43話 ④鮫津愛華パート「翔子の、夢……」
「――鮫津、愛華ちゃん!」
釘裂高校入学式初日、愛華は隣の席から立ち上がった一人の少女に呼ばれ振り向く。いきなりの“ちゃん”付けに冷たい視線を送ってしまったが、遥かに背の低く眼鏡を掛けた彼女からは、キラキラと輝く瞳を見せられた。
「な、なに……?」
朝の出欠確認が終わった今、生徒の名前など覚える気がなかった愛華には、まだ彼女の名前を知らない。その分だけ挙動不審気に声を鳴らした訳だが、少女は気にしていない様子どころか、眩しい笑顔を解き放つ。
「わたし、内海翔子! 友だちとして、よろしくね! 愛華ちゃん!!」
「あ、あぁ……」
中学二年の後半からは不登校気味だった愛華にとって、下の名前で呼ばれることは慣れていない。久しぶりに生徒から、むしろ家族以外の他人から声を掛けられた気がし、ふと目が泳いでしまう。
同じクラスとなった少女――内海翔子との出会いをきっかけに、愛華の高校生活がスタートしたのだった。
「ねぇ愛華ちゃん!!」
「な、何だよ? うるさいなぁ……」
入学してから数日後、愛華は隣の翔子の高らかな声に苦い顔を見せていた。この数日間はずっと彼女から声を掛けられ続けてきたせいか、もうすでに鬱陶しさを感じている。
目も合わせず、彼女の名前すら呼ばない愛華はため息を漏らしてしまうが、すると翔子が席から立ち上がり、一枚の紙を持ちながら正面に聳え立つ。
「じゃあ~ん!!」
「……何、それ?」
さすがに目の前に立たれると、つい目を向けてしまう。
愛華の目に映った翔子の紙は、どうやら部活動勧誘チラシのようで、大々的に“女子ソフトボール部員大募集”と記されていた。
「ソフト、ボール……?」
「そう! ソフトボール!!」
――パシッ!
「んな! 何だよ!?」
突如翔子から肩を掴まれた愛華は驚いてしまったが、目を合わせた彼女からは自信に満ちた瞳が窺われる。
「愛華ちゃん! いっしょにソフトボール、やろうね!!」
「………………は、はあぁぁ~~~~!?」
驚きのあまり愛華は席を立ち上がってしまった。今翔子から受けた言葉を何度も脳内再生してみたが、どうやら聞き間違いではないらしい。
「な、何でだよ!? ウチは運動部なんて、部活動すらやってなかったんだぞ!?」
愛華は全否定を示したが、翔子ははにかむだけで、意見など全く受け入れない様子だった。
「愛華ちゃんは体格いいから、きっと大丈夫だよ!」
「確かに、お前よりは背が高いけどさ~……」
なぜ愛華がここまで危惧しているのか。
それは翔子が放った言葉が、“やろうよ”という勧誘的なものではなく、“やろうね”という半強制的な一言だったからである。
「ということで! 今日から早速、ソフト部の見学にいこうね!!」
「お前な~……」
いい加減にしろと怒鳴り付けたい気持ちはやまやまだが、愛華の想いは翔子に全く届かず、結局振り回される形となっていく。
その日の放課後、二人は予定通り――愛華はもちろん望んでいなかったが――釘裂高校女子ソフトボール部の練習を、まずは見学しに向かう。
通称ヤンキー校として名高い釘裂高校生徒ともあり、ユニフォーム姿の先輩たちによる視線は皆鋭く尖っていた。周囲の人間を引き寄せない様子は、勧誘チラシとは大きくかけ離れた姿であったが、それでも翔子はすぐに入部を決める。
一方で愛華は、もちろん入部する決意など固めていなかったのだが、恐い先輩たちからは歓迎され、そして翔子も隣にいたことから断り切れず、結局入部することとなってしまう。
「ウチが、ピッチャーなの……?」
「うん!! わたし、愛華ちゃんはピッチャーにスゴく向いてると思うんだ!!」
入部して間もなく、新入部員は二人だけの状態が続くなか、愛華はキャッチャー志望の翔子による推薦で、ピッチャー練習を開始する。
最初は地味なブラッシングから練習が始まったせいで、愛華はソフトボールに対して何の楽しさも伝わらない日々が続く。
しかし翔子の付きっきりな練習があったおかげか、愛華はたった三週間でブラッシングをほぼ覚え、五月に入ったときには翔子を座らせて投げ込んでいた。
――バシッ!!
「こ、これでいいの……?」
「愛華ちゃんスゴい!! 今のはナイスボールだよ!!」
キャッチャーのミットを見たまま足を向け、練習してきたブラッシングをただ行う。
翔子から何度も言われた通りに投げた愛華は、無意識ではあるがストライクまで放ることができるようになっていた。
先輩たちからも注目を置かれ、ボールが速いとか、センスがあるとかなど、多くの褒め言葉を貰うようにもなり、気づいたときには“釘裂のエース”とまで呼ばれるほど称えられていた。
「明日は初めての大会! 愛華ちゃん頑張ってね!!」
「翔子はいいよな~。試合観てるだけでいいんだからさ……」
茨城県関東大会予選前日、練習を終えた愛華と翔子は共に校門を出て帰路を歩む。
明日から早速――それもピッチャーとして――試合に出ることとなった一年生の愛華には、緊張感というよりも気怠さが募っており、先発でない翔子が羨ましかった。
「しっかりしてよ! 愛華ちゃんは、わたしたちのエースなんだよ!?」
「エースって言われても、何かよくわかんないしな~」
今日までは練習中のバッティングピッチャーでしか投げておらず、結果がないだけにエースの実感もない。練習試合も経験しておらず、ぶっつけ本番となってしまった訳だが、とりあえず明日は無難に投げようと考えていた。
「わかんない……あ、そうだ」
釘裂高校寮の前にたどり着き、ふと立ち止まった愛華は翔子を振り向かす。
「愛華ちゃん、どうしたの?」
「あのさ……その……」
翔子の瞳からついそっぽを向いてしまうが、愛華はそのまま気になっていたことを問い始める。
「お前はさ、どうしてソフトボールをやろうと思ったの?」
愛華に勧誘を強いてきた翔子。しかも真面目そうな彼女とは似つかない不良高校、釘裂ソフト部で。
しかし翔子がどうして、そこまでしてソフトボールをやりたがるのかをまだ知らなかった。確かに高校ソフトボール部は県内でも数えるほどしかないが。
「……エヘへ。それはね……」
すると翔子は小さく笑いだし、愛華の顔を上げさせて微笑む。
「……夢だがら」
「夢?」
翔子の一言に、愛華は不思議と首を傾げていた。彼女にとっての夢は、ただ単にソフトボールをやることなのだろうか。
愛華がそう考えている間もなく、小さな眼鏡少女は夜空に声を向ける。
「わたしね、昔から友だちが、あんまりいなくてさ」
「……だろうな」
「酷い~!」
愛華はこの一ヶ月という僅かな期間でも、翔子には友だちができそうもないと感じていた。クラスではいつも隣の自分と話し込み、他者とはあまり触れあっていない。また触れあった人間に対しては彼女の思うがままに動かそうとし、自己中心的な一面をことごとく見せつけられてきた。
それにこの釘裂高校に平気で入学してきた辺りは、やはり翔子も何かしら問題を抱えているのか、それともただの世間知らずなのか、どちらにしても普通の女子高校生ではないだろう。
声を荒げた少女を、愛華はじっと観察して見守っていたが、すると翔子は大きく息を吐き、落ち着きと微笑みを取り戻してから目を合わせてくる。
「でもね、昔からソフトボールだけはやってるの」
「じゃあ単純に、ソフトボールが好きだから?」
すると翔子は瞳を閉じて、首を静かに左右に振る。
「もちろん、ソフトボールは大好きだよ。でも、もっと大好きなことがあるの」
それは何か尋ねようとしたが、翔子はすぐに言葉を紡ぐ。
「――誰かといっしょに、気持ちを合わせること、かな」
翔子の輝く瞳が、目の前の愛華に向けられた。それは夜空の星たちが乗り移ったように、キラキラと鮮明に瞬いている。
「たくさん練習して、たくさん試合して、たくさんの仲間たちを作りたい」
「仲間を、作る?」
「そう……簡単に言えば、親友がほしいってことかもね」
「親友、か……」
ふと呟いた愛華は再び俯き、翔子に背を向けてしまう。親友という言葉に、どうしても良いイメージが湧かなかった。
「親友なんて、あまり作るもんじゃないと思うけど……」
自分は親友だった――いや、親友だと思っていた――貝塚唯に裏切られた。
愛華の悲しき想いは今も変わらず残っており、久しぶりに思い出して苛立ちを覚えていた。自分よりも転校生の植本きららを選んだ唯のことは、忘れたくても忘れられないほどストレスをもたらす。
「でもね愛華ちゃん!」
背中に声を受けた愛華は踵を返すと、主である翔子と目が合う。瞳は頬の緩みで細まるが、穢れない様子がすぐわかる。
「なんだよ……?」
夢見る少女のように瞳を晴らせない愛華が不審気に問うと、翔子は微笑みを絶やさず放つ。
「――わたしはね、愛華ちゃんのこと、もう親友だと思ってるから」
「――!?」
驚いた愛華は息を飲み、返す言葉が見当たらず黙りこんでしまう。その理由は間違いなく、翔子から掛けられた言葉が影響している。自分のことを親友だと信じているという、心からのメッセージが。
『――こいつは今、あのときのウチと同じ立場なんだ』
親友だと“思われた”ことなど、愛華にはまだ覚えがない。逆に親友だと“思っていた”ことが一回きりだ。しかしその一回きりの過去は無念にも覚えており、今の翔子があのときの自分を現していると感じていた。
「……お前」
親友であると信じているとき、味わったことのない嬉しさを知っている。
「わたしの名前は、翔子だよ? 愛華ちゃん」
自分の気持ちをわかってほしい、大きな期待だって覚えている。
「……う、内海」
しかし、なぜか恐い。
勘違いだってことも充分にある。建前という嘘にだって否定できない。
「もぉ~、いじわるなんだから~……エヘヘ」
それでも……。
「……翔子」
「あっ!! やっと呼んでくれたね、愛華ちゃん!」
――信じてみたい。信じられている側として。
初めて翔子と呼んだ愛華は顔を赤くしてしまい、恥じらいを抱きながら目を逸らす。普段は誰からも話を掛けてもらえなかっただけに、どうも慣れない気持ちが生まれていた。
「愛華ちゃん!!」
「な、なんだよ~?」
気持ちを察してくれない少女に苦い顔を見せるが、対照的に翔子は笑顔を抱いていた。
「明日と明後日、頑張ってね!!」
「……考えとく」
愛華は捨て台詞の如く静かに呟き、すぐに翔子へ背を向けた。またね!! と何度も叫ばれたが、徐々に早歩きとなっていき、寮のもとから離れていく。
翔子の声が止んだ頃、未だに羞恥に駆られた愛華はふと立ち止まり、後ろを振り返る。気がつけば寮からずいぶんと離れており、校舎はおろか、屋根すら垣間見えるほど小さかった。
「翔子の、夢……」
たくさん練習して、たくさん試合して、たくさんの仲間たちを作りたい。
それに必要なことは、まずは試合に勝って結果を残すことだろう。いくらスポーツに興味がなくても、そのくらいは愛華だってわかっている。
「チッ……仕方ない……」
独りだった自分に声を掛け、終いには親友とまで称してくれた内海翔子。
「まずは、明日……そして、明後日も」
愛華は目に焼きついた少女の笑顔を思いながら、翔子の夢を手伝うのことを考え決めたのだっだ。
「―やめろつってんだろッ!! 翔子の夢を、潰すなぁ!!」
茨城県関東予選大会二日目。
乱闘舞台と化したグランドに、愛華は必死ながら突っ込んでいく。
相手側――芝渡商業高校とも入り乱れる先輩たちと混じって、愛華はまず動きを止めようと試みる。
「やめろ!! 頼むからやめてくれ!!」
相手選手を羽交い締めしようとしても暴れほどかれ、再び立ち向かっていってしまう。
「先輩もやめてください!! このままじゃ、試合が!!」
正面から先輩たちを抱き止めようとするが、簡単に押し返されてしまい、愛華は地面に転がり倒れてしまう。
『なんで、だよ……?』
きっとこれでは、大会はここで中断されてしまうだろう。もう、どうすることもできないのか。
『どうして、やめてくれないんだよ……?』
愛華は地面の土を握ると共に、唇を強く噛みしめていた。それは自分の力が無かった悔しさからではない。ましてや、先輩たちの暴れる行動だって違う。
『このままじゃ……』
愛華の頭にあるのはたった一つの想いだけだった。
『――翔子の想いを、裏切ることになるじゃねぇかよ……』
裏切られる辛さと苦しさに関しては、愛華は経験者として、誰よりも知ってる自信がある。まるで世界が崩壊するような、あの残酷極まりない感情。
しかし愛華の想いは誰にも届くことなく、グランドは女子高校生たちの修羅場のままとなっていた。
その後は審判員を始め、大人たちによる介入のもと、騒ぎは何とか制止される。
だが、芝渡商業高校に怪我人を出させた釘裂高校は、もちろん加害者扱いとされてしまい、試合中断と共に危険視を置かれる。
投手の頭部に当てられた練習球は、一体誰によって投げられたのか。
事の発端であるこの内容はもちろん、協会が釘裂選手との尋問で調査されたが、みんなは口を揃えて、
「知らない……」
と告げるだけで、結局犯人の正体は未だに不明である。
愛華に関しても、そしてベンチという犯行現場にいた翔子も、同じように呟き返したのだった。
こうして去年の関東予選大会が終わったのだが、愛華たちには重い処罰を下されることとなった。
―― 一年間の試合出場禁止、及び部活動停止処分。
茨城県ソフトボール協会会長によって決められた、連帯責任としての罰則でもあり、この日から丸一年、釘裂ソフトボール部の活動がめっきり無くなってしまった。
上級生である三年生たちは既に卒業し、現在三年生となった先輩たちも、誰一人としてソフトボール部には残らず学生生活を営んでいる。また当時の顧問を勤めていた教諭もいなくなり、ソフト部は活動停止どころか、廃部にまで追い込まれてしまった。
一年前の関東予選大会の悲劇。
つまり、それを唯一経験し知っているのが、この二人の二年生――鮫津愛華と内海翔子なのだ。
結果として処分を受けても離れなかった二人は勧誘に動き、現在は浜野美李茅や瀬戸風吹輝を含む七人の部員を入れることができた。
しかし、現在は金髪姿である愛華と同様、不良染みたみんなの雰囲気からはまだ遊び感覚が否めず、部活動というよりも愛好会クラブと化している。
「あれからもう、丸一年経つんだな……」
「そうだね……長いようで、あっという間だね……」
釘裂高校寮の一室で、愛華と翔子の悲しげな声が響き交わされる。明日は一年ぶりの練習試合だというのに、二人の空気は陰鬱そのものだった。
「翔子、ごめんな……」
「え……? どうして謝るの?」
「お前の夢、潰させちまったから……辛かっただろ?」
静かに向き合った二人の目が合うが、すると翔子は目を閉じて首を左右に振る。
「愛華ちゃんの方が、よっぽど辛かったと思うよ。だって……」
そう言葉を続けようとしたときだった。
――コンコンコン。
ふと扉からノック音が鳴らされて、愛華と翔子は共に視線を向ける。
「だれ……?」
「失礼しますぅ」
愛華に嗄れた女声が聞こえると、扉がゆっくりと開かれていき、一人の老婆の姿が現れた。
聞き慣れた声を聞いた時点でわかっていたが、愛華と翔子は少し驚いた表情のまま声を揃える。
「「剣剛先生……」」
笑顔の影響もあってか、数えきれないほどの皺を浮かべる剣剛齋己が迎えていた。彼女は現在、釘裂ソフトボール部の顧問でありながら、この寮の管理者としても働いており、二人にとっては馴染み深い老婆である。
――特に愛華にとっては、もう一つ大切な理由を抱く存在でもある。
「おやおやぁ、今日は御二人でお泊まりですかぁ?」
齋己のスローモーション口調が流れ、翔子は勢いよく頷き返すが、一方で愛華は彼女を連れ去ってほしい思いでため息をついていた。
「まあまあぁ、御二人は本当に仲がよろしいのですねぇ」
「エヘヘ。ていうか、先生はどうしてここに?」
翔子の質問は愛華も気になっていたため、苦い顔のままだったが齋己へと目を向ける。
「もう夜ご飯の御時間ですのに、御二人がいつになっても来ないのでねぇ。心配して、見に来たのですよぉ」
「あ、ホントだ……」
「うわぁ~!! ごめんなさい!!」
寮の晩御飯開始から既に三十分が経過しようとしており、まずは翔子が、次に愛華がゆっくりと上履きを履いて廊下に出ようとする。
「なぁ、翔子?」
「なに?」
「お前はさ……」
しかし愛華は、急ごうとしている翔子を呼び止める。齋己からも見守られているなか、今まで黙っていた質問をゆっくりと口に出す。
「――あのときボールを投げた犯人、ホントに知らねぇんだよな……?」
事件が起こった現場の側にいた翔子。あの日を二人で思い出した今、どうしても彼女に聞きたかった。
「…………うん。知らない」
妙な間が空けられたのを感じた愛華だが、
「そっか……」
と一言だけ返して歩き出す。
「ほらっ!! 愛華ちゃん早く行くよ! 明日はエースで四番なんだから、早く食べて早く寝るよ!」
「……わかった」
やっと食堂へと向かい始めた二人のバッテリー。
大きな身長差を示す隣り合った姿からは、同級生であることが疑わしいくらいだった。
また二人の背後ろからは、監督である齋己に優しく見守られながら進んでいく。
しかし愛華の表情はどこか闇を抱えており、暗い廊下に足音を鳴らし続けた。




