四球目 ④月島叶恵パート 「輝いて、叶う……」
◇キャスト◆
月島叶恵
田村信次
宙継希望未
笹浦二高二年六組。
もうじき三時間目を迎える頃だが、十分休み中のクラスはまだまだ騒がしい。男女問わず友だちと話し合い笑い合う姿は晴々しく、どことなく本日の空のように彩っていた。
大した会話などもちろんされず、高校生ながら建設的な内容は不透明だ。しかしこの十分間という僅かの空き時間こそ、苦しい勉学に励む学生諸君らにとっては大きな至福の時のようだ。
ただ一人――月島叶恵を除いて。
『次は、田村か……』
ため息のみを鳴らした叶恵は自席で頬杖を着き、三時間目の急遽数学と振り替えになった現代文授業に嫌悪感を抱いていた。
担当は今年から現れた新任教諭の田村信次。新人ということもあって、彼の授業が将来の受験にちゃんと役立つかの懸念もしているが、何よりも現在、笹浦二高女子ソフトボール部の責任者のイメージの方が叶恵には強く、あまり関わりたくない教諭の存在でもあった。
『彩音ちゃん、なんで授業の振り替えなんてしたんだろ? 今日までに宿題やってきてって、言ってたくせに……』
思い返せば今日、叶恵はまだ担任の如月彩音と一言も会話をしていなかった。出席のときに名を呼ばれ目を合わせたくらいで、以降の交わりが皆無のまま今に至る。
今回の急な振り替え授業に、何か彩音に意図があるのだろうか。だとしたら、それは一体何なのか。
誰もいない教員用事務机を見つめながら、たった一人で悩む叶恵。瞳の温度は昨晩から冷えたままで、普段お喋りな口も横の線が続いていた。
――キーンコーンカーンコーン♪
「やぁ! こんちは!!」
すると三時間目開始のチャイムが鳴った直後、信次が勢いよく扉を開けて現れる。時間を忘れるほど楽しんでいた生徒らも早速駆け回って席に着くと、少年のようにハキハキとした開始挨拶が済まされる。
「ヨシッ!! 今日の三時間目は、ボクと如月先生の都合で振り替えさせてもらったんだ! 急だから用意はしていないと思うから、今回の現代文は刷ってきたプリントを読んでいこうと思う! ちなみに、これはテストに出す予定は無いから、興味が無ければ他の教科の自習をしてても結構だよ!」
だったらなぜ振り替えなどしたのだろうかと、明るい光を放つ信次を睨む叶恵は思っていた。一コマを大切にする多忙な理系数学の時間をわざわざ割いてまで行う授業なのかと。
信次と彩音の考えが理解不能なまま、プリントは前席から配られ、叶恵の小さな手にも渡る。数枚の束となったプリントの内容はどうやら短編小説のようだ。しかし作者の名前がどこにも記載されておらず、パッと見ただけですぐ誤字を見つけられる、どこか不思議めいた作品に感じられた。
「ではでは! まずはボクが読んでいくね!」
プリントが全生徒に渡ると、信次の大きな音読が始まる。ときどき突っ掛かりながらも、ゆっくりと心を込めて読み進んでいった。
やはり理系クラスの多くの生徒たちは自習しようと、空かさず机の中から他教科の問題集を取り出す。しかし叶恵は動こうとせず、ただじっと手に握る短編小説のタイトルに目を置いていた。
『なによ、これ……』
それは叶恵が小説好きだからではない。むしろ勉強など嫌いで、問題集ではなくスマートフォンを取り出したいくらいだった。
『“正しい夢の叶え方”……なのにこれ、小説なの?』
しかし叶恵はこの題名に惹かれ、つい信次の読み上げる字を追っていた。まるで評論文 否めないタイトルだが、無意識に内容を頭へ取り入れていく。
――正しい夢の叶え方――
本文の内容は、ある女主人公がアイドルになるという物語。
幼い頃から独りよがりな考えを持つ主人公は、レッスンに集まる周りの人間とはあまり接することなく、ただ直向きに己の夢のために努力を続けていた。美容はもちろん、まずは試聴者を魅了させてやろうと発声練習から始まり、自身で“歌ってみた”の動画をネットに挙げたり、慣れていくとオリジナル曲までネットに公開していく。
喉の痛みや中耳炎など多くの困難と衝突するとこととなったが、成人を迎えた主人公にはついに夢を叶える瞬間が訪れたのだ。諦めず努力してきた甲斐があったと、ショッピングモール初ライブの前夜はドキドキで眠れないほど興奮していた。
しかし次の日、歌手としていざ舞台に上がると、目の前にいたのは一度も会ったことがない人ばかり。それも頭数は少なく、とりあえず聴いてやろうと言わんばかりの冷たい表情のみを向けられた。
応援の一声だって飛ばされない。相槌だって微動だに示されなかった。
完全アウェイの空気にも苦しめられ、やがて主人公は思ってしまう。
『もうやだよ……私が想像していたのは、こんなんじゃない!』
こうして何とか辛い初ライブを終えた、独りよがりの女主人公。しかし彼女は予想していなかった夢を諦めてしまい、以降は二度と人前で歌うことはなかった。また諦める際だって、友も仲間もいない彼女を止める者は一人もおらず、夢と共に彼女の尊い想いまでもこの世から消えてしまうのだった。
「……さて、ではこの話で作者は何を伝えたかったのか、考えてみよう!」
読み終えた信次は筆者の意図をまとめようと、数少ない読者生徒たちに呼び掛ける。
『どうせみんな自習中よ。アンタの話を聴いてた人なんて……っ!』
しかし叶恵は飛び込んできた視界に目を見開いた。なぜならすぐの前席に座る友だち――宙継希望未が挙手していたからである。
『希望未!? アンタ……やっぱ、聴いてたんだ……』
彼女をよく知る叶恵は、なぜ希望未が今回の小説を聴いてたいたのか、何となく感じ取っていた。それは生徒会役員という、優秀な学生としての責任感の現れとはまた違う。
『――私はソフトボーラー。希望未はシンガーソングライターだもんね……』
親友の叶恵だけが知る、希望未が叶えたい夢。
希望未だって、以前から大きな夢を抱いている一人の少女なのだ。ただし皮肉にも、今回の小説と酷似した夢だが……。
「よしっ! じゃあ宙継!!」
「はい……」
叶恵が華奢な後ろ姿を見守りながら、呼ばれた希望未は彼女なりに考えた作者の意図を信次に放つ。
「主人公は、最後まで一人で夢を追い続けました。確かに夢は叶ったのかもしれませんが、夢に対する儚さを……筆者は、伝えようとしたんだと思います」
「すばらしい!! ありがとう宙継!!」
希望未はどこか辛そうに俯きながら終えたが、反って信次からは満面の笑みを向けられていた。
『夢に対する儚さ、か……』
希望未の発表が終わると、叶恵はもう一度本文に目を通し、作品上の主人公に感情移入を始める。自分と幾ばくかの共通点さえ見当たる、独りよがりな女主人公。所々の誤字脱字がさらに目に飛び込んでくる本文だが、似た者同士として主人公の想いがよく伝わってくる。最終的には同情心すら生まれてくるほど、物語に溶け込んでしまった。
叶恵の表情に大きな暗雲が立ち込め始めるが、ふと信次は教卓に手を乗せ、前傾姿勢のまま微笑みを見せる。
「確かに主人公は、自分が思っていた夢を叶えられなかった。でもボクは、この作品で言いたかったことは、もう一歩先のことだと思うんだ!」
すると信次は背を向け、白のチョークを一本握って板書を開始した。彼の背に隠れないほどの大きな字を書いているようだが、再び叶恵らに振り向いたときには、黒板に大きく記された“儚”の一文字を注目させる。
「人の意味をもつニンベンと、素敵な意味を抱く夢を足して、儚い。じゃあなぜ儚いのか? 誰かわかるかな?」
もはやバッドエンドの結果すら漂わせる信次の一声に、叶恵はついに目を向けることも止めてしまう。
夢なんて追わない方が幸せ。たとえ叶ったとしても、自分が想像していたものと異なる。
そう告げられたような気がし、不可視的な肩の荷が重かったからだ。
叶恵だけでなく希望未も下を向き、教室の生徒たちは誰も挙手せず沈黙が続く。信次も、やっぱり難しいよね! と苦笑いを示していたが、すると今度は赤のチョークに持ち換え、“儚”のニンベン部分を丸で囲む。
「……なぜならね、ニンベンが一つだけだから……つまり、一人だからなんだ。一人が夢と共にあることは、いつも儚い結果になってしまうんだよ」
「あ、あの先生? 要するに、どういう意味なんですか?」
再び希望未が弱々しい問いを投げたが、信次は静かにはにかみ、人差し指を立てる。
「要するに!! 夢は一人で叶えようとするものではない! 一人じゃなくて、周りの人々との支えや協力があるからこそ、真の夢は、輝いて叶うものなんだ」
「輝いて、叶う……」
発言を確かに受け止めた叶恵も思わず音にして、信次の紡ぐ言葉を待つ。
「だからこの作品では、人々の支えを大切にしなさい、決して独りよがりにはならないでねって、筆者は言ってるんだよ」
「――っ!」
すると断言した信次に、叶恵はさらに前のめりになりながら本文を眺める。
理系の生徒でもわかるくらい、文学小説らしからぬ短文ばかりの文体。女主人公の多く起こされた会話だって、どこか荒々しくて女性っぽくない様子が受け取れる。
そして何よりも、最近見覚えのある誤字――歓びの“歓”が“観”になっているミスが印象的だった。
『まさか、これ……』
驚きで声も出せなかった叶恵はそのまま顔を上げ、微笑む信次と改めて目を交わす。
『――アンタが書いたの!? しかも、この授業のためだけに!?』
作者不詳となっている物語――夢の叶え方。テストにできるほど長い文章でもなく、聴いたこともないタイトル。
しかし昨日、歓迎の“歓”と“観”を間違えていた勧誘チラシを受け取った叶恵は、この作者が信次だとしか考えられなかった。だからこそさっき、作者の意図を断言したに違いない。きっと昨晩、急いで執筆したのだろう。
「だから、ボクはね……」
すると信次は叶恵と目を合わせたまま、優しく穏やかなトーンで語る。まるで、一人大きな夢を抱く叶恵だけに伝えるように。
「――夢を持つ生徒たちが一人にならないよう、全力で協力し応援したい。たとえ身が砕けようとも、何をされたとしても、偽善者だと思われても、ボクは君たち生徒を、輝ける未来に導きたいんだ」
「……」
言葉も出せず心も呟かず、ただ茫然と信次を見上げる叶恵。もしかしたらこの授業は、自分のために振り替えられたことすら感じしまうほど入り込んでいた。
――キーンコーンカーンコーン♪
「よしっ! じゃあ今日はここまで! みんなお疲れさま!!」
日直の号令を終えると、信次はすぐに教室から出ていき失せる。物語の話を聞いていたなかった生徒間ではざわつきが起こり、室内は騒がしい昼休みが代わりに訪れる。
「……ち、ちょっと待って!」
しかし、最後にどうしても聞きたいことが頭に浮かんだ叶恵も退出し、信次の後ろ姿を走って追っていく。
「ねぇ! 待ってってば!!」
「ん? どうした月島?」
静かな廊下道、笑顔で振り向いた信次の前に叶恵は立ち止まり、着席していたときよりも顎を上げて窺う。
「あのさ……たくさんの人に協力してもらったら、夢は叶うの?」
「……ん~ん。どうだろうね~。夢を叶えること自体は、本人の努力次第だからね」
腕組みを始めた信次からは悩ましい眉間を放たれてしまう。が、すぐに彼らしい暖かな微笑みへ移り変わり、叶恵の瞳に温度を分け与えられる。
「――でも、“イイ夢”になるのは確かだよ」
「イイ、夢……」
ニンベンが複数になれば、それは良き夢になる。漢字の足し算という、何とも数学―小学生レベルの算数だが―らしい計算込みの理屈だった。
イイ夢――きっとそれは信次にとって、輝ける真の夢の類義語なのだろう。
小説本文の女主人公だけでなく、信次の気持ちまで伝わった叶恵はツインテールも揺らさず、ただじっと立ち竦み眺めていた。
「ねぇ、月島?」
ふと膝を畳んだ信次から目線を合わされるが、叶恵は決して後退りなどしなかった。正面でしっかりと受け止めるように、彼の煌めく瞳を焼き付ける。
「ボクはもちろん、清水や篠原だって、君を待ってる。だから応援してるよ、ボクらも、君の夢を」
「も? ……そっか、アンタも、ね……」
強調した“も”の一文字に察しが着いた叶恵は、初めて信次の前で頬を緩ませた。自分を応援しているのは、彼ら笹二ソフト部だけではない。親友の希望未だって揺るぎない一人だ。しかし一番はやはり、今回この授業を公開へと導いた、彼女に違いない。
『――彩音ちゃんってば、なかなかおもしろいこと考えるじゃない』
「んじゃ、また後でね!」
「待って!」
信次が去ろうとした刹那、叶恵は一年前によく見せていた瞳で面を上げる。
「私も、職員室に行くわ」
「月島……よしっ! 行こう!!」
自信に満ちた強気の面構えで語り、叶恵は笑顔の信次の前を歩いて職員室へ向かい出す。理由はもちろん、担任の彩音に想いを伝えるために。




