚月の隣には誰もいなかったからだ。連れて来たと言ったはずなのに……。
――タッタッタッタッ……。
『あ、いたいた! ……へ?』
すると柚月の背後にある昇降口から、猛ダッシュで駆けてくる少女が突出した。ジャージに包まれた身を靡かせ、光らせる額で突進の如く向かってくる。ベリーショートな彼女のベクトルはソフト部に向いてることから、きっと新入部員に違いない。
『嘘!? も、もしかして!』
新入部員の相手の正体に、一度は驚きで瞳孔が開いた夏蓮だが、夕陽のおかげもあってか、徐々に星の煌めきが増していく。
ずっと待っていたのだ。柚月から幾度となく無理だと罵られても、その分だけ諦めず信じてきた、この日の下での再会を。
そして新入部員はついにグランド上に踏み入れ、立ち止まってから輝かせる額を地に向ける。
「ソフト部のみなさん!! 今日からよろしくおねがいしまアァァアァァ~ッすッ!!」
聞き覚えもある、悲しみ泣く子も黙らせるほどの、大声量を轟かせた新入部員。選手宣誓にも窺える参戦意思を貫き、いよいよ面を上げる。にっこりと頬まで上昇させた笑顔は誰よりも似合い、夏蓮にとってはかけがえのない一人のお転婆娘だった。
――なぜなら新入部員として現れた少女は、最高の絆で結ばれた仲間の一人なのだから。
「――咲ちゃァァ~~んッ!!」
歓喜を響かせた夏蓮はすぐに駆け出し、笑みを絶やさない咲へと正面から抱きつく。
「咲ちゃ~ん!!」
「夏蓮!! 遅くなってゴメンね!! アタシ、転部を決意したんだ!!」
「咲ちゃんだぁ~! やっぱり咲ちゃんだよ~!!」
「九番目の選手として、今日からよろしくね!!」
急上昇する気持ちのあまり、夏蓮は号泣の粒を夕陽に照らしていた。しかし何度も咲の名を叫ぶことで、悲哀から生まれた雫ではないことを伝える。
取り残されていた部員たちも、歩行していた柚月も、そして顧問の信次も集まり、夏蓮と咲の抱き合った影が個性的な人影に包まれる。
「中島……素直に、なれたんだね」
「田村先生のおかげだよ!! 自分勝手なんかじゃなかったみたい!!」
「それは何よりだ!! 良かったね、中島!!」
咲にも劣らない笑顔を放った信次は受け入れた様子で、定番の台詞が夏蓮の目前で繰り広げられる。
「ようこそ! 笹二ソフト部へ!!」
「咲ちゃ~ん!!」
「ドワァッ!! 夏蓮また泣くの~!?」
こうして笹浦二高女子ソフトボール部にはまた一人、新たな部員が誕生した。同じ中学校で知り合いの唯やきららとは挨拶を、初めて会った菫や凛にメイと美鈴、そして叶恵にも自己紹介と握手を交わし、咲の入部を歓迎するような夕陽まで射す。
――ついに、選手は九人。これで、試合ができる。
夢にまで見ていた物語の扉が、漸く開こうしている。その現実には、皆の輪から一歩離れて泣く夏蓮も、心からも涙を溢し続け、発起人として人一倍嬉しがっていた。
短いようで長く感じさせた部員集め。正直苦難ばかりの過程だったことが否めないが、これでやっと終演を迎え、新たなるステージへ移行できる。
――そう思った、矢先だった。
『――っ! 梓ちゃん……』
ふと顔を放った夏蓮は涙を停止させ、昇降口から見えた一人の少女――舞園梓の背が潤目に飛び込む。裏門から帰宅する黒髪ロング女子だとは見て簡単にわかるが、それ以上に暗めの孤独感が後ろ姿から伝わってならなかった。
――「まだ、部員集めは終わりじゃないね」
「先生……うん」
隣に立った信次も梓へ視線を向けながら呟き、夏蓮は不安と希望が入り交じった戸惑い眉を立てて頷いた。
試合は可能になったのは確かだ。咲の入部で九人の選手が揃ったのだから。マネージャーの柚月も含めて十人と在籍し、これでソフトボールは十分にできるはずだ。
しかし、十二分にできるようになった訳ではない。夏蓮にとって入部してほしい仲間は、まだもう一人だけ残っているからだ。
『――梓ちゃんだって、最高の絆で結ばれた仲間の一人なんだから……どうか、入部ってほしい』
厳しい練習など忘れさせる居心地のよい雰囲気が舞う、笹浦二高女子ソフトボール部。しかし夏蓮と信次だけは真剣さながらの表情のまま、裏門から消え行く梓の後ろ姿を、夕陽で伸びた長い影が見えなくなるまで見送った。
――――――――――――――――――――――――――
一方で同じ頃。
笹浦二高女子バレーボール部のキャプテン――泉田涼子は一人、館内女子トイレに訪れていた。誰もいないかを確認してから戸を閉めると、こじんまりとした孤独な空間の中で雫を溢し始める。声を殺そうと口許を押さえた手のひらは震え止まず、感情までは抑えられなかった。矜持という束縛に解かれたが故に……。
何も話せるような余裕など、今の涼子にはなかった。ただ我慢していた数多くの涙を、思い出の数だけ水面に落とす。
大切な後輩が無事に卒団できたことは、心の底から嬉しい。それなのに、乙女の涙は言うことを聞いてくれず、水面に映った素顔が波紋で見えなくなるほど、止まらなかった。
涼子の涙は、もちろん誰も知らない。両親も親戚も、バレー部員のみんなも、顧問の田原知子も、そして咲がいるソフト部も、誰一人。なぜなら隠していたからだ。大切な後輩の旅立ちが、実は寂しいものであるという気持ちを、昨晩からずっと。
誰にも知られないはずの個室で、号泣姿を公にした涼子。
それは、私とあなただけが知ってしまった、大きな秘密事である。
――ガンバれ! 涼子先輩!!
次回
八球目
◇私たちのキャプテン――扉が開くとき◆




