五球目③(貝塚)唯→田村信次パート「実は、オレの家にはさ……」
◇キャスト◆
(貝塚)唯
田村信次
貝塚哲人
牛島恵
笹浦市内のとある住宅街。辺りは僅かな街灯と、各家庭から溢れ出る明かりのみが暗路を照らし、歩き慣れていなければ迷子になりそうなほど見づらい夜道だ。
そんな闇の道中、一年生の星川美鈴、二年生の植本きららを無事に帰した二人――貝塚唯と田村信次が、残る貝塚家を目指し進んでいた。目的地を知らない担任が、自宅へ向かう女子生徒の後ろを見送る形となっており、二人は隣り合うことなく互いの異なる革靴音を響かせている。
『チッ、家ぐらい一人で帰れるっつうの……』
背後に信次がいることに、唯は苛立ちを横柄な歩き方で表していた。ストーカーの如く付きまとう男のことなど未だに信用していないだけに、振り向きたくもない胸中で早足に切り替える。
「……それにしても、どうしてゲームセンターになんて行ったの? 学校休んだのも良くないけど、あんなところにずっといるなんて危ないじゃないか」
すると信次が話を切り出し、ここまでずっと沈黙していた唯は反って、ほんの少しだけ距離を縮められる。
「……家にいたくなかったから」
「そうか……ゴメンね」
「はぁ?」
話の展開など予想させない信次の突発的な謝罪に、前を歩く唯は思わず振り返って速度を落とす。自分自身の行いが悪いことぐらいわかっている分、余計に謝る意図が理解できず見つめてしまった。
「ボクは貝塚の担任でありながら、貝塚の気持ちを全くわかっていなかった。だから、本当に申し訳ない」
「んや、止やめろよバカ! みっともねぇ……」
今度は信次から突如頭を下げられ、唯はついに歩みを止めて踵まで返す。周りを気にしながら頬を赤く染め、慣れない場面に躊躇いを抱いてしまう。
『なんなんだよ!? 頭下げた担任なんて、初めて見たぞ……?』
「これは僕の力不足のせいだ! だから本当に申し訳ないと思ってる」
しかし唯の想いとは真逆に、信次からは謝罪を続けられた。もはや見ていられないと背を向け、置いていくように帰路の歩みを再開する。
「……ぅっせぇよバカ……いつまで頭下げてんだよ? もう行くぞ……」
上擦り震えた声で囁いた唯が進むと、信次もすぐに元の体勢で歩き始める。
「…………ッ!! なんだよ!? 隣に来んなッ!!」
「そうそう。実はボク、女子ソフトボール部の顧問を任されたんだよ」
「オレの意見ガン無視かよ!?」
すぐ隣に訪れソフト部の話題を持ち込んだ担任に、唯は不審目で睨みつけた。しかし信次の嬉しそうな笑顔を直視したことに辛さを感じ、すぐに視線を足下へ落とす。
「……だったらなんで、顧問なんて受け入れたんだよ?」
正直ソフトボールや部活動への興味など皆無な唯。中学生時から部活動など経験したこともなく、自分としては全く関係ない内容だった。が、仕方なくも信次の話に乗ることにしたのだ。どうせこちらの話など聞き入れてくれない、身勝手な男なのだろうと思いながら。
「清水に頼まれたからだよ」
「清水にって、それだけで……?」
「もちろん!」
顔見知りな清水夏蓮を思い浮かべた唯は不意に驚かされ、次第に表情の固さが取れていく表情を向ける。
「な、なんでそんな無茶できんだよ? 確かに清水はいいヤツに違いねぇけどさ……」
「そうだね……清水はホントに良い娘だ。本気でやりたい! って言う生徒を応援したい。やっぱりそれが理由だね」
「た、たったそれだけで?」
「もちろん! ボクにとって大きな理由だよ」
「……フッ。お前、どんだけお人好しなんだよ……っ!」
すると唯は無意識に足を止め、見開いた瞳で新担任の背中を覗く。少し前に進んだ信次からも微笑みと共に振り向かれ目が合ってしまうが、今度は視線を逸らさない時間が継続した。いつしか拳から解かれた右手の指先を頬骨に置き、ふと吹き付けた春の夜風にロングヘアーを靡かせる。
『――オレ今、田村の前で普通に、笑っちった……』
今夜の暖かい春風は、唯の内なる心まで届いていた。
決して嘲笑ったものではない。ましてや作り笑いでもなかった。
ただ単に、おもしろおかしく感じたから笑っただけだ。大嫌いで忌み嫌う大人に向かって、ごく普通の笑みを浮かべた他ない。
――たったそれだけが、唯にとっては大きな変化だったのだ。
初めて大人という存在に、ずっと閉ざしてきた心の扉が、僅かにも開きかかった瞬間 否めなかった。
「ねぇ貝塚?」
「な、なんだよ……?」
信次の優しさ込められた質問に、唯は我を取り戻したかのように早口で返す。
「ボクは君の担任として、貝塚のことをもっと知りたい。だからボクにできることがあったら、遠慮なく言ってほしいんだ。内容は何でも良い。悩み事でも、何でもね……」
「なんだよ……告白みてぇに言うなよ、バカ……」
再び赤くなった唯は信次に背を向け、長身ながら少女の想いを奥底に隠す。
優しい言葉だったはずなのに、変に胸をきつく締め付けられた。
決して異性として捉えたつもりはなかったが、こんな想いをした覚えはもちろん無かった。まして相手が大人となったら、もはや言うまでもない。
意味も理由も皆無で、ただすがりたくなるような、いい加減でアホくさい気持ち。
そんなもどかしい胸の内を、唯はどう処理したら良いか知らなかった。だからこそ静かに、笑顔で待ち続ける信次を上目遣いで覗き込む。
『――田村のことだけは、信じていいのかもしれない……』
「……なぁ、田村?」
「ん? どうした?」
初めて苗字で呼んでみた唯だが、表情を変えない信次の更なる優しい問いかけで面が伏せる。頬の熱もより高くなり、見せられたものではない。
「……いや、そのさ……と、とりあえず、明日は学校行くよ……や、約束する」
「ホントか~!? そりゃあ良かったよ!! 首を長くして待ってるね!!」
万歳までした信次の喜び溢れる大きな声は、唯の声と比べ物にならないほど辺りに響く。子どもが大好きな玩具を買ってもらったときのように、無邪気そのままのはにかみで。
「……それとさ……聞いてほしいことが、あるんだ……」
「ふぇい?」
信次の微笑みが維持されたまま、唯はやっと顔を上げる。勇気を胸に抱き、覚悟を表情に出しながら、公表などしたくなかった想いを信次に打ち明けようと口を開ける。
「実は、オレの家にはさ……」
あと一言。たったあと一言で伝えられると、唯は強張った口先で続けようと息を着いた、そのときだった。
「――唯? 何やってるんだ?」
「――ッ!!」
突如背後から鳴らされた男声に、唯は凍り付いたように息を飲んでしまう。振り返らなくてもわかるほど、聞き慣れた男の声。もちろん少年染みた高めな信次のものではない、低く太い対照的な男の音だった。
『お、親父だ……』
声を漏らさずゆっくり背後を向いた唯の先には、一人のスーツ男性が直立していた。信次を越える長身の持ち主で、眼鏡に被さった鋭い瞳はそっくりな親子似だ。髭も見当たらず若々しい男前の風貌で、スッキリとした短髪からは立派な社会人とさえ窺える。
「……ん? 唯、その人は?」
すると唯の父は正面を向いた信次へ視線を飛ばし、キリッとした表情のまま首を傾げる。
「あっ申し遅れました! ボクは田村信次と言いまして、貝塚唯さんの担任です!!」
「……これはこれは初めまして。いつも娘が御世話になってます。自分は貝塚哲人と申しまして、今仕事場から帰ってきたところです。ところで、どうしてこんな時間まで唯といっしょに?」
名を告げた父親――貝塚哲人の目が腕時計から娘の唯へ向かう。
『な、なんで、このタイミングで親父が……』
唯の全身は鮮明なまでに震えていた。両拳を型どり、強張る口元まで振動させ、力みで肩が上がっている。
「いや~そのですね。本日欠席だった唯さんが……」
「バカッ!! 言うなァ!!」
「へ……?」
緊張で張り上がった声で、信次の言葉尻を無理強いに被せた唯。しかし背後の貝塚哲人からは不適な笑みを浮かべられ、肩に手を置かれて身の毛が弥立つ。
「そうですか。今日、コイツは学校に行ってないんですね」
「――ッ!!」
唯の肩がさらに上がる。冷や汗まで額に現れ始め、振動棒と化した黒タイツの両足など動かせたものではなかった。
「では先生、今日は御迷惑をお掛けし、たいへん失礼してました」
「いえいえ! 何よりも唯さんが無事で……」
「……唯、行くぞ?」
「は、はい……」
一礼を向けた信次の言葉尻を被せた哲人に、唯は震える肩に手で捕まれながら進み出す。小刻みな歩幅だったが父親の押す力にも負けてしまい、次第に速さが増すと共に担任から離れていった。
『た、田村……』
背後を覗いた唯には、遠くの外灯下で信次が手を振っている姿が映った。スーツを纏った年齢近しい男子にも窺えるほど、裏を感じさせない笑顔が灯っていた。
『悩み事、言えなかった……』
しかし唯は、初めて信じていいのかもしれないと感じた大人に、終始覚束無い目を向けてしまった。一番の悩みを告白しようとしたのに、告げられなかった後悔に駆られながら。
角を曲がったところでついに信次の姿が消え、少し歩いた二軒目のところに貝塚家の表札が掲げられていた。真っ暗な自宅を見る限り、貝塚家は父と娘の父子家庭だとわかる。
強張ったままの唯は鍵で開けた哲人が入ってから、静かに自宅へ進入する。顔を上げられず俯くばかりで、不自然にも金属バットが寝転んだ玄関でしばらく立ち竦んでいた。
「何時だと思ってる?」
先に上がってスーツを脱いだ哲人は囁き、ワイシャツボタンの上二段を解く。玄関からも見えるリビング壁の丸時計はもうじき二十時を跨ごうとしていた。
「ご、ゴメン、なさい……」
「晩飯は? 作っとけって、朝に言ったよな?」
「ま、まだです……」
「そうか……わかった。早く上がれ」
「は、はい……」
指示された唯は足元の金属バットを見つめながら、革靴を脱いで床上に乗る。小さな歩幅で足音を経てずリビングまで進むが、ふと哲人が横を通り過ぎたところで再び背筋に冷えが差し込む。
「わかってるよな? お前が悪いって」
「は、はい……」
背後から哲人の低い男声に怯えるように、唯は目をギュッと瞑って固まる。こうなることは幼少期から続く日常茶飯事なのだが、どうしても慣れない状況に震えが止まなかった。
『誰かっ……』
想いの声すら振動させてしまう唯。どうしてあのとき、もっと早く言えなかったのだろうかと、信次が笑顔で待つ姿を浮かべながら後悔していた。
『お願いだ。お願いだから……』
あと一言だったのに。率直に伝えればたった四文字で済む話なのにと悔しさの拳を固めながら、唯はずっと抱いてきた心を、脳裏に浮かぶ信次に叫ぶ。
『――たすけて……』
――バゴッ!!
「ヴゥッ!!……」
突如貝塚家の中から、鈍い金属音が鳴らされた。だがそれは一度だけに止まらず何度も放たれ、呻き声を漏らす唯と不協和音を演奏し続けた。
◇◆
笹浦第二高等学校職員室。
夜の八時を越えた校内に生徒はもちろん、教員さえ皆無で消灯された廊下が拡がっていた。しかしたった一人残る信次は職員室で事務用電話を握りながら話している。
「……はい。その物件でお願い致します。明日には入居したいので、鍵は早朝に取りに向かいます」
不動産相手と連絡している信次だが、表情は真剣さながらで、新生活の楽しみなど全く抱いていない。
「……はい。入居者は先日御伝えした二名で……はい。では失礼致します」
電話口を離して淡々と終わらせた信次。しかし安堵のため息すら放たず、早急に机上の笹浦市電話番号帳を手に取り開く。
『ありがと、植本。君のおかげで、ボクの予想は確信に変わったよ』
次なる相手先の番号を探す信次は、本日きらら耳元で伝えられた一言を再生しながら目を凝らしていた。唯には聞こえないように、手で覆いながら告げてくれた親友としての想いを。
“「――私の大切な親友を、どうか救ってあげてください」”
まるで別人だった。普段語尾に“にゃあ”を着ける、おちゃらけた植本きららを思わせない一言以外何物でもない。
しかしその分だけきららの想いの強さが感じ取れ、学校に戻った信次はこうして迅速な行動ができている。
先生は、生徒のために。
教員としてごく当たり前な気持ちを秘めながら、信次は覚悟の吐息を一拍入れる。
『――よしっ! 明日は、大仕事になりそうだ!』
すると信次は番号を見つけ出し、電話ボタンを一つ一つ確認しがら押していく。もちろん今度の相手は異なるが、表情の変化は起こらなかった。
「……こんばんは、田村信次です。夜分遅くに失礼致します」
大人として礼儀をしかと備えながら、信次は眉を立てたまま相手主へ紡ぐ。
「――牛島恵さんですよね? 以前の話、明日になりました」
その相手は、信次が苦手とする大人の女性だった。しかし言葉が詰まることなく話が続き、明日の予定を事細かに話し合う時間が訪れた。




