五球目④清水夏蓮→(貝塚)唯パート「……ってくれ……」
◇キャスト◆
清水夏蓮
篠原柚月
中島咲
月島叶恵
植本きらら
星川美鈴
舞園梓
(貝塚)唯
田村信次
貝塚哲人
翌朝の笹浦第二高等学校二年二組。
振り替えで土曜登校の本日、朝のホームルームまで十分と迫った教室は相変わらず賑やかで、新しく関係を持った友だち同士が交流する場となっていた。実は私ねと隠していた秘密を打ち明けたり、それ私もと心から共感したりと、この前まで赤の他人だったことなど忘れた様子が窺える。
「あ゛あぁ~脚がぁ~……」
しかし一人、教卓前の席に倒れ着いた清水夏蓮は違った。あまりの疲弊で悩ましい顔が腕枕に収まり、普段はふんわりとしたショートボブも弾力を失っている。
「――かれ~ん!! おっはぁ~~!!」
すると倒れた夏蓮の目の前には、今日も朝練を乗り越えてやってきた中島咲が、広げた額を光らせながら現れた。
「お、あはよ~……」
「どうしたの夏蓮? 今日も元気ない感じ?」
「え、咲ちゃん……うぅ……助けて~」
「オ゛ワ゛ッ!!」
突如半べそをかいた夏蓮は立ち上がり、咲を抱きつき驚かせる。どうか自分を救ってほしいの想いに駆られながら。
よしよしと、頭一つ分高い咲に撫でられている夏蓮。その姿はまるで、泣き虫な妹を溌剌とした姉があやしているよう見えるが、今度は篠原柚月の訪れで夏蓮の潤んだ瞳が向かう。
「ゆ、柚月ちゃん……」
「フフ! 夏蓮、朝練お疲れ様!」
「あなたはどうしてそんなに楽しそうなの!?」
多くの男子を射止めてわ殺めてきた眩い笑顔の柚月に、夏蓮は咲の胸から離れず頬を膨らませていた。
「……二人とも、何かあったの?」
不思議そうに首を傾げた咲に、夏蓮はさらに抱きつき強度を増して仰ぎ見る。
「そのね、私たちソフト部も、朝練を始めたんだけどさ……」
創部にあれほど嬉しがっていたはずの夏蓮だが、ただ今の表情は一目瞭然の悲しげなものだった。
事の発端は正に今朝。
昨日入部届けまで出した月島叶恵の提案により、今日から朝練を始めることになった。確かに夏蓮は、やる気満ち溢れる叶恵に心から感動して受け入れたのだが、その朝練の内容は凄まじいものだった。
まず集合時間は、硬式野球部と同じ六時半。揃えば早速、広い校庭周りを十五周。休憩など設けないまま、足腰や体幹を鍛える叶恵直伝のサーキットメニュー、そしてキャッチボールへと続き終了かと思えたが、再び校庭周りを走らされるはめとなったのだ。しかも十五周。
怒号を挙げる叶恵に煽られながら、何とか朝練をやりこなそうと必死だった夏蓮。ちなみにマネージャーとして観察していた柚月は、終始愉快気に笑っていた。
昨日の練習による筋肉痛もあってか、夏蓮の両脚は既にボロボロだった。こうして抱きついてる咲に体重を乗せてしまうほど、直立している余力はほとんどない。
「そっか~。夏蓮たちも朝練か~。じゃあアタシらオソロだね!!」
「まぁ、そうなんだけどさ……」
女子バレーボール部として活動する咲が喜ばしい白い歯を放ったが、夏蓮は表情を晴らさないまま柚月に悲哀の目を投げる。
「フフ! 苦しむ夏蓮おもしろかった。助けて~助けて~って。ヘトヘトな顔も、かわいかったわよ?」
「柚月ちゃんのイジワル……」
これから先どうなるのか、果たして自分は生きていけるのかすら心配になってきた夏蓮。鬼軍曹とまで称したい叶恵も考えつつ、昔からドSを極めてきた柚月を睨んでしまった。しかし、ふと視界に見慣れない生徒の姿が入口から映り込み、瞬きをして瞳を広げる。
『あれ? 植本さんだ……』
不思議ながら見つめてしまった夏蓮の先には、カール付きの長い茶髪を左右に揺らす植本きららがいた。室内で誰かを探している仕草だとわかるが、どうも眉間の皺が鮮明に見える。
柚月も振り返ったところで夏蓮は咲から離れ、気になるきららの元へ向かう。
「……はっ! カレリーニャ!」
「植本さんお久しぶり。中学生のとき以来だね」
咲と柚月よりさらに高いきららに、“カレリーニャ”とアダ名で呼ばれた夏蓮。二人は中学生時同じ学校に通っていたため、御互い面識ある同士だ。このアダ名も初めて出会った中学二年生のときに付けられたもので、今さら驚くこともなかった。
しかし夏蓮は、階の異なる特別進学クラスのきららがなぜここに来たのかと疑問に染まっていた。もうじきホームルームが始まろうとしているのに、未だにスクールバッグを手に持っているだけに。
「カレリーニャ、唯はいないかにゃあ!?」
「え……貝塚さん?」
すると困惑した様子のきららに尋ねられ、夏蓮も二年二組内を見回す。しかし貝塚唯の立ち姿はもちろん、彼女の席にだってバッグが見当たらなかった。
「ん~……まだ来てないみたいだけど……」
「そんにゃあ、おかしいにゃあ」
「んま、マジッすか!?」
「うわっ! もう一人いたの?」
きららが肩を落とした刹那、彼女の背後からもう一人の笹浦二高生が焦る様子で現れた。側頭部から短めのツインテールを生やした少女は上履きの色から一年生だとわかるが、同じく戸惑いを放ち続けていた。
「唯先輩……」
「あの、あなたは?」
儚げに俯いた謎の少女に夏蓮は尋ねたが、顔を上げてもらえないまま告げられる。
「星川美鈴っす。唯先輩の舎弟っす」
「しゃ、舎弟?」
正直夏蓮は星川美鈴が口にした舎弟の意味を知らなく困ったが、どうやら唯を尊敬する一人の後輩であることが推察できた。
「……家に行ってもいなかったから、先に学校来てると思ったのに……」
『植本さん……』
“にゃあ”を失ったきららはさっきよりも悲壮な表情を浮かべ、今にも泣き出しそうに声を震わせていた。
「何か、嫌な予感がするっす……」
『星川さん……』
美鈴もきららのようにか細く呟き、険しい顔を続けていた。
「どうせ今日も遅刻なんじゃない?」
「そうだよ。貝塚さん滅多に間に合わないもん」
すると夏蓮と同じく柚月と咲も訪れ、二組の入口は五人の少女に占領される。
確かに、柚月と咲が言っていることに間違いはない。始業式だって遅刻気味だった唯であるだけに、二人の予想は決していい加減な思い付きだとは感じられなかった。第三者として、ごく一般的な観測である。
『――でも、やっぱりおかしいよ。貝塚さんだけ来ていないのは……』
「ねぇ、柚月ちゃん、咲ちゃん……」
二人を振り向かせた夏蓮は唯の机を見ながら、自身の予想を顕にする。
「たぶん、貝塚さんに何かあったんだよ」
「なんでそんなこと言えるのよ?」
「アタシも柚月に一票!」
やはり柚月と咲には不審目を向けられ、意見を受け入れてもらえなかった。が、それでも内気な夏蓮は首を振って否定する。
「私ね、貝塚さんと植本さんとは二年間同じクラスだったの。二人はいつも隣り合ってて、いっしょに学校を遅刻したり、いっしょに休んだりしてたんだよ。でも、今回は違う……」
心配した表情を止められないきららと美鈴を一目してから、夏蓮は柚月と咲に向かって放つ。
「――貝塚さんだけがいないのは、今まで見たことがないの……」
「「――っ!」」
夏蓮の持論には、柚月と咲も驚き固まった。夏蓮の言った通り、唯ときららがいつも二人いっしょにいるイメージが強かったからに違いない。
だとすれば一体、唯に何があったのだろうか?
夏蓮は小さな頭で考えてみたはいいものの、あまり関わったことがない相手だけに思い浮かばなかった。
心配という空気が増し、心の風船が割れそうだった。考えれば考えるだけ不安が募るばかりで、居ても立っても居られなってくる。
「……ちょっと、先生に言ってくる!」
もう我慢できないと、夏蓮はすぐに田村信次に知らせようと四人の輪から外れ廊下を駆ける。もうじきホームルーム開始と共に現れるのだろうが、今は一分一秒でも早く伝えたいと。
背後から四人に心配目を向けられながら、夏蓮は廊下の曲がり角を左折しようと駆けた、そのときだった。
――ドスンッ!!
「ワ゛ッ!!」
出会い頭、夏蓮は誰かとぶつかってしまう。疲弊していることを忘れていた脚も耐えられず、小さな身体が仰向けに倒れようとしていた。
――パシッ……。
しかし片手を強く引かれたことで、夏蓮は倒されず地に足を落ち着かせた。すると一人の親友の顔が目の前に現れ、思わず声を張る。
「あ、梓ちゃん!!」
「ゴメン夏蓮。大丈夫……?」
どうやら衝突した相手は、柚月や咲と同じく昔からの親友――舞園梓だったようだ。背を隠すほどの長い髪の毛を一つに束ね、静閑とした表情はいつも凛とした真剣さを感じさせる。
「ううん。私こそ、廊下走ったりしてゴメンね。痛かった?」
「問題ない。ところでどうしたの? 何か急ぎの用事?」
対して落ち着いた振る舞いを続ける梓だが、彼女の言葉で夏蓮はハッと思い出したように、背伸びして焦り顔をさらに近づける。
「そ、そうだ!! 今から田村先生のところに行かなきゃなんだよ!」
「田村先生? ついさっき会ったんだけど、学校から出てったよ」
「えッ!? なんで!?」
夏蓮は声を荒げてしまった。今から会いに向かおうとした信次が、先ほどどこかに出張したらしいからだ。朝練のときは何も言っていなかったのに、どうして突然外出したのかと、驚きだけに止まらず不思議な想いにすら満たされた。
梓には夏蓮だけでなく、二組入口から近づいてきた四人にも視線を向けられる。揃って不安な様子を放たれ、何がなんだかわからないように小首を傾げる。が、梓はただ一つ聞かれたこと、そしてたった一つわかっていることを、手を握りっぱなしだった夏蓮に教える。
「――大事な仕事行ってくるって、鞄も持たないで出てったけど……」
「し、仕事……?」
信次が梓に伝えた意味とはと、夏蓮は疑問の瞳色を彩った。教員にとっての仕事とは、教職だけではないのだろうか。ただでさえ多忙な勤務内容だというのに。
結局信次が向かった先など、梓を含めた六人の少女には検討が着かなかった。いつしかチャイムも鳴らされホームルーム開始が知らされるが、二組に入ろうとする教員も誰一人訪れない。
『先生、どこ行っちゃったのかな……?』
陰鬱な顔を下げながら思った夏蓮。もはやチャイムが鳴ったことすら耳に届いていないようだが、それは梓を抜いたきららや美鈴たち四人も同じだった。
六人は廊下で静かに立ち竦んでしまい、しばらく動かず沈黙していた。あれだけボロボロと言っていた夏蓮の脚も、今やしっかりと直立したまま。
◇本当に帰りたい場所◆
貝塚家。
土曜日の朝を迎えた貝塚家のリビングでは、本日仕事が休みである貝塚哲人が、ソファーでタバコを吹かしながらテレビを眺めていた。彼にとって室内で煙を撒くことは、ヤニで汚れた壁を見る限り普通の行いのようだ。女子高校二年生という、未成年な娘がいるというのに。
『……きらら、美鈴……せっかく、来てくれたのに……ゴメン……』
哲人と同じ屋根の下で暮らしている唯は今朝から、父親の傍でずっと寝転んでいた。制服のままうつ伏せになって床に長髪を広げているが、決して眠っている訳でない。
『……あ、そうだ……学校行くって、約束したんだっけ……』
動かず声も漏らさない唯は、昨夜信次との約束をふと思い出していた。明日は学校に行くと告げたのだが、十時を迎えた今でも家から出るつもりはなかった。
『へ、情けねぇ……約束も守れねぇなんて……オレって、サイテーだよな……』
自嘲気味に笑いそうになったが、それでも唯は音のない吐息を吐くだけに止まる。このままずっと寝転んでいたいだなど、毛頭考えてもいない。むしろこの場から離れたい気持ちのほうが増していた。
しかし起き上がる力、声を出す余力さえ残っていないのが現状だった。想いの言葉ですら片言になりかけ、意識が朦朧とする状態が続く。
床に向かって僅かに開けた瞳にはもちろん光など射さず、虚ろで覇気のない色に染まっていた。
『――わりぃな……田村……』
そう思いながら、ゆっくりと瞳を閉じようとした唯。しかしその刹那、貝塚家にはテレビ以外の音が流れる。
――ピーンポーン♪
貝塚家の中に、インターホンが鳴り響いたのだ。しかし父の哲人は鬱陶しい訪問販売だと感じたようで、テレビから視線を逸らさなかった。もちろん動けない唯もそのまま目を閉じ、親子揃って無視する体制となる。
――ピーンポーン♪
しかしインターホンは再び鳴らされ、哲人から出た舌打ち音が合の手の役割を果たす。
――ピーンポーン♪
次第に哲人の機嫌が悪くなっていることは、床に伏している意識遠退く唯にも伝わっていた。確かにしつこい訪問相手だ。
――ピーンポーン♪
――ピーンポーン♪
――ピーンポーン♪
――ピーンポーン♪
「っせぇなぁあ゛!!」
何度も繰り返されるインターホンに、ついに哲人はタバコを灰皿に押し付け、怒りを顕にしながら玄関へと向かい始める。相手にど突き掛かろうとせんばかりに、足音すら荒々しかった。
『……誰、なんだ……?』
一人取り残された唯にも、ガチャッと扉が開いた音が聞こえる。するとすぐに哲人から驚く声が耳へ送られ、また瞬時に急ぎ革靴音が室内にまで訪れる。
「貝塚ッ!!」
『……あれ……? この声、もしかして……』
閉じていた唯の瞳が、自宅扉と同じく再開する。男声でありながら少年のように甲高い叫び。落ち着きなんて全く感じさせない、喧しいほどに煩い雑音の様。
やはり身体が動かせないままの唯だが、すると肩を強く捕まれ、寝返りを打つかのように仰向けに促される。
「貝塚!! 大丈夫かッ!?」
先ほど何度も鳴らされたインターホンより、何倍もの音量で繰り出す、目前の若々しい男。もうじき三十路と言っている割には、この前高校卒業した青年にも窺える童顔。
唯はそんな男の膝に背を乗り目が合わされたが、やはりお前かと言わんばかりに、弱々しい呆れ笑いで受け答えする。
「――さすがに七回はしつけぇだろ、田村……」
唯が僅かに微笑みを向けた相手は、突如学校を投げ出してきた信次だった。とんでもない光景が映りこんだ様子で、印象深い笑顔などどこにも見当たらない。
「病院だ!! まずは病院に行こう!!」
見たことがない極度の心配を放つの信次に、唯は何も考えず見つめてしまった。しかし瞳は未だに温度が無く、突発的に変わった目の前の現実に溶けきれていない。
「……田村……学校は?」
「話は後だ! すぐに行くよ!!」
意思を貫く担任に返す言葉がなかった唯。ただ黙りながら身を任せ、お姫様抱っこへ移行されそうになる。
しかし突如視界に入った信次の背後の光景に、唯は細めていた瞳を見開き声を鳴らす。
「田村!! あぶ……」
――バゴッ!!
「――ッ!!」
唯の叫びは遅く、呻き声を漏らした信次は同じように倒れてしまった。
信次の頭部に目掛けて飛んできたのは、鈍い音を鳴らした金属バット。それを握っていたのは、依然として眉を立てたもう一人の男――貝塚哲人だったのだ。
「テンメェ……土足で上がりやがって……」
鬼の形相を続ける哲人に、見下されながら倒れている信次。気を失ってしまったかのようにビクともせず、唯を心の底から震い立たせる。
「な……何してんだよ親父!」
脚は折れたままだが、起き上がった唯は信次の肩を揺すりながら父を見上げた。しかし哲人の表情は変わらず、不適な笑みまで浮かべられてしまう。
「立派な不法進入だ。この、クソ教師が……」
「だ、だからって、バットで殴らなくても……しかも頭に!」
「フッ、正当防衛ってやつだ。犯罪者を殴って、な~にが悪い?」
反省の立ち姿など皆目見当たらない。
もはや恐怖そのものの存在だと感じた唯は全身を震わせ、声も滞ってしまう。
『どうしよう? マジでやべぇよ……』
息を引き取ってしまったかまで思わせる信次の背を観察しながら、唯はさらに戸惑う眉をひそめる。
一体どうしたら良いのだろうか、今のボロボロな自分にできることはあるのだろうかと、テレビから聞こえるバラエティームードとは裏腹に、考えに考えを重ね続けていた。が、気が焦るばかりで考えなど思い当たらない。ついには目の前の現実から逃げ出すように、瞳をを強く閉じてしまった、そのときだった。
「――いい……スイングですね……」
「――っ! 田村……」
信次の声に反応した唯には、彼の背広が動き出した瞬間を捉える。両手と両膝を着きながらゆっくりと起き上がり、ついには立ち上がる姿にまで変化していた。
「田村……血が……」
額から鮮明な赤色が伝っていることが、唯には確かに見えていた。しかし信次は命を投げ出すように、バットを持つ哲人の前に立ち塞がる。
「な、なんだよ……?」
怒りと驚きが入り交じった哲人だが、信次は一歩も退く姿を放たず、背が高い相手に顎を引いて睨む。
「……あなたは、こんなにも強いスイングを、貝塚に日々当てていたんですね?」
「だ、だったらなんだよ!!」
逆ギレの如く、哲人の怒号が信次にぶち当たる。
「生活も堕落で、言うことも聞けない。そんなできの悪い人間に必要なのは躾だ! 問題児で頭抱える教師のテメェだって、そう思ってんだろうがッ!!」
「それが、あなたの理由ですか?」
「ア゛ァ!?」
平行線を辿る、二人の大人たちが抱く考えと感情。一方的にも窺える展開ではあるが、信次は臆するなく顎を突き出す。
「――だったら先生であるボクは、あなたを許す訳にはいかない!!」
「う……うるせぇ!!」
――ドガッ!!
「うっ!!」
すると信次は再び、哲人から猛威のスイングを脇腹に受け跪く。しかしそれだけで済まされず、横蹴りを何度も当てられ、悶え声を吐き繰り返す。
――ドガッ!! ズガッ!! バシッ!!
「う……どうして!? どうしてこんなことをする!?」
――ズガッ!!
今度は信次の溝内が襲われる。しかし男は倒れることなく持ち堪え、反って起立して挑み続ける。
「どうして!! 実の子にこんなことをする!?」
――バシッ!!
「どうして! 愛無き鞭を振るんだ!?」
――ドゥフッ!!
「どうして、親が子を愛さない!?」
――ボゴッ!!
「ど、どうして、愛するべき家族を愛さない……?」
――ドスッ!!
「うぅ……どうして……善い子だって、わからないんだ……」
耐え続けた信次ではあったが、ついに護るべき生徒の前で蹲ってしまう。脇腹を押さえながら苦む顔色からは、もはや教職の柵を越えた任務何物でもなく、ひたすらに唯の表情を悲哀で満たすだけだった。
「田村!」
「はぁ、はぁ……うちの唯はクズだ。クズはクズらしく、大人の言うことを聞いてればいいんだよ。それができてねぇんだから、コイツが善い子な訳があるかよ……?」
――ズガッ!!
「グフッ……」
「た、田村……」
そして、息を荒くした哲人は止めの膝蹴りを、信次の顔面へヒットさせ沈黙させる。
防戦一方否めない攻防は終わりを告げた。
見たくもなかった唯はそう思いながら、ハの字な瞳を潤ませていた。が、男は決して平伏す姿を現さず、呼吸と共に喉を鳴らす。
「……奴隷と、同じだ……」
「はぁ……?」
「貝塚は、奴隷と同じだ……」
「んだと……?」
あまりの苦しさに、信次は立ち上がることができなかった。しかし担任としての想いは顕在で、心の叫びを紡ぐ。
「貝塚は、このことを誰にも話さず、親友にすら明かそうとしなかった。それがどういう意味か、あなたにはわかりますか……?」
頭上から哲人の強く睨む姿に対抗するように、信次の魂は背後の唯にも谺させる。
「――貝塚は……あなたを世間から護っていたんですよ……?」
「……はぁ?」
「たむ、ら……」
哲人は冷徹さを貫いたが、唯の瞳には温度が灯しだしていた。すると信次は丸めていた身体を起こし、今度はしゃがみながら胸を張ってみせる。
「このことが公になったら、家族が崩壊するだけじゃなく、父親のあなたは警察行きになってしまう。そう思った貝塚は誰にも言わず、ただ一人で真実を隠そうとした。そんな貝塚を……そんな守護してくれてた娘を! あなたは傷つけてたんですよ?」
「て、テメェ……」
ようやく現実が見えてきた父だったが、再び信次にバットの芯を向けようとした。
『止めてくれ……』
纏ったスーツすら開けている信次を見つめながら、唯は背後で思った。今度こそ、本当に命が危険だと。
しかし哲人は両手で握ったバットを振りかぶり、迷いなく振り掛かろうとしていた。
「――もう止めてくれ゛ぇ!!」
突発的起こった少女の叫びで、信次と哲人の睨み合いが休戦した。すると、動くことすらままならなかった唯は立ち上がり、二人の男の間に割って入る。
バッと両腕を広げ、背後の者を庇うように立ち臨んだ唯。勢いで制服袖のファスナーが解け、顔以外見せてこなかった素肌を公開させ俯く。
「貝塚……?」
「唯……フフッ」
哲人が掲げるバット先は床に下ろされるが、信次は先ほどよりも驚きを隠せず見上げていた。それは、唯の放った両腕から数々の内出血や蚯蚓脹れの痛々しい姿を見せられたから――ではない。
――なぜなら唯が背を向けた相手は、父の貝塚哲人だったからである。
「貝塚、どうし……」
「……ってくれ……」
「え……?」
儚げな小声で信次の言葉尻を被せた唯。そして次の瞬間、正面の担任に涙目でクシャクシャな素顔を見せる。
「――もう帰ってくれ゛ッ!!」
それは、唯が信次に放った驚愕の一言だった。言い間違いではなく、長年犯罪行為を続けてきた父を守護してきた者としての、唯一無二の叫びだったのだ。




