六球目 ④東條菫パート「……ありがと、メイ」
◇キャスト◆
東條菫
菱川凛
May・C・Alphard
東條桜
東條百合
東條蓮華
笹浦第二高等学校昇降口。
登校からたどり着いた東條菫と菱川凛らは昇降口に上がり、自身の上履きが収納されたロッカーを開ける。
「ん~……」
「菫、まだ椿のこと考えてるの?」
「うん……だって、わからなくてさぁ」
「そう……意外と気づかないもんなんだね」
ロッカーから取り出した上履きの踵を整えながら、菫はため息混じりに弟――東條椿のことを考えていた。今朝は彼が豹変したかのように家事をされ、本当に本人なのか疑り深いまでに感じる。
また椿の気持ちを理解している様子の凛からは、結局登校中では答えを聞かせてもらえなかった。亡くなった姉――東條苺との共通点に気づけばわかると話していたが、残念ながら今の菫にはわからず仕舞いである。
『苺お姉ちゃんと椿……二人の何が、共通してるんだろう……?』
何度心で呟いても、やはり答えは鮮明にならなかった。亡くなった姉と生きている弟の、性別まで異なる二人の共通点など。
倦みが止められない菫は不安の眉間を保ったままロッカーを閉め、落とした肩にスクールバッグを背負いながら、凛と共に教室へと歩み始めた。
まず見えてきたのは、昇降口前に広がる廊下の掲示板。校内イベント情報や日時が記された補講内容紙、また様々な部活動勧誘のポスターも掲示されている、多くの情報が集まる生徒のための一場だ。
昇降口から教室までの道のり上、毎朝訪れている菫と凛は下見程度で通り過ぎていくところだ。
しかし今日に関しては、二人の目に一枚のポスターが目に入った途端に、まずは菫、続いて凛が立ち止まり見上げる。
「――これ、女子ソフトボール部のポスター……昨日会った、清水先輩の部だ……」
ボソッと呟いた菫と凛の前には確かに、昨日荷物運びをしてくれた二年生の清水夏蓮を思い出させた、笹浦二高女子ソフトボール部の勧誘ポスターが貼られていた。女子らしいポップな文字で説明された活動内容や練習日時、バットやボールなどの貼り紙まで窺える。また丁寧な部員イラストキャラクターまで描かれており、何とも初々《ういうい》しく新設らしい明るさが解き放たれていた。
ただ、菫がどうしても一番気になったことは、ポスター全体がクシャクシャな皺だらけになっている状態だ。端側も無理矢理引き裂かれたようにセロテープで縫われいるため、背景に何があったのか考えさせるほど異質な勧誘ポスターだった。
「クシャクシャ、だね……」
あまりの勧誘姿に意外だといった表情で菫が漏らすと、凛は何故か隣で笑いながら頷く。
「何だか、昨日の清水先輩みたい」
「へ? 清水先輩みたい? ……フフ、確かにそうかも」
凛を一目してから、共に微笑んだ菫は再び笹二ソフト部のポスターを仰ぎ見て、昨日突如出会った先輩少女を思い浮かべる。
無理しながらも荷物運びを前向きに手伝ってくれたり、幼い弟妹たちと遊んでモミクチャにもされていた。
しかし、誰にも伝わる優しい思い遣りが彼女にはあって、その心に憧れた瞬間だって覚えている。
きっとこの笹浦二高女子ソフトボール部いるときだって同じなのだろうと、入ったことが一度もない部活動に始めて入部したい気持ちを誕生させたほどだ。
『でもゴメンなさい、清水先輩。やっぱあたしは、部活をやれる時間なんて無いと思います……』
自分には幼い弟妹たちが四人もいる。その面倒を見なくていけないことは、一人の娘を亡くした母にもお願いされている身なのだ。
自分はワガママ言えるような妹なんかではない。あの日の瞬間から、東條家の“姉”になってしまったのだから。
「……凛、教室行こう」
「菫……うん、わかった」
菫は微笑みを残していたが、俯いているだけに悲哀さを感じさせる姿だった。
無理をしているなど、嘘が嫌いな菫自身は思っていない。弟妹の面倒見はむしろ好きで、楽しさだって感じている大家族の姉だ。いつだって椿や桜、百合に蓮華のことを考えながら校内でも過ごし、早く帰宅して夕飯の支度をしなくてはと考えている。
――まるで現在の自心に言い聞かせるかのように……。
静かに立ち去ろうと、菫は少しの間を空けてから動き出す。右に身体を向けて一年二組の教室へ向かおうと歩み出した、そのときだった。
――ドカッ!!
「ウワッ!!」
突如正面から流れ星のように輝く物が衝突し、菫はそのまま尻餅を着いてしまう。そばで見ていた凛からも、大丈夫? と心配した表情で放たれたが、どこも痛みを感じてないため素直に頷く。
「……平気平気。てか、あたし何が当たったの?」
「あ、あの人……」
「あの、人?」
どこかオドオドとした凛だが、菫は彼女が前方に向けた指先を追い、衝突した相手を窺おうと顔を向ける。するとすぐ前には一人の女子高校生が、同じく尻餅を着いて顔をしかめていた。制服の緑リボンからは同じ一年生だとわかり、背はとても低く、下手すれば凛よりも小さな少女だ。しかしガッチリとした肩幅で、細身と言えるほどか弱さまでは観察されない筋肉質乙女とも見受けられる。
『うわっスゴい。初めて見たかも……』
すると開いた瞳で驚きを表した菫は衝突少女を、見たこともない生き物と遭遇したかのように凝視してしまう。それは彼女が筋肉質な少女だからではない。
――なぜなら相手のツインテールな髪色が、鮮やかで整った金色に輝いていたからである。
「……あ、あの~ゴメンね。だ、大丈夫?」
自分だって前方不注意だった。まずは謝る義務があるはずだ。そっと立ち上がった菫は、目を閉じたままの金髪少女に恐る恐る近づく。
なかなか返答が来ない辺り、相当痛かったのだろうかと固唾を飲み込むまでになった。しかしその刹那、尻餅の少女からサファイアの瞳を向けられ、突発的に目の前まで立ち寄られる。
「――I'm so sorry, pretty girl!! Are you OK? Do you have any injury?」
「え、あ、英語……お、オッケオッケー! アイムファイン……えっと~、センキュ~!」
「菫、そこで感謝はおかしいよ……」
凛に突っ込まれるはめになったが、菫は金髪少女の流暢な英語から、彼女が外国人であることを理解する。確か一年八組には今年アメリカから留学生としてやってきたと、存在だけはにわかに知っていたのだが。
「あの、あなたの名前は~じゃなかった! えっと~、ワッツ、ユア~……」
「あ! ニッポン語の方がいいデスヨネ!!」
「えっ! 日本語も話せるの?」
金髪の見た目だけでなくバイリンガルの持ち主であることにも菫と凛は驚かされたが、ついに少女は頷きと共に喉を高鳴らす。
「――ワタクシ! May・C・Alphardと申しマス!! パパがニッポン人で、ママがAmerica人のhalfデス!! 袖振り合うも多生の縁ということで、是非ともよろしくお願い致しマス!!」
「よ、よろしくね……あたしは、東條菫。で、あたしの後ろで隠れてるのが、親友の菱川凛で、二組なんだ……その~ハーフとはいえ、日本語も話せて、ことわざまで知ってるんてスゴいね」
「振り合うどころか、菫はぶつかってるんだけど……」
凛の冷たい一言もあったが、言葉が詰まりそうだった菫も何とか自己紹介を終えた。すると、メイのサファイア色の瞳がさらに迫り、キラキラと金髪の如く煌めかす。
「Waoh~!! You are best friend!! ニッポンのgirls' nexusなんて、華やかで輝いていて、ワタクシが暮らしてたSanta barbaraの海のように美しいではないデスカ~!! 菫! 凛! Good luck!!」
「アハハハ~……それはどうも」
「日本の女子を何だと思ってるんだろ? しかもいきなり呼び捨てだし……」
牽制気味な凛のツッコミが次第に鋭利を増す中では、菫は苦笑いをせずにはいられなかった。
昨日出会った清水夏蓮とは打って代わり、太陽の如く眩しい笑顔で話し続けるメイ・C・アルファード。彼女の高く大きな声は廊下中に拡散しているようで、知らず知らず辺りの生徒からも視線を感じるまでだった。
「アハハ~……あ、あのさ、メイさん?」
「ワタクシのことはメイでいいデスヨ! 菫!!」
「そ、そう……じゃあ、メイ。ぶつかっちゃってゴメンね。痛くなかった?」
「No problem!! 毎日ニッポンのmilkを飲んでるノデ、このくらいワタクシは平気デ……あっ! こうしてはいられマセン!!」
ふと言葉を変えたメイだが、掲示板に貼ってあったソフトボール部のポスターに小さな人差し指を放つ。なかなか話が噛み合わないことに菫は戸惑い、また凛も細い目で遠ざけるよう見つめていた。が、視線など全く気にしない様子で金髪少女の口が開く。
「My dream is a professional softball player!! ワタクシ、このニッポンでもsoftballをやりたいのデス!! それでこの前からずっと、head coachのMr.Tamuraを探しているのデスヨ!!」
自身の夢を語ったメイのサファイアな瞳はさっきよりも輝き増し、それはまるで彼女が言っていたサンタ・バーバラの蒼い海を思わせる色だった。どうやら、心の底から入部を希望しているようだ。
「へぇ~!! じゃあちょうど良かったじゃん! ここのソフトボール部は最近できたばかりみたいだし、きっとすぐに試合にも出られるよ!」
たとえ相手が初対面であろうと、夢がある人ならば応援したい。
菫がまるで自分のことのように嬉しく思いながら称賛すると、ハイテンション維持するメイはyeah!! と親指を立てる。
「絶対ニッポンで大活躍してみせマスヨ~!! このAlphardの名に恥じぬように!! あ、でも……噂で聞いたのデスガ、人数が少ないらしいのデス……だからまだ試合とかはできないかもなのデスヨ~……」
「そ、そっかぁ……まぁ、そうだよね……」
するとメイから初めての暗い表情を見せられ、菫は同情示す眉を曲げた。だからこそこのポスターで勧誘している訳だが、試合ができない選手を思うとどうも胸が苦しい。
「……でも、入部は絶対にした方がいいよ。笹二ソフト部には、とても優しい先輩がいるしさ」
とても優しい先輩――それは清水夏蓮以外誰でもない。
昨日の感謝も込めて菫は夏蓮を浮かべながら告げると、後押しを受けたメイも満面の笑顔を取り戻していた。
「Very very thanks. とても嬉しいデスヨ、菫!! ……ところで、菫と凛はすでに何かclubに入っているのデスカ?」
「あ、いや、あたしたちは何もやってないよ」
「そうなのデスカ!! じゃあ是非! いっしょにsoftballやりマセンカ!? きっと楽しいデスヨ!! いっしょに入りマショウヨ!!」
「え、あぁ……気持ちは、嬉しいんだけど……」
思い返せば、こうして真正面から歓迎を受けたことは記憶になかった。こんなにもはっきりと、前向きで真っ直ぐに。
その分嬉しさは顕在だった。しかし菫は人差し指で頬を掻きながら、やはり昨晩母からの言葉が脳裏に浮かぶ。
“「――あの子たちの面倒は、やっぱり優先してほしいかなぁ……」”
「ゴメンね、メイ……」
「Yes?」
「今はさ……あたしは、入れないんだ」
菫は明るい雰囲気を大切にしたいあまり笑ってみせたが、眉の形は外国人でもわかるくっきりとしたハの字だった。
「そ、そうデスカ……それでは仕方ありマセンネ。じゃあ凛はどうデスカ!?」
「菫が入らないなら、わたしも入らない」
「そうデスカ……わかりマシタ……」
少しばかり重苦しい空気が漂い始め、明々《めいめい》たる太陽も雲に覆われていく。
『なんか悪いことしたかなぁ……? でも部に入れないのは事実だし、嘘をつくのはもっと嫌だし……』
嘘偽りを嫌悪する者として、菫は決して言い直しはしなかった。しかし、告げた言葉がメイを傷つけてしまったとも捉え、訪れた後悔の沈黙に駆られてしまう。
しかし、それでも眩しい笑みを放つ少女こそ、メイ・C・アルファードのようだ。
「菫と凛にも、やるべきことがあるという訳デスネ! それでは仕方ありマセンヨ。歩むべき道は、人それぞれ異なりマスカラ。ワタクシが言ったことは気にせず、二人の歩むべき道を進んでクダサイ!!」
「メイ……」
思わず見とれてしまうほど、メイが輝いて見えた。それは金髪やサファイアの瞳があるからという、外国人ならではの理由ではない。
叶えたい夢への道を、ひた向きに駆け進む姿に窺えたからだ。
そして己だけに止まらず、昨日の夏蓮のように他者を応援したくれたからである。
「……ありがと、メイ」
「ニヒヒ~! あ、でもせっかくデス! ワタクシとは今後も友だちでいてクダサイネ!! ワタクシ、まだこの学校で友だちがいないものデシテ~」
「もちろんだよ! あたしの方こそ、次いでに凛も、クラスは違うけどよろしくね、メイ」
「Sure!!」
凛は背後で隠れたままだが、メイからは本日一番の笑顔が向けられたように感じた。菫も頬の弛みを取り戻し、一時的かもしれぬが、心の曇りが少しだけ晴れていく。
――炎々と燃え盛るはずの太陽から、優しさを含んだ陽射しを浴びたかのように。
「デハ! ワタクシはこれから職員室へ行ってきマス!! 早くMr.Tamuraに会って、club entryをしなくてはいけマセンノデ!」
「そうだね。ファイト、メイ!」
「アリガトーゴザイマス、菫! それに凛も!!」
「わたしは何も言ってないんだけど……」
「また会いマショウ!! デハデハ~See you!!」
結局最後まで笑顔だったメイは手を振り、猛スピードで廊下を駆けていった。角を曲がって二階の職員室に繋がる階段へと姿を消し、菫と凛に二人だけの時間が舞い流れる。
「……行っちゃったね」
「変な子……テンション高すぎて追ってけない」
「アハハ。でも、あたしは嫌いじゃないよ」
どうも凛は気に入ってない様子だが、菫はメイと出会えたことに喜びを感じていた。
「歩むべき道は、人それぞれ異なる、か……」
「菫、何か言った?」
「ううん、一人言。さてと、あたしたちも教室に行こう」
菫はスクールバッグをギュッと握り締め、凛と共に一年二組へと歩みを再会した。職員室とは真逆に位置する教室であるため、走り去ったメイには背を向けながら進んでいく。
しかし、菫は決して別離の気持ちなど毛頭なかった。
メイとはまた会いたい。たとえ互いの道が違えど、何かしらの形で再会したい。
そう思いながら肩を上げ、教科書でいっぱいのバッグを軽々と運んでいった。
『――あたしたちの道、どこかで繋がってるといいね、メイ』
このときばかりは豹変した椿の姿も忘れ、いつもながらの前向きな入室ができた。
◇支えられて……。◆
時刻は日没間際の午後六時前。笹浦市全体を包んでいた夕陽も次第に弱まり、もうじき静かな春夜を迎える頃だ。遊んでいた子どもたちも帰宅する時間であるため、人通りが少ない道中が広がっていた。
夕闇が徐々に世界を取り囲み始めている現在、その中で菫と凛はスクールバッグと買い物袋を運びながら帰路を辿っていた。本日は課外授業もあって下校が遅くなってしまったが、献立として決めていたカレーライスの材料を買い終えたところだ。言ってしまえば、この買い出し行動は日課の一つである。
あとは凛と無事に家に着くだけ……そのはずだが、表情が辺りよりも暗く見える菫は俯きながら進んでいた。
『百合も蓮華も、とっくに家に帰ってるってことは、きっと椿が迎えに行ったんだろうな……』
学校が終われば、まずは幼稚園に向かって百合を、その後には近所に預けている蓮華の迎えに行くことが、姉の菫にはまた別の日課としてある。しかし今日に限っては、どちらにも百合と蓮華の姿がなく、話を聞いたところでは、どうやら一人の少年がすでに引き取りに来たらしい。もちろん彼の名は、弟の東條椿だと聞いた。
椿がこうして手伝ってくれることは無論、姉として快く感じている。だがそれ以上に、弟妹たちに遭遇するかもしれない危険には、菫は気にせずにいられず喜べなかった。
『椿……どうしていきなり、あたしのことを手伝ってくれてるんだろう? 一体何が、椿をそうさせちゃってるのかな……?』
疑問が募れば募るほど、菫の表情に陽射しが消えていく。隣で歩む凛はなぜか教えたくれないし、もはや一人歩きの状態に等しかった。
思考の道は永続的に続きつつあるが、やがて菫と凛は東條家に到着する。家内の明かりも一階から漏れ、弟妹たちも無事に帰宅していることが見て取れる。
「ただいまぁ」
「おじゃまします……」
――「あ、お姉ちゃん! 緊急事態なんだ!」
――「凛お姉ちゃん!! たいへんなんだよ~!!」
「「え……?」」
玄関から入った菫と凛の前に現れたのは、小学二年生の桜と幼稚園年中児の百合だった。しかし妹たちの表情にはただならぬ強張りがあり、百合に関しては泣き出しそうにまで皺付いていた。
二人の様子が、いつもとおかしい。
普段の桜なら、室内でも遊び散らかしているはずなのに。いつもの百合なら、大好きな凛といっしょに絵を描こうとせがんでくるはずのに。
妹たちから異変を感じた菫は苦む桜に、凛は抱きついてきた百合に揃って、どうしたの? と理由を尋ねてみる。するとまずは桜が、恐怖の震えを表した口を開ける。
「椿、夕飯の買い物行ったっきり、まだ帰ってきてないんだ……」
「え? どうして椿が買い出しなんて……」
椿に夕飯の買い出しなど、頼んだ覚えがなかった。思わず聞き返してしまった菫は不審ながらも、凛と共に歩んだ放課後からの帰路を脳内再生してみる。途中ですれ違ったのだろうかと考えたのだが、どのシーンを思い返しても椿らしき男の子の見覚えがなかった。仮に見ていたとすれば、必ずこちらから声を掛けているだけに、より遭遇していない信憑性が増し、徐々に表情の暗雲が漂う。
「……どのくらい前に、家を出たの?」
「四時頃だよ。ざっと二時間前。向かったところだって、いつもお姉ちゃんたちが行ってるスーパーだよ」
確かに時間がかかりすぎだ。徒歩で普通に向かっても十分前後の距離だというのに。
桜の話しトーンも下がる一方で、続くように今度は百合が悲壮顔を放ち叫ぶ。
「四時頃からずっとだよ!? 連絡もないし帰ってくる気配もないし……もうどうしたらいいかわからないよ……グズッ……」
「百合、泣かないで……」
ついに泣き出した百合を凛が撫で慰めるが、幼女の大きな雫は溢れ落ちるばかりだった。
「椿……道に迷って……」
「……あのさ、お姉ちゃん?」
「な、なに桜?」
「あの……こんなこと、もちろん言いたくないんだけどさ……」
ふと鳴らされた桜の夜より暗い一声に、菫は気づき振り向く。すると固唾を飲み込む様子が窺え、いつもはしゃぎ回る妹にしては珍しい真剣な眼差しと目が合う。
「――椿、交通事故になんか遭ってないよね……?」
「――ッ!! そ……そんな、訳……」
心臓が止まりかけた菫は、すぐに桜の言葉を訂正しようとした。そんな訳ないと、恐れる未来を単純に否定したかったからである。
しかし、これ以上の言葉が菫の口からは出てこなかった。言い返すどころか黙り込むはめになり、百合の泣き声ばかりが東條家を彩る。
――なぜなら菫は、椿が交通事故に遇っていない理由がわからなかったからだ。
もはや悪魔の定義なのかもしれない。事故に遭っている理由だって知らないのだから。それでも菫は返答の音を鳴らせず、姉としてな落ち着きを次第に失っていく。
『そんな、訳……そんな訳ない!』
無言のまま首を左右に振り、自身のポニーテールを揺らす。まるで自分自身の意思に言い聞かせるかのように。
『そんな訳ない!! そんな訳ないって……そう、信じたいけど……』
しかし嘘が嫌いな菫には、己を騙すことなど全くできなかったのだ。真面目さが反って苦悩の原因になり、両脚は微動していた。
居ても立ってもいられなくなった、妹だった姉。菫は、不安という沼に埋もれた脚を何とか運び、廊下に属したとある一部屋の前で止まる。
『椿は大丈夫、だよね? ……苺お姉ちゃん……?』
扉を開けて見えた暗闇の空間には、小学五年生で亡くなった実の姉――東條苺の写真と仏壇が顕在だった。落ち着きのある静かな笑顔だが、今にも写真から飛び出してきそうなほど元気な快活さを窺える。
いっそのこと、写真から飛び出してきてほしい。
そして教えてほしい。現在の椿が無事であることを。
きっと姉の苺のことだから、自分たち弟妹のことを空から見つめてくれているに違いない。家族を愛し大切にしてくれた一人なのだから、きっと椿が今どこにいるのかも知っているはずだ。
しかし、菫は微笑むこともできず立ち竦んでいた。もしかしたら椿が……と考えることが止められず、不安が困惑に変換していく。
『教えてよ、苺お姉ちゃん! 苺お姉ちゃんってば……』
苺の写真を手に取った菫は、今の想いをぶつけようと心で語った。
心で何度も叫ぶが、亡くなった相手には想いなど届かない。ファンタジーの世界でもなければ、生ける者は死者に会えないのだから。
光はなくとも闇の中で灯る遺影の笑顔を黙視し続け、菫はただじっと苺の声を求めてしまう。もちろん写真の姿に変化は訪れず、辛さで視線が下がり俯きを迎えようとしていた。
――「何やってんの菫!!」
「――っ! り、凛……」
菫に自我と現実を取り戻させたのは、部屋の入り口から放った凛の声だった。いつも寡黙な彼女の大声を出す姿など、ここしばらく見た覚えがない。
「ど、どうした、の……?」
「どうしたのじゃないでしょ!? 早く椿を探しに行くよ! きっと迷子だから!」
「え、あ……うん」
珍しい凛の姿勢に菫は挙動不審ながら頷くと、指示通り苺の部屋から退出する。
桜と百合には、椿が帰ってきたら携帯電話に連絡してと頼み、菫と凛の二人で東條家の玄関を出た。門を潜った目の前には一本の道路が左右に延び、すぐに分かれ道と出会す構造となっている。
「一応、スーパーの道は右だけど……」
「二手に分かれるよ。椿が道を間違えたかもだから、わたしは左。菫は右に向かって」
「わ、わかった」
ハキハキとした凛はすぐに道路へ跳びだし、左道へと突き進み消えていった。もちろん菫も続いて真逆の右道へ駆け、迷子であってほしいの弟の捜索が始まる。
『椿……お願いだから、出てきて!』
全速力で走る菫のスピードは、陸上選手に相応しいほど爽快だ。キチンとしたランニングフォームに整った息遣いで、帰路だったスーパーへ続く道路を疾走していく。
――もちろん、多大なる恐怖と共に……。
『――お願いだから……お願いだから、椿までも奪わないで……』
椿が交通事故に遭っていたらどうしよう?
その思いが反って原動力となっていた。亡くなった姉の苺と同じ運命を辿ってほしくない。神にもすがる思いで椿の無事を祈りながら、菫は夜を迎えた道中を突き進んでいった。




