五球目⑥(貝塚)唯→田村信次パート「「「餘炉志來嫗~!!」」」
◇キャスト◆
(貝塚)唯
田村信次
牛島恵
清水夏蓮
月島叶恵
篠原柚月
植本きらら
星川美鈴
菫
凛
時刻は十八時の日の入り間際。夕日に灯されていた笹浦市はやがて渋滞車のランプで照らされ、闇の訪れを少しだけ防いでいた。
土曜の本日では、家族で出掛けていたワンボックスカーや大きめの自家用車の数が増している。しかしその間に挟まれた一台の黒タクシーには、家族でもない教諭と生徒の二人が、後部座席で間を取りながら座っていた。
「……なぁ田村?」
「ん?」
「オレたち、どこ向かってんだ?」
傾げる唯が尋ねた相手は、隣で優しい微笑みを保ちながらも、頭に白い包帯を巻いた信次だった。
先ほど近くの笹浦国立病院に向かった際、二人はすぐに身体調査に受けたのだ。顔意外の全身がアザだらけの唯に関しては、周囲の看護士から妙な視線を浴びることとなったが、医師からは異常なしの判断が下された。あまりにも腫れたアザには湿布、また出血したいた箇所には絆創膏が貼られたが、体内への支障は全く発見されずに済んだ。
一方で、頭部を切っていた信次も異常は認められず、本人の意向で針も縫わず絆創膏のみで去ってきた。恐らく注射なんかも苦手なのだろうと、待合室にいた唯に冷たげにも見抜かれながら。
問題無くも長き身体調査を終えた二人はこうして、現在のタクシー席に至る。携帯電話を持っていない信次が病院内の電話を借りたことで乗車したのだが、唯は未だに目的地を知らせていないまま腰を据えていた。
「こっちはオレの家から真逆だし、それに笹二の方向でもねぇだろ?」
唯は周辺の景色を窓越しに観察しながら、反射で映った信次に疑問を呈していた。大通りを囲む周辺からは、田舎に近いほどの草木や坂道、そして小さな神社まで視界に入る。
目的地は実家でもなければ、笹浦二高でもない。やはり信次は、今から児童相談所にでも送るつもりなのだろうか。
身体を張ってくれた担任への不信はなかったが、己の未来に対する不安が増してくる。
「……へ……やっぱ、そうだよな……」
自嘲気味に笑った唯はとうとう俯き、変わっていく外の景色から目を逸らしてしまう。変化する世界に怯えを隠せず、こんなことになるくらいなら今まで通りの生活で良かったとさえ、タクシーに揺らされながも固く思っていた。
『――ゴメンな、きらら、美鈴。もうお前らと、ろくに会えなくなるかもしれねぇ……』
「あっ、運転手さん。そこの細い道、入ってください」
「はぁ?」
ふと運転手に指示した信次の指先を窺うと、対向車が来れば進入できなそうな小道が見えた。するとタクシーもゆっくりと左折し、静かで暗く家々に囲まれた道路を徐行していく。
「なぁ、マジでどこ向かってんだよ!?」
このまま大通りから高速道路に移っていくかと予想していただけに、唯は気になり過ぎて大声を発してしまう。しかし信次の穏やかな表情からは変化の色を感じず、そのまま振り向かれ目が合う。
「――君にとって、本当に帰りたい場所だよ」
「……オレにとって、本当に帰りたい、場所?」
ますます意味不明だと捉えた唯。しっかり教えろと怒鳴りそうにもなったが、再び信次の指示が運転手に送られ、今度は道中で停車する。
「さぁ! ここまで来れば、歩いてすぐ着くよ!」
「だからどこにだよ……?」
開けられた自動ドアから出ていくように信次から促され、唯は訳がわからないまま外に出てみた。外灯も疎らで、薄暗い周辺の様子も見辛い。同じ市内とはいえ、訪れた場所でもなかっただけにすぐ迷子になりそうだ。
『マジで、どこに連れてかれんだろ……?』
眉間の皺が取れない唯はそう思っていた頃、支払いを済ませた信次も外に現れ、タクシーが去ったことで二人きりの時間が訪れる。
「こっちだよ。着いてきて」
「あ、あぁ……」
歩き出した信次を追うように、唯は不安と共に身体を運ぶことにした。
暗路を歩み、坂道を下るのかと思えば、また左折して急な坂を上るはめになる。進めば進むほど見慣れない世界が拡がり、もはや現実なのかすら危うく感じてくる。
不安定な道中や景色もあってか、唯の瞳は悲しげに移り変わろうとしていたが、その坂道の途中で信次が立ち止まり身体を横に向ける。
「よし、着いた!」
「え……てか、ここなの……?」
「あぁ!」
胸を張った信次の視線先まで追った唯に映ったのは、坂道の傍に建った二階建てアパートだった。予想していた施設や保健所など皆目見当たらない場所に佇む“であい荘”と名乗った建物だ。外見や辺りは綺麗に整った様子だが、決して高価な物件ではなさそうな大きさが見て取れる。
「ここって……ん? もしかして、テメェの……?」
「いやいや違う違う!! ボクの家はもっと狭いって!」
まさかと思った唯は鬼の形相に変え、恐ろしいガンを飛ばして威嚇した。男と二人で暮らすなど冗談じゃないと言わんばかりに。
しかし、両手を振って全否定示した信次からはどうも違うとわかり、呆れを交えた安堵のため息を僅かに漏らす。
「……じゃあ誰の家なんだよ? オレ知らねぇぞ?」
アパートを見ながら未だに表情に恐さを秘めた唯が聞くと、信次は微笑みを取り戻した頷きで隣に並ぶ。
「――ここは、君の新しい家だ」
「あ、新しい、家……は、ハァ~~!?」
驚きで素顔に戻るはずの唯だったが、ついに信次の胸ぐらを掴んで怒りを爆発させる。
「オイッ!!」
「な、なに!?」
「オレ家賃払えるほど金なんか持ってる訳ねぇだろッ!! 独り暮らしなんてできるかァ!!」
「もちろん! もちろんわかってるって!」
焦る信次を揺らし続けながら、唯の怒りはさらにヒートアップする。
「ア゛ァ!? じゃあ今から働いて稼げって言いてぇのかよ!?」
「いやいや! だからそういう訳じゃないってば!!」
「もぉ~何が信じろだよ!? 頼りにならねぇ男だな!! だからテメェは独身止まりなんだよ‼ この童顔教師!!」
「そ、そこまで言わなくても……そ、それにボクは教師じゃない! 先生だ!!」
「どぉ~っちでもエエわァ!!」
近所迷惑など、今の二人には浮かばない単語だった。もはや真っ暗に近いほどの闇と化したアパートの前で、二人の論争が望まれなくも続く。胸ぐらを揺らす辺りは唯の方が一方的だと思える展開だが、反って教師呼ばわりされた信次も火が点いてしまったように叫び返す。
「君は何もわかっていないからそう言えるんだ!! いいかい? 教師は教えの師! 先生とは先に生ける者! ほら全然違うじゃないか!?」
「漢字そのまま並べただけだろうがァ!! そんなのバカなオレでもわかるっつうの!! 学校の立場としちゃあ両方変わんねぇだろうがよッ!!」
「た、立場はそうだけど理念は違う!! ボクは先に生ける者として、君たち生徒のためにやっていきたいんだ!!」
「ぬぁ~にが生徒のためだよ!? 独断で一人暮らしさせようとしてるヤツの台詞じゃねぇだろうが!!」
「だから違うんだって!!」
「だから何がだよッ!!」
朝まで続いてしまいそうな勢いの生徒と担任。“教師”と“先生”の違いなど、教諭側がわかっていたとしても、生徒側からしたら同じような概念だろう。教師も先生も、同じ教壇に立つ者なのだから。
そんな歳が離れた二人の言い争いは止まることを知らず、本当にいつまでも続いてしまう平行線を辿ろうとしていた。
が、次の瞬間……
――「唯、ちゃん……?」
「は……?」
ふと鳴らされた小さな女声に、唯は気づき勢いが静止する。覚えのない呼ばれ方でもあったため、思わず声の方向へすぐに振り向くと、二階建てアパートの階段傍に女性が一人立ち待っていた。
「唯ちゃん、なの……?」
「え……あ、あぁ……」
年齢はアラサーぐらいを思わせる小綺麗な見た目で、背は長身の唯よりも頭一つ分低い。長い髪を背後に伸ばし、長袖長スカートに黒いタイツまで纏っていた。
どこか自分と似た身だしなみと思った唯だが、それよりも気になったのは、さっきから合わせている相手の瞳が潤みを増しており、今にも泣き出しそうに口をへの字にしていたことだ。
『だ、誰なんだ、あの人……?』
見覚えのない、か細くか弱そうで涙を堪え気味の女性。そんな彼女の名前はもちろん、出会った経験すら唯の頭には検索されなかった。
あの人は一体誰なのかと、困惑した唯は隣の信次に尋ねようとしたが、先に女性へ声を放たれてしまう。
「もう来てたんですね。遅くなって申し訳ございませんでした」
「い、いえ……あの、本当に、ここに住まわせていただいてよろしいんですか?」
「もちろんです! この娘のためにも、是非よろしくお願い致します!」
笑顔の男と心配目の女による大人トークが進む中、少女の唯は何もわからないまま二人に目配せしていた。恐らく信次が告げた“この娘”とは自分のことだと気づいたが、そこでふと窺えた未来に息を飲まされる。
『もしかして、オレはこの女の人と過ごせってこと……?』
そう思った唯は再び女性に目を向け、不安に駆られながら観察する。何度も見ても、どこを窺っても、やはり見覚えがない女性に変わりない。もしや信次の知る里親という存在なのだろうかとも考えたが、それにしては若々しい見た目で結びつかない。
すると女性から再度目を合わされ、小顔がさらにクシャクシャになっていくのがわかる。しかし何も知らされていない唯は困惑に困惑が重なり、一応頼りにしてる信次のスーツ袖を握る。
「な、なぁ……誰なんだよ、あの人……?」
「やっぱり、覚えてないんだね」
「は?」
覚えてない――つまりは、以前に会ったことがある相手なのだろうか?
唯は一生懸命思い出そうと苦い過去を振り返ってみたが、どうしても目の前の女性の顔が出てこなかった。むしろ今日がファーストコンタクトだとしか感じられず、妙なもどかしさに苛まれる。
「じゃあ、紹介するよ!」
すると信次が明るめの声で、夜中の唯をほんのり照らし始める。
「彼女の名前は、牛島恵さん。ボクより歳上で、優しくて、綺麗で、立派な女性だ」
やっと相手の名前を知れた唯だが、やはり思い当たる記憶が見つからなかった。戸惑うばかりで、思考もろくに働かなくなってくる。
「…………やっぱ、知らねぇん、だけど……」
「じゃあヒントだ。この人の前の名字はね……」
信次と共に女性へ視線を送った唯は、ついに涙が落ちる瞬間を捉えた。なぜ泣いているのかは理解できず共感できなかったが、次の信次からの一言で目の前の世界が変わる。
「――貝塚だよ。元、貝塚恵さんさ」
「え……うそ……んな訳……」
握っていた袖を離し、驚きのあまり力が抜けて呆然となった。唯は大きく目を見開いきながら、牛島恵の潤む瞳をじっと見つめ返す。
もはやヒントではなく答えだ。
しかし今の唯には、そんなことを考える余裕もなく、答えだとも思えないまま固まっていた。
『だって、死んだはずじゃ……』
目の前の光景を疑うばかりだったのだ。するとその刹那、ついに恵が駆け出し、周囲に雫を撒きながら唯へ真っ直ぐ向かう。
「唯ちゃん!!」
唯は突如正面から抱き締められ、言葉が出せず上の空だった。
よく親友のきららから抱き着かれることがあるが、今回はまた違う強度と鼓動を感じる。細い腕で力強く抱き包んでいるのだろうが、痛みはや苦しさはほとんど感じ取れない。また穏やかというよりも、興奮で速い心臓の音が、直に当たる胸に強く伝わってくる。
「ごめんね唯ちゃん!! 置いていくなんて、最低だよね! 本当に、ごめんね!!」
肩に顔を乗せられ、恵の涙が染み込んでいく。制服も飛び越えシャツも通り過ぎて、ついには隠してきた素肌まで伝い、ほんわかとした暖かさを覚える。
『うそだ……だって、だって……』
しかし、唯はまだ抱き締め返すことができず、意識が飛んだように漠然としていた。核心が持てずにいたからだ。牛島恵という存在が、亡くなったと聞かされてきた“彼女”であることを。
記憶には残っていない。だがこの懐かしさを、なぜか身体が覚えている。
依然として肩に顔を伏せている恵に、揺れる唯はそっと覗き込む。自分と同じく長い髪を下ろした後頭部が見えたが、ふと垣間見た項の姿に、目頭が熱を帯びる。
『――首もとに、アザ……オレと同じ……』
「……お、御袋だぁ……」
ついに少女の瞳からも雫が溢れ、互いの涙が互いの身体へ移っていく。長きに渡って離れ離れだった、母と娘の健気な想い交換が行われる。
「御袋……御袋なんだよなぁ……」
背の高い唯が実の母である恵を抱き締め返し、心から受け入れるように強く包み込む。
「大きくなったね、唯ちゃん。立派に育ってくれて、とっても嬉しいよ……」
華奢な両腕でさらに強く抱き締めることで、背の低い恵が愛娘の唯を包み返した。
「……うぅ……御袋、オフックロォ……」
「もう離したりしないから。これからはずっと一緒だよ、唯ちゃん」
「あ、ア゛あぁ……」
二人の涙はそれぞれの心にまで染み込み、双方の素直な想いが交差していた。
今から十五年以上もの前。
まだ貝塚唯が生まれて間もない頃だが、当時の貝塚恵も夫――貝塚哲人から執拗たる行為を受けてきた。全身のアザは言うまでもなく、時には気絶してしまうほど壮絶な家庭環境だった。
このままでは、自分の命も危ぶまれる。
そう感じて耐えきれなくなった恵はついに離婚することを決意し、近くの家庭裁判所へと申し出た。しかし、生まれつき身体が弱い彼女の経済力では、赤子の唯を育てる余裕がないと判断されてしまったのだ。ただ別れることだけを口にしたため、哲人に有罪判決も下されないまま。
離婚は成立したものの、もちろん親権は夫の哲人に委ねられた。二人が二度と顔を合わせないことまで条件にされ、娘の唯には“母は亡くなった”と嘘までつかれしまう。
恵はこうして、貝塚から元の名字――牛島に戻して一人身の生活を始めた。笹浦市から遠く離れた、静かな田舎でひっそりと。
実の愛娘である貝塚唯を、一日も忘れずに、ずっと……。
しかし今年の笹浦二高始業式当日、唯の身を疑っていた信次は、すぐに貝塚家の家庭事情を調べた。そこで信次は父子家庭であることに気づくと共に、離れた母の居場所を様々な方法で突き止めたのだ。名字が変わっていたことで探す時間が増してしまったのだが、彼女たちのために新しい物件まで用意し、母子家庭へと導いたのもこの教員のおかげだ。
――そして今、十五年以上の時を経て、二人は再会することができたのである。
「……グズッ……田村……」
泣き顔を上げた唯は、初めて信じることができた教諭――信次に涙目を向ける。声は返されなかったが、すぐにはにかんだ笑顔で合わされ、暖かく見守られた。
確かにここは、本当に帰りたい場所だ。
唯は奥底でそう思いながら、担任の信次に微笑みを受け渡す。
『――出来すぎだろ、バァカ……この童顔、先生が……』
真っ暗な夜空に彩られた、笹浦市の小さなアパート前。新たな担任の笑顔が、そして新たな家庭の光が、“普通の生活”を夢見てきた少女を優しく照らしていた。
◇本当に帰りたい場所◆
翌日の正午。
本日の笹浦二高では、入学したばかりの一年生が身体測定を受ける日だ。しかし学校自体は休みで、二三年生を抜いた校舎の人だかりは小さく少なかった。
一方のグランドでは本日も、笹浦二高女子ソフトボール部の練習が繰り広げられていた。遠征や練習試合で出掛けた他の部もおらず、広いグランドを陣取る贅沢な練習環境の中で臨んでいる。
顧問として見守るスーツ姿の信次もいるのだが、さっきからどうも悩ましいため息ばかりを漏らし続けている。
『はぁ~……教頭先生の説教、ノイローゼになりそう……』
昨日無断で学校を飛び出したことが問題だったのだ。自身のクラスのホームルームは疎か、授業だって投げ出す形となってしまったのだから。
とはいえ、信次は日曜の朝から教頭先生に呼ばれ、ついさっきまで叱られてたのである。時間にして約四時間。外出届も出さず、報告連絡相談も一切しなかったことが上司の逆鱗に触れてしまったようだ。
『まぁ仕方ない。社会人として、ちゃんと反省はしなきゃなぁ……』
今後は気をつけようと誓いながら、信次は顔を上げて練習風景を眺める。
現在は二人の小さな女子ソフトボール部員が、学校指定ジャージ姿でキャッチボールをしており、約三十メートルも離れた遠投を行っているようだ。すると、手に合わない大きなソフトボールを持つ清水夏蓮が、助走を加えて月島叶恵に投じる。
「うぉりぃやぁぁ~!!」
――ポトン、ポトン、ポテポテコロコロ……。
「ちょっとォ~!! 二十メーターも届いてないじゃない!! アンタ本気でやってんの!?」
「ご、ごめんなさ~い!!」
遠くにいる叶恵の罵声は、胸に痛みを走るほど大きな音量に違いない。夏蓮は申し訳なさそうに頭を下げていると、今度はマネージャーとして観察していた篠原柚月に近寄られる。
「はい。じゃあ夏蓮は、今日から腕立て伏せもやってねぇ~」
「えぇ!? 今日だけで腹筋背筋、それに腕立て伏せまで加わるの!?」
「大丈夫大丈夫~。全部二十回ずつを五セットだけいいから~」
「……五って確か、四の次ですよね……トホホ~……」
数の概念すら見失いそうな夏蓮が肩を落としているのも束の間、今度は叶恵から、ステップを加えたウィンドミル投法でボールを放たれる。
「ウォリャア!!」
夏蓮とは大きく違って、投じたボールは上空で弧を描きながら猛スピードで突き進む。勢いも衰えず、屋のように白球が距離を縮めていた。
「あ、あわわ~!!」
しかし、背の低い頭まで飛び越えそうになっていた。夏蓮はめい一杯のジャンプをしていたが、午前中から行っている練習のせいか、僅か数センチしか飛ぶことができず、結局頭を越されてしまう。
「――ッ!! 清水!!」
すると思わず声を張り上げた信次には、捕球できないだけでなく、着地すらままならず仰向けに倒れそうな夏蓮が映り込む。今から駆け出しても間に合わないくらいに、すぐに固い地面に平伏しそうになっていた、そのときである。
――パシッ……。
――「大丈夫か? 清水」
夏蓮の倒壊が、一人の片腕に支えられたことで阻止できたのだ。諦めず走り出そうとしていた信次も動きが止まり、突如表れた一人――いや、三人のジャージ姿の女子高校生を見つめる。それぞれバットを持った見慣れない姿だったが、考える時間もいらないほどすぐ正体を理解し、驚きのあまり声を鳴らす。
「――貝塚!? それに植本も星川も!!」
現れたのは唯、そして親友の植本きららと星川美鈴だった。
「わりぃ、遅くなっちまった。一年の美鈴待ってたからさぁ」
「にゃはは~!! 信次く~ん! 来てあげたにゃあよ!!」
「お待たせしましたっす!」
三人それぞれの微笑みが向けられたが、正直何も知らされていない信次には理解できず戸惑っていた。なぜ日曜日なのに、しかも三人揃って学校に来ているのかと。
「か、貝塚さん……」
「ん? 清水どうした?」
「か、かっこいい……」
「はぁ?」
一方さっきから支えられていた夏蓮が呟くと、唯の目が点に変わる。すると我慢仕切れなくなった様子の美鈴が顔を赤くしながら、夏蓮を無理強いにも引っ張って起こした。
「い~つまで唯先輩にくっついてるっすか!? 早く離れろっす!!」
「はぁ~ごめんなさいごめんなさい! ……と、ところで、三人ともどうしたの?」
信次が気になっていたことを、夏蓮は代わりに尋ねた。すると唯を真ん中に置いた三者は、それぞれ手に持つバットを肩に載せてから、親指を立てると共に強気の笑みを浮かべる。
「――今日からオレら三人、ソフト部に入っから。せぇ~のっ!」
「「「餘炉志來嫗~!!」」」
「え……え゛えぇぇ~~!! い、一挙に三人もォォ~~!?」
夏蓮の驚嘆はグランド中に広まり、近くにいた柚月はもちろん、遠く離れた叶恵にも驚きを与えていた。
唯たちのもとにはぞろぞろとソフト部員が集まり、信次も混じりながら前に立つ。
「貝塚、どうして……」
あまりにも突発的な出来事に、信次は未だに唯の心が見抜けなかった。昨日はほぼ一日中いっしょにいたが、入部の一言すら聞いていないだけに。
すると唯は得意気に笑ってみせ、信次へ横目をやる。
「別にいいじゃんかよ。募集だってしてんだし、減るもんはねぇはずだぜ?」
「貝塚……」
「な、なんだよ……そんな真面目に見つめんな……」
見つめ続ける信次には、ふと唯の頬が赤らんだことに気づいたが、視線を逸らされながらも言葉を紡がれる。
「ま、まぁほら。お前には世話になったしさ……御袋も、感謝してる……だから御袋の想いのためにも、少しでもお前に恩を返せればと思ってさ……」
唯のモジモジとした小声が途絶えると、傍でクスクスと笑っていたきららが割って入る。
「ニャフフ! 唯は信次くんに、ありがとうって言ってるにゃあよ!!」
「お、おいきらら!! そんなこと言ってねぇだろ!!」
「だって唯、さっき御袋もって言ってたにゃあ。もってことは……? ミスズンもそう思うにゃあね?」
「はいっす! 唯先輩は嘘つかないっすから!」
「美鈴~お前までぇ……」
唯の拳には怒りマークのような血管が浮かんでいたが、大切な後輩である美鈴を傷つけたりはしない。
――「ちょっと、そこの三人衆?」
すると今度は、唯たちの前に叶恵が堂々と立ちはだかる。小柄な身長にも関わらず、腕組みをしながら眉を潜めることで威厳に満ちた様子だった。
「……なんだよチビ?」
「ち、チビゆうなァ!!」
「にゃはは!! 怒った顔もかわいいにゃあ! チンチクリンさもよく似合ってるにゃあよ!」
「どういう意味じゃア!!」
「てかさ、さっきから頭に何かくっついてるよ?」
「え? てか、何で今タメ口……?」
美鈴の発言を気にした様子のまま、叶恵は頭部の髪を手で靡かす。
「何かダンゴ虫みたいにゃあよ」
「だ、ダンゴ虫!?」
小バカにしたようなきららだが、叶恵は恐る恐る手で探り続ける。すると何かを掴んでしまい驚いていたが、すぐに違和感を覚えると共に怒りが有頂天に昇る。
「どぉ~見間違えたらダンゴ虫が桜の花びらになんのよ!?」
「にゃは……えっと~大きさかにゃあ?」
「テキトーな嘘こくなァ‼」
もはや叶恵のボルテージが上がる一方だ。だがこれで終わらないのが、唯たち三人グループの特徴である。
「あの、さっきから失礼だよ? きらら先輩は二年生なんだから」
再びタメ口で尋ねたほぼ同身長の美鈴に、ついに鬼軍曹の堪忍袋が燃え焦げる。
「私だって二年だわ‼ 一年だと思ってたのか!!」
「え、うそ……」
「嘘じゃないわァ!! 人を見た目で判断すん……」
「……叶恵ちゃん、落ち着いて落ち着いて?」
思わず間に入った夏蓮が、何とか口ゲンカらしきものを止めた。しかし叶恵の怒りは収まらない様子で、唯たちへ挑発をやり返す。
「ったく、入部とは言っても、ここはアンタらが想像するレクリエーションみたいな部じゃないからね!」
「ちょっと叶恵ちゃん……」
「てか、そんな偉そうに入ろうとしてるけど、ちゃんと部の力になるんでしょうね?」
新入部員を認めない、冷酷な言葉以外何物でもなかった。叶恵の発言には夏蓮、柚月、そして信次までも悩ましい瞳を型どってしまう。
しかし、唯たち三人は待ってましたと言わんばかりに目配せをし、片手に持っていたバットのグリップを握りながら、地面とは平行に、またピンと前に伸ばした片腕と垂直に保つ。
「――力だけなら、自信あるぜ? へへ……」
微動だにしない唯が自信で満ちた表情で呟き、美鈴は無理しているように顔を苦めていたが、きららも楽しげに持ち構えてながら猫口を放っていた。
夏蓮も柚月も微笑み、そして怒り溢れていた叶恵にも強気の微笑みが灯されたところで、信次は嬉しい限りに笑う。
「植本、星川、それに貝塚!!」
「ちげぇだろ、バカ……」
「へ……?」
きららと美鈴には振り向かれたものの、唯からは冷たく否定されてしまった。疑問符を浮かべた信次は、バットを下ろした少女の横目を浴び、呆れたため息まで当てられる。
「お前が間違えてどうすんだよ? 生で見てたの、お前だけなのによ……」
「ぼ、ボクだけ……?」
「そうだよ……はい、もう一回」
「……っ! そうだね。ゴメンゴメン!」
『ボクだけしか見ていない……つまり、昨晩のことだよね!』
そう察した信次はもう一度改めて、三人の名を胸を張って叫ぶ。
「植本!! 星川!! そして、牛島!!」
顧問の声に、今度は三人全ての微笑みが振り向く。そして信次は両腕を拡げ、きらら、美鈴、唯たちを心から迎え入れるようにはにかむ。
「ようこそ! 笹二ソフト部へ!!」
信次の高らかな声は辺りに響き、何よりも新入部員三人の心まで届いていた。それは振り向いて嬉しそうに笑った美鈴、きらびやかな元気を放つきらら、そして強気の姿勢を止めず微笑む唯を窺えば明らかだろう。
「わぁ~唯ちゃ~ん!!」
「うぉッ清水!? てかどこ触ってんだよ!?」
夏蓮の飛び込むような抱きつきに、唯は驚きバットを落としていた。
「ホントに唯ちゃんだぁ~。それにきららちゃんも~!!」
「にゃは!! カレリーニャ、よ~ろしっくにゃあ!!」
今度はきららに飛び移り、結構強めに抱き返される。
「ゲホッ!! ……そ、それに美鈴ちゃんも、よろしくね」
「み、美鈴、ちゃん……よ、よろしくっす!!」
突如頬が赤くなっていたが、美鈴とも握手をして挨拶を交わした。
夏蓮による新入部員三人の温かな迎え入れに、柚月と叶恵も満足気に目を合わせていた。
本きららに星川美鈴。
そして貝塚改め牛島唯の存在により、笹浦二高女子ソフトボール部に色が増えた瞬間である。
――これであと、四人。
誰もがそう思った、その矢先である。
――「あの~すみませ~ん!! ボール、転がってましたよ~!!」
突如離れた校舎の方から、かん高い女声が鳴り響く。
皆と共に振り向いた信次には、一年生と思われる制服姿の女子二人が見えた。一方はショートヘアな妹のように背が低く落ち着いた様子で、もう一方はポニーテールで結んだ姉のように背が高めで、ボールを握っていることから声主だと察しが着く。
「あ、さっき清水が逸らしたボールじゃないか?」
「そ、そうだ。忘れてた!」
新入部員の招き入れで頭がいっぱいになっていたのだろう。気づいた様子の夏蓮は、ボールを持つ一年生に会話をしながら駆けようとした。
「ごめんなさ~い!! 今取りに……」
「……あの~!! ここから投げていいですか~!?」
「え、は、はい~!!」
言葉尻を被せられただけでなく足も止められた夏蓮がグローブを構えると、ボールの握りを確認したポニーテール少女はすぐに右腕を振る。
――ビューン……
――バシッ!!
投じられたボールは見事に、夏蓮が構えたグローブに収まり音を経てた。それも、少しも動かさないまま胸元へ。
「あ、ありがとー!! ナイスボール!!」
「どぉ致しまして~‼ さぁ、凛帰ろっか! みんな御腹空かしてるだろうし!」
「わかった、菫……」
互いの名前を呼びあった二人の一年生は校門へと向かい、やがて姿を消していった。
ボールも戻ってきたことで、また新たなメンバーも加わり、笹二ソフト部のキャッチボールが再開した。倍の人数になったチームは華々しいほどに明るさが増し、皆の声もよく轟いている。未経験者の唯やきらら、美鈴、一応経験者の夏蓮もボールを投げ逸らしてわ後逸を繰り返す姿がよく見受けられるが、決して弛んだ雰囲気など流してはいない。
まだまだ未発達否めないが、ヤル気と元気が増した笹浦二高女子ソフトボール部。
ただ、今キャッチボールをしている部員たち各々の距離は、先ほど二人の一年生――菫と凛がいた校舎と夏蓮のグローブを比べれば、半分も満たない短めの距離だった。
◇次回◆
六球目◇支えられて……◆




