五球目⑤(貝塚)唯パート「たす、けて……」
◇キャスト◆
(貝塚)唯
田村信次
貝塚哲人
「貝塚……どうして……」
「いいから……いいから、もう帰ってくれ……」
正午を指す前の午前中。貝塚家のリビングでは悲劇の幕が上げられた。
正面で目を見開き流血した信次に対し、背後でバットを握っている父――貝塚哲人を庇うよう立ち入った唯。広げたせいでファスナーが解けた制服袖からは、女子らしからぬカサブタや内出血、コブの腫れすら鮮明に見せつけていた。
黒タイツに包まれた両脚をさらにスカートで隠し、襟長のTシャツで素肌を一切さらけ出してこなかった唯が、初めて父親以外の人間に公開した瞬間だ。しかし見せたい思いは全くなく、後悔の念にも駆られながら腕を微動させ俯く。
「いいんだ。オレは、このままで。だって、そうじゃねぇとさ……」
点けっぱなしのテレビから流れるコメディ感など誰も耳に入らない中、次第に呼吸が荒くなる唯が言葉を紡ぐ。
「……このままいくと、オレは施設や保健所入りなんだろ?」
渋めの表情にはより多くの皺が浮き立っていた。父親から長きに渡って苦悩を強いられてきた唯は、いつも幸せそうに映っていた信次に語り続ける。
「でも調べたら、この近くにはねぇ……それに、一人で学校続けれる金も、親戚だっていねぇんだ……」
小声も上擦り、伏せた瞳には激しい熱さえ感じてくる。
「親父がいなくなれば、オレは一人になって、笹二に行けなくなる……いや、この町から離れることにだって、なっちまう……つまり、それってさ……」
言葉すらままならない状態が否めない、父子家庭の一人――貝塚唯。そして次の瞬間顔を信次に放ったが、共に潤みきった瞳から雫が溢れる。
「――もう! きららや美鈴に、ろくに会えなくなるってことだろ゛!?」
「貝塚……」
ボロボロな少女の魂の叫びに、信次は驚きという殻で覆われた悲哀の目を向けてしまう。
日本には青少年少女を守るため、児童相談所という施設がある。学校に溶け込めない者を始めとし、家庭環境に苦しむ者たちも集まる一つの場所だ。
唯の場合は言うまでもなく後者に当たり、相談を持ち掛ければすぐにでも家庭から離れ入所できることだろう。施設または保健所へと送られ、暴力無き平和な生活が待っているに違いない。
しかし現在の茨城県笹浦市に、児童相談所は設立されていないのだ。
同じ県内の施設に向かうとなれば、笹浦市から遠く離れた別の市に移ることになる。それはつまり、入学して二年目を迎えた笹浦二高からも距離を置くことになってしまうのだ。
通学時間はもちろん現状より増し、施設や保健所の門限だって守らなければいけない。そうなれば今までのように遊ぶ時間も減り、親友との親交が薄れてしまう。
唯は決して勉強が好きではない一人の生徒だ。むしろ学ぶことが嫌いで、県立進学校の笹浦第二高等学校に入学できたことも奇跡に等しい。
正直中卒でも良いと考えていたのだが、唯が退学しようと思ったことはない。なぜなら彼女が抱く学校のイメージが、“教科を学ぶ場所”ではなく、“親友と会う場所”だったからだ。
『せっかく再会できた美鈴……一生傍にいってやるって約束したきららと離れるなんて、地獄でしかねぇよ……』
家庭環境が知られれば、今のように二人の親友たちとの時間が短くなってしまう。下手すれば、二度と会えなくなるかもしれない。
だからこそ、唯は今まで公にしてこなかった。家の中では何度も痛みに耐え続け、外に出れば周囲にバレないよう顔以外の素肌を隠し通してきたのだ。
誰にも自分を見せないために。自身が考える、地獄を見ないために……。
「……きららと美鈴とは、ずっといっしょにいたい。二人はオレにとって、家族みてぇなもんだから……そのためなら、そんな地獄見るくれぇなら!」
悩める生徒の魂は、担任の心へと谺する。
「――こんな煉獄ぐらい、乗り越えてやるから゛!!」
信次の瞳を見上げながら、決意のような言葉を投げた唯。しかし相変わらず恐怖の表れ示す全身の震え、そして悲壮色に染まった雨を降らし続けていた。
「フッ、わかったか? コイツは、ここでしか生きられねぇんだよ」
『そう……親父の言う通りだ……』
不敵な笑みを浮かべた哲人に、唯は丸めた背中で想いを語った。親が存在するおかげで、娘は生活できるのだと。
「貝塚……」
『いいんだ、田村。オレは、これでいいんだよ……』
変わらず心配目で見下ろす信次に、唯は再び面を下げて意思表示する。
『――これでいいんだ。これで……』
今さら世界を変えたいなど、そんな贅沢は願っていない。
今まで通り笹二に通うこと。
今まで通り不自由ない学生生活を送ること。
そしてこれからも、きららと美鈴と共に生活すること。
たったそれだけを願った。
担任の心にも訴えかけるように、また自分自身の胸中にそう言い聞かせながら、静かな涙を頬に伝わせていた。
「――そうじゃないだろ!? 貝塚!!」
「へ……」
弱々しい返事で瞳を向けた唯には、見たことがない信次の怒り顔が飛び込む。キリッとした眉を立て、今から説教でも始まるのかと思わせる、流血で赤色に染まった眉間の皺が浮き彫りだった。
「なぁ貝塚。君は昨日、ボクにそう言おうとしてたのかい?」
「き、昨日……」
「これでいい……なんて、別れる際には思ってなかったはずだよ?」
「別れる、とき……っ!」
すると唯は思い出し、昨日のシーンが頭に過る。昨晩信次に告げようとした、秘めてきた想いの内容まで。それは端的で素直な言葉。たった四文字でも表現できるほど簡単で、聞き手にも伝わりやすく短い一言だ。
「貝塚!! 君の本当の気持ちを教えてくれ!!」
『……そんなの、決まってんだろ……てか、もうわかってんだろ?』
目の前で必死の表情で信次が叫ぶ。だが、泣くばかりの唯は声が出せなかった。出せなかったからこそ、気持ちを察しているであろう担任に代弁してほしかったのだ。
「唯!! こんな犯罪者に煽られんな!!」
『……て……』
一方背後の哲人からは、声すら暴力のように受け取らせる音をぶつけられた。しかし唯は決して振り向かず、応援してくれる信次にだけ心を向ける。
「大丈夫だ!! 勇気を出して!! これがいいって言ってくれ!!」
『……けて……』
目を強く閉じ、心の叫びを繰り返す問題児少女。
「唯!! こんな野郎に騙されんな!!」
『……すけて……』
瞑ったせいで涙がさらに溢れるが、想いを貫こうとする一人っ娘。
「どうかボクを信じてくれー!!」
「――っ!」
そして信次の一言が鳴り響いた刹那、唯は昨晩の想いを抱きながら、別れ際に打ち明けようとした“たった一言”と濡れた瞳を、無意識ながら向けてしまう。
“『――田村のことだけは、信じていいのかもしれない……』”
「たす、けて……」
「ゆ、唯!?」
「貝塚」
対照的な男たちの顔が、一人の悲しげな少女を挟んでいる貝塚家。哲人が焦る眉を曲げ、一方で信次は期待が叶ったように微笑みを取り戻したときだった。
「――助けて、くれ……田村」
今日までずっと隠してきた想いを、一人の傷だらけな少女はやっと口にしたのだ。
すると唯はアザだらけの両腕を降ろし、立つ気力さえ失ってしまい、涙と共に崩れ落ちそうになる。が、倒れる寸前に信次から抱き抱えられ、男の胸に着地した。
「助けて……助けて、くれ……」
「貝塚。よく言えたよ」
「助けて、田村……」
「素晴らしい勇気だ」
信次に腕と微笑みで包まれながら、唯はスーツの懐を湿らせていく。止まる気配がない雫と気持ちを、抑えようとしながら。しかし感情を抑え切れなかった。その理由は褒められたことが嬉しかったから――ではない。無論父親から離れられることも脳裏に浮かんではいない。
ただ一つ、貝塚唯十七歳にとって覚えのない、初めての出来事が起きていたからである。
『――こんなに、誰かに優しく包まれたの、初めてだ……』
「て、テメェ!! 唯を放せェ!!」
すると突如引き裂くよう叫んだ哲人が、両手握る金属バットを二人へ振り上げる。反応して振り向いた唯は恐怖のあまり身が固まり、いつものように目を閉じ、振り下ろされ待ち構えてしまった。
――パシッ……。
「んなッ!!」
「――っ! 田村……」
しかし哲人の驚き声で瞳を開いた唯には、片腕で包み支えてくれている信次が、もう片方の右手でバットを受け止めていた。甲の血管が明らかに浮かび上がるほど強く握り、そのまま取り上げて床に投げ落とす。
「バットは、人を殴るための道具なんかじゃない! ボールを打つため、チームが勝つために振る戦利品だ!! こんなこと、素人のボクにだってわかる……それすら知らないあなたには、バットを握る資格はない!!」
敬語も忘れた信次だが、真っ直ぐな表情からは悪意も後悔も微塵に無さそうに窺える。
茫然と眺めてしまった唯だが、早速病院へ向かおうと告げられ、素直に受け入れて大きな背に抱き着く。すぐに玄関へ進み、外へ続く扉が開かれ、ボロボロな二人の姿が春の太陽に晒される。
「……もうじき警察も来る頃でしょう。ここに来る前、ボクが呼んでおきましたので」
今度は信次が唯を庇うよう背に乗せ、一人残った哲人に鋭い眼差しを送る。
「て、テンメェ~。ただで済むと……」
「……相変わらずですね。あのときのままで、全く変わってない」
「ア゛ァ!?」
怒り余り拳を見せた哲人の言葉尻を被せると、信次は呆れたため息を着いてから、最後の捨て台詞を口ずさむ。
「――改めて見損ないましたよ、釘裂トップのテットさん……」
「――ッ!! お前、まさかあんときのガキ……」
「……では」
――バタンッ!!
今日一番の驚愕を示した哲人だったが、信次は扉を閉め、負の唯を連れて貝塚家から遠ざかっていく。
『え……コイツら、もしかして知り合いだったの……?』
首筋垣間見える後頭部を見つめながら思った唯。しかし聞こうとはしたものの、すぐに信次から話題を換えられてしまう。
「ゴメンね。ボク車持ってないから、このまま歩きで行くよ」
「……タクシー、とかは?」
「いやぁ、携帯も持ってないからさぁ~。基本的に電話は自宅か学校でしか使えないんだよ」
「……お前、何も持ってねぇじゃん」
「よく言われる。アハハ~!」
先ほどの出来事を忘却させるほど空気を和らげる信次に、唯にも少しだけ微笑みが蘇ってくる。この男はどこまでアホなのかと、よく担任が務まっていると呆れていた。
「……田村、ほら」
「へ? ハンカチ?」
「頭に血、付いたままだ。これで拭けよ、みっともねぇからさ」
「おぉ~忘れてた! ありがと!!」
「……忘れてたといえば、お前学校は? ホームルームとか授業だったあるんじゃねぇの?」
「え……あ゛ぁ~!! 外出届け出すの忘れてたぁ!!」
「知らねぇぞ、うるせぇ教頭に怒られても」
「トホホ~ションボレスト~……」
正午を迎えようとしている、麗らかな春空の下。ハンカチで傷口を拭うも肩を落とした信次に、唯が鼻で笑ってみせる。天気も疎らな雲を浮かべながらも、青空多い模様で彩られていた。
「……? あれ、サツだ」
ふと二人の傍を一台のパトカーが横切った。サイレンを鳴らしながら高速で進み、唯と信次とは真逆に遠退いていく。
「……あれって、さっき呼んだって言ってたやつ?」
「あぁ。ボクがさっき、公衆電話で呼んだ警察だよ」
「そっか……そう、だよな……」
すると照らしていた太陽は雲に重なり、唯の表情をより暗くしてしまう。本当に父は逮捕されるのだと、実感なき現実に顔を上げられなかった。
「……なぁ田村」
「ん?」
「どうして、オレの家庭環境がわかったんだ? 言ったことねぇはずなのによ……」
信じる背中に顔を当てながら、唯はボソッと呟いた。親から苦しめられているなど、誰にも言った覚えがないだけ気になった。
「始業式の日、覚えてるかな? ほら、貝塚と植本を体育館に連れていったときだ」
「あ、あの日……?」
信次の静かな言葉で、唯は始業式当日の出来事を思い出した。
きららと共にバックレようと屋上階段で屯していたが、信次に無理矢理腕を引っ張られ体育館へ連行された、あの日を。
「あの日、貝塚の後ろの首にアザができてるのが見えてさ。首になんて普通じゃ考えられなかったから、あの日から疑ってたんだよ」
「え……」
いつの間に見られたのかと見開いた唯だが、恐らくは体育館で背中を押されたときだと推察できた。あの瞬間にしか、背を向けていなかったのだから。
「……ヘッ、気持ちわりぃ。そこらのストーカーより見てるな」
「もちろん、これだけじゃまだ疑っているだけだった。でも、昨晩で教えてもらったんだよ」
「え……だ、誰か知ってたってこと?」
再び驚いた唯は身体を反らして問う。すると振り向かれはされなかったが、信次から頷き返される。
「植本だよ。私の親友を救ってあげてって、耳元で言われたんだ」
「き、きららが……アイツ、そんなこと言ってたのか……」
今の唯にとって、たった一人の親友であるきらら。正直あのときは信次に告白でもしたのかと思ってたが、実際は救助を求めていたのだ。大切な親友のために、あえて本人に聞こえないように。
「チェ、隠してたのに……」
「心を通わす親友に隠し事なんて、できやしないよ。いつも傍にいるキミたちなら、尚更そうじゃないか?」
「……そうだなぁ」
バレていた残念さよりも、大切に思われている嬉さの方が増していた。唯は片頬を信次の背に当てながら、ふと見えた町並みを覗く。
土曜の正午で窺える景色は、やはり休日を楽しむ家族の姿が多かった。通り際に映った小さな公園では、親子で砂浜に山を作っていたり、鬼ごっこをしたりして走り回っている。また細い道路ではキャッチボールをする親と子、また車で旅行に向かう家族一団と、皆揃って輝かしいほど笑っていた。
「……オレの家はさ……母親がいなくなって、親父と二人暮らしになったんだ……」
そんな町の家族を観察しながら、唯は小さな声を鳴らした。
「正直、母親の顔も覚えてねぇんだ。オレが小さいときにいなくなったみてぇでさ。親父が言うには、死んじまったらしい……」
「……そうか」
妙な間を挟んで相槌を打った信次だが、唯はひたすらに自身に待ち受ける未来を考えていた。
元より、母はいない。
そして今日から、父もいなくなる。
つまり、一人だ。
経済面は疎か、一人身の生活だって心配でならなかった。洗濯や食事などの家事は慣れているが、公共料金の支払い方や金銭的援助の申請だってわからない。
このままどこかでアルバイトを紹介され、社会人の如く労働を強いられるのだろうか。それとも児童相談所に連れてかれ、施設や保険所に送られるのだろうか。
どちらにしろ、笹浦二高には近々退学願いを出す、あるいは遊ぶ時間を減らさなければいけない生活に繋がってしまうだろう。
かけがえのない後輩の美鈴とは離れ離れ。大切な親友のきららだって同じだ。
どう考えてみても、唯に浮かんだものは望みたくない未来ばかりだった。希望の光一筋も見当たらない、ただ真っ暗な絶望のみで描かれた予想図である。
「――嫌だよ、一人は……グズッ……どうしたら゛、いいんだよ……」
「大丈夫……大丈夫だから。ボクを信じて……」
優しい言葉をかける信次の背中で、唯は再び涙を落とし顔を伏せる。何をするべきか検討も付かない不安に駆られ、無知無能な自身の力にも苛まれ、何よりもきららと美鈴と離れるかもしれない未来に怯えながら、一頻り号泣し続けた。
今は信じた男の背に、身を委ねることしかできない少女。
本日晴れ模様の天気とは裏腹に、唯は悲しみの雨が止まないまま、まずは病院へと運ばれていった。




